「サマーチャール・パトゥル」24号1998年12月26日

  さまざまな意味で寒さの厳しい世紀末に突入しつつあります。皆様、いかがおすごしでしょうか。先日、2000年のカレンダーをマックで出力しようとしたら、画面上は2000年なのにプリントアウトは1938年と出てきました。世界は少しずつ狂いだしてきているようです。

 この通信は、先の6月16日号以来、やく半年ぶりの発行です。この半年もなんやかんやがありました。いつものように冗長で下らない個人活動報告です。トイレとか、お休み前に流し読みしていただければ幸いです。

 どの内容も、皆様ならびに世の中の景気回復にはまったく役に立ちません。チョーギンやニッサイギンが国有化されても、株価がごんごん下がっても、世間の会社の業績が最悪でも、和歌山カレー事件が解決しても、アメリカがイラクにミサイルを落としても、ノーテンキなインド笛吹きとノーテンキ女子大生を取り巻く生活は、これらの騒がしい出来事とはほとんど無関係に、そして確実に年齢を重ねつつ進行しています。配偶者は1998年12月14日に49歳となり、そしてわたしも99年1月23日には同年齢に達します。

-----------------------
◎これまでのできごと◎
-----------------------

6月22日(月)19:30~/「シュキャムニ~乳を飲んだ男~」/トリイホール/七聲会(橋本知之、池上良賢、和田文剛、伊藤真浄、清水秀浩、八尾敬俊、南忠信):声明、クラット・ヒロコ:タブラー、寺原太郎:タンブーラー、池上良慶:お話、中川博志:バーンスリー

 七聲会とは、京都のお坊さん7人で構成される声明グループです。メンバーの伊藤真浄さんによる、どぎもを抜く斬新なデザインのチラシ、ライブ記念Tシャツまで用意したという気合いの入ったライブでした。トリイホールの「楽音Live」は、民族楽器を多用したいわゆる「癒し」系音楽がメインなので、チラシのデザインもピースフルなものが多い。しかし、七聲会のものは、わたしやヒロコさんも含めたメンバーのイラストが漫画チックに配置されかなりユニーク。このチラシが効いたのか、当日は70名を超える入場者でした。

 プログラム構成は、声明とお話。声明ライブと銘打ったものの、お話の時間の方がメインになってしまったきらいもあります。しかし、タンブーラー持続音を背景とした、池上良慶さんの関西弁混在釈迦一代記は、じっくり聞くとなかなかに味のあるものでした。インド音楽組は、彼のお話の合間の伴奏を担当しました。舞台公演形式として、もっと完成度を高めると面白いものになりそうです。

 打ち上げは、ホールの1階にある焼鳥屋。なにせ出演者が多いのでギャラはほとんど飲み食い代にまわったと推測されます。水口からわざわざおいでいただいた竹山靖玄さんも参加しました。七聲会は、声明の練習もそうですが、集まりのたびの飲み食いにも相当のエネルギーを注ぐユニークなバンドなのであります。

 

■6月30日(火)/ディープ讃岐裏うどん文化探訪の旅

 かねがね、高松のただならぬうどん文化には一目を置いてきましたが、今回、讃岐人のうどん偏愛を垣間見て、あらためてその奥深さを感じました。

 配偶者は、コープこうべ発行の雑誌『ステーション』で「小さな旅」というコーナーを担当しています。彼女は、取材地選定にいつも悩んでいるのですが、「日帰りで讃岐うどんの実態について取材する、というのはどうか」というわたしの助言に飛びついたのでした。以前、高松に演奏に行ったとき、うどんの費用対効果の高さに感動し、この通信でも「高松うどん文化論」をぶちあげたことがありました。しかし、讃岐に行かずしてうどんは語れない、といった独断的郷土愛に満ちた地元出身プロデューサー、星川京二氏のハイトーンの力説に影響を受けたわたしは、かねてから讃岐探訪の機会をうかがっていたのでありました。

 そこで、どこを訪ねるべきかを知るためにインターネットで検索すると、出てくるわ出てくるわ。場所や店名はもとより、食べ方や評価などの微細な情報がてんこもりなのです。「S級指定店」などという特殊用語もありました。われわれはそれらの情報から、効率よくはしごするためのルートを計算に入れつつ、最も評価の高そうな店のリストアップをしました。ついで、異常うどん偏愛主義者、星川氏におすすめの店の紹介を電話で依頼すると、「どこそこのうどんは、すさまじい。でも、あそこの店も絶対に行く価値がある・・・」などと、かなり興奮気味にまくし立てられました。彼によれば、基本的に讃岐うどんは西讃、つまり高松から西であり、高松は論外なのだという。なかでも琴平、満濃町、仲南町のうどんは、スタンダードがきわめて高いが、所在の特定には現地案内人が欠かせないらしい。

 日帰り、かつ摂食許容量の関係もあって、もっともディープとされる5店のみを巡礼してきました。同行は、カメラの藤原信二さん。

 また、現地案内人として萱原孝二氏にお願いしました。讃岐行が決定したとき「たしか彼はあの辺に住んでいたはず」と思い出したのです。彼は、1972年のわたしのミュンヘン時代の知り合いなのです。彼は、ミュンヘン後、イスラエルのキブツで現地のヨメを調達して帰国し、その後、実家で農業をしたり、旅行代理店につとめたりしてずっと綾上町に住んでいるのです。

 早朝7時にポートアイランドを出発したわれわれは、うどん想念を膨張させつつ、新しい明石海峡大橋をあっという間に通過し、徳島経由で10時過ぎには最初の店「山内うどん店」(仲南町)にたどり着きました。うどん巡礼のための入念な事前調査をしていましたが、店は実にわかりにくい場所にありました。なにせ、山間の田園を縫う広くない田舎道からさらに測道に入った林の中にあるのです。どうしてこんなところでうどん屋が営業可能なのか。

 一見すると単なる農家。店内は、テーブル2卓に丸椅子、奥にちょっとした座敷。壁面には、黄ばんだポスターや角の丸まった掲載雑誌の切り抜き、2年前のカレンダー、演歌歌手の写真入り色紙などが無秩序に展開し、テーブルの上に、下ろし金、生姜、醤油差し、割り箸立てが、まったく投げやりにのっています。

 調理場は、「現場」という表現がむしろふさわしい。うどん粉袋が積まれた横では、エプロンをかけた老婆がビニールをかぶせたうどん地を一心に踏み、その横で息子らしい青年が延ばした生地を包丁固定式簡単製麺機で麺にし、店主らしきオッサンがときどき薪を投入し火加減をのぞきつつ煮立った大鍋に生麺を放り込み、店主配偶者らしき中年女性がゆで上がったうどんを一食単位に丸めて四角い板の上にのせていく。客席と現場の境界線上のテーブルには、山盛りのいわし、ナス、エビなどのテンプラ系トッピングが、やはり無造作に重なっていました。

「昔は瓦を焼いていたんだけどね、それじゃ食えないんでうどん屋を始めたのよ。このあたりは、うどん屋はつぶれないの」と眉毛の濃い小柄な店主らしきオッサンが、うれしそうにいう。ゆで上がったうどんの撮影に忙しい藤原信二カメラマンを横目で見つつ、わたしは注文した「ひやひや」を、おろししょうがと醤油をかけてすすり込むのでありました。これが、まったくもって、実に、うまい。ぷりんとした麺が、口中に滞在する時間を惜しむかのように喜びつつ喉を通過していくのです。一食単位がわりに小ぶりなので、あっという間に食べ終わる。

「ひやひや」とは水洗いして冷やした麺を、冷たいだし汁か生醤油で食べるものです。他にゆでたままの麺を熱いだし汁で食べる「あつあつ」、水洗いした麺を熱いだし汁で食べる「ひやあつ」があります。値段は、小200円、大250円、特大350円、トッピングがたしか1個70円だったか。わたしは、あまりのうまさに、久代さんが頼んだ「あつあつ」と「ひやあつ」の一部も味見したいという願望にうち勝つことができず、結局二玉分食べました。

 朝の10時だというのに、客が次々にやってきます。背広を着た中年男性が「昨日まで県外に出張でうどんを食えなかったので、まだ早いけど食べにきた」と猛烈な勢いでうどんをすすっていると、オッサンと、前歯が2本しかない老母、そのヨメといった組み合わせの三人が入り口の扉をあけ「ひやひや大2つとひやあつ1」と叫びつつ入ってきました。背広中年男性にも、この三人組にも、食事にやってきたというよりも、中毒者のような切迫感がありました。

 われわれは次に「谷川食堂」(琴南町)を目指しました。ここでわたしは、当日の現地案内人萱原氏と26年ぶりの再会しました。ミュンヘン時代のことなど、しばし思い出話にふけりました。知り合ったころの20代前半とは違い立派な中年顔でありました。彼もわたしをみてそう思ったはずです。真っ黒に日焼けしたネクタイ姿の現在の彼の顔と当時のイメージがなかなかつながらない。「今日は、ほんまは出張やけど、いいや。最後までつきあいますわ」。

「谷川」は、温泉宿に近い橋のたもとの、これもわかりにくい店です。割烹着を着た3名のご婦人たちが、ほぼ満席の摂食者のために忙しく製作・販売に携わっていました。ここのうどんは、「山内」よりも細くちょっとやわめでしたが、レベルは高い。ここでもやはり、テーブルに一味唐辛子、味の素、醤油、酢が配備されています。小100円、大200円。星川氏が「すさまじい」と表現していましたが、わたしにはむしろ「山内」の鮮烈さが印象的でした。

 地元案内人が加わったので、その後のうどん巡礼は遅滞なく進行しました。3軒目の「宮武」(琴平町)にたどり着いたのはちょうどお昼時。萱原氏すら見逃した小さな看板を頼らなくとも、なんとなく「あのへんではないか」と見当がつきました。人々が、路肩に列をなして車をとめ、黙々と一方向に向かって急いでいたからです。店の外観は、食堂の体裁ではなく普通の民家なので、なにか、結婚式か葬式のために人々が集まっているかのような、普通ではない雰囲気があたりに漂っています。

 引き戸を開けて比較的広い店内を見ると、すでにぎっしりと客が充満し、暗号のような注文かけ声と激しいうどんすすり音が交錯していました。一人のはげたオッサンは、テーブル上のうどんを2秒間ほどじっと観察したと思うと、決然と椀を口に持っていき、激しい勢いでうどんをすすり込む。口からは常に6本ほどの麺がぶら下がっていました。そのオッサンに限らず、他の老若男女客の異常な摂食速度、真剣な表情、切迫感には、普通の昼食風景の和やかさと違い、とにかく禁断症状から早く解放されたい中毒者のごとくなのです。わたしは、3軒目のこの店あたりから、讃岐のうどんには、反復性摂食強迫観念促進物質が混入されているのではないかとの疑念を抱くのでした。ここのうどんも、もちもちぷりぷりで、うまい。小230円、大300円、特大500円。

 次に行った「中村」(飯山町)は、すさまじい、としか表現しにくい。ここは、村上春樹が『辺境』で「目から鱗がおちた」と表現した店です。彼が、そのうまさでそうなったのか、店の尋常ならぬたたずまいでそうなったのかは定かではありません。ともあれ、たいていの讃岐未経験人間が初めてそこを訪れたならば、おそらく「えっ」と思う店ではあります。

 店は、母屋の隣に土壁むき出しの納屋。うどん屋を示すものは、入り口に垂れ下がる黄ばんだ小さな暖簾だけです。店内は、うどん製造現場と摂食空間が一体化した雑然とした空間です。境界の曖昧な製造エリアでは、30代後半とおぼしき女性が、無言でうどん製造に集中していました。やはり、下ろし金、醤油、生姜、大根がカウンター状テーブルに配備されています。値段表には、小100円、大200円、テンプラ各100円、玉子50円とだけ表示。「ネギは畑にあります。自分で切って下さい」などという張り紙もありました。客の一人は「ここの親父と口をきくまで15年かかった」などというように、ここの親父は相当偏屈な人であるらしい。うどんそのものは、すでに4軒目となったわれわれは麺満状態ではありましたが、その安さとクオリティーの高さは申し分ありません。

 腹部に苦しみの兆しが出てきたわれわれは、最後の「長田うどん」(満濃町)で今回の巡礼を終わることにしました。最初は、すぐ近所の「いきなり大根を出す」(星川)「小縣」にいったのですが、アポなし飛び込み取材撮影はダメということなので変更したのです。この長田と小縣は、きちんとした食堂の体裁をとっています。星川氏の分類によれば、こうした食堂然としたものが「オモテうどん」の店、民家風のものが「ウラうどん」店ということです。オモテうどん店とは、エアコンがついたり店内装飾にそれなりのゼニをかけているために、単価は高い。とはいえ、「長田うどん」の値段は、小250円、大350円。やはりテーブルには下ろし金、大根、生姜、醤油などが鎮座していました。わたしは、喉元まで未消化うどんが詰まってしまっているためか、長田のうどんはどうにも粉っぽく感じました。われわれは、もはや鼻からうどんが飛び出るほどの飽和状態なのでした。

