「サマーチャール・パトゥル」19号1996年1月23日

 皆さま、いかがお過ごしですか。なんとか旧年中に出したいと思っていたこの通信ですが、だらだらと過ごしているうちに96年になってしまいました。
 例年のごとく、年賀状を送っていただいたかたがた、また「喪中につき・・・」のご連絡をいただいたかたがたへの返礼も兼ねた通信とさせていただきます。
 さて、今回の通信は久しぶりのわたしの誕生日号なのです。だらだらと生きているうちにふと気がつくともう46歳。世の中になんら意味のある貢献もせず、ただただ食って排泄し、寝て、たまに音楽しているうちに年齢は抵抗するすべもなく加算されて行きます。誕生日がくるたびに思うことですが、そうか、46か、という感慨にふけるのでありました。 

◎配偶者離職する◎

 中川家の主な収入源を担ってきた会社員の配偶者が、ついに8年10ヶ月在籍した勤務先を退職しました。これまで267回ほど彼女の「辞める」を聞いてきましたが、今度は本気でした。
「仕事をしていて喜びを感じることがなくなった」というのが理由だそうであります。わーい主夫だもんね、などといって好きなことしかしていないわたしは、あまり強く慰留をはかることもできず「ああ、そうですか」というしかありません。今後、わが家の生活がどのようになっていくのかまったく見当がつきません。
 先日、バリ島から帰ったばかりの中川真さんに将来的生活不安をちょっと申し述べると、「ヒロシさんの生活不安いうのはリアリティがないなあ」とのこと。これを書いているわたし自身も実は、あまりリアリティを感じていないのであります。まあ、実際リアリティなんてないですよね。だって、こんなどうでもよい個人通信をだらだらだらだら書いて時間つぶしをしているんですから。 

 今後の生活は? 

 考えてみれば、今後の生活をどう設計するか、などということをあまり考えずにこれまでなんとなく生活してきました。こういう態度でこれたのは、扶養すべき子供がいないということもあります。同時に、まだこない将来のあれこれを心配してもしょうがおまへんやないか、というインド的というか刹那的というか無常観のようなものがどこかにあるからかもしれません。といって、ある程度の収入がなければ現在のレベルの生活は維持できなかったわけでありまして、まあ、それなりに必要にして十分なものがあったというわけでありますね。当座食いつなぐ程度の貯金はあるし、とりあえず今年は配偶者の失業保険もある。ま、なんとかなるか。
 ただ問題なのは、これまでのわれわれの生活のリズムに若干の修正を施さなければならないことです。ちょうど、定年退職した夫が何もすることがなくただただ家でごろごろし始め、それまでの生活リズムに狂いを生じた主婦、という感じか。まあ、いってみれば主婦と主夫が一日中存在するわけで、これまでの主夫としての家事労働のある程度の軽減は見込めるにせよ、ずるずるとしたメリハリのない生活になるのではないか、という予感がするのですね。配偶者はいったん布団に入れば何時間でも寝る人だし、わたしはわたしで家事以外は仕事らしい仕事もしていないのであります。こうなるといったいどういうことになるのか。 

 バナーラス的生活

 ここで思い出すのは、約3年ほどのインドのバナーラスでの生活です。当時は二人とも一応学生ではありました。しかし、授業はほとんどないに等しく、学問のためではなく、ただインドで生活するための方便として学生という身分を使用していたのでおよそ勉強などというものもやらず、毎日ベッドに横になってごろごろと本を読むという生活でありました。他にやることといえば、おかずの材料を買いにバザールへ行ったり、ふらふらとガンガーの川岸を散歩したり、切手を買うのに一日かけて街の郵便局へ行ったり、小旅行に出かけたり、読む本もなくなったときのヒマつぶしで始めたバーンスリーの練習をしたり、演奏会に行ったり、人の家に遊びに行ったりという暮し。よかったなあ、あのころは。
 で、なぜあのころのバナーラス生活を思い出したかといいますと、今後展開されるであろう神戸ポートアイランド公団賃貸住宅50-515での生活も似たようなものになるのではないかと思ったからなのであります。
 違うのは、ここが日本であること、震災で整理されたとはいえモノがあふれていること、ちょっとしたことをするのにも馬鹿にお金がかかること、生活自体が喜びとなかなかなれない環境にいることくらいです。あのころは、バザールで野菜を買いに行くのも一種のエンタテイメントでありました。しかしここではねえ。ダイエーやトーホーといったスーパルマルケットでの買い物は生活義務のような感じだし、ただただ街を歩くという喜びにも乏しい味気ない街並みと人々。
 ともあれ、違いはいろいろあるにしても、二人とものったりと家にい続けるという意味では似ているのです。当分は二人のリズム調整を行いつつなんとなくこのままいくことが予想されます。

◎これまでの出来事◎

■7月14日(金曜日)~16日(日曜日)/ソウル/同行者:徳山謙二朗氏、原田さん

 9月17日ソウルで行われる「元長賢とアジアの仲間たち」コンサートのための打ち合わせで2年ぶりにソウルへ行きました。このコンサートの第1回目に出演したのがわたしの先生のハリジーでした。昨年はモンゴルの演奏家たちと行い、95年で3回目なのです。で、この年は、劉宏軍(笛)、金堅(古箏)、劉鋒(二胡)、張薇薇(楊琴)に出演してもらうことになり、企画とコーディネイトを引き受けました。 

 徳山氏の飛行機待たせ好き 

 スポンサーである徳山さんには、飛行機は待たせるものだという深い信念があるようです。当日の大韓航空のフライトは15:50ということでしたが、われわれが着座するとすぐ離陸というきわどさでした。わたしはボーディングのサインやアナウンスが出ると焦ってしまうので、「待っているみたいですよ」というのですが「ええねん。待たせといたら」と悠々なのです。
 最終コール、最終コール、という空港の叫びを完全に無視し、「あっ、そや、ベルト買わな」、「そうそう、お土産もいるなあ」、ゲートには航空会社のスタッフ以外既に人は誰もいなく、じりじりしながらわれわれをみているのも構わずに「ちょっと週刊誌買うてくるわ。ちょっと待っといて」戻ってくると、原田さんに「ちょっと、サンドイッチかなにか買うてきてえな」なのです。
 しかしこういうタイプはどこにでもいるらしく、徳山さんと原田さんを待っているわたしの前をときどき悠然と搭乗してくる人がいるのです。わたしにはとてもできそうにありません。

 ソウル訪問目的

 前回ソウルへいったときビジネスクラスだったために出されるシャンパン、ワイン、機内食などを拒むことなく食べ続けて、元長賢夫人の抜群の手料理を十分楽しめなかったということもあり、機内食は控えめにして金浦空港へ。当初は元長賢さんの新築パーティーに参加する、という目的もありました。しかし、雨のため工事が進まず延期ということになった。このことが出発日の当日に判明したため、2泊予定を徳山さんは「1泊ということにしょおか」ということになりました。 

 予定変更 

 そこで到着した空港で次の日のフライトに変更することになった。大韓航空のロビーへいくと、満席とのこと。どうするか悩んでいるとき、やあ、こんにちわ、てな感じでにこやかに近づいてくる人がいた。徳山さんの空港警察関係者の知り合いだったのです。そこで徳山さんは、こうこうこういう事情で明日のフライトにしたいんだがどうも席がないようだと訴えた。するとその人は、ああー、そうですか、私がなんとかやってみましょう、どれどれパスポートを下さい、という感じで関係者に交渉に行くのでありました。その間われわれは警察詰所のようなところで座って待つのでありました。・・・というような感じで、と書きましたが、そうしたやり取りが韓国語でなされるので推測するしかなかったからです。「じぁあ、明日の5時ころ来てください」ということになり、われわれは「さすが警察関係者、よかったよかった」といいつつタクシーに乗ったのでした。 

 相変わらずの渋滞 

 ソウルの道路交通事情は相変わらず凄まじいものがあります。空港から途中まではすいすい行くのですが、今やソウルの大きな目印となった金色のタワービルのあたりにくるとにわかに車の流れが悪くなる。強引な割り込みも手伝って道路は完全なアナーキー状況となるのです。市街地に入ったかなというあたりからこうした状況は次第に悪化の傾向が顕著になるのです。
 われわれの車(ちょっと高めの模範タクシー)は両側からすりよってきたバスにはさまれそうになる。ソウルの市街地道路は一体にかなり広めに作られているのですが、車の絶対量が多いのか、とにかく常に渋滞状態なのです。中心地の博物館(旧日本軍司令部のビル)は取り壊しの準備のため仮設のシートで覆われていました。
 われわれの投宿したホテルは、ソウル駅から近いヒルトンです。ホテルに到着したら、すでにKJC(KOREAN JAZZ CLUB)の権さん、金さんと朝鮮日報の権赫鐘さんがわれわれを待っていました。KJCの金さんとは前にお会いしています。「THE HUND-REDS GOLD FINGERS」というコンサートが最近ソウルで開かれ、ひとしきりその話題で盛り上がった後、今回のわれわれの目的である「元長賢とアジアの仲間たち」というコンサートのことになりました。権赫鐘さんは、ジーベックでこれまでやってきた「アジアの音楽シリーズ」のことを話したら非常に興味を持った様子でした。今後ソウルでもシリーズ化できたらいいなあと思っていましたが、案外できそうな気がします。

