「サマーチャール・パトゥル」05号1989年2月20日

 皆様いかかお過ごしでしょうか。

 約3ケ月のインド竹笛修業を無事終えて2月5日に帰って来ました。朝方冷え込むとはいえ日中は30度前後のボンベイから、湿熱のバンコク、赤道に近いバリ島と経由してきましたので、2月、3月とこちらの寒さがこたえ、家で縮こまっていました。寒い寒いと言っているうちにもう2ケ月以上たってしまいました。ですから、今回のインド滞在報告は半年前から3ケ月前に体験したことです。

 ◎出発の日は祭だった◎

 

 昨年の11月9日にエアーインディアで大阪空港を出発しました。ニューデリー上空にさしかかったとき、暗々とした大地の中に、街とおぼしき淡い光のつぶつぶの塊が窓を通して見えてきました。その光の塊のいたるところで、強い閃光が盛んに点滅していました。町並みの輪郭がはっきりしてくるに従い、豆電球で縁取りした建物や一面に漂う煙が見えてきました。この日は、インドの新年、ディワリ祭のクライマックスだったのです。ランカの悪魔、ラーバナと戦ったラーマ王子が、捕らわれていたシータ姫を無事救い出し故国アヨージャに凱旋した日、人々はラーマ王子一行の凱旋を、街中が輝くほどの灯火(ディーパワリー)で迎えた。「ラーマーヤナ」物語にちなむこの祭は、インドで最も盛大なものです。などと、わたしは訳知り顔で横の同行者、橋詰さん、伴さんに説明をするのであった。ちょうどその日に、一年のうち最も夜が輝くデリーの街を上空から見ることができたのは幸運でした。かつて住んでいたベナレスの家で、広いベランダの際に蝋燭を幾つも灯したことを思い出しました。

 ボンベイに到着したのは深夜1時すぎ。天理教ボンベイ支部の佐々木則夫さんが、迎えに来てくれていました。ボンベイは初めてでしたし、たいていタクシーやバスなどをつかまえるときに起きる貧乏旅行者乗り物激論交渉疲労というものを予測していたわたしたちは、長身美顔の佐々木大人という頼もしい存在であっけないほどスムーズにそれを回避し、移動物体内長時間固定座的疲労はあるにせよ無事その日の宿、つまり天理教ボンベイ支部に着いたのでした。

◎騒音の中の第1日目◎

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 疲れていたのですが、その晩はよく眠れなかった。その理由は、恐るべき騒音なのでした。絶え間無い銃声のような爆竹と、数分間隔の低周波揺脳的飛行機発着爆音。爆竹の音はその後10日ほどで終わりましたが、猛烈な飛行機発着音は結局インドを去る日までの付き合いとなりました。佐々木則夫さん、めぐみ夫人、あやちゃん令嬢、ゆみちゃん令嬢の住む天理教ボンベイ支部のフラットは、ちょうど国内および国際空港の滑走路の延長線上にあり、空を見上げると、ほぼ数分毎に、近眼のわたしが眼鏡をとっても胴体に書かれた文字を読めるほどの低空を、忌まわしい爆音を伴った飛行物体が往来するのです。佐々木さんは、「そのうちアレがないと眠れなくなりますよ」、と環境対応学習経験者的慰めを言ってくれたのですが、やはり、すぐ慣れました。

 とりあえずの仕事は、3ケ月滞在するアパートを探すこと、バーンスリーの先生であるハリ・プラサド・チョウラシア師(以下ハリジー)とのコンタクトでした。ハリジーには日本から2度ほど手紙を出していました。しかし返事は来ていなかった。

「ヒロシ、11月にボンベイに来い。それまでに最低1日4時間練習せよ」。

 ハリジーは、昨年の4月に奈良のホテルでそう言ってくれたのでした。しかし、多忙な大先生のことですから、はるばる日本からやってくる、割りと年の食った一介のバーンスリーフリークをまだ気にとめていて下さるだろうか、という不安を抱きながら電話をしてみると、