 ともあれ、こうしてわたしは年来の願望であった讃岐うどん巡礼を果たしたのであります。以前の「高松うどん文化論」では、文化とは安さである、という論を高らかにぶち上げたわけですが、今回の巡礼の結果、そうした文化は人々の切迫感によって支えられる、ということが論拠として加えられたのであります。

 讃岐のうどん屋の安さと品質への挑戦には徹底したものがあります。とくにウラうどん店では、製造と供給以外に不要なものは徹底してそぎ落とす。BGMなんてもちろんなく、生姜や大根やネギといった薬味の提供も、客の自主的作業に依存することで人件費を削り、内装には一切ゼニをかけず、所在と営業を表示する看板や暖簾は必要最低限にする。客は客で、うまくて安いうどん以外は一切を期待せず、あたかも禁断症状の短期解放をのぞむかのようにわっさわっさとせわしなく消費する。文化というものが切実さと実質によって支えられるとしたら、まさに讃岐のうどん文化はその好例といえます。それにしても、4時間弱で5軒のうどん屋をはしごするのは、相当な苦行ではありました。でも、また行きたいなあ。

 

■7月6日(月)/アクト・コウベ写真プロジェクト展覧会/神戸マリンギャラリー

 マルセイユのアーティストたちとの交流プロジェクト展覧会でした。アクト・コウベというのは、震災のときにわれわれに援助の手をさしのべてくれたマルセイユのアーティストたちとわれわれとの交流運動です。これまで、1月17日と7月17日の年2回、両地で同時にメンバーが写真を撮り、未現像のままそれぞれに送ったものを展示していくプロジェクトを行ってきました。今回はその2回目。マルセイユから送られてきた写真と、われわれが前回撮影してむこうで展示されたものが加わったので量的にも内容的にも充実していました。

 わたしは、いちおうアクト・コウベ・ジャパンの代表ということになっていて、東京海上火災のギャラリーでの展示初日現場見張りの義務を果たしました。午前9時から午後6時までの平日のみ開館という制約のため、東京海上の社員の方々がチラッと訪れるだけでした。

 マリンギャラリーとは別に、10、11、12日に、ジーベックでも、マルセイユから送られてきた写真以外の作品の展示とデモンストレーションが行われました。特に、12日は仲里秀樹さんのヌグミーなどユニークなパフォーマンスもあり、ささやかながらに盛り上がったのでありました。

 アクト・コウベの次のプロジェクトは、99年1月にわれわれがマルセイユに出かけて行うことになっています。末尾の「これからの出来事」を参照して下さい。

 

■7月15日(水)/吉野弘志・中川博志ライブ/レッド・ライオン(十三・大阪)/吉野弘志:コントラバス、クラット・ヒロコ:タブラー、中川博志:バーンスリー

「7月にいずみホールのコンサートがあり大阪に行くので、そのあたりでついでになんかやりませんか」という吉野さんのお誘いでライブをやりました。吉野さんは、95年のAFOで一緒だった日本有数のベース奏者です。

 当日は、これまでライブ集客人数としては記録的な少人数でした。たった、ふ、二人だったのです。その一人は、音楽学者の村田公一さん。演奏そのものは、吉野さんのすばらしいサポートもあり満足していますが、それにしても二人とは。

 

■7月16日(木)/APAS-CDマスタリング/ジーベック

 89年来17回続いてきた「アジアの音楽シリーズ」に参加したミュージシャンのCDをジーベックから発売することになり、その最終マスタリングをジーベックスタジオで行いました。APASというレーベルで最初に出すのは、アミット・ロイ、ハリプラサード・チャウラースィヤー、ラシッド・カーン、スルターン・カーンによるヒンドゥスターニー音楽の4枚です。みな素晴らしい演奏ですので、是非お買い求め下さい。ジーベックに連絡していただければ発送します。電話078-303-5600。今回は、ほとんどパワーマックG3内の作業でした。三井さんが、最新式のマックと液晶ディスプレイを持ち込んで、実に細かいところまで編集することができました。最近の技術はまったく素晴らしい。

 

■7月21日(火)/バートンホール支配人森脇久和さん自殺

 夙川にあるバートンホールは、関西の実験的な音楽や舞踊の貴重な発表の場として知る人ぞ知る存在です。ここでは、わたしも何度か演奏したことがあります。われわれのやっているような、超マイナーなバートンホール公演が支えられてきたのは、森脇さんのしぶとい頑張りがあったからです。その森脇さんが「音楽を冒涜するものに呪いあれ」と書き残して自殺しました。32歳の若さといい、最後に言い残した言葉といい、なんともやりきれない思いでした。

 わたしは、ライブのときの打ち合わせくらいで、森脇さんとは個人的に密な関係ではありませんでしたが、実験的なパフォーマンスの試みを行う人々には実に寛容で、自身も楽しんでいたように見えました。彼がこうした決断を下した理由をあれこれ詮索しても始まりませんけど、「あなたは本当に真剣に音楽が好きなんですか」とぎりぎりと問いつめられると即答できないわたしのようないい加減なミュージシャンにとって、彼の最後の言葉は考えさせられます。しかしわたしには、もっと違った理由があったと思いたい。なぜなら、わたしにはどう見ても彼の最後の言葉が大げさに聞こえるのです。それだけに、そのメモが彼の真剣な最後の言葉なのだとしたら、わたしがとうの昔に失ってしまった、あらゆる物事が不安であり、そうであるがゆえに未知の物事に対する期待があり、怖いけどワクワクするような少年の精神をもったまま自己を完結したことになります。ふてぶてしく自己合理化に長けてしまった48歳のわたしにとって、彼の自死は失ってしまった少年の精神を再考する機会になりました。ご冥福を祈ります。

 

■7月24日(金)/「神戸からの祈り」プレコンサート/酒心館(神戸・灘)/岡野弘幹with天空オーケストラ、佐々木千賀:声楽&林昌彦:ピアノ

「神戸からの祈り」というのは、友人の宗教学者、鎌田東二さんと、喜納昌吉さんが呼びかけた催しです。阪神淡路大地震を契機にわれわれが失ったもの、獲得したものが風化していくことに風穴を開け、社会全体を覆う閉塞感を共に「祈る」ことによって打破しよう、というのが主旨。本番は1998年8月8日と8が三つ並ぶ日に開催されましたが、そのプレイベントが酒心館で行われました。酒蔵を改造した酒心館は、落ち着いたスペースで、ライブにはよい雰囲気です。

 天空オーケストラは初めて聴きました。タンブーラー、ディドゥリドゥーという強烈なドローンとタブラーやパーカッションにのって軽快に展開される、いわゆる民族音楽のエッセンスにあふれる彼らの音楽は、一種のトランス効果をもたらすようです。

 

■7月31日~8月1日/熊野古道取材旅行/同伴/外賀嘉起:カメラ、中川久代:取材

 うどんの讃岐と同一パターンですが、配偶者の取材にくっついて熊野古道にいきました。全部歩くと丸二日かかる工程を、たった二三時間で、終点と起点だけを部分的に歩きました。二日ともあいにく小雨でした。和泉式部が「つきのさわり」でやすんだ場所、などというところもあり、数百年前の貴族たちの熊野詣にしばし思いを馳せるのでありました。宿泊は、湯の峰温泉の民宿「てるてや」でした。この名前は、小栗判官がここの湯に浸かったという説話からのようです。また、この温泉町は裸形上人が開いたお寺が元になった、と何かに書いてありました。裸形上人がどういう人であったかは分かりませんが、インド人僧説もあるようです。

 

■8月2日(日)/ダヤ・トミコインド舞踊スタジオ公演「ひとすじの風舞」/京都ダヤ・スタジオ

 ダヤさんとの共演はこれで3回目。彼女のレパートリーである「マタ・パラシャクティ」の一部で笛を吹きました。彼女のバラタナーティアム舞踊の伴奏音楽は、南インドのスタイルなので、わたしのやっているヒンドゥスターニー音楽とはかなり違っています。彼女からもらったテープを何回聴いてもなかなか構造が分からず、採譜にちょっと苦労しました。いい加減な即興をやるわたしには、きちっとキメのある曲は緊張でした。公演後、スティーブン・ギル+カズエ夫妻と近所のファミリーレストランで食事をして神戸に帰りました。

 

■8月4日(火)/仙波清彦+武内香織結婚式/渋谷オンエア・イースト/2次会/渋谷「北の家族Z」/3次会/六本木「Fiesta

 今年3月のエイジアン・ファンタジー・オーケストラ(AFO)ツアーの途中から揺るぎない結婚の意志を固めた仙波さんとタケカオが結婚し、その披露パーティーが東京でありました。会場は、渋谷のラブホテル群に囲まれたライブハウスです。

 当日は、AFOメンバーや音楽関係者でぎっしりでした。なにせ仙波さんは、歌舞伎界とジャズやフュージョン界で活躍する打楽器奏者、一方のタケカオは西洋クラシック界とそうでない分野でも活躍するヴァイオリニストとあって、集合した関係者も実に多彩な顔ぶれでありました。

 結婚披露宴は、まるで学芸会のようなお遊び空間と化しました。紋付き姿の仙波さん、邦楽師匠オカミサン的雰囲気の上品な着物姿のタケカオは、弟子の佐藤一憲選手の司会で次々に繰り広げられる芸やスピーチを聞き、いちいち笑ったり頭を下げたり。

「わたしは、このものすごいパーカッショニストの仙波清彦さんを久しく警戒していたのだ」(山下洋輔氏)、「最初にあったときからメロメロだった」(坂田明氏)など、「うまくやったよな」(もう酔っていた村上ポンタ氏)、「二人ともよく知ってるけど、すんごくいいカップル」(金子飛鳥氏)などなど、二人をどんどん持ち上げる。これだけいろんな人々に持ち上げられたセンカオコンビはさぞ幸せだったでありましょう。また、欠席インド隊のドゥルバ、ナヤン、アニーシュたちからもテープメッセージが届いていました。ナヤンの妙な「センバの歌」や、ドゥルバ、ナヤンの真面目なラブメッセージには、彼らもなかなか考えたものだと感心するのでありました。

「北の家族Z」での2次会が多いに盛り上がるころはすでに翌日。二胡の賈鵬芳さんが「うちに泊まってたら」との親切な申し出もありましたが、六本木「Fiesta」での妙なカラオケ三次会に朝の5時までつきあい、頭にアルコールと興奮を詰め込んだまま神戸に帰りました。久しぶりの徹夜宴会はかなりこたえました。

 

■8月8日(土)/「神戸からの祈り~満月祭コンサート」/神戸メリケンパーク野外特設ステージ//鎌田東二:法螺貝、石笛、兵庫商校龍獅團:中国獅子舞、在日大韓民国兵庫県婦人会阪神支部:韓国舞踊、アシリ・レラとこどもたち:アイヌ舞踊、津村喬:気功指導、臨時満月オーケストラ(喜納昌吉:サンシン、鎌田東二:法螺貝、佐々木雅之:石笛、急遽出演の決まった岡野弘幹with天空オーケストラ+3、ウベ・ワルタ:尺八、竹之内淳:舞踏、中川博志:バーンスリー+構成)、ダヤ・トミコ:インド舞踊、喜納昌吉&チャンプルーズ

 祈りや音楽や舞踊などが混然となったお祭りでした。当初、集客が心配されましたが、延べにすると数千人は集まったと思います。この祭には実に多くのボランティアスタッフが関わり、それをとりまとめた声の大きい映画監督の大重潤一郎氏、事務局の丸山彩子さん、ふわふわとしぶとい関西気功協会の天野泰司さんらは実に大変だったと思います。

 わたしは、出演依頼された当初から、賛同するパフォーマーたちを無原則的時間配分で羅列するのではなく、きちんと音楽監督も指名して、音楽祭の内容と出演順序などを検討しなければならないと、ちょっと不満を申し述べていました。この種の祭を企画する場合は、催しのコンセプトや組織化も重要ですが、肝心の公演内容があいまいではうまくいきません。とはいえ、最終的には、なんとか形になったと思います。

 なんとか数日前に終えた、わたしの臨時満月オーケストラのための40分ほどの曲構成は、それほどの破綻もなく無事演奏されました。音響調整の時間が充分とれなかったので、全体のバランスに難はありましたが、狙った雰囲気は充分出せたのではないかと思います。機会があればもう一度どこかでやってみたいものです。

 音楽祭のトリは喜納昌吉&チャンプルーズ。大音響と軽快なチャンプルーズ・サウンドで会場は盛り上がりました。祭の模様は、後日サンテレビで放映されたようです。

 こうした大きな催しは、結果よりも、新しい出会いのある制作プロセスが面白いものです。参加したミュージシャンはもとより、東京の祭を担当する池田雅之(早大教授)さんと季実子さん夫妻、メッセージを書いた布片をつなぎ合わせる「五色の布プロジェクト」を企画した廣田順子さん、舞踊家の都倉雅代さんなどなど、みな強烈な人格の持ち主でありました。言い出しっぺの鎌田さん、お疲れさまでした。

