「サマーチャール・パトゥル」18号1995年7月20日

 今年はそれほど暑くはない夏のようですが、暑中お見舞い申し上げます。長らくご無沙汰しております。皆さん、いかがお過ごしですか。

 前回の「阪神大震災特集号」発行からすでに半年近くたってしまいました。それにしても今年はいろいろと大事件の起きる年ですね。地震、乱脈経営信用組合、都知事選挙、オウム、円高、サリン、日米貿易摩擦、青酸ガス、ハイジャック、フランスの核実験再開、サハリン地震、ソウル三豊デパート崩壊などなど。個人の活動を凌駕する勢いでこうした事件が発生するので、いつものようにわたしの周辺でここ半年に起きたり考えたことを一方的に告知するこの通信にも、こうした世間の大事件が大きく影響しています。つまり、加齢的物忘れシンドローム状況はあるにせよ、大事件情報の消費活動に忙しくて、個人的な些末な出来事の記憶を呼び覚ますことが困難になったことです。なにか、じっくりと内省するゆったりした時間が持てなくなるような世間のせわしなさであります。これでもかこれでもかとセンセーショナルな情報の消費に慣れてきて恐いのは、少々のことではたまげなくなり、しかも、なにも情報のない状態が退屈でもっと過激な事件情報を待望するようになることです。現にわたしは、この間のハイジャックが、なにか国際的陰謀やテロリズムといった「立派」な背景を内心期待したのでありましたが、さえない銀行員の稚拙な衝動であったと知ってちょっとがっかりしました。人質になった人たちにはお気の毒だとは思いますが、「立派」な背景であれば事件は長引いたであろうし、事後に現れるであろう新事実の情報があればニュース消費的わくわく感はもっと持続したのになあ、などと考えるのでありました。

◎かくして知恵は去った◎

 以前からものを食べるときにうずいていた親しらずの虫歯が、5月26日から6月11日までのアーシシ・カーン日本公演の途中から猛烈に痛みだし耐え難いほどになりました。読者の中には舞台で瞑目しながらタンブーラーを弾いているわたしの姿を見た人もいると思います。タンブーラーという、まあ、だれでも弾ける楽器は、通常は主奏者の旋律をじっくり聴きながら眠気をこらえつつ音楽の煙に包まれて演奏するものです。退屈きわまりないと同時に瞑想できる楽器です。ですから、ツアー中の舞台上のわたしは「音楽に浸っている」姿として聴衆には映っているかも知れません。しかし、実は右頭内部全体を持続的にひっかきまわす強烈な痛みに耐える苦悶と闘う姿だったのであります。瞑想どころではないのだ。

 そこで、ツアーの終わった10日後の6月21日、神戸中央市民病院にて親しらずを抜いてもらいました。と簡単に書きましたが、抜歯にいたる細部の工程を想像するだけですっと血の気が引くほどの対人体被切開打撃出血過敏症の小生は、虫歯は痛むものの手術を受ける決断をぐずぐずと引き延ばしていました。かかりつけの森寺歯科医師は、うちでは苦労の割に収入の少ないことはやりたくないもんね、楽して金儲けたいもんね、という顔をしつつこう宣告していたのです。「あなたの親しらずは、ほら、ここんとこが奥の方で曲がっているでしょう。この曲がりっぱなの横から虫がくっているんですよ。困りましたねえ。麻酔注射を打つと気分が悪くなるというし、この状態では神経をクスリで殺して処置するにも難しい。困りましたねえ。親しらずは大きいしねえ。基本的には抜くしかないんだがあ、ウチでは難しいな。市民病院とかの大きな病院で抜いてもらった方がいいですよ」  レントゲン写真を見ると、たしかに露出部分のところで勾玉のように奥にひん曲がっていて、とてもストレートにあっさりと抜けるような姿ではなく、麻酔注射数発、歯茎切開、トンカチ状器具による打撃分断、などというありさまがありありと想像されたのでありました。

 抜歯忌避願望と歯痛とのバランスが崩壊したとき、非常に憂鬱な気分で市民病院へ予約をしにいったのが抜歯の1週間前。とりなおしたレントゲン写真を見たまだ若いアンチャン風の医師は、「鼻の後ろに空洞があるのですが、そこに穴があく可能性があります。注意してやりますけど、もちろん」などとおっしゃる。わたしは一瞬、最悪の状態を想像して暗澹たる気持ちになりました。予約から手術までの1週間の悶々とした日々は容易に想像できることと思います。                  ところが、抜歯は想像以上あっさりと終わってしまったのです。トンカチによる分断もなく、メリメリという感覚がしたかと思ったら、はい、終わりました、なのでありました。抜いた後、高圧のノズルから水を噴射した医師は「水が鼻へ抜ける感じはありませんか」などとうれしそうな口調で聞く。残念そうともいえる。わたしは、んがんがしながら頷きつつ「ありまはへん」と答えたのでありました。もちろん決して気分の良いものではありません。でも、これで虫歯はすべてなくなり元のようにバリバリ食べれるのですから、永続的な苦痛に悩むよりは、多少の気分の悪さは我慢せざるを得ませんでした。

 その抜歯以来、どうも集中力に欠け、なにをするにも怠惰な気分が抜けません。国際謀略ミステリーは読めても、ちょっと頭を使う本も読めません。運動不足な割に食欲のみが馬鹿に旺盛で、書き物をしようとするととたんに眠くなる。腹部脂肪蓄積活動と頭脳思考活動は反比例的に進行しているかのようであります。また、なんでもないときに頭をぶつける。車に乗り込むときにも天井に頭をぶつける。もっともこうした傾向は今に始まったことではありません。ともあれ、なにか、平衡感覚というかピンが抜けて全体の崩壊が始まったような気がする。今回の抜歯で、4本あった親しらずがすべてなくなったことになりますが、親しらず歯のことを英語でwisdom toothということを知り、そうだったのかと納得したのです。わたしにはもうwisdom=知恵がないのでありますね。困ったことになりました。

 ◎このごろの神戸◎

 かつてわれわれがよく食べに行ったり飲みに行ったりしていた店がまだ健在なのかを注意しながらときどき街に出かけています。正しくおいしい酒の飲み方にこだわる「苫屋近安」、やすくて美味しく夜中まで開いていて名前が良い中華料理屋「天竺園」が場所を変えて開業、ママの愛想は悪いがベトナム風春巻きが絶品の「鴻華園」、地震の時に「お汁を作ってみんなにふるまったよ。僕もポランティアしとるんよ」のスケベ寿司オジサンの「安兵衛」も無傷で健在、岩崎咲子さんのインド音楽茶屋「あしゅん」は開業準備中、ゲイロードは、ポートアイランド店を完全にたたんで北野町で再開、ふくふく典子さんのガンダーラは近々再開を目指して出張出店で頑張り、などなど再開ないし近々再開の優秀店もあるものの、人ひとりやっと通れる路地の奥にあったトランプ占い婆さんの「五十鈴」も、その隣の「むぎとろ」の界隈は完全に更地と化し、よっちゃん+和尚の「あーすくわれ」は閉店し、ライブハウス「チキンジョージ」のビルは丸ごとなくなり、と数え上げればきりのないほど閉まってしまった店もあります。ここ神戸では、世間がオウムやハイジャックや参院選挙や日米貿易摩擦やらで賑わっても、人々の話題は依然として地震なのです。われわれのポートアイランドも、いぜん電車が通らず、内地と結ぶ神戸大橋が常に渋滞し出かけるのは難儀です。「この建物は絶対大丈夫」といばっていたわが神戸市役所の高層新庁舎は、最上階で20センチも傾いているそうです。ともあれ、われわれの日常生活はほとんど震災前と変わらないのですが、神戸の街が目に見えて「復興」に向かっているのか、なんともいえません。

