「サマーチャール・パトゥル」17号1995年2月9日

 皆さまいかがお過ごしですか。

 まず、この度の大震災でわたしたちの安否気遣いの電話や手紙を下さったり、ご心配いただいた方々に感謝しています。中には、ここ十数年お会いしていなかった友人たちや、遠くはインドやスイス、カナダの友人たちからも電話や電子メールを受け取りました。

 わたしたちは、住むところを失い今もって避難所で生活している人たちや、近親者を失った人たちに比べると、こんなんでええんかいな、というくらいノーテンキな生活を送っています。物的被害も、茶碗や皿など瀬戸物関係80%が割れてしまったとはいえ、高価なものも元々なかったのでぜーんぜん平気です。カルカッタで配偶者からの第1報を受けたとき、昨年12月に購入したばかりのマッキントッシュの安否がちょっと気になりましたが、幸いキーボードと本体をつなぐケーブルが損傷したのみでした。ちなみに、この通信はそのマックで書いています。最も激しい揺れのあった神戸市中央区にありながらも、拍子抜けするほど軽微な被害なのです。もちろん、水なしガスなしの生活ではありますが、かつて3年ほど住んでいたインドのバナーラスではこれが日常でした。「不自由」な生活で大変でしょうといわれますが、農閑期と称してヒマを持て余している時期ですのでかえって生活にメリハリがついています。たしたちの入っている公団の建物も無骨なデザインがさいわいしたのか微少なダメージにとどまっており、再度の手ひどい余震がこない限りまあ倒壊することはないようです。

 次の文は、同じポートアイランドの「高級」被災民、関西気功協会の津村喬氏へ渡したものです。大地震から3日目に三宮から再度筋まで歩いたときのことを書いています。

震災の三宮を歩いて思ったこと

  20日に神戸大橋を渡って再度筋まで行ってきた。ドイツにいる友人のご両親の消息を尋ねるためである。友人の父親は人工透析が必要なので、もし逃げることができなかったとしたら最悪の事態になっているのではないかと心配だった。

 市街とポートアイランドを結ぶ神戸大橋は、なんとか自動車の通行もできるくらいには復旧していたが、徒歩や自転車で渡る人が多い。橋を渡り切り、フラワーロードを北上するにしたがい、ビルや道路の損壊のひどいありさまが見えてくる。インド料理の「ゲイロード」が地下にあった明治生命ビルは途中で折れ曲がり、市役所旧庁舎の5階あたりは一つの階が完全に押しつぶされている。押しつぶされたあたりからは白いブラインドがびらびらと外にたなびいている。どこを見ても似たような状況だ。どこがどのように壊れているかは、テレビ映像のほうがずっと説得力があるのでここでは触れない。

 こうした建物などの破壊されたありさまを見ていると、かつての装飾過剰な一見きらびやかな「近代都市」がいかに表面的で底の浅いものだったかを感じる。復旧作業に動き回る人々や建設機械のうごめきは、ふたたびそうしたものをすみやかに復元する努力だ。われわれの作るものは所詮その程度のものでしかない。作っては壊れ作っては壊しの連続である。今回の災難はたまたまそれが一瞬に同時に発生したにすぎない。この災難で家族や財産を失った人々とっては深刻なものがあろうが、そうでない人にとっては一種の壮大なイベントを見ているような感じだろう。現にバシャバシャとシャッターを押しているプロや、にわか素人カメラマンらしき人もうろうろしていた。

 そんな中で、ほのかに暖かい冬陽を受けてじっと歩道に寝そべっている、いわゆるホームレスの男がいた。彼は、無表情で、ただただ陽のぬくもりを楽しんでいるだけのように見える。断言できないが、こういう大災害も彼の日常にとってなんの障害要因ではない。復旧作業や友人知人の安否を気づかい街を往来する人々の姿も、彼の視点から見れば、守るべきものをもつ人々のうごめきがにわかに増えたくらいにしか映らないだろう。守るべきものを獲得したエネルギーに比例して人はその復旧にエネルギーを注いでいる。しかし、このモノのあふれかえる今の日本で、なにも持たないことを選んだ、あるいは選ばされた彼にとって、深刻な表情でうごめく人々の活動は壊れたモノと同様はかない。  

地震の2日後にインドから急遽戻ってきたが、そのとき関西新空港にはスキーを担いで海外へ出かけようとしている若者たちがたくさんいた。その光景を見た友人が彼らをなじっていたが、僕はそんなものだろうと思う。それぞれがそれぞれの目先の喜びや悲しみで生きているのである。もともと愚かで脆弱ではかない人間であるわれわれは、彼らをなじってもしかたがないのだ。現にかなりの被害を被ったわれわれと、スキーを担いでいる若者の間にはそれほどの違いはないのだ。そんなふうに考えていると歩道で日向ぼっこをしていた男がなにやら崇高に見えてくる。

 インドから急遽帰国したのが19日の早朝でした。ちょうどその日から関西国際新空港とポートアイランドを結ぶジェットシャトルの運行が再開されたのでした。1日2便の臨時便でした。おかげで当初予想された大阪経由徒歩艱難辛苦的終戦直後的帰宅は免れたのです。     

 空港にあるジェットシャトルの港では何事もなかったように通常営業していました。わたしは、インドやバンコクで見たテレビニュースの壮絶な光景が頭にあったので、空港全体がなにかしらざわざわした緊張感が漂っているのではないかと想像していたのですが、港の軽食堂の若い女性従業員は、深刻な顔をしたレポーターが現地の惨状を伝えるテレビ画面などまったく見ることなく、はあーい、うどんですねえ、はあーい、コーヒーでえーす、などと客をさばいているのです。偶然ジェットシャトルに乗り合わせた伊久さんの話によると、難波のあたりではスキーをかついだ若者たちがルンルンとバスを待っていたという。外国からはボランティアの人たちが続々と被災地に向かい活動を開始したというのに、スキーバスを待つ若者たちは一体ありゃどうことだと怒っていました。

 ニュースでたっぷりと悲惨なありさまを詰め込んでいたわたしは、ジェットシャトルがポートアイランド港に着いたときちょっと拍子抜けする思いでした。確かに、住吉のあたりからは煙があがっているのが見えるし、岸壁のコンクリートは陥没したり歪んで曲っていましたが、もっとすさまじいのではないかと思っていたのです。ただしかし、車で我が家に近づくにつれ、やはりただならない大災害なのだと実感し始めました。道路は、かつて舗装されていたのかと思われるほど泥だらけで、ところどころ波うっていました。歩道と車道、建物と地面が広いところでは20センチくらい段差ができています。しかし、ポートアイランドの建物は、おおきなひび割れも目につきません。また、メチャメチャなありさまを想像していた我が家も意外にかたずいていたので、偶者の作業のほどがうかがわれのでありました。

 現在は、水くみと水ためにも慣れましたが、風呂に入れないのがちょっと難点なのです。もっとも、インド生活で鍛えたわれわれには、それほどの苦痛ではありません。むしろ「不自由な生活」を共有することで住民どおしが仲良くなり宴会が増えた。ですから、震災による体重の増加が心配なのであります。

 