 ベルバラの元長賢氏宅

 9時近く、元長賢さんの新居へみんなで向かいました。徳山さんは権赫鐘さんの車で5分ほど早く出たのですが、わたし、原田さん、権さんの後からのタクシー組がずっと早く元さんのお宅に着きました。たしかに元長賢さんの新宅はまだ工事中でわれわれが到着したときも職人が仕事をしていました。
 2階の居間、食堂に通されましたが、その内装にはちょっとたまげました。全体がある種の統一したコンセプトで貫かれているのですが、そのコンセプトがすごい。
 すごい、としかいいようがない。「ベルサイユの薔薇」なのです。ソファ、ステレオなどの機械類の入った化粧戸棚、天井の彫り模様、食堂の天井、壁、テーブルすべてベルバラムードなのです。
 われわれが徳山さんたちを待っているあいだ(これが実に45分ほど)、元長賢氏は自身のビデオやテープを見せてくれるのはよいが、各機械のリモコン入れがまたすごい。竹かごにぎっしりとリモコンが入っているのです。元長賢氏宅で例によって夫人のおいしい家庭料理をしこたまごちそうになりました。特に魚のスープは絶品です。 

 同行者原田さん 

 ホテルでは徳山氏の同行者の原田さんと同室でした。伺えば原田さんは70年代からずっと公安関係で働いていた元警察の人で、かつて学生運動の活動家であったわたしは、こういう人たちと渡り合っていたのかと感慨を新たにしたのです。当時の学生運動セクト内部などに情報提供者を作ったり潜入させたりと、日本の公安警察システムのすごさと、一種の恐ろしさも感じました。
 原田さん本人はいつもにこにことしていてやさしい人です。世が世であれば出会うことのなかった人ですが、人間の出会いというのは不思議なものです。

 韓国式昼食

 翌日は、韓国でも財閥のひとつであるSKCの房極均部長さんらから昼食の招待。韓国田舎家風の中庭のある平屋建ての料理屋でした。ここでの食事も印象深いものでした。
 あまりに多くの料理が出されたのでいちいち覚えていません。少量多品種結果超満腹なのです。料理が一時に全面展開されるのではなく、客の摂食進行状況に応じて切れ目なく少量の料理が運ばれてきます。したがって、最初期に出されたものをあせって全部食べてしまうと後悔することになるのです。アンモニア発酵臭のある鮟鱇はごちそうだということでしたが、私にはもう少し訓練が必要です。 

 モンゴル大使夫妻と歓談

  本来の予定であるならばこの日に帰国でした。しかし、空港へ行ってみると、前日に空港でお会いした、ああー、そうですか、私がなんとかやってみましょう、どれどれパスポートを下さい、といってくれた空港警察関係者がなんとも苦悩の表情で、実は、席がとれなくて、と謝っているのでした。徳山氏が大韓航空のカウンターでねばっても席が取れないことが判明し、しかたなく再びソウル市内に戻りました。にわかにスケジュールの空白ができた徳山氏は、あっ、そや、モンゴル大使に会おう、と決めたのでありました。わたしと原田さんは彼に全面的に身を預けるしかありません。
 ということで夜は、モンゴル大使夫妻とホテル地下のイタリア料理店で会食。大使のお名前は失念しました。大使は、モンゴル語は当然としても、英語、ロシア語、韓国語を流暢に話す額の広い学者然とした人でしたが、徳山氏とはくだけた話を韓国語で楽しんでいました。夫人は韓国語がダメ、徳山氏は英語ダメということで自然にわたしはその夫人と英語でおしゃべりしました。なぜ唐突にモンゴル大使なのか、といいますと、実は前年の元長賢氏の公演でモンゴルの芸能団が参加し、そのときいろいろ便宜を計ってくれたからなのです。 

 雨のソウル尼寺 

 予定外の3日目は、元長賢氏夫妻と岸壁直下の川に面して建つ仏教の尼寺を訪問。雨が降っていました。そこで韓国式茶道とご飯のお焦げを煎餅状にしたスナックでもてなしを受けました。日本へ行ったときパチンコしたら勝ってしまって、と笑っていた快活そうな白装束の尼さんは、どう見ても30歳代後半から40歳代だと思ったほど顔つきや表情が若々しかったのですが、実は60歳だとのこと。不思議な感じでした。元長賢氏が軽く弾いたカヤグムが静かな尼寺にぴったりでした。おみやげにおおきなうちわをいただいたのに忘れてきてしまいました。
 尼寺で元長賢夫妻と分かれたわれわれは空港へ行きキムチを買い込み無事帰国。短い韓国訪問でしたが、様々な人たちとお会いし印象深い小旅行でありました。

 

■7月24日(月曜日)~7月31日(月曜日)/ジュニア・サミット・キャンプ95/岡山県牛窓町家島

 このキャンプは世界18ヶ国からやってきた6歳から17歳までの子供たちが同じ場所で共通の体験をするという目的のものです。中規模学習塾である能力開発センターと教育総研が中心となって運営されています。6回目の今回に音楽のワークショップを行いたいという主催者の依頼が知人の神戸外大の精神分析学者羽下大信さん(はげ、という苗字ですがはげではない)を介してもたらされ、インストラクターとして参加しました。 

 多国籍キャンプ 

 場所は、岡山県牛窓市からフェリーで10分ほどの前島にある「カリオンハウス」という建物が中心でした。周囲を歩いてもせいぜい2時間ほどの小島の、北端にあるこの建物は、通常は主催運営者である学習塾の研修所として使われているところで、個室はないものの二段ベッドや大食堂の完備した立派な宿泊施設です。キャンプ、とはいってもテント生活ではないのです。
 参加した子供たちは全部でおよそ120名ほど。参加した国も民族もさまざまです。英語、ロシア語、中国語、韓国語、スペイン語、ベトナム語の通訳が必要で、全体の挨拶のときなどは、挨拶者の数センテンスずつがそれぞれの言葉に訳されるので単純に6倍、時間がかかります。
 それぞれの活動メニューのときは学習塾の英語教師(ほとんどがアメリカ人の若者)の英語と日本語が基本ですが、タイ、ポーランドなどからの子供もいて相互のコミュニケーションをとるのが大変です。学校であれば教師に当たるカウンセラーたちは本当に大変だったと思います。早朝から深夜まで実によく働いていました。 

 失業したインストラクター 

 早朝から夜遅くまでの盛りだくさんのプログラムのなかに、スポーツ、エコロジー、アートの3つのアクティビティがあり、わたしはそのうちのアート担当ということになっていました。そのために、音楽遊びの内容や子供全員参加する曲を事前に作曲もしていたのです。
 ところが、全部で3コマあるはずのわたしの教室には、時間になっても一人の子供も現われない。プレゼンテーションやプログラムの組み立てなど理由はいろいろあるでしょうが、子供たちは、真夏の美しい瀬戸内海の小島にきて照明のついた教室で音楽をやるよりは外で体を動かして遊びたいと考えたのでありましょう。プラモデルのソーラーカーを作って走らせるエコロジー、ヨットやカヌー教室のスポーツ、木のしたでの竹細工などは人気がありました。
 全員でやる音楽授業の指導はありましたが、そんなわけでのっけから「失業状態」とあいなったわたしはとことんヒマでやることがなくなってしまったのでした。
 一人で浜へいってカヌーに乗ったり、散歩したり、誰もいない教室で読書や練習をしたり、妙にわたしになついてきた言葉のまったく通じないベトナムの少年と一緒に太鼓を叩いたり、人気のアクティビティをのぞいたりと、浮浪人のような、わたしを雇った主催者には申し訳ないような身分でキャンプを楽しんだのでありました。とはいいながらもちろんちゃんとしたギャラも出たのです。今年もあればいいなあ、こんな仕事が。
 イスラエルとパレスティナから参加した子供たちの親やエスコートたちも和気あいあいとして、子供の世界というのは素晴しいなあと思った1週間なのでありました。一定期間合宿して生活するのはたまにはよいものです。朝早いのが難点ですが。

 

■7月31日(月曜日)/インド音楽あれこれレクチャー/チーム25・岡山市

 せっかく岡山へくるのだから、と市内で阿雲堂という漢方薬局と鍼灸治療と気功をやっている小西道子さん明子さん姉妹(岡山シスターズ)が急遽仲間を集めてわたしのレクチャーを聞く会などというものを開いてくれたのです。あるラーガを深夜に練習すると幽霊が出る、という話はちょっと受けたようでした。小西姉妹は、お母さんが亡くなったショックがまだあり、いつもよりは元気がなかったようです。また、お母さんと住んでいた住居を引き払ったので薬局の狭い2階に当分住まざるを得ず大変な状態でしたが、今年にも家を新築する予定とか。そのときはまた居候ができそうです。