 

■8月13日~17日/十津川村盆踊り・深夜の那智の滝ライブ

 例年の十津川もうで、今年も玉子偏愛主義者中川真さんの「再び、酒池肉林。みんなヒロシさんを待っている」などという勧誘に負けて行ってきました。

 真っ赤なBMWではるばる山口からやってきた水谷由美子女史の運転手を仰せつかり、まず13日は、恒例の宿舎である武蔵青年会館に入りました。到着早々、きゅうり浅漬け、そうめんなどの調理を担当。

 夕食後、さっそく大野部落の盆踊りに参加しました。一緒に参加したのは、水谷女史、真さん、ラブリーホールの宮地クン、大野部落の女装青年に泣き出す子供こどもしたアヤ、花巻出身の大阪芸大生由美子、フラメンコギターで一旗揚げる魂胆の長髪やさおとこ小原望青年、ネパール旅行帰国から直行してきた多回数排便プスパこと戸田めぐみ、かつての水谷女史の教え子でスナックママ風派遣社員水島姫、酒田の本間様の末裔かもしれないマルガ・サリメンバーの本間妙香、同じくマルガ・サリメンバーでコロリン独自行動娘ミミチャンこと坂口美佐でした。例年参加している大阪芸大の大食漢馬淵先生は、自称老人性躁鬱病とのことで不参加でした。

 以前にも書きましたけど、急斜面にへばりついた大野部落の夏の夜は、ほのぼのとした盆踊りの音に囲まれて美しく更けていくのでありました。

 14日は、武蔵部落の盆踊り本番。早朝、飾り付け作業を開始。アウトサイダーであるわれわれがこうした飾り付け作業員として期待され、地元の純朴ヤッチャン風タクシクンの指示で働きました。作業内容は、やぐら組立、ちょうちん取り付けなど。

 臨時居候たちがこうした作業に勤しんでいるあいだ、テレビ出演などで最近とみに名が売れてきた真チャマは、NHKの2種類の取材班につきあうのでした。一つは、「未来潮流」。美人ヴァイオリニスト、千住真理子さんがレポーターでした。もう一つは司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズ。「未来潮流」は9月5日に放映されています。あとで「未来潮流」を見ると、玉子顔の真さんがますます丸くテレッとして千住さんと会話していました。「ここで、こうやって耳をすましていると、ほら、いろんな音が聞こえて来るんですよ。川のせせらぎが聞こえませんか」「あっ、本当ですね」「現代のわれわれは、耳の持っている能力をフルに使っていないのです」

 真チャマが千住さんとこんな会話をしているころ、わたしは、ツナマーボー、味噌汁、ジャガイモのきんぴらの昼食と夕食用の野菜カレーの準備にたち働くのでありました。

 NHK取材のせいか、8時開始の盆踊りは、村人はいつになく張り切っているように見えました。参加者の主役はもちろん地元在住者ですが、帰省している者、われわれのような青年会館蝟集アウトサイダー(途中から栄養ドリンク剤フリークのカメラマン升田氏、学生の小原由美子、大平、今井が合流)、違う部落からの者などで、会場は素朴で華やかで懐かしい雰囲気でした。取材陣を意識して時間を11:30に変更した武蔵盆踊りの目玉「おお踊り」のころは、興奮も最高潮。他の部落では見られない、この運動量の多い「おお踊り」はとてもダイナミックで、盆踊りというよりは、トランス一歩手前の乱流パフォーマンス。すべてが終わったのは2時をまわっていました。

 われわれアウトサイダーと、武蔵の中心メンバーであるタクシクン、ツカサクン、法大生帰省青年、マサチャン(和田商店跡取り)は、青年会館に戻り、残ったカレーや酒で余韻を楽しみました。ツカサクン、法大生青年は「ここに寝る」とプスパチャンら女子大生の横たわるあたりに場所を確保しそのままダウン。武蔵部落盆踊りの長い一日はこうして完結したのでありました。

 15日は、卵焼き、味噌汁の朝食後、なんとなくみんなダラダラと寝ころんで過ごしていたのですが、タクシクンが「大野の前倉とっつぁんが店にきて欲しいといってるからみんなで行こう」とのお誘い。前倉とっつぁんの店というのは、大野に近い川筋にあるアメ(アマゴ)料理の店です。大野の盆踊りのとき、とっつぁんに是非こいといわれたわれわれは、てっきりとっつぁんのご招待なのではと踏んでいたのでしたが、どうも一人当たり4000円ほどかかるらしいと判明。懐の寂しいアウトサイダーたちは逡巡したものの、せっかくだからとみんなで行くことになりました。出費は痛かったものの、このアメ料理行はとても楽しかった。

 前倉とっつぁんから営業方針と成果の演説を聞いた後、まず腹ごなしに浅い流れをせき止めた小川でのアメのつかみ取りを敢行。これがなかなか面白い。ついで、清流を見おろす離れで、つかまえたアメ料理のフルコース。とっつぁんの考案したコンビ竹ゲームなるものを恥じらいつつ遊び興じた後の、上流にいる者ほど有利な、資本主義的矛盾をはらんだソーメン流しも楽しかった。この日は、十津川村では一番にぎやかな平谷地区の、猥歌まじりの盆踊りで完結でした。

 16日は、武蔵の祭の片づけや青年会館の掃除後、真チャマ、水谷女史、プスパ、ミミチャンと、芝先隆さん、けいさんを訪ねるため那智勝浦へ行きました。芝先さんは、白虎社のワークショップなどに関わってきた地元消防署員、娘さんのけいさんは、バリ舞踊をやっている大阪芸大生です。芝先宅に到着したわれわれは、とりあえずJRの駅と一体化した公営温泉に浸るのでありました。海を見おろす温泉は気持ちよく、水谷女史などはすっぽんぽんで海に向かって仁王立ちしたらしい。

 風呂から帰ると、すでに浜辺でのバーベキューが用意されていました。満天の星と海を見ながらのバーベキューは最高でした。海岸宴会後、深夜12時近くに再び温泉。今度はかなり豪華な旅館の露天風呂。こんな贅沢なことはめったにありませんね。

 風呂上がりに、わたしが「那智の滝には一度もいったことがない」と申し述べると、芝先さんが「じゃあ、今から行きましょう」。おそるおそる漆黒の闇の参道を抜けると、轟音をたてる那智の滝がうっすらとした白い筋になって見えました。杉木立の隙間から輝く星が実にきれいでしたね。酔いの残る真さんの「ヒロシさん、ここは一つ、笛でも」という提案で、酔いの残るわたしは暗黒の闇でよれよれ笛を吹きました。ここで不思議な現象が発生しました。那智の滝が、わたしの笛の音に怒ったのか、喜んだのか、途中でドーンという音がしたのです。

 芝先さん、奥様、けいさん、われわれにおつきあいいただきありがとうございました。本当に楽しい一日でした。

 芝先家に一泊した我々は、再び十津川へ。十津川の「道の駅」でなんとピーター、ヒロコさんらと出会いました。まったくもってなんという偶然。その日は、水谷BMWでミミチャン、水谷女史とともに神戸に帰りました。例年にない印象深い十津川体験でありました。

 

■8月29日/盲僧琵琶/永田法順師の世界/都住創センター/お話:小島美子、川野楠己(元NHKディレクター)

 大阪芸大の中山さんのしぶといファックス勧誘攻勢もあり、かねてから一度は聞いてみたいと思っていた盲僧琵琶の公演に行きました。

 中山さんによれば、現存するまともな盲僧琵琶を伝えるのは、宮崎の永田法順師だけということです。盲僧の永田法順師は、今でも琵琶を背負って多くの檀家を訪問しているそうです。後頭部が異常に盛り上がった四角い大きな顔の永田師の琵琶伴奏強烈だみ声詠唱は、まさに日本の伝統声楽の原点。謡の内容は、インドの「マハーバーラタ」を思わせる五王子物語の釈文、全国の神社名を連ねる神名帳など。浪花節のような声質とコブシによる反復単調旋律は、引きずり込まれるような不思議な力があります。「すごいよね」と、久しぶりに会った筑前琵琶の片山旭星さん。

 武庫川女子大の大森亮尚さん、神戸外大の羽下さん、薩摩琵琶の金寄靖水さんなどと、公演後の打ち上げでおしゃべりをしました。一仕事終えた永田法順師が、実はこんなこともやるのですよ、と袋から鼻笛を取り出し、「星影のワルツ」やら「炭坑節」まで披露されたのにはたまげました。魁偉な容貌の永田法順師は見事なエンタテイナーなのでありました。

 

■9月1日/サイトウ・キネン・オーケストラ公演/オペラ『カルメル会修道女の対話』プーランク/指揮:小澤征爾/長野県松本文化会館大ホール

 中川真さんから「ヒロシさん、オペラなんて興味ある?松本で公開リハーサルのチケットが2枚あるけど、一緒にどうお。どうせヒマでしょう」という電話。きっと、一人で車を運転していくのがしんどいから運転できるわたしを誘おうと思ったのでしょう。で、たしかに、どうせヒマなので、松本までオペラ見物に出かけました。

 せっかく信州まで行ったので、船津和幸さん宅を訪ね、パスタとサーモンソテー、サラダのランチをご馳走になりました。

 われわれと同じころインドのアーメダーバードに留学していた船津さんが、徳島在住のやはりインド留学組の建築家、新居照和さんの設計で家を新築したのは数年前のことです。「デザイン重視のため使い勝手はよくないし、設計者を食わすために借金しているようだ」などとぶつぶついっていましたが、ドーム屋根が目立つモダンな家は建築雑誌に紹介されたほどです。

 安曇野を見おろす広々としたバルコニーからは、うっすらと穂高連山が見え、実に気持ちがいい。信州大学助教授の船津さん本人も、ピアニストの恵美子夫人も、隣接して住むご両親たちも満ち足りた生活のようでありました。インドから帰国したころは、船津さんがタブラー、恵美子さんがシタールを演奏していたのですが、あまりに環境がいいせいか、あるいはナマケのせいか、今はまったく触っていないとのこと。「もうあまり仕事なんかしないもんね。大学にはたまに行くだけで、あとは草むしりしている」という日常もいいなあ。その彼ら、今年前半はずっとウィーン暮らしだったとか。こんな、絵に描いたような、いい環境で楽隠居生活とは、まったくもって、けしからん。でも、以前、わたしの訳書が出たときには、ちゃんと新聞にべたほめ書評も書いてくれたし、まあいいか。それに、楽隠居的という意味ではわれわれもあまり変わりませんし。

 船津宅を辞したわれわれは、小雨の中を松本文化会館大ホールへ。オペラ観劇は、84年にパリで見た「アイーダ」以来でした。最近のオペラは字幕スーパーがついているのですね、驚きました。

 オペラそのものはそれほど感動的ではありませんでしたが、瞠目すべきは聴衆の、とくにご婦人たちのファッション。例外なく、悲しくも徹底してアンバランス。よそいきの上等な服をどう組み合わせれば野暮に見せることができるか、の研究発表会のようなありさま。それに、はっとするような美しい女性もいない。こういう華やかな会場では、たいてい一人はいらっしゃるはずなのに、例外なくいない。シンとヒロシの美女探索中年男は「これはすごい」と嘆息するのみでした。美しい女性たちの華麗なお姿を鑑賞すること、これもオペラ観劇の別の楽しみなわけですから、関係者はもうちょっとなんとかしてほしい。サイトウ・キネン・オーケストラは素晴らしい音を出していただけに、その方面には遺憾の意を申し述べたい。その日帰宅したのは午前2時半でした。真さんは我が家で宿泊。

 

■9月8日「インド古典舞踊クチプディ公演」/オーバルホール、大阪梅田/スワプナ・スンダリー:舞踊/インド政府観光局主催

 エア・インディアの末永さんにお誘いを受けて、久しぶりにクチプディ舞踊を見ました。ダンサーのスワプナ・スンダリーは、かつてインドのラクナウで見て、きれいな人だなあと思った覚えがあります。ところが、今回、彼女を見てたまげました。妊娠と見まがうほどお腹が出ていて、動きに切れもなくがっかりだったのです。かつての美貌を知っているだけに、その否定的変貌にはとてもつらいものがありました。あのラクナウで見たものは、スワプナ(夢)のスンダリー(美しさ)だったのか。

 

■9月10日「タージマハールの夕べ」/帝国ホテル大阪・鶴の間/クル・ブーシャン・バルガヴァ: タブラー、寺原太郎:タンブーラー、中川博志:バーンスリー

 なんと帝国ホテルディナーショーでした。といっても、いわゆるユーメージンのものとは違い、ボンベイのタージホテルから招いたコックによるインド料理フェアーに関連したミニコンサートです。昨年はアミットにやってもらいましたが、今年はわたしがやることにしました。当日は、住金物産の池田さん、エア・インディアのJ.J.スィン・マネージャーも見えていました。

