「サマーチャール・パトゥル」22号1997年10月7日

 世間では、神戸市内の中学生による通り魔殺人および小学生の淳クン殺人事件やら、ダイアナ元英国皇太子妃交通事故死やら、マザー・テレサの死去やら、これまた神戸の山口組関係の殺人事件があったり(震災以後、まったく神戸市は有名病にとりつかれているとしか思えません)、日米安保体制がいつのまにか具体的な仮想戦争準備協力体制に変わりつつあったり、などなど、騒がしいというか、ま、いつも通りというか、そういう状況でありますが、皆様はいかがお過ごしでありましょうか。
 この4月から神戸市外大二部の学生となった久代さん、そして通年の絶対的ヒマ状況のなかでもとりわけヒマなわたしは、ローゴとかショーライとかアシタとかをあまり考えずに、ごろ寝的平安極楽生活を楽しんでおります。でも、この、ごろ寝的平安極楽生活は、精神的にはきわめて健康といえますが、肉体的には、運動不足による出腹体重増加傾向がじわりじわりと実感されるのであります。

◎これまでの出来事◎

3月20日(木)18:30~/「インド音楽に親しもう-魅惑のバーンスリー」/大阪天満橋・ドーンセンター視聴覚スタジオ/クラット・ヒロコ:タブラー、岸下しょうこ:タンブーラー、中川博志:バーンスリー+レクチャー/主催:ギータンジャリ友の会

 ギータンジャリ友の会というのは、バラタナーティアムの櫻井暁美さんが主宰する団体です。通常は、インド舞踊を中心とした活動を続けていますが、今回はわたしのレクチャーと演奏でした。
 この日の聴衆は、直前にお電話して来ていただいた住金物産の池田さんや、昨年のわたしのワークショップでことのほか熱心だったケルマン夫妻など12名。ジャズドラマーと結婚した岸下さんに久しぶりにタンブーラーをやってもらいました。少数ということもあり、なんとなく家庭的な雰囲気でありました。

 

3月29日(土)~4月1日(火)/インサイド・ジャパン・ツアー添乗及び案内及び通訳/大円院・高野山

 ひょんなことから、ヒロコさんのダンナ、ピーターに頼まれてにわかツアコンをしました。「今回は最初だからあまりギャラは出ないけど、将来はうんと儲ける。1回で数十万はかたい。これで出稼ぎに行かなくともインド行きの費用は出せるのだ」などと調子のよいピーターに頼まれたのです。でも、ツアーというものは細かなところで出費がかさむものです。ピーターは最終的には「とんとん」だったようであります。次回はどうなるか。
 さて、このツアーは、主にドイツ系の人々が参加して います。インドや中国など、オリエンタルな精神文化に触れる旅、の日本版。京都、奈良、高野山を2週間で巡る、というものでした。
 このツアーを企画したのは、ピーターのスイス人の友人ハンス・ベヒシュタイン。彼は、いわばインドフリークの一人で、本人もシタールを演奏します。楽器を習うことだけではなく、ずっとインドに関わりたいということから旅行代理業を始めた模様であります。わたしは会ったことはありません。そのハンスが、たまたま結婚して日本に住んでいるピーターを世話人兼案内人にしてお客さんを日本に送り込もう、という魂胆です。ハンスの旅行代理店は結構繁昌しているようで、日本の他にも数々のコースを設定してコンスタントに客を集めているそうです。
 いくら日本に住んでいるとはいえ、旅館や交通機関の手配など、日本語のおぼつかいないピーターには結構荷の重いものであるはずなのに、やっちまうのでありますね、彼は。もっともヒロコさんがいるのでだいぶ助かってはいるのでしょうが。京都、奈良と一行を案内したピーターから、奈良から高野山への行程の打ち合わせのために電話がきました。
「京都はどうだった」

もう、文句ばっかりいう連中でね

「もう、文句ばっかりいう連中でね。京都では移動するのに馬鹿に時間がかかっちゃうし、もうくたくた。予定外のゼニもけっこうかかるし。それにみんなクレージーなドイツ人なのよ。一組はレズ、一人はエイズのオッサン、あとは独身のバアサン、離婚した中年ドイツ女てな感じでわけわかんないよ。ま、明日あえばヒロシも分かるよ。明日じゃ、奈良駅で」
 次の日のお昼、奈良駅で一行にあい、駅食堂で昼食をとったのち、高野山へ移動でした。このツアーでは、貸し切りバスなどではなく、電車と乗合バス移動が基本です。移動と宿泊に変な豪華さは必要ない、というのがコンセプト。したがって、みんなはけっこう大きなトランクやバッグを引きずりながら、電車を乗り継いで行くのです。奈良からJRで新今宮、そこで近鉄高野線に乗り換える。もちろん、別料金のかかる特急ではなく、急行です。でっかい荷物をかかえた比較的年輩のガイジンさんたちが、混み合う電車に乗り込み高野山へ。ケーブルカーで上まで上がり、今度は普通の路線バスで宿泊所である宿坊の大円院へ。荷物の移動がなかなかにハードですが、みんなけっこううきうきした感じでした。
 宿坊の庭先の梅がわずかにつぼみをみせていました。

宿坊大円院

 大円院は、神戸の浄徳寺の宇賀さんに紹介していただいた宿坊で、以前も滞在したことがありました。副住職の藤田光寛上人には、大変お世話になりました。
 たいていの宿坊では早朝6時くらいから朝のおつとめがあります。東洋的神秘にあこがれるガイジンたちは、障子に背をもたれて足を投げ出しながら朝のお勤めを神妙に見学したり、食事時に藤田上人の密教や高野山の解説などを聞き入るのでありました。
 宿坊の食事は完全菜食です。座敷に座ってお膳でいただくわけですが、正座というものに馴れていないガイジンたちは、苦労していました。投げ出した足でお膳を挟むようにし、箸コントロールもままならない。ゴマ豆腐は高野山の名物ですが、なにやらぷよぷよした不気味な様相に恐れをなす人がほとんどでたいてい残していました。わたしとピーターは、もう、それ、いらないよね、といいつつみんなの分も腹一杯食べたことはいうまでもありません。みんなお酒だけはがんがん飲んでました。
 二日目は、墓だらけの道を歩いて奥の院へ。ここは喜ぶだろうと思っていましたが、それほどでもないようでありました。午後は、拝観一日券を購入して次々に切符を消化しました。彼らは、さまざまな質問を浴びせかけます。密教の目的はなんだ、芭蕉はどんな人だ、ミイラはどこだ、インドのヨーガとの違いはなんだ、・・・。ちょっとでも答えに詰まると、なんだ、知らないのかてな感じの顔をされるし、ツアコンガイドもなかなか大変なのであります。
 伽藍見学のあと、藤田上人の特別なはからいで、阿字観道場の瞑想指導もうけました。道場は一般には開放しないので、もうけたような気分でした。ただ、阿字観瞑想は、作法や瞑想法の解説が難しい。難しい用語をしどろもどろに通訳していると、聞きあきたガイジンたちは、最初は神妙に正座していたのにだんだん姿勢が崩れ、もう帰りたいなどというものもでる始末。

徳川廟のなかを見てしまった

 三日目は、残った拝観券で徳川廟へいきました。ここはあまり人がこなくてひっそりとしています。われわれが構内に入ったときは入り口にだれもいなかったのですが、帰る頃に一人のオッサンがいました。廟の中は見れないのかと聞くと、一般の人には開放していないという。学術的目的であればよいのだ、とも宣言する。じゃあしかたがない、と去ろうとすると、オッサンは、「ほんまはあかんのやけどなあ、見つかったらおこられるけどな」などとつぶやくのです。そのとき、早く帰ってお風呂にしよう、などとガイジンたちは会話をしていたのでありましたが、彼らの言葉の分からないオッサンは、「このオッサンはケチやなあ。見せてもええやん」といわれていると判断したのか、「じゃあ、特別に開けまっさあ」というのです。で、カギをもったオッサンのあとをわれわれはまたぞろぞろと廟に登りました。錠を開けたオッサンは、ほらここからだと写真がうまく写りまっせ、とぶすっとしてつぶやくようにサービスをします。代々この廟の管理人の末裔だというオッサンは、江戸時代に徳川家からの命でここにつめるようになったと語ってくれました。で、オッサンのいうことをいちいち通訳しなければならないわたしは、廟の中を見ても集中してじっくり見ることはできません。ツアコンの悩みです。ぶすっとしている割によくしゃべるんですよ、このオッサンは。ガイジンに興奮したのかも知れません。 四日目、わたしは、龍神温泉へ向かう彼らを見送って別れたのでありました。けっこうくたびれました。

メンバー

ヴェレーナ・リッター・・・白いまつげを上下させてまばたきながら話す、小さくてかわいいおばあちゃん。いつもにこにこして、それでいてマイペース。ブータンで教育活動をしていた。スイスのベルンから。
アンネ・スラウィク・・・比較的最近離婚した40歳くらいの眼鏡女性。おネーサンからオバサンへの移行過程といった体型。茶の短髪。デュッセルドルフから。ピーターとわたしの説明に、分かってるわよ、と視線をいつも投げていました。
フォルクマール・ミラー・・・タイでエイズにかかったという50代の弱々しい背高男性。妻と娘もいるが離婚して現在は独身のホモセクシャル。娘はガン。フランクフルトから。一緒に風呂に入ったら、「昨日は、残りわずかな将来を考えてずっと泣いた」などとたんたんと語っていた。ほとんど笑うことがなく、われわれはなんとか彼に笑ってもらおうとジョークを連発した。
カリン・スイムラー・・・ほとんどオバサン化したレズ男役。遠視眼鏡のために目が大きく見える。学校の教師。論理の矛盾をすばやく指摘するが、体系的知性からではなくその場限りのいちゃもんとも受け取れる。強烈自己主張型。ドイツ・プリュンから。
クリスタ・オスターフェルト・・・ドントコイオバサンタイプの大型短髪女性。お膳挟み両足投げ出しスタイルには迫力すら感じられる。
マルグレット・アールハウス・・・遠視眼鏡カリンにつねにひっそりと付きしたがう。レズ女役。ひょろっとして存在感が薄い。ドイツ・プリュンから。
アンナマリー・デーリンク・・・メンバーの中では最も若い女性。アンノン族風。オバギャルと表現しておこう。ミュンヘンから。

 このツアーは、この11月にもあります。今度はどんな人たちだろう。・・・と書いているとき、突然キャンセルになったという連絡が入りました。

4月5日(土)天藤花見大雨

 今年の花見は大雨でした。で、今年は安藤忠雄さん設計の六甲の事務所で挙行されました。天藤さんとこの宴会は、メンバーが多彩です。工務店、家具屋、設計者、インド音楽関係者、インテリアデザイナル、写真家、税理士、不動産屋とタシサイサイなのであります。雨をおして撮影された五毛天神の桜のビデオを見ながら、延々と宴は続くのでした。

 

4月6日(日)15:00~/灌仏会奉納演奏/仲源寺・京都四条通り/アミット・ロイ:シタール、クラット・ヒロコ:タブラー、寺原太郎:タンブーラー、志水かおり:タンブーラー、中川博志:バーンスリー

 かなり二日酔い的気分を引きずって京都へ行きました。仲源寺、別名目病み地蔵というのは七聲会の代表である南忠信さんの兼務寺で、京都四条通りのにぎやかな通りに面しています。通りからちょっと引っ込んだ本堂での演奏でした。はげしい雨にも関わらず、人出もけっこうありました。名古屋から車でアミットを運んできたのは、アミットのチャパツ弟子のかおりさん。スイスで出された彼のCDのジャケットの絵は彼女が描いたもので、なかなか雰囲気があって素晴らしい。終わった後、庫裡の二階で、林百合子さんも加わり、みんなで豪華弁当をつつきながら再び宴会なのでありました。

 

4月8日(火)リハーサル/みつなかホール、川西市

 13日のコンサート「東方交友録~ジパングに集う楽士たち」のリハーサルでした。曲の把握がそれぞれ不十分なようで、ちょっと不安のまま終了し、ヒロコさんの車で梅田へ。ハリジーのソウル公演でお世話になった徳山謙二朗さんとブルーノートで待ち合わせなのでした。なぜブルーノートかといいますと、その日は徳山さん旧知の日野皓正さんのライブなので、ということでした。そこで、店の入り口周辺で徳山さんを待っていると、対岸から彼がわたしを呼んでいるのです。聞くと、日野さんの出演は来月の今日で、うっかりして一ヶ月間違っていたのだと申すのでありました。徳山さんが「今な、ソウルでな、ゴオッツイ人気でよる歌い手がおるんよ」と車内で聞かせてくれたCDは、素晴らしいものでした。張思翼(チャン・サーイク)という名前です。とくに野辺送りの唄は、胸に迫るものがありました。ピアノだけの伴奏で静かに歌い込み、感情を次第に高みへともっていく歌唱は、とても不思議な魅力と力強さをもっています。「いいですね」と3回いうと、徳山さんは「じゃ、もってけ」ということになり、わたしがたまたまもっていたシャクティのCDと交換しました。