◎これまでの出来事-日記仕立て◎

 読者の中には、インド編に出てくる地名や人名に馴染みのない人もいると思います。特に説明を加えず、事実のみを書いたまったく個人的な日記ですのでそのままにします。あしからず。

1995年1月5日木曜日

 チケットにはソウル発20:00と書かれてあるのに、大阪でチェックインしたときにはボーディングパスに22:45と書かれていて、最初から約3時間の遅れ。金浦空港の18番ゲートで風邪ぎみの重い体でソファに座り、『韓国人の発想』(黒田勝弘著)を読み終える。

  待っている間、18番ゲートからは、名古屋へ向かう日本人団体客、ホノルル行の韓国人観光客が出ていった。文庫本を読み終えてトイレで歯を磨いていると、背のひょろっと高い黒人が話しかけてきた。の強い眼鏡、髪のほとんどない頭頂部と両脇の白髪まじりの長い髪が知的に見える。「やあ」てな感じで声をかけてきた。名前は、Dr. Noor。ソマリア国籍。オマルという同僚と韓国の石鹸メーカーとのビジネスで韓国にきたとのこと。航空券の購入のとき、無愛想な大韓航空のスタッフの対応に怒っていた。この種のことは、ヨーロッパではきちんと事情を話せば簡単にやってくれるのに、ここはまったく駄目だとぼやく。

 トイレから戻り、再び人の少なくなった18番ゲートで何気なくあたりを眺めていると、くだんのソマリア人が「805便は、12番ゲートに変わったようだよ」と教えてくれる。掲示のはり紙をみると確かに変更になっていたので、荷物をもって移動。安い航空会社だけのことはあるか。結局飛行機に乗り込んだのが23時ころになっていた。機内には、インド行なのでだれか知った顔があるかと見回したが、日本人団体客はカイロ、韓国人団体客はマドリッドまでの客らしい。結局、ボンベイで降りたのは2、30人ほど。 

1月6日金曜日

 ボンベイでの居候先、住金物産支店長の池田さんの運転手がちゃんときているか心配だったが、マヘンドラという名の運転手が小生の名前を書いた紙を掲げて待っていた。

 パワーブックの持ち込みが今回の心配事だったが、TBRE(TOURIST BAGGAGE RE-EXPORT)の用紙を要求すると「何を申告するのか」と聞く。ラップトップコンピュータだというと、顎をクイと動かす。わかった、問題ないから向こうへ行き荷物をX線検査のコンベアーに置け、という意味だ。結局コンピュータの持ち込みは問題にならなくなったらしい。ほっとする。

 1年半ぶりの車窓からみえるボンベイは、ほとんど変化がないようにみえた。しかし、佐々木さんや池田さんの話を聞くと、随分と変化しているという。自由化によって、外貨の蓄えが増え、都市のインフラも進んでいるとのこと。いわれてみれば、かつて穴だらけの道路もきちんと舗装されている。また、かつては見なかった白菜、ブロッコリ、プチトマトなどの「高級野菜」も売られている。

 池田さんはすでに起きて待っていらした。家の中は改装中で混乱している。とりあえず、新しいメイドのアナのつくったコーヒー、ハムサンドイッチの朝食をいただき、シャワーを浴びる。8時間半ノンストップの機内では、不自然な姿勢でもすこしは寝ることができたし、頭は興奮状態だったのでそのまま起きていることにした。

 ハリジーに電話する。ハリジーは明日の11時にデリーから戻るという。ドゥルバを訪ねることにする。ぼけ声のドゥルバと11時にサンギータ・マハーバーラティー(彼の父親が設立した音楽学校)で会う約束。じ方面の佐々木さん宅にも行こうと電話すると、子供たちを日本人学校に今からつれていくところなので、ついでに運転手をさし回すということ。10時半に佐々木さんのジープがくる。それまで、バーンスリーの音出し。ドゥルバから、訪問を3時に、という電話。ルーパクにも電話して、ハリジーのコンサートの情報をえる。7日の7時半ころ、楽屋で落ち合うことにする。

 サンタクルスへ向かう途中、キショールの旅行代理店によって15日のカルカッタへの航空券を予約。佐々木さん宅へ。駒井さんからのおみやげ、ソウルで買ったキムチ、マージャン大会の景品のお菓子、ボールペンセットを進呈。例年の空手関係秋田人が20日過ぎにくるとのこと。2月10日に、モルジブへ一緒にいくので、佐々木さんもキショールに切符の手配をしている。知らない子供たちが2人神棚の前で遊んでいる。その日は、託児所の日なのだという。佐々木さんは4カ月になる息子の誠を抱いている。

 ビール、ブロッコリ+カリフラワーの酢づけ、もやし+マッシュルームのいためもの、ほうれんそうのバジ、味噌汁のランチ。ボンベイの土地の高さは今や異常だという。土地を買ってサンタクルスを移りたいのだが、この辺でも坪100万円するそうで、とても考えられない値段だそうだ。今のフラットは売ると1500万円になるというが、売っても追い付かないのだ。池田さんのフラットも家賃がグンと上がったという。現在の家賃は12万5千ルピー。約37万円。確かに高い。97年ホンコン返還のために、在ホンコンインド人が買っているともいう。

 3時前にサンギータ・マハーバーラティーへいく。ドゥルバは、カルカッタへ飛ぶために4時には出かなければならないということ。ピットインの本村さんから預かったウォークマンと今年の「エイジアン・ファンタジー」の企画書を手渡す。

 タクシーでバンドラへいき、クルター、パジャマをアメックスカードで購入。リンキングロードを歩いていると、突然 「ヒロシ!」と呼ぶ声がした。ハリジーの一家が車で通りがかったのだ。車の中には、チンクー(ハリジーの息子)、アンヌージー(現在の奥さん、チンクーの母親)など5人が手を振っている。

 タクシーで池田宅へ。家が改装中なので、夕食は外へということになった。グラントロード近くの高級中華料理店へ。ビールを3本ほど飲む。Drums of Heavenなんていう変なネーミングの料理があった。大量に注文したが、余った分はすべて持ち返り、アナとテル(共に池田宅の使用人姉妹)に渡す。

 

1月7日土曜日

 池田さんとハリジー宅へ。11時に訪問。ハリジーは、デリーでアナウンサーをしているという女性と朝食をとっていた。夜に行われる予定のコンサートの招待券を6枚もらう。池田さんは、持参したCDにサインをしてもらい、一緒に記念写真をとって大満足。ハリジー宅を辞してダーダルの楽器屋「スワーミー」へ向かう。池田さんは、タブラー・セット+タブラー(C#)で約2800ルピー(1ルピー=約3.3円)。小生は、Eのタブラーとスペアーのプーリーを予約。その後、ウォルリーの中華屋フローラで、ラーメン、野菜炒めのランチ。

 いったん家に帰り休憩後、兼松の藤井さん宅で早い軽めの夕食(たちうおの焼きもの、海老と春雨のサラダ)をいただく。海の見える居間からちょうど陽が落ちていった。

 小生のみ池田車で会場のシヴァジーパークへ向かう。藤井夫妻と池田さんは、8時半ころ会場にくるという打ち合わせ。野外結婚式場のような会場はすでにできていたが、PAのチェック、テレビクルーの準備作業などが進行していた。ルーパクのいうように7時半に楽屋にいってみたが誰もいない。準備しているスタッフたちは知らない人たちだし、会場をぶらぶらして時間をつぶす。ラージャーヨーガの辻説法をしばし聞く。8時になってもアーティストは誰も来ないし、肝心のルーパクすらいない。インド時間だったのだ。