「今日電話がくるだろうと思っていた。今晩来なさい」。

 その日、つまり11月10日、つまり日本を出て翌日は実に他種類のことが1日で進行しました。サンタクルスの佐々木さん宅で、アナンド、キショール、佐々木さんの日本語の生徒ヤティン、次の日、日本へ帰るという片岡嬢たちと談笑しながら朝食。キショールの車にアナンド、橋詰さん、わたしが乗り込み、日本から連絡を取っていた下宿予定先ダーダルへ行く。ところが、アテにしていた人はずっと郊外へ引っ越していたことが判明。すぐさま近くのアナンドの狭いアパートへ行き茶を一杯。ハリジーに電話。上記のように晩に行くことが決まる。佐々木さんに電話。ケーララにこだわる河野氏がボンベイに来ている由。アナンドのアメリカ出張用買い物に付き合うためにタクシーでボンベイ中心部へ。レストランでビールを飲みながら昼食(1人40ルピー)。インド航空ビルで河野氏と落ち合い、近くのオベロイホテルでコーヒー(25ルピー)を飲む。タクシーで佐々木宅(約40分、58ルピー)。リキシャ(約10分、5ルピー)でハリジー宅。当時のレートは、1ルピー=約8.5円。

 ベナレスでは、1つか2つの仕事、例えば、郵便局の後バザールへ行き野菜を買う、というようなことに1日を費やしたものですが、ボンベイはやはり大都会。電話と高速移動手段(高速と言うのは人力車に比較してという意味)が、いかに仕事を効率よく進めるか、逆に言えば、いかに人を忙しくするかを思い知ったのです。

「ヒロシの手紙は受け取っていたのだが、なにぶん忙しくよう返事が書けなかった。レッスンは私がデリーから帰ってくる日曜日の夕方4時からにしよう」

 インド式に先生の足に両手を触れて挨拶したわたしに先生はこういった。

 サンタクルスに比べてにわかに人通りが少なくなる高級住宅街カール。7階建マンションの3階、4階を占める自宅の、3階部分の広々とした居間。住宅1軒分は優にとれる広いベランダの鉢植えやブランコが見える。

「ありがとうございます。ところで、どこかよいアパートはないでしょうか」

 昨年ハリジーと共に来日したとき、大阪の日本橋で猛烈な購買意欲を示した奥さんのアンヌージーが、電話の傍らの椅子でわれわれの話を聞いている。巨大な腕を胸に組んだアンヌージーは、がさつだが、しかし親しみのこもったせわしない早口英語でいった。

「あっ、近くにちょうどいい部屋がある。ほら、あなた3月まではまだ入居しない新築のアパート。オーナーは友達だから話しやすいし、ね」

「うん、そうだそうだ。あそこはいい。ここからリキシャで10分だし、ここに通うのに便利がいい。向かいに映画館もある。食堂もあるし、商店もある。駅も近い。幹線道路沿いだから近くでバスに乗れば中心部まで一発で行ける。独立した2つの部屋があるから、君の友達と共同で借りればいい。キッチン、湯のでるシャワー、水洗トイレ、うんうん、いうことなし」

「家賃はいくらぐらいでしょうか。ボンベイは高いと聞いてきましたので心配なのですが」

「確かにボンベイは高い。いくらまでだったら出せるのだ」

「せいぜい3,000ルピーですね」

「うーむ。それはきついかなあ」

 結局、月額4,000ルピーの家賃でそこを借りることに決めた。

 ここまではたった1日の出来事です。今回の旅行目的であるバーンスリー修業のための準備が、時間的無駄なくバタバタと決まってしまったのでした。

 で、次の日、などと書いているととてもこの通信が終わりそうにないので、経時的記述をひとまずはしょります。

 ◎騒音は集中力をつけるのに良い?◎

 

 わたしと橋詰さんの借りたアパートは、偶然佐々木さん宅から徒歩3分のところにあり、それが佐々木さんにとっては大きく災いした。彼は、わたしという奇食の徒を約3ヵ月間抱え込むことになったのです。佐々木さんには本当に感謝しています。ハリジーが言ったように、幹線道路に面した、まだ両隣は内装工事中という新築マンションの3階。ここでも、しばらく睡眠不足が続いたのは、空港騒音に加えて、昼夜を問わず窓から侵入してくるすさまじい車の叫喚でした。このことをハリジーにちょっと不満顔で告げると、

「ふんふんふんふん。きみたちは実に良いところに住んでいるのだよ。音楽の練習には集中力が必要だ。静かな場所であれば集中力は要らないではないか。騒音の中ではよほど注意しないと自分の音が正確に聞こえない。その訓練のためには、良いところなのだ」

 説得力のある発想転換でした。

 11月~3月はインド音楽のシーズン。全国的に毎日のように演奏会が開かれる。当代随一の人気と実力のハリジーはまさに東奔西走の日々が続く。しかし長いツアーでない限り、週のうち半分はボンベイにいて、映画音楽スタジオに行ったり、弟子をみたりする。ハリジーは、ボンベイの自宅にいるときは、ほぼ毎日わたしのために半日を費やしてくれました。

