「サマーチャール・パトゥル」30号2003年12月31日

  本格的に寒くなってきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 この通信も30号目となりました。第1号が1988年1月23日(わたしの38回目の誕生日)ですから、15年続いたことになります。ま、長いともいえるし、あっという間ということもできます。ようやるわ我ながら、ではあります。

 加齢による時間加速度傾向がますます大きくなってきました。スペースシャトル・コロンビア空中分解、有事関連法案成立、阪神優勝、中国初の有人宇宙船、イラクの日本人外交官2人殉職、たばこ値上げ、フランスで10,000人熱波死、イラク戦争、サダム拘束、少年犯罪、総選挙・・・などなど、世の中は今年もいろいろありました。また、個人的には、東南アジア4都市、山形方面、長崎方面、イギリスと旅の多い年でした。

『生命40億年全史』(リチャード・フォーティー)という分厚い本を読みました。生命が誕生してから人類出現までを記述したものです。われわれホモサピエンスは過去3万年間に世界中に広まりました。そのずっとずっと前に1億年間も生きていた恐竜たちに比べればまだたったの3万年です。その3万年と比較すると、わたしの年齢である53年という時間も、ましてや西暦2003年の1年間なんていうのもほとんど一瞬に近い。そんなことを考えると、ブッシュがどうのコイズミがどうの年金がどうのサダムがどうの自衛隊がどうの金正日がどうのというのがふとどうでもよくなります。

 ともあれ、以下は、そんな、もっとどうでもいい個人の些末な出来事です。

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◎これまでの出来事◎
2002年12月28日(土)~2002年12月19日(金)
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■12月28日(土)/宝地院大学忘年会

 冴えているとはいえない駄洒落を連発し、西洋声楽を原語で歌うことが好きだった元須磨こども病院院長、玉木健雄さんが今年(2003年)の8月15日に亡くなったと聞かされました。この忘年会の常連でした。

 

■1月3日/植松奎二家麻雀

 とても元気になっていたチューサンこと榎忠さん、一風堂の宮垣さん、久しぶりの島末さんが参加。宮垣さんが一人勝ちでした。

 

■1月6日(月)/神戸山手女子短大後期講義

 PRは、Public Relationの略で、広報という意味で使われています。で、学生にPRは何の略かと尋ねたところ、案の定だれも分かりません。じゃあ、パブリックというのはどういう意味かと尋ねても同じでした。ちょっとショックでした。この話をある教授に申し述べる と、「今の学生はそんなもんですよ。この間なんか、タイセキって何ですか、と聞く学生がいた。体積ですよ。かなり落ち込みましたよ」。

■1月15日(水)/CAP HOUSE展覧会「Party」初日パーティー、植松奎二+渡辺信子、榎忠

 この展覧会は主に関西在住の現代美術家の作品展示をCAP HOUSE全館で行われました。麻雀仲間の植松奎二さんもその出品者の一人でした。植松家の拓ちゃんや奥様のノブチャンこと渡辺信子さんも出展しました。拓ちゃんの、イノシシの剥製に翼をつけた作品が強烈でしたね。

 やはり出展者で元気になってきた榎さんもうどんを打って大人気でした。

■1月16日(木)/天理へ打ち合わせ

 西宮市主催の音楽セミナー「雅楽とインド音楽」に出演を依頼していた天理大学の佐藤浩司先生との打ち合わせで久しぶりに天理へ。研究室での打ち合わせの後、同じ棟に研究室のある堀内みどりさん、長いボンベイ生活から天理に引っ越してきた佐々木則夫さん、めぐみさんらと近くの中華料理屋で食事をした後、佐々木宅にお邪魔し、相変わらずやたらと明るいめぐみさんとおしゃべりでした。ボンベイ赤ちゃん時代を知っているなおこちゃん、誠君もでかくなりました。

■1月18日(土)/阪神淡路大震災メモリアル・コンファレンス/海洋科学博物館、神戸

 ギャラリー島田の島田さんからの紹介で演奏依頼を受けました。このコンファレンスは、防災上の観点から被災者の証言を記録するために京大の防災研究所などが中心となってずっと行われてきたものです。

 神大学生の息子を亡くした広島在住の母親の証言などを聞いてから演奏したので、音を出した途端、当時の記憶が甦りなかなかにタマシイのこもった演奏になったかも知れません。

 このときはあらかじめシンセサイザーで作ったドローンの音を背景に演奏しました。この演奏が、のちにCDを作るきっかけになりました。

 

■1月19日(日)/AKJ新年餅つき大会/CAP HOUSE

 2001年の大きなイベント以来、これといった活動をしていないアクト・コウベの久々の集まり。ダンサーの角正之さんの発案で餅つき大会を敢行しました。つきたての餅はなんといっても、うまい。

 参加者は、角正之、佐久間+ウィヤンタリ夫妻、中西すみ子、龍神悦子、白井廣美、石上、東野健一、下田展久、原久子、江見まりとヒロシ、CAPの山村、渡辺、杉山知子、鳴海、大野裕子など(敬称略)。

■1月20日(月)神戸山手女子短大後期講義

■1月24日(金)/プレラホール打ち合わせ

■1月25日(土)/「Party」/HIROS居酒屋/CAP HOUSE

 土曜日恒例のCAP HOUSE宴会。今回は関西在住作家による展覧会が行われたので、大勢の人が見えました。榎忠さんは大砲をぶっ放しました。わたしは、居酒屋のオヤジ。この日のメニューは、大根ナムル、ニンニクの芽とツナの炒め物、きのことキムチの炊き込みご飯、キムチ、ナムル(わけぎ、モヤシ、ホウレンソウ、大根)、きんぴらゴボウ、タコ、キューリのピリ辛炒め、みずなの煮物、イカ・フェ、菜のはなチキン。どれも大人気でした。植松奎二一家、久しぶりの「オール関西」の中村雅子さん、磁器制作の金女史、永田尚子さん、三木ときよさんなど。CAP HOUSEにはめったに顔を出さない引きこもり久代さんは、大量「人当り」でちょっとダウン気味でありました。

■1月27日(月)/神戸山手女子短大後期講義

■2月11日(火)/CAP HOUSEレコーディング

 購入したM-Boxをしきりに自慢するCAP HOUSEの下田さんの「やろうやろう」で、レコーディングということになりました。結局この録音がきっかけでCDを作ることにしました。

 真冬のCAP HOUSEは寒い。石油ストーブに手をあてながら、ジーベックから無償でお借りしたマイクに向かっての演奏でした。彼の自慢通り、アナログをデジタルに変換しプロ・ツールで編集できるM-Boxはたいしたものです。

■2月14日(金)/第7回音楽セミナー「アジアの音楽」/雅楽とインド音楽、雅なるその拍子とリズム/西宮市プレラホール、西宮市/企画制作:天楽企画/クル・ブーシャン・バールガヴァ:タブラー、藤井千尋:ハールモーニアム、HIROS:タンブーラー、天理大学雅楽部:雅楽、中川博志+佐藤浩司(天理大教授):解説、進行

 この企画は以前ジーベックでもやったものです。雅楽の拍子には、珍しい5拍子や6拍子があります。インドのようにきっちりと刻まれるリズムではなくなんとなくずっこける感じなのですが、そのずっこける雅楽の5拍子とインドの10拍子ジャプタールを合わせたのはなかなかに面白かった。雅楽の林邑楽はかつては天竺楽とも呼ばれていたように、もとはインドの音楽に近かったと推測されますが、日本に伝わってからすでに1000年以上経っています。微妙なずっこけは1000年のずっこけともいえます。きっちりとしたリズムを打つブーシャンは、なんだこりゃ、と思いつつ演奏していたようです。天理大の雅楽演奏と舞も完成度が高く、また佐藤先生の解説がとても分かりやすかった。

■2月18日(火)CAP HOUSEレコーディング/クル・ブーシャン・バールガヴァ、下田

 11日のソロのレコーディングをした後、どうせなら別の分も追加してCD1枚分の録音をしようということになり、ブーシャンにも参加してもらいました。結局このときの録音の分を合わせてCDを作り、5月に発売したのでした。

 それにしても、下田さん自慢のM-Boxはすぐれものです。たとえば2小節そっくり採り直してつぎはぎするなんということが実に簡単にできてしまうのです。プロ用のスタジオでしかできなかったことが、たった数万円の機材でできてしまう。

 録音が終わってCAP HOUSEを出たとき、イノシシがとととととと道路を横切りました。なにか、いいたかったのかなあ。

■2月21日(金)/世界の民族楽器紹介ワークショップ#18 狂言/講師:善竹隆司、善竹隆平

 楽器の紹介というよりも、狂言の演技を主としたワークショップになりました。

 中腰でなかなかにくたびれる立ち方、笑いや悲しみの感情表現など、狂言は見た目よりもずっと洗練された演劇様式です。講師は神戸在住の大蔵流若手狂言師兄弟。立ち居振る舞いもきりっとした美形20代の隆司さんは強烈なプライドの持ち主です。いい加減なわたしにとって、彼との会話は腫れ物にさわるような緊張でした。リハーサルのときに間違って靴のまま舞台に上がろうとしてきつい叱責を受けてしまった。ワークショップのスムーズな流れや子どもたちに対する分かりやすい説明はさすがです。当日は「盆山」をやってもらいました。

■2月23日(日)/CAP HOUSE/レコーディング編集

■3月9日(日)/林佐起子+駒井家宴会/ピエンロー鍋

 林佐起子さんは、われわれが今のマンションに引っ越したとき登場しました。彼女は現在、カナダのビクトリアに近いコーテーズ島にご主人のリードと住んでいます。同じマンションの彼らの部屋の借り手がなかなか見つからないので来日したのでした。そのときの宣伝が功を奏し、現在はイスラエル人の大学院生が住んでいます。せっかくの来日なので、義弟の駒井夫婦と一緒に宴会をしました。

 

■3月8日(土)/ギル・スティーヴン個展

 2月に録音したものをCDにしたいと宣言したら、強烈な応援が得られることになりました。全体のデザインがグラフィックデザイナーの江見洋一さん(CAP代表の杉山知子さんの配偶者)、表紙の絵を東野健一さん、写真が加納君と鳴海君。録音・編集が下田さんなので、オールCAP HOUSEスタッフです。その打ち合わせの前に、住吉の小さなギャラリーで個展をしていたギル・スティーヴンに会い、彼の12ヶ月をテーマにした美しい石の作品を見ました。

 

■3月9日(日)/あしゅん最終ライブ/クル・ブーシャン・バールガヴァ:タブラー、寺原太郎:バーンスリー、林百合子:タンブーラー、HIROS:バーンスリー

 インド音楽演奏愛好者の希少な発表の場となってきた「あしゅん」が閉店することになり、その最終ライブでした。

 東京の下北沢時代から知っている店だけに感慨深いものがあります。「あしゅん」から羽ばたいていったミュージシャンはたくさんいると思います。世の中は不況で閉店は仕方がないとはいえ、残念なことです。

 閉店するぞと宣言したらやたら忙しくなった、とは店主のサキさん。

 明日から取り壊しという本当の最終日となったこの日も、店内に入りきれないほどの満員でした。演奏は、最近活躍めざましい寺原太郎君とのバーンスリーデュオとブーシャンのタブラー。彼の進歩は著しく、元シショーであるわたしはとてもうれしかった。大阪を引き払って関東方面に本拠を移した彼は、今ではわたしよりもずっと旺盛な演奏活動を行っています。

 岩崎咲子さんことサキさん、長い間本当にありがとうございました。

 当日は、わざわざ東京からふるうちあやさんも見えました。彼女は「チケットあや」なる個人通信を出しています。

 さて、客の一人に北九州からやってきた青年がいました。20代前半の松本学君です。バーンスリーを習うためにはるばるやって来たのです。ライブの終わった後も店に残っていろいろ質問をしてきました。

 帰るころに「ところで、今晩どこに泊まるの?」と聞くと「決まっていません」と飄然と申し述べる。その時間から宿泊先を探すのは難しいし、いかにもゼニもなさそうでした。仕方がないので我が家にしばらく居候ということになりました。二日ほど泊まったのですが、そのころは久代さんの書き物仕事がせっぱ詰まっていて、彼が泊まっているとなかなかに難しい。

 そこでウィークリーマンションを探してそこから通ってもらうことにしました。彼は1週間ぶっ通しで基礎練習を行った後、紹介した奈良の岡本寺でちゃっかりとさらに居候をして、北九州へ帰っていきましたが、近年まれにみる根性青年でした。

■3月16日(日)/井上想来宅

 松本君弟子入り来宅にもびっくりしましたが、今度は東京からやはり20代前半の井上想君という青年が弟子入りしたいとやってきました。習うために現在の東京から神戸に移り住む、などと大きな声で申し述べる。続けてこの種の青年が現れるというのはどうしたわけか。いずれにせよ、その後彼は神戸の安アパートに移り住んできてわたしのところに通ってきています。

■3月17日(月)/CDジャケットデザイン打ち合わせ

 CDジャケットデザインの打ち合わせのためにCAP HOUSEへ。東野さんには音源を渡し、それから浮かぶイメージを特別に描いてもらいました。素晴らしい表紙絵になりました。CAP HOUSEには本当に才能が揃っているのです。

■3月20日(木)/イラク戦争始まる

 CNNつけっぱなし生活が始まりました。まったく、なんという「戦争」なんだろうか。9.11テロの真犯人の特定もなしにアフガンをグチャグチャにし、さらには大量破壊兵器を持っているかも知れない、こっちがやられる前に叩くのだ、というムチャクチャな論理で高価高性能ミサイルをぼかすかとぶっ放し、神よ祝福あれと叫ぶブッシュというのはどういう人間なのか。また、そのブッシュをいちはやく支持したわがコイズミの卑屈な追従の背景にある論理の単純化には、かつてのマチガイを再び起こしそうないやな予感がします。また、そんな感じを抱きつつ毎日のニュースを消費するわれわれ自身のことも否応なく考えざるを得ません。湾岸戦争以来のお決まりのコメンテーターが登場し、推測と予断にもとづいた無責任な解説の垂れ流し状況が再開されたのでした。

■3月21日(金)/三木宅ホームコンサート

「呼吸を整え健康になるため」にバーンスリーを習っている三木ときよさん宅でホームコンサートでした。三木さんは、布を織るのが本職の女性です。サントゥールの宮下さんの追っかけをするくらいインド音楽が大好き。わたしよりもちょっと年上ですが、いろんなことに積極的でエネルギッシュなのです。その彼女の西宮の自宅マンションでライブ。中層マンション最上階の部屋で、ルーフガーデンや中庭もあるご自宅でした。お客さんは彼女の仲間たち10人ほど。わたしのレシピとスパイスセットによるカレーつきでした。

■3月22日(土)/ランドゥーガ/高槻幼稚園

 春眠をむさぼっているといきなり電話。「今、下に来ています。準備できていますよね」「えっ」「あっ、大場です。今日はランドゥーガですよ」「えっ、今日だっけ。明日じゃなかった?」「今日です。下にいますので準備してきて下さい」。

 完全に日にちを間違っていたのでした。

 というわけで、朝の恒例作業をやむなく割愛しランドゥーガの会場である高槻幼稚園へ向かったのでありました。

 ランドゥーガというのは、ジャズピアニスト佐藤允彦さんの提唱で始まった即興演奏のワークショップです。これがなかなか面白い。既成の約束事を一切取り払い、その場でどんな音を出しても出さなくともいい、というのはとても難しいものです。わたしのやっているインド音楽は即興とはいえ、すでに何度も練習しているパターンの組み合わせだし、構成も伝統によって枠組みが決まっています。しかしここでは、どの瞬間も予定調和から免れる必要があります。プロでもアマでも気軽に即興のセッションを作っていくためには、それぞれの持っている文法をまず忘れる必要があるわけです。ところが、そうやって音をみんなバラバラに出していくと混沌状態になる。他人の音を聴きながらそれに対して自分の音を出す。これはある種の会話であり、まったく知らない他人どおしが少しずつ理解していくプロセスです。佐藤さんはそのへんをうまく説明していきます。

 みんなでめいめいに音を出し少しずつ社会のようなものが作られていく様子がなによりも面白かった。頭人(とうにん)による「指揮」という形になると、その頭人の音楽的な個性が出てきます。これは、ある一つのまとまった音楽作品を作るというよりもそのプロセスを楽しむワークショップなのでした。もっとも、大半の人たちがランドゥーガ常連のようで、ランドゥーガ様式のようなものができつつあるような気がしましたが。