 最近の報道などで伺える行政主導による神戸の復興計画を見ていると、だんだん憂鬱になってきます。大げさにいえば、あの大震災はわれわれに根源的哲学的な問いかけを提供したはずでした。つまり、生き生きとした生活とはいったい何か、幸福とは何か、そうした生活のための都市環境はどうあるべきか、などなど。病気をして始めて健康を意識したり、正しいからだのありように気づくように、今回の地震は、個人的生活が決して単独では成立し得ない都市の健全さとは何かを考えさせたはずでした。しかし、あれから半年になった今、われわれの神戸は地震以前となんら変わらない道を再び歩き始めているように思えます。付近住民の生活の考慮を除外して建設された国道43号線と阪神高速はさらにガチガチに再建されるという。また、行政は神戸空港の建設をあきらめない。どうも方向は、都市生活のありようを根本的に問い直すのではなく、従来にもました開発優先型復興計画によって市民は寄り切られる模様です。そして市民側からの提案はあまりに無力に見え、それぞれのエゴだけが鋭く対立しているような感じです。今後、以前にもまして大プロジェクトがどんどん推進される模様ですが、これまでのようなモノやシステムを追加する方向では、再度の災難にあったときもっと錯綜した形で被害が現れるに違いない。それはちょうど、お腹がいっぱいで苦しくなったのでなにかすっきりしたものをさらに食べるとか、都市のエアコンによる放熱で大気温度が上がるのでさらにエネルギーを費やして個々のエアコンの能力を上げるというような自己矛盾の拡大の方向といえます。震災後の一時期、たしかにみんなが学習したはずの色即是空空即是色的発想も、日常のエゴが復活するにしたがいあっさりと忘れさられ、あれも買えこれも買えと世間はうるさくなってきました。モノを捨て去ることと物質的「成長」は矛盾するのかも知れないが、人間社会の「成長」とは矛盾しないはず。でも人間はやっぱり何も学習できないのだろうか。モノやシステムを新たに追加して解決を図ることよりも、物事をそぎ落とすことの方がずっと重要なのではないか。何回壊れてもすぐ立ち直ることのできるハードウェアーとしなやかで柔軟なソフトウェアーこそ必要だと考えるのであります。とりあえず、わが家では必要とされている以外、モノをこれ以上増やさないこと、なるべくゴミを出さないことを心がけるしかないようですが。

◎これまでの出来事◎

■2月7日火曜日/宴会/中川真+真サンのオンナトモダチ(タイ舞踊をやってる女性です。名前を失念しました)+川崎義博+釜仲ひとみ+下田展久+森信子+山崎晃男                    

 震災後にわかに増えた宴会の一つでありました。どういう料理を出したのか、どのような盛り上がり方をしたのか、実はほとんど忘れてしまいました。釜仲ひとみさん、通称カマチャンは、ニューヨークを本拠に活躍している映画作家です。今回は、岩波かどこかが製作する映画のために神戸に来ていたのです。避難所の医療ボランティアの活動のドキュメント映画を製作しているとのこと。    

 ついでに、この通信のはざまにあって欠落してしまった昨年12月25日の丹後蟹蟹づくし宴会について、中川真さんの特別の要請もありここでちょっと触れておきたいと思います。場所は、丹後の鈴木昭男宅でした。ベルリン在住の鈴木さんと淳子さんの留守の合間を縫って勝手に家に上がり込み(勝手に使用することについては了承済み)、最近とんとおめにかかることのなかったカニを死ぬほど食べてみたい、もう、いや、というほど食べたい、われわれの仲間ではもっとも儲けていそうな真さんにカニ代を出させたい、ということで企画されたのでありました。出席者は、わたしたち夫婦とNADIの川崎さんに真さんの同伴のガールフレンド2名でした。寒い寒い丹後の地でうんざりするほど食べたカニは忘れられませんが、わたし以外の人たちには、わたしが酔っぱらって臀部を露出したという忌まわしい事実が消し去りがたい強い印象を残したようであります。この種の出来事の広報には極めて精力的な真さんによって、この事実は証拠写真とともに広範な人々の知るところとなり、家を勝手に使われた鈴木夫妻はもとより、先日ツアーで訪れた仙台の牛タン屋の親父ですら「ああ、例のシリを出した人ですね」といわれるほどでした。というのは真っ赤なウソです。

■2月9日木曜日/ガス供給再開

■2月11日土曜日/駒井家葬儀/配偶者の妹の旦那である駒井幸雄さんのお父さんが亡くなりました。葬式の香典管理係というものを初めてやりました。どんどんとやってくる香典袋からお金を取り出し、名簿と金額をつき合わせて記録する係りなのです。パワーブックが大活躍なのでした。

■2月17日金曜日/半日人間ドック/神戸医師会館  

■2月22日水曜日/水道復旧           

■2月26日日曜日/パーカッショングループ「飛天」来神ゲリラ公演/湊川公園

「飛天」とは、大鼓の大倉正之助さんが組織した多国籍パーカッショングループです。メンバーは、アメリカ人ジャズドラマーのジミー・スミス、韓国人パーカッショニストのキム・デファン(金大煥)、中国人パーカッショニストのモン・シャオリン(孟暁亮)。それに全身レゲエ風カメラマンの仁礼ヒロシさんが同行。得意のバイクを駆使した震災救援ボランティアとして活躍している大倉正之助さんは、キムさんの強い希望で完全ボランティアの演奏支援を決めたということです。93年のハリジーのソウル公演でお世話になった徳山さんから、「彼らのホテルを探してくれ」という依頼でこのグループと関わるようになりました。キムさんとは、ソウルの自宅へ伺ったりで知り合いだったこともあります。

 わりとがらんとした寒い小雨の湊川公園には、自衛隊のトラックやボランティアのテントが散らばりいかにも被災地の観を呈していました。それでも彼らが演奏を始めると少しずつ人が集まりだしました。聴衆は50人くらいだったと思います。わたしは、キムさんのビデオカメラで撮影をしていました。打楽器だけのグループの演奏を聴いていたホームレスとおぼしきオッサンは、「なんや、歌ないんかいな」といいつつぼさぼさの頭を掻いていたのが印象的でした。わたしは、震災がなくともこうした音楽家たちがどんどん神戸にやってくるなら、どんなに神戸が文化的か、などと思いつつ彼らの演奏を聴いていました。そして、音楽家と聴衆の幸福な関係、つまり、演奏したいと思う人間と演奏を聴きたいと思う人間との通常の幸福な関係ではない、いわば演奏したいと思う人間の側の一方通行的あり方に若干疑問を感じると同時に、相手とのコミットメントを排した音楽家たちの「喜捨」行為の素晴らしさも感じるのでありました。こうしたボランティア救援コンサートは神戸各所で行われていました。外からやってきた音楽家たちが震災に関わりなくノーギャラででも神戸に行って演奏したいと思うような神戸になったら最高ですよね。それには、ずっと打ちひしがれた、同情を誘う状態を維持するのも一つの手ですが、あそこへ行けば自分の音楽が自分の願望通りに受け入れられるという、受け入れる側の文化受容環境を作っていかなければならないと思います。そこに単なる商品としてではない音楽の作り手と受け手の幸福な関係が初めて生まれるのではないかと思います。

■2月27日月曜日/「飛天」ゲリラ公演/明親小校庭「飛天」の2日目のゲリラ公演でしたが、体の芯から冷え込む校庭に集まった聴衆は子供たちを含めても20人ほど。当初は、自衛隊の救援物資の配給を受ける人々に聴いてもらえたらと「ちびくろ保育園」ボランティア基地で演奏をするために楽器のセッティングもしていたのでした。しかし、「太鼓の音を聞くと地震の恐怖が蘇るから止めて欲しい」という意見と、震災犠牲者の合同慰霊祭がちょうど隣のお寺で行われていたこともあり、明親小学校校庭のみということになりました。演奏を終えた後、長田のパクさんの店にいって焼き肉でも食べようと行ってみましたが、あいにく閉まっていました。長田には上田さんという大倉さんの親戚がいて訪問しました。上田宅は震災による被害も少なく、一見普通に見える住宅に完全な能舞台があるのにはたまげました。能の家元にはたいていこうした舞台があるものだそうですが、一部焼け野原と化した長田にひっそりと能舞台は健在だったのであります。

■3月12日日曜日/オーガスタプラザライブ/田中理子:タブラー、岸下しょうこ:タンブーラー、中川博志:バーンスリー他

 当初はいわゆる「震災救援コンサート」のはずでしたが、どうも各種の誤解の蓄積によって「百貨店救援コンサート」になってしまったようでした。風の楽団の慧奏さんから最初に話があったときは、被災民である神戸の演奏家に演奏の機会とわずかながらの金銭的な支援を行う、という主旨でした。ところが実際は、震災によって休店を余儀なくされていた神戸のハーバーランドのデパート、オーガスタ・プラザ再開景気づけのような形になってしまったのです。というわけで条件としては最良というわけではなかったのです。買い物客のノイズ、各店舗からはそれぞれ異なったBGMが流れ、そのBGMもわれわれの演奏の時ですらなり止む気配をみせず、特設舞台の横ではオバサンが電気掃除機をうならせながら掃除に余念がない、といった状況なのでありました。    
 今回のようなコンサートにかぎらず、震災後の神戸ではチャリティーや救済と銘打ったコンサートが各所で行われたのですが、全体に誰を救済するのかはっきりせず、かなりイメージ的に使われていたような気がします。本来の意味で「救援」コンサートを催すのであれば、主催者、音響・照明などの舞台スタッフ、出演者がその主旨を理解し同一の条件の元で共同してつくりあげるものだと思います。しかし、どうも出演者だけがノーギャラで、それでいて音響・照明費用には業者の請求通りに対応していたりで、フェアーではないものも多かったのではないでしょうか。出演者がノーギャラであるならば、当然、音響・照明も、会場費も、主催にまつわる種々の費用もノーギャラでなければフェアーとはいえません。もっともアンフェアーな催しは、震災前後に関わりなくよくあることなのですが。