 今回のインド行は、基本的にバーンスリー修業に専念することが目的でしたから日常生活は実にシンプルでした。12月23日~28日にカルカッタ、1月10日~13日にプーナの「ラジネーシダーム」へ行った以外はほとんどボンベイにいて、アパート→ハリジー宅→佐々木宅→アパートという生活。レッスン以外の主な出来事は、ボンベイ日本人会忘年会アトラクションの一部をええ加減に企画指導、それにまつわる社交生活、演奏会にでかける、ぐらいなものでした。では、まずレッスンと練習について以下に紹介します。

 ◎日常生活およびレッスンおよび練習◎

 

 ハリジーのレッスンは、早朝8時から始りますので早起きしなければなりません。朝日のさすアパートの6:30AM、目覚し時計の可憐な音が飛行機発着爆音と道路騒音の間隙をぬって、カナカナカナカナっと鳴ります。冷たい磨き石の床にござを敷き、その上にじかに敷いた布団の中でたばこを一服。雑誌をつかんでバスルームへ。重要な用件の後、バーンスリーの指ならし。7:45AM、アパートを出る。早朝にも拘らず交通量の多い幹線道路(S.V.ロード)を、車の間をすりぬけ対岸に渡る。リキシャをつかまえ、朝靄のまだ残る道をカールへと走らせる。女たちが大声でしゃべりながら洗濯しているデコボコの道を曲って、ハリジー宅にちょうど8:00AMに着く。大きく「CHAURASIA」と彫られたプレートの横の呼び鈴を押す。お手伝い少年、ボララムが鉄格子の入ったドアをナマステと言いながら開ける。朝食の準備をしているアンヌージーや、長男ビナイの嫁さん、チャイをすすりながら新聞を読むビナイに「ナマステ」を言いつつ、居間の奥のレッスン間へ。ソニーのテレビの横にあるシュルペティ(電気式ドローン発生器:基音とトニック音を持続的に流す役目の楽器、タンブーラの代役)のスイッチをひねる。ボララムが、ピカピカの大理石床に敷くゴザ(チャタイ)とチャイを持ってくる。チャイを飲んだ後、サレガマ(インド式ドレミファ)を練習していると、糊のきいたクルター、ルンギー姿のハリジーがバーンスリー片手にやってくる。レッスンのスタートです。

 レッスンは、朝のラーガであるバイラヴィ。このラーガは、基音サ(ド)とトニック音パ(ソ)以外はすべて半音です。半音ということは、指あなを半分閉じて出さなければならない。バーンスリーは、フルートのようにキーなどついていなく、節間隔の長い真っ直ぐな竹にただ穴が6ケあいているだけの単純な構造の楽器ですから、半音の連続した音階では音程正確に出すことが容易ではありません。ちょっとした息の強弱で音程が動くのでする。最初先生が非常にうるさく指摘したのは、この音程のコントロールでした。わたしが音を出す毎に先生は、「もっと上げろ」「下げろ」のジェスチャーを首の上下で示し、正確な音を「この音だ」という感じで出すのです。「どうもそのバーンスリーは音が正確ではないようだ。これを使ってみたまえ」

 わたしが日本で使っていたバーンスリーは、第1回目のレッスンで不合格となり、先生が実際の演奏会で使っているものの1本をそれ以後吹くようになりました。音といい、姿といい素晴らしいもので、現在もそれを使っています。バーンスリー作りの名人、故リマイの作です。《リマイのバーンスリー》は非常に優れた楽器で、作者が3年前に亡くなってしまったこともあり、今や骨董品的価値があるということです。良い楽器を探しによく楽器屋に行きましたが、ある店のオヤジは、並みのバーンスリーをさんざん広げたあと、「実はごっつうええやつがあるねん。リマイやけどな」と、手放すのが惜しそうに、布に包んだやつを最後に見せてくれました。先生にもらったものよりずっと小さな笛でしたが、値段は1,200ルピー。ですから、今のわたしの笛がいくらぐらいするのか分りません。

 このように楽器が代わったので指が馴れず満足な音の出ない情けないスタートになりました。しかも、笛の持ち方を先生のように変えたため、両手親指のつけねが猛烈に痛くなり、しばらくものが掴めない状態が続きました。

 先生のレッスンは、タブラー(太鼓)伴奏の入らない、ゆっくりと即興的に旋律を紡ぎ出す導入部、アーラープから始りました。この部分は、演奏するラーガを真に理解しているかどうかを問われるところです。先生がまず模範を示し、同じフレーズをわたしがなぞる。しかし、先生はたびたびこういった。