 数千人分の椅子が、布で囲った会場を埋めている。前列には、立派なソファが置かれ、これらはすべて招待者用のもの。300人は座れる。演台のかなり高い特設舞台の正面から階段が作られ、背景にはクリシュナ神とラーダーの絵がある。楽屋は舞台左の既設の建物のなか。広い部屋に白いシーツの布団が2列並べられていた。また、招待者のみ利用できるキャンティーンもあった。ここで招待者はチャイなどを飲むことができる。

 正面のソファに座っていると、シヴジー夫妻がやってきたので挨拶する。来年に日本公演をしたいので資料がほしいといったら、マヌジーはいつでも家にいるので訪問するようにとのこと。8:30PM開始予定が大幅に遅れて9:30ころスタート。招待者席は満席に近くなったが、後ろのほうは空席が目立つ。 

 シタールを習っているスイス人ピーターに会う。フランソワ、カトリーヌ(モントリオールからきたカナダ人でハリジーの弟子)、マドゥ(フランソワの娘)、カトリーヌの友人の彫刻家(ネイティブカナディアンのように見える、平たく丸い頭に丸い眼鏡、髪を後ろに束ねている)も顔を見せた。藤井夫妻、池田さんも到着。途中、ザキールもやってきた。別の演奏会を終えてきたのだ。

 演奏会は、まずヴェーダの詠唱から始まった。10人くらいが舞台で詠唱する。ちょっと長い。チンクーが聴衆の整理、監視をしてくれと頼む。この仕事は「身内」でやるのだという。ラケーシュ、ルーパク、チンクー、ハリジーの長男(名前をわすれた)などが「身内」で、小生もその一人に入っていた。

 

Sampoorna Yugalsangeet Ratri(オール二重奏の夕べ)/Shivaji Park /20:30 to6:30AM

 この演奏会は、異種の楽器や様式を同時に混合させる新しい試みとして、ハリジーが始めた演奏会で、今回が4回目だ。

1.ハリジーの女性弟子Prya+Suchi +Kalinath Mishra/Raga Bihag

Pryaのほうがピッチ、リズムとも正確。ちゃんとした演奏会もできそうだ。久しぶりにKalinath にあう。ハリジーともよく演奏するのだと喜んでいた。しかし、演奏そのものはまだまだ、というかセンスの問題だ。2人の演奏はすべてあらかじめ決まったフレーズなのよ、とフランソワがいっていたが、それでもあれだけ長いものを記憶するのは大変だろう。

2.Rashid Khan+Shahid Parvez+Shafaat Ahmed/Raga Bageshree,Desh

 シャヒードの生を初めて聞いた。Vilayatのスタイルだが、技術のみが目立つ。振るえるようなミーンド、ガマカが特徴といっていい。しかし、比較的短いフレーズが小刻みに出てくるのはどうも馴染めない。それに比べ、Rashidの演奏はやはりすばらしい。表現力が違う。シタールとの共演では彼のみが際立つようだ。舞台袖でRashidに再会する。「あれー、ヒロシジー」と懐かしそうに手を握る。カルカッタの自宅を訪問することを約束。

 

3.Vishwamohan Bhatt(Guitar)+Tarun Bhattacharya(Santoor)+Fazal/Raga Hemant

 彼らの演奏開始と同時に雨が降ってきた。この季節に雨が降るのは非常に稀だ。しかも後で聞けば、雨が降ったのは会場周辺のみ。不思議なこともあるものだ。ハリジーはついていないのかもしれない。まだ小ぶりの段階で藤井車へ避難する。車に乗ったとたん雨が激しくなる。車に避難できるわれわれをフランソワが羨ましがる。しばらくして雨は止んだが、まだときどき雷が光っていて油断できない。一部の客は帰ってしまったようだ。この段階で藤井夫妻も帰宅。あまりに寒いので、2部の途中に運転手に毛布などをとりに行かせたのに。待っている間に、会場の電灯が消え暗くなったがしばらくして復旧。招待者用のソファは座席が濡れてしまったのでプラスチックの椅子に置き換えられる。舞台袖に立っているハリジーのまわりには、心配 そうにスタッフがかけよっている。ラケーシュやルーパク、チンクーなど。最初の雨が止み聴衆がそれぞれ席につき、コンサートの開始をまつ。この雨は神の祝福、では次の演奏者に再び舞台に上がってもらいましょう、というアナウンスに会場から拍手がわく。演奏者が舞台に上がりチューニングを終え、さあ始めるという段になってなんとまた雨がきた。シヴジーなどは、最初の2、3滴ですぐさま楽屋へ避難に向かう。しかしこの雨は結局長く続かず、再度の拍手で演奏が開始された。それにしても、きれいに刈り込んだ真っ黒な髭のVishwamohanがいざ楽器に触れようとすると雨がやってくる感じだ。

 グラミー賞を取ったVishwamohanのギターは印象に薄い。ギターの響きはインド音楽には十分だが、強烈な聞かせどころがない。ティハーイーは正確。Tarunなかなかよい。しかし、楽器の限界はいかんともしがたい。ファザルは相変わらず、PAに要求を出したりとうるさい。彼のタブラーの音量が会場には小さく流れたのでよかった。彼のタブラーには風格が感じられない。

 

4.M.S.Gopalkrshnan(Violin)+Sultan Khan+Shubhankar Banerjee/Raga Bhupali,Folksong(Khamaj)

 南インドのヴァイオリンはすべてそうなのか、ゴーパルクリシュナンだけがそうなのか、フレーズが短く細切れなので、長いフレーズを作るSultanjiとは対照的だ。早いパッセージの応酬になると、ゴーパルクリシュナンの音をジャンプさせるテクニックにSultanjiついていけない。Sultanjiの技術も確かなのだがフレージングがみな同じように聞こえてくる。ゴーパルクリシュナンの演奏態度はみていて気持ちがよい。いかにも楽しんでいるように頭を振る。楽器を完全に把握している。スバンカルのタブラーは聴かせるポイントをもってい る。以前よりもうまくなったのかもしれない。Sultanjiに楽屋であった。奥さんもいた。「あれー、グールージー」。小生は寒いのに彼は汗をかいている。ファザルも元気そうだ。Sultanjiに挨拶し終えて視線を変えると、スバンカルがいた。笑顔になってこちらにやってきて抱きしめる。17日のカルカッタでの小生の演奏会では、なんと彼が伴奏だという。

 

5.Hariprasad Chaurasia+Kishori Amonkar+Anindo Chatarjee/Raga Lalit, Bhairavi Dhun

 ハリジーは、Kishoriのキーにあわせるために長めのものと中間の長さのバーンスリーを使った。      
 Kishoriの演奏はやはりすばらしいが演奏途中で頻繁に咳をするのはいただけない。2人とも完成された音楽家ではあっても、デュエットは難しい。それぞれ単独で演奏したほうがずっとよかったのではないか。どうもハリジーの異種混合の試みは、新奇な企画による人集めの意味のほうが大きいような気がする。もっとも、こうした試みがなされるのは、通信交通手段の発達した今日こそ可能であるだけに、今後続けられれば新しいスタイルが発生するかもしれない。しかし、現時点では、個性の強い音楽家どうしが互いに邪魔しあっているとしか思えない。理想的二重奏は、アリー・アクバル・カーンとラヴィ・シャンカルくらいだと皆がいう。