 

■4月12日(土)能と音楽/ジーベック

 小鼓の久田舜一郎さんプロデュースの一連のものでした。こういうものがもっとあれば、あの眠い能もより楽しめるようになるのであります。結構たくさん人が入っていまして、このシリーズも定着した感があります。

 

4月13日(日)14:30~/「東方交友録~ジパングに集う楽士たち」/みつなかホール・川西市/たかだ香里:箏、唐華:中国琵琶、ウベ・ワルタ:尺八、クラット・ヒロコ:タブラー、中川博志:バーンスリー/企画制作:藤井智子(縁)

 みつなかホールは、音響がよく、適度な規模(600人ほど収容)のきれいなホールです。当日は、期待ほどの聴衆は入っていませんでした。
 この種の、異種混合コンサートは、相当念入りにリハーサルをしておかないと本当に難しい。それぞれの音楽家はそれぞれの分野で自立した人なのですが、それぞれの音楽の特徴を理解して束ねる人がほしかったように思います。また、予算などの関係でPAを使用しないことになったのも、アンサンブルが拡散してしまった原因といえるかも知れません。
 この日は、バーンスリーを立って演奏しました。しかし、馴れないことはやるものではありません。あとでシタールを弾く建築家、橋本健治さんには、あれだけはやめとけ、落ちつかん、といわれてしまいました。いつも胡座をかいて演奏するわたしにとって、立って演奏するのは、パンツをはかないでシャツを着るようなもの。まして客にとっては、眉毛八時垂れ下がり低鼻胴長短躯出腹中年オッサン像を否が応でも見なければならない。
 その点、尺八のウベ・ワルタさんは堂々としていました。彼の、お客さんの反応に即応するエンタテイナーぶりは年季が入っています。京都の山岳地帯周山に長年住むウベは、尺八ばかりでなく、チェロ、パントマイム、綱渡りとなんでもやってしまう京都弁ペラペラのドイツ人なのです。
 唐華は、現在は高松に住む美人中国琵琶奏者です。たいていの中国音楽演奏家がそうなのでありますが、その場で即興的に音楽を作っていくことにはつらいものがありました。
 いずれにせよ、異種混合アンサンブルの際は、共通文法をしっかりと共有しなければうまくいかないものです。
 たかだ香里さんのストロークの力強い箏は、アグレッシブであると同時に繊細。それにしても、箏の非古典曲というのは、ヨーロッパ中世ないしバロック風の割とチープな和音を使ったものであったり、逆に極端にコンセプチュアルになるのでありましょうか。それに、調弦の異なる曲を演奏するたびに楽器を用意しなければならないというのは、実に不合理ですね。あんなに、調弦のしやすい楽器なのに。300円の笛一本で参加したわたしは、数十万円もする箏を何面も用意しなければならない箏奏者に深い同情を禁じ得ないのでありました。
 打ち上げは、藤井智子さんのお宅でした。会場から車で10分ほどの、古い集落にあるお宅への自動車でのアクセスは複雑を究め、狭い道を渦巻きの中心に向かっていくような感じです。オクラとメンタイコの和え物、すき焼きが印象的においしかった。藤井さんは、ペーパークラフト作家であると同時に、邦楽関係公演のプロデュースを続ける関西では稀少な存在です。この公演と打ち上げには、近所に住む中島鴻毅さんも参加しました。

 

4月14日(月)山形両親来宅
■4月16日(水)~4月20日(日)サイパン

 われわれにはおそらく一生縁がないと思っていた大衆リゾート島、サイパンへいってきました。サイパンはアメリカ領ということになっているので、生まれて始めてアメリカに行った、といっていいかもしれません。それにしても、なぜサイパンなのか、というような顛末も含め、帰国してから、以下のような文をだらだらと書きましたので紹介します。

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 サイパン島は、なぜか哀しい、という話。

なぜサイパンか

 今回の旅行は、別にサイパンでなくてもよかった。山形の母親が「おらどごさも外国さ行ったごどねのに、おめばりしょっちゅう行ってえごでね(英訳:I have been listening so far only that you went to many places. Yet I have never been anywhere.)」などと帰省するたびにいうものだから、まあ、「親孝行ツアー」のようなものをやろうということになった。
 たしかに彼女の訴えも分からないでもない。父親は、戦時中に住んでいた中国の東北地方や、勤めている会社の慰安旅行で香港に行ったことあるが、71歳の母親はこれまで海外旅行は一度もないのだ。どうせ今年は二人とも無職に近い状態でヒマだし、これまでほぼまったく「親孝行」らしいことはしてこなかったし、彼らが動けるうちに一度海外旅行に連れていくのも悪くない、と考えたわれわれは、山形のわたしの両親と明石の配偶者の両親もまとめてツアーを組む、という大決断をしたのでありました。
 スポンサーであるわれわれには、いくつかの制約と願望があった。まず、非潤沢予算であること。身体不調常時他者理解願望のわたしの母親や両親たちのそれなりの高齢を考えると、飛行時間はできるだけ短いこと。旅行生活中いちいちに渡って面倒を見るようなツアーコンダクターになりたくなかったこと。こうした条件を満たした上で、かつ「海外旅行に行ったあ」という充足感を彼らに味わってもらう場所。当初、最も手軽で安い香港や韓国ということも考えた。しかし、ほとんどわれわれと変わらない顔つきの国では、彼らにとって「海外」のありがたみは少ない。シンガポールではちょっと遠すぎるし、あそこはほとんどダイエー的消費都市。消費促進勧誘だらけで面白味がない。バリ島は、われわれには大変に魅力的だが、同じく遠い。
「どこがよいか」といちおう彼らの願望を聞くと、全員「どこでもよい」と答えたが、両母親の心中には「みんなが行くから」ハワイがいいかな、という願望もあったようだ。しかし、「ハワイはよいが、何時間も飛行機に乗らなければならないから老体ではきつい。行っても日本人だらけである。ハワイに行って何をするというのだ」と、われわれは説得につとめた。実際は、行くこと自体が通俗の極みのようで、われわれが行きたくなかった。
 こうしたもろもろの条件が厳しく吟味された結果(てなことないか)、サイパン、になった。実は、一番安い、しかも、いちおうアメリカ合衆国に属する、ということでほとんど吟味せずに安易に決めたのでありました。われわれだけであれば、一生のあいだ決して行くことはなかったであろう場所である。
 場所が決定されれば後は簡単である。両親たちにパスポートを揃えてもらう一方、安そうな旅行代理店にホテル宿泊付きパッケージツアーの申し込みをして準備は滞りなく進んだ。代理店からは、さまざまなパンフレットとともに、ツアー名称の書き込まれたバッジ、荷物用タグなどが届いた。バッジとタグは、「つけなければ」といい出しかねない両親たちの目に触れないように、ひっそりと荷物の奥底にしまい込んだ。

中高年男女のリゾートファッション

 さて、るんるん気分の両親たちとわれわれは、関西空港で航空券を受け取り、入管ゲートを難なくすり抜け、離陸2時間前にはすでに搭乗待合い室で待機状態となった。
 わたしが、ここ10数年来愛用しているぺたぺたコットンの黄色のズボン、Tシャツ、夏用のジャケット、フィラのつばつき帽子、黒い運動革靴+震災時大活躍の小型黒色リュック、配偶者はベージュのパンツスーツ、オーストラリア出張のときに購入した麦わら帽子にレイバンのサングラス、リーガルの水色のズック+茶の横長バッグ、山形の母親は、白い裾長シャツの上に白黒まだらレース風の割と派手な上っ張り、裾細黒ズボン、つばひろコットン帽子にヤッチャン風黒目がね、白い普通のズック+黒っぽい皮リュック+深緑の皮バッグ+黒革のウエストバッグ、父親は灰色系シャツ、濃いネズミ色系背広上下にペラペラの青いジャンパー(当然、上着の裾はジャンパーから飛び出している)、小さな縁のついた普通の帽子、白い普通のスニーカー+母親とのペアールックを意識してかやはり黒革のウエストバッグ、やはり黒っぽいリュックに黒い普通のショルダーバッグ、明石の母親は、ベェージュっぽいシャツに薄青のバティック風スカート、中高年向きアシックスウォーキングシューズ、左手には白いギブスのアクセント(最近、転んで骨にひびが入った)+普通の旅行用手提げかばん、父親は、白っぽいポロシャツ、ベージュの上着、青いスラックス、普通の黒の革靴、つばの小さな麦わら帽子+普通の旅行用手提げかばん、といういでたち。こうして、中高年男女3組は、ボーディングまでの間、搭乗待合い室をうろうろするのであった。

なんとファーストクラスに乗った

 そのうち、「サイパン行きのお客様は、現地での台風接近のため、いったんはグアム空港までまいりますが、状況によっては引き返すこともありますのでご了承下さい」などという不吉なアナウンスの後、われわれは機上の人となった。われわれに用意されていたのは、翼の真上でかつサービスエリアの真横かつ喫煙席。禁煙席乗客の喫煙用座席が直前にあった。わたしは終始もうもうたる煙に悩まされたので、グアム空港で厳然と不満と変更をエーゴで申し述べた。
「そりゃ、ほんま、すまなんだ。ほな別の席、用意させてもらいまっさかい(うるさいやっちゃな。そんなんパックツアーで文句いわれたらしゃあないわ。サイパンまではがらがらやから、いっちょ上に乗せたれ。粋なはからいや、て感謝せえやあ:予想本音)」てな感じの現地スタッフは、なんとジャンボの二階席、つまりファーストクラスを用意してくれたのであった。サイパンまでのほんの30分ほどだったが、常々いったいどのような構造になっているのだろうかと思っていたジャンボのファーストクラスに初めて座ることができた。乗り込むときわたしは、母親に、「これは大阪に戻る飛行機なのだ」と冗談で告げた。意外と素直に、うん、とうなずく。ここで冗談だ、というべきであったか。実際、われわれの乗った日航機はサイパン経由で関空に向かう便だった。
 広くて心地の良い座席の感触を確かめ、どこかしらエラくなったような気分と「こんなもんか」感を抱きつつ前の座席をなにげなく見た。すると、わたしの父親がタバコに火をつけるのが見えた。あっ、やばい、と思っている間もなく、父親はふう、と一服する。もおお、喫煙席いややいうてここにこらしてもろたのに、とわたしはあわてて父親に禁煙を厳命する。
「禁煙サインが消えだがらよ、ええべど思った(英訳: I thought I could smoke. See, there is no sign)」
 今度は母親が、若くはなさそうな女性パーサーに「あの、おらだづは大阪さ帰んなだが(英訳:Are we going back to Osaka?)」と聞いている。
「お客様はどちらまでですか」
「サイパンでっす(なまってはいるが、彼女はいちおう標準語に切り替えたので以下そのまま)」
「でしたらもうすぐお着きになります」
「台風は大丈夫なんでっすかあ」
「問題なさそうです。楽しんできて下さい」
「あーあ、そうですか。安心した」
 このやりとりを聞いていたわたしは、真実に近い冗談は今後やめよう、とひそかに決心した。

美しい珊瑚礁の島だが

 この島に着いて二日ほどは、台風の接近で、灰色の切れ切れの雲が北から南へと激しく流れ、ときおり雨も降るという天気だった。しかし、雲が吹き飛ばされた後には、暑く明るい夏のけだるさが島を包みこんだ。ただ、日本の夏の海岸とはまるで違う。われわれの夏を想起させるセミの合唱も、波しぶきとともに漂ってくる潮のかおりもない。あるのは、濃い太陽光の照射に呼応して色彩を変化させる海と、熱帯のカラーンとした明るい希薄さ。沖合いの白波の連なりに守護される礁湖の色は、深浅に応じて、薄いエメラルドグリーンとコバルトブルーと群青色の縞模様を織りなし、実に美しい。
 台風の接近で、母親たちの楽しみにしていた観光潜水艦も出ないということなので、小さなマニャガハ島へ渡り一日ぼーっとした。20分もあれば1周してしまう小さな島である。砲台の跡がそのままになっていたりして、マリンリゾート地のオブジェとしては異質な感じだ。また、島の来歴を示す小さな表示板に、「アメリカ軍侵略地」などと日本語で書いてあった。この種の表示板は、行政の観光課あたりが取り付けるものだろうが、ここはアメリカ領なのにどうしたこんな表示なんだろう。
 マニャガハ島は珊瑚礁に囲まれているので、まわりは宝石のように美しかった。