 

■8月10日(木曜日)~16日(水曜日)/十津川盆踊り合宿/クエスチョンまなぶ(三木学)/あや/あずさ/中川真/鈴木淳子・昭男夫妻/鳥取大学生矢部青年/水谷+2学生/ポーランド娘/藤井明子/富岡三智/佐久間新/小林秀行+青年/馬淵卯三郎

 8月10日から16日まで、奈良県の十津川村へ行ってきました。去年はじめてこの村へ行ったのですが、肝心の盆踊りの本番は見ずに帰ったので今年こそはと思っていたのです。
 この村は、友人である京都市立芸大の中川真さんや大阪芸大の馬淵卯三郎先生らが、盆踊りを中心とする芸能をフィールドワークの対象として10年来調査を行っているところです。アカデミズムとは無関係な小生と配偶者も、単純な夏期休暇村として滞在したのですが、盆踊りの練習などを通してふれあう村人たちとの交流や、世間のニュースから一切隔絶された数日間を過ごすことの魅力にはまりつつあり、どうも定例化しそうです。
 真さんらは、常宿として借り受けている武蔵部落青年会館に渡り鳥のようにこの時期にやってくる学生や研究者らの食事製作担当者として小生の滞在を期待しているらしく、どうもその作戦に見事にひっかかり結局まかない係をやっていたのでありました。

 十津川村の盆踊り

 十津川村の盆踊りの特徴は、 
・全村まとまって行われるのではなく、部落ごとに独立して行われること。
・踊りの伴奏は、4~5人ほどの女性ユニゾン歌謡と締太鼓のみであること。
・部落ごとにそれぞれ30~50種類の踊りのバリエーションがあること。
・基本的なステップが何種類かあり、その組み合わせのバリエーションで成り立っていること。
・踊りには1対の舞扇が使用されること。
・明治時代の廃仏毀釈によって全村は神道に統一されたが、仏教行事である盆踊りが現在まで続いていること。 

 村人は、8月1日から集会場などで踊りの練習を始めます。何十種類もの振り付けの異なる踊りであるため、相当練習しなければならないのです。われわれのようなアウトサイダーにとっては、足運びをなぞるだけでも最初は難しい。まして、舞扇の複雑な動きにはとてもついていけません。 

大野部落の盆踊り

 今回は初めて3部落の本番に参加しました。そのどれも印象的でしたが、とりわけ大野部落は強烈でした。大野部落は、国道筋から分岐した1車線の細い山道をくねくねと登り切ったかなり奥にある30戸ほどの部落です。盆踊り会場は村の集会場です。
 集会場へいたる石段に座って部落全体を見回すと、急峻な山の斜面にへばりつくように点在する家のたたずまいは、まるでネパールのシェルパ族の村、ナムチェ・バザールです。
 十津川村の村落は、どれも谷底の川沿いの国道からかなり上がったところにあり、それぞれの部落を行き来するのは相当なエネルギーを必要とします。急な斜面にへばりつくように建っている部落の集会場に人々が集まり、深夜まで盆踊りをします。
 真さんによると大野部落の踊りはちょっとええ加減なところがあり、わたしのようなヘタなものでも気楽に踊りに加わることができました。休憩になると食べ物やお酒もふるまわれます。こんなところがまだ日本にあるのですね。盆踊りが終わってみんな帰ろうとすると、村の一人が「そこのおれん家で2次会だあ」ということになり、またまたごちそうと酒攻めにあいました。茶の間にはとんでもなく立派なカラオケ設備が整った家でした。武蔵の宿舎に帰ったのは深夜の2時でした。 

やみつきになりそう 

 この大野だけではなくわれわれの寝泊りしている武蔵、川の対岸の小森といった部落でも盆踊りの本番に参加しました。どれも楽しかった。それにしてもみんな元気がある。わたしはちょっとしか踊っていないのにくたくたに疲れてしまいました。今年も十津川の夏を楽しみにしています。だらだらした十津川合宿には本当に病みつきになります。

 以下に列記したのは、その合宿での食事です。

8月10日夕食/京都風なす煮物、筑前煮の残り、親子丼具のみ、トマト+きゅうりのロシア風サラダ
8月11昼食/かつおの韓国風あえ、あじのしょうが梅煮/夕食/玉子カレー、野菜カレー(いも、きゅうり、なす、あげ)、もやしのナムル
8月12日小森地区本番/昼食/にゅうめん、カレーの残り/夕食/麻婆豆腐、さんまのみりん干、なすの浅漬け、かぼちゃのきんぴら
8月13日大野地区本番/昼食/ゅうめん/夕食/野菜カレー8月14日武蔵地区/朝食/台所に材料の残り、ほとんどなし/お粥状ご飯、出し昆布干椎茸かつおぶし梅干柴づけの胡麻油あえ/昼食/雑炊状/夕食/炊き込ご飯、かぼちゃのひき肉煮 

■8月19日(土曜日)/海の盆/神戸・メリケンパーク/出演:和太鼓一路他

 時勝矢こと井上一路さんが演奏するというのですごい人出のお祭りをのぞきにいきました。小柄な運送会社の配達人だと思ったのは浅野太鼓の浅野専務でありました。
 一路さんには今年も年賀状をもらいましたが、それによると昨年はヨーロッパで100回以上も公演を行ったそうです。活動にますます油が乗ってきた感じです。顔が以前よりこころなしかプクッとした感じになってました。 

■8月20日(日曜日)/神戸パーカッションフェスタ95/神戸朝日ホール/ナナ・ヴァスコンテロス 

 この催しは、ベン・ポスタ子供サーカス神戸公演などにがんばった田平純吉氏や近所の気功大人津村喬氏らが仕掛けているもので、今回で2回目です。
 副タイトルが「【癒しの森芸術祭】/地球のきもちシリーズ�/神戸復活祭~生命の躍動」というように「神戸の文化的復興を目指した」催しの一つです。 

 復興という言葉 

 こうした催しが行われ、すぐれた芸能文化に触れる機会が増えること自体わたしは大歓迎なのですが、チラシに書かれてある「・・・文化的復興こそがこころの蘇生と人間の復活への歩みになる・・・」という言葉にはちょっと抵抗があります。
 文化的復興。震災後、街の復興とあわせてこの言葉はずいぶん神戸にあふれました。そして多くのコンサートや「文化的」なイベントも催されました。震災前に比べるとその数は何倍にもなり、これが日常的になれば神戸は「文化」的な街だといえるでしょう。
 しかし、こうした現象は大地震という天災がもたらした一時的なもののように見えます。現に、ひところ新聞の文化面や震災関連ページににぎやかに掲載されたこの種の記事はめっきり減少しています。つまり、震災以前に近づいているといえます。
 復興とはすなわち、以前存在していたものがある事態によって衰退したのを元のように興すということです。では神戸には震災以前に「復興」しなければならない「文化」が存在していたのか。どうもわたしはこの「文化」という言葉が安易に使われているような気がするのです。もっとも、この通信では再三触れたりんけんバンドの林賢さんの言葉「ヤマトでは天災なんかがおきると、歌どころではない、という雰囲気」に抵抗するという意味でこうした場を提供することは歓迎すべきことです。 
 などと、ぶつぶつつぶやきつつもコンサートはすばらしいものでした。ナナという人は本当に不思議な雰囲気をもった人です。大きな目がトロンとしているので、ラリってるんですかね、とプロモーターのカンバセーションの前田さんに聞くと、いや、いつもあんな感じですよ、とのこと。自然という神に対する儀式のようなパフォーマンスと、絶妙に聴衆を演奏に巻き込んでいくやり方はすごい。舞台という閉じられた簡素な空間ながら、そこで彼がなにかを始めるとふわっとその空間が外界とつながる気がしました。 

■8月23日(水曜日)/ブルガリアン・ヴォイス/神戸・ジーベック

 ほとんどデッドなジーベックホールでも、彼女らの圧倒的な声量と透明なハーモニーはホール内の空気をびりびりふるわせました。わたしは彼女らのCDを何枚かもっていますが、やはりライブはCDの比ではないですね。 

■8月26日(土曜日)、27日(日曜日)/植松家通夜・葬儀/正念寺 

 前年に愛妻、和子さんをなくした植松奎二さんのお父さんが亡くなり、通夜と葬儀を手伝いました。お父さんはかなり高齢でしたので大往生といってもよいのですが、それでも近親者の不幸が続いたケイチャンにはショックだったと思います。
 2月、義弟である駒井幸雄の父親の葬式のとき、香典整理のために組んだ簡単な計算書式で威力を発揮したパワーブックが大活躍でした。そのときの理由もそうだったのですが、まともなシャツや礼服をもっていないので人の目に触れない裏方を志願したということもあります。 