 幼稚園児の使う小さなイスに座って遊ぶという図式も微笑ましいものがありました。所沢からの山田雅世さんは、わたしのカレースパイスセットのファンなのですが、人に音楽をやらすのは得意でも自分で音を出すのはなんとも、ああくたびれた、と申し述べる。

 スタジオ73に会場を移しての打ち上げもなかなかに楽しかった。手作りの料理と佐藤さんの落語家やミュージシャンの話などで盛り上がりました。わたしのジョークや山形語もかなり受けました。

■3月29日(土)/法楽寺落慶法要/法楽寺、枚方

 七聲会メンバーの一人、清水秀浩さんのお寺の落慶法要に招かれ演奏しました。当日は、快晴でぽかぽかした陽気。新築されたお寺は、例年にない早い満開の桜を背景に赤地白抜きののぼりや、緑・黄・白・青の縞の旗がはためき、華やいだ気分が漂っていました。

 老人たち中心の檀家を前に、わたしの演奏の他、落語もありました。若い落語家の桂都んぼのとき、力が入ったためか仮設の演壇がメリッと崩れ、話にオチじゃなくてわたし自身がオチちゃあね、などといっていたのが印象的でした。

■3月30日(日)/近未来系築港赤レンガ倉庫VOl.3"サウンド&リラックス "/築港赤レンガ倉庫、大阪/ 横沢道治:打楽器、横川理彦:ギター、有馬純寿:エレクトロニクス、HIROS:バーンスリー、マッサージ・パフォーマンス:高橋加奈、成瀬知詠子、川瀬麻里、山川聡、裴香子、ビジュアル(脳波検出器&macintoshによるビジュアルエフェクト): 小島剛他

 なんともユニークというか、客にすれば一挙両得というか、マッサージつきコンサート。舞台の両側に配置された4脚のマッサージチェアに座り、マッサージ・パフォーマンスを施されつつ音楽を聞くというのはめったにない体験です。90人ほどの聴衆とわたしも含めた出演者、主催関係者もそれぞれ15分ずつのマッサージ体験をしました。気持ちよかったなあ。演奏者は、大阪で打楽器店もやっている横沢さんのジャンベ、Hacoのツアーのときに一緒だった横川さんのギター、初めてお会いした有馬さんのコンピュータとわたしのバーンスリーで、それぞれ30分ずつ。発案者の小島君は「中川さんのはモロ癒し系だからなあ。ずるいともいえるなあ」と申し述べる。

 築港赤レンガ倉庫は、がらんとした倉庫空間を使ったさまざまな現代アート、実験音楽などユニークな発表の場として注目されてきています。まあ、性格はかなり違いますが、CAP HOUSEの大阪版といっていいかもしれません。大阪市もなかなかに粋なところもあるようです。

■4月4日(金)布野君レッスン

 関東に移った寺原太郎君から、自分が大阪で教えていた生徒を引き継いでほしいということで、二人の青年たちがわたしのところに通ってくることになりました。大阪芸大の布野真二郎青年にはバーンスリーを、西澤輝彦君には声楽の基礎を教えています。で、その布野君の初めてレッスンでした。

 

■4月8日(火)/仲源寺ライブ/仲源寺(めやみ地蔵)、京都/七聲会:聲明、HIROS:バーンスリー、近藤忠:コンピュータ、映像

 昨年から加わったコンピュータの近藤さんが、今年は七聲会の聲明に音に映像も加えたので新しい感覚のパフォーマンスになりました。仲源寺のご本尊に照らされる川の水の流れや山々の映像が新鮮でした。

 ところで、そのあたりに11月のイギリスツアーの助成金を申請していたローム音楽財団から、今回は残念、という返事が来ていました。イギリスのプロモーターはすでに各地の主催者にあたってぼちぼちと公演地も決まってきていましたので、さあ、どうしよう、自腹でもいくか、いや止めようか、という話題になりました。お坊さんたちは、めったにないことだから行こうというふうに固まりつつありました。

■4月9日(水)/春之夜の舞打楽暦/酒心館、神戸灘/斉藤徹:コントラバス、ミシェル・ドネダ:サックス、角正之:ダンス、久田舜一郎:小鼓、龍神悦子:舞台美術/フセイン政権が崩壊、バグダッド陥落

 かなりゴージャスな馴染みの出演者たち、そして馴染みの観客でした。99年にフランスの田舎でバール・フィリップスとの演奏を聴いたサックスオッサン、ミシェル・ドネダの落ち着いたハチャメチャぶりも健在でした。徹さんと角さんの組み合わせはとてもよかった。空間が動いていました。もっとも、動いて見えたのは酒心館提供利き酒の影響も多少あったかも知れません。骨董品のような古い振り子時計を舞台に配置したのは、龍神さんのアイデアでした。「あの時計の配置はよかったね」とメーリングリストで角さんに書いたら「あれは、わたしなの!!」とエッチャンが反論。

 などといっているこの日、米英軍がバグダッドに進軍し陥落、フセイン政権が崩壊しました。

 

■4月10日(木)/井上想レッスン

 人が来るときは一度に来るものです。井上君のレッスンが終わったころ、もうじきアジア貧乏旅行にでかけるという甥の仁史君がやってきて夕食を食べていると、曽我さんから「今から麻雀にいくぞお。幸田さんもいっしょや。ええやろ」との電話。曽我さんの麻雀押し掛けは常にイキナリなので油断ができない。

■4月12日(土)インド文化センター第143回例会/大阪科学技術センター(605号室)/「北インドの宗教音楽を訪ねて―ムスリムとヒンドゥー―」講師:田中多佳子(京都教育大学助教授)

 江戸から京都に住み始めた田中多佳子さんの講演はとても面白かった。われわれも彼女と同時期にインドに住んでいましたが、知っているつもりでも知らないことがずいぶん多いものだと気づかされます。

 参加者はほとんど旧知の人たちでした。わたしもこのシリーズで一度話をしたことがあります。講演の後、梅田丸ビル地下のインド料理店「アショカ」で打ち上げでした。参加者は、主催者である大麻さんや古坂さんの他、ヨーガの三浦寛子さん、元東方出版の板倉さん、コルコタで長年日本語教師をしているニガム夫人、枚方の並木さんと上原さんなど。

■4月13日(日)駒井家宴会

 鳥取大学学生である甥の仁史君が、半年以上のアジア放浪旅行に出るというので西明石の駒井家で歓送宴会でした。彼の考えているコースは、上海から鉄道やバスでラオスへ抜け、ベトナム、カンボジア、タイそしてインド。まだSARSが下火になっていなくて、家族はみな心配顔でした。ともあれ、6月ころにはラオスあたりにいそうなので、ひょっとするとAFOツアーで行っているわたしとも現地で会えるかも。

 その仁史君の母親の恭子さんが永年勤めた小学校教師をリタイヤしました。

■4月14日(月)/幸田、一鷲氏来宅

 麻雀いきなり勧誘的曽我さんにたいてい強引に誘われる建築家の幸田さんが、一鷲氏を伴って来宅。一鷲氏というのがなんともあやしい人物。ひょろっとして顔色があまりよくなく、長い髪を後ろに束ね頭蓋骨密着毛糸帽子の、ほぼ同い年の中年男性。ラミ中の芸術授業がどのこうのというのが訪問主旨のようでした。

■4月15日(火)中央市民病院

 4月7日に大腸の内視鏡検査をしました。んこに鮮血が混ざっていたので心配して検査してもらったのです。かつてあれほどの快感を味わったことがあるだろうか、というほどの快感は、もちろんなく、マスクをかけた若い看護婦に促されるまま横たわったと思ったら若い医者がいきなりぐりぐりっと肛門に手を突っ込んでぐいっと抜いてから、じゃあ、始めますから、と明らかに手ではないひんやりとした器物がにゅるにゅるっと挿入され、肛門周辺とS字カーブあたりで下腹につつっと収縮痛が走り、腸内ゴロゴロ感が腹部を移動していく感覚は、あれは、やったものでなくてはわからないであらふ。盲腸に達したころ、もう一人の医師が、そこ、ちゃうやろ、ケイシツちゃうか、そうそう、そっちかも、ん、そうそう、などという会話を聞いているうちに、もう終わりますからという間もなく器物は体外に出、件の若い看護婦から尻をフキフキしてもらったのでありました。結果は、なあーんもなくノープロブレムでした。ケイシツというのは、袋だそうです。憩室と書くそうで、要はんこが憩う部屋なのです。あまり休憩して欲しくありません。憩室のある人は普通にいるそうで一安心。ちょっと不明な腫瘍も出来物も奇形もないのだそうです。以前、胃カメラで十二指腸の入口まで見たので、小腸のグネグネ以外は一通りなかも見たということになりました。われわれの体は一本のくだなんです。ところで、わだすの尻をフキフキしてくれたお姉さんは、フキフキ専門なのか、ああやって毎日、いろんな人の尻をフキフキするというのはどんな気持ちなんだろうか。また、内視鏡専門家も毎日毎日、同じように人のコーモンに器物を挿入することにどのような職業的な喜びを得ているのであろうか、とふと帰り道に考えたのでありました。

 で、検査の結果は、高脂血症、軽い肝機能障害、憩室と診断されました。病気というほどのことではないのですが、油の少ない食生活と運動がこれからの課題です。

 

■4月22日(火)山形

 JAL早割りを使って夫婦で山形の実家へ行ってきました。特別な目的はありません。JALの山形便は頭をぶつけそうな天井の低い小さなジェット機です。

 ちょっと雨模様の山形で桜が満開でした。この時期に山形へ行くと花見を2回できます。

 また家の片づけをやるのではないか、と母親が恐れていたので今回はやめにしました。

 わたしが帰省するというので、赤湯の維新塾のメンバーと花見宴会になりました。会場は中華料理屋「小龍姫」。参加者は、写真の佐藤憲一さん、セーター製作業の鶴沢さん、建築士の今野さん、市役所の熊坂さん。二次会は、長井高校同級生の神尾君がやっている焼き肉屋「甚八」。昔話で盛り上がったころ、「津軽じょんがら節」などで有名な映画監督の斉藤耕一さんと市役所の渡部俊一さんが合流しました。斉藤さんは、1929年生まれですから74歳になるはずですが、髪も黒いし、お顔の艶も話の切れ味もよく元気な人でした。聞けば、わたしの生まれ育った吉野を舞台とした映画を制作中とのこと。資金難で中断を余儀なくされていたが再開するということです。秋口には完成の予定といっていましたから、もうできあがっているかも知れません。

■4月23日(水)/両親からインタビュー

 実家の近所にある「烏帽子庵」で山菜テンプラつき田舎蕎麦を食べた後、両親へのロングインタビューをしました。

 インタビューをした理由は二つあります。

1.山形語とくに置賜語のほぼ完璧な話者である二人の

 語り口を記録すること。東京語の侵略によって著し く衰えてしまった山形語は、彼らの世代でその純粋 さが失われるのはほぼ間違いありません。

2.わたしが生まれる以前の両親のことを知ること。自

 分の幼児期から思春期には常に親はいるので彼らの 歩みというのは分かりますが、それ以前のことは意 外に知りません。

 彼らの子供時代、青春時代、結婚にいたる経緯などを根ほり葉ほり聞いてみると、下手な小説よりも面白い。また、どう聞けば話を中断せずに続けてくれるかという勉強にもなりました。それぞれ2時間ずつほどを記録したMDは、ひまなときにおこしてみたいと思っています。彼らはもう80歳に近いのですが、60、70年前のこともけっこう記憶しているものです。どんなことを聞いたかというたとえばこんな感じでした。

 珪肺のためときおりボンベの酸素を吸いながら答える父親に「満州のジャムス駅について、まず何を食べたのか」と聞く。

 父は、まだ10代後半のころの自分を想い出し「んだなあ、握り飯とみそ漬けを食ったかなあ」「うまかった?」「んー、んめがったなあ」と答える。

 母親には「お兄さんたちが戦死して田圃の世話をせざるをえなかった」「まだ10代だよね」「んだ。田圃仕事なんて、やんだったごでえ(いやだった)」「じゃあ、何をしたかった?」「髪結いしたかったな。鉱山の仕事で重だいもっこかつぎもやんだった」「弁当はメシと梅干しだけ?」「んだ、そういうどきもあった。あどは、しょっぱあい塩マスついでっとぎもあったな。あれはしょっぱがったなあ。ごっつぉおだったげど」。

 インタビューをやってみて思ったのは、聞かれるとはどういうことかということです。息子のインタビューを受けている両親は嬉々としてしゃべり続けました。その嬉しそう両親をみるのも嬉しいものです。それは、聞かれるということは愛されていると感じられるからかも知れません。

 考えてみれば、だんだん人間関係が少なくなってくると、こんな風にまともに個人的なことを聞かれることはめったにないのです。かつては、好き嫌い関係なしに多くの家族が同じ屋根の下に暮らしていて、世代間の会話も多かったはずです。ところが、いまや息子たちは遠いところで自立してめったに会わないし、隣近所の関係が都会よりも密とはいえ必要以上の会話にまで発展することはない。また、それなりにプライドがあるのでこちらから厚かましく他人に話しかけることもままならない。両親に限らず老人というのは淋しいものなのでしょうね。とくに幼少から労働力として期待され、最も必要な時期にまともに親たちから愛情を注がれたわけではないわたしの両親のような人たちにとっては。年寄りになったら息子娘や孫たちに愛されると期待しつつこれまで生きてきてたものの、肝心の息子娘孫たちはみな遠いところに住んでいる。

 母親が不要なモノをどんどん買い続けるのも、きっとこの聞かれることと関係あるのだと思います。母親に聞くと、どこそこの営業の人はとても親切で、腰が痛い、肩が凝るというとその原因をじっくり聞いてくれ、次に来るときはちゃんとそれを覚えていて、オバサン、○○にいいクスリがあると教えてくれるそうです。自分のことを親身になって考えてくれる、と思っちゃうんでしょうね。それでつい、その人との関係を続けたい、つまり聞く人がほしいから要らないものでも買ってしまう。

 よく、虎の子の現金を全部だまし取られた老人なんてのをニュースで耳にしますが、きっとその辺をちゃんと分かった上で巧みに老人たちの話を聞いて最後に騙すんでしょうね。ニュースになるくらいだから、それほど淋しい老人たちが多いということか。

 オレガオレガと自分のことだけをしゃべる人間が多くなってくると、この、聞く、というのはとても大事なことかも知れません。そのうちプロの「聞き屋」というのも現れないとも限りませんね。

 会話の土俵を自分の方へもっていこうとする、自分のことばかりをよく話す、一般的な話題から始まっても必ず自慢へ収束させようとする、聞いているそぶりをみせながら実は自分のいいたいことを考えている、なんてことは慎んで、なるべく人の話を聞くようにしたいものであります。われわれは、他者の話を聞けばなにかしら学べますが、ものをしゃべっている間はなにも学べないんですよね、それに。と、両親インタビューなるものをしてみていろいろと自戒させられるものがあったのでした。

 

■4月24日(木)

 実家の近所のスーパーで、雪割り納豆、玉コンニャク、おみ漬けを購入して戻ると、中山町に住む叔父が来ました。われわれを空港まで送ってくれるためです。たまに空港までいってみっか、ということで両親も一緒に空港へ。途中、谷地の蕎麦屋、いろは本店で「肉そば」(冷たいスープに蕎麦と鶏肉)を食べました。これが絶品のうまさでした。山形の蕎麦屋のアイデアは底知れぬものがあります。「いやあ、うまかったなあ」といいつつ、われわれは再び天井の低いジェット機上の人となったのでありました。