こんなものがなければもっともっと素晴らしい

 しかし、この美しい南洋の島に、こんなものがなければもっともっと素晴らしい。
「島内最大のデューティーフリーショップ、ブランド数・商品構成・アイテム数、すべてにおいてサイパンナンバー1、ここ一軒ですべてOKのDFS」やら、「南の島から・・・心を込めた贈り物」のハクボタンやら、「南国のやさしさに包まれて二人で鳴らすウェディングベル」やら、「無煙ロースターで焼く和風焼き肉店、文楽」やら、「日本食の恋しいサイパン在住の日本人やチャモロ、アメリカンに人気のある海賊レストラン」やら、「ラーメン、トンカツ、丼もの、炉端焼き、刺身、ステーキ、またカラオケや麻雀ルーム完備の金八レストラン」やら、「手頃な価格で本格派日本の味を、の喜楽」やら、「味も店内の雰囲気も本格派の韓国料理店アリランレストラン」やら、「ボリューム満点!本格派中国料理のダブル」やら、「老舗の味、受け継がれた伝統の中国飯店」やら、「安くて美味しいタイ特有の笑顔でサービスのマイタイ」やら、「2時間飲み放題、歌い放題のナイトクラブ、ブルーラグーン」やら、「ガラパンの夜にそびえ立つミクロネシア最大のディスコティック」やら、「水と緑の中で一日中楽しめるフェスティバルマーケット」やらの、まるで美的調和のあるデザインが禁止されたような建物や、その建物の外部に無造作に氾濫する日本語やハングルや英語の文字。
 美的調和の無視という点から見れば、西海岸線をほぼ占拠し連綿と立ち並ぶリゾートホテル群もそうだ。どちらかといえば、一切なければ素晴らしい。これは後で知ったことだが、ほとんどが日本資本によるこれらのホテル群は、地元の反対を押し切って建てられたらしい。たとえば、島北部の美しいサンロケ村に建つ巨大な「ホテル・ニッコー・サイパン」のあたりの海岸は、以前は住民の漁場だったところで、そのために反対運動が起こったという。こうした、地元住民との調和を無視して建築を強行されたホテルが、デザイン的にすぐれているのであれば、ちょっとは救いようがあるかも知れない。しかし、哀しいことに一見ゴージャス機能一点張りで決して美しくない。

こんなところまできてゴルフなんかするな

 また、「こんなところまできてゴルフなんかするな」といいたくなるゴルフ場が、この小さい島に二つもある。特に島の北端のマッピ丘陵を切り開いて日本企業によって造成された「マリアナ・カントリー・クラブ」からは、海に流出する赤土でサンゴの生息に深刻な影響を与えているという。ただでさえ、ゴルフに熱中する日本人のまったく優雅ではないファッションや人品、自然環境を無視したゴルフ場を憎むわたしとしては、あってほしくない。てかてかと日焼けしたオッサンがゴルフバッグをかついでいるのをサイパン空港で見たときは、わたしは思わず心の中で「ケッ」と叫んだ。なにがタイガーウッズだ、オザキだ、バンカーが深いだ、「おれ、にぎらきゃよかった」だ、500番アイアンだ、「○○さんのキャディーはカワユイ」だ、「やっぱビールっすね、ゴルフの後は」だ、ケッ、ケッ、ケッ、ケッ。はっきりいって、ゴルフとカラオケは、よくない。こういうものは、人類としても、よくない。

マリアナ諸島の歴史をちょっと

 サイパンやグアムのあるマリアナ諸島に人が住み始めたのは、紀元前1500年くらいからといわれている。フィリピンから移住してきたといわれているが、はっきりしたことは分からない。800年ころの遺跡から、ニワトリ、ブタ、イヌの骨や出土されているので、人々は漁労採取ばかりではなく、家畜をもち、それらも食料としていたことがうかがえる。また、サイパンのすぐ南の島、ロタ島では水稲栽培もされていたらしい。

ラッテ時代前後

 われわれの泊まったアクア・リゾート・クラブの建物に装飾的に使われていた石柱は、ちょっと変わった形をしていた。荒削りの四角の石柱の上にお椀のような半球形の石をちょこんと乗せている。この独特の石柱はラッテと呼ばれ、ロタにはラッテ用の巨大な石切場があるという。用途ははっきりしないが、この地域にも巨石文化があったことを示している。歴史家は、マリアナ諸島の歴史を、紀元前1500年から800年までを「前ラッテ時代」、ラッテが作られていた800年から17世紀を「ラッテ時代」と区分している。
 「ラッテ時代」以後はどうなったか。多くの非植民地と同様、マリアナ諸島の歴史は、ほとんど島外からの侵略の歴史になる。これが非常に哀しい。

一方的侵略の歴史

 

 まず、世界一周をしたことで有名なマゼランの艦隊が1521年にグアム島にやってくる。食料補給のために偶然立ち寄った彼らと島民たちのちょっとした摩擦によって(本当にあったのかは分からない)、島民たちは一方的に陵辱される。マゼランは、4日間のグアム滞在中、「武装兵40人を指揮して上陸し、四、五十軒の家屋と多数の小舟を焼き払い、7人を殺し」(マゼランの航海に参加したイタリア人、アントニオ・ビガフェッタの記録)て立ち去ったという。このマゼランの突然の来襲以後、当時10万人ほど住んでいたというマリアナ諸島の長年続いた平和が終わる。
 1565年には、スペインのガレスピの艦隊がグアムの領有を一方的に宣言し、フィリピンとメキシコとの貿易中継点とした。それにともない、スペイン、フィリピン、メキシコ人が移住し、混血が進み、原住民であったチャモロ人の生活や文化が失われていった。
 ついで1668年、スペイン人キリスト教神父が32名の護衛兵をひきつれて布教のために上陸。その2年後の1670年、チャモロ人は伝統破壊に対する危機感から最初の反乱を起こす。スペイン軍はこの反乱を鎮圧、反抗的島民を逮捕したり殺したりする。引き続いて起きた住民とスペイン軍との戦争が終わった1695年には、大虐殺によってチャモロ人の人口は激減する。10万人の人口が5千人以下にまでなったという。すさまじい殺戮だ。かろうじて生き残ったチャモロ人は、グアム島にあった収容所に押し込められ、サイパン、テニアンなどの島は無人島と化す。

アメリカ、ドイツ、そして日本領へ

 

 200年余のスペイン人支配が続いたが、1898年には米西戦争に勝ったアメリカが、マリアナ諸島の新たな支配者になる。ついでドイツ領。しかしそれもつかの間、第一次大戦に火事場泥棒的に参加(1914年)した日本が、労せずして南洋諸島の新たな統治者になる。島民を有色劣等人種として扱う白人支配者から、肌の色の似た新たな支配者に島民はかすかな期待を寄せるが、期待は簡単に裏切られる。島民は、新たな支配者にも土人や黒ん坊とか呼ばれて蔑まれるのだ。『冒険ダン吉』(島田啓三)は、当時の日本人の島民イメージをよく表している。漫画では、腰蓑と王冠のようなものをつけた白い肌のダン吉少年が、真っ黒でいかにも愚鈍に描かれる島民に教育を授ける。このときの日本人のメンタリティーとイメージは、表面的には現れないが、「開発途上国」民にたいして現在でも続いているような気がする。
 さて、こうして日本の支配下となったマリアナ諸島は、製糖業の一大拠点として「開発」され「発展」していく。労働力は、沖縄人や日本の没落農民を中心とした移民であった。チャモロ人は、その移民の下位の労働力として従属を余儀なくされる。サイパンやテニアン島の本格的「開拓」も進められた。占領当時、南洋諸島すべてでも80人ほどだった日本人の人口は、「開発」によってどんどん増えた。サイパン島を例にとれば、1923年に原住民3,398人に対して日本人3,764人だったが、移住ピーク時の1940年には原住民3,765人に対して日本人25,309人となっている。日本の帝国主義的南進政策に便乗して砂糖工場を起こし大儲けをした政商松江春治は、自身の銅像までぶったてる。それが今でもサイパン公園に立っているそうだが、われわれは見ていない。
 太平洋戦争が始まると、マリアナ諸島は日本にとって重要な戦略拠点となり、住人はひたすら戦争奉仕のために労働にかり出される。原住民は、日本軍将兵の食料生産のために強制労働させられるが、日本人民間在住者も軍にとっては貴重な労働力であった。
 当時、サイパン島を含むマリアナ諸島は、日本の「絶対国防圏」である。つまり、ここを占領されれば、日本の敗戦が決定的になる。
 北マリアナ戦の結果は、みなさんがご存知のように、戦略と戦術と兵力と武力の欠落した日本軍は、一般人を大量に巻き込んで大敗。かくして北マリアナ諸島は米国領となり現在に至る。

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 この旅行のあと、サイパンのことを知るために図書館にいったが、まともな本はないのですね。かわりに、これまで、ぼっーとしか分からなかった太平洋戦争の本をかなり読みました。当時の日本軍というのは、情けないくらい戦略がなく、戦術の工夫もなく、いたずらに人命を浪費したことがよく分かりました。現在の日本においても、どこか根本的な部分で当時と同じ精神性を感じます。

 

4月25日(金)/中川博志ライブ/ビッグアップル・神戸/クルブーシャン・バルガヴァ:タブラー、藤井千尋:タンブーラー

 ビッグ・アップルというライブハウスは、ギターの内橋和久さんのホームグラウンドです。小さな店ですが、内橋さんの関係で結構な大物がちょくちょくライブをするのです。この日は珍しくコモノのわたしとブーシャンのライブなのでした。コモノであることが集客にも反映し、客はたったの5人。住金物産の池田さん、パーカッションのヤヒロ選手追っかけの田崎真珠に勤める今井まりさん、「場所がわからんでね」と終演まぎわにやってきた額縁屋の宮垣さん、寺原太郎+百合子さんでした。まあ、20人も入れば満員感のある店ですから1/4の入り、ということでありますが、それにしてもさびしいものがありました。ブーシャンと千尋さん夫妻は、一人娘のマイチャンを連れてきていたのですが、彼女は左手でマイチャンをあやしつつタンブーラーやハールモーニアムを演奏、どこか家族サーカス団のおもむきでありました。ギャラは一人2000円。われわれは、こうして日々食いつなぐのであります。

 

5月6日(火)/本村鐐之輔氏+久米大作氏来宅/「朝まで生宴会、朝5時まで、まいります」

 来年の「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ」アジアツアーの打ち合わせのために、プロデューサーの本村さんとキーボードの久米さんがわざわざ東京からわが家にいらっしゃいました。彼らは、7月に調査のためにインド、タイ、ヴェトナム、フィリピンに行くことになっていて、事前にいろんな情報も仕入れておこうというわけです。一応、近所のポートピアホテルに予約を入れていたのですが、早朝5時ころまで飲んだので、高いホテル代ではありました。
 ほとんど「本村鐐之輔かく吠えたりどろどろ痛飲ナイト」となりました。新宿ピットインのブッキングマネージャーとしてその黎明期から日本のジャズ界に関わってきた本村さんの「テメーラ、ミュージシャンなんつってるけど、単なる職業人になっちまってるぢあないか。ゼニのために追いかけまくられ、始めた頃の興奮や喜びや楽しさはどこへいっちまんだあ、ん。それに君たちは、ナマケモンだ。待ってたらいいっちゅうもんじゃないぞ。このバカたれが・・・」といった咆吼は焼酎という潤滑油を得てとどまるところを知らないのでありました。ほんとうに、彼のようなプロデューサが不在なのです、最近の日本は。久米さんとわたしも「そうだ、そうだあ、シュプレヒコールだ、なっとらあん」といいつつ焼酎を飲むのでありました。来年のツアーは熱いものになりそうです。

 