「いいか、私のメロディーは単なる例だ。きみはきみ自身の審美センスで演奏しなければならない。インド音楽の本当に美しい部分は、このアーラープにある。何が美しいかを知るためには、練習と、美しいものを聴く体験の量による。速いパートはサーカスだ。見せ物だ。いいか、例えばこんなふうにやるのはサーカスなんだ」

 と恐るべきスピードで吹いてみせる。

「聴衆はサーカスに拍手を贈る。しかし、自分の満足はそこにあるのではない」

「指を速く動かすのは、機械的練習を積めばだれにでもできる。しかし、アーラープの演奏には、審美感覚(エステティックセンス)がなければ音楽にならない。1時間でも2時間でもアーラープを練習して、音の微妙さ、ラーガの表情を観察するのだ。いいかね」

 ハリジー自身、現在の師であるアンナプルナ・デヴィ(ラビ・シャンカルの元夫人、古典音楽中興の祖、アラウッディン・カーンの娘)の元へいくたびにそのことをたしなめられるという。

 10時ぐらいになると、アンヌージーが「ナスター(朝食)だよ」と声をかけます。すると先生は、「ヒロシ、ナスターだ。COME」と顎と目で促す。メニューは、オムレツ、トースト、野菜カレー、アチャール(漬けもの)とラッシー(ヨーグルト飲料)、果物、ときどき南インド風にマサラ・ドーサ、イドゥリー 、サンバなど。量の多い朝食です。

「いいか、バーンスリーを吹く人間はたっくさん食わなあかん。呼吸を安定させるためには、こうでなくてはいけない」

 と、身長(先生は170センチ弱)の割に横に幅広い胴体をたたいて、レッスンのときの真剣な表情とは打って変わって少年のような微笑を見せる。後からみると偉大な長方形といった趣。その体形に関係あるかどうか知らないが、ハリジーの父親はレスラーだった。インドにきてちょっとは痩せようと思っていたわたしは、どんどん勧められる食べ物を拒みきれず、結局太ってしまったのです。

 くるしいほどの朝食後、直ちにレッスン再開。電話や訪問客の多くなる昼ごろまで続きます。

 先生宅を辞去した後は、佐々木宅へいきます。あやちゃんとゆみちゃんの遊び相手になったり、佐々木さんの日本語の授業を覗いたり、ちょっとのことじゃあ動じないぜ的お母さん的安定感、来る人拒まず的寛容、適度にふくよか、目ぱっちり美人の、佐々木めぐみ夫人が奮闘するキッチンを覗いたりして、「メシまだか」などと言いつつあつかましく昼食を待つのでした。昼食後、アパートへ帰り、練習です。そして再び夕食のために佐々木宅へ。たまにみんなで「高級料理店」へ外食に出かけることもありました。インドに来てかなり体重を増やしたというボンベイグルメ派商社員の中道夫妻お勧めレストランへ一緒に行くことが多かった。ボンベイは大都会なので、中華料理、イタリア料理、洗練されたインド料理などの良い店が結構あるのです。練習がありますから、と厳然と断れないわたしは、むしろ進んでそうしたお誘いに乗ってしまい、体重増加傾向に拍車をかける仕儀となったのでありました。

 約80日間のインド滞在のうち25回のレッスンを受けました。レッスンのない日は自宅練習です。旅行に来た、という気分はスタートからまったく無く、上記のような基本生活パターンは、ボンベイを離れるまで続いたのでした。

 ◎ボンベイ日本人会忘年会◎

 ボンベイ日本人会は、駐在員など、ボンベイに長期滞在している日本人の親睦団体です。毎年、この会の忘年会では各会社や団体のグループ毎にコンテスト形式アトラクションをすることになっているのだそうです。わたしは、今回は全く部外者でしたし、ちょうどその日はハリジーの演奏会があったため参加しなかったのですが、後でビデオを見せていただくと、普段は背広ネクタイの人が女装してラインダンスをしたり、カラオケがあったりと、まあ、いわゆる、典型的な「ボーネンカイ」なのです。佐々木宅によく夫妻で遊びに来られていた前述の中道氏は、日本の中堅商社のボンベイ駐在員ですが、その会社の駐在員は彼1人なので日本人学校の先生たちとグループを組んでアトラクションをすることになっていました。他のグループの、まあ、いわゆる、宴会芸的演し物に対して、インドにいるのだから少しはインドっぽいものを、日本人学校の奥田校長先生の言葉を借りれば、ちょっと芸術性の高いものを、ということで、昨年はグジャラートのフォークダンスに挑戦したそうです。今年は何をしたものか、中川さん、なんかいいアイディアありませんかね、と中道氏がある日なにげなく聞いてきました。