 われわれの音楽が高級ホテルの企画として取り上げられるとは、時代も少しずつ変わってきているようですね。担当の小林さん、ありがとうございました。

 

■9月15日/佐久間新君一時帰国歓迎芋煮会

 真さんが「今、一時帰国している佐久間と中川家に行くのだ。ついては若いおなごもつれてっていい?」と、二十歳のミミチャンこと坂口美佐、羽田美葉を引き連れて我が家にやってきました。インドネシア舞踊を学ぶためジョグジャカルタの芸大に留学中の佐久間君の現地レポートや、いかにして帰国後の生計をたてるか、という有望な青年を囲んで真面目な討議を行う、というのが当初の訪問予定だったはずなのに、真さんはどうしても若いおなごの同席が欠かせないのよね。

 佐久間さんは、すでに現地の主要ダンサーとして活躍し、インドネシア女性まで調達して来年帰国するほどの学習進捗状況とのこと。以前よりもぐっとたくましくなり、帰国後の活躍が楽しみなのです。でも、今の日本の経済情勢を考えると、仕事があるのかどうか。自分のヒマ状況もかえりみず、彼のショーライのことなどを、芋煮をすすりつつ会話が進むはずでした。しかし、実際は、マルガ・サリのワークショップのときに「わたしは、ガムランを聞くと大便がしたくなるのはなぜですか」などと質問したオバサンのことや、京都芸大生プスパちゃんこと戸田めぐみ嬢の「わたし、今日24玉もうんこしちゃった」などのばかばかしい話題に終始したのでありました。その日は、佐久間くん、ミミチャンが宿泊でした。

 

■9月21日~10月4日/ハリプラサード・チャウラースィヤー日本公演98

 5年ぶりにわたしの先生、ハリジーが日本にやってきました。

 本来ならば、19日、20日には韓国公演の予定がありました。ところが、来日2週間ほど前にハリジーから電話が入り、韓国公演は取りやめになりました。

「ヒロシ、助けてくれ。実はオレの勘違いで19日にロンドン公演を入れてしまったのに今日気がついた。向こうはすでに広報が進んでしまっていて、どうにも断れない。どうしよう。韓国公演を延期するとかできないか」。

 どうしよう、といわれても、ソウルや済州島でも公演準備は進んでいるので、わたしも即答できません。結局、韓国公演のスポンサー、徳山謙二朗さんに相談し、キャンセルやむなしとなり、関係者にはご迷惑をかけることになりました。こういうときには、師匠というのは厄介なものであります。師匠でなければ、完全にケリを入れているところです。

 日本公演は、「東京の夏音楽祭93」でハリジー公演を主催したアリオン音楽財団と天楽企画との共同企画制作でした。今回は、現在最も注目を浴びる若手美人タブラー奏者、というふれこみのアヌラーダー・パールがハリジーに同行しました。ハリジーの演奏は、前回よりも技術的完成度と深みがぐっと増した感じでした。以下は、ちょっと長いですが、ツアーのよれよれ顛末です。28歳の若いアヌラーダーの印象が強かったので、彼女の話題が多くなりすぎたきらいはありますけど。

 21日早朝、関空着のアヌラーダーを迎えに行きました。「荷物は極力少な目に」と、メールであれほど注意したにもかかわらず、彼女の荷物は、他人の、つまりわたしの腕も計算に入れた多さでした。タブラーの入ったケース、予備タブラー、スーツケース大1、中1、ショルダーバッグ1。ジーンズ姿の彼女は、さっそく笑顔で「ハーイ、ヒロシ。キャン・ユー・ヘルプ・ミー」。先が思いやられる第一声でした。

 関空から日航便に乗り換えて羽田に着くと、さらに二本の腕が待ってたのでわたしはちょっと一安心。アリオン音楽財団の飯田一夫さんが出迎えてくれたのです。小田急センチュリーホテル相模大野にチェックインした後、アヌラーダーとラーメン、中華どんぶりのランチ。「デパートへ行きたい」というので、伊勢丹巡りをしました。女性の買い物につきあうと頭痛のするわたしをよそに、彼女は時計や洋服や習字用筆やアクセサリーなどを執拗な熱心さでチェックしていました。

 東京駅で再び飯田さんと待ち合わせて成田空港へ行き、ハリジーを出迎えました。小ぶりのスーツケースとバーンスリー1本、クルター・パジャマ姿で、到着出口からひょいと現れたハリジーは、目の下を真っ黒にした疲労ぶりでした。それもそのはずです。彼は、19日にロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールのオールナイトコンサートで、20日の早朝に演奏し、ホールからそのまま空港へ向かい、まずボンベイに飛び、そして、深夜12時すぎにボンベイ到着後、自宅で仮眠を取るまもなく、早朝5時のキャセイ便に乗り、ようやく日本に着いたというわけです。19日、20日はほとんど睡眠をとらず、ほぼまる一日、飛行機の座席に座り続けたことになります。

 よれよれのハリジーを部屋に案内したあと、わたしと飯田さんは、近所の居酒屋でインド人演奏家無事到着を祝いて、長かった一日を完結させました。

 22日の朝食の後、毎日新聞社会部山本紀子記者のインタビューがありました。「ひと」欄に掲載された記事は、ツアーもとうに終わった10月14日朝刊に出ました。部屋で休息をとるハリジーとアヌラーダーに、ミルク、ミネラルウォーター、バナナ、ヨーグルトなどを差し入れた後、わたしは、ハリジーの時計修理、アメリカの友人から送られてきたハーブティーのための計量スプーン入手、画家であるアヌラーダーの母親のために買う予定の習字道具店の探索に走り回りました。ツアーでは常にこうした細々としたリクエストのために走り回るのが常なのです。

 一眠りしてようやく体調を回復させたハリジーから早速レッスンを受けました。6時から8時まで。世界のトップアーティストから直に一対一でレッスンを受けることができるのが、このツアーのわたしの特権なのです。怠けていたわたしの練習に強烈な渇を入れる素晴らしいレッスンでした。レッスン後、みんなで近所のイタリア料理店でピザ、パスタのディナー。ここでアヌラーダーは、ハリジーに勧められてワインを飲み、エビの入ったピザを食べ、来日前の宣言「わたしは完全なベジタリアン。酒飲まない。シーフードのアレルギー」がもろくも崩れ去るのでありました。この段階では、思考が柔軟なのか、宣言がいい加減なのかの判断はつきませんでしたが、その後の展開によって後者であることが徐々に明らかになっていくのです。

 23日。前夜に入った音響の川崎義博選手、ハリジーと朝食。「よく眠れなかったし、わたしは10時すぎないと食欲がわかないの」というアヌラーダーは、部屋で寝ていました。

 この日は、グリーンホール相模大野での日本公演初日でした。ホテルから徒歩5分のところをタクシーで10分かけて会場入りしました。楽屋に入ったハリジーがTokyo Journalの取材を受けているころ、アヌラーダーが「わああ、わたしのラハラーマシンのアダプターがなくなった。ヒロシがなくした。どないしてくれるねん」と騒ぎ出しました。タクシーを降りてから楽屋までの間に紛失したようです。彼女は執拗に通過ルートを探索しましたが見つからない。わたしはハリジーと一緒に演奏することになっているので練習はせなあかんし、舞台のチェックはせなあかんし、このツアーに合わせて制作したジーベックのAPAS-CDの販売員安居クンを激励せなあかんし、販売予定のわたしの訳書の到着確認などで、ただでさえ忙しいのに、彼女に引きずられて笛をもったままうろうろなのでした。

 グリーンホール相模大野は思ったよりもコンパクトで、舞台と客席との距離も近く、聴衆には理想的だったと思います。コンサート内容は、前半の、折からの台風到来を意識してか、ラーガ・シュッダ・サーラングの長いアーラープだけの演奏。ついで、なんとか修理したラハラーマシンを使ってアヌラーダーのタブラーソロの後、ラーガ・ビーンパラースィーのアーラープとガット、そして最後に民謡を披露しました。ハリジーのスムーズな音の移動と華麗な旋律は、5年前の来日時よりもずっと深みを増したような気がします。アヌラーダーのタブラーも大受けで、とても女性とは思えない力強さがありましたが、オレガオレガ症候群の傾向も多分に見られました。音響のプロである川崎さんのセットしたマイクを楽器にぐいっと近づけたり、もっと音を大きくしろ、と注文したりするのは、どうもザキールやファザルの悪影響のようです。「伴奏者ではなく共演者であるわたしの弟子、ヒロシ」などと紹介されたわたしは、普段まったく練習していないラーガだったこともありしどろもどろの共演でありました。タンブーラーは、娘、音々(ねね)と一緒にきてくれた吉見泉美さん。公演後、楽屋には多くの人が訪れてとても書き切れませんが、本物のグルジーの前でわたしに向かって「グルジー」などと呼ぶアミットの弟子北田クン、横笛研究会の山口さん、野生尺八と称する大由鬼山さんなどが見えてました。

 公演後は、インド人をホテルに帰して、飯田さん、川崎さん、明日からイギリスなのだといっていた川崎さんの友人の作家、寮美千子さん、そしてホールの担当者中村さんとで打ち上げでした。中村さんは、役所の内部的抵抗をものともせず、ユニークな企画をして頑張っている人です。

 24日は移動日。相模原から新宿の京王プラザホテルに移動しました。近くのイタリア料理店「インフォルノ」でたっぷりのランチをとり昼寝の後、レッスンを受けました。レッスン後、どこで夕食しようかと考えていると、ピットインの本村さんから「今、『鼎』っつうとこで、エミチャン、梅津和時さん、多田さんと飲んでるのよね。よかったらこない」というお誘いを受けました。鼎は、和食系飲み屋なのでインド人にはあまり喜ばしかったと思えませんが、ハリジーは「うんうん、こういうのいいなあ」といいつつわれわれの勧める魚や豆腐を肴に日本酒を飲むのでした。自称ベジタリアンのアヌラーダーは、「これなに、これなに」と出された料理におぼつかない箸さばきで突っつくのみ。途中、別の宴会から抜け出してきた仙波清彦さんも見えましたが、ハリジーに挨拶しただけですぐ帰っていきました。ちょっとトイレ、といったまま行方不明になったアヌラーダー探索などという人騒がせ事件をはらみつつ、東京新宿の夜はこのようにして騒がしく過ぎていくのでありました。

 25日は、調布グリーンホールで桐朋音楽短大レクチャー・デモでした。われわれが到着したときは、桐朋音楽短大の主催者が、午後4時から会場を借りることができなかったということで、大わらわの舞台準備が進行中でした。われわれも、あっちこっち移動させられ、ドタバタしつつなんとか本番には舞台に座ることが出来ました。音楽専攻の学生が主な聴衆なので、最初はわたしがインド音楽について解説しました。後半は、ハリジーが日本民謡の音階と同じラーガ・ブーパーリーをたっぷりと披露しました。聴衆はキャパ一杯の200名ほど。

 AFOで一緒だった梅津和時さん、森田芳子さん夫妻(ヨッチャンは相模原公演にもチラッと顔を見せました)、インド大使夫妻、インド音楽研究会の田中多佳子さん(子連れ)、成沢さん(奥様が桐朋の教授という関係で今回の公演が実現)、相模原からの追っかけで北田クン、東京在住インド人友人などが公演後の楽屋まで駆けつけてくれました。

 打ち上げは、近所の高級純和風料理の「白川郷」。白川の合掌づくり屋敷を移築したという堂々とした料理屋です。学長をはじめとした大学関係者の手厚いもてなしを受けました。「日本のこういう伝統的な場所が大好きです」とハリジーは、竹筒にはいった燗酒を飲んでご機嫌でした。わたしは、自称ベジタリアンのアヌラーダーに、「このいぼのついた食べ物は、日本人の最も好むものである。どうしても食べるべきだ。何事も経験なのだから」とタコ摂食を強要したところ、なんと食べてしまった。あとで、それがタコであると知らされた彼女は、その夜、夢の中でタコにうなされた、といっていました。ひひひひひひ。泉美さんのダンナ、タブラーの吉見征樹選手も打ち上げに参加しました。

 桐朋音楽短大の森下教授、堀悦子教授、山崎さん、野口さん、いろいろとお世話になりました。

 26日は、東京から滋賀県水口町まで移動して公演という強行スケジュールでした。東京の友人に早朝観光に連れていってもらい10時近くにホテルに戻ってきたアヌラーダーの朝食をせかせ、タクシーで飯田さんの待つ東京駅に。生まれて初めて赤帽オジサンの助けを借りて新幹線のグリーン車に飛び乗り、荷物運搬人として大阪から走ってきた寺原太郎車と米原で合流。すぐさまわれわれはタクシーで水口に向かうのでありました。それにしても、この列車移動時の荷物運搬は、アヌラーダーの他者依存的多数荷物のためかなりの苦行でした。このころになると、彼女はわれわれが彼女の重い荷物をもつのは当然であるかのように、まるで女王様のようにわれわれに命令をするのです。

