楽譜なんか、嫌いだあ

 譜面が、特に暗譜が苦手である。
 小学校から習ったので五線譜に書かれた音符を頭でなぞることはある程度できる。学生時代にリコーダーを演奏していたとき、知らない曲を初見で演奏するのはそれほど難しいと思わなかった。しかし、暗譜ができなかった。同じ曲を何度繰り返しても完全に覚えられないのだ。ある程度までは覚えるのだが、記憶欠落部分がかならず出てくる。それまですいすい行っているのに、その部分に来ると頭に霞がかかり、脳の指令と指の動きが同期しなくなる。いったんそうなると、その後の譜面のイメージも白濁してしまう。
 では、楽譜を追いながらだったらキチンとできたのか、と聞かれるとまた困ってしまう。だいたいのところはなんとなく演奏できたのだが、ちょっとややこしいリズムになると必ず引っかかる。
 どうも、楽譜に対するわたしのトラウマ的恐怖はこのあたりに築かれたようだ。
 そのころの演奏仲間に、わたしとまったく逆のタイプの男がいた。彼は初見で演奏するのは苦手だった。したがって新しい曲はまずわたしが初見で彼に聴かせる。彼はわたしの演奏を一二度聴くとほとんど間違えずに覚えてしまう。わたしには、そういうことがあっさりできてしまう人間がいることが驚異だった。彼は、曲全体を写真や絵のような音像イメージとしてバシャッと入力しているとしか思えなかった。
 西洋古典音楽の演奏家にとっては、暗譜してしまうことが前提だ。譜面をほとんど見ずに長大な交響曲を指揮したり、ソロ演奏のできる演奏家が普通だ。目の前に譜面は置いていても、それはすでに記憶しているものを確認するためで、音符一つ一つを追っかけているわけではない。聴衆を前にした演奏ではちょっとしたミスも命取りになるので、完全に暗譜するか、どんな複雑怪奇な音符の動きも間違わずに最後まで確実に演奏することが期待される。これが演奏家として必須の条件だ。
 かくしてわたしは、大学時代に自分の致命的楽譜不適合性を自覚した結果、不世出の大演奏家たりえたかも知れない可能性をみずから閉ざしたのであった。
 ところが、それから10年ほどして、楽譜がない、暗譜の必要がない音楽、ヒンドゥスターニー音楽(北インド古典音楽)に出会った。こういう音楽もありなんだ、と目からウロコが落ちたような気がした。なにしろ、即興である。20分で終わってもいいし、2時間やってもいい。演奏しようとする曲(ラーガ)も自分で勝手に決めることができるし、ある音を長くのばしても、短く区切ってもいい。決めたラーガにない音を間違って使う、などという事故も発生することもあるが、大御所になると、これはなになにというラーガなんだ、と新しいラーガにしてしまうこともときには許される。ミスったかなと感じたらそのミスった部分をどんどん膨らませ、まるで最初から企んでいたようなふりをすることもできる。伝統的に決まった旋律でも、忠実になぞることよりも自分なりに変奏した方が喜ばれる。譜面苦手には願ってもない音楽なのだ。もっとも、勝手に自由に演奏できるまでは、とんでもない長期間の練習と、ラーガやターラについての深い理解が必要である。インド音楽の修行は、ある意味では暗譜するよりもずっと努力(もしかしたら才能)がいるかもしれない。
 ところで先日、佐藤允彦さんの本『一拍遅れの一番乗り』を読んでいたら、こんなことが書いてあった。「17歳の頃ジャズに転向していちばん嬉しかったことのひとつに『暗譜しなくていい』がある」。今では日本有数のジャズピアニストである佐藤さんも、クラシックのピアノを習っていた時代に暗譜できなくて苦しんでいたらしい。佐藤さんとわたしを比べるのはおこがましいけど、似たような人がいるんだと納得した。

2003年庭火祭プログラム原稿