 ともあれ、雨が降るというアクシデントはあったものの、コンサートが無事終了したのでほっとする。池田さんは最後まで熱心に聞いていた。その池田さんと家に帰ったのが朝の7時半。ラーメンを食べる。

 

1月8日日曜日

 2時ころ起床。キムチ飯をブランチにとる。ちょっと風邪ぎみで頭痛がするので池田さんにバファリンをもらってのむ。しばらくして一緒に演奏会に行くことになっている藤井夫妻がわれわれをピックアップするためにやってくる。バンガンガまでは近いが歩くとなるとしんどい距離。

 バンガンガは、池田さん宅のあるマラバール・ヒルから海へ向かって下ったところ。腐臭ふんぷんの海岸のすぐ近く、ヒンドゥー寺院がかたまっている。風物、道はまったくバラーラスの雰囲気。近くには、死体焼場もある。寺院に囲まれた沐浴場が演奏会場。周囲の階段に客席が作られている。

 4人ともチケットをもっていなかったが、ハリジーの招待だとゴリ押しすると簡単にVIP席に案内してくれた。海と平行した長てのガートの中央に、船をかたどった舞台が水面に張り出して作られている。VIPは、舞台に対して左横に直交しているため、スピーカーの一サイドからの音を聞くことになりあまり条件はよくない。ただ、座席の下には赤い布が敷き詰められ豪華な雰囲気だ。全体の雰囲気も非常によい。周辺にライトを配置し、それらが水面に反映する。演奏が始まると周囲のライトは消え、舞台のみが輝く。池にはがちょうがいて、ときどきガーガー啼く。主催は、マハーラーシュトラ州観光局、文化財保護財団、スポンサーに香港銀行が入っているのが面白い。

 

Banganga Music Festival/19:00 to 22:30

1.M.S.Gopalkrshnan(Violin)/Raga Hamsdhwani(Kriti) Aditala

 前日もスルターン・カーンとのデュオで出ていたGopalkrshnanよるカルナータカ音楽。大変なテクニックだが、フレーズの細かさが気になる。娘もヴァイオリンでアカンパニーを担当。

 

2.Hariprasad Chaurasia+Shubhankar Banerjee/Raga Hemavati/Rupak, Tintal

 最近のハリジーは、じっくりと聞かすよりもなにか技術偏重に思われる。スムーズなガマカはすばらしいが。

 

3.M.S.Gopalkrshnan+Hariprasad Duet/Raga Yaman(Kalyan)/Pahadi

 地元紙Times of India の批評に「われわれには紅茶とコーヒーがある。なぜこれらをまぜあわせるのか」あった。同感である。それぞれの持ち味が相殺されている。途中、長めのリズム合戦があった。ムリダンガム奏者が、俺のも聞いてくれといわんばかりに、かなり長いあいだソロをとり、それに応えるようにスバンカルが激しく応酬する。しかしちょっと長すぎたような気がする。でもタブラーに凝っている池田さんは大満足。藤井夫妻も喜んでいた。Pahadiはやはり、ハリジー単独の方が絶対よい。

 

1月9日月曜日

 レッスン。新しいレッスン場所は、バンドラのPetite Schoolの中の教室の一室を借りたもの。当日は、入学の申請なのかたくさんの親が書類をもって並んでいた。しかし、子供たちは勝手にそこらへんで遊び回っていて混乱状態だ。レッスンしていても子供たちがうるさい。参加は、フランソワ、カトリーヌ、インド男、インド女2。この日のレッスンは、前半がLalit、後半がBhimpalasi。教え方は以前と変わらず、ハリジーが吹くのを生徒が後追いする。小生の練習課題は、4拍の中でどう自由にフレーズを作っていくかだ。しかしそれをどうしてやったらよいのか。その辺でカトリーヌとも意見が合った。フランソワ、カトリーヌとレッスンのあと近所の食堂でマサラドーサ、ダヒワラのランチ。この食堂は禁煙なので、向かいのチャイ屋で一服。フランソワはあと1、2年はインドにいるという。もう何年になるか。

 フランソワが13日のコンサートのチケットをリズムハウスまで買いにいくというので一緒にタクシーを拾う。池田さんの分もあわせたチケット購入(RS.400)を彼女にまかせて帰宅。しばらく寝る。

 

1月10日火曜日

 レッスン。ハリジーのアーシュラムを設計した建築家がプラサードをもってきたのでそれをみんなで食べる。レッスンは結局11時すぎから始まる。生徒8。この日は、JINJOTI。レッスン後、佐々木宅に行ったが留守。セントールホテルで$300を両替。小生の前にいたイギリス人が両替し終えると、キャッシャーがどこかへいってしまった。しばらく待って両替を終わる。それにしても、係がだしぬけにどこかへいってしまう習慣はいらいらさせる。小生の後ろの女性も「なにやってんだあ、ほんとうに」とつぶやく。ホテル前でタクシーを拾ったら、運転手がよくしゃべる。ラクナウの近くからきたという。バナーラスに住んでいたというと喜んでいる。Prabhadeviにあるキショールの旅行代理店でカルカッタ行きの航空券を購入。RS.7,305=¥24,626。帰宅して練習。おでんの夕食の後、ピーターとアンナプルナ・デーヴィー宅を訪問。池田車でいく。マヘンドラには待っていてもらう。マンションのベランダや天井が崩壊して鉄筋がむき出しとなり、工事中だった。海の見えるベランダ部分はブリキ板で完全に閉じられ、一日工事の人間がやってきて、アンナプルナはノイローゼになっているという。あと2年かかるということ。しかし、夫のローシージーが近所にマンションを買ったのに、彼女は移りたくないといっている。ピーターの練習をしばらく聞いたり、もらったローシージーの本を読んだりして11時帰宅。

 

1月11日水曜日

 レッスンは14日4時まで休み。午前は練習。午後Bangangaを散歩。その後はこの日誌を書いたのだが、突然パワーブックが沈黙。1時間以上入力したものは消滅してしまう。夕食は、藤井宅。白菜とツナの煮物、春雨とトマト、海老のサラダ、炊き込みご飯、味噌汁、ぎょうざ。三井物産の村田さんとお嬢さんのミナが同席。ミナは、アメリカンスクールに通う高校生。

 

1月12日木曜日

 午前中練習。Mrs.Sharmaを8時に訪問することになった。ザキールのところはなかなか電話が通じず断念。シヴジーの新しい電話番号をサティーシュの家族から聞く。小生と堀内みどりさんの対談が掲載されている毎日新聞の記事コピーが久代さんからFAXで届く。わりに大きいスペースをとっている。そばランチ後、事務所へ戻る池田さんとリズムハウスまでCDを買いにいく。AMEX CARDで10枚(RS.3,975=¥134,00)購入。池田車でシャルマ宅へ。1回行ったきりなので場所はほとんど忘れてしまっていた。