5月10日(土)/石踊さん個展/花岡画廊、神戸北野町/リードパーティー

 大磯町に住む日本画家、石踊紘一さんと明美さんが個展のために神戸にこられる、というので北野町のギャラリーに出かけました。石踊さんは酒と魚が大好きな人で、せっかくん神戸にこられたので久しぶりに飲みたいと思っていたのですが、その日は、ポートアイランドの近所に住む英語の先生、リードの家でパーティーの先約があり果たせませんでした。今度はゆっくり飲みましょうね、石踊さん。 明美さんも相変わらずお元気でおしゃべりエネルギーも健在でした。今回の作品は割と小さめのものでした。特に民家の壁面を描いた作品が印象に残っています。
 画廊からそのままリード宅へ直行。リードは、もともと義弟の駒井幸雄さんの英語の先生で、数年前にサキコさんとの結婚のときにはわたしも笛を吹いたのです。そのリードは、今度は久代さんの今通っている神戸外大の先生でもあります。日本に住んでかなりなるのに、日本語はほとんどだめ、というリッパ族の人なのです。パーティーには、同じ英語教師仲間のディック・モリス、ラウル・セルバンテス、駒井さんと娘、つまりわれわれの姪のアヤコチャン(高校3年)、文芸評論家野口武彦さんの配偶者ヨシコさん。料理はタンドーリー・チキンとサラダなど。タンドーリー・チキンはベエリーデリシャスでした。わたしのジョークにアメリカ人たちも受けました。

 

5月11日(日)/アミット・ロイ+中川博志ライブ/"ギャラリーもと"リニューアルオープン、松坂市/逆瀬川健治:タブラー、アミット・ロイ:シタール、中川博志:バーンスリー、志水かおり:タンブーラー/青木夫妻:アジア料理担当

 以前、わたしにバーンスリーを習いたいといって知り合いになった橋本晴安さんが、かつて自宅だった家を全面的に改装し、アジア・アフリカ民芸骨董家具のギャラリーとして開店したイベントで、アミットとともに呼ばれて演奏しました。橋本さんに会うのは、95年4月23日のお得意さんの歯科医森さんの別荘お披露目ライブ以来です。彼はあの後、肝炎になり久しく療養生活を送っていたのですが、完治はしないまでもそれなりに元気に回復し、今度のギャラリー開設にこぎつけたのでした。当日は、100人以上の招待客でにぎやかでした。大変だったのは、鍋釜材料すべて持ち込みの出張料理人、青木達雄・津寿代夫妻です。彼らとは今年の1月にカルカッタのアミットのお宅でお会いし、津寿代さんの痛くて気持ちいいマッサージを受けたのを覚えています。バッチューのヨメのひろみさん、ムスメのサラチャンもきていました。サラチャンは元気のかたまりでしたね。成長が楽しみです。でも、成長するとオッサンなんか見向きもしなくなるのだろうなあ。
 タブラーの逆瀬川選手と演奏するのは、数年ぶりでした。彼も、タブラーのみで食っている数少ない日本人演奏家の一人なのです。実は彼とも、今年カルカッタのコンサートで会っています。


5月12日(月)民族学博物館

 埼玉から河野亮仙さんがくるということで、松坂からの帰りに待ち合わせの民族学博物館に久しぶりに行きました。久しぶりと書きましたが、実は2回目なのです。初めて訪れたのは10数年前のことです。比較宗教学とバリ舞踊をやっている南方系はきはきは嘉原優子嬢に案内してもらいました。河野さんは、CG曼陀羅を見たい、ということで訪れたらしい。インドコーナーには、バジャージのオートリキシャも展示されていました。一つ間違うとほとんどガラクタに近いものを世界中から集めるエネルギーはすごい。今度はゆっくりと時間をかけて回りたいと思います。館内を一通り見てから千里中央にいき3人でビールと食事をしました。それにしても、一見近代的駅周辺ビルの色使いにはすさまじい不調和的どぎつさであります。まったく、ショッピングモールだのスーパーだのは、いったいどういう色彩感覚なのか。音も同じです。違った音楽の垂れ流しとあいまって、実に落ちつかない空間の創出に成功しているのです。

 

5月13日(火)車検/神戸市外大講演

 中川アコードを手放すか、もっているかと悩んだ末、ゼニの続く間はもってようか、ということになり車検に出したその足で、久代さんの通っている大学に一緒にいきました。特別講義に、カリフォルニアUCLAの民族音楽学者、スティーブン・ロサが講演するというのででかけましたが、音楽のことにはあまり触れず、アメリカの人種混合と公民権運動の話でちょっとがっかりでした。

 

5月14日(水)/大光寺/「かっぱ」仙波清彦氏+磯野義幸氏+鎌田氏/新都ホテル

「京都、行くよう。一緒に飲もうよおー」という電話が前日に仙波さんから入りました。小鼓とドラムの仙波さんがなぜ京都にいるかといいますと、新しい京都駅のあるスペースに流す音楽を担当したとのこと。ちょうどこの日は、水口町の6月28日のコンサートのリハーサルでたまたま京都の大光寺に出かけていたわたしは、リハーサルのあと彼らと合流して飲んだのでありました。磯野さんのエイジアン・ファンタジー・オーケストラのアジアツアーでの役割はこうすべきだ、曲はこうすべきだ、彼はぶっとんでいる、今も吠えているのではないか、じゃあ今電話してみっか、と東京の自宅にいる本村さんを携帯で呼び出したりして盛り上がり、気がついたら終電車はなくなっていました。しかたがないので、彼らの泊まる新都ホテルにこっそりと忍び込み、仙波さんのダブルベッドで寝る羽目となったのでありました。途中ふと目をさますと、室内灯はついたまま、テレビがザーっ音をたてていました。ダブルベッドの端を見ると、仙波さんがいびきをかきつつ丸まって寝ているのでありました。あまりに安らかでかわいい寝顔なのでふとほおずりをしようかと思いましたが、マネージャーの磯野さんのあとあとの苦労を考えて断念しました。というのは真っ赤な嘘です。電気とテレビを消してすぐ寝たのです。

 

5月16日(金)大谷美術館/植松奎二展オープニング

 最近とんと卓を囲んでいないケイチャンの大々的作品展のオープニングでした。彼の作品が網羅的に展示されるのは初めてで、迫力がありました。とくに、正面庭園の真紅の円錐が美しかった。パーティー会場には、榎チューサン、建築の武田則明さん、曽我さん、岡田淳さん夫妻、カサハラ画廊から独立した島末さん、製額の宮垣さんなどにまじって、クリストファーも顔を見せていました。

 

■5月18日(日)/中川博志ライブ/あしゅん・神戸/クルブーシャン・バルガヴァ:タブラー、藤井千尋:タンブーラー、寺原太郎:バーンスリー伴奏

 独立してそろそろライブ活動などを始めている太郎君にバーンスリーのアカンパニーをしてもらい、ダブルバーンスリーで演奏しました。こうした形式では、わたしも先生のハリジーと演奏したことが何度かありますが、難しいものです。主奏者の流れを損なうことなく、正確なピッチで空隙を埋めていくアカンパニーがうまくできれば、今後の演奏にも幅がでてくるのではないかと思います。子連れハールモーニアム千尋さんとブーシャンの演奏は非常によかった。

 

5月23日(金)ブーシャンカレー中川宅パーティー/クル・ブーシャン・バルガヴァ:チキンカレー製作、配偶者藤井千尋さん+共同製作品まいちゃん、寺原太郎+林百合子夫妻(7月17日、午前11時30分、彼らは公式に夫婦となった)

 インド音楽の演奏家は料理もできる、という「インエンクックの法則」どおり、ブーシャンもなかなかの名コックでした。当日のまいちゃん(2歳)は、瓶のふたの開閉に著しい興味を示しました。
 料理会の始まる前、太郎君がZIPドライブを持ち込んでクラリスホームページを動かしてくれたので、天楽企画のホームページ制作がいよいよ始動しました。彼らは、わたしよりもずっと遅くマッキントッシュを購入したのに、すでにかっこいいホームページをたち上げていました。
 このように、われわれがノウテンキなカレーパーティーにうち興じているころ、友が丘中学校の少年が暗い決意で土師淳君という小学生の運命を変える作業に取り組んでいたことは、もちろんわれわれには知る由もないのでありました。

 

5月30日(金)~6月2日(月)/ドイツ人マティウス+ガブリエル中川家滞在

 NADIの川崎選手から、丹後の鈴木昭男さんちにきていたドイツ人新婚夫婦を、関空からの帰国予定の2日までわが家で泊めさせてもらえないかという電話があり、その二人が午後にやってきました。われわれがヒマでかつ多少外国語でコミュニケーションがとれるというので、中川家はときどきこのような簡易宿泊所となるケースがあります。われわれの淡々とした余暇生活にメリハリができるのでむしろ喜ばしいのでありますが。わたしはその晩、アミットとブーシャンを引き合わせるために田中峰彦選手宅に行って理子さんのカレーをご馳走になり、かつ配偶者が夜間女子大生をしている間、彼らには川崎選手とともに街で時間をつぶしてもらいました。
 ベルリンの音楽プロデューサー、マティウスは、われわれと年齢は変わりません。がっちりとした、目鼻立ちの多少固い、いかにもドイツ人的風貌。一方、まだ大学院の博士課程だというガブリエルは、テニスの女王グラフの顔面各部の先端を少しずつ削って全体に柔らかみを与えた、というような表情のとてもチャーミングな女性です。彼女は、ドイツ国内でのフルクサスの活動を手伝っているとのこと。新婚旅行ということで、われわれと会話していてもお互いの顔をときどき見つめ会ったりして初々しい二人でありました。

観光案内とボルボ接触

 次の日の31日は六甲アイランドに新しくできたファッションミュージアムに案内しました。ファッションミュージアムは、今はやりのマルチメディアを駆使した新しい美術館ではありますが、展示内容はそれほどたいしたことはありません。音と光のなんやら、というおさだまりのショーやハイビジョンによる映像などをみました。ガブリエルはじめ、われわれの感想は、ショー内容に一貫したコンセプトが感じられず、単なる客集めである、ということで一致しました。ファッション都市を標榜する神戸市の西洋文化崇拝宣言博物館のようでした。
 1日は、植松奎二さんの個展が開かれている西宮の大谷美術館に案内した後、彼らが「タダオ・アンドウの建物がみたい」というので、天藤建築設計事務所へ行きました。天藤さんの事務所は、安藤忠雄さんの設計した「六甲アパート」にあるのです。日曜日ではありましたが、天藤さんも内田はるみさんも事務所で仕事なのです。ガブリエルが、「丹後にいるときに鈴木昭男・淳子さんの知り合いの結婚式で旅館にいった、離れにチャペルがあった」などという話をしました。それを聞いていた天藤さんは、「その旅館のフロントはこんなこんなではなかったか」とにわかにアルバムを持ち出しました。「そうそう、ここ、ここ、ねえ、マティウス、そうでしょう」とガブリエルがいったとき、天藤さんはパッと顔を明るくして
「I desiged it! That is Nishimuraya Ryokan!」
と興奮しつつ喜ぶのでありました。
 天藤さんの事務所の後、別の安藤作品と天藤作品を見てもらうために北野町へ。安藤作品のある通りに一時駐車をしたのでありますが、むりな縦列駐車から車を出そうとしたら、前に駐車してあった車のバンパーをかすってしまい、その車のオーナーがあわてて出てきました。わたしのアコードは傷だらけなのでどうってことなかったのでありますが、相手が悪かった。買ったばかりのボルボの新車。バンパーの傷はほんのわずかでしたが、オーナーは「これは、バンパー全部変えなあかん。修理している間は代車がいる。お前の保険でなんとかしろ。いっしょに警察にいって事故証明を出してもらおう」などと大事になってしまい、すっかりわたしはめげてしまったのでありました。おろおろしているわたしを、ガブリエルとマティウスは「仕方ないね、ままあること、気にしない」といってくれましたが、もう建築を見にいくという気分ではありません。わたしは、「あれが天藤さん、それが安藤、これも安藤、あっ、これも天藤」てな具合に、走る車内からおざなりに指さすにとどめるのでありました。