 水口センチュリーホテルに入ると、飯田さんが「昨日から高知に電話しているけどつながらない。で、今日ようやくつながったんですけど、向こうは大変なことになっている。台風で美術館が水浸しになり公演はキャンセルということになりました」と告知。そこで、切符やホテルの手配を変更せざるを得ませんでした。ハリジーにキャンセルのことを告げると「人間が自然に勝手なことをするから、自然が罰を与えたのだ。フロリダやバングラデシュも洪水だし、この現象は世界的なのだ。われわれはこれを受け入れるしかないではないか」とのご託宣。ハリジー(ハリとは神様の意味)の言葉は重々しく響く。

 さて、水口公演は、会場スタッフたちの気持ちのよいサポートもあり、素晴らしいものになりました。このホール2度目のハリジーも、前半にラーガ・マールワーのアーラープ、後半にラーガ・ハンスドワニの素晴らしい演奏を聴かせてくれました。アヌラーダーのソロも、大音響でしたが好評でした。京都からスティーブン・ギル夫妻、たまたま東京からきていた福島出身バラモン行者頭的パーカッションのアサチャンなども見えていました。

 ここで演奏することが心地よいのは、館長の竹山靖玄さんや上村秀裕さんをはじめ、中村道男さんらボランティアスタッフが、みんな本当に楽しんで仕事をやっているのが感じられるからです。とくに今回は、楽屋待機中のわれわれに、なんとあつあつのアルー・パラーター(マッシュポテト入りパンケーキ)とアチャール(漬け物)、スパイス入りのチャイの差し入れもありました。まともなインド風家庭料理に飢えていたハリジーとアヌラーダーは大喜びでした。アヌラーダーは、よほどうれしかったのか、「キャーバート・ヘ(どえりゃーえーが)」を乱発し6枚も食べました。ホール別室での打ち上げは、おいしいパラーターに腕を振るった女性ボランティアが、本格的なカレーも作ってくれて、インド人はご満悦でした。

 この日は、音響の川崎義博選手、寺原太郎・林百合子ユニット、飯田一夫さん、わたしも水口泊。

 27日は、大阪まで移動でした。大量荷物運搬人の太郎君と川崎さんを先に送り出した後、竹山館長に草津まで送ってもらったインド人2名、飯田さんとともに、電車でまず京都へいきました。七聲会の南忠信住職の大光寺へ突然おしかけて、奥様から抹茶を点てていただき、そのあと清水寺を散策しました。晴れていたら、時間をかけてお二人に京都見物してもらおうと思っていたのですが、あいにく小雨がぱらつく天気。また、だいたいにおいて、ハリジーはあまり観光には興味がないのでこのくらいでよかったのかもしれません。

 京都見物を簡単に済ませたわれわれは、大阪に入り、キタの新地のど真ん中にある全日空ホテルにチェックイン。インド人は疲れがたまってきたと見えて、すぐ昼寝体勢でした。夕方から3時間ほどのレッスンの後は、道頓堀の「モティ」で遅いディナーでした。

 28日、わたしはたまった洗濯物をトランクに詰め込んで神戸まで一時帰宅、飯田さんは滋賀方面に仕事、ということでハリジーとアヌラーダーはホテルに放置状態でした。

 自宅に帰ったわたしは、アヌラーダーの「わたしの航空券をハリジーと一緒の便に変更せよ。わたしの家族にこのメッセージをメールせよ」との指令で休む間もありません。彼女の航空券は日程・乗降地固定なので、いくら航空会社に相談しても不可なのだ、と説明しても納得しない。

 夜は、丸ビル地下の「アショカ」でディナー。自宅のお手伝い少年のお土産のためにと、まったく使っていないわたしのカメラをハリジーに進呈するとムチャクチャに喜んでいました。

 29日、フェニックスホール公演。アショカ弁当などをインド人に差し入れして午後まではだらだらと過ごし、4時にホールへ。梅田に近い高層ビルにある300人収容のホールは、ステージの後ろがガラス張りになっていて、聴衆は夜景を見ながら音楽を聴くことができます。普段は、クラシック系音楽家たちのプログラムが組まれていますが、最近はいわゆる民族音楽にも力を入れています。ここで1月に行われた賈鵬芳さんと姜小青さんのコンサートのことは以前紹介しましたよね。

 コンサートは、タブラーソロはなく、前半がプーリヤ・カリヤーン、後半がデーシュ、おまけがバイラヴィ・ドゥーン。クラシックを聞き慣れている担当の赤松さんも、支配人の大矢さんも、ハリジーの演奏を聴いて「すごいね」と感想を申し述べる。

 楽屋には、ソウル公演のスポンサーである徳山謙二朗さんが、済州島公演の主催をする事になっていた金女史をともなってハリジーに会いに来ました。ハリジーは「今回は僕のミスで本当に申し訳ないことをした。今度は絶対にこんなことはない。韓国での公演を楽しみにしている」と弁明しつつ徳山さんを抱きしめていました。他に、住金物産の池田さん、エア・インディアの末永さんなどたくさんの人たちが見えていました。

 大阪でタンブーラーを弾いたのは、太郎君と田中理子さん。ハリジーは、理子という名前をコピー機メーカーのリコーを連想し覚えやすかったためか、大きな声でうれしそうに「リコー」と何度も呼んでおどけるのでありました。

 打ち上げは、ホールのある超高層の同和火災ビル最上階「燦」。徳山さんにいただいた打ち上げ費用を有効に活用させていただき、大阪の夜景を見ながらワインなどをしこたま飲みました。

 30日は、本来は大阪から高知への移動日になっていましたが、高知公演がキャンセルになってしまったので、そのまま大阪に滞在でした。ツアーが始まって以来、ぐずついた天気が続きまともに観光をしていないということもあり、この日は買い物と観光に当てることにしました。

 移動は、寺原太郎くんの軽自動車で、違法5人乗車超過密状態でした。

 まず、日本橋へ行き、アヌラーダーの要望のコンピュータ・メモリを購入。機種やバージョンによってメモリが違う上、彼女の人間不信と安値追求のため、合うものを探すのに一苦労でした。ついで心斎橋の楽器屋でチューナーを購入。ここでも、これはいいけど高い、もっとよくて安いやつはないのか、とてんやわんや。さらに、母親の土産の習字筆購入の段では、筆の品質なんて分かるはずがないのに、初老のやさしそうな店員が出す筆をためつすがめつ検分する。わたしとハリジーはとてもつきあいきれないので、散歩にでました。結局、太郎君と百合子さんの忍耐強いアテンドで購入を果たしたのですが、聞くと、彼女にとっては単に安さが基準だったようです。

 まったく、「目の前にいる人間をすべて召使い化してしまうお姫様」(太郎)のアヌラーダーにつきあうのは大変なのです。それにしても、「女というものはみんな一緒だよ」と、じっと待つハリジーはまったく忍耐強い。

 アヌラーダーの買い物がようやく終わり、海遊館へ向けて出発したとたん、上機嫌の彼女がにわかに「あっ、サングラスがない」と騒ぎ始めました。「わああ、どうしよう、どうしよう。多分、どこかの店に置き忘れたのだ。悪いけど、戻って」「時間もあまりないし、もうあきらめたら」「いや、あれはレイバンなのよ」ということで、サングラス探索行ドタバタ劇の幕が開く。

「タローはあそこ、ユリコはあそこ、ヒロシは私と一緒にあそこ。手分けした方が早い。さあ」と命令を受けたわれわれはあちこちを走り回る。あわれ、インドの人間国宝、世界のバーンスリー奏者ハリジーは、「ったく。しょうがねえな。やれやれ、今日はアヌラーダーデーだな」と車に取り残されるのでした。

 太郎君、百合子さんが見あたらないことを報告すると、まったく二人を信用しないアヌラーダーは、「わたし、もう一度まわる」。結局見つからず、半泣き状態で戻ってきた彼女は、海遊館への道すがらもあきらめきれない。「たかが、サングラスじゃないか。また買えるよ」とわたしがいうと「あれは、特別のグラスなの。ボンベイでバーゲンのときに買ったのよ。デザインも特別だし、もうあんな安い値段で買えないのよ」。これを聞いた太郎・百合子ユニットは絶句状態でした。

 そんなこんなで、海遊館に着いたのは3時過ぎ。「ほら見て見ろ。この魚たちはまるでおれたちの世界のようだ。面白いなあ、な、アヌラーダー。ほれほれ、こっちのも」と海遊館に大感激のハリジーにつられて彼女もちょっと機嫌を戻したかのように見えました。しかし、彼女はしぶとい。ホテルに向かう車で「日本橋の店にいってくれない」と命令を下す。結局そこでも見つからずホテルに戻りましたが、「ヒロシ、もう一度、いった店全部に電話して探してもらうようたのんでよ」という。半ばやけ気味のわたしは「妃殿下の仰せのままに」と返事しつつ何もしませんでした。くたびれつつも印象深い、大阪見物の段でありました。

 10月1日は完全な休養日。彼らが休んでいるあいだ、そして飯田さんが大津で木暮さんとあっているころ、わたしは、ハリジーのリクエストのコンソメ・キューブ、各種麺類、フィルム、アヌラーダーの墨汁などを買い求めに走っていました。

 夜は、タブラーのレッスンにやってきた田中理子さんとともに、近くのお好み焼き屋「千房」でディナー。わたしとしては、人生に二度とない貴重な1998年10月1日の夕食に、その存在すら許し難いお好み焼きを主役にするのは、できれば避けたかった。しかし、案の定、インド人たちはかわいい元気のよい女性の鉄板パフォーマンスと平べったい粉だらけの食物に大満足でした。ま、でも、その平べったい粉だらけの食物は、残念ながら、けっこうおいしかったのです。

 10月2日は、新大阪で太郎君、川崎義博さんと合流し、名古屋へ移動。名古屋観光ホテルにチェックインしたあと、アヌラーダー、川崎さん、太郎君とで、きしめんを食べ、名古屋城見物に出かけました。その日は珍しく晴れていました。「名古屋城でもいってみっか、ふふふ」と提案すると「ぼくも見たことないけどそうしましょうか、ふふふふ」と皆が苦笑して同意する。金の鯱があるだけで、建物が古いわけでも、特別な展示品があるわけでなし、なあーんもないに等しい名古屋城でした。名古屋で名古屋城見物といっただけで苦笑してしまう理由はこの辺にあるのでしょうか。アヌラーダーは、名古屋城より、三人の騎士を付き従えて外出することを楽しんでいるようでした。

 ディナーは、オープンしたてのアミットのチャイ・カレー屋「チャンドニ」でした。彼と裕美さんが購入したというダクリヤ・ビルは、想像していたよりもずっと立派な4階建てのビルでした。93年にハリジー公演を主催した愛知芸文センターの藤井明子さんも合流し、アットホームな雰囲気のよい晩餐会でありました。味もなかなかでした。どんどんはやればいいですね。「内装工事につきっきりで練習もまともにやっていない」という茶髪アミットは、かいがいしく料理やワインを運ぶのでありました。

 ♪

 3日、チェックアウト時に到着したレンタカーで公演地、三重県川越町へ向かいました。

 借りた車は、93年にハリジーが来日したときほしがったルシーダ。ハリジーが「わあっ、わっ。いい車だなあ。どえりゃーえーがあ。これを欲しかったのよ」などと後ろからしゃべってきます。顔に、運転したいなあ、という表情がありありでしたので、高速料金所のところで運転を代わってもらいました。ハンドルをもったハリジーは、ほしがっていたおもちゃを手に入れたようなはしゃぎぶり。万が一を考えて、はじめは高速だけのつもりでしたが、あまりに嬉々としているので、会場のあいあいホールまで運転してもらいました。彼のインタビュー(後述)で、「わたしの弱点はクルマ」といっていたのがうなづけます。ボンベイ式運転なのでヒヤッとする場面はありましたけど、安定した運転で目的地に到着しました。出迎えたホールの諸岡さんらスタッフは、インドの人間国宝であり公演の主奏者が自ら運転してきたので、びっくりしていました。

 川越町あいあいホールは、今回のツアーでは一番大きく、数百人規模のきれいなホールでした。アミットをはじめ、インド音楽愛好家が名古屋から大挙してきてくれたので、ほぼ8割ほどの入りでした。演目は、前半がラーガ・ジョーグのアーラープのみ、タブラーソロ、後半がラーガ・ヤマーン。演奏はやはり素晴らしかったのですが、この前半のアーラープが終わり楽屋に戻ってきたハリジーがついにプッツンしました。