■9月1日(金曜日)/七聲会レコーディング/京都・清水寺(せいすいじ)/七聲会(リーダー:京都・大光寺住職南忠信上人)、音響技術:川崎義博(NADI)、助手:寺原太郎、見学:林百合

 七聲会というのは、京都の浄土宗系の若いお坊さんたちの声明練習グループです。6月に声明とインド音楽の催しで彼らに依頼したことがきっかけで録音ということになりました。彼らの記録としてだけではなく、お経とインド音楽の和奏をより綿密に考えるための原資料として使うという企画です。まだ具体的にこの録音をどのような形にするかははっきりしていませんが、いずれCDのような形になればと思っています。 

 山奥の寺、清水寺(せいすいじ) 

 清水寺は京都の鞍馬の山あい、真弓八幡町の静かなお寺です。車の通行がなく比較的雑音が少ないということで南さんに候補地を探してもらっていました。若干太めのどちらかというと相撲部員というような感じの井上智之住職は快く本堂の使用を許可くださり、よい雰囲気で録音できました。
 ただ、後でテープを聞くと、スタート時の音程が最後には全体に半音ほど下がっていて、この種の録音の難しさを感じました。儀式などでは通常音程の上下などあまり問題になることはないのですが、のちのちこの録音に音楽を重ねようとの魂胆なので、もう一度2月に録音することになりました。
 それにしても、たった7人の読経が素晴しい倍音を生み出すことには驚きました。じっと耳をすますまでもなく高音域の倍音がまるで女性合唱のようにたちのぼるのです。
 無事レコーディングの後、南さんの同級生がやっているという川端通の飲み屋で打ち上げを行いました。そこでしこたま酒を飲んでしまい、結局醍醐にある寺原太郎+林百合子さんの家に泊まることになってしまいました。次の朝、南さんのお寺である大光寺へいき、節のあるお経を五線譜に直した『浄土宗法要集下巻』を入手しました。 

■9月2日(土曜日)~3日(日曜日)/毎日放送ラジオ/パーソナリティー:河島英五/田中峰彦、田中理子、中川真、ウーファン他 

 この話は中川真さんからきたものです。主旨はアジアのいわゆる民族音楽を網羅的に百貨店的に紹介するというもの。聞けばインド音楽の部はわずか数分でやってほしいという。しかも出演時間は番組の一番最後で、ほとんど朝。午前3時に局に入りました。スタジオ横の待合の事務所では、少しあやしげな青年がテーブルに座っていました。モンゴルのホーミーをやる、という。一人で練習したのだというホーミーはなかなかのものでした。わたしは田中夫妻とともにインド音楽組でありましたが、インドネシアの部のときにスタジオに入るよう乞われ、なんとバリ島のケチャの実演指導を真さんとやるはめになったのでありました。
 それにしても進行役の:河島英五氏はあまりによくしゃべる。実際の音楽よりも彼のしゃべりの方が圧倒的に多かったのではないか。真さんのコメントは、いかにもソフトで学者風。もっとハチャメチャとやってよかったのではないか。わたしのバーンスリーは、まったくデッドなスタジオでのライブで、本当になさけない音でした。 

■9月6日(水曜日)/レコーディング/ジーベック

 NADIの川崎義博氏の依頼でした。彼が背景音を担当しているCD-ROMの音源としてわたしのバーンスリーの音がほしいということでジーベックのスタジオで録音しました。そのCD-ROMの内容は、玄奘三蔵のインド大旅行を扱ったものらしいが詳しくは知りません。たしか、玄奘がインドへの途上の砂漠で夢をみる場面、ガンダーラに着いた場面、ナーランダーの大学に着いた場面などで使われます。 

■9月7日(木曜日)/「アンデスの精霊たちが歌う-ボリヴィア・アイマラ族」/伊丹アイフォニックホール/グループ・アイマラ 

 楽しい演奏会でした。彼らの音楽は、生活とつながった素朴さと快活さにあふれています。沖縄のように、なにか苦しいことがあれば「音楽しかない」と考える人達なんでしょうね。「歌どころではない」ヤマトには商品としての音楽はあふれていますが本当に生活とむすびついた音楽というのはあるのか、などと彼らの演奏を聴きながら思うのでありました。

■9月13日(水曜日)~10月20日(月曜日)/エイジアン・ファンタジー・オーケストラ/東京、シンガポール、クアラルンプール、ジャカルタ、東京/オーケストラメンバー/渡辺香津美:ギター、仙波清彦:打楽器、金子飛鳥:ヴァイオリン、梅津和時:サキソフォン+クラリネット、久米大作:鍵盤楽器、清水一登:鍵盤楽器、吉野弘志:コントラバス、吉田智:エレキベース、植村昌弘:打楽器、佐藤一憲:打楽器、田中顕:打楽器、深見邦代:ヴァイオリン、原えつ子:ヴァイオリン、熊田真奈美:ヴィオラ、立花まゆみ:チェロ、小川美潮:ヴォーカル、竹井誠:尺八+篠笛+能管、藤尾佳子:三味線、田中悠美子:義太夫三味線、内藤洋子:箏、木津茂理:民謡、木津かおり:民謡、木下伸市:津軽三味線、賈鵬芳:二胡、張林:楊琴、陶啓穎:琵琶、ドゥルバ・ゴーシュ:サーランギー、ナヤン・ゴーシュ:タブラー+シタール、金正國:チャンゴ、文京雅:カヤグム+アジェン、香村かをり:韓国打楽器、中川博志:バーンスリー

 スタッフも入れると総勢50人というこの公演旅行のことを日記風に最初の日から書き始めたら、シンガポールへ出発する以前のことだけで400字原稿用紙200枚をはるかに超過してしまい、とてもこの短い通信に掲載しきれません。その「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ始末記」がいつ終わるのか今のところのまったく分かりませんが、今年はとことんヒマそうなのでゆるゆる書こうと思っています。おそらく、これは願望ですが、次回のこの通信のときまでにはまとまっていると思います。
 シンガポール、マレーシア、インドネシア公演が国際交流基金、東京公演がピットイン・ミュージックの主催で行われました。もともとこのイベントは、ピットイン・ミュージックがこれまで東京で行ってきた「エイジアン・ファンタジー」のアジア拡大版といえるものです。日程は以下の通りでした。 

 9月14日~23日 リハーサル
 9月25日 成田~シンガポール移動
 9月28日29日 シンガポール公演/VICTORIA  THEATER
 9月30日 日シ郷土祭/NATIONAL STUDIUM
 10月1日 シンガポール~クアラルンプール移動
 10月5日6日 クアラルンプール公演/PWTC-MERDEKA HALL
 10月8日 クアラルンプール~ジャカルタ移動
 10月11日 バンドン旅行
 10月14日15日 ジャカルタ公演/TIM-GRAHA BHAKTI BUDAYA
 10月16日 ジャカルタ~成田移動
 10月18日19日 東京公演/東京厚生年金会館
 総計38日間家を留守にしたことになります。

 その間いろいろなことがありました。なかでもっともインパクトの強かったジャカルタ下痢顛末のみを以下に書きます。

 パダン料理

 それは、公演前日の深夜に始まったのでした。つまり、10月13日の未明です。
 12日、エアコンのないホールでの汗まみれのリハーサルのあと、金正國氏、香村かをり氏、賈鵬芳氏、植村昌弘氏と、ジャカルタに住んでいる高岡結貴さんの案内でホテル近くにあるパダン料理を食べに行ったのでした。
 そのレストランというか食堂は、板でぐるりを囲んだ簡単なつくりで、むき出しの屋根の波板鉄板がそのまま天井となっている、どちらかというと半永久的屋台といったおもむきの店でした。こういった店はたいていおいしいに決まっています。実際われわれの期待に背かず本当においしかった。結貴さんによれば、パダン料理の特徴はその辛さにあるとのこと。唐辛子偏愛主義者であるわたしは、テーブルにどんどん並べられる狂暴そうなたたずまいの皿を前にして期待感が高まるのでした。
 店にある限りの料理が小皿に盛られて目の前に全面展開され、一度でも箸というかスプーンをつけるとそれが勘定に組み込まれる、というのがパダン料理屋のシステム。色やたたずまいを見て、これはどうも、という皿を脇にどけるのがあとあとの勘定トラブルを避ける一策です。スパイスや業火にいたぶられた魚、野菜、チキン、マトンなどが人々の口中に早く飛び込みたいと待ち構えているのでありました。わたしは、それらがあまりにもおいしかったのでご飯を3度もおかわりしたほどです。実際、パダン料理はご飯の親しい友人なのです。
 缶ビールもそれぞれ1本ずつ頼み、6人で42,800ルピア。日本円で2,000円弱。一人3百数十円。こんなんでええんかいなというほど安い。
 おそらくこのパダン料理の暴食が、機会をうかがっていたわたしの腸内細菌の第一次活性化の好環境を用意したのであろうか。紹介してもらった高岡結貴さんには責任はまったくありませんし、同行したなかで急激な下痢に襲われたのがわたしだけなので、おそらくそれ以前の体調とその後の状況によるものと思われます。 