ドイツ人夫婦が奢ることになったが

 そんなわたしを哀れに思ったのか、二人は「きょうのディナーはわれわれがご馳走しよう。寿司食べに行こう」といってくれ、三宮の寿司屋でげんなおしをしたのでありました。オゴル、と聞いたわれわれは普段食べない高いものも注文してしこたま食べました。ふうー、食べた、食べたと大満足し、あとはまかすよ、と彼らを見ると、二人がポケットやバッグなどを深刻そうにかき回しています。どうしたのと聞くと、じ、実は、十分なキャ、キャッシュあれへんのですわ、すんまへん、と申し述べる。あると思っていたのに、現金がなかったらしい。
 とりあえずわれわれが店の支払いを済ませました。マティウスは、カードでなんとか現金を引き出しておかえししなければ、と街のキャッシングマシンで試すのですが、日曜日かつ7時過ぎでかつドイツのカードでは万事休す。こうしてドイツ人新婚夫婦は、われわれににちょっとした借りを負うことになったのです。
 突然のお客さんに興奮したり、いろいろおしゃべりをしたり、めげたりの3日間は、彼らをK-CATに送り出して大団円を迎えました。やれやれ。あの二人、どうしてるかな。まだまだ若くて好奇心の強いガブリエルと、安定した知性と自己の信念にみじんも揺るがない感じのマティウスの新夫婦来宅の顛末でした。

 

6月11日(水)/AFO会議/国際交流基金会議室/参加者/島田靖也、西田和正課長(公演課)/磯野義幸(仙波清彦マネージャー)、梅津和時、大橋青年(仙波清彦付け人)、金子飛鳥、久米大作、小林絵美(ピットイン)、小林(金子飛鳥マネージャー)、賈鵬芳、仙波清彦、高橋努(久米大作マネージャー)、多田葉子(梅津和時マネージャー)、中川博志、本村鐐之輔(AFOプロデューサー)

 来年の「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ(AFO)・アジアツアー」の打ち合わせのために、久しぶりに上京しました。会場は、赤坂のアーク森ビル20階の会議室でした。わたしは、早めに東京駅に着いたので、徒歩で赤坂までいきました。50分ほどかかりました。途中、外務省と農林水産省のあたりの無味乾燥な官庁街から、強烈なうどんだし汁の臭いがただよってきました。あの辺にはうどん屋は見あたらなかったので、なぜだったのか、いまだに謎です。どこかの官庁がひそかにだし汁ビジネスを始めたのかも知れません。
 さて、この会議では、前回の95年のツアーの反省をふまえて、コンサートの内容をどのようにしていくのか、ということを話し合いました。
 公式会議のあとは、当然のように新宿での非公式飲酒会議です。お腹のいよいよせりだしてきたアスカや、ムチャクチャ忙しいジャーさんらをのぞいたほとんどのメンバーが、ピットインに近い「銅鑼」へ直行です。小林絵美嬢がぶっ飛びました。「ピットインに、なあーんか、だまされたように入社しちゃったんですけどお、本村さん、すっごおくこわかった。でも、今は、ぜえーんぜん平気だもんね」などという話で盛り上がり、ホテルについたのは結局、朝の4時でした。「おれも泊まる」と、京都では仙波さんとでしたが、今度は本村さんとベッドをともにすることになってしまいました。なんでオッサンばかりなのだ。

 

6月12日(木)/同窓会/有楽町ツインタワービルB3「はしもと」/伊藤博子、藤野由美子、中島孝子、鈴木寿子、中川博志

 午前中、ピットイン事務所の本村マック不調のおたすけのあと、わたしと同じバナーラス・ヒンドゥー大学の出身で、東京でインド音楽公演をなんとかしたいというインド人サイジャイ・マルホットラ氏とインド料理店でしばし歓談。その後、中川君が上京するから、と再び設営された山形県立長井高校同窓会のために有楽町へ。四人の「オバサン」たちと半ば主夫のオッサンは、子育ては遺伝か、などといった話に興じるのでありました。この同窓会は、わたしが上京するたびの定例にもなりそうな雰囲気です。伊藤博子さんは、偶然にも二胡の賈鵬芳さんとの接点があるのです。

 

6月20日(金)/リハーサル/大光寺/七聲会、アミット・ロイ、クラット・ヒロコ、寺原太郎/見学者/竹山靖玄(水口町立碧水ホール館長)

6月28日(土)18:30~/「浄土声明×インド音楽~時空を超えて」/水口町立碧水ホール/七聲会:声明、アミット・ロイ:シタール、クラット・ヒロコ:タブラー、志水かおり+寺原太郎:タンブーラー、川崎義博:サウンドデザイン+ドローン制作

 わたしと久代さんは、途中でこりずにパチンコなどをしつつ、前日に水口町に入りました。
 当日は、暗雲立ちこめていました。九州方面で大暴れをしている台風が関西にも接近しつつありました。この台風のなか、いったいお客さんたちはいらっしゃるのか、という心配をよそに満員でありました。われわれが、照明やマイクの調整や、入退場のリハーサルなどをしているころ、神戸の警察官たちが土師淳君殺害容疑者として絞り込んでいた中学生を逮捕した、というニュースをテレビでやっていたのでしたが、われわれはそれどころではなかったのであります。
 公演内容は期待通りで、大きな破綻もなくつつがなく終わりました。とくに最後の、七聲会とインド音楽隊+川崎さんのドローンの大団円は、前回のジーベックよりもずっと完成度が高くなったと思います。この日のギャラ以上にゼニをかけた七聲会の黄色のユニフォームもばっちりでした。1部がアミット・ロイのソロ、2部は七聲会の聲明、3部が大合奏といった構成です。
 碧水ホールの、ボランティアも含めたスタッフたちはいつもながら一生懸命にコンサートを支えていました。今回は、自身も浄土宗僧侶ということで、館長も力の入ったコンサートなのです。終了後は、若い女性の多いボランティアスタッフたちがいるので元気の出る打ち上げでした。
 電車の乗り換えミスでカザフスタン近辺までいってしまった寺原太郎君の同居人の林百合子さんが以下のような感想文を彼らのホームページに載せています。

----この企画はたろうさんの師匠の中川さんの企画で、同じ組み合わせのコンサートを過去に何回か見ていたのであるが、浄土宗のお坊さん7人からなる七聲会の声明が、どんどんうまくなっているなあというのが気になった。和声をとることで声明の本来もっている圧倒的な声の迫力が半減してしまう様な気がする。しかし第3部でAMIT ROY氏の優雅なシタールとドローンに徹する声明が重なりあったとき、音世界にどーんと広がりが出て、「天上界の音楽」を感じた。----

 異なった音程の声を同時に出すことと、意識的な和声はべつものでありますが、こういう評価もあるのですね。たとえ重なった声であっても、聲明のもつクササというかコブシを維持しつつ正確な音程で歌うことは、七聲会の課題ではあります。その七聲会、せっかく黄色の衣と袈裟というユニフォームができたのですが、今後の公演予定は今のところまだありません。残念です。来年はきちんと録音してCDにしたいと考えているのですが。

 

6月29日(日)/16:30~/チンギス・ブルース~海を越えた草原の歌声~ホーメイ/ジーベック/コンガルオール・オンダール:ホーメイ、ポール"アースクエク"・ペナ:ブルース、巻上公一:ヴォーカル

 トゥバという国があることは知りませんでした。どこそこの中心はここだ、と勝手に決めてモニュメントを建ててしまう男がいて、彼はトゥバの首都、キジルにアジアの中心の碑、などというものを建てたそうです。つまり、トゥバはアジアのへそ、ということになっているらしい。公演が始まる前、このようなことを写真を交えながら紹介され、久しぶりに「遠い異国」に想いを馳せたのでありました。
 巻上さんのプロデュースであるこの公演は、ぶったまげつつ楽しみました。トゥバからやってきたコンガルオール・オンダールの倍音歌唱ホーメイは、実によく倍音が響き、このような歌唱法に初めて気がついた人はとんでもない人でありますね。だみ声でしゃべっていたら高い音も偶然出ていることに気がつき、こりゃおもろい、てな感じで始めたのでありましょうか。人間というのは、本当にとんでもないことを考えるものです。こんなことをしなくても、別に生活に支障はないのに。一口にホーメイといっても、さまざまな種類があることも初めて知りました。
 コンガルオール・オンダール氏の幅の広い四角い顔に小ぶりで平面的な目、鼻、口の配置関係を観察した堀口朝世漫画少女は、「モンゴル系の人ってみんな坂田明みたいな顔してますね」などといいつつ、ははははは、と笑うのでありました。いつもにこにこし、カラフルなモンゴルの民族衣装を着けた坂田明的オンダール氏の他に、アメリカ人盲目ブルースシンガー、ポール・ペナ、数少ない日本人トゥバ通の青年(お名前を失念)、そしてヴォーカル表現の可能性にあくなき情熱を傾ける巻上公一さんも加わり、まか不思議な声の世界を繰り広げるのでした。
 ポール・ペナも巻上公一さんも、やはりトゥバのホーメイにはまってしまい、現地のコンテストにまで出場し、それぞれ賞までもらってしまうというのめり込みようなのです。ポールの超低音によるブルースには、なにか土着的な情念がこもっているように感じられます。ホーメイは、出だしは浪花節のようなだみ声ですが、高音の倍音がそのだみ声に加わると、大気の重層した大平原を走る馬のたてがみが風に揺れるような感じです。ジーベックは久しぶりにぎゅうぎゅう詰めの満員でありました。よい企画でした。

 

7月6日(日)/第1次キムチ製作/市販をはるかに凌駕する製品完成

 手前みそですが、わたしはこれほど完璧なキムチを知らない。これも、ご近所の李容玲さんのレシピのおかげです。

 

7月9日(水)/19:30~/トゥンバン・スンダを聴く/ジーベック/アデ・スアンディ:スリン、ルックルック・ルックマナ:カチャピ・インドゥン、川口明子:カチャピ・リンチック、村上圭子:歌、谷村晃:司会/主催:兵庫現代芸術劇場

 このコンサートは、髪を緑に染めた松澤緑さんの制作でした。彼女は、東京でバリ芸能研究会の事務局を運営しています。
 大人数のガムランや舞踊団のような派手さはないものの、インドネシア音楽公演としては印象深いものでした。インドネシアのお琴であるカチャピと笛のスリンは、音量が小さく地味な印象を受けるのですが、深さと洗練があります。久しぶりに、抑制された美のある音楽を聞きました。歌い手として日本人女性である村上圭子さんも加わっていますが、楽器奏者とのコミュニケーションに不自然さはまったくありません。
 いわゆる民族音楽の歌では、独特の旋律や土地の育んだコブシに強いメッセージ性があり、それをわれわれは鑑賞することになります。村上さんは、風貌こそぽっちゃりした美形純大和顔なのですが、スンダ風のコブシや歌い回しをよくとらえていると思います。早いパッセージでの音程の正確さや、コブシのディテールがより訓練されれば素晴らしいと思います。器楽では、わたしのような、いわゆる民族音楽に積極的に関係する人たちもいるのですが、言葉の問題もクリアーしなければならない歌手は非常に少ないので貴重な存在です。ただし、声の質はいかんともし難い面があります。彼女は、音楽に寛容な現地では、おそらく暖かく迎えられていると思います。しかし、日本で、外国の、しかもコブシやクササの強いアジアの歌を歌うさいには、越えがたい声質の違いがじゃっかん不利に働くこともあるかも知れない、と彼女の歌を聞きながら感じました。笛族としては、アデさんのスリンが本当に気持ちよかった。

 

7月16日(水)~19(日)/ISDN接続からインターネット接続までのもうろうの日々

 これまで使っていたモデムの速度があまりに遅かった(9600ボー)こと、かつそのモデムの電源部分が完全に機能しなくなり通信不能になってしまった、ということがあり、思い切ってISDNに切り替えました。しかし、通信さくさく状況にいたるまで、次々と障害が発生したので睡眠時間のとれないもうろうの日々が続いたのでした。
 さあ、いよいよ超高速時代だ!!といさんで接続を開始しました。ところが、たいていのひとがそうかもしれませんが、次のような行程で、ほとんど振り回されたのです。