 案内された部屋は、たぶんシヴジーの練習室なのだろう。6畳ほどの部屋の窓側にはカーペットが敷かれ、サントゥールが置いてある。隅には、タブラーマシン、電気タンブーラー、カシオのキーボードがあった。壁には、さまざまな賞状が飾ってある。ジャンムー大学名誉博士号の認定書、インド大統領からの賞状など。Mrs.Sharmaと初めてあったのが86年だったので、それからすでに9年近く経ったことを互いに感慨を込めて確かめる。写真、プロフィール、Videoなどの資料をカルカッタから帰ってきてからもらうことを確認。食事もでるかもしれないと期待したが、コーヒーとお菓子のみ。お菓子のあまりを運転手にもっていく。帰宅してカレーの夕食。次の日のコンサートではシヴジーは最後の出番ですねというと、その次の日にプーナで演奏会があるので最初にしてくれと主催者にいったが聞き入れられなかったとのこと。

 マヘンドラのジョーク。

3人の女性が死んで天国へいく。そこで神に生前の

セックスライフについてインタビューされる。

 一人目に聞く。「結婚前は処女で、結婚してからは夫ひとすじよ」「よし、それではこの金の鍵をあげる。金の部屋の鍵だ」。

 二人目「結婚前は結構遊んだけど、結婚後は夫ひとすじ」「よし、銀の部屋の鍵をあげる」

 三人目「結婚前も後もたくさんの人と楽しんだわ」うーん、しょうがない女だ。ではわしの部屋の鍵を持って行きなさい」

 

1月13日金曜日

 今日も徹夜コンサートがある。午前中練習。昼食は池田さんとラーメン。午後つい寝てしまった。池田さんのタブラーの先生、アヴィナーシュ・タウレーくる。本業は声楽なのだが、タブラーも2年ほど習ったという。スワーミーから買ってきた池田さんの新しいタブラーをC#に調整する。固い皮ひもなので、じくじくしている右中指の皮がむけてしまった。全体がいつもじくじくするようになっているので日本へ帰ったらちゃんとみてもらわなければ。池田さんも、左人さし指の関節と股関節がすこし痛むということでまともな練習はできない。レッスンが終わってアヴィナーシュと一緒にちょっと演奏する。インド式の夕食後、9時ころ3人でコンサート会場へ向かう。池田さんは、絹のクルター、パジャマ、チャッパル、金色のチョッキという出で立ち。これで完璧だと喜ぶ。

 コンサート会場は、DadarのHindu Colony。学校の中庭だ。6,7階建ての建物に完全に囲まれている。舞台は花輪などできれいに飾られていた。数千人分の椅子が用意されている。最後まで残った人数は2,500。舞台両袖のスピーカー群がごつい。後ろの席のほうにはビデオプロジェクターで舞台の様子をスクリーンに写している。本当に時代は変化している。RS.200のチケットを購入していたが、ハリジーに招待されたといったらVIP席に案内してくれた。VIP席は、ソファになっているし、舞台にも近い。池田さんは双眼鏡をもってきていたが、いらんかったなあと苦笑い。

 公式には8:30PMスタートと書いてあった。しかしいつも時間通りに始まることは稀なのでたかをくくって9:30ころ来たら、案に相違してすでに演奏は始まっていた。しかも、新聞ではC.R.VYASが最初のはずなのに、大御所ビーンムセーン・ジョーシの演奏が既に始まっているではないか。

 

"Sur-Sagar"concert

1. Pt. Bhimsen Joshi/Raga Bihag, Khamaj, Bhairavi

 Bhimsenは期待したほどではなかった。Bihag,Khamajは軽すぎる。当初は深夜の予定だったので、Darbari Kanaraが聞けるかと期待していたのだ。

2. Pt.Hariprasad Chaurasia+Rakesh+Anindo /Raga Jinjoti-Rupak, Hariprya

 Jinjotiはきれいだったが、装飾過多のような気がする。以前に聞いたものがずっとよかった。ラケーシュの伴奏は控えめでよい。ラケーシュの音はスムーで、かなり腕を上げたと思われる。Anindoのタブラー、PAの関係かトレブルが強すぎる。金属的な固い音が気になったが、演奏内容そのものには風格が感じられる。Haripryaは最初分からなかった。Vachaspatiばっかり思っていた。後でRakeshに聞いて初めて判明。演奏はスピードが速すぎてあまり良くない。Anindoのタブラーソロで演奏が終わってしまい、尻切れとんぼになった。フランソワやカトリーヌと楽屋へ行く途中でサティーシュに会う。抱きついてきた。

3. Pt. C.R.Vyas/Raga Jogkauns-Ektal, Sitarkhani

 フランソワは、Vyasの声が嫌いだからとどこかへ行ってしまった。確かに、それほどよいとは思われない。ただ、後ろの弟子たちと曲の後半を歌うときの雰囲気は心地よい。ラーガの選択はよくない。声ではうまく表現できないのではないか。楽器のほうがよい。

4. Pt. Shiv Kumar Sharma+Zakir(+Satish)/Raga Ahir Bhairav-Mattatal, Tintal/Folk Song-Pahadi

 シヴジーはいつもよい雰囲気を持っている。ただ、サントゥールの限界はあるが。シヴジーはその限界をよく知っている。かなり長めのalap,jod,jhalaだった。ZakirのMattatalは、dhin tirakita dhin na ti na dhin dhin na とやっていた。9拍の中でTintalをやったのには驚いた。スピードはもちろんだが、テンポをどんどん変化させていくやり方はZakirの特徴だろう。速いテンポのときの2人のやり取りはやはり興奮させる。シヴジーの意図を瞬間的に予測する技術はZakir以外できないのではないか。

 朝5時過ぎに演奏が終わり、楽屋へ行く。楽屋周辺はすごい人。とにかくザキールに会い、スケジュールを知らせようとするがそういう雰囲気ではない。とりあえずFaxで知らせることにして、ファザルから番号を聞く。楽屋にはShafatもいた。今月日本へ行くんだろう、というと、向こうは寒いかと聞く。ムチャクチャに寒いから気をつけろ、と脅かしておいた。Zakirはカルカッタへ行くといっていたのでまた会えるかもしれない。フランソワとカトリーヌが家までわれわれの車に乗せてくれというので4人でゲートへいったがマヘンドラがいない。「あいつ、帰りよったかなあ、わしらがあんまり出てけーへんから」池田さん。しかし、われわれが出口を間違っていた。出口を探していると、シヴジーたちがいた。挨拶する。弟子の宮下選手の姿も見える。ときどき日本人らしき男もいた。帰宅したのは7時ころ。

 

1月14日土曜日

 2時くらいまで寝るが、頭は冴えていた。午後4時からレッスン。レッスンには、フランソワ、カトリーヌ、 Ru (イギリス), Peter(アメリカ、シカゴ)-tablawala, Prya+Suchi, インド人男。Madhuvantiを練習。Peterはアララカにタブラーを習っている。レッスン後、外人だけで近所の食堂で軽食。タクシーでフランソワと帰る。途中、フランソワの家によって夕食(アル・ゴービー+ご飯)。11時ころ帰宅。池田さんは日本人会の新年会で同じ時刻に帰宅。

