「天界音楽-百千種楽」公演で思ったこと

 1996年11月22日、神戸ポートアイランドのジーベックホールで行ったコンサート「天界音楽-百千種楽」は、京都在住の若手浄土宗僧侶7名からなる七聲会の、いわば公式デビューである。インド音楽演奏家や桜井真樹子さんにもゲストとして出演をお願いし、かなり印象深い演奏会ができた。以下は、このコンサートの企画者であったわたしが、七聲会の練習や桜井さんのパフォーマンスを通して気がついた感想である。
 インド音楽と声明の合奏を試みた理由の一つは、両者がともに古代インドの伝統から発生したこと、したがって音楽的構造が類似していることを聴衆に示し、これからの声明公演形態の可能性を提示することであった。
 さて、単独の場合はそれほどでもないが、声明が楽器などと合奏される場合、ちょっとした困難を感じるのはピッチの問題である。もっとも、ピッチや調性の概念から離れようとする現代音楽の曲は別である。
 インド音楽は絶対音をもたないが、いったん決められた相対的基準音とその基準音からの一定の距離によって音階が成り立つ。音階を成立させるそれぞれの音と基準音との距離は非常に厳密である。だから、演奏者は演奏開始直前までの入念なチューニングを怠らない。
 一方、これまで聞いた声明の音程は、インド音楽の厳密さに比べてかなり曖昧に聞こえる。もちろん、その曖昧さが声明の重層感のある魅力を作り出しているのだが。ただ、七聲会の声明は、当初から他の楽器、主にインド楽器と合わせることを念頭に置いたので、この問題というか傾向をどう回避するか頭を悩ました。はじめの頃は、調子笛で頭だしの音をとり、それに合わせて歌ってもらった。ところが、曲がすすむにつれてすこしずつ全体にずれてくる。曲が終わるころには、最初の音から半音も下がることがたびたびだった。そこで、一人のメンバーに基準音ないし音程をキーボードでなぞってもらい、それを各人にイヤホンで聞いてもらう、という方法をとった。途中でピッチを動かすことのできない楽器と一緒に演奏することを考えれば、ピッチの安定は不可欠だからである。このような工夫の結果、七聲会は比較的安定した音程で歌うことができるようになった。
 さて、声明を宗教的側面だけでとらえた場合、音程の「正確」さと「ありがたさ」は関係はないのかも知れない。しかし、声明は宗教的な側面と音楽的なそれを同時にもっている。だからこそ、声明の楽譜である博士(はかせ)には、単なる抑揚の目安ではなく、音名や音の動きが細かに書かれているのである。
 たとえば、「呂曲一越調(りょきょくいちこつちょう)」という指定のある『散華(さんげ)』には、テキスト最初の「願」の字の横に「山」という音程を示す記号がついている。「山」とは、宮(きゅう)、商(しょう)、角(かく)、徴(ち)、羽(う)という伝統的音名、徴の簡略形である。つまり、出だしは徴で始めよ、という指定である。そして「呂曲一越調」にある一越とは、ある尺度で決定される絶対音で、Dの音に近く、「呂曲一越調」は西洋流にいえばD E G A Bという音列と解釈される。したがって、一越調の徴はほぼAであることを示すわけである。もちろん、博士は出だしの音だけではなく、途中の小フレーズの動きにも細かな指示を与えている。
 また、これは真言宗系のものだが、『魚山○芥集(ぎょざんたいがいしゅう)』という声明集には、声明のテキストと博士だけではなく、末尾に「音律開合名目」という項目が設けられ、事細かに音律理論について記載されている。
 宗派や個人による解釈の違いはあるものの、このような音律理論と博士を忠実に読みとれば、出だしの音が曲の終わりには半音も下がることなどないはずである。わたしは、かつての声明は、こうした理論に基づいて、正確に歌われていたのではないかと思う。そうでなければ、かつて行われていた雅楽との合奏は困難だからだ。
 声明が、師弟口承伝統であること、現在では雅楽などの楽器とともに歌われる機会が少ないことを考えると、音律の不安定は仕方がないことなのかも知れない。しかし、伝統の中にもちゃんとした音律理論が備わっているわけだし、最近では声明が現代音楽の表現語法の一つとしてとりあげられたり、今回のようにインド楽器と合奏されたりすることがあることを考えると、声明の実践者はもっと音律やピッチに関して注意を払うべきだと思う。
 桜井さんの声明にも、以前の七聲会の僧侶たちと似たピッチのずれがみられた。桜井さんが今回の公演で七聲会と『散華』をともに歌ったときや、インド楽器が加わったとき、そのずれが気になった。特に音程に厳密なインド音楽などと共演する場合は、こうしたずれは音楽的に響かない。したがってわたしは、彼女に、師弟口伝の伝統は守りつつも、伝統的音律理論や博士を客観的に見直すと同時に、ピッチに対してもっと注意深くあって欲しいと思う。
 桜井さんは今後も、ユニークな女性声明師としてさまざまな表現媒体とセッションをする機会があるはずである。そのとき、わたしのこうしたぶつぶつ忠告が少しでもお役に立てれば幸いであります。

「桜井真樹子を聴く会」ニュースレター『声明の地平線#3』掲載原稿