  1. 新TAのマニュアルにそって接続。
  2. 電話が受信不能になる。
  3. その旨をメーカーに電話すると、それは不良品だとのこと。
  4. 次の日に代替品をもったメーカーがやってきて、交換。技術のわからん人。
  5. マニュアルが役立たずなのでFAXで設定をもらう。
  6. いくらFAXの設定法通りにやっても、まったく接続できない。
  7. TCP/IPとPPP設定がどうの、とメーカーがいう。
  8. FreePPPがよい、というのでインストールしてもだめ。
  9. 電話して数時間後に電話がつながったアップルに聞くと、FreePPPはアップルの製品ではないのでわからんという。ばーろ。
  10. マック通友人に聞くと、Internetスターターキットでやれば、というがだめ。
  11. ConfigPPPもだめ。
  12. 何度も何度もPPPのファイルを初期設定や機能拡張やらをシステムから捨てたり入れたりする。しかし、だめ。
  13. プロバイダはFreePPPとTCP/IPの最新バージョンが相性が最もよい、という。
  14. しかし、購入したTAとFreePPPは喧嘩する。
  15. その旨をTAメーカーにいうと、システムがゴチャゴチャになったかもしれないのでシステムを入れ替えたら、という。現システムは人のコピーなので、三宮の友人に7.6を借りてシステムを入れ替える。この間まで2日間を費やす。
  16. さあ、システムもさらになった、今度はいよいよ、と思っているとそううまくいかないのが世の常。接続したが、恐るべき低速。こんなはずはないでしょう、ISDNなんだから、とプロバイダにいうと、たしかにそうだ、という。いっぺん同期ではなく非同期の電話番号にしては、というので番号を替えると、なんとかつて経験したことのない様な超高速。
  17. ひひひ、やったあ、と喜んだのもつかの間、今度はメールソフトのeudraが常にエラー状態。メール送受信不能状態は、本日の午後まで続く。---ほんまにくたびれました。肩はぱんぱんだし、目はしょぼしょぼ、頭はショートサーキット状態なのでありました。TA買うなら、NTTのものがよさそうです。安いのはやはりそれなりに理由があるのだ、というのが教訓でした。

 

 

7月19日(土)/神戸まつり「アジアパラダイス~音楽の祭典~アジア音楽の夕べ」/神戸文化ホール/マンクヌゴロ王家舞踊団

 目充血頭脳疲労的ぱんぱん肩こり状態のなか、ダルマ・ブダヤの林公子さんのお誘いを受けて文化ホールへいきました。久々のガムラン演奏は楽しめたのでありますが、いちいち出てくる司会のくだらなく馴れ馴れしいおしゃべり、行政の主催する総花的入場無料プログラムにつきもののざわつきが耐え難く、このいかにもの「アジアパラダイス~音楽の祭典~アジア音楽の夕べ」というようなタイトルのコンサートには、今後接近しないことを固く誓いました。すべてではないにしろ、行政のからんだこの種のコンサートがおおむね愉快でないのは、「市民」である聴衆の積極性や感受性を信頼していないことがコンサート進行のディテールから伝わってくるからだと思います。この日の音響はNADIの川崎選手でした。彼は最近、ことのほか忙しいようです。

 

7月21日(月)/駒井家宴会

 明石の両親も加わった家族宴会でした。終わって帰宅してからカレンダーをみたとき、あっ、忘れた、どうしよう問題が発生。ダブルブッキング後約束優先状況に気がついたのです。実は、この日、来年のハリジー公演のためにアリオン音楽財団の飯田さんと大阪で打ち合わせの約束をしていたのです。こんなことは滅多にないのですが、あまりに「仕事」に無縁な日々が続いたためか、宴会か、仕事がらみのミーティングか、というときに無意識のうちに前者を選んでしまったのでありましょうか。あわてて飯田さんの泊まるホテルに電話して、平謝り。緊急の問題ではないにしろ大変失礼しました。この「物忘れ」は深刻です。いよいよ本格的な頭脳老化が始まったのではないかと、恐怖です。

 

7月22日(火)/イデオロギーの怪物 音襲ス/バートンホール(夙川)/出演/岡山守治トリオ、MESCALINE GO-GO(HACOとクリストファーのバンド)、DONKAMTICS

 天楽企画ホームページの英語版制作で全面的に助けてもらっているクリストファーに会うためにライブに出かけました。全体にかなり頭の痛いライブでした。音量もそうなのですが、即興を中心とした「コンテンポラリー」な音楽のもつ無方向性にはいまだに戸惑いがあります。安定した表現様式にフラストレーションを感じる人たちは、その様式をできるだけ破壊することから始めなければならないのではありますが、破壊や再創造にある種の方向性を期待するのは、もはやオッサンなのでありましょうか。
 こういうライブに頻繁に出没する禿げたおもろいオッサンがいる、トーダイ出のコグレさんていうだけど、という話をクリストファー、ダンスの角さんと話しているとき、ふと前列に座っている人が振り向きました。なんと彼はその本人だったのでした。不特定多数のなかで人の話をするとこういうことが起きるので油断がなりません。背後で自分のうわさ話を聞く、というのはどんな気分でしたでしょうか、小暮さん。悪口ではなかったですよね。

 

■7月24日(木)/天楽企画ホームページ開設

 ついに天楽企画のホームページを開設しました。アドレスは、

http://www2s.biglobe.ne.jp/~tengaku/

 写真やイラストはほとんどなく、字だらけのホームページです。これまで書きちらしたテキストや、新たに加えましたのでかなりの文量になりました。また、「なぜわたしはインド音楽という『病気』に罹ってしまったのか」というドタバタ物語、インド楽器解説、「わたしの料理レシピ」などの連載ものもあります。インターネットに接続しておられる人はすでにご覧になっているかもしれません。どれくらいの人がわたしのページを見たのかが分かるカウンターを設置していますが、この通信を書いている10月2日時点までで、1090という数字が表示されています。ほぼ毎日わたしもチェックしているので、このうちの100アクセスほどは自分自身のものです。

 

7月26日(土)/神戸外大クラス会宴会/中川宅/出席: 秋山さん、後藤りえこさん、山口さん、李さん/前菜:タコの地中海風サラダ、オクラのメンタイコあえ/メイン: タイ風チキンカレーココナツミルクベース、キーマカレー、サラダ/デザート: シューアイス、チョコレート、プリン

 久代さんの同級生はほとんど社会人の女性です。なあーんか、女子大生とはいいつつ、オバサンたちの井戸端会議風の宴会でありました。

 ○後藤さんのジョーク

 ある美しい山里に3人の若者が訪れた。そこに美しい娘がいたので、3人は彼女と結婚したいと父親に頼み込んだ。父親は3人の話を聞き、「じゃあ、ある条件をクリアしたら娘をやろう」といった。その条件とは、それぞれがある果物を持参する、というものであった。最初の青年がイチゴをもってきて父親に尋ねた。「わたしは、このようにイチゴをもってきました。で、どうしたら娘さんとの結婚を許してくれるのですか」「よしよし。では、そのイチゴを君のお尻に入れなさい」「ギョエー、わたしはとてもそんなことはできません。第一、入れようとするとイチゴはつぶれてしまいますし」「じゃあ、しかたがない。あきらめなさい。はい、次の人は」2番目の青年に父親が聞いた。「わ、わたしはリンゴをもってきましたが」「よし、それじゃそのリンゴをお尻に入れなさい」「えーーっ。そおーんなあ。できませんよお、そんな。ムッチャ大きいのに」と答えた2番目の青年のあとに続く3番目の青年をふと見ると、スイカを手に抱えているのであった。

 

7月31日(木)/'97兵庫県女性教職員夏の集い/神戸市勤労会館/文化行事「インド音楽にふれる」/講師:中川博志、協力者:クルブーシャン・バルガヴァ:タブラー、田中峰彦:シタール

 シタールを弾く建築家、橋本健治さんの奥様の依頼でした。彼女は伊丹の小学校の先生でかつ詩人なのです。聴衆はほとんどが女性教師です。会場のきわめてシンプルな音響システムのために思うような音質では演奏できませんでした。与えられた時間は、簡単なインド音楽の解説も含め40分しかなく、シタール、タブラー、バーンスリーそれぞれのソロを短い時間で分け合うことになりました。われわれは、1曲で最低40分くらいは必要なので短時間の演奏依頼はなかなかきついものがあります。

 

8月3日(日)/中川真帰国電話

 半年のジョクジャカルタ芸術大学客員教授から戻った真さんから久しぶりに電話がありました。「ジョクジャは最高だった。ひひひひひひひ。ところで、今年は十津川にくるのかなあ。本番の14日のあとは、那智のほうに魚を食いに行くのだ。どおお?」。サカナという部分が魅力的に聞こえましたが、16日に京都で演奏することになっているので今年の十津川行は断念しました。

 

8月6日(水)/アクト・コウベ・ジャパン企画委員会会議/ジーベック


8月16日(土)/大文字焼き送り火/川口美術(京都・出町柳)

 以下は、そのときのことを、川口美術の川口すみれさんの開設したホームページに掲載された原稿です。

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生まれて初めて見た大文字送り火

 ひょんなことから、京都名物の送り火を生まれて初めて見ることになった。
 京都を中心にシタールの演奏をやっている井上憲司さんが「送り火をみながらバーンスリーソロというのはどうですか。場所は『川口美術』という骨董屋さんなんですけど」とお誘いの電話をうけたとき、どういう場所でどんなふうに演奏するのか、まったくイメージがわかなかった。
 骨董屋と聞いて思い浮かべたのは、人がようやく通れるような店内通路の両脇に天井まで古いモノが雑然と積み上げられたたたずまい、奧の暗い一角で陰気な顔のオッサンがさもつまらなさそうに古い雑誌を眺めている、というような図である。しかも、京都である。狭い間口の玄関によその土地の人であれば見過ごしてしまうような、ひっそりと目立たない暖簾や看板があり、ふと手に取った時代物のキセルにとんでもない値札がさりげなくつけられ、ますます暗い奧のどん詰まりに、商売なんてぜーんぜん関心ないもんねという不機嫌な顔をした店主がその実するどく客を観察しているような店がまず頭に浮かんだ。老舗であればあるほど、儲かっていればいるほど店構えと店主の態度が地味になる。これがわたしの京都のイメージなのだ。井上さんはさらに「10人か20人ほどのお得意さんを招いた場所で、室内を暗くして演奏するんすよ」などというものだから、ますますアヤシイ、と思った。

京阪出町柳駅のあたりは送り火の客でいっぱいだった

 当日の8月16日の夕方、京阪出町柳駅のあたりは送り火の客でいっぱいだった。川端通の歩道も、川合橋の両側も見物客で埋まり、警官たちが人の流れを整理していた。高野川と加茂川の合流する河原には、気の早い人たちが敷物にすわって待機していた。しかし、川合橋を渡り下鴨神社に向かって右に折れると、とたんにひっそりとしている。川口すみれさんから送っていただいた地図を見ながら、京都的地味しもた屋風骨董屋を探したが、それらしい建物は見あたらない。かわりに、表のシャッターのおりた真新しいコンクリート2階建ての建物が見え、「川口美術」と小さく書いた標識のところにインタホンがあった。ボタンを押すと、シャッターが開き、顔の小さなかわいい女性が現れた。彼女がすみれさんである。
 1階の店内には、鉄縁で補強した焦げ茶色の家具や飾り棚、白い陶磁器が点々と配置してあった。品数がおもったよりも少ないので、いわゆる普通の骨董屋のように、古いモンはなんでも集めるのよね、という店ではないようだ。すみれさんはわたしを2階に案内し、ここでやっていただくんですが、舞台はあれでいいですかと、奧の一段高くなった場所を示した。その台に座って正面をみると、全面グラスウォールのむこうに大文字がちょうど中央に見えた。送り火の山腹が中央にくる大きな額縁のようである。大文字に向かって折り畳み椅子が10脚ほどおかれた室内はそれほど広くない。20人も入ればいっぱいになる程度である。それにしても、広くない間口なので視界がおおきく広がるわけではないが、表からは想像がつかない展望である。グラスウォールの外壁のすぐ側が高野川になっているので、眺望を邪魔する建物がない。
 7時過ぎにぼちぼちとお客さんがやってきた。8時前には、着座した10人ほどのお客に、店主である川口さんと娘であるすみれさんが、ワインや発泡酒、カナッペなどのつまみをすすめ、静かに点火を待つ。わたしは、室内の照明が消されたのを合図に奧の仮ステージに座って演奏した。当日はわたし一人なので、電気タンブーラーをバックにフワワフワワと笛を吹く。
 吹きながら正面を見ると、招待客たちの黒い後ろ姿の向こうに「大」の文字が暗い夜空にくっきりと浮かび上がった。そして、あっけないほど再び暗くなった。わたしは、少なくとも1時間くらいは燃えているのだろうと思っていたので、本当にあっけない感じだ。しかも、最良の場所でみているにもかかわらず、文字の大きさが意外に小さい。絵はがきやテレビでしか知らなかったわたしは、もっと、バーンと大きく目に飛び込んでくるものと思いこんでいたのである。