■3月18日土曜日/神戸AIDジャズライブ/新神戸オリエンタル劇場                 

■3月21日火曜日/麻雀/植松、島末、宮垣

■3月24日金曜日/「阪神大震災救済支援コンサートシリーズ」第1回/トヨタカローラ富雄・奈良/主催:いのちのゆめ・プロジェクト/松本宅泊/中島知晶:タブラー、岸下しょうこ:タンブーラー、中川博志:バーンスリー

 このライブは、先のオーガスタプラザのときのように風の楽団の慧奏さんからきた話でした。聴衆は決して多くはありませんでしたが、気持ち良く演奏できました。自動車販売会社の喫茶店で演奏したのは初めてです。このライブに関わっていたのは、慧奏さんをはじめ、奈良で独自の無農薬野菜八百屋「ろ」の高橋秀夫さん、奈良国立博物館の職員でありながら書家としても活躍している松本碩之さんなどです。打ち上げでいろいろ話を伺っていると、高橋さんは震災後のボランティアで八面六臂の活躍をしている人なのでした。大鼓の大倉正之助さんなどとも知り合いで、本当に世間は狭い。       

 その日は、奈良市内とはいうもののまったくの山間部落にある松本さんのお宅に泊めていただきました。松本さん宅は、本来は建築が規制されている市街化調整区域に強引に建ててしまったために、基本的な行政サービスである水道がなく、毎日水くみをしなければならないのだそうです。普段からインド的、震災的生活なのでありますね。和服を着た奥さん、両脇そり上げてっぺん長髪後ろ髪束ねの息子と朝までいろいろしゃべりました。それで直腸ガンを克服されたという「野菜スープ」の製法を教わりました。これまでそうした類の療法というか健康法には、ほんまかいな、という気持ちを持っていたのですが、実際にガンをなおされた松本さんの言葉には説得力があります。             

■3月27日水曜日/胃カメラ検診/神戸医師会館    

 人間ドックで、なにか胃の中にニッシェ状のできものがあるらしいという判定を受け胃カメラを飲むハメになりました。結果はシロで安心しました。シロと判断されるまでは、ガンではないか、という不安の日々なのでありました。胃カメラ検診→即入院→あと○○ヶ月の命→手術→日に日にやせ衰える闘病の日々、放射線治療などというプロセスが想像されたのであります。まあ、40過ぎたらこうした事態も考えられなくもなく、昨年ガンでカズチャン、カズヨさん、美代子さんが相次いで亡くなったこともあり、一時は真剣に不安になりました。     

 自分の胃の中を見るというのは不思議な感覚です。ゼリー状の透明な味のない葛湯のようなものを飲み込み喉の感覚を麻痺させたあと、歯で咬んだ黒色リング状穴あきおしゃぶりを通してニュルニュルとカメラが挿入されます。モニターを通して通過していく様子がよく分かります。はい、食道を通りました、いま胃です、この穴から向こうが十二指腸です、などと医師がカメラを操作して見せてくれるのです。まあ、美しいともいえるピンク色地帯からミノ状ひだひだなど、自分の内部を見るのは本当に変な感覚なのですね。人間は口から肛門までの穴の開いた袋なのだと実感しました。なにか、自分の体が実に単純な構造に見えてきます。科学のもっている身も蓋もなさを実感しつつ、シロの判定に一安心の日でありました。               

■3月30日木曜日/バール・フィリップ来神     

 バールは、フリージャズ界ではよく知られているベーシストです。元はアメリカ人ですが南フランスの田舎に移住して活動しています。彼が来日したのは、マルセイユで彼らが行おうとしている「アクト・コウベ」というイベントの主旨説明と、その催しから得られる収益金の送付先を決めるためでした。「アクト・コウベ」は、マルセイユ近辺の音楽家、写真家、映像作家、現代美術アーティストなどが参加する阪神大震災救済支援イベントで、4月9日に行われました。バールたちは、神戸がマルセイユと姉妹都市だということもあり、この震災で被災した神戸のアーティストたちを支援したいという主旨で組織を作り活動を始めたということです。神戸からはるか遠いマルセイユのアーティストたちが、われわれの安否を気遣い支援すると聞いたときは本当にうれしくなりました。

 さて、バールは義捐金の受け入れ先を探す目的なのでとりあえず神戸市役所へ行くことになりました。もともとわたしは彼となんの関係もなかったのですが、ジーベックの下田さんと森さんに誘われてわたしも市役所へ行きバールと会ったわけです。市の国際交流課職員と話し合ったバールは、うーん、ホープレスだと呟いた。聞くと、職員は感謝の意を表しつつも彼の申し出に対する受け入れ体制が皆無なのでこの本にある文化団体に直接当たってみては、と助言したそうです。その本は「神戸市文化団体名簿」というものです。もちろんすべて日本語です。つまり、自分でこの名簿を読んで義捐金を受け取る団体を決めろ、ということ。また、姉妹都市からきたというと、その職員は「神戸はたあっくさんの都市と姉妹都市の関係にあるのよね」といったという。この対応に憤慨したバールは、あなたがたのほうでベストと思う受け入れを考えて下さいと、下田さんに依頼したのでありました。その後、義捐金は有効に使われたと思います。少なくとも、行政のため池に一括して流入されることはなかったはずですから。行政の人も震災では大変な労働を強いられ大変だったとは思います。でも、それにしても、マニュアルにない申し出に対してあまりに硬直した対応だと思います。

■4月2日日曜日/「飛天」ゲリラ公演/明親小体育館

 2月にやってきた大倉さんたちが再度神戸にやってきて演奏しました。今回はジミーは不参加、キムさんとモンさんの3名のグループです。体育館での演奏には、わたしもバーンスリーで参加しました。キムさんと全身レゲエカメラマン仁礼さんがわが家を訪問。                   

■4月6日木曜日/壁紙              

 震災でもびくともしなかった公団でしたが、室内の一部に亀裂が入っていました。その亀裂部分の壁紙を張り替えたのです。もちろん公団の負担でした。壁面の一面だけを新しく張り替えるということなので、汚れた他面がよけい汚れて見える。そこで他面もやってもらいました。それにしても、自己負担分の工事費が市価の倍以上するのは納得できない。                     

■4月7日金曜日/花見/護国神社/天藤建築設計事務所  

 やはり寒い花見。桜満開。          

■4月8日土曜日/花見/夙川            

 震災以来の阪神の友人たちと再開でした。ほとんど話題は震災のこと。             

■4月9日日曜日/研究会/拓殖大学         

 ブリンターヴァンからシュリーヴァツがやってきて講演をしました。彼は、長年続いたお寺の坊さんであるとともに、学者でもあるのですが、ある儀式でおきた奇跡的な出来事をまったく信じ込んでいるようで、ちょっと首を傾げる部分もありました。われわれは彼にインド留学中お世話になりました。 

■4月10日月曜日/カンバセーション、東京/来年の招聘企画の打ち合わせ。       

■4月17日月曜日/義捐金

 いまから28年前の山形県立長井高校ブラスバンドの若き女性メンバーであった錦孝子、御代田恭子、横山あい子、井上良子、藤野由美子、千葉正子さんたちから思いがけず義捐金をいただきました。28年前にもこんなにモテてたら世界はちがっていたのになあ。本当にありがたかった。         

■4月23日日曜日/松阪森別荘ライブ/橋本晴安:タンブーラー、さくらいみちる:タブラー、中川博志:バーンスリー

 松坂の歯医者さん、森さんのスペイン風別荘のお披露目の行事に招待されて演奏してきました。橋本晴安氏は、小生にバーンスリーを習いたいという奇特なアジア民芸骨董家具商で、奥さんはエステシャン。名刺に料理人と刷り込む青木夫妻の料理と、どさくさでいただいたドンペリが最高でした。   

■5月4日木曜日/麻雀/植松、島末、宮垣/植松家  

■5月20日土曜日/植松和子さん一周忌/東栄酒家  

■5月26日金曜日~6月10日/アーシシ・カーン全国公演

 このツアーは昨年の7月から準備をすすめていたものです。当初、主奏者であるアーシシ・カーンはタブラー奏者としてザキール・フセインを指名したので楽しみなコンサートになる予定でした。ところが、震災でサイキック・ナミング状態(思考麻痺状態)にいる3月初旬、なんとザキールが予定の期日には来日できない旨のファクスが突然アーシシの弟のプラネーシュから入ったのでした。こちらはザキールを前提として各地の主催者との打ち合わせが始まっていたのでわたしとしては非常によくない立場に陥ったのでした。どうしてザキールがキャンセルを通告してきたのか。ザキールを今後招聘されるかも知れない読者がいらっしゃれば、学習項目の一つとしてご参考にして下さい。          