「インドの人が当日入場できないということだし、バラタナティアムでは難しいなあ。何がいいですかねえ」

 ボンベイの大原麗子こと中道敦子夫人は、半年ほど古典舞踊のバラタナティアムを習っていたと聞いていました。しかし、まだ公に披露するほどのアイテムがなく、かつ伴奏者をこれから養成するには悲しいほどの時間の無さと構成メンバーでした。日本人学校の先生たちは、一度もインド舞踊をまとも見たことがない人の方が多かったのです。

「こんなのどおお?日本人学校の先生に口太鼓をやってもらって、カタックダンス。」

 わたしがやるわけではないので、言うことに責任がありません。

「んでもお、全然やったごどねえす、練習期間も少ねえす、どげなもんだべ」

 山形出身のわたしが、秋田出身の佐々木さんとふざけてをしゃべっているうちに感染してしまったズーズー弁で、ボンベイの大原麗子こと中道夫人が自信なげにつぶやく。

「なーに、簡単だべよ。足首さつけたよお、鈴ば、口太鼓に合わしぇで鳴らせばあ?」

 ボンベイの大原麗子こと中道夫人の、汗みどろのカタックダンス特訓が、わたしのアパートの、橋詰氏帰国のために空いたもう一つの部屋でスタートしたのは、その会話から数日後のことでありました。先生は、わたしの練習のためにハリジーから紹介された、若手ハンサム純朴青年タブラー奏者、カーリナート・ミシュラ氏(以下カーリ)。わたしのアパートのすぐ裏のフラットに住んでいたことや、ベナレス出身ということもあり、すぐ仲良くなった青年です。

 伴奏役兼ヒンディー語通訳でわたしもバーンスリーを吹いて練習に付き合いました。10日間ほどの特訓でしたが、頭にリズムサイクルをたたきこむという意味でわたしにとってもよい練習でした。最初は、できるかしら、と不安だったボンベイの大原麗子こと中道夫人は、バラタナティアムの下地のせいか、あるいは才能か、みるみる上達し、見事、晴れの舞台を立派に可憐に務め、称賛の声が高かった、と聞きました。日本人学校の先生の口タブラーも、数回、放課後の学校で練習し、当初心配したほどの大きな破綻もなく舞台を務めたのでした。後で、こういうのん、どうお、とふざけ半分で提案したバリ島ケチャもどきともども好評だったということです。

 ◎社交生活◎

 一切の誘惑を断ちバーンスリー修業に専念する、という意気込みで出かけたボンベイでしたが、上述のように日本人学校の先生や、商社の人、佐々木さんに日本語を習っているインド人生徒、音楽をやっている人々、佐々木家にべったりと居着いている関係で佐々木家の友人たちや、ハリジーがツアーでボンベイにいないときの代理の先生およびその家族などなど、みんな気持ちのよい人々でしたので当然、社交に費やす時間も少なくありませんでした。ここで言う社交生活とは、招待を受けて出かける生活であります。こちらが招待するには、フトン1枚の仮住まいと限られたゼニでは限界があったのでした。

 それらの人々のことを書いていますと、どんどんボンベイでの生活を思い出し、いくら紙数があっても足りない気がします。一方的に送付する個人通信の特権とは言え、だらだら脈絡もなく個人的なことを書くと、読む方もしんどいでしょうから、日本人学校の押元先生宅にお邪魔したときのことだけを書きます。

 押元先生宅でごちそうになった新鮮なイカとまぐろの刺身は、およそインドで食することを全く期待していなかっただけに、感激的でした。

 押元先生は、順子夫人、長男のタイキ君(小6)、長女のアコちゃん(5歳)の家族と共に、海を見下ろす丘に高層アパートが林立するボンベイでは有数の高級住宅街に住んでいます。広々とした居間は、先生が買い集めた渋い骨董家具とよく調和していました。今年の3月には3年の任期がが終わり帰国するということでした。