■4月25日(金)御忌大会/知恩院、京都

 法然上人命日の御忌大会で、大光寺および仲源寺および来迎寺住職かつ七聲会代表である南忠信氏が御当日導師を務めるということで、知恩院へいってきました。われわれは信者でも檀家でもありませんが、檀信徒300名ほどの一員という身分で招待を受けたのです。受付はほとんどが七聲会メンバーでした。以下が式次第です→大衆調読整列、御導師出座、大衆入道、奏楽、御門主御昇殿、唱導師昇殿、御門主登高座、止楽、前伽陀(唱導師高座)、開経偈、散華、唱導、表百、黙読、発願文、黙読、「一枚起請文」、後伽陀(唱導師下高座)、唱導師退殿、念仏、奏楽、御門主退殿、大衆退殿、参拝者退殿、古経堂にて御門主猊下より御十念、記念写真、御祝膳(若竹湯葉饅頭・穂付竹の子・ぜんまいの粟麩しのだ・金箔ぶどう豆・椎茸・蕗の煮物、薩摩芋・磯辺とろろ・花蓮根・三度豆・おくらの天麩羅、加茂茄子・上人麩レモンはさみ・赤梅甘露・おくらの田楽、せりの白和え、胡麻豆腐、奈良漬、吸い物、ご飯)。最後に大殿前で全員集合記念撮影でした。この日から、南さんは「長老」ということになりました。漢字がずらっと並んでいるとすごい儀式のように見えるでしょう。実際、大変なエネルギーの要る儀式でありました。南さん、ご招待ありがとうございました。そしてご苦労様でした。

■4月26日(土)/佐久間、ウィヤンタリ宿泊

 CAP HOUSEのワークショップを終えてやって来た佐久間君、ウィヤンタリと、彼らの調理したジャワカレーの残りを食べていると、麻雀いきなり勧誘的曽我さんが、幸田さん、息子の弾君を伴ってやはりいきなり来宅し、いやおうなく麻雀なのでした。

 このころ久代さんは、翻訳を始めたので「1ヶ月間家事一切休止、翻訳集中だあ」と宣言していました。以来4週間、家事はわたしの担当となりました。そのときに彼女が始めた本は、9月ころ出版され書店に出ています。日経や朝日にも広告が掲載されていましたが、書名は彼女の意向で秘密。訳者名もペンネームなのでどんな本か皆さんにはわからないでしょう。念願の翻訳の仕事にありついたわけですが、毎回こんなふうに宣言されたらたまらんなあ。ということで、いきなり来訪の曽我組と佐久間組のケアはわたしに集中することになりました。 

 

■4月30日(水)/CD到着、高野山

 2月に制作を始めたCDがようやく完成し、高野山に出かける直前に我が家に届きました。1000枚、すごい量でした。

 CD「Nadi」制作で録音に関わった作曲家の上田益さんと1泊2日の高野山訪問。お爺さんである上田天瑞氏が成福院住職でかつ高野山大学学長だった関係で、実は上田さんは高野山育ち、成福院はいってみれば彼の実家のようなもの。

 高野山の宿坊では、住職のことを上綱(じょうごう)さんと呼びます。成福院の現在の上綱さんは仲下瑞法さんで、上田祖父の弟子だったということです。その上綱さんみずからケーブル駅まで向かえに来られました。気さくなオジサンという感じです。成福院には、まだ高校生の初々しい岡崎天宥君の他何人かの修行僧が住み込みで宿泊客の世話をしていました。

 かなり大きな宿坊の一室に通され荷物をおいたわたしは、小雨のなか一人で奥の院まで散歩。墓石と杉木立に囲まれた薄暗い石畳の道にはまったく人気がなく、小川の水音だけが聞こえます。奥の院でも数人見かけただけでした。

 高野山の宿坊の食事は普通は精進料理ですが、その日はお寿司や刺身に上綱さんとっておきの焼酎という、お坊ちゃん特別メニューなのでした。上綱さんにできたてのCDを手渡し、上田さんと三人で飲んでいるところへ、津山からやって来た岡崎君のお母さんのエッチャン51歳と、オダギリジョーの母親という奈津江さんが加わりにぎやかな宴会になりました。テレビドラマなどで活躍しているらしいオダギリジョーという人はまったく知りませんが、そのお母さんはやたらと笑う女性でした。テレビドラマの音楽なども手がけている上田さんは、奈津江さんとギョーカイっぽい話もしていましたが、わたしにはちんぷんかんぷん。別れた夫や一人で育てた息子のことなど、宴会の主話題は奈津江さんでありました。

 上綱さんとは、上田さんの子供時代のことやお爺さんのこと、高野山町と橋本市の合併問題、ビルマの仏教界の話などになりました。彼はたびたびミャンマーに行くとのこと。わたしがAFOで6月にヤンゴンへ行くといったら、もし何かあったらこれこれの人にいえばいい、向こうではエライ人だからといってました。この宿坊の玄関門の横に大きな「ビルマ戦没者慰霊塔」があった理由が判明しました。

 翌日は広い浴槽で朝風呂を浴び、隣の宿坊大円院の藤田光寛さんを訪ねました。藤田さんは以前からいろいろとお世話になっている高野山大学の先生です。その藤田さんにCDをお渡しし、逆に生麩の土産をいただいたあと、上田さんと快晴の高野山を後にしました。

■5月2日(金)/CD発送

 メール予約をもらっていた人たちへのCD発送作業。100枚近く発送しましたが。家の中ががぜん家内制手工業の工場のようでした。

■5月3日(土)/明石の両親と三ノ宮の「燦」で昼食

■5月5日(月)/ガムラン・デパート/CAP HOUSE/マルガサリ:ガムラン、佐久間新+ウィヤンタリ:ジャワ舞踊

 マルガサリが初めてCAP HOUSEでワークショップとコンサートを行いました。ワークショップのときは、前に座っているわたしを見た真さんがいきなり指名しポリバケツを叩くはめになりました。聴衆は50名ほど。

 真さんの新しい本を購入。なんと小説です。彼はサウンド・アートの教科書を出すといっていたのに、この小説に忙殺されていたらしい。タイトルは『sawa sawa』。高橋ヨーコさんのバリ島の写真とセットになったかっこいい本です。小説の中味をいえば、登場人物の描写にもっと肉付けがほしかったところですが、それなりに楽しめました。今度はもっと長いものを書いてほしいところです。

■5月11日(日)/CD完成記念大宴会/CAP HOUSE

 CD制作にお世話になった人たちへのお礼を込めた宴会でした。参加者は、江見、下田、加納、ポカリ、あきゑ、TOMO、チラッと下田雅子夫人、ナルミ、大野裕子、中西すみ子、岩淵拓郎、渡辺仁、井上想(敬称略)。

 めっきり顔色を悪くしていた東野さんは欠席でした。あまりに体調の悪かった彼は、みんなの勧めとカンパで精密検査をし、内臓ポリープとごく初期の大腸ガンが見つかりました。この検査を機に彼は健康保険に加入しました。今はすっかり元気で全国を飛び回っています。

 当日のわたしの作ったメニューは、以下。かつおの韓国風刺身、ジャージャンきしめん、山形・丹野の玉こんにゃく、わらびおひたし、雪割り納豆大根おろし添え、生麩、ブタキムチ、小松菜のベーコン炒め、アスパラのオイスターソース和え、湯豆腐、きな粉餅、あんこ餅。われながらようやるわ。

■5月19日(月)~24日/HIROS+ブーシャン・5月ライブツアー

●19日(月)

 伊丹から低い天井のジェット機で山形空港へ。空港近くに住む叔父宅でコーヒーをいただいたり庭の自慢話を聞いたりした後、赤湯まで乗せてもらい、その日は実家に宿泊。地元維新塾の人たちと神尾君の焼き肉屋「甚八」で宴会。参加者は、佐藤憲一さん、熊坂さん、市会議員をやっている須藤さん、神主の一戸さん、花屋の柿間さんなど。赤湯でライブを作ってほしいと維新塾にお願いしていましたが、みな忙しく宴会のみとなったのでした。酒の飲めないブーシャン宴会楽しめぬの図の始まりでした。

●20日(火)

 次の日は、朝早く須藤さんの経営する「行き帰りの宿 滝波別館」で温泉に浸かり、実家近くのツツジ満開の烏帽子山公園を散策。佐藤写真館でお茶をいただいた後、わたしが世界一だと豪語するラーメン屋へいきました。

 開店30分前にはわれわれ二人だけだったのがどんどん人が集まり、開店時には20メーターほどの列ができていました。福島から来た、という若い女性のグループもいました。最近少しずつ日本食になれ、とくにラーメンに目覚めたブーシャンも、わたしの誇る龍上海の赤湯ラーメンに大満足でした。

 赤湯駅から電車で山形へ行き、そこで鶴岡行きのバスに乗り換えでした。バスの発車まで時間があったので、叔母のラーメン屋「月美八」でしばらく叔母と談笑。相変わらず叔母は元気でよく笑う。日本語とくに山形語も分からなくかつビールも飲めないブーシャンには、待ち時間がないようにちゃんと交通手段をアレンジすべきだなどとお叱りを受けてしまった。どんな状況になっても楽しめるわたしと違い、ブーシャンはどうもだめなようです。食べ物の制約といい、その殿様的受け身的姿勢があるかぎり日本で生き残っていくのは辛いだろうなあ。もうちょっと彼の頭を柔らかくしていく必要があるようです。

 高速道路が開通したので、山形から鶴岡までは100分で行けるようになりました。まだ雪の残る月山を見上げつつ走る高速バスの旅は快適です。

 待ち合わせ場所の「庄内観光物産館」のバス停には、今回のライブをお世話してもらった漆山さんが待っていました。その漆山さんの車で、明日のライブの音響を担当する米山さんのスタジオを経て彼の店、大松庵へ向かいました。大松庵へ来るのは、99年10月にお店のライブをして以来でした。しばらく店で休んでから、その日の宿泊先であるユースホステルへ。

 日当たりの悪そうな山間に建つユースホステルは、ちょっと変わったデザインの古いコンクリートの建物。ここの管理者である若い菊地夫妻に、それぞれの個室に案内される。

 山形大農学部で森林生態学を学んだという菊地さんはおとなしそうでいてけっこう頑固なエコ派という感じの青年でした。われわれ二人だけのために出された料理は、量も質もやさしいものでした。

●21日(水)/余目町

 昨晩もよく眠れなかったよ、とブーシャン。ものすごく早起きして時間をもてあましていたらしい。初めての二人旅で緊張していたのかも知れません。

 夕方のコンサートまでは時間があるので、漆山さんの車で庄内観光に出発しました。まず近くの日本海で磯の香りをかぎ、羽黒山へ。

 この低い山は、月山、湯殿山とならんで出羽三山と呼ばれています。山自体がご神体で、うっそうとした杉木立のちょっとヒヤッとする参道を降りていくと、真っ赤な欄干の木の橋、滝、ひなびて美しい五重塔などがあります。装飾がはげ落ち黒くくすんだ木造の五重塔は本当に美しい。帰りの石段で、ジャージー姿の小学生一団とすれ違う。

 羽黒山の後は鶴岡市内の致道美術館に立ち寄りました。この地方の生活雑器や刀剣などを展示するこの美術館は、藩主の屋敷であり、今でも当主である酒井家の人々が運営しているとのこと。われわれは素晴らしい庭園を見ながら抹茶をいただくのでした。

 というような小観光の後、大松庵でそば昼食。漆山さんみずから打つここの蕎麦は絶品なのです。山菜のてんぷらもおいかったなあ。古い民家をそのまま使ったお店は、昔の道具や趣味のよいオブジェなどがさりげなく配置されとても気持ちがいい。「クロワッサン」などにも紹介されています。堺出身の奥様ひとみさんも相変わらずお元気でした。息子の大吉君は大阪芸大の学生です。

 至福の昼食後、田園を抜けて今日の会場である余目町の曹洞宗浄慶寺へ。山門も立派な大きなお寺です。ここはご詠歌のお寺としては日本一の規模を誇ります。ご詠歌「梅花講」の講員は500人以上、しかも全員が女性というからすごい。

 われわれのコンサートを漆山さんに打診したとき、たまたまこのお寺のことを知り阿部住職に提案して実現することになりました。それほどご詠歌が盛んなら、一緒に演奏する試みもあってもいいのでは、とわたしが提案すると、即座にやりましょうということになりました。

 広い本堂ではすでにご詠歌の練習が始まっていました。わたしとしては早く共演の打ち合わせや音あわせをしたかったが、髪をびしっとセットしカラフルな洋服を着た女性の指示のもと、熱心なご婦人たちはわれわれを見ても構わずに練習しています。じっとしていれば本番前まで練習しそうな雰囲気でした。わたしは洋服女性の「あのお、いつまでこの練習は続きますか」と尋ねると「あっ、中川さんですか。一緒にやる部分を今やりましょうか」といってくれました。この女性が住職の奥様でした。

 もっていったCDのドローンを流し、その基音を元にご詠歌を歌ってもらったのですが、初めはどうにもうまく音程が合わない。無理もないことです。何度かやっているうちにようやく安定してきました。

 その日はとても寒く、リハーサル中はふるえるほどでした。本番までには時間があったので、わたしとブーシャンは近くの温泉に行ってきました。温泉といっても町中にあるいわばスーパー銭湯みたいなものです。しかし、名前がいい。「梵天」です。この日以来、公演前温泉浴が定例儀式になりました。ブーシャンも温泉大好きなのです。

 すっかり温まったわれわれは、その日は気持ちよく演奏しました。ご詠歌とのセッションもまずまずでした。お客さんは200人以上。曲の途中でも拍手がくるなど、反応も素晴らしい。そういえば山形のお客さんていつもこんな感じだったなあと想い出しました。終わった後、羽黒山で音楽祭をやっているという女性や、曹洞宗大本山総持寺(横浜)の国際部次長を務めている采川道昭さんらと会いました。 

 打ち上げは、酒田駅に近いパブ風飲み屋でした。阿部住職と奥様がデュエットでカラオケを歌いましたが、そのあまりのうまさにみな絶句でした。ご詠歌で鍛えているだけのことはあります。ここでは酒の飲めないブーシャンもけっこう楽しんでいました。

 大松庵に戻ったのは2時ころでした。

 

●22日(木)/大石田町

 お昼前に、大石田から小玉勇さんが大松庵にやって来ました。われわれを大石田まで乗せる役目です。白の混じった剛毛の小玉さんはかつては山形市で「チャイハネ」というカレー屋をやっていて、何度か彼のお世話でコンサートをやりました。その彼は1年ほど前に店をたたみ、老父の世話をするために実家に戻ったのでした。小玉さんとの昼食後、半田そうめんとオリーブ油を送ることを約束して漆山さんと別れました。

 大石田まではほぼ最上川と並行して走ります。わたしは置賜あたりの流れしか知らなかったので、水量が多く広々とした最上川に感動しました。最上川舟唄で歌われる情景と現実の最上川が初めて重なりました。その最上川沿いの開けた集落に巨大な風車がゆったりと回っていました。立川村の風力発電所です。また、巨大な韓国風のレストランもありました。この辺では韓国やフィリピンから花嫁を迎えている例が多く、こうしたものも最近できてきたと小玉さんが説明する。

 お店をたたんだ経緯など、小玉さんの話を聞きながら大蔵村を通過。大蔵村にはかつて土方巽が一時住んでいたらしい。そういえば、写真家の土門拳や小説家の藤沢周平も庄内出身だったなあ、などということを想い出しました。

 2時過ぎに会場の浄栄寺に到着。ここは浄土真宗大谷派のお寺です。それほど大きくない本堂にはマイクやスピーカー、座布団などが準備されていました。会場の準備がまだかかりそうだったので、公演前温泉浴に行くことし、小玉さんの車を借りて「あったまりランド深堀」へ。この種のスーパー銭湯のようなものは、地方によく作られているんですね。ここで温まったわれわれは、小玉さんの配偶者敏子さんを大石田駅でピックアップし再び会場へ行きました。高校の美術の先生の敏子さんは、彼女も親の世話で実家にいるため勇さんとは別居状態だということでした。もちろん、離婚しているわけでありません。

 本番前、長らく英語の先生をしていたという高橋和男さんがブーシャンに英語でいろいろ質問してうれしそうでした。

 この日の聴衆は100人ほど。小玉さんの親戚なども総動員でした。年配の人たちも大勢いましたが、ここのお客さんも昨晩と同じようにとても暖かい。いつものように「最上川舟唄」を演奏しました。ここは本場です。どこに行ってもこの曲をまず演奏するのだと説明すると、みなが頷きます。ブーシャンのタブラーソロにはみな大拍手でした。

 打ち上げにはたくさんの人が参加しました。小玉さんには、うちの兄貴とその嫁です、いとことその嫁(韓国女性)、叔父です、などとつぎつぎに紹介される。ここで、かつてお寺の隣の小学校長だった織江住職が「最上川舟唄」を歌ってくれました。やはり本場で聞くとしみじみとします。参加者には劇団「東北幻夜」の人たちもいました。今回のコンサートの主催者の一人である住職の息子さんの尚史(なおし)さんが、この劇団で脚本を書いているということ。山形の漬け物、竹の子煮物、お酒、山菜のてんぷら。幸せな打ち上げでした。