 フランソワは、15年ほど前、最初バナーラスにきてアラウッディン・カーンの弟子のサロード奏者に会い、インド音楽を始めた。その男とビハールの村で3年住む。マドゥの父親?。その後、バーンスリー習いたくてアラハバードのボラナートのところへ。5年ほどいた。そしてハリジー。自分は女だからハリジーとはちょっと距離を置くようにしているとのこと。プラバデヴィの家は広々として清潔。月9000ルピーで借りている。母親の援助、パリにときどき行ってバーンスリーを売ったり、教えたり、演奏したりして生活しているという。それにしてもここまで彼女をつき動かしているのはなにか。

 

1月15日日曜日

 9時過ぎに起床。池田さんは既にゴルフへ。朝食は、きつねどんべえ。11時まで練習。練習後荷造り。テレビを見たりCDを聞いたりして時間をつぶす。1時すぎに池田さん帰宅。おこのみ焼、先日のおでんの残りの昼食。2:30PM、ラグーの運転する池田車でサンタクルスの空港へ。空港も結構近代化されてきた。5時に離陸。7時過ぎにカルカッタ空港着。

 カルカッタの空港も一新されていた。エスカレーターがある。タクシーの乗り方が分からず、しつこく勧誘するアンチャンの車に乗ることにする。150ルピーで話しがつく。バッチューには100以下だと聞いていたが、仕方がない。同じボンベイからの老夫婦が同乗。随分ぐるぐる回ってようやくバッチュー宅へたどり着く。バッチューは、パビットロの家の近くでコンサートをしているので不在。お姉さん(よく似ている) が部屋まで案内してくれる。よい部屋だ。2階でチャイとグラブジャムをよばれる。マタジーは元気そうだ。部屋にいると、長男のヒマングシュがちょっと酔った顔で訪ねてくる。次男のボルンとしばらく話す。12時すぎにバッチューとパビットロがビールをもって帰ってくる。ビールを飲みながら2時ころまでいろいろ話す。小生のコンサートは、17日、22日が決まっており、また23日はレコーディングのあとにコンサートの可能性があるとのこと。新聞にも名前がすでに出ているそうだ。大変なことになってきた。

 

1月16日月曜日

 10時ころ起床。起きたら、アリー・アクバル・カーンのサロードの弟子でバッチューの友人のテージェンドラがやってきた。今回の小生のコンサート主催者。10時半~1時過ぎまで練習。ランチ後、5時ころまで昼寝。バッチューと散歩。ダクリア橋の下を渡ってゴリアハットの商店街へ。途中、日本山妙法寺があった。ここには1972年に一度きているはずだが、こんなところにあるとは思いもよらなかった。周囲は建物が立ち並び、当時を思い出すことは難しい。すごい田舎だったような気がする。しかし、ちょっと歩いただけで大きな公園、ボートコースの池などにわかに開けたところに出る。ドーバーレーンコンサートの開かれるホールも公園内にある。商店街で、絹のクルター・パジャマ・チョッキセット、額に貼り付けるビンディーを購入。アーシシの家を訪ねると、彼はKalighatのほうにいるという。応えたのはアーシシの妹とディアネーシュの奥さん。玄関で話していると、チラッとアリー・アクバル・カーンの姿が見えた。そこでKalighatまでいってみることにする。スクーターでいく。しかし、玄関には鍵がかかっていて留守。明日の演奏会の場所であるBirla Academyの横を通って帰宅。

 

1月17日火曜日

 7時起床。久代さんからの電話。神戸で大地震。本人は大丈夫だが、家の中はメチャクチャ。震源地はなんと淡路島。マグニチュード7.2というのは相当大きな地震だ。コンピュータルを乗せた板もひっくり返り、本は全部棚から落下、冷蔵庫周囲の食器棚が15センチ移動、食器はほとんど割れる。CDも散乱し棚も壊れたという。惨状が目に浮かぶ。神戸大橋は不通。淡路では死亡者も出た。スーパーなども被害が出ているだろうから食事などはどうするのだろうか。「早く帰るなんてことはないよね」といっていたが不安なんだろう。こちらは、バッチューにせっかくコンサートや、レコーディングなどをセットしてくれているのですぐは帰れず、また帰ったとしてもなにもできないからどうしようもない。しかし、ちょっと心配だ。

 外のSTD電話から日本へ電話する。ラジオはどこか、と久代さんが聞いてきた。電気も水道もストップしているとのこと。久代さんにこちらのTVニュースを伝えると、予想以上の大災害なのに驚いている。  今日のコンサートのためにパビットロと練習しようとしたら、タブラーのひもが切れてしまった。そのうち、アビジットのグルバイのアンクシャ?バネルにジーがやってきたので、バッチューのタブラーをB落としてしばらく練習するが、ニュースのたびに下へいってテレビをみる。どうも帰ったほうがよさそうだ。帰国を決心。航空券の手配のためにセントラル・カルカッタの旅行代理店までパビットロと出かける。明日のタイ航空便(TG)を手配してもらう。  

 15:00PMのBBCのニュースによれば、1000人の犠牲者。三宮あたりのビルが倒壊している。阪神高速が完全に崩れ落ちた。火事が続いている地域もある。 

 池田さん、佐々木さん、ハリジーと連絡をとる。10時すぎからは日本と連絡がとれなくなっている。 池田さんも、家族と連絡をとれない状況だ。日本からの電話は受けることができる。12時ころ、東京の人から久代さんに電話できたらしい。元気とのこと。丸紅のシタール課長、大平さんも連絡をとろうとしたらしい。とにかく、明日のTGでカルカッタをたてば明後日の朝には神戸に着けるだろう。87,000円は痛いがそんなことはいっていられない。ボンベイへのチケットはキャンセルする。

 BIRLA ACADEMYでコンサート。客は少なく、60人ほどか。

1.Debashish Ganguly/Sitar+Subhen Chattarjee(Tabla)/ Raga Hemant

2. Nakagawa Hiroshi+Subhankar Banerjee/Raga Vachaspati

3. Amit Roy+Subhen Chattarjee/Raga Kaushiki

バッチューも小生も、地震報道の映像がちらつき演奏に集中できない。また、小生は、右手中指のじくじくがひどくなり、笛をもつと痛むようになった。ホメオパシーの医者で小生のタンブーラーを弾いてくれたDr. Moitraに薬を処方してもらう。

 

カルカッタから神戸へ

(神戸に着いてから書く/一部記事が重複しています)

 

1月17日火曜日

 カルカッタのアミット・ロイ宅で朝7時に久代さんからの電話で地震を知った。

「すごい地震が起きたの。震源地は淡路島っていってた。とにかく家の中はムチャクチャなのよ。本棚は全部倒れて足の踏み場もない。食器棚は15センチくらい移動し、ほとんどのお皿が飛び出してほぼ全滅。電子レンジの中の回転するガラス皿があるでしょう、あれがいったん外へ飛び出して扉がまた閉ってた。コンピュータを乗せている板もひっくりかえった。こわあーい。帰ってこれたらいいのになあ」