「最初は、スバンカルを連れてくるつもりだったけど、仕方がないのでアヌラーダーにしたんだ。いいか、ヒロシ、君もしってるだろうけど、ヒンドゥスターニー音楽のどのアーティストも、タブラーのソロなんか許さないんだぜ。ジャスラージだって、ビーンセーンジーだって。それが、ソロをするのが当然みたいにいう。それに、タブラーの音がうるさい。素晴らしいプロのカワサキがセットしたマイクの位置を勝手に変えるのもよくない。荷物もあんなに多い。それでいて超過重量分を負担しろっていってんだろう、ヒロシに。自分の荷物なんだから自分で払うべきだろうが・・・」と、ハリジーが執拗にわたしの目を捕らえてしゃべりまくる。黙って聞いているわたしは、今朝のやりとりで彼はかなり頭にきてたんだなあ、と思いました。

 朝食のやりとりというのはこうです。ハリジーが

「今日はアヌラーダーのソロを40分くらいやってもらおうか」と出し抜けにいいました。すると、アヌラーダーは、すごくうれしそうな顔をして

「えっ。そんなのないですよ。わたし、全然なしでもいいし。でもハリジーがそういうだったらやってもいいけど」

「でも、もっと長いソロがやりたいっていってたじゃないか、昨日」

「いや、それは、ヒロシもお客さんも、喜んでいたし、中途半端な時間ではソロは難しいということなんです」

「よし、それじゃ、今日は1部はまるまるアヌラーダーのソロだ、な、ヒロシ、いいだろ」。

 ハリジーにこんな風にふられてしまったわたしは、びっくり。

「えっ、そんな。ダメですよ。今回のツアーはハリジーのものだし、お客さんも納得しない。これまでのように10分くらいのデモンストレーションであれば問題ないけど」

 するとハリジーは

「そうだよな。なっ、アヌラーダー、ヒロシはこういってるけど、どうする」

 失望の色を隠しきれない彼女は

「ええ、わたしは問題ないけどお」

 ハリジーは、わたしの存在を計算に入れつつこの会話を始めたのだなと、そこで分かったのでした。ハリジーは、あれほどのスターなのに、面と向かって他人を非難することをしないタイプなのです。

 というような、ハリジー楽屋プッツン情況がありましたが、公演そのものは大成功でした。主催者の諸岡さんはじめ、川越町の助役さんまで楽屋を訪れ、サインや記念写真をせがんだりと大騒ぎでありました。

 公演後、急いで荷物をまとめたわれわれは、すぐさま神戸へ移動でした。

 今回のツアーでは最もハードな移動です。道中、強引にわたしのCDを聞かされたハリジーは「うん、いいね」などと相づちを打たざるを得なかったのですが、内心は運転したくてたまらない表情をしています。名神のサービスエリアで、合い挽きミンチ混入マーボー丼を食べたハリジーに再びハンドルを代わってもらいました。どうでもいいけど、ハリジーと一緒に「これ、すごくおいしい」と2杯もマーボー丼を食べた「完全ベジタリアン」のアヌラーダーは、ついに禁断の牛肉まで食べてしまったことになります。彼女も本当は肉が好きなのです。

 助手席に移動したアヌラーダーは、めいっぱいのボリュームでラジオをならしました。なんと、ハンドルをもつハリジーは音楽に合わせて上体を揺すり始める。後部座席に座る飯田さんの、きわどい追い越しのたびの「うひゃーっ。おーお」悲鳴をよそに、インドの人間国宝はるんるん気分で名神を快走するのでありました。わたしも気が気でないのでハリジーの後ろからひたすら前方を注視していました。神戸に着いたのは、深夜1時でした。

 インド人をパールシティーホテルに送ったついでに、すでにチェックインをしている仙波清彦師匠を訪ねました。ずっと一人で部屋で飲んでるの、ヨメさんは明日くるのよね、と申し述べる。

 4日は、日本ツアー最後のジーベック公演でした。

 わたしがホールにいったときは、仙波さんと笛の福原寛さんがリハーサル中でした。センバ新妻の香織さんも、ほにゃら~んと見物。

 仙波さんたちとアヌラーダーのセッションをやってもらうことになり、彼女と打ち合わせをしました。仙波さんの、わりに複雑なミニ・オレカマのリズムパターンを彼女に覚えてもらう。「よし、わかった」とパターンを一度聞いた彼女。仙波さんが「あのお、メモとか必要ないの」と聞くと「覚えましたから、ノープロブレム」と自信たっぷりにいう。しかし実際は、何度リハーサルをしても細部が不安定で、本番でも彼女は間違っていました。ま、本番のセッションはそれなりに面白くお客さんも楽しんだと思いますが、仙波さんやわたしの意図する緊密さには欠ける嫌いはありました。

 約3時間におよぶ久しぶりのジーベック公演は、ツアー最後でかつわたしの制作ということを意識してハリジーは力の入った演奏を披露しました。ツアーでは一番よかったと思います。

 1部が仙波清彦+福原寛による解説を交えた歌舞伎音楽のデモ。仙波さんのおもしろ解説もよかったし、なによりも歌舞伎の音楽に触れたことがよかったと思います。ジーベックのスタッフ森信子さんによく似たつるり清涼顔の福原さんの笛の音色が実に美しかった。

 1部の最後に、彼らとアヌラーダーのにわかセッション。相変わらず彼女はマイク位置を勝手に変えるので、タブラーの音がムチャクチャに大きくなってしまいました。バーロ。

 2部は御大によるたっぷりのヒンドゥスターニー音楽。長いアーラープのラーガ・マドゥヴァンティ、ついでラーガ・ヴァーチャスパティ、最後に民謡のおまけ。この民謡のとき、タンブーラーの弦が切れてしまいました。ハリジーが弦を張り替えているとき、わたしに「民謡だ、民謡だ。なにか吹いてなさい、適当に」と命令する。ハリジーのイメージとなるべく違わないようにおそるおそる吹き始めたわたしは、ハリジーがすっと自然に参入してきたので一安心でした。

 ジーベックは、いわばわたしのホームグラウンド。たくさんの友人知人がコンサートにきてくれました。クラット・ヒロコさんと早苗姉妹+藤本君、お母さんの富美子さんの山中ファミリー、今年はじめから体調を崩していたミッチャンと明子さんの岡山シスターズ、アショク・クマールインド総領事、ラリタ・パテル、ダンスリーの岡本さんを通じて最近知り合ったチャーリー・フュネス夫妻、川崎宅にしばらく居候しているマルセイユのフランソワーズ、民族楽器収集の立田先生などの他に、民博にデモンストレーションで訪れている驚異的循環呼吸笛のモンゴル青年などなど。

 打ち上げは、三宮のガンダーラでした。スタッフも入れて相当な人数になってしまい、ほとんど貸し切り状態でした。さらに、寺原太郎・百合子ユニット、仙波さん、福原寛チャンが我が家で二次会。早朝3時くらいまで、アヌラーダー論などで盛り上がりました。

 5日、ホテルにハリジーを訪ねて、碧水ホールの上村秀裕さんに頼まれていたインタビューをしました。内容はわたたしのホームページにアップしていますので、閲覧可能な方は是非ご覧になって下さい。http://www2s.biglobe.ne.jp/~tengaku/

 この日は、わたしは奈良・明日香村石舞台で、舞踊家の山田セツ子さんの音楽を慧奏さんと演奏することになっていましたので、あわただしくハリジーとアヌラーダーに別れを告げ、奈良へ急ぐのでありました。また、この日の夜に「ゲイロード」で行われることになっていたインド総領事主催のレセプションには、大急ぎで奈良から帰ってきましたが、タッチの差で間に合いませんでした。

 6日、早朝に起きたわたしは、関空までハリジーを見送りにいきました。今回のツアーは、高知キャンセルあり、運転あり、アヌラーダーへのプッツンあり、などなど彼にとってもいろいろあったと思いますが、それなりに満足してお帰りになったと思います。

 関空から戻ってホテルにアヌラーダーを訪ねると「もう、ハリジーもいっちゃったのね。今日と明日は、わたしは独自に街を散策するので、ヒロシを解放する」と、願ってもない姫のおごそかな許可。もっとも、あれこれと小言をいって召使い化を拒否するわたしと一緒にいるのを避けたかったのかもしれません。

 8日、彼女のフライトが全日空だったので、K-CATでチェックインできたのはよかったのですが、来日したときよりも荷物も増え、超過重量が許容量を超えてここで一悶着。「ヒロシが払うべきだ」「増えた分は個人的なものであるからそんなものは払う義務はないのだ」「そお~んなあ。だあってわたしもうお金ないし」「ったく、もう、しょうがねえな」最後までオレガオレガ一方的願望達成姿勢を貫き通して、われらがゴーマン姫、アヌラーダーはインドへ帰ったのでありました。彼女には、人間を信頼し、他人の話をもっと聞くようにと最後の説教をしましたけど、分かったかなあ。

 

■10月5日(月)/山田セツ子舞踏公演/奈良・明日香村石舞台/音楽:慧奏+中川博志

 それにしても、同じ関西とはいうものの明日香村は遠い。地下鉄天王寺駅と近鉄阿部野橋駅が同じだということが分からず、思いのほか時間がかかったせいもあります。梅田と大阪といい、まったく紛らわしい、大阪は。けしからん。

 明日香村石舞台からなだらかな山を見上げると、黒沢明監督の『夢』に出てくる山里の段々畑そっくりです。くっきりと浮かんだ満月を眺めつつ特設ステージでの演奏は気持ちのよいものでした。山田セツ子さんとは、ずっと前に天川神社で一緒にパフォーマンスして以来でした。満月下のしなやかな即興的ダンスは、幻想的でした。

 当日は、まともなリハーサルもないままいきなりセッションでした。いきなりセッションに慣れている慧奏さんは、呼吸が分かっているので安心でした。最近、奈良から淡路島へ移住した彼は、またまた男子を生産したようです。

 ハリジーのインド総領事主催のレセプションに間に合うよう、演奏が終わってすぐに神戸に向かいましたが、5分遅れで参加できなかったことはすでに触れました。

 

■10月10日(土)/ 12:00~20:30 東京おひらき祭/鎌倉大仏さま前特設ステージ/出演(出演順)/中川博志、鎌田東二&佐々木雅之、竹之内淳、岡野弘幹with天空オーケストラ、新体道、UZU、キドラット・タヒミック、アシリ・レラ、鳥飼美和子、末永和磨、KOW東京キッチン、細野晴臣&イーサーヴァイブ、ボブ・サム、政宗一成と池田昌子、デニス・バンクス、喜納昌吉&チャンプルーズ

 ハリジーが予定よりも早め帰国したため、誘われていたこのお祭りに参加できました。

 鎌倉の大仏を見たのは、中学校の修学旅行以来、実に34年ぶりです。

「境内は全面禁煙ということです」とタバコをくわえつつスタッフに指示する池田季実子さんと配偶者の雅之さん、鎌田東二さん、僧侶でかつパーカッショニストの関口さん、春山さんなどのがんばりで、祭は大成功だったと思います。参拝客も混じって数千人はきていたと思います。わたしの出番が、開始儀式前、鎌田東二+佐々木雅之(土笛)+三上敏視(pc.)+竹之内淳(ダンス)とのセッション、鳥飼美和子さんの気功指導伴奏、フィナーレと、最後まで断続的に4回もあったので、仮設楽屋での待ち時間が長かった。風の楽団のメンバー、久しぶりにお会いした正木晃氏、河野亮仙氏らと舞台袖でおしゃべりをしつつ時間をつぶしたり、大磯からこられた石踊紘一・明美夫妻と洋画家の中村明比古さんと海岸でビールを飲んだりしました。打ち上げは救世教であることになっていましたが、スタッフたちの片づけに待ちくたびれそのままホテルに帰りました。スタッフの皆さん、本当にご苦労さまでした。

 

■10月14日(水)/シャシャーンク(フルート)南インド古典音楽公演/ジーベックホール

 南インドの天才少年、というふれこみのシャシャーンクは、まったく天才の名に恥じないとんでもないテクニシャンでした。公演の日にちょうど二十歳になった彼は、ぷくっとしただだっ子少年のように見えますが、大きな目をほうぼうに向けながら複雑な旋律を、軽々とかつおそろしいスピードで笛を吹きこなす。猫背気味に、笛を持つ手を肘を膝頭にもたれさせたりして、ちょっとだらしない格好ではありましたが。

 客席正面に座るステージパパ、スブラマニヤム氏は、息子に目で指示を出し、そのたびに、横に座るわたしに、どうだ、オレの息子はすごいだろう、という表情を見せる。このステージパパにわたしは妙になつかれてしまい、その日の打ち上げにつきあうことになりました。また日本に呼んでもらいたいという魂胆があるようでした。

 打ち上げは、6名のインド人グループ、国際交流基金の公演担当者村上圭子さん、森多恵さん、小熊旭国内事業課長、東急のアテンド担当者(招聘外国人アテンドというビジネスがあることを初めて知りました)、アテンド担当の加藤女史、同行舞台スタッフ5名という大所帯でした。インド人たちをホテルに送り返した後、さらに日本人だけで「さりげなく」で二次会。