●ザキール・フセイン選手来日キャンセルの顛末-ドキュメンタリー風●            

 2月7日にプラネーシュからファクスが入った。 
「2月2日にあなたからの連絡を落手した。兄はインドでツアー中なので下記のところへ詳しい日程をファクスしてほしい。また自分も詳しい日程が分からないので私宛に連絡を乞う。ザキールの奥さんのアントニアに至急連絡しなければならないのだ。ちなみにザキールのボンベイのファクス番号は下記の通りである。---プラネーシュ・カーン」      

 このファクスが入るまで、ヒロシは実はアーシシ・カーンにプラネーシュという弟がアメリカにいることは知らなかった。彼がアーシシ・カーンの弟でありかつアーシシの不在中の連絡代理人であることが明記されていず、アーシシもプラネーシュに関してはそれまでなんらコメントがなかった。またファクスの送付が「S&Kトラベル」などとなっているので当初誰からの通信なのか分からず、ヒロシはとりあえず通信に書かれてある連絡先に日程を送ったのであった。当時、ヒロシの家には水もガスまだ復旧していなく、家の中はどうせ次の余震がくればまたグチャグチャになるのだからと平面的モノ散乱状況は放置しつつ、インドだな、インドだなあ、なつかしいなあと嬉々として給水車へ水もらいに行く日々なのであった。そうした日常にありながら、依然としてアーシシとの関係が判明しないプラネーシュなる男にも最終的な日程を送っていた。ところが、3月7日にとんでもない連絡がプラネーシュから入った。                  
「貴殿がすみやかな当方への日程連絡遅延のため、われわれに大変な障害がもたらされたかにみえる。つまり、ザキールは6月2日3日の当地での演奏会に出演することを承諾したのである。ということは、日本ツアー予定の6月2、3、4日は彼は日本にいることはできない。小生の兄にこのことを告知したところ、彼は次のように事態解決方法を示唆した。
 6月4日予定のコンサートを7日以降に延期する。5日(京都)、6日(東京葛飾)はそのままとし、5月28日(仙台)を6月7日とする。5月31日(東京・国際交流フォーラム)は6月8日へ、6月2日(福井・武生)は9日へ、3日(滋賀・水口)を10日へ、4日(神戸・ジーベック)を11日にせよ」             

 当時すでに、主催者によっては半年も前に会場を決定していたり、公演チラシの印刷にかかっているところもあった。ヒロシの公演関連雑誌記事校正も届きつつあった。「・・・にせよ」っつうーのは何事か、んー?。20キロ入りポリタンク2個をほぼ毎日運搬して疲れ気味のヒロシは、マックいじりのせいでもあるのだが、目をしょぼつかせつつ通信を読むのであった。通信は続く。           

「当方は、貴殿がかような変更を今からなすことは非常な困難を伴うであろうことを理解する。小生は、貴殿がこのニュースを読んで血圧が急上昇し、一升酒に浸るであろうと予測する。したがって小生は、貴殿に痛飲せぬよう、今日はバイクに乗らぬよう助言するものである」冗談じゃねえ。

「第2の選択肢もあろう、と兄は次のように示唆している。5月28日と31日は予定通り日本で演奏会を行う。アーシシはそのまま日本に滞在するが、ザキールのみがただちにアメリカへとって返し6月4日に再度日本に渡航し、6月5日と6日のコンサートを予定通り行う。こうすれば6月2日と4日の予定のみ7日以降へと変更すればよい。問題は、こうしたとき、貴殿がザキールのアメリカ往復旅費を出せるかであろう」じょ、冗談じゃねえ。ただでさえ乏しい予算の今回のツアーである。長時間かけて構築したヒロシの綿密な計画をいきなり「・・・せよ」や「第2の選択肢もあろう」などという簡単な言葉で覆すことは許されない状況となっていたのである。ヒロシの心中にふと「ポアしたろか」という思いが芽生える。通信は次のような言葉で締めくくられていた。                   
「兄はまた、ギャラが安いのでは、とも申されている」
 申すな!!ちゃんと合意したではないか、半年も前に。
「兄はインドで多忙を極め、貴殿との直接連絡不可能状態である。またザキールははっきりいってどこをうろうろしとるか分からん。・・・貴殿の震災的生活が漸次正常化しつつあることを知り喜んでいる。貴殿の誠実なプラネーシュより」     

 しかし、一方的でかつ根拠不十分な通信ではあったが、その日のヒロシの血圧が550にまではね上がり、空になった1升瓶が数本ちらかった室内に転がることはなかった。変更の原因がすべてヒロシの連絡遅延によってもたらされたのだと断定するところは、なかなかにインド的である。インド人特有の最大願望告知的なくてもともと的発想とみた。だいたい、ボンベイでザキールに会ったときは、日本行きを楽しみにしている、などといっていたのだし、なにかのマチガイであろうと思っていたのだ。ヒロシはただちに「変更は不可能。タブラー奏者としてザキールを指定したのは貴殿の方であるし、貴殿が責任をもって当初の計画通りに進めよ。小生の連絡遅延などという理由は論外。これまで小生の送付したファクス記録を再チェックされたし。聴く耳もたん」と申し述べたのであった。しかし、そのころアサハラなる男の率いるあやしげな集団が、「私はやっていない。潔白だ」という歌も用意しつつ密かに日本人総ポア計画を練り実行段階にあったことを知るものはいなかった。

 よく翌日の3月9日、今度はザキールの代理人でもある妻のアントニアからファクスが届いた。   

「アーシシのツアーの混乱に対しては非常に遺憾の意を表明する。ザキールから貴殿からのファクスを受け取っていた旨を聞いた。しかし、一部日程の末尾に?が付されていたので彼は次のような印象を抱いた。つまり、地震によってあらゆる日程が不確定になったと。プラネーシュの話では、どうも日本公演はなくなったのではないか、との印象を受けたのである。そこで、わたくしは約束を迫られていた当地の公演主催者に6月3日に出演承諾の旨をただちに連絡した。そこで相談だがそちらの日程のほんの一部を若干変更するようお願いしたい。ところで、西宮にわたしの友人がいる。彼はザキールの神戸でのコンサートを手伝いたいと申し述べた。もし必要であれば彼になんでもいってほしい。もし変更不可の際は、代替タブラー奏者を考慮されたし。再び、まことに遺憾の意を表明する。尊敬するあなたへ。トニー」
 ヒロシが日程の一部に?マークを付していたことは事実であった。それは最終的なツメの段階に入っていることを意味せんとした記号であってキャンセルのそれではないし、そのことについては何度も説明してきた。出演者側のやむを得ない事情の場合以外は、日本公演がキャンセルになるかならないかはすべて日本の側の判断によってなされる。それをザキールの印象だけで勝手に判断されてはたまらない。キャンセルになるならないかは、別の公演出演を決定する前に電話でヒロシに聞くだけですむではないか。「印象」はケシカランので再考を促したい、他公演を断固キャンセルすべし、とただちに返信したことはいうまでもない。          

 それから何度もやりとりがあった。ヒロシは、ザキールやプラネーシュの一方的な変更申し出は受け入れがたい旨を再三申し入れ、敵は、もう固まっちまったからこらえてえな、と返事が来る。プラネーシュは次の日の10日に「ザキールが極度に多忙な男であることを理解せよ。?記号は貴殿の大きなミスである。さらに小生の日程連絡要請を貴殿は深刻に受けとめなかったのも原因である。わたしはなーんも悪くない。わたしは潔白だ。もちろん貴殿が小生に怒るのは理解できる。貴殿には怒る立派な理由がある。いや俺だってあったまきてんのよ、実は。貴殿は各主催者との信頼関係の維持を強調されるが、ここで考え方を変えてみてはどうか。たとえばザキールが来日直前に病気になったらどうする?もうやんややんやと小生たちを責めるのは非生産的である。別のタブラー奏者を考えよう。ザキールに匹敵する奏者はいくらでもいるやん。人生には悪いことがあって初めて良いことが分かるではないか。なあ、もっと前向きにいこうや」というファクスを送ってきた。そして12日に再びきた。「ザキールに再三こちらの公演のキャンセルを申し出たが、無理だ。そこで、カルカッタの兄に連絡した。兄はこういってる。代替タブラー奏者として小生の名前をヒロシに伝えろ、と。ヒロシ、すぐカルカッタの兄に電話してくれ」たちどころにカルカッタに電話した。アーシシはひたすら平謝りで、「トニーはとんでもない、ザキールもケシカラン、あいつは普段はアメリカ人のようだが、どうも今回はインド人になったようだ、たのむからプラネーシュでこらえてえな、彼だって優秀なタブラー奏者なんだぜ」と話している。この時点でヒロシはザキールをあきらめた。もともとザキールを指定したのはアーシシだし、彼がそういうのであれば仕方がない。また、聞いたことがないので実力は分からないが、兄弟による公演旅行の方がヒロシとしては気が楽だ。

