その9/カトマンドゥー(3) ライス・プディングの効き目

 ドイツ人と思われる男女が食事を終えて、同時にふらっと立ち上がった。男が調理場にいる少年を呼んだ。少年は、われわれが呼んだときのように、濡れた手をズボンになすりつけながら現れた。
「ハウ・マッチ」
「15」
「OK」
 男は首からぶら下げた布の貴重品入れのジッパーをもどかしげに開けて引っぱり出したお金を少年に渡した。テーブルから立ち上がってから勘定まで、ずっと上体をゆらし続けていた。女は、ダライ・ラマの写真をじっと見ながら待っていた。やはり上体がふわりふわりと揺れている。二人とも、軟体動物がかろうじて両足で立っているように動作が緩慢なうえ、赤目トロン状態だった。二人はドイツ語で何かしゃべりながら出ていった。やはりドイツ人だったようだ。
 二人がドアを開けて外へ出たときに、少年が白い小型のスープ皿2つを持ってきて無造作にわれわれのテーブルに置いた。音程が小刻みに揺れる「イエスタデイ」が流れていた。われわれは、固く炊いたミルク粥のようなライス・プディングをスプーンですくってずるずる食べた。砂糖が入っていて甘い。
「味はそんなにスペシャルじゃないよね」
「おいしいじゃない。この黒いつぶつぶが、あれかな。結構入ってる感じだけど、臭いはしないね」
「食べるのは、吸うよりも効くかなあ。ぼくは食べるの初めてだけど、北村さん、食べたことある」
「ない。バッドトリップすることがあるって聞いたことはあるけど」
 BGMがいつのまにか「カム・トゥゲザー」になっている。
「胃から吸収されるから、効いてくるのは遅いかもね。吸うとすぐくるけどね」
「多分ね。うーん。うまい、うまい」
 われわれは、あっという間にライス・プディングを食べ終えた。考えてみれば、前の日はまともに食べていなかった。10時間ほどのトラック移動の途中に止まったチャイ屋でサモサを数個食べただけだったのだ。
「さて、これからどうしようか」
 肩に一眼レフのカメラをぶらさげた北村氏がぼそっといった。
「とりあえずシャワー浴びたいね。もうからだがぎとぎとだよ」
「ここの宿にはそんなものあるかな」
「あまり期待できない感じだけどね。洗濯もずいぶんたまっちゃってるし、今日はあまり出歩かないでおこうかな、北村さんは?」
「ま、朝飯前にこの辺を散歩して写真とったし、今日はゆっくりしようか」
 音楽は「ヒア・カムズ・サン」に変わっていた。われわれは、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が始まったとき勘定を済ませ、二階に上がった。

 それは、出し抜けに始まった。ベッドに腰掛けてタバコを吸っていると、頭に特殊な引力がとつぜん作用したかのようだった。その引力はあまりに強烈なので背筋を伸ばすことができなくなった。頭が枕を意識したとたん、うっすらと汗の臭いを感じた。そして世界が回転し始めた。北村氏も壁も天井も窓もベッドもすべて激しく回転していた。わたしは、ヨーロッパや中東の道々ですでにこの種の酩酊感覚を経験していたが、このときの酔いはそれまでと比較できないほど深かった。
「あはっ、なあーんか、かなり効いてきたって感じだ」
「ウン、こりゃ、相当なもんだね」
 北村氏はベッドに横になって天井を見ていたが、うーんとうめいて寝返りを打ったきり無言になった。
 目をつぶると、正面にぼんやりとした地平線のようなものが見えた。その地平線の先端からオレンジの光の球がこちらをまぶしく照らしている。高速で飛行するジェット機のコックピットから飛び去る風景を眺めているような感じだ。今度は左端から雑多な想念が連続して現れた。子供時代の記憶、友達の顔や声、ブッダガヤーの日本寺の僧侶の「予約してますか」の声、状態を揺らすドイツ人ヒッピー男女、トラックの荷台、トイレの強烈なたたずまいと臭い、多分ガヤー駅か、大学入試の答案用紙、飼っていた黒い猫、大学1年の時の女友達、新宿駅でのジグザグ・デモ、機動隊のヘルメットの青い反射光、小学生の担任の先生の顔、ニーチェの『この人を見よ』のあいまいな言葉の切れ端、雪の間から顔を出しているねこやなぎ、ヒマーラヤの山々・・・ここではとても書ききれない記憶やイメージの断片がものすごい速度でやってきては去っていく。走馬燈なんというものではなく、イメージの断片を記した無限に長いひとつながりのフィルムが一方通行に流れる。あっ、こんなこともあったか、とひっかかったイメージをなんとか一時的に固定しようとするのだが、意志とは無関係に瞬く間に去り、それと関連のない新しい想念がつぎつぎに更新されていく。このフラッシュバックに意識をゆだねるのは、そう悪い感覚ではない。どこまで続くのか確かめてみたいという願望もあった。
 ところが、頭をほんのわずか動かすと、くだんの地平線もジェット機のコックピットもフラッシュバックも、これらのほんのちょっと前まで浮かんでいたことすら思い出せないように消え失せ、その代わりに今度は激しい落下感がやってきた。頭と意識は、重力の中心に向かってひたすら落下する。この落下感は、ハシシをタバコに混ぜて吸ったときと似ていたが、どこまで行き着くのかを確かめるのに恐怖があった。今回は、重力の引きが非常に強かったが恐怖は感じなかった。むしろ、好ましい落下感だった。まるで、自分を他人の目で見るような、いったいどこまで落ちるのかという客観的意識と、落下を認識している意識が同時に存在していた。(つづく)

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