 ダンドゥット・バーで踊る 

 そのパダン料理の至福的満腹のひとときを過ごしたわれわれはホテルへ戻り、休む間もなく、ダンドット・バー、パウィットラ・チャンドラ(サンスクリット語源なので多分「神聖な月」という意味)へと向かうのでありました。
 同行者は、香村かをり氏、金正國氏、木下伸市氏、久米大作氏、金子飛鳥氏、原えつこ氏(この人は飲むと玲子という名前に変わる)、賈鵬芳氏、張林氏、陶敬頴氏、植村昌弘氏、佐藤一憲氏、高岡結貴さん+亭主のアグス、亭主の手下のヘンリとデデン、丸本修氏、高橋努氏。このバーは、ジャカルタの歌舞伎町てな感じの飲み屋街、マンガ・ベサール・ラヤ通にあります。
 われわれはここで汗だらけになって踊りました。ダンドゥットというのはそれほど激しい踊りではありませんが、なにせ場所は赤道に近いジャカルタであります。じっとしていても汗が出る。60年代を思わせるあやしくどぎつい色の照明やミラーボールが熱風をトロトロとかき回し、暗い店内はすえたような匂いがただよう。
 そこにはまた、孤独を癒すためにやってくる男性客を狂わさんと職業女性がうごめき嬌声をあげる。町のアンチャントッツァン風のバンドマンたちは切れの良いルンバのようなリズムを刻み、インド民謡で鳴っているような笛が曲をやわらげる。南方のまったりとした雰囲気にぴったりの踊りです。音楽は決して「洗練」されたものではなくむしろ「くさい」といってもよいのですが、大衆的娯楽場にふさわしい。
 こうした雰囲気のなか、われわれはまるでスポーツのように踊りビールをごくごく飲むのでありました。久米大作氏などは、しぼればしたたり落ちるほど汗まみれでした。激しいエネルギー消費と発汗、おそらくこの段階で、わたしの腸内細菌の第二次活性化の環境が整えられたと推測されます。
 12時を過ぎ、ぼちぼち帰ろか、というころスイカ、ブドウ、ミカンなどのフルーツが出ました。汗をかいたのでおいしく食べましたが、これらの果物摂取がわたしの腸内細菌の第三次活性化を著しく促進させたに違いありません。その兆しがわたしの腸内の奥底で頭をもたげつつあるのをかすかに感じてはいたのです。ここでわれわれは一人23,000ルピアを支払った。約1,000円強。パダン料理に比べてちょっと高いがそれでもかなり安い。 

 そして始まった

 ホテルに戻ったのは1時過ぎ。シャワーを浴び安眠状態へと突入せんとベッドに横たわったとたん、それがやってきたのです。
 下腹部臓器の安定した位置関係が突如狂いだしたような鋭い警鐘ののち、にわかにやってきたのでした。執拗な腸の収縮、収まったかなと思ってベッドに横になるとただちに再びやってくる。そのようにして、便器に座るということと読書がほぼ同義であるわたしは、それまで読みかけていた文庫本を読了したのでありました。
 さらに2~3時間おきに水のような下痢が続き、そのたびに虚空へ向かって罵りの言葉をつぶやき、残された唯一の印刷物である英字新聞を読了し、最後はお札の文字まで読むに至るのでありました。そうこうしているうちに窓の外が明るくなり、ああ、朝だあ、と思う間もなくまたバスルーム。すっかり夜が明ける頃になるとなんとなく体が熱っぽく感じられ、汗も出てきました。 

 ドクターの豹変 

 その日はリハーサルでしたが、とてもその気分ではなく一日ベッドに横たわるという完全な病人になったのでありました。途中電話をくれたピットインの小林絵美さんがドアのすき間から差し入れてくれた下痢の薬を服用しました。
 しかし、間歇的な下痢、熱っぽさ、腰痛は続く。エネルギーだけはとらんと、と思い、ルームサービスにバナナを注文。2本のバナナはたて半分だけ皮がむかれ、ナイフとフォークが添えられていました。たしか5,000ルピアほどでした。約230円。バナナもナイフとフォークを従えるとこうも出世するもののようです。
 次の日が公演本番だというあせりもあり、七時ころドクターに来てもらい注射と薬をもらいました。 若いメガネをかけたドクターは肌の色は濃いもののどことなくアメリカ人学生という感じでした。治療費170,000ピア。約8,000円。尻に注射を打つとき気恥ずかしそうに「I AM SORRY」という。なんとやさしいドクターなんだろうと感謝の念でお礼を申し述べると、ドクターの物腰はにわかにビジネスマンのそれに変化しました。
「あなたはインドネシアルピアで払うのか、米ドルでも円でもいいけど」などと現実的な問題に入る。こちらは一日中寝ていて、なにも食べていず元気がないので
「はあ。でも、へ、部屋には現金がないのです」というと、
「では下で両替をして下さい」
 ビジネス眼となった彼は、よれよれと着替えをしたわたしにピッタリよりそい一緒にロビーへ向かうのでありました。両替、お札枚数確認のあいだドクターは終始わたしの側で作業をスルドク観察していました。お金を受け取るとすばやく領収書を作成し、薬はちゃんと飲みなさい、バナナはだめ、リンゴにしなさい、なにかあったらここへ連絡せよ、ではさようなら、と去っていきました。

 わたしだけではなかったのだ 

 しばらくして、リハーサルを終えた賈鵬芳氏、木津茂理氏、香村かをり氏、文京雅氏、金正國氏らが見舞いにくる。賈鵬芳氏と茂理さんにりんごを買ってきてもらいました。注射が効いてきたのか、熱っぽさは減少した。あとで、NAYANや本村鐐之輔氏からも電話をもらいました。本村氏は「インド暮らしの中川君がダウンするとは思わなかった。みんなショックだったみたいよ」という。
 しかし、聞けば、体調を崩したのはわたしだけではなかったようでした。香村かをり氏、賈鵬芳氏も下痢気味だといっていたし、田中悠美子氏も実は下痢で臥していたのだという。この日の出来事以来、メンバーの会話には必ず、まだ続いているか、止まったか、といった話題が挿入されることになったのでありました。多かれ少なかれほぼ全員がなんらかの体調異常があったのです。なにもなく健康そのもの、なんて人は人間ではありません。

 帰国してから、下痢の止まらなかった人、始まった人、赤痢やコレラで隔離された人などが出現し、各地域の保健所は多忙だったと思います。わたしは、成田の検疫で1回、神戸にもどって中央保健所の保健婦さんがわが家に来て1回、わたしが保健所に出向いて1回と、都合3回の検便をしましたが、伝染性の細菌は発見されず、したがって隔離もされずでした。国のお金でホテル生活のような隔離入院は一度経験したかったなあ。隔離された金子飛鳥氏や仙波清彦氏の、すっごくよかったあ、との話を後で聞いて思ったのであります。

 このツアーでは、長期間寝食行動を共にしたスタッフ、ミュージシャンが本当にみな仲良しになりました。その意味でもわたしの95年の出色の出来事なのであります。

■9月17日(日曜日)/元長賢(ウォン・ジャンヒュン)定期演奏会/フォアマートホール(中央日報ビル・ソウル)/劉宏軍:笛子、金堅:古箏、劉鋒:二胡、張薇薇:楊琴/企画協力・コーディネイト:天楽企画 

 この公演では企画協力・コーディネイトという立場にもかかわらず、「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ」のため公演に立ち会うことはできませんでした。スポンサーの徳山氏には「よかったああー」とおっしゃっていただいたので、つつがなく成功裏に終わったことを知りました。 

■10月29日(日曜日)/「世界民族音楽祭-ふれあいの祭典」/社町国際学習塾/宋次郎:オカリナ、田中理子:タブラー、岸下しょうこ:タンブーラー、中川博志:バーンスリー他 

 関西日印文化協会の桑原さんからの紹介でした。実は、この催し自体の企画全体を2年前に行い、そのとき高田みどりさんやヤンチンの友枝良平さんらに演奏してもらったことがありますが、わたし自身が演奏するのは今回が初めてでした。
 宋次郎はさすがに人気があり、会場は満員でした。わたしの出番は一番最初で、ちょうど彼の前座みたいな感じでした。とても清潔な印象とはいえないひげの宋次郎は、前ボタンがいっぱいついたコスチューム、楽器を置くスタンドテーブルのたたずまい、なんとなく女性っぽいしぐさと語り口から、歯医者を連想しました。この日は女性だけの弦楽四重奏団が伴奏でした。彼の音楽は非常に分かりやすい。
 でも、わたしはわざわざお金を払って彼のコンサートへ行くことはないでしょう。 