「とにかく無事なのね。ただ今日も僕の演奏会があるし、アミットがいろいろ予定を組んでくれているので、まあ、ちょっと様子を見るっていう感じだなあ」

 前の晩遅くまでおしゃべりをしていて充分寝ていなく、まだ頭が完全に働いていないのでそっけない返事になってしまった。

 アミットにこのことを話してすぐ階下にあるテレビニュースを見た。BBCアジアのニュースから流れる画像は、まるで戦場のようだ。マグニチュードは7.2いう(ちなみに英語では7.2 on the Richter scaleと書かれていた)といっている。また、既に死者が200人出ているという。この時点でも、とにかく無事だということだし、そんなにたいしたことはないかと、そのときは思っていた。久代さんの無事を知ったし、帰国してもどうなるものでもないかと思っていた。しかし、そっけない返事が気になったりもう一つ事情が飲み込めないので、アミット・ロイの家の近くの道路沿いにある直通電話屋(STDという看板がかかっている)へ行き電話をする。

「とにかく大変な地震みたい。人が何人も死んだみたい。ところでラジオは家にあるのかなあ。あるとすればどこにあるの」

「ステレオの左下の棚にある箱に入っているはずだよ。でも、本当に大丈夫」「うん、今のところはね。でも停電してるし、こわい」

「すぐ帰るかどうか、ちょっとこっちの様子もみて考えるよ。また電話します」

 電話から帰ってくると、アミットの兄弟たち(ボルン、チョターバッチュー)その家族、マタジー(お母さん)、パビットロなど全員がニュースの時間になると2階の部屋に集まりBBCを見る。ニュースのたびにどんどん悲惨さ程度や死者の数が増していく。それに比例して不安になり、また電話してみようと思った。アミットの家からは直接海外にかけられないと聞いていたが、実はいろんな人間が勝手に長距離電話をかけるのを防止する意味でロックしてあるのだという。そこでチョータ・バッチューの3階の部屋へ行き、そのロックを解いてもらった。ある暗号番号を打ち込むとロックは解除されるのだ。久代さんへ電話を試みる。ところが何度かけても、英語にひきつづき日本語の「こちらはKDDですが、今の時間帯は大変混み合っておりますので後ほどおかけ下さい」という録音メッセージが流れるのみ。この状態はその後なんど試しても変わらず、神戸の様子が心配になってきた。バッチューやパビットロも非常に心配してくれて帰国を促したこともあり、帰国することに決心する。ボンベイの池田さんに電話すると、

「ああ、中川さん。いやね、中川さんのそっちの連絡先を聞いていなかったのでどうしようかと思ってたんですよ。関西は大変なことになっているらしいね。こっちからの電話は全然通じないしね。ただ、さっき東京の会社から電話があって、お宅へも電話できたらしい。無事だといってましたよ」

「池田さんのご家族はいかがでしたか」

「多少ものがこわれだくらいで大丈夫とのことでした。まあ、大阪はたいしたことはなかったらしいが、神戸はすごいことになっているらしい」

「そのようですね。で、私も帰国しようと思っています。お宅にちょっと荷物が残っていますけどそのままにしてカルカッタから帰ろうと思ってます」

「そうやなあ。こっちのことは心配せんでもええよ。父さん(配偶者のこと)も一人で心細いやろ」

 カルカッタ時間15時のニュースでは死者の数はすでに1000人になっていた。その日は、BIRLA ACADEMYで小生やアミットの演奏会の予定になっていた。小生にとってはインドで初めてのおおやけのコンサートで、前の晩は緊張していたのだが、地震報道ですっかり練習ムードはふっとんだ。久代さんへ電話が通じた後、パビットロと練習しようとしたら、タブラーの皮ヒモが切れてしまい実際できなかったのだが。この日のコンサート以外にも、アミットは小生のコンサートを4つ、レコーディングなどのスケジュールを決めていたが、全部中止せざるを得ない。

 帰国決定としてからの行動は迅速に進んだ。まずパビットロとカルカッタ中心部にある旅行代理店へ行き、明日のタイ航空大阪行きを予約。大韓航空のチケットのキャンセルはカルカッタでは難しいとのこと。また、1月30日のボンベイ行き国内航空便をキャンセルする。

 その日の演奏のデキは不満だったが、主催者のテージェンドラや他のミュージシャンからは「神戸の地震は本当に気の毒だ。地震という精神的なプレッシャーがありながらよい演奏だった」と変な褒め言葉をもらった。            

 久代さんに帰国のことを伝えようとするがどうにもならない。池田さんに再び電話して東京から電話があったときに東京の人から伝えてほしい旨を乞う。

1月18日水曜日

 朝起きると、去年日本で演奏したアビジットがきていた。ベンガル語の新聞にも一面で「ブミコンポ日本を襲う」と大きく報じられていた。その日も日本へ電話を試すが通じなかったが、向こうから電話がきた。ポートアイランドは孤島になったが電気はきているという。神戸大橋は車は通れないが自転車やバイク、徒歩でならいけるということ。「できたら食料とか水、目薬を買ってきて」といっていた。アミットの家の人は、ここで食料をトランクに積めていったらといってくれる。アビジット、パビットロ、バッチューと空港へ向かう。

 13:55PM発のTGでまずバンコクへ出る。

機内で「バンコク・ポスト」を読む。それには、一面トップで「1,590 killed as massive quake strikes Japan」とあり、炎上する民家を背景にフロントガラスが壊れた白い自動車を3人くらいで押しているものと、阪神高速が斜になっている写真が紙面のほぼ半分を占めて掲載されている。普段は、英字新聞は見出しをさっと眺める程度だが、地震関連の記事は全部丹念に目を通した。タイ時間6時ころバンコクに到着。寝不足かつ風邪気味もあり頭が痛くからだも重い。大阪出発便は23:58PMである。CNNのニュースではすでに死者は3000人と報じている。日経新聞(250円もする)を購入して読む。大阪からきたというリース会社の社長さんが、心配だ心配だ電話があかん、と小生に近付いてくる。社員のうち200ほどが阪神間、神戸にいるという。「葬式なけりゃいいけどなあ」と何度もつぶやく。待っている時間はいらいらするほどゆっくり進む。だだっ広い空港内は、現実感が感じられない。近眼が進んだのか、文字がぼやける。

 定刻通りにバンコクを離陸。わりと空いていて中央座席4つ分を占領し横になって寝ることができた。

 

1月19日木曜日

 早朝7時に関西空港へ到着。サムソナイトが壊れているのを係の人に訴える。実はインド国内航空に乗った時に手荒く扱われて一部割れてしまっていたのだが、そのことをアビジットにいうと、日本に帰ってから訴えるとなにかしてくれる、ザキールなんかいつもそれをやっている、といったので小生も一応いってみたのだ。すると、ちゃんと修理してくれるという。いってみるもんだ。それにしても、関西新空港の立派さには改めて驚く。カルカッタ空港も昨年改築され、エスカレーターまであるのにはびっくりしたが、関空の立派さは別世界のようだ。

 なんなく入管を通過して案内所に行く。案内所によれば、11時にポートアイランド行きの臨時船が出るとのこと。関空から大阪へでるルートは、阪神間の混乱のためいつ行き着けるかと心配していた。久代さんに空港でシャワーを浴びてきたほうがよいといわれたが、いったん税関を通ってしまうとシャワー設備はない。また、食料や飲料水を売っているローソンがあるそうだが、臨時便は先着順だというので船乗り場までまず移動と思い購入は断念した。カルカッタでは、食料品その他の購入のためにトランクをスカスカにしてきたのだが仕方がない。