 主だったスタッフと一緒にくるまやラーメンを食べた後、大石田駅に近い「クロスカルチャーセンター」で宿泊でした。

●23日(金)/掛川市

 ブーシャンは相変わらず睡眠不足が続いているようでした。言葉や飲食習慣の違いなど、旅に出てくると彼のようなタイプにはつらいのかも知れません。みずからすすんで人と交わるようになれば楽しくなるはずなのですが、彼はどうもそれが苦手らしく、誰かが何かを尋ねたりしてくれるのを待つという受け身の姿勢がそれを阻むのでした。

 小玉さんと尚史さんに見送られ新幹線でひとまず東京へ向かう。ブーシャンは「本当にこれが新幹線なのか。やけにゆっくりだし、小さな駅にもよく停まる」と申し述べる。

 東京でこだまに乗り換え掛川に到着したら、亀八の住田祥子さんが迎えに来ていました。店兼住居である3階建てのビルの1階がライブ会場の店ですが、亀八という名前にはふさわしくない洒落た喫茶店のような店でした。3階の控え室からは、市民が建てたのだという小さな掛川城天守閣が見えました。

 目がぱっちりしたふくよか美人の住田さんは、実はブーシャンに声楽を習っている弟子です。インド音楽を中心としたライブを定期的に主催しているので、その道では知られた存在です。わたしの知っている演奏家たちのこともよく知っていました。店を中心とした幅広いネットワークをもっていて、なかなかに繁盛しているようです。サーランギーを演奏する小林青年もわれわれを待っていました。

 公演前温泉浴が定例化していたわれわれは、住田さんに「温泉、温泉」と叫びましたが、温泉までは時間がかかりそうなので明日ということにしました。

 住田さんもタンブーラーで参加したライブのお客さんはほぼ満員の20数名。みなインド音楽になれた人たちのようでした。

 打ち上げは、静岡からきたコンピュータソフトを作っている青年(名前失念:仮名A)を始め、住田さんの同居人(名前失念)、小林青年などで朝まで。ブーシャンは食事をとってすぐ寝る体制に入っていましたが、われわれの話し声で眠れず、睡眠不足は解消せず。

●24日(土)/名古屋

 昼前に起きたらブーシャンが住田さんにレッスンをしていました。インド声楽の基礎のない住田さんにはブーシャンの課題である曲を歌うのは難しそうです。

 市内の食堂でうなぎ丼を食べた後、YAMAHAの運営する「合歓の里」の温泉に連れていってもらいました。青年Aと住田さんが待っている間、われわれはゆったりと温泉に入りました。屋外にさまざまな形の浴槽があり、そこからは空と木々しか見えません。当日は天気も良かったので最高のお風呂でした。足マッサージが気持ちよかった。

 これから単車をバリバリ乗り回すのだ、という住田さんと静岡に向かう青年Aと別れて新幹線で名古屋へ。駅にはオジサンこと山本弘之さんが待っていました。

 覚王山のヴィーナ・トレーディングを経て会場であるスタジオjI(ジー)へ。中川潔さんがライブの準備をしていました。スタジオjIは、一部2階建ての古い民家を改造したスペース。潔さんが1ヶ月前にオープンしたもので、今後はインドを中心とした民族音楽のライブを催していく予定だということです。

 お客さんは20名ほどか。いつも通りに、ちょっとジョークまじりの挨拶をしてからライブを始めたのですが、お客さんはまったくの無反応。演奏が終わるとそれなりに拍手は来るのですが、熱意が伝わってこない。わたしのときだけかと思いきや、ブーシャンのすごいソロのときも同じようだったので、ブーシャンは休憩のとき「ふうん、まるで死体に向かって演奏しているような感じだなあ。前もそうだったけど、名古屋のお客さんというのはいつもそうだ。なぜだろう」と申し述べる。

 ライブ後、中川夫妻、仲間の中年女性とわれわれは、春岡にある山本宅で打ち上げでした。昨日から用意したというオジサンの和風煮物シリーズは期待以上でした。どうりでいつも食いもんにはうるさいはずです。

●25日(日)/神戸

 旅の疲れがたまりよれよれ状態で名古屋からCAP HOUSEにたどり着きました。キッチンでは佐久間君の指揮の元、ウィヤンタリ、井上想君、マッチャンこと松宮さんらのカレー調理が進行していました。ブーシャンは限界と見え、本番まで自宅に帰って一休み。

 ミニツアー最後のコンサートは、CD発売記念ということでCAP HOUSEの人たちばかりでなく多くの人が見えました。疲れ切っていましたが、我が家に戻ったようにリラックスして演奏できました。聴衆は80人ほど。CAP HOUSEとしては例のない数です。CDも20枚以上売れました。おいでいただいた方、準備してもらったCAP HOUSEの面々に大感謝です。

■5月30日(金)~6月4日(水)/AFOリハーサル/大久保オンエアー

 アジアツアーのためのリハーサルでした。

 AFOのアジアツアーも3回目。四谷と大久保のスタジオを毎日往復しました。雨が多かった。

 リハーサルはたいていお昼過ぎから夜9時近くまで。ほとんどスタジオに缶詰です。最初はアニーシュやグレースとタクシーで通いましたが、ずっと確実で速い電車に切り替えました。メンバーもほとんど変わらないし、AFO定番レパートリーや新しい曲もかつてほど困難なくできあがっていきました。アニーシュもグレースも東京にはすっかり慣れ、買い物に狂奔することも、観光に行くこともなく淡々とリハーサルをこなすのでした。こんなふうにAFOがあまりに日常と化してきたためか、ディテールはあまり覚えていません。宿舎は東急ステイでした。ここは宿泊客をあまり構ってくれないのでとても気易く滞在できました。掃除人が毎日部屋に入ってくるのはときとしてわずらわしく感じるものです。

■6月5日(木)/HIROSライブ、バーンスリー・デュオ/音や金時、東京・西荻窪/寺原太郎:バーンスリー、HIROS:バーンスリー、湯沢啓紀:タブラー

 せっかく江戸にいるので、AFOリハーサルが終わってから音や金時でライブをしました。「あしゅん」閉店ライブと同様に太郎君とのデュオをしました。タブラーは、めきめき腕を上げている湯沢君。

 そろそろ始めようかというときに、ジャズピアノの佐藤允彦さんがひょいと現れびっくりしました。「あれっ、ヒロスでねえの」と向こうがたまげる。それもそのはず、山田雅世さんが企画しているコンサートの打ち合わせをカレー屋で、と佐藤さんを連れてきたのでした。もちろん山田さんはわたしがライブをすることになっていたことは知っていましたので、佐藤さんはだまされたというわけです。だまされたにしろ、佐藤さんのような大音楽家に聞いてもらえてシアワセでした。本人がどう思ったかは分かりませんが。

 実家が音や金時からすぐという井上想君も、お母さん、叔母さん、友人などを引き連れて来たり、太郎君の両親もいらっしゃったりで、なんとなく家族音楽大会のおもむきになりました。

 終わった後は、井上君の実家に泊まることになりました。ある学校でポルトガル語で日本語を教えている井上君のお母さんは非常に上品で脳天気かつ力強い女性です。ふだんは8時か9時にはやすまれるそうですが、その日は深夜までおしゃべりをしました。そのお母さんはポルトガル語のできる日本語教師として今ブラジルにいます。お母さんの父親、つまり想君のおじいさんが農業指導者としてブラジルに派遣されていた関係で、お母さんはブラジルで少女時代を送ったのでした。この人であればどこへいっても愛されるだろうなという女性でした。

 声優だという叔母さんもなかなか面白かったし、想君と神楽をやっている東京外大タガログ語学科生宇田川君も好奇心旺盛なので楽しいおしゃべりでした。

 次の日の朝、1階の茶の間で寝ていると隣の居間から想君と中年女性が会話をしているのが聞こえてきました。親戚らしいその女性はわたしが寝ていることは知らないようでした。どうも、ちょっと悩ましい問題のようでした。会話が終わったら起き出そうと思っていたのですが、それがなかなか終わらない。変なタイミングで登場すれば、聞き耳を立てていたように思われるし、二人の会話も中断される、しかしどんどん時間は過ぎ、脳からしきりに排泄要請信号が発せられる、という微妙でちょっと不安定な立場というか寝場なのでした。

 女性は2階に住む想君の叔母さんでした。排泄要請に完敗したわたしがしかたなくふすまをあけると、叔母さんは、あらっ、お客さんだったのね、といいつつ挨拶。お邪魔しちゃってスミマセンでした。

 次の日は、想君の案内で最近人気があるというラーメン屋でブランチをとり、東京駅まで見送ってくれた想君と別れて神戸に帰りました。

■6月7日(土)13:30~16:00/第24回 サロン・ド・プルニマ サロン8周年記念公演~インドの竹笛 <バーンスリー>/堀岡記念館HIROS:演奏と話

 インド文化センターでたびたびお会いする枚方のグループ主催のサロンでした。会場は、写真家をしているという女性の自宅でした。コンクリート打ちっ放しの開放的な建物は、住宅というよりも邸宅に近い。壁面には有名な絵が数多くかかっていました。なにをやってもいいということなので、日本の音楽などについてしゃべっていると、主催者の一人からバーンスリーを吹けというリクエスト。例によって最上川舟唄を演奏しましたが、インド大好きグループの主催者にはちょっと不満があったかもしれませんね。

 その日は、トロントを拠点とした二胡奏者ジョージ・ガオ氏の妹、チェンイーも見え一緒に電車で帰りました。彼女は関大の中国語の先生です。

■6月9日(月)布野レッスン/CAP HOUSE

 平城遷都1300年記念事業準備室の田中久延氏がお会いしたいということでCAP HOUSEへ。平城遷都1300年記念事業というのは、2010年に奈良県が計画している大きなイベントです。田中氏は、平城宮跡に巨大なイベント空間が作られることになっており、そこでの企画のためにいろんな人と会っているということでした。企画には各界の有識者がかかわっていて、どうもそこでオペラをやろうということになりつつあるという。古都奈良の記念行事に莫大な費用のかかるオペラというのは考え物だ、それよりは1万人の僧侶による聲明とアジアの音楽のセッションなんかのほうがふさわしいのではないか、とわたしが申し述べると、田中氏も同感だとうなずく。

 ■6月11日(火)~7月8日(火)/"Asian Fantasy Orchestra" Asean Tour 2003/バンコク(タイ)、ヤンゴン(ミャンマー)、ビエンチャン(ラオス)、ホーチミン(ベトナム)/ミュージシャン/仙波清彦:パーカッション・隊長 、久米大作:キーボード 、金子飛鳥:ヴァイオリン 、梅津和時:サックス・クラリネット、三好功郎:ギター、坂井紅介:コントラバス 、中原信雄:エレキベース、新井田耕造:ドラムス、山田貴之:パーカッション、竹井誠:篠笛・能管・尺八、望月圭:邦楽打楽器、中野律紀:奄美島唄、賈鵬芳:二胡、姜小青:古箏、中川博志:バーンスリー、アニーシュ・プラダーン:タブラー、グレース・ノノ:歌、高橋香織+相磯優子:ヴァイオリン、志賀恵子:ヴィオラ、笠原あやの:チェロ

 95年のシンガポール、クアラルンプール、ジャカルタ、98年のニューデリー、ボンベイ、ホーチミン、マニラについで、AFOの3回目のアジアツアーでした。ほぼ1ヶ月のツアーなので書いた日記の文字数は5万字。で、ここに書こうとその日記を読み返しましたが、いったいなにを書こうかと悩んでしまうのでした。バンコク以外は初めての土地であり、共演した地元ミュージシャンや音楽も面白かったし、有名な観光スポットも訪れ、うまいものもうまい酒もたくさん飲み食いし、中原さんが古いパスポートで成田に来たり、わたしが本番で出忘れ本村さんに怒鳴られたり、仙波さんが本番中に排便危機に見舞われたり、梅津さんがピカピカの大理石で滑って肌頭を打ち付けたり、久米さんに強力下痢薬をもらったり、サンチャンや飛鳥にインターネットの使い方を教えたり、賈鵬芳さんが二日酔いになったり、ツアー中に誕生日を迎えた人たちが9人もいたり、福島さんが指を切ったり、ベニさんがラオス女性歌手と記念写真をとって狂喜したり、グレースが旺盛な布類の購買意欲を示したり、りっきが中華料理屋で歌ったり、隣室の小青の練習音が大きかったり、ストリングス隊を中心としたバーがほぼ毎日開設されたり、しました。しかし、特になにが印象に残ったのかとなると、もう一つ強いものがないのです。

 強い印象がない原因の一つは、今回のツアーが「旅」ではなく、「移動」に近かったからかも知れません。

 過去2回のツアーは、AFOの音楽スタイルを模索しつつあった時期で、個人と楽団の間にはまだそれなりの緊張がありました。しかし、今回は音楽の内容も人間関係も安定し、よりプロのバンドに近いものでした。

 広い遊び場を提供されて離合集散を繰り返しつつ遊びに熱中する子どもたちが、それぞれの性格や能力を互いに認識し共通するルールを発見し、そのルールにしたがって「遊び」という名の商品を提供するようになった、といっていいかも知れません。あるいは、新婚当初の幸福な好奇心のさぐり合いから安定した結婚生活に移った、ともいえます。まあ、わたしも含めメンバーやスタッフがそれだけ年をとったという単純なものかも知れません。

 ともあれ、AFOが新婚期から安定期に入り、それぞれの関係が緊密になってきたためにより密室化してきたように思えます。密室化というのは、関心の主題が外向きではなく内向きのベクトルに向かう、という意味です。この密室にどこか窓を設けて空気を入れ換える時期に来ているのかも知れません。とはいえ、それぞれがよく知り合うようになったのでいってみれば、まあ、家族のようなもんです。中にいるとそれなりに温くて快いことは間違いない。

 それにしても、ここまで苦労して育て上げてきた家長であるプロデューサーの本村さんには頭が下がります。みんなわがままで勝手なミュージシャンたちですからね。ホーチミンのレストランで、みなが口々にラオスはよかったというと、本村さんは「みんなに、あのもち米を食わせたかったからラオスを選んだ」といってました。食い意地の張っているわたしには、これにはぐっと来ましたね。いかにも家長であるオヤジの愛情あふれる言葉です。ミュージシャンに対する愛情、これもあれだけ苦労して続けてきたエンジンになっているのだと思います。

バンコク

 日本の都市になぞらえば、さしずめインドシナの東京です。この大都市は1972年以来、何度も訪れていますが、そのたびに印象が変わります。以前は空港から都心部へ入るのにものすごい渋滞が日常的でした。しかし高速道路が整備されてからはスムーズに車が流れるようになっています。高層ビルもずいぶん建ちました。全体の印象は、シンガポールにひたすら近づく近代都市。とはいえ、貧乏旅行者のたまり場になっているカウサン通りのめまいのしそうなモノと人の氾濫もあるし、まだまだわたしの好きな「薄汚れた」場所は健在です。ただ、有名なタイ料理は、味の素と砂糖と油が強くなっている気がします。

 公演会場のThailand Cultural Centerと宿泊先のエメラルド・ホテルは、都心部からタクシーで1時間ほど離れていました。そんな関係で、エネルギーと費用と時間のかかる都心部へ行ったのは1回だけでした。まだ最初の訪問地だというのに買い物に狂奔するグレースとアニーシュにつきあっただけで、ほとんどはホテル周辺をうろついたり、会場との往復だけでした。深夜までエレキベースの重低音が響くホテルだったせいもあり、睡眠不足で朦朧としていたバンコクなのでありました。

ヤンゴン

 ずっと雨だったことと、ヤンゴン空港での雰囲気、だだっ広く緑の多い街並みだったせいか、全体の雰囲気がちょっと重苦しい。ヤンゴンはインドシナの松江?