■11月2日(木曜日)/「四天王寺ワッソ宵祭・アジア音楽の祭典」/宮永英一:琉球和太鼓、中国江南絲竹会(魏景世:二胡、コンリン:ヤンチン、張梅林:京劇、柴礼敏:琵琶)マダンペ・トゥンスェ:サムルノリ 

 和太鼓の林英哲氏のプロデュース、というので楽しみに出かけましたが、充実した内容とはとてもいえず、ちょっと失望でした。
 実は、この催しにインド人演奏家も参加させたいとHIPの森本さんにコーディネイトを依頼され、アミット・ロイとアメリカにいるプラネーシュ・カーンに連絡していました。ところが、わたしがクアラルンプールにいるころ、それがキャンセルとなったのでした。参加しなくてむしろ良かったかも知れません。レベルはともかくアジア人の顔をした演奏家が欲しいという依頼も引っかかりましたし、なにせ当日はやたら寒かった。屋外の特設舞台での演奏だったので、繊細なシタールやタブラーはそぐわなかったと思います。宮永英一さんがなかなか格好よかったのが救いでした。サムルノリも熱演ではありましたが、とにかく寒く、ぶるぶる震えていてそれほど楽しめませんでした。 

■11月9日(木曜日)~10日(金曜日)/HACOライブリハーサル/ジーベック/HACO:うた、打楽器、下田展久:電気ベース、今堀恒雄:ギター、横川理彦:マンドリン、6弦電気ベース、サム・ベネット:打楽器、、クリストファー・スティーヴンス:朗読、中川博志:バーンスリー

 このライブは、<アフター・ディナー>というバンドを率いてヨーロッパ公演をやったことのあるHACOの2枚目のアルバム発売と連動したものでした。実は、そのアルバムにわたしもチョロッと参加している関係で、ゲスト出演ということになりました。リハーサルは、贅沢なことにジーベックホールを使いました。わたしの出番はほとんど2曲のみで、演奏しているよりも待っている時間の方が圧倒的に多かった。HACOの曲はちょっと変わっていてポピュラーというほどのことではないにせよ、熱狂的なファンがいます。現にライブツアーでは追っかけ娘たちがおりました。 

■11月11日(土曜日)/「能の音楽・間の音楽」/ジーベック/レクチャー:三村明義、笛:赤井啓三、小鼓:久田舜一郎、久田陽春子、大鼓:大村滋二、太鼓:三島元太郎 

 このコンサートは久々に勉強になりました。能のリズム構造がなんとなく理解できました。それまで、出鱈目としか思えなかった能の囃子が実は緊密な構造をもっていたことを知ったのは収穫です。「ひとくさり」とは、4拍を基準とした能の音楽の単位である、能での1拍というのはかけ声に集約されたエネルギーの解放点であり次の拍との時間は関係しない、したがって西洋音楽のような均等に刻まれたリズム概念とはまったく異なる、など分かりやすい解説と実演でよく理解できました。それにしても、舞台上できちんと正座して解説した三村明義氏がしたたるほど汗だくになっていたのは気になりました。ハンカチを差し出そうかと思ったほどです。 

■11月13日(月曜日)/HACOライブ/京都・磔磔/HACO:うた、打楽器、下田展久:電気ベース、今堀恒雄:ギター、横川理彦:マンドリン、6弦電気ベース、サム・ベネット:打楽器、、クリストファー・スティーヴンス:朗読、音響:川崎義博、堀田哲也:楽器その他、中川博志:バーンスリー 

 磔磔は初めてでした。京都の真ん中にある蔵を改造したライブハウスはなかなかよい雰囲気でした。お客さんはそれほど入らなかったものの気持ちはよかった。ライブが終わって、音響の川崎選手が、客としてきていた鈴木昭男さんの強いすすめで近所の酒屋で買った日本酒が実は完全な水であった、などということもありました。酒屋の前でわれわれは、酒はうまくなるとひたすら水に近くなるのだ、などといっていたのです。まさか本物の水が入っていたとは。店のオバサンは店頭の見本用の瓶をそのまま売ってしまったのでありました。 

■11月14日(火曜日)/HACOライブ/大阪・ミューズホール 

 ほぼ満杯に客が入りました。知り合いの顔も多かった。ダルマ・ブダヤの山崎君、十津川で一緒だったクエスチョンまなぶなど。打ち上げは、タレントのジミー大西の母親がやっているという居酒屋でした。どの料理にも一工夫ありなかなかの店です。松茸ご飯が出たのがラッキー。 

■11月16日(木曜日)/HACOライブ/東京渋谷・オンエアーウェスト

 朝早く起きて新幹線ひかり32号に乗り下田展久氏と東京へ。下田氏はジーベックのプロデューサルなのですが、今回は昔とった杵柄ならぬ電気ベースの演奏者としてわたしと同じゲスト出演でした。
 HACOのCDも録音で参加していたため引きずり出されました。
 オンエアーウェストというのは渋谷のラブホテル街の中心に位置するライブハウス。坂の多いこの近辺は細い道が錯綜し、田舎者のわたしは迷ってしまうのです。サウンドチェックの待ち時間を利用し散歩をしました。パチンコでしこたま負けました。東京のパチンコ屋は田舎者をバカにしている。くそ。会場に戻ろうとしたら道に迷ってしまいましたが、途中でサム+当時婚約者現在配偶者いとうはるなさんと下田さんに出会い、壁の穴でスパゲッティを食し無事戻ることができました。ライブはこの東京が一番良かったかも知れません。ハムザ・エルディンとマネージャーの山口さん、尺八の土井敬輔氏も見えました。 

 ハムザに帽子を進呈 

 ライブ終了後、ハムザ、山口さん、土井さんと近所のおでんやで軽く飲む。ハムザがあまりにわたしの帽子を褒めるので進呈しました。この帽子はライブ中ずっとかぶっていたもので、モロッコ人の友人モハメッドから「褒めもらい」したものでしたので仕方ありません。ハムザたちと分かれて今度はオンエアーの7階で進行中だった打ち上げに参加しました。アジアツアーで一緒だったシステマの澤井氏も見えていました。今回のHACOツアーのギタリスト、今堀恒雄氏のマネジメントをしているのです。
 宿泊先は、青山のアジア会館。川崎氏、クリストファー+HACO夫妻も同宿でした。このホテルは安くて便利です。雰囲気もヨーロッパのユースホステルのような感じでなかなかです。 

 姫野翠先生他界 

 というような行動をしていたのでまったく知らなかったのですが、実はこの日の朝、芸能人類学者でインドなどでもお会いしたことのあるやさしい姫野翠先生が亡くなったことを後で知りました。がりがりに痩せていましたが、まだまだお元気だと思っていたのです。この通信の読者の一人でした。ご冥福をお祈りします。 

■11月17日(金曜日)/高田みどりコンサート/水口町碧水ホール/高田みどり:打楽器、梅津和時:サキソフォン/企画制作:天楽企画

 川崎氏とベッドで飲んだビールをまだ体中に残したまま7時に飛び起きる。9:30発のぞみ9号で京都を経由し草津まで行きました。のぞみには梅津和時氏が同乗することになっていました。のぞみの車内、京都駅の到着ホーム、草津行きのホーム、普通列車内、草津駅とずっとあのスキンヘッドの梅津さんを探したのですが見あたりませんでした。草津駅には水口町教育委員会の中村道男さんが車で迎えに来ておられ、「あれっ、梅津さんは一緒じゃないんですか」と開口一番。同じ新幹線に乗ったのであればとっくに着いてよいはずなのに梅津さんの姿は見えない。構内の喫茶店で待つこと40分ほどして彼のスキンヘッドが現れました。中央線で事故があり予定ののぞみには乗れなく遅れてしまったということでありました。とにかく忙しい梅津さんは、ほとんど移動の毎日という。まったくこの人はどこにでも出没するのです。熊本で賈鵬芳氏に会ったとかいっていました。
 そうこうしているうちに演奏会場である碧水ホールへ到着。高田みどりさんはすでに前日から来ており楽器のセッティングも終わっていました。ブラジルから帰ったばかりのまだホットな時差ボケの残る高田さんは、一緒に積んだハズの彼女の楽器が到着せず、急遽打楽器レンタルの貞岡幸男さんの楽器を借りてこの日のコンサートをやるということでした。したがって今回はマネージャーの藤井さんと一緒ではありませんでした。 

 知的で緊張感のある演奏 

 コンサートは期待以上でした。高田さんは相変わらず知的で緊張感のある演奏を聞かせてくれました。また、何度も共演したことのある梅津さんとのコンビネーションもぴったりでした。梅津さんは、一緒だったアジアツアーのときも感じたのですが、クラリネットのポワーンとした雰囲気がとてもよかった。ほぼ毎年このホールでのコンサートを企画していますが、聴衆が熱心で演奏者にとってもいつも気持ちの良い雰囲気です。ここの担当者の若い上村さんもとても勉強熱心で今後も楽しみです。