 次の日、くだんのステージパパから「なんでホテルにこないんだ。笛をもってきたらどうか」という半ば強引なお誘いの電話が入り、東急インに行きました。

 部屋に行くと、パパはしきりに南インド音楽のすばらしさを強調します。「笛っつうのはこう吹くんだよ」とシャシャーンクに吹かせて南インドの複雑な装飾技法のやり方をわたしに教えようとする。「いやあ、わたしは北インドですから、こういうのはあんまり」などというと「南インドにはすべての音楽の要素がパルフェクトにあるので、習う価値があるのだ」とつぎつぎに、さらにややこしい旋律や装飾やラーガをシャシャーンクに吹かせて教えようとする。わたしは南インドの音楽を習いたくてホテルに行ったわけでもないのに。要は、ヒロシにシャシャーンクの技術と南インドのすごさをここで徹底的に見せつけて崇拝者になってもらい、将来、日本公演の世話をさせよう、という性急な戦略が潜んでいるように見えました。わたしにはもちろん勉強になりましたが。

 村上さんが「この人たちはホテルの部屋で、炊飯器をもちこんで自炊してるんですよ」といっていたように、ママがせっせと晩御飯の準備をしていました。準備が完了すると、浴衣をきたままの若いヴァイオリニストが各部屋に「めしだ」とつげにいき、全員が狭いホテルの1部屋にやってきて食事でした。北インドではスージーという、味付けした穀物の粉の炒め焚きと唐辛子のアチャール(漬け物)がメインディッシュでした。これがなかなか美味でした。彼らは、ずっとこんな感じで日本ツアーをやっているのですね。

 

■10月16日/弦想/賈鵬芳リサイタル/賈鵬芳:二胡、姜小青:古箏、馬平:打楽器、費堅蓉:琵琶、中げん、林敏:楊琴、坂井紅介:コントラバス/クレオ大阪東

 賈鵬芳さんのリサイタルに、久代さんと大阪に行ってきました。場所は、高層ビルの裏手のゴチャゴチャした地域にあるホールでした。東京では、渡辺香津美さんのギターやピアノなども加わったらしいのですが、大阪ではメンバー編成と内容が純中国的にまとめられていました。リサイタルというよりも中国民族音楽演奏会といったおもむきでした。

 賈さんの二胡はやはり音色に艶があり素晴らしい。賈さんのマネージャー亀岡さんのがんばりで400くらいの席はいっぱいでした。オバサンっぽい客が多かったのと、受付の大小の花束のせいか、なんとなく演歌歌手の公演のような雰囲気でした。賈さんには、しっかりした、まっとうな、ファンがたくさんいるのですね。なにせルックスがいいからなあ。

 姜小青も相変わらずかわいい。星川選手と北京でうまいものをたくさん食べたんでしょう、と彼女にいうと「そうなの。おいしかったあ。今度は、なががわさんも一緒にいぎましょう」とうれしそうにいうのであります。実現できたらいいなあ。

 終演後、楽屋に行くとベニさんが「いやあ~~~。なつかしい」とAFOツアーの話で盛り上がりました。ベニさんは、ツアー中せっせとビデオを撮影していたのですが、忙しくてなかなか上映会も開けないといってました。

 京橋駅近くの居酒屋で打ち上げ。席の関係で男性と女性が別れ別れになってしまったのですが、どういうわけか、ベニさんだけがおなごに囲まれる。もてるんだよね、ベニさんは。あっという間に時間は過ぎました。最終電車が近づいたので、われわれは皆さんに別れを告げ、あわてて梅田に向かいました。しかし、最終電車には間に合いませんでした。しかたがないのでタクシーで神戸まで帰りましたが、1万円も取られてしまった。同じタクシーで帰るんだったらもっと飲むんだったと悔しがっても後の祭りなのでありました。

 

■10月18日/山口から水谷女史来宅/水谷、松本、葉野、高田/奥野

 六甲アイランドのファッションミュージアムのポール・スミス展に山口からやってきた水谷女史が、学生とともに我が家を訪ねてきました。山口からの女子大生たちは、中川真さんの「美形がそろっている」という言葉通りみんなかわいかった。レッスンにきていた奥野青年とともに、ブタ・菜っぱ水炊きで宴会になりました。寡黙奥野稔青年にどの子がよかったかと聞くと「一番右端の」といっていました。松本さんのことかな。

 

■10月21日/甲南大学図書館ライブ/クラット・ヒロコ、寺原太郎

 このライブは、ジーベックのモリチャンのピアノの先生、藤原さん経由で依頼されたものです。担当の新戸さんは、生協でお昼をご馳走になったとき、日本人は芸術というものが分からないのだ(分かっているのは自分くらいだ)、とわれわれ日本人ミュージシャンを前にして力説していました。ヒロコさんと太郎君とわたしは、はあ、とうなずくのみでありました。

 当日は、50人ほどの聴衆でした。わりと年輩の知的好奇心あふれる女性が多く見受けられました。わたしは、最初に竹田の子守歌をちょっと吹き、これはインドの民謡でした、というと、もちろん笑う人がほとんどでしたが、なかに真剣にうなずく人もいました。

 

■10月24日(土)/倉敷市児島公民館講演

 以前、倉敷市美術館におられ、現在は児島公民館に勤務されている阿部健二さんからのお誘いで前日から倉敷に行ってきました。前日の寿司屋でのミーティングで、彼はスポーツ事業にはゼニをたくさんだすんですけどねえ、と地域や行政の文化に対する消極性を嘆いていました。公民館の前に勤務していた福祉事務所時代の話も興味深いものがありました。ここでは詳しくは紹介できませんけど、生活保護の認定や運営にはさまざまな問題があるものなのですね。

 当日の聴衆は、6名。ヴァイオリンを演奏するという若い女性以外は、すべて60代以降の、いわゆるオジイチャンオバアチャンでした。だからというわけではないですが、テーマは浄土の音楽を中心とした仏教音楽のこと。アジアの仏教寺院のお経ばかりを聞いてもらいました。

 神戸への帰途、岡山の小西シスターズを訪ねおしゃべりを楽しみました。アキコさんはお元気そうでしたが、ミッチャンは、年初から体調を崩してとても痩せていました。二人は、相当狭い阿雲堂薬局の2階で寝泊まりしていますが、近々一戸建ての自宅ができるそうです。

 

■10月27日(火)/「10月の風」トリイホールライブ/共演者:クラット・ヒロコ:タブラー、寺原太郎:バーンスリー、タンブーラー、ゲスト/岸健一郎:ビリンバウ他ブラジルのパーカッション

 トリイホールで、採算分岐人数である30名の聴衆を獲得するのは本当に難しい。前回に続いて今回も20名に満たない聴衆でありました。

 演奏は、わたしのCDのオリジナル部分を拡張したもの、岸さんのソロ、古典音楽でした。岸さんのビリンバウというのは、いってみれば弓と矢の単純この上ない楽器ですが、実にいろいろな表情が出せるものです。

 演奏会ではめったにお見受けしない現代美術彫刻家の植松奎二さんと信子さんも見えていました。変わったお客さんも見えていました。太郎君たちの東京のメールフレンドで、この日初めて会うという羽鳥真奈美さん。枝豆のことをインターネットで調べようとしたら、肝心の質問とは無関係に「鳩豆堂」というデザイン事務所のサイトにいきつき、羽鳥さんとメールをやりとりするようになったということです。たまたま彼女が関西旅行にきていたのでこのライブにきたのでした。

 ホールの下の焼鳥屋の打ち上げで彼女といろいろ話していたら、なんとコアラ寺で有名な極楽寺の住職、長沢普天さんが伯父さんというではありませんか。わたしは、ずっと以前、京都の小さなホールで長沢さんとライブをやったことがあったので、その偶然にびっくりしました。まったく、世の中は狭いものです。その彼女、デザインの他に、東京で農家もしているのだそうです。で、ダメモトで芋煮会のイモがほしいといったら送ってくれることになり、12月13日の芋煮会ではたっぷりとおいしいイモをいただくことができました。

 

■10月29日(木)/神戸国際大学付属高校芸術鑑賞会/明石市民会館/アミット・ロイ:シタール、クル・ブーシャン・バルガヴァ:タブラー、中川博志:バーンスリー、寺原太郎+百合子:タンブーラー

 前日は、まず明石の久代さんの実家にいって半年ぶりに義父に散髪してもらい、近所に住むクル・ブーシャン・バルガヴァを車に乗せ、すでに到着していたアミット、寺原太郎+百合子ユニットと合流しました。本番が朝早いので、前夜のリハーサルでした。その日は、洋室風なのに畳敷き布団のビジネスホテルで一泊。

 全校授業は10時開始と、朝に弱いわれわれには過酷な演奏条件ではありました。この仕事は、かつてのわたしのPCお助けマン菅田潔さんから依頼されました。彼は、神戸国際大学付属高校の先生だったのです。

 1000人以上の制服を着た男子高校生の集団というものには、いわくいいがたいマグマのようなエネルギーがあります。先生の開始告知のときは、大きな会場は混沌状態。神父指導のお祈りのときは一瞬、静寂になりましたが、わたしの講義が始まると、しだいに騒がしくなりエネルギー噴出度が高まるのでした。私語を交わすのはもちろんのこと、あくびをするもの、席を立つもの、そわそわと体を動かすものが続出。後半のアミットの演奏が始まったのでわたしは客席最後部へいくと、席を立つものは後を絶たず、なんと携帯電話をしているものまでいます。こうした生徒を指導する高校の先生というのは苦労しているんだろうなあ。もちろん、なかにはわれわれの話や演奏を熱心に聞いているものもいました。インド音楽のパワーは、高校生には通じないのであります。とほほ。こうした状態は、これまでやったどの高校でもあまり変わりません。高校生はうるさいのだ。

 

■11月1日(日)/十三夜の調べ/奈良明日香村岡本寺/ダヤ・トミコ(バラタナーティアム)、金寄英泰(薩摩琵琶)、中川博志(バーンスリー)/阿部野橋駅と天王寺駅の不可解/広田、ジョン・マクアイザック、スマティ・ロイ、ギル・カズエ、芋煮、長谷寺、三輪大明神、池利にゅうめん

 「神戸からの祈り」で知り合いになった廣田順子さんからのお誘いでした。山里の香り漂う明日香村の岡本寺で、満月に二日足りない十三夜を眺めながら笛と琵琶を聞く、という趣向です。篝火に囲まれた仮設舞台で、薩摩琵琶の金寄さんと演奏しました。

 金寄さんは、本業は風水師ということになっていますけど、この岡本寺が気に入り得度し坊さんになったということです。

 岡本寺の柏井快英住職、娘さんの貴里子さんがこうした催しに熱心に取り組んでおられるとのこと。檀家をもたないという岡本寺に集まった人たちは、いわば柏井上人ファンです。廣田順子・守伸さん夫妻も快英ファンなのです。わたしは、その快英ちゃんから「中川さんてかわいいね」などといわれてしまいました。

 宴の最後のころ、京都からバラタナーティアムのダヤ・トミコさんもかけつけ、舞踊を披露しました。彼女の踊りも力が入っていました。

 その日は、ほとんどの人がお寺に泊めてもらうことになりました。お寺といっても、道場に近く、しかもごく最近たてられた木の香りのする新しい建物です。宴の後は、ダヤさんといっしょにやってきた英語教師のアメリカ人ジョン・マクアイザック、ベンガル系パプア人スマティ・ロイ、スティーヴンの配偶者のカズエさんらと合宿状態で3時ころまでおしゃべりをしました。

 次の日は、せっかくなので、と周辺をドライブ。貴里子さんの運転で、ダヤさん、廣田さん、カズエさん、そしてわたし。つまりわたし以外はすべて美女というシチュエーションなのです。人生にはたまにはこういうこともあってもいいのだ。ともあれ、われわれは、長谷寺、大神神社をまわり、池利のにゅうめんを食べて奈良・秋のミニドライブを楽しんだのでありました。

 

■11月3日(火)~4日(水)/北陸能登の民宿「さんなみ」取材同行

 久代さんの取材にくっついて能登までいってきました。同行は、近所のカメラマン、いや、カメラマンなどというと怒られるか、フォトグラファーの外賀嘉起さんでした。

 神戸から、名神、北陸道、能登道を走って7時間。ようやくたどり着いた民宿の部屋からは、海とうっすらとした立山連峰が真っ正面に見えます。客室は3室しかなく、ご主人の船下智宏氏と富美子夫人の実にこまめな、誠実なサービスが素晴らしく、しかも安い(1泊食事付き8000円~)。これは、野菜などの畑仕事から調味料にいたるまで、すべて自力でやってしまうので低コストを維持できるからです。なにせ、船下さんは、建物の基礎や整地までも自分でやってしまう。さらに、能登独特の魚醤であるイシリも作っています。自分のやりたいことを誠実にやっていれば結果はついてくるのだ、という自信がうかがえました。

