マルガサリ楽舞劇『桃太郎』

 かねがねこのミクスー上で日記を書いたりするのはなんとなく気が向かないのでありますが、記憶剥落傾向が加速されてきたのでなにか書き付けておかないとなあ思いまして初めて書きます。結局、すごく長くなってしまいましたが。
 で、「桃太郎」。有名なおとぎ話のことではなくて、つい先日(9月10日)、滋賀県甲賀市の碧水ホールで行われた音楽劇のことだっす。このホールはこれまでワダスもいろいろと関わってきまして、とてもなじみのある場所です。招聘したインド人演奏家たちやお坊さんたちと演奏したこともあります。
 結論から申し述べますと、この公演に参加してかなりくたびれたけどとても楽しかった。ガムランの作り出す多彩な音空間を初めて魅力的だと思った。(それまでは、あっ、そう、という感じでしか聞いていなかったのだ。ガムランをやっている人たちがインド音楽を聴いたときの感じと似ているかもしれない)。きっちりと細部まで構成され完結することが期待される、一般的な舞台公演とは異なるあり方の魅力を再認識させてくれた。歌あり、踊りあり、芝居ありの長時間公演はまるでインド映画のようだったが、たいていハッピーエンドのインド映画よりはかなりハイブローでいて野性的だった。野村誠さんが共著書の『老人ホームに音楽がひびく』(晶文社、2006年)のなかで「自由奔放な音楽のエネルギーを生かしながら、緻密な音楽を生み出したい」と書いていたけど、音楽だけじゃなく舞踊も演劇もその言葉にかなり近づいた公演だったと思った。関係ないけど、この『老人ホームに音楽がひびく』という本は、公演当日に野村さんからじかに購入し、次の日に2時間ほどで読んだなよす。作曲や演奏というものに対する彼の考え方がとても柔軟かつ新鮮で、同じ音楽に関わるものとして反省させられることが多かったっす。もちろん、現在の養護老人ホームのあり方についても考えさせられた。たくさんの人に読んでほしいなす。
 ともあれ、みんなすごかったべ。哲学者の手のポジションと動きの不自然さを開き直りで貫徹させたおもしろまじめ家高洋さん、ジャワの伝統をしっかりふまえながらこともなげに自分自身のスタイルで桃の精を見事に表現したり、とぼけた鬼の子分を我が子ブナの泣き声を聞きつつ演じたウィヤンタリ、ふわふわとふくよかでかつすっとんきょうかつ自信ありそでなさそうなダンゴの精を踊り(えがった)演じた岡室美千代さん、楽屋でゲームに熱中する息子の知世をよそにはちゃめちゃ小鬼で激しく動き回ったワダスのいつものアッシー姫の河原美佳さん、今回初めて演技しなければならなくなったせいか前日のリハーサルでは一人だけ苦悩懊悩的表情のばば役だった桃太郎よりもずっと若く見える河村真梨子さん、ジャワ舞踊の日本の第一人者であり「踊る品性」といわれ(ワダスがいっているだけだけど)ながら自分のスタイルを確立しその踊りや振り付けと指導力にすごみを増してきた佐久間新さん、演技も踊りもいいもんね的どっしり感でガムラン楽器群を泳いだベテラン東山真奈美さん、この企画の発案者でありいつ見てもへんちくりんな味わいのあるじじやタマゴ大王を自然かつ巧みに演じつつ田植えの儀では太鼓のもつ静寂な表現力を見事に披露しメンバーの未熟な部分への苦言をじっと押さえてそれぞれの独自性を引き出しよく考えているようでいてわりといい加減なプロデューサーである中川真さん、全体の進行に対する目配りとすっかり演技に目覚めだれよりもそれっぽいサラリーマン猿は余人を持ってかえがたい感のある西真奈美さん、前日のリハーサルでいきなり決まった新たなキャラクターのミオネコや渡し船番人役のラハルジョに舞台から通訳として呼び出されたジョクジャ留学帰りですっかり貫禄のついたバミオこと西岡美緒さん、明石の天文台でなぜかばったり会ったり03年の公演では初代ダンゴの精の一人としてワダスがその演技性の希薄さで苦言を申し述べたが今回は田植えの儀の踊りと演