●Zakirquake●

 こうして今回のアーシシ・カーン日本公演のタブラー奏者はプラネーシュに変更されたのでありました。この決定にいたるまでの日々は震災どころではなく、小生はこの状態をZakirquakeと名付けたのでありました。このZakirquake後、各地主催者への変更連絡、雑誌原稿の変更、チラシ校正やりなおしなど、本来不要なエネルギーを費やさざるを得なかったことはいうまでもありません。招聘者である小生の方にもこの変更に多大な責任があります。ご迷惑をかけたにも関わらず変更を理解し了承していただいた各主催者には本当に感謝しております。そうこうしている3月20日、アサハラなる男の率いるあやしげな集団が、「私はやっていない。潔白だ」という歌も用意しつつ日本人総ポア計画第1段階である地下鉄サリン事件が、高らかな「ショショショ、ショショショショ、ショーコー」のファンファーレとともに発生したのでありました。ところで、これは後からプラネーシュに聞いたことですが、ザキールのアメリカでの6月3日4日公演出演は、トニーが地震の前にすでに決めていたのだそうです。するとわれわれの取り交わした膨大な通信はいったいなんだったのか。もしこれが事実であれば、多分間違いないように思えますが、ザキール・フセインという希代のタブラー奏者とは今後信頼関係を維持するのは困難です。余人をもって代え難いザキールだからこそ許される不誠実なのか、とにかく彼またはアントニアには今でもあったまにきてるのよね。今度あったら絶対「ポア」するとはいかないまでも、不信感と深い憐憫を感じるのでありました。それでも彼のタブラーは他にぬきんでて良いことも事実であることを認めざるを得ないのですよね、悲しいことに。              

●5月26日(金曜日)

 アーシシ・カーンは16:25にユナイテッド航空で、プラネーシュ・カーンが同日17:00にノースウェスト航空で成田に到着の予定でした。わたしは彼らを成田で出迎えるために彼らよりずっと早い全日空78便を予約していました。伊丹13:45発成田14:55着の予定でした。               

 ところが、わたしの便がエンジントラブルで大幅に遅れたので、彼らを空港で出迎えることができませんでした。代わりに急遽ピットインの小林絵美さんに行ってもらいました。             

 合流したのはわたしが上野のホテルへついて2時間ほどあとでした。彼らの到着も遅れていたのです。絵美さん、アーシシ、プラネーシュみんなで駅の近くのインド料理店「マハラジャ」へ行きました。なんといっても美味しかったのは、強引に店の人に持ち込み及び摂食を承諾させたアーシシのおふくろさんの作った特性マトンカレーでした。   

●5月27日(土曜日)移動。東京~仙台
 ホテルから上野駅へ徒歩で移動しました。われわれ3人の腕の本数を上回る楽器や超ヘビー級トランクを伴った移動に、アーシシは根を上げていました。彼が事前に問い合わせてきた電気炊飯器、アイロン、持参米、スパイスなどが加わっていたらもっと悲惨な目にあっていたことでしょう。わたしは「われわれの腕の本数を計算して荷物は極力少な目に」と助言していたのです。新幹線で仙台へ。よどんで重い東京と違い、涼しく透明な空気は東北のものです。この日は東一番町あたりを散歩して過ごしました。夜は満月食堂という朝鮮焼き肉屋です。さいわい、アーシシもプラネーシュもポーク以外なんでも食べる人たちで、案内するわたしとしては比較的楽でありました。満月食堂のオヤジは、今回のツアーの音響担当NADIの川崎さん、2名の中年インド人そしてわたしというコンビネーションと服装、表情、注文告知方法、われわれの店内視線展開方法を一瞬のうちに観察し、君らにはこうこうこうこうこうこうと独断で注文を決定したのでありました。別のものを注文しようとすると、怒ったような断定口調で、今ので十分、うん、外人さんはそっちが好みなの!!と有無を言わせません。しかし、常に怒るオヤジのいる食堂の例に漏れず、美味しかった。宿泊は仙台プラザホテル。

●5月28日 (日曜日)「インド古典音楽の夕べ-超絶の即興音楽の世界」/仙台サンプラザホール/主催:キョードー東北/アーシシ・カーン:サロード、タブラー:プラネーシュ・カーン、中川博志:タンブーラー

 (株)キョードー東北の庄子宗博さんが担当でした。サンプラザホールは収容人数2000名ほどの大きなホールです。チケット売れ行きがもう一つで、という庄子さんの言葉通り空席の目立つ公演でしたが、1階席正面は詰まっていましたので400名ほどだったと思います。一昨年にボンベイで聴いて感動し招聘を決めたアーシシの演奏は、期待以上にすばらしかった。また、プラネーシュも、本来来日するはずだったザキールの派手さや華麗さはなかったものの、伴奏者として安定した実力の持ち主でありました。彼のタブラーは、シタールのアミット・ロイの表現によれば「かわいい」のです。コンサートの後は、「わでぃ・はるふぁ」のマスター中田さんらと中華料理店で打ち上げ。アット・ホームなもてなしにアーシシも喜んでおりました。

 ここで、16日間行動を共にすることとなったアーシシとプラネーシュの人物評を紹介したいと思います。

◆アーシシ・カーン 

 現代サロード界の重鎮・大御所でありこの人の父であるアリー・アクバル・カーンの顔は、いかにも重鎮・大御所的容貌魁偉的迫力に満ちています。しかしアーシシの顔相は、髪の薄さは共通しているものの、父に比べて高貴な雰囲気があるのです。また、お腹は前方迫り出し気味なのに下肢が割と細めですらっとしているため、ジーンズをはいても粋な感じになります。最初に会ったときの服装が、ブルージーンズのパンツと胸毛チョロリ露出的シャツに濃紺のブレザー。ほとんど毎日アイロンがけを欠かさない、香水をつける、などのことからも分かるように相当にお洒落オジサンなのでありました。そうしたお洒落な外見と連動するのか相反するのか、常に下半身関係のジョークをとばす。ホテルのエレベーターに乗り合わせた若い女性を子細に観察し「胸と尻がたまらん」などと彼女には分からないヒンディー語でいう。数年前に離婚したということで、その方面では不自由を強いられているのかもしれないが、わたしとの業務関係以外の会話の63.3パーセントはこうした話題なのでありました。  基本的には非常に気さくで明快な人ですが、ちょっとボタンを掛け違うとつき合いにくい人間にもなる感じです。サウンドチェックのときにちょっとした問題が起こったとき、「昔のオレだったら爆発してたとこだぜ」というくらい怒りっぽいところがあるのです。わたしのみるところ、彼は長い年月、期待されるべき願望の達成がさまざまな要因によって阻まれてきたのではないかと思います。つまり、近代インド音楽中興の祖であった故アラーウッディーン・カーンを祖父に、現代サロード界の重鎮・大御所アリー・アクバル・カーンを父に、インド音楽の十字軍として常に先頭を走り名声の頂点にいるラヴィ・シャンカルを叔父にもつという重圧。音楽に対する誠実さとプライドが強ければ強いほど、そしてプライドに見合う期待されるべき評価と名声と現実との間のギャップが大きければ大きいほど、はなばなしい家族をもつことの重圧は大変なものだと思います。実際、演奏家としてのアーシシは、成熟した音楽家として高い評価を得てきたとはいえ、インドでの音楽界ではその家系に比較して地味な存在でした。

 アーシシが武生で行われるコンサートのプログラムのために送ってくれたメッセージは、彼の真面目さと真摯さが現れていると思います。

 

●●●●●●日本の聴衆の皆さまへ---アーシシ・カーンからのメッセージ

 わたしは、まず、皆さんにささやかなお願いをしたいと思います。最近の世界中の若者たちは、自分のルーツ、文化、芸術、音楽、年上の人たちを尊重する気持ちを次第に忘れつつあります。わたしにとって、こうした若者たちの傾向を見ることはつらい経験です。わたしは、日本文化に対して多大の尊敬を抱いています。それは、世界で最古の文化の一つであり、主要な文化の一つであるからです。ですから、皆さんがこの財産のもつ豊かさをさらに磨き上げられ、積極的に保護されていかれることをお願いしたい。また、先人たちが皆さんへと引き継いだ貴重な財産をできるだけ利用していただきたい。  さて、インド古典音楽は、「サーマ・ヴェーダ」に起源をもつ最も古い音楽の様式です。この古代芸術の演奏家やそれを学ぼうとするものたちが最終的にめざすことは、音楽を通じて「至高の存在」へ到達することです。「至高の存在」を希求し、創造者との一体化への道を示すもの、それが音、表現行為として最も純粋な芸術だ、といわれています。  