 取材とは無関係のわたしは、二人が仕事にいそしむあいだ、食堂にあったCDを何気なく見ていると、なんとシタールのCDが一番上にのってました。まさか、能登の奥の小さな町でインド音楽のCDを見るとは思いませんでした。聞けば、近くのお寺で行われたムニナル・ナーグのコンサートにいき感動したので買ったということです。とくにタブラーに感激した船下さんは、どうしても楽器がやりたくなり、その後、近所でイタリア料理店をやっている娘婿のオーストラリア人に頼んで入手し練習しているようです。わたしは、岡山で見つけたタブラー教則ビデオをコピーして送りましたが、船下さん、あまりのめり込んで素敵な民宿の経営に支障をきたさないようにして下さい。

 そんなわけで、妙なことで話が弾んでしまったわれわれは、新鮮な魚介類や野菜、そして古酒12年ものなどという秘蔵の酒までいただき、さらに次の日には畑から取ったばかりの野菜や柿、すだち、ハーブ類をしこたま土産にいただいて、大変シアワセな能登行となったのでありました。船下さんは「前の庭でコンサートやれたらいいなあ」とおっしゃっていたので、そのときは是非呼んで下さい。

 

■11月13日(金)/インド上昇気流/コスモ証券ホール、大阪北浜/カミニ:シタール、中島知晶:タブラー、寺原太郎:バーンスリー、クラット・ヒロコ:タブラー、アミット・ロイ:シタール、クル・ブーシャン・バルガヴァ:タブラー、山中宣夫:シタール、佐野敏幸+山田眞由美+高岡恭子:タンブーラー

 寺原太郎+百合子ユニットが中心になって進める「上昇気流」も第3回。演奏するメンバーはアミット・ロイの弟子たちです。回を重ねるごとに、それぞれのレベルが上がっています。

 今回はとくに、カミニと太郎君の成長がよく分かりました。カミニの演奏は、ラーガ・ジョーンプーリーの感情を的確に捉えていたと思います。以前はちょっとストロークに力のなさを感じましたが、今回はかなり安定していました。これでスピードが加わればインドで演奏しても向こうの聴衆の支持を得られると思います。

 太郎君のバイラヴもなかなかでしたが、今以上のピッチの安定と音質が課題だとおもいます。しかし、インドでも最近はめったに聞くことのないダマル・タールといい、ドゥルットのジャプ・タールの挑戦は素晴らしい。リズムの弱いわたしなんかはメロメロになっているはずですが、しっかりとリズムサイクルをとらえ、聞いている方には安心感がありました。

 みなそれぞれに一定のレベルに達した演奏と、それを支える聴衆の確実な成長を見ると、わたしがインド音楽のコンサートを作ったり演奏を始めた1984年のころとは隔世の感があります。そろそろ、日本人ミュージシャンが大挙してインドにいってコンサートを開くことも夢ではないと思います。西洋人による演奏はぼちぼち聴いているインドのとくにボンベイの聴衆は、ヒンドゥスターニー音楽が日本で確実に根をおろしつつあることを実感して、たまげるのではないでしょうか。というわけで、わたしは今回の演奏者も含めた日本人演奏家によるボンベイ公演を是非実現したいものだと考えています。

 うち上げは、以前サントゥールを練習していた阿部さんのカレー屋でありました。

 プログラムに何かを書け、ただしタダ、と百合子さんの要請を受けたので、「レシピを気にしないでカレーを食べよう」という、なんの役にも立たない文を書きました。興味のある方は、ちらとのぞいてみて下さい。→「レシピを気にしないでカレーを食べよう」

 

■11月21日~24日/「サビエルの道」/ラ・ポート、サビエル記念講堂

 とにかく山口は寒かった、という印象でした。で、あまりにもいろいろあり、この誌面では書ききれないので、わたしのメモだけにします。

「海鮮長州」ふぐ料理/倉田敏文(照明)、伊川悟(舞台)、水谷由美子/山口県立大学水谷研究室~水谷自宅(湯田温泉)/22日中原中也記念館、徒歩で山口サビエル記念講堂/リハーサル、源の助+ひかり、10時終了/タクシーなく徒歩で「プラザホテル寿」へ/23日10時、徒歩でアーケード商店街「ラポール」/靴、ちまきや、2時半本番、サリーぐるぐる巻き衣装/サビエル記念講堂移動、寒中待機、7時半「フランチェスカ」で交流パーティー、県、市、商工会議所、県立大学、戸崎宏正教授(インド哲学、元九大)、鶴田千賀子(バルンアート)、田村洋(作曲)とApiApiへ。ワイン、キムチ、後に水谷、学生モデル1、学生合流/24日11時温泉の後チェックアウト、水谷車で瑠璃光寺五重塔、ラ・セーヌ、よくしゃべる雪舟寺(常栄寺)老師、雪舟設計庭、新庫裡案内、湯田温泉の寿司屋

 

■11月28日(土)/スイス人案内/ハンス・ミューラー(松濤館空手)+ミサ夫人、アドリエル弟、ピーター・アマン(不動産)、ハンスピーター・ゾンマー(内装デザイン)、ピーター・クラット/日本料理「波勢」、六甲山頂、有馬グランドホテル/3500円入浴、天藤建築設計事務所(安藤忠雄さん設計の六甲アパート内)、天一軒でぎょうざ、やきめし

 ピーターから「スイスから、大きな空手道場を最近新築したトモダチがきている。道場にレストランを併設しようとしているが、その内装デザインの参考のために設計者とスポンサーも同伴だ。ついては、神戸で参考になりそうな店を紹介してほしい。彼らはカネモチだから飲み食いタダである」という依頼があり、そのスイス人たちと一日過ごしました。

 ピーターの運転するバスでどう移動したかは、上のメモにあるとおりです。道中は、ずっとジョーク大会でした。スイス人も本当にジョークが好きです。最後の「天一軒でぎょうざ、やきめし」は、どうみても新しいレストランの内装設計には役に立たない、ごく普通の三宮の中華大衆食堂です。これは、本来は交通センタービル最上階の有名デザイナーによる和食レストランに行く予定だったものが、スイス人たちが日本料理にあきてしまい、ギョーザ、ヤキメシと主張したからなのであります。

 わたしはその新しい空手道場に1月に訪ねる予定です。なにせ、居候ができるということを確約しましたので。

 

■12月10日(金)/ユリウス中川家宿泊

 ユリウスというのは、ベルリン在住のサウンドアーティスト、ロルフ・ユリウス氏です。彼は、丹後の、淳子夫人ドイツ留学中につき一人住まいの鈴木昭男さん宅に、1週間、臨時男やもめ共同生活を送っていたのです。最近、関空アクセス至便一時滞在宿泊所と化している我が家には、ときどき、ユリウスの例のように、翌日帰国外国人が宅急便で送られてくるのです。

 バーンスリーのレッスンを受けている日下三恵子さんと信州野菜届け人廣田順子さんらと茶飲み話をしているとき、着払いで送られてきた重いトランクの到着とほぼ同時に本人がやってきました。

 ユリウスの作品やパフォーマンスは、ジーベックや丹後などで触れたことがあります。自身も小柄なためもあって、わたしには少年の真剣な音遊びという感じで好ましい。彼に会いたいとやってきたジーベックの下田さんらと酒を飲みつつ、芸術活動を巡るあまり愉快ではない話題などをしゃべりました。ユリウスは、物事の断定に非常に慎重な人で、ま、よくは分からないけど、といいつつよくしゃべる楽しい人でありました。

 

■12月12日(土)/「見て聴いてアジアの音楽~即興の芸術」/甲東ホール・西宮/アミット・ロイ:シタール、クル・ブーシャン・バルガヴァ:タブラー、中川博志:バーンスリー、寺原太郎:タンブーラー、佐野敏幸:タンブーラー

 甲東ホールは、阪急甲東園駅にほぼ密着したビルの4階にある、収容人数200人ほどの新しいホールです。当日は、170人の聴衆ということなのでほぼ満員に近い入りでした。わたしの今年最後の仕事でありました。前半がわたしの、後半がアミットの古典でした。終演後、楽器はご自由に見て下さい、というとかなりの人たちが舞台に押しかけ、質問責めでした。みなさんは本当に好奇心が旺盛なのであります。公演の模様は、西宮市のCATVでお正月に放映されるということです。コンサートには、いまや我が家の貴重な野菜供給者である廣田順子さん、シタールの田中峰彦・理子夫妻、ブーシャンにタブラーを習っているトミさん、現在わたしにバーンスリーを習っている日下三恵子さんなどが見えていました。

 

■12月13日(日)/中川家新キムチ完成祝い芋煮会/寺原太郎+百合子、奥野稔、大川さん、池田さん

 トリイホールのライブの時にお会いした羽鳥真奈美さんに送っていただいた「高級料亭にしか出荷しない」里芋と、廣田順子さんからいただいた白菜とネギで年末芋煮会を敢行しました。野菜の質がよいせいもあって、おいしい芋煮ができました。また、やはり廣田さんから以前にいただいた白菜で作ったキムチも、充分に市場に耐えうる味になり、好評でした。

 イトマンの元ボンベイ支店長だった池田さんは、12月をもって永年勤めた商社を退職なさるということです。初顔の大川さんとは、桧原さんにシタールを習っているコンピュータ青年です。

 

■12月17日/「JDO一路」公演/アルカイックホール、尼崎

 一路とは、和太鼓奏者の井上一路あらため時勝矢一路さんのことです。彼は、総勢9名の演奏家グループ「JDO一路」を立ち上げ、欧米で大活躍中なのです。

 2000人は入るアルカイックホールは満員でした。一路さんの舞台は、構成、演出、曲もよく練られています。機械のように精密な鼓童もよいですが、ときどきユーモアがある彼の舞台もかなりインパクトがあります。来年5月7日には、なんとザ・シンフォニーでコンサートがあります。

 この日一緒に行ったのは、近所の南野佳英さん、アメリカで医者をやっている大学時代の同級生、新井義郎ドクトル、彼の親戚でフラメンコをやっている中川浩子さん。

 

■12月18日/C.A.P.クリスマスパーティー/キタノサーカス、神戸

 テルミンのデモあり、にわかサンタクロース会議あり、プレゼント交換ごっこありの楽しいパーティーでした。我が家に居候中のアメリカ礼賛躁状態のドクトル新井も参加しました。

 

■12月19日/ボブ・オスタータグ&セイ・ノー・モア/ジーベック

「音楽にジャーナリスティックな視点を導入する」というオスタータグのコンサートがジーベックでありました。聴衆は、ちょっと少な目でしたけど、いわゆるフリー・インプロビゼーション系の音楽というよりも、もっと深みのある企みを感じました。ヴォーカリストのフィル・ミントンの多彩なヴォイスワークがすごい。

 

-----------------------
◎これからのできごと◎
-----------------------

 

■1月7日(木)~26日(火) /マルセイユでのAct Kobe交流、パフォーマンス/

 

日本側参加者/下田展久、東野健一、岩淵拓郎、角正之、川崎義博、石上和也、小島剛、中川博志

9日(土) AKJ メンバーの到着。準備など。歓迎とワーク/サン・マクシマンのアラン・ディオ宅と、サン・フィランのバール宅で。連絡先・・・C/O Mr. Barre Phillips /Tel.33-9448-5750 /BarMare@compuserve.com/
10日(日) ワーク/
11日(月) ワーク/
12日(火) マルセイユ訪問とワーク/La Friche、古い港、le Pharo、画家のアトリエ/展示の組立/アルハンブラ劇場/日本総領事館にてディナーパーティー/
13日(水) マルセイユ訪問とワーク/La Friche、古い港、le Pharo、画家のアトリエ/展示の組立/アルハンブラ劇場[2部] 発表/
14日(木)~16日(土)/アルハンブラ劇場でアクト・コウベ・フランスのアーティストとのセッションパフォーマンス/プレス会見/展示・・・1996年以来の作品と、現在の工房でのもの/記念日写真/映写・・・フィルム、ビデオ、CD ROM/リサイタル・・・音のポストカード、CD/移動する創造工房の公開と、子供アトリエ/コンサート/パフォーマンス/アジアの文学のプレゼンテーション/
17日(日) 午前:イベントについてのセッショントークと今後の展開について(非公開)/
18日(月) マルセイユ→ベルン/
19日~21日 ベルン、トゥーン他でパフォーマンス/連絡先・・・C/O Peter Klatt /41-(0)31-372-7489/ C/O Mr. Hans Mueller/41-(0)79-206-1371/
22日~23日 パリ/連絡先・・・C/O HENRI TOURNIER /Tel. 33-1-4806-0139/
24日 パリ~ソウル/
25日 ソウル~関西空港

 

■1月31日(日)/あしゅんライブ/神戸

■2月6日(土)/イヴニング・ティー・パーティー/ジーベック/フランソワーズ・ブレ、角正之、川崎義博+中川博志

■2月20日(土)~24日(火)/香川大学教育学部集中講義

 またまた、うどんが食えるので楽しみ。