その7/カトマンドゥー(1)

 トラックの運転手の話ではまだ明るいうちに着いていなければならないのに、われわれがカトマンドゥーに着いたときは、あたりは真っ暗でしかも小雨が降っていた。わたしと北村氏は、「おい、降りろ。カトマンドゥーだ」と運転手にいわれてのろのろとトラックの荷台から降りた。道中の激しいバウンドや寒さのせいで、すべての関節がはずれてしまったように力が入らない。水気を含んだ荷物がずっしりと肩に食い込み、わたしは思わずうめいた。地面は泥だらけで荷物を置けないのだ。わたしのよりもずっと重そうなリュックを手に持った北村氏が、疲れたかすれ声でつぶやいた。
「カトマンドゥーだといってたけど、本当かな。真っ暗だよ。とにかく寒いな。震えが止まらない」
「イスタンブールで買った毛皮があるけど、リュックの奥に入ってるしな。とりあえず我慢して、とにかく宿を探さなきゃ。僕も寒くて死にそう。それにしても、どっちが街なのか全然分からないね、こう暗くちゃ」
 薄い綿のクルター・パジャマにショールを羽織っただけのわたしも、歯をカチカチさせながら応える。トラックの運転手が、われわれの降りた荷台の荷物をおろしていた。
 わたしは彼に手振りで街の方角を訊いた。運転手は、あごで方角を示した。あたりはほとんど闇に近かったが、彼の示した方角を見るとうっすらと明るかった。
「とにかく、向こうへいってみよう」
 泥まみれになったサンダルが滑り、ほとんど感覚がないほど足が冷たい。重い荷物を背負ったわれわれは、力の入らない足取りで薄明かりに向かってよたよたと歩き始めた。しばらくすると舗装された広い街路に出た。途中すれ違った人に道を聞くと、われわれが歩いていたのはニュー・ロードだった。まっすぐ行って突き当たり石畳の王宮広場に着いた。それにしても、一国の首都でしかも一番の中心街のはずだというのになんという暗さだ。頬かぶりをし、ぼろのようなショールをぐるぐる巻きにした男たちの取り巻くたき火の光があるだけだった。われわれは男たちの一人に、どこか宿がないか尋ねた。暗くて表情の見えない男は、われわれの足元から頭まで視線を走らせこういった。
「ウエア・アルユー・フロム」
「ジャパン」
 北村氏が情けない声で正直に応えた。
「どこか近くの宿はないか。われわれはとにかく寒くて困ってるんだ」
「よし、おれについてこい」という意味のことだったどうかは分からなかったが、その男は何か一言いって、歩き始めた。われわれは小雨の降る真っ暗闇の道を彼についていった。
 ほんの数分歩いたところで、男は建物に向かって声をかけた。すると、上からろうそくを手に持った少年が降りてきた。案内してくれた男はその少年に二言三言なにか話して、われわれにはなにもいわずに暗闇に消えていった。
 かついだ荷物が壁にこすれるほど狭い急な階段を昇って案内されたのは、縄網のベッドがあるだけの小さな部屋だった。少年はろうそくで部屋を照らしながら、宿代がいくらになるというような説明をしていたようだったが、われわれはそれをさえぎって「OK。OK」とすぐさま荷物をおろした。とにかく横になりたかったのだ。わたしは、少年のおいていったろうそくをたよりにリュックにあるありったけの衣類を取り出し身につけた。「ま、とりあえず今夜はここで寝るしかないようだね。もう、くたくただし」
「上等じゃないの、ここは。値段交渉もしていないけど、明日起きたら考えるってことでとりあえず、オレも寝るよ」北村氏もありったけの衣類を体中に巻き付けたまま寝袋に体をつっこみベッドに横になった。
 ろうそくを消して、目の前にかざした手すら見えない真っ暗闇の中で横になった。冷え切った体がわずかずつ暖かくなるのを感じながら、わたしは、トルコからイラン、アフガン、パキスタン、そしてインドの道中で聞いていたヒッピーたちの最終目的地、カトマンドゥーにようやく着いたのだという感慨にちょっと興奮した。そして、足の先まで温みが達したと感じたとき急に眠気がおそった。すでにとなりの北村氏は、寝息をたてていた。
 次の日、ドアががたがたする音で目が覚めた。
「中川くん、ここはなかなかいい場所みたいだよ。すぐ近くはバザールだし、ここの1階には食堂もある。そろそろ起きたら。下でめしでもくいにいこう」
 北村氏が、建て付けの歪んだドアに内錠をかけながら、声をかけた。一つしかない窓から太い束になった強い陽光が部屋に差し込んでいたが、インドに比べるとかなり寒い。
「今、何時ごろなの」
 わたしは、羽毛の白い芯がところどころとびだした寝袋からにじり出た。
「10時半。オレは9時ごろ起きた。起きて下に行ったら、昨日の少年がいてさ、宿泊の手続きをしろっというんで済ましてきた。1泊10ルピーだって、ここ。移るのも面倒なので、いいよ、っていったけど、中川くん、いいよな」
「一人5ルピーか。ま、いいか」
「で、ここの宿の名前はタイニー・ロッジ。この部屋もそうだけど、階段も狭いし、名前の通りちっちゃい宿だな。どれくらいいるのかって聞いたから、10日くらいかなと答えておいた。トイレは下。相当、すごい」
 わたしは、トイレ、ときいてにわかに便意をもよおした。中東、インドと、ほぼわたしと同じ道程でここまできた北村氏がそういうのだから、なんとなくトイレの様子の想像がついた。
「昨日はカトマンズ全部停電だったらしい。今日の昼には電気がくるみたいだよ」
 カトマンドゥーの第一日目はこうして始まった。

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