 薄暗い空港でのSARSチェック。天井の高い体育館のような入国管理所の照明は暗く、水滴が見えるほどの湿気と暑気の混合体を、天井のプロペラがゆっくりかき回すなか、マスクをした女性係官たちから体温チェック用のフィルムを額に押し当てられたのでした。この最初の入国プロセスがその後の印象に影響を与えたのかも知れません。

 街を歩く人々の表情もどことなく精気みなぎるという感じではないように見えました。金ぴか豪華でどことなく漫画の世界のようなシェーダゴン・パゴダやわれわれの泊まったパーク・ロイヤル・ホテル・ヤンゴンの豪華な内装と、1回数円の体重計屋や手相見やビーフン屋との落差が大きい。

 おいしいものはない、といわれていたわりには充実した食生活でしたが、これだ、というものが少ないのも事実です。阪神淡路大震災で被災したのを機にヤンゴンに開いた居酒屋風日本料理店「一番館」やホテル内の日本料理屋やマッサージがメンバーたちのご贔屓でした。

 アウンサン・マーケット、JAICAの保険衛生プログラムコーディネーターの碇夫妻との会食、スー・チー女史の邸宅接近、ミャンマーという土地からは想像しにくいライブ・バーMr. Guitar Manでの欧米ポップス宴会、などなど、もっと紹介したいのですが、この辺にしておきます。

ビエンチャン

 ビエンチャンはインドシナの山形だべ。山形はわたしの出身地、ということでビエンチャンは世界で最も美しくおいしい土地でした。首都なのに交通信号が2個しかありません。山形はもっとありますよ。

 この街を歩いて、二十歳のころの世界旅行の気分を味わいました。そこに存在することそのものが喜びであるような旅。

 わたしはこれまで世界中のいろんな土地を旅してきましたが、最近では旅が目的ではなく、だれかに会うことだったり、なにか特定のものを見ることであったりと、単なる手段になってしまっています。また、どこの土地に行くのでも、わざわざ目的を作り出す。しかし、わたしが学生のころの旅はそうではなかった。安宿を探し安食堂でメシを食い重いパックパックをもってひたすら移動していく。移動そのものが目的だったのです。

 ビエンチャンはそうしたかつての旅を想い出させる街でした。対岸がタイのメコン河沿いに立ち並ぶ掘っ建て小屋の食堂で風に吹かれてビールを飲み、つまらない小物を売りつける少年たちを冷やかし、1杯60円たらずのビーフンを食べ、1時間3ドルのマッサージに狂喜し、ときおりホテルのプールで泳ぐ。そして、野菜と肉類や魚介類との絶妙のバランスのラオス料理と透明なラオラオの洗練された素朴さ。蒸した餅米ごはんのおいしさ。なんと幸福なんだろう。

 

ホーチミン

 同じベトナムでもハノイとは雰囲気がかなり異なります。ハノイは高層ビルがほとんどなく、煉瓦造りの中低層ビルの間をものすごい数の自転車とバイクが流れていたのが印象的でした。空気もなんとなく「清貧」というおもむきでした。しかし、ホーチミンは立体的でよりコマーシャル。ハノイが仙台だとすればホーチミンは大阪です。人力車夫やタクシーや路上の物売りが押しつけがましく客引きをし、物売りにも取り引きのしたたかさが感じられます。全体に雑然としているわりには、道路にはゴミ一つ落ちていない。

 長い戦争を耐え抜いてきたベトナム人は、よく「したたか」という形容詞でいわれることが多いのですが、戦争証跡博物館へいったときは強烈にそのことを思いました。

 戦争証跡博物館は、ベトナム戦争で使われた米軍のジェット機、ヘリコプター、大砲、戦車、対空機関銃、ブルドーザーなどの武器や拷問器具、枯れ葉剤による奇形児、ピュリッツァー賞の沢田教一や石川文洋などが撮った報道写真が展示されています。いかに米軍がひどいことをしたか、それに対していかに勇敢に戦ったか、を印象づける博物館です。一枚の写真を見たときは、わたしは思わず涙ぐみそうになりました。その写真に映し出されていたのは、ボロ切れのような服を着て塹壕を掘るベトコンたちのか細い足と顔の表情。民衆の死者400万、米軍死者58,000人。あの戦争はいったいなんだったのか、を考えさせられます。

 そうした生々しい展示物の合間に、ひときわ明るく照明されたパネルが目につきました。そのパネルにはこう書かれていました。

--われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。そしていかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ。・・・アメリカ合衆国独立宣言--

 どうです?すごいでしょう。ベトナム人は本当に「したたか」だと痛感しましたね。ちなみにアメリカ合衆国が統一ベトナムを承認したのはいつかご存じでしたか? クリントン政権時代の1995年なのです。

■7月11日(金)/歯医者

 ホーチミン公演のリハーサル日の朝食をとっていると、小石を噛んだように口のなかがガリッときました。食べていたお粥に石でも混ざっていたのかなと思いきや、なんと左上の犬歯の差し歯がとれたのでした。ツアーも最後だったからよかったものの、初めのうちであればおいしいアジアを味わえず憂鬱な日々が続いていたに違いありません。

 というわけで、帰国して真っ先に近所の歯医者へいきました。

■7月14日(月)/カレー調理実習

 9月に予定されていた「インド音楽とインドカレー」というコンサートで出すHIROSカレーの調理実習のために、主催者の宮地さんが調理人を連れて来宅。調理人は、九州出身のシェフ大宅和公と来守谷けんた青年ととしえ夫人。

■7月16日(水)/グンデーチャー公演/浜離宮朝日ホール、東京

 インド古典声楽のグンデーチャー兄弟来日公演があり、それだけのために上京しました。

 グンデーチャー兄弟は、2000年にロンドンで会って以来ひんぱんにメールのやりとりをするようになりました。ヒンドゥスターニー音楽の古いスタイルであるドゥルパドの数少ない演奏家です。わたしは彼らの日本公演のプロモーションを続けてきましたが、実現できずにいました。今回は、チャンドラレーカ舞踊団の専属音楽家として来日しました。

 東京駅に近い喫茶店で、打ち合わせも兼ねた亀岡紀子さんとの昼食後、移転後の銀座のインド政府観光局を訪ね、そこで一緒にコンサートに行くことにしていた鎌仲ひとみさんと合流し、会場の浜離宮朝日ホールへいきました。鎌仲さんは、今年「ヒバクシャ」というドキュメント映画を作った早歩きの監督です。

 会場では、招待していただいたアリオン音楽財団の丸山さん、飯田さん、近藤さん、江戸京子さんにお会いした他、星川京二さん、キングレコードの井上さん、寺原太郎+百合子さんも見えていました。おやっと思ったのが後藤田正治元官房長官です。車椅子に座って腕を上げたチャンドラレーカ、それを押すサダーナンドとも再会の挨拶。チャンドラレーカは、前回来日したときはメチャクチャ元気なお婆さんという感じでしたが、このときは弱々しく見えました。あの後彼女は岩手県の久慈でついに倒れて入院し、10日ほど静養して無事インドに帰国したということです。

 コンサートは期待したとおり素晴らしかった。舞台は、ふさふさした白髪の長兄ウマーカーント、ひょろっとしてひょうきんな弟ラマーカーントが正面、打楽器パカーワジの末弟アーキレーシュが左、そしてタンブーラー奏者のアルーナーとレーヌーが兄弟の背後に座るという構成でした。ドゥルパドのデュオはダーガル兄弟なき後は彼らくらいしかいないのでその存在はとても貴重です。兄弟の歌の出入りのタイミングも抜群でした。

 公演後楽屋に彼らを訪ねるとみんなから抱きつかれました。わたしが楽屋へ行くというと、太郎君、百合子さん、声楽を習っているという岩本真代さん、シタールの本橋邦久さん、BHUの学生だったという末次歩さんらもぞろぞろと後ろについてくるのでした。

 その日は、今年になって南浦和から狛江市に引っ越したカマチャン宅に宿泊でした。

 

■7月17日(木)/グンデーチャーと浅草見物

 グンデーチャー一行の浅草見物に同行しました。他に同行したのは前日も楽屋であった末次歩さん、岩本真代さん、本橋邦久さん。例によって宮本卯の助商店の打楽器博物館の後、仲見世をひやかし、浅草寺にお参り。日本的なものに興味があると思って案内しましたが、彼らはやはり秋葉原に興味があったようです。

■7月19日(土)/「感動への憧憬」-音が生む音-佐藤允彦/ジーベック

 佐藤さんのピアノソロ・コンサート。期待通り気持ちのよい時間を過ごすことができました。宣伝不足なのか聴衆が少なく、贅沢なコンサートでした。わたしはチケットも購入したれっきとした客でしたが、カフェでの簡単な打ち上げのとき、主催者から友人代表として乾杯の音頭をとれといわれてしまいました。佐藤熱烈応援団の大場さん、埼玉からの山田雅世さん、主催者の宮崎さんや北川祥子さんらと、近所の「蔵六」でさらに打ち上げ。

 21日は、遠いところをせっかく神戸までやってきたHIROSカレースパイスセットのファン、山田雅世さんに神戸を案内しました。生春巻き絶品的ベトナム料理店「鴻華園」、CAP HOUSE、ギャラリー島田を経て、嗅覚でしか探すことのできないインド人経営スパイス屋と案内。

 ■7月26日(土)/アート林間学校/歌謡曲・民謡入門?講座

 CAP HOUSEのアート林間学校の講座でした。わたしの講座の前に、額縁製作の宮垣さんの講座を見学。これがとても面白かった。

 平面美術作品と額縁の関係を再認識しました。額縁の材質、色、形などが本体の作品に大きな影響を与えるんですね。この作品とフレームという関係は、どんなものにもあてはまるのかも知れません。衣服もいってみればフレームのようなもの。着る服によって人の印象は変わります。作家も、どういう額縁に作品が合うのか考える必要があると思います。

 わたしの「講座、歌謡曲・民謡入門?」の「?」が災いしたのか、きわめて少人数の参加者でした。それもほとんど知り合いです。大阪で企画をしているウクレレ前田さん、額縁製作の宮垣さん、元東方出版の板倉さん、井上想君など。

 この日は神戸港の花火大会。関係者は一堂にCAP HOUSE屋上で、鰻丼を食べつつ歓声を上げるのでありました。

■7月27日(日)/マルグリット来日/CAP HOUSE

 マルグリットは2001年のアクト・コウベ・プロジェクトのときに来日したスイスの打楽器奏者です。整った小さな顔、ソバージュ風の長い茶髪、すらっとした美人です。マルグリットの今回の来日事情というのが変わってました。

 彼女は6ヶ月前、週1回とっている新聞の個人広告にふと目を留めた。「45歳、男性、グラフィック・デザイナー、身長◎センチ、体重◎KG、趣味/旅行、音楽、ガールフレンド求む」。さっそく彼女は連絡してチューリッヒのある場所で会う。その彼はなかなかに感じのよい男で、哲学やら仏教やらをしゃべりまくる。スイス生まれだが12歳までアメリカで育ちその後スイスに戻ったという。7年ほどアジアを旅行したなかなかに蘊蓄のある中年であった、らしい。そうこうしているうちに相手が彼女に熱を上げてきた。7月に入り、夏休みとなった。男から「日本に10年来会っていないドイツ人の友人が日本人の妻と住んでいてそこを訪ねたあと中国へ旅行しようかと思っている。一緒に行くか」といわれた。彼女も応諾。

 ということで博多にちかい村にやってきた。しかし、件のスイス45が、友人だというドイツ人と仲違いを始めた。同時にスイス45はマルグリットに本格的に惚れだし自分の管理下に置こうとした。マルグリットは拘束をきらう。そうこうしているうちに両者大喧嘩の末、スイス45は「ぷんぷん、オレは帰る」と宣言。中国旅行もキャンセルしてスイスへ帰ってしまった。

 看板の出ていない北野町のインド料理店で、角さん、稲見さん、石上君と彼女、あきゑさん、北川さん、わだしが、こんな話を彼女から聞きつつインドカレーを食べたのでした。しかし、途中から角さんのスミッシュがフル回転しだした上に、勘定までマルグリットが支払ったので、マルグリット歓迎宴会は逆に彼女に接待されたような感じになっちゃいました。

■8月7日(木)~12日(火)/New Raga Acoustic長崎ライブツアー

 New Raga Acousticというのは、シタールの吉田ダイキチ、ギターのヨシタケexpeとわたしの臨時バンド名です。吉田君は、知る人ぞしる「サイコ・ババ」のシタール奏者。シタールとはいえ、彼の音楽はわたしのやっているようなインド音楽とは違い、いわば自由即興系です。「ギターは弾けない」というレゲエ風よじれ髪のヨシタケ君は、山盛りのエフェクターを駆使する青年。この3人に、吉田君のガールフレンドのダマチャンこと小玉さんとで長崎を旅行しました。ダマチャンは、キョトンキョトンそれでいて落ち着きズボン上スカート着用広島出身若年女性。

 まず、六甲アイランドの阪九フェリーで、折からの台風接近のなか門司港へ向かう。

●8月8日(金)の早朝6時に門司港着。われわれに同行したいといいつつ到着港とは違う場所で待っている北九州のバーンスリー学習青年松本学君を下曽根駅で拾い、ケチャを歌いながら長崎市の稲佐山山頂展望レストランに到達したのでした。長崎市内が一望できる円形のレストランです。そこで主催者の一人である立花氏に会い、下山して長崎チャンポンを食べた後、その日の宿舎である浄土真宗正覚寺本堂(なんとなく疲れた感じの若い有馬住職)まで案内してもらいました。ここで初めて新しいバンドの音合わせでした。まあ、これでええんちゃうかとリハーサルを終え、松本君のレッスン後、5人でわたしの憎むお好み焼き屋へ向かうのでした。

 その日は広い本堂でごろ寝でした。旧式ぼっとん便所が離れにあり、なかなかに面倒でした。ヨシタケ青年が深夜2時くらいまで音作りに没頭し、蚊の断続的襲撃も重なりなかなか眠れない長崎の夏の夜でした。ダマチャンは自身の映像作品上映準備ということで山頂レストラン泊でした。

●8月9日(土)、吉田君、松本君の練習を聞きつつ起床してわたしも練習。ダマチャンが戻ってきたところで再び山頂へ。

 われわれの新バンドは、この日の音楽祭「ピース・ギャザリング」参加のために作られたのです。会場は山頂にある小さな野外音楽堂でした。

 音楽祭は、原爆の落ちた時間である11時の黙祷から始まりました。観客は多くなく、ほとんどが70年代前半風の薄い綿のシャツやパンツ姿で、ジャンベ・レゲエ自然派志向やさしいパワーレス若者といった感じでした。

 最初は、知的障害者によるジャンベバンドでした。バーンスリーの音がしたので舞台を見ると、なんと松本青年が吹いているではないか。

 出番までかなりの時間があるわれわれは次の女性ヴォーカルのバンドを聞きつつ会場を離れ、ママディ・ケイタのジャンベワークショップを横目で見ながら展望レストランで野菜カレー、サラダ、玄米ごはん、スープのランチの後、平和公園近くの銭湯「極楽湯」へと向かうのでした。なにせ暑い夏に二晩も風呂に入っていない。すっきりしたわれわれは、12歳の少年が児童を連れ去った場所に近い平和公園へ行きました。

 例の有名な天を指さす巨大座像前では、平和式典終了後のテントをたたんでいました。北九州に原爆を落とすはずだったのを天気が悪かったので長崎にしたという解説を読み、人間の幸不幸のわずかな差を考えさせられます。

 ママディ・ケイタと長崎ジャンベクラブの演奏が8時半に終了し、最後にわれわれの出番となりました。神戸の山田和尚の挨拶後、ピースマークに配置されたペットボトル蝋燭台が点灯され、われわれの演奏開始。われわれ3人に福岡のパーカッション青年が加わりました。本番の演奏は、ちょっとしか練習していないわりには、むしろそのことで、なかなかに面白い内容になったと思います。

 深夜の山上レストラン・オールナイトDJに参加するダマチャンを残したわれわれ3人は、演奏終了後ただちに小雨のなか島原へ。その日の宿である乾物問屋北田物産2階に荷物を解いたのは2時でした。

●8月10日(日)、乾物店舗の2階にある8畳ほどの和室で昼まで寝る吉田君、ヨシタケ君をよそに、わたしは早朝に起き、隣のライブスペースで練習。

 ようやく起きだした二人と島原観光へ。島原城お堀端の姫松屋で、天草四郎が考案したという、ごぼう、餅、鶏、ちくわ、白菜、ニンジン、キノコなど入った具雑煮を食べた後、島原まゆやまロードを通り平成新山展望園地でまだ湯気を吐いている普賢岳を仰ぎ見ました。