「このイカはおいしいですねえ」

「そうでしょう。新鮮ですから」、と押元さんがインドのビールをおいしそうに飲みながら答えた。

「バザールには、イカ以外にもエビとかまぐろも売ってますよ。日本に比べたら安いですよおねえ。でもね、イカなんか食べてるのはウチぐらいじゃないの」と順子夫人が言う。

 順子夫人は、サントゥールの達人、シヴ・クマール・シャルマ氏(シヴジー)の弟子にサントゥールを習ったこともある人です。日本人学校関係者としては珍しく、インド音楽に興味を持っています。後に、シヴジーから夕食の招待を受けたとき、順子夫人といっしょにシヴジーの家に行きました。「信じられないわ」と感激していました。関係ないですが、シヴジー宅での夕食招待の日の朝、昭和が終わりました。

 そのチャーミングな順子夫人の言葉に、わたしは、

「どうしてですか。こんなにうまいのに」

 とイカを飲み下しつつ言った。

 そんな話から始まり、次第に、ボンベイに住む日本人について話題になった。

 ばい菌恐怖症がこうじてインドの果物も食べない人がいる。それでいて、タージなどの高級ホテルのものは食べる。今日ウチはマグロなのよ、とシンガポールから仕入れてきたどす黒い刺身を食べる人がいる。子供にインド人の子供と遊ぶことを禁じる親がいる。運転手が休みを取ると外に出かけられない商社員の奥様がいる。その奥様たちの間に賭け麻雀が流行している。バス、タクシーはもとより、列車にも一度も乗ったことがない人がいる。日本人学校は受検のための塾のようにすべきだと主張する人がいる。日本人学校の先生は、各都道府県からかなりの競争率で選抜されるそうですが、(そういう地方出身者では頼りないから)受検に詳しい東京出身者を派遣すべきだ、などと主張する人がいる。いる。いる。いる。聞いていると、好閉鎖無菌室生息的没主体的楽天差別的ボンベイ日本人社会が浮かび上がってくるのです。指揮者の岩城宏之氏があるコラムで次のように確か書いているのを思い出しました。

「欧米以外の国々に駐在員の奥様としてお暮らしになっていらっしゃる女性に、非常に上品な言葉使いで、現地の人々や社会に関して非常にごう慢かつ差別的なことを、明るく、屈託なく話す《おじょうちゃんオバチャン》が多い」と。

 人口1000万のうち、上下水設備のないスラムの居住者が500万と言われるボンベイの街は、高層の高級住宅と、その根本にへばりつく、浮遊ゴミのようなボロギレテント住宅の対比が印象的です。それに街は、年中お祭のように人や車で溢れています。たしかにこのような街を見れば、毎日サーバントが隅々まで掃除をする、日本では考えられないほど広々とした清潔な住宅の外には、邪悪な細菌に満ち満ちている印象を受けるのでしょう。

 街の空気に触れただけで病気になると信じている我が日本国のキレイズキ奥様は、やはり清潔な家に住んでいらっしゃる日本人や西洋人のお友だちのところへお遊びにいらっしゃる際は、運転手つきの清潔な乗用車で行かなければなりません。強制無菌室生息のお子様は、しかし、放っておくと、外でたむろするインドの子供たちがそのような「邪悪な細菌に満ちた」ていようが関係なしにお遊びになられ、国、言葉の違いなど意に介せず交流を始めるでしょう。しかしキレイズキ奥様にとっては、これは許しがたい。かくして《おじょうちゃんオバチャン》が晴れて清潔な国、日本に帰ってこられた暁には、狭い住宅のキッチンでふと料理の手を休め思い出す。サーバントや運転手付きの快適な生活、掃除人が掃除している傍らで談笑しつつ楽しんだ麻雀の日々。アメリカ人のキャサリン奥様と拙いながらも英語で世間話をして国際交流をしたわ。領事館の人って意外とスケベだったわね。それにしても、本当にインドは汚かったわ。あの会社のご主人は部長になったかしら。などなど。妙に大人びて聞き分けの良い息子に、「政幸くーん、塾へ行く時間よーお」などと言いつつ思い出すのでした。

 と想像してしまうほど、彼地の日本人とのわずかな社交生活を通していろいろ伺った話は、今回のボンベイ滞在の一つの印象を作っているのです。

 順子夫人は、せっかくインドにいるのだから一流の演奏家を呼んで音楽会を開きませんか、と日本人会の人々に提案したとき、どれだけの人が集まるのか、少ない聴衆では採算が合わない、とかの理由で結局、流れてしまったことが情けなかった、と話してくれました。その話や上のような話を聞いて、いかにもさもありなん、と思うと同時に、なんともやり切れなく感じたのでありました。国際交流という言葉を最近よく聞きますが、この言葉からいったいどういうイメージを浮かべているんでしょうね、そういう人々は。