 船乗り場までバスで移動。対岸の神戸ではとんでもないことになっているというのに、売店は平常通り営業している。てんぷらうどんを食べる。冷凍のものを戻したもの。味はまあまあだが、500円は高い。伊久さんと世間の震災対応を話す。彼女は、須磨にいるおばあさんをを訪ねることになっていたが、アクセスできないので持ってきた物資をわが家に置いてすぐ東京へ。公衆電話から久代さんに着時間を報告。2度目にかけると留守だったので、カメラマンの藤原さんに連絡。寺原太郎と林百合子が、兵庫駅の家から200メーターほどのところまで火事が迫ったため退去させられ、藤原宅に一時避難しているとのこと。久代さんがいないのですが、というと、おそらく水の配給か買物の列に並んでいるのだろうといっている。

 夜は津村宅で宴会。太一とセッション。

 

1月20日金曜日

 朝、市民病院前に止まっている給水車に並んで水をもらう。ポリタンクがないので圧力鍋、ペットボトル、冷蔵用水タンク(いつもは濃縮だし汁用に使用)など。途中、人品卑しく見えるやからがポリタンクを2000円で売っていたが、ばーろー、と心で叫び通り過ごす。ドイツにいる植松奎二さんのご両親の安否の確認と、自宅半倒壊で事務所に寝泊まりしている建築家の林さんを訪ねるために三宮経由で再度筋まで往復する。都合5時間ほど歩いたが、普段の運動不足のために足が痛い。三宮はまったくすごいが、ちょっと離れると、ラーメン屋が開いていたりで、その落差に戸惑う。この日は近所の津村家で難民宴会。津村家は次の日、高槻の関西気功協会事務所へ避難するという。

 

1月21日土曜日

 安否を気遣う電話が少しずつつながり始める。この日何をしたのかよく覚えていない。高槻へ避難する津村家を荷物と共にK-CATまで車でおくる。「地球のきもち」用原稿渡す(冒頭の「震災の三宮を歩いて思ったこと」)。徳山さんから「今、尼崎やけど、これから中川君のところまでいくで。なにが欲しいかいってくれ」との電話。カセットコンロと大量のボンベを9時間かけて深夜にもってきてくれる。本当にありがたい物資で大感謝でした。「朝帰りやな」と徳山氏、徳山氏の弟さん、原田さんがとんぼ返りで大阪へ。

 

1月22日日曜日

 明石の久代さんの実家へ風呂と洗濯にいく。高速が使えないので三木周辺に迂回する。道がよく分からないので、神出(かんで)の実家へ風呂にいく藤原車の後をついていく。途中、事務所疎開の林英雄家を訪れる。

 

1月23日月曜日

中川博志生誕45周年記念宴会/場所/NADI(六甲)。寺原太郎、林百合子、バイク便で大活躍の佐久間新(今回彼には大変お世話になる)

 明石から神戸へ。明石の魚の棚で鯛を買う。そこで数年ぶりに橋詰さんと会う。いったん須磨にある久代さんの会社へいく。とんでもない渋滞。天藤さんの事務所により、誕生祝いの焼酎、あの、幻といわれた「森伊蔵」をもらう。NADI川崎家に行き、そのまま川崎宅に全員宿泊。なかなかの誕生パーティーなのでした。

 

1月24日火曜日

 川崎家から帰宅。この日なにをやったか覚えていない。佐久間ライダーにもってきてもらったマックの新しいケーブルによって、わがマックは死んでいなかったことが判明。 

1月25日水曜日

 救援物資の搬送、というのが仮で本来はこの震災のありさまを観察しておきたいという目的の中川真さんが、ポリタンク、千枚漬け、かに味噌、キムチ、ふえるワカメなどを背負い、紺のヘルメット姿でやってきた。NADI小林嬢も実家の奈良から真さんと合流してやってきた。われわれは、そのまま西明石へいくつもりで車で新神戸まで向かう。真さんは、地震のときベッドから転げ落ち足に怪我したのだから立派な被災者であり、当時カルカッタにいた小生には勝っているなどと誇らしげに傷跡をめくってみせる。NADI川崎家で「救援物資」の披露のあと、全員でJR六甲道周辺に行く。駅北側の火災のあったところは、まるで空爆にあったようなありさま。写真などでしか知らない戦争被災の状態が現前した感じだ。駅の南へ行き、家が徹底的に倒壊した写真家の森田さんと会う。「少なくともベンツ500くらい買えるほどのカメラ資材もフィルムもみなパーや」とやつれた声で呟く。幸い家族の人たちは無事だったものの、これからが大変だ。
 真さんらと別れ、明石へ向かう。ややこしい裏道に迷ってしまい、結局3時間もかかって実家に到着する。 

1月26日木曜日

明石から神戸へ。ポリタンクを探すが、どこも売り切れ。すごい渋滞で、車であちこち移動するのを反省する。

1月27日金曜日 なーんもせず。ひたすらマックと水くみ。

1月28日土曜日 なーんもせず。ひたすらマックと水くみ。

1月29日日曜日

 裏六甲にあるラブホテルへ行き風呂に入る。工事関係の車も駐車してあり、この種の宿泊施設を利用するのは「その」目的だけではないようだ。

1月30日月曜日

「誕生日のプレゼントもってきました」といって寺原太郎と林百合子がポリタンク2個を持ってくる。創価学会からもらってきたという。なによりのプレゼントだった。水くみにいくとき、ポリタンクを持っている人たちを羨ましげに見ていたのでした。

1月31日火曜日

なーんもせず。ひたすらマックと水くみ。

2月1日水曜日 久代さん、会社へ。

2月2日木曜日

 佐久間ライダー、新しい電話機を配達にくる。佐久間ライダーのお父さんからの話というのがおもしろかった。お父さんは、鍼灸の学校でも教えているそうで、そこで話されていた話である。今回の震源地は、工事中だった明石海峡大橋のあたりなのだが、地震の原因は橋脚部の下にある地球のツボを刺激したからだ、というのだ。ジーベックの下田さん、森信子さん、寺原太郎とで宴会。津村家、高槻から帰還。太一の学校が始まったのだ。津村家からも宴会の誘いがあったが、わが家で宴会。津村家には、東京から中野民夫選手がくることになっているという。

2月3日金曜日 この通信のため一日中家でマック。

 

◎これからの出来事◎

 本来この時期はインド音楽農閑期なので特別な予定はないのです。5月から6月にかけてのアーシシ・カーン+ザキール・フセインの日本公演の予定を以下に書いておきます。ジーベックは、アクセスの問題でキャンセルになるかも知れません。

5月28 日(Sun)仙台サンプラザホール

  31日(Wed)ラフォーレ赤坂(未定)

6月 2 日(Fri)武生市文化センター(福井県)

  3 日(Sat)水口JAホール(滋賀県) 

  4 日(Sun)ジーベック(未定)

  6日(Tue)アイリスホール/東京葛飾区


◎サマーチャール・パトゥルについて◎

サマーチャールはニュース、パトゥルは手紙というヒンディー語です。個人メディアとして不定期に発行しています。

編集発行発送人/中川博志
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