 平成新山展望園地は、普賢岳の噴火の後に作られた公園です。遊歩道のあちこちに、噴火時に待避する壕がありました。しかし厳重に施錠されているので本当に噴火しても逃げ込むことはできない。また噴火の写真や島原の自然環境を展示する平屋の新しい建物がありました。普賢岳の鳥たち、というコーナーには模型の鳥が壁に貼り付けられ、ときおりスピーカーから鳥の声が流れます。なるほどなるほど、じゃあ鳥の声を聞きに行こう、とその展示室を後にして戸外に出ると、野外スピーカーからBGMのジャズが流されています。これはけしからん、と思い館内の青年係員に申し述べると、スミマセンと謝る。

 島原小涌園で温泉に使って観光を終えたわれわれは、会場に戻ってセッティングでした。二人はいろんな電気仕掛けがあるのでセッティングに時間がかかるのです。

 この日の主催者の北田貴子さんは、角正之さんの知り合いでCAP HOUSEでもお会いしています。お客さんは30人ほどでした。北田さんはこの会場でときどきいろいろな催しを主催しているのです。終了後、近くの喫茶店で打ち上げでした。われわれや北田母子、坊さん、高校入試を控えた可愛い娘とよくしゃべる母親などが参加しました。

●8月11日(月)、乾物をどっさり買って8時過ぎに諫早へ出発。この日は、吉田君が我が家に来たとき「すごい超能力者がいる。見て損はしない。インチキだとしても、普通のマジックショーよりも手が込んでいる」という「四次元パーラー あんでるせん」に行くことになっていたのです。わたしは実はその言葉に誘われて長崎まで来たようなものです。

 まず、諫早の浄土真宗円立寺に、「あんでるせんツアー」に参加するピース・ギャザリング関係者たちと合流。円立寺は、ピース・ギャザリング主催者の一人である40代の立花顕則氏のお寺です。お寺の各部屋にはすでに関係する青年男女がゴロゴロと横になって寝ていました。ダマチャンともここで合流しました。

 10名全員揃ったところで目的地の川棚町へ向かいました。「四次元パーラー あんでるせん」は予約制で、午前と午後の部に分かれています。われわれが予約したのは午後3時でした。

四次元パーラー あんでるせん」は、川棚駅前の特徴のない3階建てビルの2階にあります。1階は果物屋で、隣は「あんまり食堂」。どこからこんな名前になったんだろう。

 われわれが現場に到着したときにはすでに別の予約客が列をなしていました。わたしは10回目、こっちは2回目などという常連老夫婦もいます。

 3時になり、マスターの父親とおぼしきオッサンが外で番号の書いた入場整理券を配り始めました。ここからマスターの「超能力ショー」開始までが実に長かった。待たせる、というのもある種の演出に入っていたのかも知れません。30分ほど暑い階段で待たされ、雑然として統一のとれない内装のごく普通の田舎の喫茶店という感じの店内に入り注文品が運ばれるまでも長い。

 マスター謹製の折り紙作品、店を訪れた有名人のポラロイド写真などを眺め、便利グッズカタログ雑誌などをパラパラし、もうほとんどマジックショーなんかどうでもいいという気分になってきたころ、ようやくマスターが現れてショーが始まりました。

 小さなカウンターの内側に立ったマスターは、ショーがよく見えるように配偶者らしき不機嫌そうな中年女性に命じて客の配置をまず指示。黒いエプロン、白のポロシャツ姿のマスターは、40代後半とおぼしき髭の濃そうな中肉中背髪短髪二重瞼のオッサンで久村と名乗るのでした。テレビで見るお笑い系マジシャンの口調に似て、語尾に自嘲の響きがあります。その彼が断絶なくしゃべりつつ、つぎつぎとサイキックマジックなるものを披露していくのでした。

 1.空中跳躍タバコの術

 2.サーモグラフを示し気の説明

 3.客の腕に自分の手のひらをかざし、ビリッビリッと感じさせるの術

 4.ESPカードの術

 5.トランプ枚数当ての術、カード記憶術

 6.チワワ犬置物ブローチのカード種類当ての術

 7.脈診によるうそ発見の術

 8.宇宙プロバイダーとダウンロードの解説

 9.指輪立ての術

10. ボルトナット非接触開閉の術

11. 紙幣立て、紙幣飛ばし、紙幣空中浮遊の術

12. 500円硬貨指曲げ拡大縮小関連術

13. スプーン曲げ、ボールペン曲げの術

14. 50円硬貨ちぎりの術、50円硬貨及びボールペン1万円札通りぬけの術

15. 催眠術、瞬きカードの術

16. 客の書いた絵柄と氏名、生年月日を当てるの術

17. .輪ゴムの特定絵柄形成の術

18. 100円ライター、オロナミンCドリンク瓶引き延ばしの術

19. ポラロイド心霊写真投射の術

20. ルービックキューブ瞬間完成の術

21. 釘板隠し伝票の術

22. びりびりサービス

 

 タイトルはわたしが勝手につけました。なにをどうしたかを説明すると長くなるので書きません。これで約2時間。本人は超能力者といってましたが、どうも手の込んだマジックショーというのが本当のところかも知れません。わたしはそれなりに楽しめたので、記念にグニャグニャに曲がったサイン入りスプーンを300円で購入しました。

 ふーん、そんなもんか感を抱きつつわれわれは諫早の円立寺に戻るのでした。

 

●8月12日(火)、諫早駅から博多経由で帰宅。このツアーに出発する日から始まった給排水管取り替え工事はまだ終わっていず、家の中は混乱の極みでした。押入のものを取り出し平面配置せざるをえないこと、塵、騒音のすさまじさ、さまざまな業者が入れ替わり出入りするという混乱状況に、久代さんはノイローゼ気味でした。

■8月13日(水)~15日(金)/十津川盆踊り→那智勝浦→熊野

 恒例の盆踊り行。「ついに妊娠した」というウィヤンタリ、ジャワからのガムランの先生バンバンの同乗する佐久間車で十津川へ。佐久間車を使うと、毎年違ったインドネシア人と同乗することになり、その度に十津川までの時間がにわかインドネシア語修得時間になるのです。今回も同様に、車中はずっとサマサマ会話でした。

 いつもは十津川の河原はキャンピングの人たちでいっぱいですが、今年は台風のために水が濁り閑散としていました。食料を仕入れる和田商店も元気がない。温泉、和田商店買い出し、そうめんバンバンジーの夕食後、小原の盆踊りに参加しました。今年は行こうと思った大野部落は盆踊りを中止したということ。いったんやめてしまったら続けるのは難しいかも知れません。ナムチェ・バザールのような大野に行けなくなるのは淋しい。

 この日、武蔵青年会館に宿泊したのは、中川真、林トシコ、村田みお、田淵ひかり、奥野ともみ、池平、加藤、佐久間+W、バンバン、桐畑優子、池田宏子、日置(へき)、三木友人夫婦+広告代理店、西真奈美、岡室美千代、祐介、笠光輪子、ユリア-敬称略-そしてわたしの22名。

●8月14日(木)は、武蔵部落盆踊りの本番です。この日はあいにく朝から雨が止まず、元小学校校舎の中での盆踊りになりました。屋内の盆踊りはわたしには初めてでした。朝食後、青年会館組の飾り付け作業班を送り出したマカナイ班長HIROS以下、佐久間、奥野ともみ、岡室さんは台所でカレー調理開始。いつもは前夜にカレーを作っていましたが、地元青年タクシ君の「HIROSカレーをまともに食いたい」という強い要請で本番日製作となりました。

 屋内盆踊りは、こぢんまりとして一体感があり屋外とは違う風情がありました。盆踊り開始直前、参加者の前でタクシ君がわたしの名前を読み上げました。なんだろうと思ったら、締太鼓の寄付者として感謝するというもの。寄贈した締太鼓はアクト・コウベの中島さんからもらったものです。急峻な山に囲まれ、人工の光の少ない夜にひっそりとたたずむ武蔵部落。その学校跡の光に照らされた小さな空間は、深夜まで踊る浴衣姿の老若男女に満たされるのでした。

●8月15日(金) 盆踊りの飾り付けの後かたづけを済ませたわれわれは、那智勝浦へ。佐久間、ウィヤンタリ、バンバン(44歳、17歳と12歳の息子あり)、HIROSの佐久間号、真、田淵光(父ケンジ)、奥野ともみ(大阪芸大音楽工学、タロット占い)、村田みお(大阪市大院、中国庭園研究、公一娘、ビールがんがん)、林としこ(トッシー、大阪市大院、マルガサリ、父徳太郎、母まさこ)の真号の2台。

 途中、本宮で旧本宮跡に参拝後、佐久間君が発見した一見近代的デザインの福祉複合施設温泉「蘇生の湯」で温泉に浸かりました。お湯は超ぬるぬる、非循環、シャワー数不足、他人のことなど構わない地元のオッサンたち、あんまり効かないマッサージ椅子などで「蘇生」どころではない温泉でした。

 6時頃、芝先隆家に到着。一人で出迎えた芝先さんは、ハマチ、マグロ、カンパチの刺身、クジラのルイベ、山形と新潟の枝豆、サーバーつき生ビール、麻婆茄子、餃子、麻婆豆腐、トマトサラダ、2種スパゲティなどなど、つぎつぎと料理攻勢をかけてきました。終盤戦では、満腹して横たわるバンバンの手足1本ずつを、ひかり、なお、としこ、ともみの「喜び組」ならぬ「喜ぶ組」がマッサージ攻撃を加え、金正日以上の待遇を受けるのでした。それを見つつ台所で手助けする佐久間やわだすは、バーロとつぶやく。

 奥様と娘のケイチャンは米子の長男宅とのこと。子供が産まれるので手伝いに行ったおばあさんが向こうで倒れ、その世話のために奥様とケイチャンが米子にということで、隆さんは一人生活なのでありました。

 宴の途中で芝先さんの同級生という近所の松下電器社員がやってきました。彼はパリ、西アフリカなど海外でずっと生活してきた人でした。

 2時頃布団に潜り込んだが、両隣のバンバンと真チャマのいびき、足元のみおの頭のずり上がりで寝るにはきわめて困難な状況でした。

●8月16日(土) 別ルートの真号と別れた佐久間号は、お昼ころ芝先家を出ました。さまざまな帰還ルートを検討した結果、熊野市の岡室さん実家へいったん立ち寄ることになりました。

 岡室実家は小さいけどプールつきの3階建て。亡父の趣味だったというビデオテープが1階から3階までざっと3000本以上。テープの背にはきちんと内容が書き込まれていたが、歴史散歩と同時に食い道楽、ついで落語名人選などと、統一性がない。岡室さんのお父さんはなんだかすごい人だったようです。

 ここでもすごい量の刺身ランチ攻撃にあいました。卓を囲んだのは、十津川からずっと一緒だった笠光輪子、ゆりあ母子、主催者の岡室美千代さん、息子の祐介君、佐久間新+ウィヤンタリ、バンバンそしたわたし。目の前の海岸では翌日の大花火大会の準備が進んでいました。

 お盆帰りの渋滞を避けるために夜に出発することにして、やさしく気弱そうな祐介君、笠母子と「鬼が城」の浸食された奇岩を見物、昼寝、再度のヤキメシ、キュウリと鰹の薫製のサラダの食物攻勢を受けた後、しばらくぐずぐずし9時過ぎに笠車に同乗し2時に帰宅でした。

■8月21日(木)/角+山本公成ライブ/ビッグアップル、神戸

 客は、龍神さん、愛媛から最近甲子園に引っ越してきた中村さん、公成配偶者の星子さん、六甲のがんさんそしてわたしの5人でした。角語スミッシュで手足の動きを説明しつつ体を動かしたのが面白く、天竺園打ち上げでは盛り上がりました。無穴笛、ソプラノサックス、スリン、ぶんまわしとホーミー、インディアンのフルートを駆使した公成さんは多才でした。

■8月24日(日)「音楽ノ未来・野村誠の世界」/碧水ホール、滋賀/野村誠:作曲・ピアノ・鍵盤ハーモニカ、柏木 陽:演技パフォーマンス、片岡由紀+片岡祐介+林 加奈:鍵盤ハーモニカ他、マルガ・サリ+ティルト・クンチョノ:ガムラン

 我が家からはけっこうな距離にある碧水ホールまで足を運び、野村さんのコンサートを堪能しました。彼の作品はどれも、きっちりと書かれた音楽作品というのではなく、演奏者の即興性を盛り込んだ動きのあるものが多く、コンサートというよりもパフォーマンスといったほうがいいかも知れません。聴衆は演奏者たちが気ままに遊んでいる様子を見聞きするのですが、それがホワーンとして実にシアワセ感を味わうことができます。この日はほとんど満員でした。あまりに難しい曲なので練習までしてしまったという自作のピアノ作品を演奏した野村君はなかなかのピアニストなのでした。

 ところで、この日に使われたガムランの楽器は碧水ホール自身が購入したものです。現在の館長である中村道男さんの発案でした。こんなことをしてしまう公営ホールは全国でも珍しいのではないかと思います。緑の装飾が美しい楽器群を使ったジャワ音楽のワークショップも行われ、演奏者も育ちつつあります。

■8月25日~27日/神戸山手女子短大集中講義

■8月31日(日)/怪談牡丹灯籠/ジーベック、神戸/デワ・アリット:作曲・ガムラン演奏、ユリアティ:バリ舞踊、ポタラカ(小谷野哲郎:バリ仮面舞踊、和田啓:パーカッション、川村恒平+濱元智行:ガムラン)

「怪談牡丹灯籠」の作者が落語家三遊亭圓朝だということを初めて知りました。バリ舞踊、バリの音楽と日本の伝統的怪談が実にぴったりと合っていました。和田啓さんの演出も舞踊家の小谷野哲郎さん、ユリアティの夢幻的な存在も素晴らしいのに、観客が少なかったのはもったいない。西真奈美、バミオ、トッシー、マッチャン、佐久間君など、9月の音楽劇「桃太郎」を控えたマルガサリのメンバーにはいい刺激になったのではないかと思います。

 お昼の公演の後、西明石の駒井家へ。駒井夫妻がヨーロッパ旅行から帰り、そのお土産食物と話を楽しむためです。駒井家はなんだかんだといいつつよく海外旅行をするのでした。そのころ息子の仁史君は東南アジアを放浪中なのでした。

■9月6日(土)/庭火祭/八雲村熊野大社、島根/アミット・ロイ:シタール、クル・ブーシャン・バールガヴァ:タブラー、藤井千尋:ハールモーニアム、HIROS:バーンスリー

 八雲村熊野大社で毎年行われてきたこの音楽祭も、今年で11回目。第1回目に参加したときは、こんなに長く続く音楽祭になるとは誰も思わなかったかも知れません。最初のころは、村の人々も距離をとって見ていたと思いますが、今では実行委員会もずっとよくまとまり八雲村の風物詩となりつつあります。10年ちょうど一巡りした区切りとして、今年は第1回と同じバッチューとわたしが演奏することになりました。

 本番の2日前に八雲村に入るというのが暗黙の決まり。そのために、ほぼ毎晩宴会が続くことになります。今年もその例に漏れず宴会だらけでした。

 わたしは、千尋さん運転の車で、ブーシャン、一人娘のマイチャンとともに4日(金)の夕方に八雲村に着きました。そしてのっけから前々夜祭の渦に巻き込まれる。場所は、例年の山頂のスターパークではなく、実行委員会副委員長、造園業の有馬勇さん宅。名古屋からのバッチューは志水君とともにかなり早く着きすでにくつろいでいました。実行委員会委員長、農業の土谷昭治さんは最近目覚めた蕎麦を打ち、潜りの好きな藤田さんはコーヒー煎れ一式を携帯して手ぐすねを引き、建築設計の米田さんがいひひひひと生ビールを勧め、バングラデシュからの留学生夫婦ヴィヴィとアハマド、康雄さん+喜代栄さん+三千恵ちゃん+真奈美ちゃんの瀬古一家、ジャワ舞踊を目指す杉山アミちゃんらがつぎつぎにサービス攻撃を繰り出すのでした。