 インド古典音楽の鑑賞には、さまざまな側面があります。たとえば、美的な喜びの刺激、聴衆の感情との相互作用、そしてそれが精神の無意識のレベルにどう関わるか、などです。この芸術様式の純粋さを獲得するには、一貫したプロセスの論理的展開が必要です。その結果として、グル(師)に対する献身があり、とほうもない練習があり、文化への敬意が生まれます。そして、瞑想の最も純粋な形ではありますが、それは宗教的なものではなく、普遍的な精神行為です。  
 インドの芸術のさまざまな様式、音楽と舞踊、視覚芸術と詩芸術などは一貫した態度によって貫かれています。つまり、知性よりも感性に、ドラマ性よりも叙情性に、行動よりも瞑想に重きが置かれるのです。(訳:中川博志)

●●●●●●
◆プラネーシュ・カーン

 お洒落にエネルギーをかける兄アーシシに比べると、プラネーシュの外見は無造作です。たいてい柄物のシャツに線の入ったズボンにスニーカーというのが基本姿勢です。彼はアメリカのパスポートをもった正式なアメリカ人なのですが、インドのパスポートをもつアーシシがアメリカっぽいのに、しぐさ、外見がインドっぽい。背と年齢とまるまる具合はわたしと同じくらい。アミット・ロイが彼のタブラー演奏を「かわいい」と評していましたが、その演奏と同じようにかわいいのです。彼が怒っているのを見たことがないくらい、いつも陽気で控えめなのです。誰かが面白いことをいってプラネーシュに同意を求めると、かれはその面白い言葉を繰り返す。例えば「あなたがたの家系はみんな禿げていて精力絶倫なんだろうね」とわたしがいうと、「はははは、そうそう、みんな禿げていて精力絶倫なのよ」サウンドチェックのときはジョークをいってもいいが、本番ではやらんといて」というと「はははは、本番ではジョークいわない」などと繰り返す。ザキール震災のときはしぶとい内容の手紙をやりとりしていたので理屈っぽい人かなと思っていましたが、結構さっぱりとした人なのです。以下は、タブラーデモンストレーションのサウンドチェックのときのジョークの一つです。

●●プラネーシュのジョーク●●

 かつて、ネルー首相がヨーロッパのある国へ訪問したときのこと。晩餐会の席で、3人おいた席に座って食事していた同行のインド文化大臣が、ナイフとフォークをこっそりポケットに入れるのをネルーが見た。きっと貴族か王家の紋章入りの銀のナイフとフォークだったに違いない。しょうがないなあ、大臣になってもあいつの癖はなおらんとみえるとうんざりしたネルーは、ひとしきり食事を終えたとき立ち上がり、列席する招待者たちにこういった。「まことにすばらしい食事を本当にありがとうございました。そこで、皆さまにささやかな返礼をいたしたい。皆さん、これは、今わたしが使ったナイフとフォークであります。これを、こう、ポケットに入れます。さて、わたしのポケットへ入れたナイフとフォークをたちどころに我が文化大臣のポケットへ移動してご覧にいれましょう。文化大臣。ちょっと立ち上がって皆さんにお見せしなさい」文化大臣はもぞもぞと立ち上がり、自分のポケットからナイフとフォークを取り出す。一同から大きな拍手がわき起こる。ネルーはこういった。「これがインディアン・マジックです」 

●5月29 日(月曜日)/レコーディング(未遂) / キングスタジオ・東京・音羽/星川京児:プロデューサー、井上剛:ディレクター、高浪さん:音響技術、松本泉美+寺原太郎:タンブーラー、吉見征樹+音々(ねね):泉美さんの保護者

 未遂、と書いたのはこの日はレコーディングを途中で断念したからです。当日は、仙台から新幹線で上野に着いたわれわれに、荷物持ち兼タンブーラー奏者兼お手伝い寺原太郎が合流し、われわれの腕の本数を越えるトランク、楽器類と大人4人をぎゅーぎゅーづめにしたタクシーで、激しい雨の中をキングのスタジオへ向かったのでありました。「レコーディングはツアーの最後の方がよいので日程を変更してほしい」と前日にアーシシからいわれていました。しかし前日のこととてそれは難しく、予定通りスタジオでレコーディングを開始したのはよいが、サロードやタブラーのチューニングがやたら狂うのです。しかもスタジオ内はかなりの湿気と熱気。チューニングの狂いは主に湿気からで、どちらも皮を張った楽器の特徴です。アーシシは、10分ほど演奏してから、「もおお、プールの水の中で演奏しているような音だな、なんとかならんかね」と途中でストップ。わたしもキングの井上さんに「ちょっと暑いね」というと、「じ、実は、エ、エアコンが壊れているんですよ」とキングの井上さん。予算超過恐怖と最良録音との間で揺れ動く井上さんの苦渋の判断で当日の録音は断念し、ちゃんとエアコンの効いたスタジオでやり直しとなったのでありました。

●5月30日(火曜日)リハーサル/渡辺香津美:ギター/スタジオ名、場所は失念

●5月31日(水曜日)「アーシシ・カーンmeets渡辺香津美」/国際交流フォーラム、東京・赤坂/客演/渡辺香津美(ギター)、松本泉美+中川博志:タンブーラー/主催、企画制作:ピットイン・ミュージック+天楽企画/共催:国際交流基金  

 人口1000万の東京なのだから満員になるだろうという楽観的な予想に反し、会場人口密度は薄かったのでした。第1部はサロード+タブラーによる古典。後半のセッションは、アーシシも香津美さんもともに手慣れたプロの技術を遺憾なく発揮し会場は盛り上がりました。それにしても、いったいにこの日の東京の聴衆の反応は鈍く、アーシシによれば「まるで死体に向かって演奏しているようだ」った。東京は元気がない、というのが印象です。東京は音楽消費倦怠無感動シンドロームに陥っているのか。公演はもちろん赤字となり、つらいものがありました。また、サウンドチェック時と本番の音質が違うではないか、とアーシシはファック!!の連続なのでした。アーシシもいっていましたが、もしザキールと一緒でこの種の問題が発生していたら頭が痛いことになっていたかも知れません。わたしはさいわい、歯だけが猛烈に痛かった。

●6月1日(木曜日)移動日

 東京から福井県の武生へ移動。久しぶりの田舎のフレッシュな空気に2人のインド人もリラックスしていました。ここで切れかけていたウィスキーを購入。アーシシはウィスキーをよく飲む。武生という町は、酒屋と薬局がやたら多いという印象でした。「売春宿の女将のようによくしゃべる」とアーシシに評されたホテル「赤星亭」の女将のすすめで「丸金そば 」で昼食をとりました。素朴なそばはおいしかった。また、「キーマ」という武生唯一のインド料理屋のおかげでインド人の食事の心配の種が減りました。彼らの食事はずっと「キーマ」なったのです。  関係ありませんが、武生という地名に彼らはげらげら笑うのでした。というのも、ベンガルで「タケフー」というと「禿頭にふっと息をかける」という意味になるからです。2人はハゲに近い。

●6月2 日(金曜日)武生国際音楽祭/武生市文化センター/インド人2名、寺原太郎+中川博志:タンブーラー/川崎義博:音響

 演奏前、2名のインド人を「キーマ」に送り込み、神戸から中川車を引っ張ってきた寺原とわたしの日本人組は、昭和天皇もそこで食したという蕎麦屋「うるしや」で1人前600円のおろし蕎麦を食べました。ほどほどに気品と俗っぽさのある店内もよい雰囲気でしたが、味もよかった。ただし、盛りがあまりに少ない。いかにも一徹に蕎麦を打ってきたオヤジの解説は、ちと長かった。  

 国際音楽祭の初日の公演でした。かなり大きなホールでしたが、聴衆の入りはまあまあで、なによりも暖かい反応が心地よかったらしく演奏内容はよかったと思います。担当の田中さんにはいろいろお世話になりました。国際音楽祭ということで、町内外国人密度が高かった。新聞などでも大きく取り上げられました。特に、福井新聞にはカラー写真入りで1面に大きく紹介されました。公演後は地元の人としばらく歓談し、その後、やはりインド人には「キーマ」のカレーを与えつつ、音響の川崎さん、寺原太郎と地元のおいしい酒と刺身に舌鼓を打つのでありました。

●6月3 日(土曜日)「超絶のインド音楽-アーシシ・カーン来日公演」/水口JAホール/主催:JA甲賀郡、神田さん/インド人2名、寺原太郎+中川博志:タンブーラー/川崎義博:音響/一方でジーベックオールナイト・フリー・コンサート「ライブ・アット・ヒーリングキャンプ・イン・神戸」/ジーベック、神戸ポートアイランド/桜井真樹子:声明、ガムラン・ダルマブダヤ、風の楽団、ハムザ・エルディン+おおたか静流/企画制作:ジーベック+天楽企画/司会進行:下田展久