「いずもや」打ち上げ 

 コンサート終了後、神戸から配偶者が一人で運んできた中川車で高田、梅津氏の宿泊地京都へ行きました。かなり遅い時間になっていました。みなハラヘッタと申し述べたので、梅津さんがひいきだという河原町三条の「いずもや」で打ち上げ。この店は11時過ぎから開店するという音楽関係者にはうってつけの店です。ロイヤルホテル玄関前のビルの2階にあります。名刺にもそう書いてあります。ここでわれわれは3時過ぎくらいまで飲んで食ったのでした。馬のたてがみ、などというメニューもあります。てっきり毛の唐揚げかなにかと思っていたら、脂肪のかたまりのようなものを出されました。時差ボケなのよ、と申し述べられた高田さんがもうろう状態になったところでお開き。
 わたしと配偶者は神戸に帰る予定でしたが、配偶者はビールをがんがん飲み、わたしも焼酎を自動車運転にかなりの支障をきたすほど飲んでしまったので京都に一泊することにしました。たまたま空き室のあった京都トラベーズインという修学旅行専門のような旅館でした。次の日は、ピカソ展などに行ったり岡崎あたりを散歩して久しぶりに京都散策の一日なのでありました。ぽかぽかした陽気の鴨川の河原を散歩しつつ、インスタレーションの準備をしているはずの鈴木昭男・淳子夫妻を探しましたが見あたりませんでした。それもそのはずでインスタレーション設置場所は白川の河原なのでした。 

■11月25日(土曜日)/KOBE HEART/神戸ハーバーランド・アートスペース

 撤退した西武デパートの後のスペースでのKOBE HEART。今回はおおたか静流さんのバンドとしてタブラーの吉見征樹君が来ていることを知り出かけました。最初の大塚まさじの鼻にかかったいやらしい感じの歌に嫌気がさし途中でパチンコにいったのは大失策。二人で大負けしてしまいました。頭をかっかさせながら会場に戻るとちょうどおおたかさんのステージでした。NHKが主催者だったからか、変に聴衆に媚びた若い女性の司会がたまりません。司会なんてものはそっけなくやって欲しい。 

■11月27日(月曜日)/アンクルンワークショップ/のじぎく養護学校わかあゆ分教室・滝野町 

 この仕事は、ジュニア・サミット・キャンプのときにも登場した知人の神戸外大の精神分析学者羽下大信(はげ、という苗字ですがはげではない)の紹介でした。アンクルンは、震災で玄関前の土地が崩壊した民族楽器収集家および兵庫県立夢野台高校の立田雅彦先生にお借りしました。わたしはインド音楽が専門で、インドネシアの楽器であるアンクルンの指導なんてちょっと変なのでありますが、簡単な楽器でかつ集団演奏に向いているためこれでいこうと決めました。直接楽器に触れる機会が少ないので、知能障害者の子供たちも喜んでいました。こうした施設で働く人たちは本当に大変ですね。 

■11月30日(木曜日)/映画「グレングールドをめぐる32章」/神戸朝日ホール 

 この映画は久々のヒット。グレングールドという人は本当に変わった人だったんですね。 

■12月5日(火曜日)/ティポグラフィカライブ/神戸チキンジョージ 

 ティポグラフィカとは、HACOのツアーで一緒だった今堀恒雄氏のバンドです。震災で完全に崩壊したチキンジョージが12月にようやく再開しました。以前よりもちょっと広くなった感じです。会場には、ジーベックの下田氏、森信子嬢、川崎よすひろ氏もきていました。ティポグラフィカは、なんとも表現しにくいサウンドのバンドです。ギター、ベース、トロンボーン、ドラム、サックスという構成ですが、いわゆる普通のジャズともロックともポップともいえない、複雑な、なにかこれまで接したことのない新しさを感じました。このライブで、同行していたシステマの澤井氏、堀田君に再開。打ち上げは近所の遅くまでやっているというのが唯一のウリの「西海岸」。 

■12月12日(火曜日)/土井敬輔+中川博志ライブ/神戸・あしゅん/土井敬輔:尺八、浩子クラット:タブラー、ピーター・クラット:タンブーラー、寺原太郎:タンブーラー

 尺八奏者の土井敬輔さんがバーンスリーを習ってみたいといってわたしに電話をくれたのが6月くらいだったと思います。その後、わたしのもっているバーンスリーの一本を手に入れ練習を始めたのですが、元来が尺八吹きでかつジャズの知識もあるのでまともに練習に取り組めばすぐ上達するに違いありません。不定期ですがわたしに習っているところです。その土井さんが、実家の岡山で法事がありついでに神戸に立ち寄りたいと連絡がありました。それじゃあせっかくだから「あしゅん」でライブでもやろうよ、ということになりました。前日にあさこ夫人とともにわが家に宿泊しました。 

 お客さんは二人だけ 

 尺八とのフリーセッションはずっと以前京都の森川玄風氏やある催しで三橋貴風氏とやって以来です。ライブは、土井さんの本曲、鶴のすごもり、阿字観、わたしの古典ラーガ・ヤマン、そして美空ひばりの曲「りんご追分け」をベースにしたフリーセッションでした。お客さんはNHKの仕事で神戸に来ていた鎌仲ひとみさん(カマチャン)と寺原太郎の同居人林百合子の二人だけ。林百合子はほぼ「関係者」に近いので実質的な客はカマチャンのみ、しかもそのカマチャンが来たのはライブ予定時間を40分も過ぎたころです。
 というように、集客という意味ではてんで話にならなかったのでありましたが、ライブの内容はなかなか良かった。土井さんの本曲も迫力があったし、セッションも即席にしては興奮ものでした。久しぶりに共演したヒロコさん(山中浩子)も長い空白の割には以前のノリを十分聞かせてくれました。機会があれば今後もやりたいと思っています。出演料は5人で2000円。打ち上げでビールを飲んだので約5000円の赤字でした。 

■12月13日(水曜日)/カシオペアライブ/神戸チキンジョージ/立花まゆみ+尾崎知裕 

 立花まゆみ氏と尾崎知裕氏、この二人は「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ」アジアツアーのチェロ奏者と照明スタッフでした。ツアー後半からこの二人は急速にあやしくなりとうとう結婚してしまったのです。立花さんが30代後半、尾崎選手が20代後半という組み合わせ。尾崎選手がたまたまカシオペアのライブのスタッフだったこともあり神戸にやってきたというわけです。会場でお会いした二人はもうべたべたでした。カシオペアは初めて聞きました。ギター、ベース、ドラム、キーボードという「古典的」エレキバンド構成で非常に分かりやすいノリのよいサウンドが人気の元です。近所のトーホーやダイエーなどのスーパーで常に流れている音楽みたいでした。実際そうなのかも知れません。 

■12月16日(土曜日)/「インド三大舞踊・音楽・民族衣装へのいざない」/大阪天満橋・ドーンセンター/ナリニ・トシュニワル:カタックダンス、柳田紀美子:オリッスィーダンス、櫻井暁美:バラタナーティヤム、南澤康浩:シタール、古幸邦拓:タブラー、寺原太郎:タンブーラー、中川博志:バーンスリー

 演奏は櫻井暁美さんから依頼されました。「阪神・淡路大震災救援」が主旨だということで出演者は全員無償でした。建物は大丈夫だったがそれなりに物的被害のあったわたし、半壊アパートの退去を余儀なくされた寺原太郎、ほとんどの家財を失ったというナリニ・トシュニワルなど、一応われわれも「被災者」なのでありまして、「阪神・淡路大震災救援」だから出演料はタダ、というのはちょっと考えものです。この種のイベントの主催者はスポンサードの助成を強力にあおぐなどもっと努力すべきです。 

■12月24日(日曜日)/ダンドゥット・クリスマス+忘年会/新宿ピットイン/出演者:巻上公一、山本京子、仙波清彦、植村昌弘、佐藤一憲、田中顕、金子飛鳥、梅津和時、多田葉子、渡辺香津美、浦山秀彦、久米大作、清水一登、吉田智、中川博志/忘年会出席者:出演者+熊田真奈美、立花まゆみ、竹井誠、藤尾佳子、田中悠美子、内藤洋子、木津茂理、木津かおり、賈鵬芳、本村鐐之輔、小林絵美、横道文司、小柳津彰啓、白澤唯司、菊地昭紀、尾崎知裕、ジェフリー(飛鳥のフィアンセ)、丸本修、小倉良男、高橋努、磯野義幸、中村隆、立石ゆり?、れいち、土井敬輔、あさこ、鈴木、品川他/演奏曲:1.Disco Dancer、Goron Ki na Kalon(happy)、Pengobat Rindu、Bunga Sorwai、Dangdut Reggae、2. 浪速節だよ、人生は、キーハンター、ベンチャーズ、魅せられて、星降る街角、別れても好きな人、おやじの海、経験、ピーナッツメドレー、3.Pacaran、Hanya Kamu、Aduh Pusing、Goronki(sad)、再びDisco Dancerでフィナーレ 