奏に専念していた清々しい表情の西田有理さん、過去2年はそのきょとんきょとん的目の動きとおどおど的挙動(両方で「おどきょとん」)でばば役を演じたが今回役を降りてもおどきょとんオーラは数年前から変わらず今やマルガサリのメンバーとして揺るぎない演奏家であるトッシーこと林稔子さん、ジョクジャ留学中の田淵ひかりさんに代わって今回から雉役を演じたがその堂々としてなんとなくふてぶてしい演技は田淵さんとは違った味わいを出していたタバコプッカーの原田満智子さん、涼しげかつ怪しげな白皙の哲学者でありながらガムランのすべての楽器と音楽を熟知し前日から風邪とぜんそく発作に悩まされつつ自分の役割を黙々と演じた本間直樹さん、従業員が二人しかいない小さな郵便局の局長オッサンとも見えながらひょうひょうとゴングを打ちじじと柴刈りをしたり鋤で田んぼを掘り起こしたりの演技がちっとも不自然に見えないマッチャンこと松宮浩さん、といったマルガサリのメンバーはみんなすごい。ジョグジャカルタの先生の中でかなりまっとうな英語使いのちょっと粘った顔でありながらのほほんひょうひょう雰囲気で渡し船番人役を演じたラハルジョ、前日のリハーサルのとき耳元でワッといった小学4年生の知世を半ば本気で「音楽家は耳が命だ。わーったか」と諭しときに鋭い目つきながら態度はほわんとしなんだか良く分からないけど最後にはみんなが言うことを聞くという不思議なオーラと指導力を放ち第4場では理性も悟性も知性もかなぐり捨てて爆発させた異彩な作曲家野村誠さん、安定した演技力と状況把握力で的確な演技指導および高周波数奇声を発しホメオパシー薬物セットを抱えつつ碧水ホール向かいから走って買ってきた大量のアイスクリームを摂食するものすごいエネルギーで場違い空手家を演じた林加奈さん、会場を激しく走り回り最後は発狂状態で大鬼と対峙しサラリーマン猿と並びもはや余人を持ってかえがたい感のある桃太郎を演じたエネルギー凝縮楽天役者魚谷尚代さん、大型バイクを乗り回し何事にも真剣に取り組みそれがロック犬の見事な演技となった醤油的西洋人風の讃岐娘大石麻未さん、本来はヒロインであり助け出されるべき存在がいつ間にやらタマゴ王国で美容師を目指す普通の女の子になっていると告げられる花子をネアカにかつ素朴に演じたなんとなく四川省山間部族少女のような今橋朋子さん、もったもったした小鬼をもったもったと好演した狂言修行青年ニクソンこと中西俊介さん、第4場のおどろおどろした場面を低音ディデュリデゥーで争いの継続を聴衆に強烈に焼き付けたルソン島奥地潜伏10年的顔相の循環呼吸マスター根無一信さんもすごい。お面をつけていきなり舞台に出てきた佐久間さんの2歳の息子ブナもすごい。将来、とんでもないパフォーマーになる予感がする。ワダスを心の恋人と呼び舞台背景の鮮烈な色彩と質感からなる布オブジェと深夜に見る那智の滝のように印象的な薄い紗の布を絶妙のタイミングで落下させたゆゆこと坪井優子さん、貫禄と色彩をますます増しつつはるばる山口から駆けつけこのような音楽舞踊劇ではある意味で決定的な印象を与えるほど重要な衣装を当初から担当してきた今や大忙しファッション仕掛人の水谷由美子さん、なんといっても眉が難しいというワダスと同じ島に住みながらその存在すら前日まで不明だった若きメークアップ・アーティストのまるで宝塚雪組スターか売れっ子漫画家のような本名の嵐チカさん(父親の名前はヒロシ)、自身がすでにワダスの作るコンサートなどの舞台監督を何度もつとめていて正式ブタカンであるワダスの指示なんかまったく不要な熟練照明家のジローサンこと滝本二郎さん、たしか2年前の第3場ではたった一人で仕込みから本番まで黙々と照明をこなした坂本幸子さん、サラリーマン猿の演歌をカラオケ状態にしてくれた音響の浦川さん、こまごまとした仕事に動き回りわれわれのさまざまな要求ににこにこしながら応えホールのキュレーターというよりは下働きに徹してほわーんと見守っていた上村秀裕さん、スペース天のリハーサルに立ち会いときに演出に対する独自の考えを申し述べこのプロジェクトを実現させ碧水ホールにガムラン楽器を備え付けさせた張本人の前館長中村道男さん、要所に配置された福井さんや雨森さんをはじめとしたビデオ撮影隊もすごい。そして何よりも4時間に及ぶ公演を笑ったり怖がったりしながら最後まで付き合い好意的な評価を下してくれた200名強の聴衆もすごい。