「心の豊かさ」は、本質的には絶対的に孤独な人間が、自己の世界イメージと他者のそれとの普遍的な類似性を見いだそうとする想像力(イマジネーション)にあると思うのでありますが、そのためには他者との対立や類似性をまず認識しようという寛容さが必要です。他者との対立を受け入れるには若干の苦痛、抵抗を伴うものです。しかし、そうした苦痛や抵抗は、対立が実は本質的に類似あるいは合一であったと認識したとたんに癒され、喜びに変わる。ボンベイ日本人社会の話や、帰国後に感じた日本の情況を見ると、そのようなちょっとした苦痛や抵抗に堪えられない人々が、どうも、増えつつあるのではないか、と感じたのでありました。

◎書き残してしまって次の号で取り上げたいトピック◎

 

 ここまでの原稿を精神的協力者である配偶者に読ませたところ、少々酔っ払っているためか、いかにも面倒といった眠そうな口調で、次のようにのたまわった。まあまあ面白いが、ちょっと長い、と。で、まだまだ続けようと思っていたのですが、今回はここでオワリということにします。続けたいのが次の項目。

 カルカッタの街と演奏会。ボンベイでの演奏会。ハリジーの後継者たち。プーナのバグワーン・ラジネーシ・ダームのこと。シヴジーやザーキル・フセイン(タブラー奏者)のこと。インドでのテンノオホウギョ報道のこと。ボンベイの郊外電車のこと。アパートのインロック騒動(カルカッタへ無施錠で出かけてしまった後の顛末)。日本語を習うインド人のこと。映画音楽スタジオにいったときのこと。アミット・ロイとの徹夜音楽討論-外国人ははたしてインド音楽の演奏家になれるのか、ということ。ボンベイ食べ歩きグルメレポート。街の男すべてポン引きに見えた淫楽の街バンコク。東洋人中年男女のバリ島の日々。

 ここに挙げたトピックのうち、これだけはどうしても読んでみたい、というリクエストがありましたら、当編集部まで文書でお知らせ下さい。次号もボンベイレポートの続きを書く予定です。

 ◎とりあえずの結論◎

 

 さて、今回のインド滞在は、純然たる修業が目的でした。修業という意味では、その後の結果はどうあれ、充分実りのあるインド行だったと確信しています。特に、バーンスリーの先生であるハリ・プラサド・チョウラシア氏からは、わずかな時間に多くのものを教わりました。まあ、すべて当たり前のことですが、以下に書きます。

 あるなにがしかの技術を習得するということは、単純でときには退屈とも言える一種の苦行を、年単位の一定の時間、持続して通過しなければならないということ。一見、結果につながらないような、ささいなことの繰り返しが重要であるということ。天才か否か、あるいは、先天的に「向いている向いていない」は、一定の持続訓練の後の問題であるということ。修練を積めば積むほど、さらに積むべき修練が増加していくということ。優れたものは、そのディテールが常に明せき(クリアー)かつ必然性をもつこと。常に創造的(クリエイティブ)であること。物を与えるにしろ、貸すにしろ、手助けをするにしろ、そのことによって他者からなんらかの見返りを期待するべきではないということ。(ハリジーは、今回、レッスン料もバーンスリーの代金も要求しなかった。理由を聞きますと、「自分がグルに習ったときもレッスン料なんて払ったことはない。それが伝統なんだ。それなのに、お前に請求することはできない。お前の私への謝礼は、練習結果だ」)。などなど。これ以上書いているとなにやら訓話的になるきらいがありそうなのでこのへんで止めますが、ともすればすぐにナマケテしまう普段のわたしにとっては充分すぎるほどの《注射》だったと言えます。

 ◎これまでの出来事◎

 

◆3月19日(土)、大阪・法華クラブで「インド音楽セミナー」◆3月26日(日)未明、京都・知恩院勢至堂にて「ミッドナイトコンサート」/初めてタブラーと合わせました。タブラー☆山中浩子さん/タンブーラ☆松本泉美さん。

◆3月26日(日)、西脇市の播州成田山の大祭にて演奏。

◆4月7日(金)、神戸・インディアン・ソーシャル・ソサイエティにて関西日印文化協会30周年記念パーティー

◆4月11日(火)、アムジャット・アリ・カーン サロッド演奏会(京都)/日本文化財団の宣伝不足のためか、入りが良くなかった。サロードではインドでも抜群の人気とまた実力を持つアムジャットの演奏会にしては、気の毒なぐらいでした。サントゥールのシヴ・クマール・シャルマのときのような熱気がなく、この種の催しの難しさと、主催者の意気込みというものがいかに演奏会の成否を左右するか、を感じました。