 そうそうたるメンバーでしたが、ハチャメチャなライブでした。もともとこの企画は、ダンドゥットというインドネシアのダンスミュージックやインドのポップス音楽の「くささ」に魅せられた梅津和時氏と師匠仙波清彦氏の発案。結果は、充分に「くさく」なりましたが、即席なので洗練された「くささ」にはいまひとつでした。
 とはいえ、こうした遊び感覚のライブは本当に楽しい。お客さんはともあれ、ミュージシャンが最も楽しんだライブなのです。新宿の「御苑スタジオ」でリハーサルを一応やったのでしたが、なにせ時間がない。ドサッと楽譜を渡され、ほとんどの曲は一回の通しだけでした。こんなんで舞台に立つわけでありまして、わたしは結構でずっぱり状態でしたが楽譜はほとんど見ていませんでした。ははは。適当にぴらぴら状態なのです。満員総立ち見のお客さんも体を動かしていましたのでそれなりに楽しめたのではないでしょうか。
 打ち上げは同じ場所で11時ころからスタート。ほとんどアジアツアー同窓会クリスマスパーティーでした。ちょっとやってみてよ、と頼んだ巻上公一氏のホーミーにはたまげました。ヒマつぶしに書いたわたしの「亜細亜幻想楽団捕物帖」あらすじおよび配役は結構受けました。とことんヒマになったら脚本まで完成させたいと思っています。進行中の「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ・アジアツアー始末記日記風」にも付録で掲載する予定です。
 前日から尺八の土井敬輔氏宅に宿泊でした。 

■1月4日(木曜日)/雀仙会/神戸・中西勝宅

 ジャジャーン。わたしが優勝しました。 

■1月13日(土曜日)/環境教育ネットワーク・千刈ミーティング/関西学院千刈キャンプ・兵庫県三田市/開会パフォーマンス/クラット・ヒロコ:タブラー、クラット・ピーター:タンブーラー、中川博志:バーンスリー

  ジュニア・サミット・キャンプで知り合った川島憲志さんからの依頼でした。前日にキャンプ会場(といってもちゃんとした立派な研修所です)に入り酒を飲みました。聴衆や周りの雰囲気もよかったので気持ちよく演奏できました。このキャンプの事務長である岡國太郎さんはわたしと同じ大学の同じ学部の一年先輩でした。世の中狭いものです。 

■1月16日(火曜日)/大震災一周忌法要/海向山阿弥陀寺・神戸市兵庫区/主催:浄土宗西山禅林寺派/クラット・ヒロコ:タブラー、クラット・ピーター:タンブーラー、中川博志:バーンスリー

 わたしたちがサウンドチェックをやっている最中にどかどかとお坊さんたちが強引にリハーサルを始めたのにはびっくり。配偶者久代さんは久しぶりにタンブーラーを演奏しました。演奏中、ふっと震災で亡くなった人たちのことが頭に浮かび、ちょっと改まった気分になりました。 

■1月16日(火曜日)/阪神大震災メモリアルコンサート/ハーバーランドプラザ・神戸

 これはオールナイトの「ジャズ祭」のようなものでした。ピットイン・ミュージックの本村鐐之輔氏から、渡辺香津美氏と一緒に神戸だから飲もう、というお誘いを受けていました。結局、渡辺香津美氏とベースの井野さんのデュオ以外まったく聴かないで、彼らの出番が終わったらそのまま一緒に飲みに出かけました。ですから、この項は本来宴会の部に掲載されるべきかも知れません。本村鐐之輔氏、渡辺香津美氏、井野氏、配偶者、わたしの5名は、ワシントンホテル地下の「いろはにほへと」で3時半ころまで飲みました。食い物の話で盛り上がりました。皆それぞれ食い物に関しての幅広い蘊蓄があるものであります。井野氏とは会うのが初めてですが、本当に楽しい人です。畑をやっている、という実践者ならではの食に対するこだわりも大変なものです。常に多忙の本村鐐之輔氏が、てめえら何にも知らねえな、キムチっつうのはこうして漬けるんだよ、などと、意外な田舎育ちの優位性を誇ったのもおかしかった。

 

◎これまでの宴会リスト◎ 

■8月5日/佐久間新インドネシア留学お別れ宴会/夙川河口
■8月18日/鈴木健介氏来宅/中華料理「紅宝石」~「安兵衛」
■9月10日/カレー宴会/奈良・松本宅
■11月12日/AFOミニ宴会/大阪・鶴橋焼き肉「大倉」/本村鐐之輔、横道文司、小林(シンガポール日本大使館)、小林絵美、永松宏康、中川博志
■11月22日/高岡+アグス来神宴会/焼き鳥「武蔵」/+山崎、河原、小林
■12月2日/同窓宴会/明石・湊宅/湊隆、奥山隆生、安藤朝広、中川博志
■12月9日/駒井宴会/明石・駒井家/カニ/モノポリーゲーム
■12月14日/中川家小規模宴会・配偶者誕生日/寺原太郎、林百合子、川崎義博、下田展久、森信子
■12月16日/CAP宴会
■12月20日/NADI宴会/常夜鍋(ぶたとほうれん草)/川崎義博、島田政紀
■12月26日/中川家小規模宴会/進藤紀美子、今井球
■12月27日/天藤建築設計事務所忘年会/有馬グランドホテル
■12月28日/宝地院忘年会/神戸・宝地院
■12月31日/寺原太郎・林百合子来宅、安兵衛
■1月1日/駒井家宴会
■1月5日/NADI宴会/島田政紀、川崎義博、こうちゃん、森信子(ともにジーベック)、長尾義人、工藤聡史・悦子、永吉一郎(神戸デジタルラボ)、中川博志・久代

 

◎これからの出来事◎

■1月27日/アクト・コウベ/神戸・ジーベックホール/20:00~28日5:30AM/出演予定者/バール・フィリップス:ベース、フェルディナンド・リシャール:ベース、ハンス・バーグナー:ヴァイオリン、アラン・ディオ:ライブペインティング、サム・ベネット:パーカッション、歌、HACO:歌、川崎義博:サウンドデザイン、鈴木昭男+淳子:サウンドパフォーマンス、ダンス、内橋和久:ギター、斉藤徹:ベース、川端稔:サックス、赤松正之:コンピュータ、吉沢元治:ベース、和泉希洋志、ニシジマアツシ、坂本悦子:サックス、ピーター・クラット:シタール、浩子クラット:タブラー、リチャード・タイテルバウム:尺八またはシンセサイザー、杉山知子他 

 バール・フィリップスが来神したという話は前号の通信で触れましたが、それが今回のオールナイトコンサートのような形にまで発展しました。出演者は総勢30余名。ジーベックの下田さん、森さんと組んだプログラム構成が大変でした。わたしもジャズみたいなフリーインプロビゼイションの演奏をするつもりです。かなり面白いコンサートになるはずですから是非みなさんおいで下さい。
 このコンサートのために来日するアラン・ディオはわが家にしばらく居候の予定です。フランス語しか話さないという彼の滞在はちと心配であります。アランの中川家宿泊を依頼した下田さんの理由は、配偶者の存在でありましたが、関学仏文出身の配偶者のフランス語はほとんど期待できないのです。

■2月第1週/七聲会レコーディング

■6月/レコーディング/ベルン・スイス

 尺八の土井敬輔氏のアルバムの録音をスイスで行うことになりました。わたしは全体のコーディネイター兼通訳として参加の予定です。この内容につきましては次号のこの通信で詳しく報告する予定です。


 OD-NETレーベルのCD依然として在庫あり。「D.K.ダタール/インドの瞑想ヴァイオリン」と「ウスタッド・スルタン・カーン/雨期のラーガ」です。購入ご希望の方はご連絡お願いします。各3000円 
 また、サマーチャール・パトゥル1~11号をまとめた冊子もまだ残っています。ご希望のかたは、郵送料390円切手を同封の上お申し出下さい。またまた、拙訳『インド音楽序説』(東方出版、1994/3,800円)はまだ大きな書店には並んでいます。

 

◎配偶者の一言コーナー◎ 

 と勝手なタイトルをつけたのは本誌主宰者です。当人同様、今年から浮浪人になった私は、これまでは配偶者または精神的協力者として本誌背景をチョコマカするのみでしたが、次号から堂々デビューすることを宣言します。よって今後は一言コーナーなどというセクハラ的な小見出しでは満足していません。それにしても3年前の正月だったかにおこなった関白宣言はこの際、撤回せざるを得ないでしょう。

 
◎サマーチャール・パトゥルについて◎

サマーチャールはニュース、パトゥルは手紙というヒンディー語です。個人メディアとして不定期に発行しています。

編集発行発送人/中川博志
校正および精神的協力者/中川久代
印刷/関西気功協会のリソグラフ
〒650 神戸市中央区港島中町3-1-50-515
電話/FAX 078-302-4040