その8/カトマンドゥー(2)

 わがタイニー・ロッジのトイレのすごさは、ここでくだくだと説明する必要がないだろう。このシリーズ第4回の「ガヤー駅公衆便所」を思い浮かべてもらえばよい。ここでは単に、用を足した、とだけにしておきたい。
 いや、まてよ、そういえば、生産物散乱状況にそれほどの差はなかったが、タイニー・ロッジのトイレはまったくタイニーこの上なく、しかも暗黒に近かったことはいっておかなければならないか。それと、きんかくしにまたがってしゃがむ方式はインドと同じであったことも。ついでに、事後処理方法についても触れておかなきゃ。
 左手に蛇口がついており、それをひねって手のひらに水をためる。こぼれないようにすみやかに肛門周辺にふりかける。この場合、水をためた手のひらを後方からさしのべるか、前方からか、という問題は当初から悩みの種であった。インド人の屋外排泄の模様をひそかに観察すると、彼らは圧倒的に前方さしのべ派に属していた。どれが正しい方式であるか。この問題さておき、手指水洗方式を選択した人々は、こうした洗浄行程を反復するのである。もちろん、トイレットペーパーなど使わない。肛門にじゃっかん残る、含水率の高い生産物の残りも左手指ですばやく除去し、再び手のひらにためた水で念入りに洗浄する。この手指水洗方式は、最初は自分の肛門を直に指で触ることに抵抗はあるが、一度慣れると止められない。なによりも痔にならない。そして、きわめて重要であるにもかかわらず、めったに触れることのない部分の変化を触覚で確認することができる。さらに、紙拭い方式であればある程度避けられない「拭き残し」がなく衛生的である。もちろん衛生的というからには、事後左手完全洗浄は必須条件ではあるが。
 きんかくしの形状、材質は暗くて確認できなかった。臭気の度合い、室温、生産物蓄積状況などはどうだったろうか。あー、だめだ、だめだ。止まらない。室内は依然として停電が続いていたために真っ暗なので、生産物散乱状況の観察をきちんとしてみると・・・うーん、どうしよう。早くネパール第一日目の朝食、その後の思わぬ展開に書き進めようと思っているのに、排泄所関係の記憶が津波のように襲ってくる。どうもわたしはこの方面の話題になると熱心になる傾向があり、もっともっと微細に立ち入りたくなってしまう。狭い空間に充満する強烈臭気の詳細も本当は紹介すべきだが、ここでは勇断をふるって省略しようと思う。ドアの取っ手が妙に湿っていたことも、万難を排して、触れないでおこうと思う。本当は書きたいけど、つぎに進めなくなってしまう。つらいなあ。いや、まったくつらい。
 で、わがタイニー・ロッジのタイニー・トイレで用を済ましたわたしは、玄関の横についた蛇口で、凍るような冷たい水で入念に左手と顔を洗ったのち、北村氏と食堂へ行ったのであった。二人とも空腹だった。
 食堂の名前は、スイス・レストラン、だったと思う。薄汚い黄ばんだ壁には極彩色の仏画(タンカ)、ダライ・ラマの写真のある祭壇、折り目のついたマッターホルンの写真などがあった。スイス、という名前から連想させるものは、そのマッターホルンの写真だけであった。
 ビートルズの曲がかかっていた。回転の不安定な蓄音機のようで、曲がときどき揺らぐ。その揺らぎが心地よい。4人掛けのテーブルが5つ並んでいた。先客は、長髪の白人男女で、揺らぐビートルズにあわせるかのように上体をかすかに揺らしながらお粥をすすっていた。男の方は、薄いパジャマをひらひらさせて貧乏揺すりもしている。われわれが入っていくと、二人は目をトロンとさせて「ハーイ」と声をかけた。われわれも「ハーイ」といって彼らの隣に腰を下ろした。北村氏は、彼らの食べているものを見ながら、
「テイスティー?」と訊いた。
「イエー、ノット・バッド」
 頭蓋骨の輪郭がわかるほど顔の皮膚の薄い女がニヤっとして答えた。歯並びは整っていたが、色が黄色い。英語のなまり加減と、どことなく直角的なたたずまいから、多分、二人ともドイツ人だろうと思われた。
「それ、名前なんていうの」
「ライス・プディング」
「じゃ、ぼくもそれ頼もうかな。中川君どうする」
「うまそうだな。オレもそうしよう」
「オーイ」わたしは店の奥のキッチンに向かって声をかけた。少年が濡れた手をズボンになすりつけながら現れた。昨晩われわれを部屋まで案内してくれた少年だった。カーキ色の厚いショールを胸元で押さえつけ寒そうな表情をしていた。まだ十代の前半に見えるその少年は、「ルーム、OK?」と元気な声でぺらぺらのメニューを差し出した。
「うん、気に入ったよ。しばらくいることにするよ。ところで、彼らと同じもの二つ作ってよ」
「ノープロブレム。でも、同じものでいいの?」
「どうして?」
「あれ、スペシャルだよ。そこに書いてあるでしょう」
 彼は、メニューの一部を指さした。「ハシシ・ライス・プディング・・・15.-」と書いてあった。わたしは、ハシシをタバコに混ぜて吸うことはあったが、こんなふうに食べものに混ぜることもあることを初めて知った。
「これが、カブールのアメリカ人のいっていた例のプディングか。へえー。あっ、こんなのもあるよ」と北村氏がメニューをさして頷いた。普通のメニューの他に、スペシャルメニューとして、マリワナ・ケーキ、マリワナ・チャプスィー、ハシシ・チャイなどが書かれてあった。
「へえー、こりゃすごいな。朝からというのもなんだけど、ちょっと試してみたい気分もあるね」
「そうだね、どうせなにもすることないし、そのスペシャルのライス・プディング、やっぱりいってみましょうか」
 この判断が、その日以降のわれわれの日常生活スタイルを決定づけた。(つづく)

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