 その日からの宿舎はホームステイ。ブーシャン+千尋+マイチャンのバールガヴァ一家が有馬宅、バッチュー+志水君+わたしが土谷宅でした。

 5日(土)は7時半ころ起床し、土谷宅の豪華朝食の後、八雲小学校400名児童の集まるアルバホールへ。小学生を前に出演者たちが話をしたり演奏するのも恒例行事です。今年は、校舎改築のために村営ホールで行われました。田舎の子どもたちはおとなしいのですが、舞台からシタールの弦の本数を聞くと、5ほーん、10ぽーん、20ぽーんと、わーっと反応が来てけっこうにぎやかな交流会になりました。名古屋の子どもたちはああはなならないとバッチューが申し述べる。

 熊野館でランチ弁当後昼寝をしていると瀬古さんが「海でもいきますか」と誘いに来たのでみんなで島根町加賀の潜戸へ遊びに行きました。ズボンをたくし上げて海に入ったブーシャンはクラゲに刺されるのでした。きっと生まれて初めてだと思います。

 前夜祭は「ふるさと館」。ヴィヴィ特製マグロ・カレー、チキンカレーの他そうめんなど。徹底的に煮込んで原型のなくなったマグロのカレーはなかなかにおいしかった。昨日のメンバーに、初めて会ったときはまた短大生だった小倉さん、ビートルズの好きなスケベオジサン山根さん、白鹿(しらが)さんとその娘さん、持っているタブラーのチェックをしてくれと頼んだ後ハーモニカを吹き出した安達さんらも加わり、大芸能大会へと発展していくのでした。

 6日(日)、朝食後バッチューたちは瀬古さんのガムラン練習場へ。激しい雷雨があり本番がどうなるかちょっと気になりましたが、夕方には雨が上がり準備も進んでいました。

 篝火と照明に照らされた熊野大社本殿前の舞台で、1500人ほどの聴衆を前に演奏しました。バッチューのラーガ・ジンジョーティーがきれいでした。

 篝火の世話をする天狗の会の人たちも加わった打ち上げは、真っ暗な田圃に囲まれた公民館で敢行され、深夜まで歓声が響き渡るのでした。

 7日(月)は、ブーシャン一家はホストファミリーの有馬さんたちと出雲大社へ出かけましたが、瀬古さんのシタール・レッスンを聞きつつ、わたしは二日酔い気味で土谷宅でゴロ寝。土谷宅では、奥様やお母さんがつぎつぎにご馳走攻撃をかけるのでなかなか油断ができなかったのですが。

 昼過ぎにブーシャンたちが帰ってきたので合流し、丹後へ向かうバッチューと志水君とはここで別れました。われわれは瀬古ファミリーと米子のカレー屋「カシミーリー・ダルバール」へ。「カシミーリー・ダルバール」は、以前によく遊んでいただいた三村さんの経営するカレー屋です。久しぶりに会う三村さんは相変わらずお元気で威勢がいいのでした。

 

■9月10日(水)/スペース天リハーサル

 マルガサリを主宰する真さんから碧水ホールでのコンサートの舞台監督を依頼されたので、練習に立ち会いました。ジャワ伝統曲は問題ないのですが、野村誠さんとの共同作品「桃太郎」第2場、3場はまだまだ練習を要するようでした。真さんはわたしに舞台監督を頼んだというのにまともな台本すら用意されていない。2001年9月に初演された第1場は、どちらかというとダンスドラマになっていましたが、今回はより演劇的要素の強い内容でした。したがって、マルガ・サリのメンバーは演奏はもとよりセリフを覚えて演技もしなければならない。演技に関してはほとんど訓練のないメンバーたちの演技を見ていてじゃっかん不安になるような仕上がりなのでした。

 その日は近くの佐久間宅に宿泊。佐久間宅には、佐久間君の踊りの先生スナルディーがきていました。これまで会ったインドネシア人には珍しく英語を話すのでいろいろとおしゃべりをしました。ジョグジャカルタの芸術高校の先生で、ダンスカンパニーも持っています。5人の妻を持つ父モングン、母ムジー、息子一人、娘二人、奥さんはトゥッティー(デェッと家で呼んでいる)、などというのを聞き出しました。

■9月11日(木)/セプテンバーコンサート/ギャラリー島田/朴元:チャンゴ、HIROS:バーンスリー、矢的匡:ギター+梶田美奈子(歌)、季村敏夫:詩、曽朴:二胡、李浩麗:声、木村泉美:パーカッション、ユミ・イトー:ピアノ、摩耶はるこ:声、はくさん:ディジュリドゥ、伊藤ルミ:ピアノ

 いつもお世話になっている島田誠さんの依頼でした。アメリカ各地でも行われているコンサートとも連係した催しですが、とくにあの貿易センタービル崩壊の犠牲者にどうのということではなく、暴力一般に対するミュージシャンのささやかな抵抗と思い参加しました。聴衆は30人ほど。

 音楽によって世界平和を、とはよくいわれたり使われる言葉です。しかし、音楽は果たして「平和」に貢献するのか。極悪非道の悪人でも、サダムでも、ブッシュでも、いわゆるテロリストでも、そのことによって何万人も殺すかも知れない爆弾の投下ボタンを押す人に、人殺しよりも音楽を聞こうよ、ということは有効なのか。音楽の好きな殺人者だっているんじゃないか。ワーグナーの作品はヒトラーにユダヤ人虐殺を思いとどまらせたか。第2次大戦中に敵味方双方の兵士に愛好された「リリー・マルレーン」は、それを聞いているときは戦争のむなしさを、戦う理由を、問い直す力があったのかも知れませんが、音楽によって世界平和を、というのはわたしにはナイーヴ過ぎるように思うのでありました。

 最後に伊藤ルミさんがカザルスの「鳥の歌」を演奏しました。とても美しい曲です。この曲は、95歳のカザルスが国連の場で「最後にこれだけは弾きたい」と演奏したカタロニア地方の歌です。これを聞きながら思いました。わたしにとって、カザルスの「鳥の歌」のような「うた」は何だろうか?

■9月13日(土)/「桃太郎」リハーサル

 14日の本番前日に水口に行きました。同行した車中で、すっかりなつかれてしまったスナルディに「あなたのことをジャワの新聞に紹介したいから」とインタビューを受けましたが、どうなったかなあ。

 碧水ホールでリハーサルでした。その創作の方法にも因っていましたが「桃太郎」はまだまだ未完成です。リハーサルの進行につれて細部も少しずつ変化していく、あるいは変化も可能という性格の演目なので、そもそも完成ということはありえないのかも知れません。

 この日も、本来はできあがった台本に基づいた進行を管理すべき舞台監督であるわたしが「そそのかしレディーズの腰つきはなんとかならんか」とか、作曲者の野村誠さんが「お面に当てる懐中電灯の角度はこうしたら」とか、林加奈さんが「あそこはセリフは明瞭にすべきだ」とか、あれこれと細部が手直しされ、さらに主催者の中村館長までが「あそこで暗転はよくない」とか「哲学者の部分はなくともよいのでは」などと全体の演出に感想を申し述べ始めるのでした。

 この日の宿舎であるスポーツの森ロッジの布団の上でも演出上の議論とリハーサルの反省が続く。ふつうミュージシャンは宿に入ると酒を飲んでバカ騒ぎかノーテンキな話題で盛り上がるのですが、この日のマルガ・サリはまるで演劇団体のような様相。8畳ほどの和室3室にぎっしりと敷かれた布団に寝たのは、中川真、佐久間新、ウィヤンタリ、バンバン、スナルディ、水谷由美子、家高洋、田淵ひかり、東山真奈美、西真奈美、西岡美緒、西田有里、林稔子、日置淳志、本間直樹、松宮浩、奥睦美、坪井優子、野村誠、林加奈、魚谷尚代-敬称略-とわたしの22名。

 

■9月14日(日)15:00~18:00/ガムランコンサート/碧水ホール/ダルマブダヤ:ガムラン、特別出演:バンバン・スリ・アトゥモジョ、スナルディ、野村誠、林加奈、村上圭子/賛助出演:魚谷尚代(桃太郎役)/衣装:水谷由美子、岡部泰民/HIROS:舞台監督

 合宿状況排便困難生活なので、バンバン、スナルディを連れて朝食材料を買い出しに行く佐久間君に乗せてもらい、わたしはそのままホールの楽屋で通常生活を行い待機しました。楽屋にはシャワーもあったのです。

 10時から12時半まで、照明、舞台、部分リハーサル。東京からシンデンの村上佳子さん、録音をかって出た村田公一さんも合流しました。

 15時開演の本番は、それなりの完成を見せつつ、つつがなく終わりました。トータル3時間ほどの長い公演でした。聴衆は、100人ほどか。ダルマブダヤのメンバーや愛知芸文センターの藤井明子夫妻などが見えていました。

 終演後は、ロビーで簡単な打ち上げ。座が盛り上がっている途中、8時半の京都発新幹線で山口に帰る予定だった水谷さんを京都まで送るという真さんの車に同乗しました。車中では「どうみても間に合わない」「いやひょっとすると間に合うかも」「代表が先に帰るというのはまずいかも」などという会話と関係なく車はどんどん京都に向かうのでしたが、やはりどうみても間に合いそうにないので再びホールに戻りました。当然、ほとんどのメンバーは帰った後でした。残っていたのは、野村、林、田淵、村田ミオ、バミオと野村君の友人で背の高い女性。みんなで「ざ・めしや」の夕食をとりつつ第4場の構想や反省点などを話し合うのでした。「桃太郎」完結のあかつきにはヨーロッパ公演だあ、と真さんは申し述べるのでしたが、どうなることか。

■9月15日(月)東野健一個展「メラメラメラ」/CAP HOUSE/北川真智子:箏、稲見淳:コンピュータ、はくさん:ディジュリドゥ、HIROS:バーンスリー他

 小さな大腸ガンを内視鏡手術で除去しすっかり元気になった東野健一さんのCAP HOUSE全館を使ったワンマンショーに、バーンスリーをもって参加しました。この日のCAP HOUSEは、東野さんのファンで全館大にぎわいでした。神戸山手女子短大の大原さん、石倉さん、わたしも教えた学生の一部、奈良の柏井貴里子さん、遅れて広田順子さん、共同通信記者林さんなどなども見えていました。

 ちょうどこの日、阪神がセリーグの優勝を果たし、道頓堀では何千人もの人が川に飛び込むのでした。

■9月17日(水)/映画「英雄」/タン・ドゥン:音楽

 音楽に和太鼓の鼓童が参加しているというので夫婦で見に行きました。剣士が飛んだりはねたりの劇画のような映画でした。

■9月23日(火)16:00~/TOAアジアの音楽シリーズコンサート第22回、「日本の胡弓と中国の二胡」/ジーベックホール、神戸/福原左和子(筝、胡弓)、池上眞吾(筝、三弦、胡弓、作曲)、石川利光(尺八)、賈鵬芳(二胡)、姜小青(古箏)、ジャンティン(琵琶)/企画:天楽企画

 二胡ブームといっていいかも知れません。なにせ、この企画でお呼びする賈鵬芳さんの教室で習う人たちの数がすごい。東京と大阪で数百人ということです。彼の素晴らしい技術、音色、人格に因るところも多いのでしょう。テレビでも二胡の音をよく耳にするので、日本人の感性にどこか抵触しているのかも知れません。

 日中の名演奏家の出演なのでとてもよいコンサートでした。今回の出演者たちは、池上さん以外は旧知で、最初から安心して進めることができました。中国的美形の小青の繊細な演奏とジャンティンの超絶技術に聞き惚れなおしました。京美人の福原さんとは久しぶりで、相変わらず舞台の立ち姿と箏の音色が美しい。石川さんの尺八は、今回ぐっと見直しました。すごい人です。

 以下は、当日のプログラムに書いたものです。

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 日本の胡弓と中国の二胡。どちらも弓で演奏する擦弦楽器である。「胡」の文字は、中東やペルシアを意味する。このことから両者の起源はそのあたりにあると思われているが、楽器の構造や奏法に違いがある。

 日本の胡弓は、安土・桃山時代に原型が渡来したといわれる三味線よりも後になって現れた楽器であるが、いつ、どのようにして生まれたのかははっきりしない。中国渡来と一般に思われているが、西洋の中世の擦弦楽器レベックを元に作られたという説もある。ともあれ、日本の胡弓は17世紀中頃には盛んに演奏されていた。しかし、現代では箏や尺八に比べて相当に地味な存在になっている。しかし、その細く伸びる、切なくはかない音色は、忙しい今の時代にこそもっと注目されていい。

 一方の二胡は、今では中国の代表的な伝統楽器のように思われているが、元の時代(13~14世紀)に新彊省地方から伝わったといわれている。日本の胡弓に比べ、力強さのなかに郷愁を誘う甘い響きがある。今、日本でこの二胡がブームである。それは、賈鵬芳さんのようなすぐれた演奏家の存在が大きいのと同時に、人間の声に似たその響きが、ストレスの多いわれわれ現代人の心を癒してくれるからなのだろう。

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■9月26日(金)/cocoroom下見

 ウクレレ前田さんと企画した聲明ワークショップの下見に大阪のフェスティバルゲートへ初めて行きました。祭りの道具が片づけられずにそのまま残ってしまったような大きな空間でした。またその周辺の景色もわれわれの日常を越えています。ジャンジャン横町には串カツと寿司屋が交互に立ち並び、そこではしょぼそうな男たちが酒を飲んでいるのでした。昭和初期を舞台にした映画のセットのような町並みです。そんな街並みに屹立する通天閣の「日立ITソリューション」のネオンが印象的でした。

■9月28日(日)/インド音楽とインドカレー/河内長野ラブリーホール、大阪/クル・ブーシャン・バールガヴァ:タブラー、藤井千尋:ハールモーニアム、HIROS:バーンスリー

 椅子ならば400人くらい入れそうな小ホールに、白のテーブルクロスをかけたテーブルとホテルにあるような椅子が並べられ、舞台から見るとまるで結婚披露宴のような感じでした。宮地さんの「食いもんと音楽」という企画はばっちりあたり、数日前に予約をうち切るほどの人気でした。

 会場からはカレーの匂いが立ちのぼり、空腹状態でソロ演奏するわたしには拷問なのでした。ソロの後、長い休憩時間にカレーを食べ満足した聴衆は、まだ空腹なわたしのカレーの話を聞き、空腹なブーシャンのタブラーソロの後、二人のセッションを聞くのでした。終わった後にようやくありついたカレーは、シェフが我が家に調理実習に来ていたせいかとてもおいしく仕上がっていました。

 この企画に気をよくした宮地泰史君は「またしようかなあ。今度は何料理がいいかなあ」と申し述べるのでした。

■10月1日(水)/七聲会UKツアー打ち合わせ/大光寺

■10月2日(木)/マジカルダンスギィアシリーズ<9>/ビッグアップル、神戸/角正之:ダンス、YOSHITAKE EXPE:スペースギター、HIROS:バーンスリー、トゥンガトン、サガイポ、ケイモーイ他

 8月の山本公成さんとのセッションの後、角さんが「じゃあ、今度はHIROSさんとだ」ということで今回のライブになりました。誰かもう1人というリクエストで、長崎で一緒だったYOSHITAKE EXPEにも来てもらいました。

 わたしは笛だけでは間が持たないので家にある小物類鳴り物総動員でした。やっている方はけっこう面白かったのですが、10人くらいのお客さんたちはどうだったのでしょうか。

■10月5日(日)/中川ともこ国会報告/アピアホール、阪急逆瀬川

「社民党国会議員の中川ともこさんがお話たいということです」と秘書の方からメールをいただき、しばらくすると電話がありました。「毎日新聞で中川さんのことを読みました。用件は、わたしの集会で演奏してほしいんですが、どうでしょうか。わたしは、大橋巨仙さんが議員辞職の記者会見をしていたとき横でやめないでーとどなっていたおばはんです」。わたしもその映像は見ていたのですぐに分かりました。

「おばはんです」と自己紹介していたように、中川さんは実に気さくな女性でした。断る理由はないので応諾しました。

 集会は、折から選挙が近づいていたのでその決起集会のような趣でした。性教育に関わる広島の河野美代子医師、薬害ヤコブ病大津訴訟原告団長の谷三一さん、ハンセン病違憲国賠償訴訟全国原告団協議会副会長の竪山勲さん、日本介助犬使用者の会事務局長の木村佳友さんらの応援演説を聞くと、中川さんはあまりニュースでは取り上げられない地味な分野で疲れを知らない旺盛な立法活動をしていたらしいことが分かりました。なるほど政治家というのはこういうことをやっているのかと認識を新たにしました。