社会資産としてのソフトウェアー

 1年に一回、しかもたった20分ほどの送り火を見るためにどれほどたくさんの人々が京都にあつまることか。京都は、寺社の多い街のたたずまいもそうだが、社会資産としてのソフトウェアーもたくさんあるのだなあ、と笛を吹きながら思うのでありました。京都ホテルや京都駅の高層化に対する根強い反発は、こうした社会資産を守る意識のためなのだ、と納得がいく。土地の有効利用化効率化のため、都市の建物は高層化が進んでいるが、効率性によって得られるよりもずっと価値の高い社会資産をもつ京都にはそれらはむしろ障害になる。
 客たちが帰った後、川口店主とすみれさんの話を聞く。代々続く老舗とばかり思っていたが、この店は川口さんが脱サラして始めたのでまだ新しい。主に韓国に出かけて古い家具や陶磁器などを仕入れ、ぼちぼちやっているのだという。「セゾン系ホテルの役員だった頃に比べると収入はぐんと減ったが、今は自由で本当に楽しい」と語る川口さんは、バリバリのサラリーマンだったころをとても想像できないほど穏やかで満ち足りた表情をしている。東京の六本木のWAVEに勤めていたすみれさんは、京都はやっぱり東京よりも落ちきます、といっていた。WAVEは、わたしの制作したCDを扱ってもらった関係で、坂下さんという担当者と連絡をとりあっていたが、すみれさんも当然彼のことはしっていた。ほんまに世間は狭く、どこにいても変なことはできないものなのです。そのすみれさんがホームページを開設した、何か書いて、というメールをいただいたので、このようなよれよれの文を書いてみたのでありました。

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 すみれさんのホームページのアドレスです。
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sumire/ff.html

 

 

8月26日(火)/ドーナル・ラニー公演/梅田HEAT BEAT(大阪梅田・スノークリスタルビルB1)/出演/ドーナル・ラニー楽団、ゲスト:ソウル・フラワー・ユニオン

 同じ日に伊丹アイフォニックホールで「ドゥドゥ・ニジァエ・ローズ」があり、招待券もいただいていたのですが、彼らの演奏は以前にも何回か聞いているので、寺原太郎・百合子夫妻に進呈しました。わたしと配偶者は、プロモーターのプランクトンから突然ファックスで送っていただいた招待状をもって梅田まで出かけました。
 立ち見の出るほど盛り上がりました。ドーナル・ラニー楽団の特徴は、というか他のアイリッシュバンドもそうなのか、繰り返しの多い曲がいきなり高揚状態からはじまりそれが最後まで続く、というあたりにあるようです。いつまでもたたみかけるので、ときには聞くほうも疲れてきます。ベース、ドラム、パーカッションが加わり現代風になってはいますが、曲内容自体は、中世ルネッサンスのものと非常に似ています。途中の、モレートおばさんの清涼感のある美しい歌声でちょっとはすくわれましたが。アイルランドの伝統音楽は、ドローンをよく使ったり、日本的な5音音階があったりして、なにか親近感を感じます。この辺も人気の秘密なんでしょうね。バグパイプが非常によい効果を出していました。かなりのテクニシャンでした。ソウル・フラワー・ユニオンという妙なバンドがゲストでした。沖縄の三線をもった着流しのにいちゃん、チャンゴのねえちゃんとクラリネットあんちゃんという編成です。人気があると見えて、彼らの登場には大きな拍手がありました。
 梅田あたりもどんどん変化してきているのでありますね。駅から地下道でつながるHEAT BEATというライブハウスは、今風の感じがしました。

 

8月27日(水)/アクト・コウベ・ジャパン企画委員会/マルセイユから写真と作品到着、玉手箱開封

 7月17日(=震災1年半後)に見たものを使い捨てカメラで撮影し、未現像のまま交換しあう、というアクト・コウベのプロジェクトに参加したマルセイユとベルンの仲間たちから、写真と、ジーベックでの展覧会のための作品が段ボール箱で届きました。アラン・ディオやバール・フィリップスなど、マルセイユのアーティストたちがどんな写真を送ってくれるのか、われわれはわくわくしつつ眺めたのでありました。わけの分からないアーティスティックなものが多いのではないかという予測に反し、けっこう普通のスナップでした。マルセイユには誰も行っていない日本側のスタッフは、路傍の風景やメンバーの住居内部や豪華ヨットなどから漂ってくる、日本とは異なる時間と雰囲気の豊かさに、いいねえ、うらやましい、としみじみ感じるのであります。
 久しく連絡の途絶えていたスイスのハンス・バーグナーからも写真が届いていましたが、なかにベルン市観光案内絵はがきも入っていて、いかにも律儀な彼の性格を表しています。
 われわれの送った写真を見ているはずのあちらの人々はどう感じているのでありましょうか、とても興味がわきます。未現像使い捨てカメラの交換という計画は、あちらの人々の意向もあり、今後も続けていこうということになりました。次回は、震災から3年目の1月17日の予定です。

 

8月31日(日)/午前/.居留地散策/午後「近安」20周年記念宴会/大明石会館/内田はるみカレーパーティー

 ヒマでかつ富裕ではない人々に限ってたまにおこることですが、普段はどこからも声がかからないのに、招待されるとなるとたいてい重なってやってくる状況があります。宝地院の和尚さんによれば、これを「貧乏人の飯重ね」というそうであります。すべて招待ではないものの、この日はまさにそれに近い状況でした。最近はあまりにヒマで、たまの外出があってもたいてい用事は一つです。ところがこの日は三つも重なったのでした。
 午前中はまず、11月3日の居留地イベント、アート・ポーレンの下見でした。これは杉山知子さんが代表のC..A.P.主催によるもので、神戸市の旧居留地を中心にさまざまなアーティスティックな"作品"が各所で出没するというものです。10人ほどの参加予定者がぶらぶらと居留地を歩きました。インド風神戸弁紙芝居の東野さんも、「インドで本作ってん」といいつつおよそ本らしからぬ巻物をリュックから取り出しつつ参加しました。
 2時からは、明石の高架下集会場での「苫屋近安」20周年記念宴会。世の中と日本酒の堕落した風潮を憂いつつ「ほんまもんの酒飲み道」を追求してやまない楠茂太郎さんが脱サラして始めた「近安」の20周年記念宴会でした。売れるための安易な日本酒製造の風潮に抵抗し、正しい飲み手にとっての旨く正しい酒のあり方の探求は、この店を中心に生まれた「謹醸日本酒を作る会」のブランド「相聞」に結果しているのです。その「相聞」の醸造元、福井県丸岡町の久保田酒造の専務も参加して、酒談義にふける晩夏の昼下がりなのでありました。病気や大地震被災にめげず店を続けてきたオトウサンこと楠茂太郎さんも72歳。たまにしか行かないナマケ客であるわれわれですが、まだまだ頑張って「近安」を続け、「正しくない」客を説教し続けて下さい。
 この「近安」20周年記念宴会で真っ昼間からくびぐびと「相聞」を飲んだため、帰宅したとたん世界が揺らぎ始めましたが、われわれは前々から約束していた次の宴会場へと向かうのでありました。同じポートアイランドに住む内田はるみさん宅です。われわれが着いたときはすでに宴会のピークは過ぎ、わたしのマックお助けマン山崎さんは安楽椅子で睡眠中というような状況でした。参加者は、山崎博史夫妻、マキノエミさん、大久保さん、そしてわれわれ。内田パーティーのメインデッシュである三種カレーは、かなり本格的でおいしかった。もうちょっとお腹が「正しい」状況でいただきたかったと後悔しています。
 ともあれ、このような、われわれが「一日に三つも用事が重なる」状況に浮かれているころ、パリの橋の下で英国次期皇太子の母親がエジプト人富豪ともども壮絶な最後を遂げているのでありました。

 

9月5日(金)/「アクト・コウベ・展覧会1マルセイユ~神戸」展示作業/杉山知子、そうた、谷口新、下田展久、森、川崎義博、ハコ/マザーテレサ死去
■9月6日(土)/「アクト・コウベ・展覧会1マルセイユ~神戸」オープニング・パーティー/ジーベック

 マルセイユとベルンから送られてきた写真や作品の展示をしているころ、ダイアナの大きな写真つきのスポーツ新聞1面見出しの右隅に「マザー・テレサも他界」などと、ついでのように彼女の死が報じられていました。そうした、世間のニュースとはかかわりなく、「アクト・コウベ・展覧会1マルセイユ~神戸」がジーベックで始まりました。アクト・コウベ・ジャパン宴会担当川崎義博委員長のまかない監督のもと、さまざまなおかず関係が用意され、オープニングはつつましく挙行されました。雨気味のなか、久しぶりに神戸にやってきたカマチャンこと鎌仲ひとみさんや、廣田さん、フランス女学生2名をひきつれた中島さん、藤本由紀夫さん、「繁昌花形通信」の塚本さん、ふれあい港館ワインミュージアム館長河原達さんなどが顔を見せ、なんとなく拡大内輪パーティーの如きオープニングでありました。
「わたしの番組が、わたしの番組が」とさりげなくかつしっかりと主張するカマチャンと廣田さんが、そのあとわが家に乱入し二次会みたいになりました。酔ったままカマチャンの監督したNHKの番組を見ました。セゾングループの堤清二と若手社会学者が現代消費社会について語る、というような番組でした。酔う前に見ればもっと理解できたかもしれません。そのうち、パーティーの片づけを終えたジーベックの森チャンと川崎義博宴会委員長も合流。

 

9月13日(土)/「第5回庭火祭」/島根県八雲村熊野大社境内/出演者/熊野大社八雲楽、クリヤッタム公演団、仙波清彦:小鼓、田中顕:大鼓、中川博志:バーンスリー

 今回で5回目になる庭火祭でした。昨年は、ハムザ・エルディーン、木下伸市、木津茂理、木津かおりさんたちが出演したことは前回の通信で触れています。 今年は、クリヤッタム公演団と仙波清彦+田中顕+中川博志という組み合わせでした。クリヤッタム公演団は、新潟県十日町のミティラー美術館を主宰する長谷川時夫さんの招聘でした。長谷川さんは、彼らの日本公演のプロモーション、3ヶ月に及ぶ彼らの生活支援、そして舞台道具運搬トラック運転手として多少疲れ気味ながら大活躍なのです。
 前日は、八雲中学校でのクリヤッタム公演団との交換ワークショップのあと、インド人たちのショッピングにつきあい、スターパークでのウェルカム・パーティーで仕上げでありました。この催しではほとんど常連と化したわたしは、三好修一+由紀子夫妻、石倉日出男さん、岩崎順さん、安達治雄さん、藤原祥旦さん、高木昭男さん、小倉佳代子チャン、米田裕幸さん、土谷昭治さん、そして瀬古康雄+喜代栄夫人+三千恵+真奈美一家らと一年ぶりに再会しましたが、まるで昨日あったばかりという感じでした。8時開始のパーティーが9時になる、というのも例年と変わりません。ヴェーヌ、ラヴィ、ウマー、カピラーなどのインド人たちはみな人なつこく、気持ちの良い人たちでした。パーティーでは彼らの作ったカレーがおいしかった。その日は、松江市の瀬古宅で宿泊。近所のスタッフの佐藤さんらとビールを飲みつつおしゃべりをし、4時ころ就寝。

ますます充実するまつり

 次の日は、リハーサルまで時間があるので、ゆっくり起き出したわたしは、喜代栄さんの車で松江駅までおくってもらい、そこから散歩しつつ約90分かけて瀬古宅に戻り、すぐさま石倉日出男さん(金属会社勤務)、岩崎順さん(保険関係)の仙波出迎え車で出雲空港へ迎えにいきました。
 八雲村の熊野大社到着後ただちにリハーサル。クリヤッタム公演団の鼓様撥打ち太鼓イダッカ+大瓶出口革張り手打ちパーカッションのミラーヴ3台と、仙波さんの小鼓+太鼓、田中さんの大鼓、わたしのバーンスリーという組み合わせのセッションを急遽その場で組み立てて練習しました。このセッションは、かなり面白いものになると思われたのですが、プログラム後半に雨が降ってきて取りやめとなり残念でありました。
 あたりが暗くなり、かがり火が境内を照らし始める頃、公演開始です。今年も、熊野大社境内はぎっしり満員でした。2000人以上はいたと思います。第1部は、わたしの笛のソロの後、仙波+田中+中川のセッションでした。小鼓、大鼓とバーンスリーという妙な組み合わせの「日本編」でした。打ち合わせのようにわたしが笛を入れなかったので、仙波さんは「最初のヨオーッオでっていったでしょ」といわれてしまいました。でも、あのヨオーッオてのは、わたしにはどれも同じように聞こえるのでした。
 インド組の公演中、われわれ日本隊3名は門前の簡単タイ料理屋台で虫押さえでした。それにしても、最初の庭火祭のときに比べると、このフェスティバルも、内容、規模とも年々充実してきています。動員もそうですが、以前は、いわゆるアジア民芸品屋台が二三軒しかなかったものが、今回は、やきそば、たこやき、りんごあめなどの職業的屋台関係者も加わり、ほとんど村祭りの様相です。