 この日も雨でした。この武生~水口~神戸が最もハードな移動でした。途中「包丁を買うのだ」と宣言したアーシシらを「武生ナイフセンター」につれていきしばし観光。アーシシが包丁を購入したので、武器の均衡を計るためにわたしもつい買ってしまいました。

 激しい雨の中を水口まで3時間ほどの移動でした。濡れながら会場へ楽器を運びました。碧水ホールの上村さんや元公民館の中村さんの事前情報が行き届いていたとみえ、楽屋にはインド香が焚かれ、カルダモンやシナモンといったスパイスがスナック類とともに提供されていたところがいかにも水口の暖かさなのです。  

 聴衆はほぼ200名ほど。ここ数年、ここ水口でインド音楽を紹介してきたのでお客さんも慣れています。よく響く会場という条件の中、川崎さんの奮闘でそれなりに良い音でした。このツアーに専門の音響スタッフとして川崎さんに来てもらったのは正解です。  
 さて、名古屋からやってきたアミット・ロイ+妻裕美+山本弘之通称オジサン、そしてわざわざこの日のコンサートに信州から駆けつけてくれた吉澤さんとともに、われわれはコンサート終了後ただちに神戸まで移動しました。雨中車中マクドナルド摂食的移動はさすがに疲れました。

 ジーベックについたのは11時過ぎ。既に7時から始まっていた「ライブ・アット・ヒーリングキャンプ・イン・神戸」ではちょうど高田みどりさんが熱演中でした。演奏を終えて汗びっしょりの高田さんに会いに行ったら「あら、ようやく着いたのね」「今回は無理をいってスミマセン」などと言葉をかわすのでありました。アンケートに高田さんのことを「太鼓を叩くファッションデザイナーのようでよかった」などという感想がありました。  

 高田さんの後に出る予定のおおたか静流さんのサインが欲しい、という裕美さんの願いは無事かなえられたのでありました。楽屋へいき、そのおおたかさんや、久しぶりのハムザに会いました。ハムザを知っていたアーシシも彼と対面。会場は内外とも熱気にあふれ、ああ、やはりジーベックのコンサートはいいなあ、と安心しました。当初からプログラムの企画をしていながら当日不在になるという不義理を感じていた小生は、この熱気を感じただけで公演の成功を確信しました。  

 インド人2名をホテルへ送り込みしばらくジーベックでうろうろしていましたが、もう披露困憊状況なので帰宅。その日は、アミット、裕美、オジサン、寺原太郎がわが家に宿泊。

●6月4 日(日曜日)前夜から引き続き、ジーベックオールナイト・フリー・コンサート/映画「ガンガー」「老人と海」「AKIO SUZUKI」、ヒーリングキャンプ、風巻隆:パーカッション+神蔵香芳:ダンス、マヤ:南米フォルクローレ、アミット・ロイ:シタール+プラネーシュ:タブラー、田中峰彦+寺原太郎:タンブーラー、アーシシ・カーン:サロード+プラネーシュ:タブラー、岸下しょうこ+寺原太郎:タンブーラー/司会進行:中川博志

 延々20時間に及ぶイベントに聴衆もスタッフもよく耐えました。最後のアーシシの演奏のときには、大の字になって安らかに睡眠中の聴衆も散見されました。朦朧とした意識で聴くインド音楽は最高、という感想が多かった。ジーベックやジーベックをとりまく人々にも震災ショックから立ち直るよい演奏会でした。ポートアイランドはアクセスがまだ不完全で完全復旧となるまではまだ時間がかかりますが、ジーベックも確実に始動しています。  

 演奏後、アーシシ、プラネーシュ、アミット・ロイ+裕美、オジサン山本、寺原太郎+林百合子が来宅し、アーシシの作る野菜カレーとチキンカレーを楽しみました。アーシシは、わたしのエプロンをして、本当においしい料理を実に手際よく作ってくれました。昨年のラシッドやアミットといい、インド音楽演奏家には巧みな料理人が多いのです。  

 アーシシは、このごろの音楽状況などをアミットとベンガル語で長い時間しゃべっていました。話題がラヴィ・シャンカルになるとアーシシはとたんに攻撃的になることが判明。ラヴィ、という言葉を聞いただけで、まるで料理皿に髪の毛を発見したときのような不快な表情になるのです。相当に不信感が彼にはあるようです。プラネーシュは相変わらずにこにこにこにこです。本当に彼はかわいい。

●6月5日 (月曜日)「アーシシ・カーンコンサート」/大谷大学大講堂、京都/インド人2名、岸下しょうこ+中川博志:タンブーラー、寺原太郎:荷物運び手伝い  この公演の音響を担当したのは、大学の放送クラブの学生でした。音響にはことのほか神経を使うアーシシは、サウンド・チェックをすべて自分でやってしまうという離れ業を演じたのでした。あれには学生もあっけにとられたかも知れません。舞台で一通り調弦を終えたアーシシは、あーだこーだといっているミキサーの学生たちをみて、もうどもこもならん、とばかりに舞台をおり、ぽかあーんと見ている学生たちを尻目にミキサーのつまみを全部自分でいじりだしたのでした。満足いく調整ができたと判断したアーシシは再び舞台に戻り、なすすべのない学生たちにこういうのでありました。「ドンタッチ!!(つまみを触るな)」自分で調整したからなのか、アーシシは「今日の音響がこれまでで最高である」と自信深げに宣言したのでありました。そのせいか、演奏内容は非常によかった。数百人の聴衆は満足したことと思います。反応も非常によかった。最終の新幹線の時刻を気にしているわたしに、「こういう熱心な若い聴衆の場合はもっと時間をとるべきである」と不満を述べる。ハードな移動で疲れが貯まりつつあったと思います。歯痛に耐えるわたしは、頬に手を添えながら「はあ、はあ」とうなづくのみ。  

 演奏後、担当の釜田総務課長、広原学生課長とゆっくり話もできないまま、われわれは大至急荷物をまとめ、最終ののぞみで東京へ。新宿のホテルについたのは深夜でした。

●6月6 日(火曜日)「アーシシ・カーン/インド・サロードの至宝」/アイリスホール、東京葛飾/インド人2名、松本泉美+中川博志:タンブーラー、中川博志:一部バーンスリー/川崎義博:音響  

 ツアー最後の公演でした。「ヒロシ、貴君もバーンスリーを吹くべきだ」と突然いわれた小生は、「金襴緞子の帯しめながら花嫁御陵はなぜ泣くのでしょう」の曲と彼のフュージョン曲「Under the Stars」を、泣きたいほどの歯痛をこらえながら彼と演奏。聴衆は約200名くらいで決して多くはありませんでしたが、国際交流フォーラムのときほどの無反応状態ではなかったので、アーシシは満足したと思います。ティム・ホフマン、プレダーサ・ヘーゴタ、河野亮仙、松澤緑、清水浩、わたしと同じ大学出身のベーシスト水野俊介など各氏が楽屋を訪れてくれました。タブラー奏者の変更でご迷惑をかけた担当の白井さん、本当にご苦労さまでした。

●6月7日(水曜日)レコーデング/スタジオ・サウンド・バレイ、四谷/インド人2名、渡辺香津美:ギター/丸茂正樹(ポリドール):ディレクター、本村鐐之輔(ピットイン):プロデューサー、小林絵美:事務

 香津美さんの新しいアルバムのためのセッションでした。弾き慣れたオリジナルをあっさりと引っ込めた香津美さんが、アーシシの曲をやはりあっさりと弾きこなしました。約5分の短い演奏でしたが、なかなかよいセッションになっていると思います。テイク3であっさり終了しました。打ち上げは、あっさりと四谷のインド料理屋「Little India」で。ここはホームリーでなかなかよいレストランです。

●6月8日(木曜日)秋葉原セッション

 フィナーレに近づいたツアーの恒例の儀式、買い物セッションです。元々わたしは人の買い物につき合うことほど呪わしいものはないのですが、それに歯痛も加わったのでとことんくたびれ果てました。それにしても、彼らの買い物にかける情熱としぶとさは相当なものです。電気炊飯器とウォークマンだけを買うのに数時間はかけたのでした。ホテルへ帰ってから、土砂降りの雨の中を新宿のスリランカ料理屋へ。この店は、もとは神戸にあったのですが、震災で東京に移ったとのこと。プレムダーサの招待でした。この店の客の対応にアーシシは「無礼だ」と怒っておりました。料理はおいしかった。

●6月9日(金曜日)レコーディング/スタジオA、田町/星川京児:プロデューサー、井上剛(キングレコード):ディレクター、高浪さん:音響技術、松本泉美+寺原太郎:タンブーラー、吉見征樹+音々(ねね):泉美さんの保護者  