 ワダスがこのように公演に関わった一人一人について長々と書いたのは、みんながとても輝いていたからと、どんな公演でもそうだがこうした人々抜きには公演は成立しないからだ。事後の公演評価においてはどうしてもプロデューサーや音楽監修者、主になる振付家などの仕事として話題になるけど、作るという意味では全員イーブンで、一人として重要ではない役割はない。
 ワダスの今回の役割は、演奏会の企画制作者でも演奏家でもなく、舞台監督でした。客席からは見えないところで、舞台で展開される出来事を遅滞および破綻なく調整していくという仕事。ということは、出演者たちが舞台に出る前の状況から終演までの細部を完全に把握しておかないといけないのよっす。ところが、93年9月の第2場、第3場の公演でブタカンを引き受けて以来そうなんですが、進行台本(のようなもの)が渡されリハーサルに立ち会うのが常に本番の前々日か数日前。ブタカンを頼んでおいてそれはないだろう、わざとそうしているんじゃねえか、と思っていた。しかし、マルガサリの代表で仕掛人の中川真さんや音楽監修者である野村誠さんの「桃太郎」制作方法からするとどうもブタカンの仕事も即興的であることを期待していたのではないか。もっとも、本番直前まで細部の詰めをしていたわけで、決定稿がきっちりと決まっていないので渡せなかったという事情の方が強かったのだろうが。
 あれだけの長時間でありかつ演劇の要素もふんだんにあったので、本来ならばブタカンの仕事量はもっとあったはずである。しかし、出演者および制作に関係する人々がそれぞれの役割を把握していたので実は楽ちんだった。場面によって転換すべき照明も滝本さんがしっかり把握しているし、衣装を取っ替え引っ替え登場する出演者かつ演奏者も自分の出番となすべきことをみんな分かっていた。だからワダスの仕事は「本番5分前だあ」と告知したり入出ドアの開け閉めくらいなもので、あとは舞台袖で見守るだけだった。混沌と大音量的爆発の第4場ではいてもたってもいられず、舞台の後ろからこっそりと竹筒と棒切れを拝借して手が痛くなるほど叩いた。喉歌もがなった。あんな感じだったら、照明のブースにいた滝本さんや坂本さんも上の方でなにかぶっ叩いていてもおかしくなかっただろう。客が舞台に上がって桃太郎に加勢しても良かったのかもしれない。それほどあの場はみんなのエネルギーが喜ばしく解放された時間だった。一転して静寂が支配する第5場の、よく分からない、よくいえば客の想像力を刺激する場面では、第1場、第2場、第3場の記憶はすっと遠くなった。第1場は縄文時代、第2場は奈良時代、第3場が平安時代に起こったことのように思えてきた。また、30分近くある第5場の静寂は第4場の爆発の余韻が最後まで尾を引き、なにかしら神々しさまで醸し出していたように思う。
 こういうのは、インドネシアではどうか分からないけど、ヨーロッパでやればきっと受けるだろうな。案外、インドでも受けるかもしれない。
 というわけで、楽舞劇「桃太郎」の全5場通し公演はこんなふうにしていちおう終わったのですが、これで終わり、というのではなんだかもったいない。どこかにいいスポンサーはいないのかしらん。ともあれ、演劇的、舞踊的、物語的、音楽的、舞台制作的にはいろんな解釈はあるだろうけど、ここでは、ただただ楽しく関係者みんなが輝いて見えたということだけを書いて終わりにしたいと思います。

2006年9月15日 mixi掲載