 内容は、前半がラーガ・プパリ。アーラープの後、ミディアムテンポ(マッディアライ)のティンタール、速い(ドゥルット)ダードラの後、ティンタール。音がステージ内にこもりすぎ、不明瞭でした。後半のアイテムは、シァファートのタブラーソロ、日本人聴衆へのサービス、ラーガ《さくら》、ラーガ・バゲシュリ、民謡風の軽いラーガ・カマージ。シァファートのタブラーは、ハリジーのプーナツアーで同行して聴いていました。現在の人気に恥じないノリでした。《さくら》は美しかった。サロードという楽器は、日本のもののようにしっとりとした音楽に向いているかも知れない。つぎのバゲシュリもカマージも、さすがアムジャット、と感心しましたが、日本人聴衆の反応さぐりのためなのか、どれも短時間の、速い見せ場のウケを狙った感じがしました。同じサロードの大御所、アリ・アクバル・カーンの、聴衆など我関せず、ふてぶてしいほどじっくりと聴かせる演奏の方が好感が持てるような気がします。

 まったく偶然、舞台で通訳をしていた女性が、ベナレス遊学中、我が家にも来たことのある井上貴子さんと分かり、久し振りに話をしました。彼女は南インド音楽のヴォーカルを習ってきた人です。《インド帰り》の生活困難ぶりを互いに確認しあったのでした。

◆4月13日(木)、アムジャット・アリ・カーン サロッド演奏会(大阪)/ザ・シンフォニー・ホール

  演奏は良かった。前半が《さくら》の後、ラーガ・ヤマーン。後半タブラーソロの後、マルコーンス。アーラープに続いて10ビートのジャプタール、ついで16ビートのティンタール。特にラーガ・マルコーンスの歌いかたは絶妙。最後はカマージの民謡で閉める。京都公演よりは数段良い演奏会でした。それにしても、ザ・シンフォニーというのはぜい沢でした。客の入りは京都よりはましだったが、1階席が6割ほど埋まった程度。キャパは2000以上のはずだからさびしい。演奏会の後、同行の姫野翠先生、文化財団の渡辺さん、井上貴子さん、そしてアムジャット・アリ・カーン一行とで梅田まで食事に出た。どこへ行ったと思いますか。ぎょうざの王将なのでした。

   ◎これからの出来事◎

 

◆4月28日(金)16:30P.M.~/Kサロンコンサート/かんしんホール(神戸・三の宮ワシントンホテル西すぐ℡089・332・5151)/1500円(前売り1200円)/バーンスリー☆中川博志/尺八☆森川玄風/タンブーラ☆松本泉美/主催☆Kプロジェクト/後援☆神戸新聞社

  この演奏会は、神戸の銀行の文化活動の一環として催されます。琴古流尺八の本曲、バン スリによる北インドの音楽、即興的合奏の試み、というプログラムです。わたしはタブラーと 一緒に演奏したいと思っています。修業後のわたくしの演奏に興味のある人はおいで下さい。森川さんの尺八の本曲はすばらしいですよ。

◆5月12日(金)19:00P.M.~/アミット・ロイ シタール演奏会/アイル、モレ コタ(大阪・北浜tel.06・203・4636)/2000円(前売り1800円)/シタール☆アミット・ロイ/タブラー☆吉見正樹/世話人☆吉見正樹

◆5月13日(土)19:00P.M.~/アミット・ロイシタール演奏会/バーズビル(神戸・住吉、JR住吉駅西へ徒歩7分Tel.078・854・1111)/2500円(前売り2000円)/シタール☆アミット・ロイ/タブラー☆山中浩子/主催☆天楽企画(中川博志Tel.078・302・4040)/後援☆インド総領事館、神戸新聞社他

  昨年、神戸の願成寺で輝くようなシタールを聴かせてくれたアミット・ロイがまたやってきます。今回は、今や神戸の「エスニック音楽」スポットとして定着した感のあるバーズビルで開きます。昨年お聴きもらしの人も是非おいで下さい。ガンダーラのカレーもあります。一段と成長したアミット、山中さんの再渡印充電ぶりも楽しみです。チケット予約は、わたしのところかバーズビルに連絡してください。


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  サマーチャルはニュース、パトゥルは手紙という意味のヒンディー語です。個人メディアとして不定期に発行しています。皆様の情報もお待ちしておりますのでよろしくお願いします。

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