 さきのエアコン故障キングスタジオからエアコンぎんぎんのスタジオに場所を移したレコーディング。わたしがスタジオ入り約束時間を1時間ずれて思いこんでいたり、ホテルまで迎えにいらした井上さんが、東京を全然知らない多摩ナンバーのタクシーに乗ったために積んでいた楽器の到着が遅れるたり、アーシシは慎重な演奏が要求される曲だったので取り直したりというハプニングはあったものの、無事よい録音ができました。CDは来年の2月にリリースされるそうです。

●6月10日(土曜日)プラネーシュ離日、中川帰宅

 予約の関係で次の日にアメリカへ帰るアーシシを一人ホテルにおいて、カルカッタへ向かうプラネーシュと伊丹へ帰るわたしは成田空港へ。ホテルのバス停でわれわれを見送るアーシシは寂しそうでした。それにしても、バスの中まで身分証明書の提示を求めに入ってくるほどの過剰な警備には驚きます。その夜のアーシシは、ピットインのマドンナ小林絵美さんと夕食を共にしたそうです。

●6月11日(日曜日)アーシシ離日

 この日のアーシシのアテンドのために、ベンガル語バリバリのインド政府観光局職員であり、栄光の山形県立長井高校の後輩であり、酒を飲むと意識混濁するかわいい平知佳さんにお願いしていました。アーシシとランチを共にした知佳さんの生粋山形弁による事後報告には腹をかかえて笑ってしまいました。彼にとって見ず知らずの知佳さんという若い女性にモテタイという願望による威厳顕示的オロオロ感と緊張感がよく伝わる報告なのでした。

■6月11日日曜日/完成期医療を進める会「第10回神戸フォーラム」/神戸市産業振興センターホール/出演/アミット・ロイ:シタール、さくらいみちる:タブラー、田中峰彦+中川博志:タンブーラー、七聲会[代表 南忠信(浄土宗総本山知恩院式衆)]:読経+礼讃  

 相変わらず歯痛をかかえつつよれよれしながら神戸に戻りましたが休む間もなく仕事なのでした。読経+礼讃+インド音楽シリーズの一つです。京都からおいでいただいた七聲会の皆さんご苦労様でした。若手のお坊さんによる精鋭の七聲会の読経+礼讃は、声も音程もそろっていて気持ちの良い「演奏」でありました。

■6月17日土曜日/「神戸Heart」/新劇会館/西岡恭蔵、おおたか静流他  

 かつては神戸のエンタテイメントの中心地として栄え、今は大正時代を思わすさびれた街になってしまった新開地の大衆演劇小屋で行われました。時代を感じさせる会場は立ち見がでるほどの満員でした。湿った空気と聴衆・舞台の密着感は、西岡さんの古典的フォークソングのスタイルとあいまって、わたしが学生であった60年代後半が凍結されたかのような雰囲気を醸し出していました。レトロ的モダンなおおたか静流さんの声と歌は、時間遡行的効果がありますね。

■6月21日水曜日/抜歯/神戸中央市民病院

■6月25日日曜日/元永大産業の上司であり大学の先輩だった芦田共好氏の葬儀/西極楽寺、神戸

■6月30日金曜日~7月1日土曜日/淡路~徳島/「インド古典音楽の世界ーシタールの響き」/大塚ヴェガホール、徳島市/シュジャート・カーン:シタール、ヨーゲーシュ・サムシ:タブラー、船津和幸:解説

 このイベントは、インドのアムダーバードにわれわれと同時期に留学していた建築家の新居さんとそのかわいい奥さんヴァサンティが中心となって行われたものです。当日は立ち見が出るほどの満員でした。多数のボランティアによって作り上げられたこのコンサートは、事前の小イベントとあいまり徳島における一つの文化現象となったようです。  

 黒シャツ黒ズボンネクタイ姿でインド音楽をわかりやすく解説をした信州大学の助教授の船津さんは、新居さんと同様アムダーバード留学組です。  

 美しく整った顔の割に全体がまるまると膨らんだシュジャートの演奏はなかなか良かった。聴衆を引き込んでいく技術と演奏には、シタール界の超大御所である父ヴィラーヤト・カーンを思わせる巧みさがあります。まだ20歳代のヨーゲーシュのタブラーも実にしっかりとしていて、インドのタブラーの層の厚さを感じさせました。なんとなくだらだらした打ち上げで久しぶりに会った船津さん、新居さん、ヴァサンティ、演奏家たちとおしゃべりを楽しみました。  前日と当日の夜は、同行したいという寺原太郎+林百合子と共に淡路島の南端にあるホテルアナガに宿泊しました。じつはこのホテル、配偶者の久代さんがつとめるホテルなのです。    

■7月14日~16日/ソウル/同行者:徳山謙二朗氏、原田さん  

 9月17日ソウルで行われる「元長賢とアジアの仲間たち」コンサートのための打ち合わせで2年ぶりにソウルへ行って来ました。このコンサートの第1回目に出演したのがわたしの先生のハリジーでした。昨年はモンゴルの演奏家たちと行い、今年で3回目なのです。今年は、劉宏軍(笛)、金堅(古箏)、劉鋒(二胡)、張薇薇(楊琴)に出演してもらうことになり、企画とコーディネイトを引き受けました。  元長賢さんの新築祝いも兼ねるという当初の訪韓予定でしたが、まだ新宅は完成していず、結局矢継ぎ早にさまざまな人に会うという強行スケジュールとなり、結構くたびれました。この報告は、次号でもっと詳しく触れたいと思います。

◎これからの出来事◎

 

■7月24日~7月31日/ジュニア・サミット・キャンプ95/岡山県牛窓町家島/中川博志:音楽ワークショップ・インストラクター

■9月14日~10月20日/エイジャン・ファンタジー・オーケストラ/東京、シンガポール、クアラルンプール、ジャカルタ、東京/オーケストラメンバー/渡辺香津美、仙波清彦、金子飛鳥、梅津和時、久米大作、清水一登、吉野弘志、吉田智、植村昌弘、佐藤一憲、田中顕、深見邦代、原えつ子、熊田真奈美、立花まゆみ、小川美潮、竹井誠、藤尾佳子、田中悠美子、内藤洋子、木津茂理、木津かおり、木下伸市、賈鵬芳、張林、陶啓穎、ドゥルバ・ゴーシュ、ナヤン・ゴーシュ、姜垠、香村かをり、中川博志

 このイベントは国際交流基金の主催で行われるものです。ピットインがこれまで東京で行ってきた「エイジャン・ファンタジー」のアジア拡大版といえるもの。公演日程は以下の通りです。

 9月14日~23日リハーサル、東京/9月28日、29日午後8時、コンファレンス・ホール(シンガポール)/30日ナショナルスタジアム(シンガポール)/10月5日、6日午後8時、PWTC・ムルデカ・ホール(クアラルンプール)/10月14日、15日午後8時、TIMグラハ・バクティ・ブダヤ(ジャカルタ)/10月19日、20日午後6時半、東京厚生年金会館

■9月17日/元長賢(ウォン・ジャンヒュン)定期演奏会/フォアマートホール、中央日報ビル、ソウル/劉宏軍:笛子、金堅:古箏、劉鋒:二胡、張薇薇:楊琴/企画協力・コーディネイト:天楽企画

■10月29日/「世界民族音楽祭-ふれあいの祭典」/社町国際学習塾/宋次郎:オカリナ、田中理子:タブラー、岸下しょうこ:タンブーラー、中川博志:バーンスリー他

■11月12日/「ロータリークラブ山梨・静岡地区大会」/ロゼシアター(新富士、静岡)/アミット・ロイ:シタール、吉見征樹、バーンスリー:中川博志他

■11月17日/高田みどりコンサート/水口町碧水ホール/高田みどり:パーカッション、梅津和時:サキソフォン/企画制作:天楽企画

 

OD-NETレーベルのCD依然としてわが家の押入の一定のスペースを占拠しています。もう、いい加減に減って欲しいのですが、なかなか居心地がいいらしく、退去のそぶりも見せません。「D.K.ダタール/インドの瞑想ヴァイオリン」と「ウスタッド・スルタン・カーン/雨期のラーガ」です。購入ご希望の方はご連絡お願いします。各3000円

サマーチャール・パトゥル1~11号をまとめた冊子が意外なことにまだ残っています。ご希望のかたは、郵送料390円切手を同封の上お申し出下さい。また、拙訳『インド音楽序説』(東方出版、1994、3800円)も多少在庫があります。でも、毎回毎回同じ告知をするのも飽きますね。


◎サマーチャール・パトゥルについて◎

サマーチャールはニュース、パトゥルは手紙というヒンディー語です。個人メディアとして不定期に発行しています。

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