 わたしが演奏したせいではないと思いますが、彼女は11月の選挙で敗退し、土井たかこさんも代表からはずれ、社民党は極小政党になってしまいました。とくに支持していたわけではありませんが、すこしはシンパシーがありましたので残念です。

 集会後、中華料理店で打ち上げでした。向かいに座ったハンセン病の竪山勲さんの話は興味深いものがありました。戦前からつい最近までのいわれのない差別と偏見にはおぞましいものがあります。同時に、まともな教育も受けず国との裁判を長年戦ってきた竪山さんの明瞭でよどみのない話しぶりに、どんなことでも集中持続すれば人はすぐれて知的になれるのだと思うのでありました。

 

■10月11日(土)/イヴニング・アート・パーティー/CAP HOUSE/芋煮会

 CAP HOUSEの住人で、最近フィンランドで制作を続けている山村幸則さんの中間活動報告会のついでに、わたしが芋煮を作りました。CAP HOUSEでは何度も芋煮会をやっているので、この麗しき山形の伝統も少しずつ定着しつつあります。

 調理を手伝ってもらったのは、お母さんが帯広出身という画家の高濱浩子さん、大山崎山荘美術館の学芸員落合治子さん、鍼灸師の愛ちゃん。味は当然ばっちりでした。

 

■10月12日(日)/ランドゥーガ/高槻幼稚園

 2回目のランデゥーガ参加でした。今回は10人ほどと人数が少なかったので、前回のような混沌にはならず、なかなかにしっとりとした即興音遊びでした。わたしは、主にベトナムの口琴ケンモーイとカリンガのサガイポで戦いました。打ち上げは、近くのスタジオ73。参加者集合を待っているあいだ、ピアノを触っていた佐藤さんにリクエストし「ルビー・マイディア」を弾いてもらいましたが、とてもよかった。

 

■10月17日(金)/聲明ワークショップ/cocoroom、大阪/清水秀浩:聲明指導、解説、HIROS:進行

 宣伝があまりできなかったのでこぢんまりとしたワークショップになりました。参加者は、大阪教育大学の古坂先生、聲明がご専門の澤田先生、七聲会の宍戸崇真さん、建築の竹葉さん、マルガ・サリの西真奈美など知り合いを入れて18名でした。西澤君にはCD係りをしてもらいました。清水秀浩さんは七聲会のメンバーで、知恩院の聲明専門家です。さすがに説教に慣れているせいか、漢字の多い言葉ながらジョーク混じりのよどみのない解説はとても分かりやすかった。

 

■10月18日(土)/第4次讃岐うどんツアー/参加:庭火祭実行委員会

 庭火祭のときにふとわたしがつぶやいたのがきっかけで讃岐うどんツアーになりました。今回は庭火祭実行委員会がほとんど丸ごと参加で、赤のマイクロバスを仕立てての大部隊。わたしがしつこく言いふらしてきた讃岐うどんのただならない実態を確認したい願望が八雲村でも高まっていたようです。参加者は、瀬古康雄さん、奥さんの喜代栄さん、長女の三千恵ちゃん、次女の真奈美ちゃん、件の三好修一さんおよび奥様の由紀子さん、米田裕幸さん、有馬勇さんおよび長女の美由紀さん、石倉雅幸さんおよび娘のさちえさん、バングラデシュ人留学生夫婦アハマドとヴィヴィ、赤浦和之さん、坂本智史さん、藤田誠さん、松原吉司さんの島根組とわたしを入れて総勢18名。

 長いツアーレポートは、ウェブサイトに掲載しましたので参照して下さい。→→

 今回訪ねたところは、「谷川」「宮武」「山内」、丸亀市猪熊玄一郎現代美術館、「渡辺」でした。見直したのは「宮武」の実力。

 八雲村の人たち、特に瀬古一家はすっかり讃岐うどんにはまってしまったようで、その後たびたび報告が来ています。このツアーはどうも、恒例化しそうな雰囲気です。

 

■10月26日(日)/的場健太郎、聡子結婚披露宴/CAP HOUSE

 CAP HOUSEの活動がきっかけで結ばれた二人の結婚式でした。CAP HOUSEが結婚式場になったのも、もちろん初めてです。オッサン顔なのに実はまだ若い的場君は、道具や素材に詳しくたのもしいスタッフです。いっぽうのジョーこと聡子さんは、うがい合唱団なるものを考案した作家。

 CAP HOUSEの面々が繰り出す珍妙斬新の出し物に両家の親族たちはたまげかもしれません。花嫁の親族がやたらに明るかった。わたしは、しんみりと「秋田長持歌」を歌いました。

 

■11月12日~11月24日/七聲会イギリス公演ツアー/イギリス各地/七聲会(池上良生、佐野眞弘、宍戸崇真、清水秀浩、橋本知之、南忠信):聲明、HIROS:バーンスリー、通訳、旅行仕事あれこれ/14日(金) Havant Arts Centre, Havant/15日(土) Forest Arts Centre, New Milton/17日(月) The Spitz,London /20日(木) Invention Arts Centre, Bath/21日(金) Haverhill Arts Centre, Haverhill/22日(土) Leconfield Arts Centre, Petworth /23日(日) Quay Arts Centre, Newport Harbour (Isle of Wight)

 3年ぶりの第2回七聲会イギリスツアーでした。前回は七聲会の聲明だけでしたが、今回はわたしのバーンスリーソロ演奏とセッションを加えたプログラム仕立ての7公演。

 ケンブリッジに近いハーバーヒル以外はほとんど南イングランド周辺を巡ってきました。13日間の英国滞在のうち、まともに晴れたのが2日間だけで、あとはどんよりとした曇りか雨という日々でした。訪れた町や移動中の風景はどこも退屈するほど美しかったのですが、雨や曇りの続くこの季節ではなく春か夏であればもっと南英を満喫できたはずです。また、夕方4時半には暗くなるので1日がとても短い。

 公演はどの会場でも暖かく向かえられ、持っていったCDをほぼ完売したことからも成功といえるでしょう。例によって日記を約4万字ほど書きました。それぞれの公演については書くことが山ほどありますが、直接関係しない出来事を以下に紹介します。

●ヘンズ・パーティー

 ニュー・ミルトンで公演を終え、ボーンマスのホテルに帰ったわれわれは、階下のバーでビール打ち上げをしていました。今日もやれやれ無事に終わったなあとしみじみとビールを飲んでいたのですが、隣の席がやたらかまびすしい。見ると、肩から「TO BE MARRIED」という赤いたすきをかけた若い女性を中心に20人ほどの女性たちが大声でしゃべり合っています。その嬌声があまりにすさまじい。いったいこれは何の騒ぎだとケビンに聞くと、ヘンズ・パーティーだという。

「あのたすきをかけた女性は明日結婚式をするんだ。それで、仲間の女友だちと独身最後の自由を楽しんでいるんだ。ほら、ニワトリのうるさい鳴き声に聞こえるだろう。だから、ヘン、つまり雌鳥のパーティーというわけ。嫉妬してやっかんだり、男の品評をしたり、猥談したりできりがない。この辺の風習さ」

 われわれの、公演無事終了のやれやれ感をぶっ飛ばす女たちの勢いはいつ果てるとも知らず続くのでありました。女たちがこれだけ集まってしゃべるとものすごいエネルギーになるのは、ま、イギリスも日本も一緒でありますね。 

■12月4日(木)/大阿闍梨、道なき未知を語る/グランキューブ大阪メインホール/酒井雄哉:講演、田中りこ:タブラー、HIROS:バーンスリー/工藤聡史+滝本二郎:HIROS用音響調整/主催:国土交通省、毎日新聞社

 AFO公演や他の大規模な楽隊の一員としては経験あるものの、3000人近い大ホールでソロ演奏したのは初めてでした。

 今年1月18日のメモリアル・コンファレンスの演奏を聞いた国土交通省の方に是非にと頼まれたものです。メインはもちろん、千日回峰を二回も成し遂げたという比叡山飯室谷不動堂大阿闍梨、酒井雄哉師の講演で、わたしは要は前座なのでした。いろいろと話題になっている国土交通省の道路作りキャンペーンの一環のようなイベントでした。会場費ばかりでなく、凝った照明や配布印刷物などでもかなり費用のかかっイベントでした。ともあれ、常時ゼニ不足状況のわたしにとっては、多少のギャラをいただいたわけで、ありがたいことではありますが。

 3000人も人が来るのだから相当売れると踏んだわたしは、井上想君にCD200枚をもってもらい、臨時売り子久代さんと一緒に会場へ行きました。200枚ということは50万円の売上だ、よしここは贅沢に、と我が家から三宮まではタクシーでした。

 最近、滋賀にスタジオを建築中だという音響の工藤聡史さんと、ジーベックの舞台関係業務をやっている滝本二郎さんに音響調整と舞台監督をやってもらったので、とてもリラックスした演奏ができました。演奏の最初の15分は、二千日回峰にちなむ映像とシンセサイザー・ドローンを背景にアーラープ、そして後半25分をドローンはそのままでりこさんのタブラーと合わせた演奏でした。

 無料ということもあり、知り合いにも数多く来てもらいました。建築の竹葉公禎、池田哲朗さん、外賀嘉起さん、上田千代子さん、大学の同級生安藤朝広+三恵子+山村さん、大学の先輩奥山さん、佐久間新+身重ウィヤンタリ、奈良の上原美津代さん、七聲会の清水秀浩さんと宍戸崇真さんなどなど。

 酒井師の話が終わり、3000人近い人々が出口からどっと出てきました。演奏の終わったわたしと久代さんは、CAP HOUSEの潤井君に2000円で作ってもらったポスターやつり用500円硬貨、ゼニ入れ菓子箱、CDを机に展開して手ぐすね引いて待っていました。購買者が殺到してパニックになるのではないか、全部売り切れたら豪遊だ、ぐひひひひ、という思惑をよそに、となりに店開きをしている酒井師の本コーナーに一部が流れるものの聴衆はどんどんと出口エレベーターに流れていきます。井上想君はCDを高く掲げ、大学先輩の奥山さんがポスターを上下に振っても、流れの勢いは止まらない。ああ、無情。久代さんが聴衆のファッション、年齢、挙動を子細に観察した結果「CDプレーヤーをもっている観客がいないのではないか。平均年齢は65歳かそれ以上と踏んだ」というのも頷けるような客層ではありました。井上想君は「やっぱ、カセットでしたかね」などともいうのでした。で、結局売れたのは40枚ほどでした。一つのライブで売れた量としては最高でしたが、200枚完売を夢見ていた私としてはちとがっかり。200枚売れたら良友酒家の火鍋おごったる、というわたしの宣言を聞いた下田夫妻や森信子さんも失望していることでありましょう。

 終わったら同窓宴会となりました。安藤夫妻、25年ぶりにお会いした山村さん、奥山さん、久代さんそして井上想青年と、天神橋商店街にある居酒屋でフグ鍋宴会でした。フグも酒もうまかったなあ。

 

■12月10日(水)火鍋宴会/良友酒家/参加:下田展久+雅子、森信子、中川夫婦

 カニ、エビ、白子、白身魚、貝柱、とこぶし、ハマグリ、霜降り牛肉、肉団子、マツタケ、厚揚げ、モヤシ、白菜の豪華版中華鍋+紹興酒4本を6人で消費しました。もっとも、CD200枚売れたらオゴッタルと豪語していましたが、目標までは遙か遠いという結果だったので、ワリカンということになりました。参加者の皆さん、スミマセン。

 久しぶりに超豪華中華に堪能しました。数年に1回は食べたいものです。酒も飲まない森チャンは、超豪華素材に胃がたまげたためかその晩、調子が狂ったということです。わたしもお腹がぱんぱんに張る苦しみを翌日も味わいました。

 

■12月11日(木)世界の民族楽器紹介ワークショップ#19 二胡/ジーベック/講師:賈鵬芳/キムチ鍋宴会

 朝9時半に徒歩6分のジーベックに行くと、東京から新幹線でやってきた賈鵬芳がすでに到着していました。「昨日は3時に寝て、今朝は5時前に家を出たから、ほとんど寝てない」という賈さんが鼻をぐずぐずさせながら申し述べる。そんな超多忙な賈さんのワークショップでした。素晴らしい演奏や、ジョーク混じりの解説、余分に持ってきてもらった二胡に触れた30人ほどの子どもたちは大喜びでした。賈さんの二胡の学校、今や東京と大阪にある天華二胡学院は、生徒の数が数百人と膨張し続けているようです。二胡と賈さんの人気のほどが伺えます。

 終わったあと、来日したてのころ、工事現場やアルミサッシュ組み立て工場や中華料理屋の皿洗いをして食いつないでいたなどという話を聞きました。軟弱な生き方のわれわれとは比較できない強さです。

 夜は宴会でした。我が家にやってきたのは、佐久間新+ウィヤンタリ、坪井ゆゆ、湊茉利。メンバーは、ガムランのマルガサリ関係者です。久代さんが仕事でてんぱっていてまたしても「家事放棄宣言」をしたので、佐久間君とわたしで宴会の準備なのでした。来年4月ころ出産予定のウィヤンタリのお腹はかなり出っ張ってきました。カボチャを食べ過ぎて肌が黄色に変色しドクターストップがかかったカボちゃんこと湊茉利さんの、その不可思議な食生活と家庭生活を酒の肴に3時ころまで飲みました。坪井ゆゆと湊茉利は京都芸大の大学院試験に通った、と開放された様子でありました。

 

■12月13日(土)/倉智久美子個展/CAP HOUSE/AKJ忘年会/天竺園

 ドイツ在住の倉智久美子さんの個展にチラッと寄ってワインをいただき、その勢いで天竺園のAKJ忘年会へ行きました。参加者は、中西すみこ、森信子、石上和也、東野健一、下田展久、角正之、中島康治、HIROS。

 

■12月14日(日)/久代54歳生誕記念宴会/サダム・フセイン拘束「We got him」

 髭ぼうぼうのやつれたサダム・フセインが隠れ穴から引っぱり出されたころ、神戸三宮のある寿司屋では、あるジュクネンフーフ(われわれ)が配偶者の54回目の誕生日を祝うのでした。寿司なんか食っていていいのか、と誰かにいわれそうですが、いいのです。

 現在イラクの最高権力者であるブレマーが「We got him」との宣言に「ワーオ」みたいな反応で応えた記者団の反応がなんともいえません。物事の理解の粗雑な感じが否めませんね。ホーチミン報告で引用したアメリカ合衆国独立宣言--われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている・・・-の精神なんててんで関係ないように見えるのでした。

 

■12月19日(水)/仁史君来宅

 この日は京都で七聲会の忘年会の予定でしたが、前の晩から風邪気味発熱だったので家で寝っころがっていました。そこへ、7ヶ月ぶりに東南アジア、インドの旅から帰ってきた甥の仁史君が突然やってきて、キムチ鍋になりました。若いのはいいなあ、元気で。

 

◎これからの予定◎

■1月23日(金)/ジーベック・小中学生のための世界の民族楽器紹介ワークショップ#古箏/講師:姜小青/企画・共同進行:HIROS

■1月28、29、30/神戸山手女子短大集中講義

■2月29日(日)/『ヒバクシャ』上映会/CAP HOUSE/主催:AKJ

「平和・協同ジャーナリスト基金賞」を受賞した話題の映画『ヒバクシャ』の上映会を行います。監督の鎌仲ひとみさんもいらっしゃるので、みなさん是非おいで下さい。

■3月17日(水)18:30~/音楽セミナー「ネパールの音楽」(仮)/西宮市プレラホール、西宮市/パンチャラマPancha Lama:バーンスリー、サラバンラマshrawan Lama:タブラー、伊藤和美:ネパールダンス/企画制作:天楽企画/中川博志:解説、進行

■3月24日(水)/ジーベック・民族楽器紹介シリーズ小中教師セミナー/講師:中川真(大阪市立大大学院教授)、企画・共同進行:HIROS

■3月28日(日)14:00~15:30/大阪市立図書館国際交流プログラム「午後のラーガ」/大阪市立図書館1F/田中りこ:タブラー、HIROS:バーンスリー

■7月/ジーベック・小中学生のための世界の民族楽器紹介ワークショップ/ジャワ・ガムラン/マルガ・サリ(予定)/日程未定