最後に雨が降ってきた

 最後のセッションのために待機していると、にわかに聴衆が動き出し始めました。雨でした。「土谷昭治委員長のすごいところは、雨を降らせないことだ」などとだれかがいっていましたが、今回はその神通力が若干弱まったようです。結局、日印セッションは取りやめとなり、われわれは神社控え室でカレーをいただいたあと、宿舎である隣りの「熊野荘」に移動し、瀬古さんも交えて酒飲み大会となりました。例によって、朝4時就寝。
 明らかに睡眠不足のマナコをしつつ、次の日は瀬古さんの車でまず出雲大社の「荒木蕎麦」へ。しかし行列ができるほど混雑していました。特別に持ち帰りパックを用意してもらい、それをもって海岸で蕎麦を食べました。潮風に当たりながら、かつペラペラののパックから麺を引きずり出して食べる蕎麦も、風情はあまりないとはいえ、なかなかでした。その蕎麦消化過程ではありましたが、そのまま出雲空港へいき、仙波さんと田中さんを送り出し、わたしは松江駅へ。帰途、岡山で下車し小西シスターズと中華屋さんで夕食をとり、神戸についたのは10時過ぎ。睡眠不足の日々でしたが、なかなか充実した八雲の秋なのでありました。スタッフのみなさん、ありがとうございました。

 

9月18日(木)/ギドン・クレーメル/フェニックスホール、大阪梅田

 前回うっかりしてすっぽかしてしまったアリオン音楽財団の飯田一夫さんと、大阪梅田のフェニックスホールで初めてお会いし、来年のハリジーの日本公演のことなど、打ち合わせができました。ハリジーの大阪公演は、このフェニックスホールで行われる予定なのです。この日は、ヴァイオリンのギドン・クレーメルの演奏会でしたが、立ち見の出るほどというので公演を見るのは断念し、リハーサルだけをちょっと見させてもらいました。

 

9月20日(土)/中川家カレーパーティー/料理(製作ないし持参担当者)/アーシシ風チキンカレー(中川)、バッチュー風ポークミルク煮込み(寺原)、ゴア風エビカレー+ピクルス風サラダ(ヒロコ)、ティラミス+シフォンケーキ(今井)、ドン・ペリニヨン+フランスワイン赤(池田)、山形産三種葡萄(川崎)、普通のサラダ(久代)、ウーノ・ゲーム(ラリタ)

 住金物産の池田さんの、「久しく会ってないねー」の一言で開かれたパーティーでした。参加者は、池田さんの電子メールフレンドでもある近所の今井球さん、前日元町で買い物していたら偶然会ってしまった川崎義博さん、夫不在の続くクラット・ヒロコさん+ラリタ、バーンスリー道にひた走る寺原太郎くん、新人バーンスリー道犠牲者の近畿大学生奥野稔青年でした。
 今回は、参加者それぞれの料理ないし食料持参を分担してもらいましたので、実にバラエティーのある夕食でした。そしてそれぞれがきわめてレベルの高いものでありました。「何もってこか」とメールで問い合わせてきた池田さんに「ドンペリなんかいいなあ」などと返事したら、なんと本当にもってきてくれました。なんでもいってみるものです。前日から仕込んだ、という今井さんのケーキも素晴らしかった。
 これからは、この分担調理食料持参制度でいこう。これでいけば、わが家の料理宴会のグレードはさらにアップすることが予想できます。次回はロマネ・コンティを、と図に乗ったわたしは、池田さんに申し述べました。しかし彼は、そりゃ、なんじゃ、といっていましたので、それがどれほど高価なものかご存知ないようです。とりあえず、いってみただけですから気にしないで下さい、池田さん。

 

9月23日(火)/安兵衛芋煮会

9月25日(木)/第二次キムチ製作

9月27日(土)/ベトナムのいま、昔"竹の音風景"-タイグェン高地の秋祭り/伊丹アイフォニックホール/出演:ベトナム・バンブー・アンサンブル

 ベトナムには、われわれの想像を越える音や楽器があるようです。このコンサートでとくに不思議だったのが、「クニー」という胡弓。外見は竹の帽子かけといった感じ。上半分の部分に弦が一本はってあり、それを弓で弾くのですが、楽器自身に共鳴体はなく、ただの竹の棒なのでどうして音を増幅するか、最初は分かりませんでした。実は口を使うのです。弦の下端からぶら下がった糸の末端の平たいおシャブリを口にくわえて、弦の振動を口腔内の空気振動に変えて増幅します。目をつぶって音を聞くと、エフェクターをかけたギターの音に聞こえ、とてもアコースティック楽器とは思えません。
 また、有名な楽器にダンバウという一弦琴があります。この楽器は、太い竹か木製の箱の上に張った1本の弦をピックで弾いて音を出すのですが、音程はすべて倍音と右端についた竹ベンダーで加減します。弦の中央を軽く押さえるとハーモニックスで1オクターブ上の倍音、3/4のところで5度、つまりソの音、1/4のところでさらに1オクターブのド・・・などと文章で説明するのはむずかしいのであります。音はか細いのですが、非常に繊細な連続音で、ちょうどエレキギターのベンディンク用ハンドルを操作してハーモニックスだけで曲を弾いているような感じです。
 クラックという楽器も、すごい。これは、音高順に並べて束ねたアンクルンを鍵盤楽器風にしてしまったもの。クロンブットは、音高順に並べた竹筒の一端の付近で手拍子を打って発音させます。手拍子打楽器というべきか。このような独創的な竹製の楽器を作り出したベトナムの人たちの音楽は、しかし、中国とヨーロッパを混ぜたような感じで、これがベトナムの音楽だ、という特徴にはちょっと乏しいような気がしました。

 

9月30日(火)/「Body Media Mix Lab 環境のホモノイズ」/バートンホール、夙川/角正之:ダンス、クル・ブーシャン・バルガヴァ:タブラー、中川博志:バーンスリー

 インド音楽ないし楽器と、いわゆるモダンダンスとのコラボレーションは、なかなか難しいものだと感じたライブでした。視覚と聴覚によって場を共有し共振する、とが角正之さんによるこのシリーズのコンセプトです。出会い頭の感覚をぶつけ合う、と角さんはいうものの、やはり互いがもっと知り合わないと、共有というところまでいくにはまだ何回かの試行錯誤が必要だと思います。「後半はスタートして5分ほどしたらりんごを見つめます。そしたら、中川さんの笛入ってよ」という事前打ち合わせでずっと待機していたのですが、スタートしてもなかなか「りんご凝視」にいたらない。「あれっ、もう20分すぎた。りんごはまだだ。うわあ、このまま終わったら、どおしよう」と思い、もういいや、吹こう、と思った直前に「りんご凝視」サインがきて一安心でした。これも、出会い頭の感覚ということか。お客さんはちょっと少なく、20名ほど。
 角正之さんとの打ち合わせの過程で判明したのは、彼の駆使する言語の独特さです。その一端は、チラシに書かれた文章からもうかがえることでしょう。

---複合化舞踏集団、ダンスキャンププロジェクトを主宰するコンテンポラリーダンサー、角正之のプロデュースによるマンスリーイヴェント。音と動きによる先鋭的パフォーマーによる触知的コラボレーションライブシリーズ第12弾!!今回は、角正之本人と、人の吐息の秘法を情緒の遠近法にドライブするインド竹笛バーンスリーの名手中川博志、大地の鼓動を和声して音揺れのサクラ(聖音)を綴れ織るインドタブラー奏の鬼才クル・ブーシャン、この3人によるディアゴナル・プリズム、いわば眼の欲望の変換ライブです。---

 どうです。今回のライブのためには、このスミ語の解読が重要だったのです。それにしても、このキャッチフレーズはすごい。

 人の吐息の秘法を情緒の遠近法にドライブするインド竹笛バーンスリーの名手中川博志

 なんか、とんでもなくすごそうな感じがするでしょう。

 

◎これからの出来事◎

 

■10月8日(水) 7:00~/響ホール(北九州市)/バーンスリー独奏/他の出演者: アミット・ロイ、クラット・ヒロコ、寺原太郎/問い合わせ: 響ホール/担当:土屋氏/Tel. 093-662-4010

 

■10月14日(火)、15日(水)7:00PM~/日暮里サニーホール(東京)/「ケニー遠藤和太鼓リサイタル」ゲスト出演/出演者/ケニー遠藤:和太鼓、納見義徳:パーカッション、鈴木恭介:笛、パーカッション、栗林秀明:十七弦、パーカッション、中川博志:バーンスリー、藤舎清成:和太鼓/特別ゲスト/大倉正之介:小鼓/問い合わせ : (株)宮本卯之助商店太鼓館 tel.03-3842-5622

 

■10月18日(土)6:00PM~「あしゅん」(神戸・三宮)/バーンスリー+タブラー/出演者/デボプリオ:タブラー、中川博志:バーンスリー/問い合わせ : あしゅん tel.078-322-1132

 

■10月25日(土) 14:00~/鶴田町公民館、鹿児島県/バーンスリー独奏/他の出演者: アミット・ロイ、クラット・ヒロコ、寺原太郎

 

■11月1日(土) 10:30AM~/兵庫県新宮中学校文化祭/バーンスリー独奏/他の出演者: アミット・ロイ、クラット・ヒロコ、寺原太郎/問い合わせ: 西播磨文化会館/担当: 井内氏/Tel. 0791-75-3663

 

■11月2日(日) 1:30PM~/兵庫県立西播磨文化会館(新宮町)/バーンスリー独奏/他の出演者: アミット・ロイ、クラット・ヒロコ、寺原太郎

 

■11月3日(月) 午後/神戸市旧居留地/アート・ポーレン/バーンスリー徒歩独奏/問い合わせ:C.A.P 担当:杉山知子/Tel.078-331-0592(TOMO studio)

■11月8日(土)19:00~/ジーベックスタジオ/講師/「アジアの音楽シリーズ」レクチャーワークショップ97/ヒンドゥスターニー音楽鑑賞講座/第1回・・・ラーガ/問い合わせ:ジーベック 担当:下田展久/Tel.078-303-5600 email<shimoda@xebec.co.jp>

 

■11月9日(日)15:00~/ジーベックスタジオ/講師/「アジアの音楽シリーズ」レクチャーワークショップ97/ヒンドゥスターニー音楽鑑賞講座/第2回・・・ターラ、演奏の構成

 

■11月27日(木)19:00~/ジーベックスタジオ/講師/「アジアの音楽シリーズ」レクチャーワークショップ97/ヒンドゥスターニー音楽鑑賞講座/第3回・・・デモンストレーション1/タブラー/ゲスト:クル・ブーシャン・バルガヴァ(タブラー)

 

■11月28日(金)19:00~/ジーベックスタジオ/講師「アジアの音楽シリーズ」レクチャーワークショップ97/ヒンドゥスターニー音楽鑑賞講座/第4回・・・デモンストレーション2/シタール+タブラー/ゲスト:アミット・ロイ(シタール)、クル・ブーシャン・バルガヴァ(タブラー)

 

■11月29日(土)19:00~/ジーベックカフェ/講師「アジアの音楽シリーズ」レクチャーワークショップ97/ヒンドゥスターニー音楽鑑賞講座/最終回・・・まとめと茶話会

 

■12月7日(日) 16:00~18:00/ジーベックホール/プロデュース/アジアの音楽シリーズ第16回「即興の芸術」3/出演者/アミット・ロイ:シタール、クル・ブーシャン・バルガヴァ:タブラー、寺原太郎:タンブーラー

 

1998年

2月~4月 Asian Fantasy Orchestraアジア公演/デリー(3月4日、5日)、ムンバイ(3月11日、12日)、ハノイ(3月18日、19日)、マニラ(3月25日、26日)、名古屋(4月4日予定)、大阪(4月5日予定)、東京(4月7日、8日)/問い合わせ: (株)ピットインミュージック 担当: 本村鐐之輔氏/Tel. 03-3352-0381 email <ryoho722@ea.mbn.or.jp> 国際交流基金公演課/Tel. 03-5562-3530/email <seiya.Shimada@jpf.go.jp>

 

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