2017年8月29日(火) ネパール2週間よれよれ日記

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 5時起床。6時58分のポートライナーで7時8分に神戸空港着。連絡バスは出てしまっていて神戸ベイシャトル船着場まで急いで歩いた。7時15分発の双胴船にギリギリ間に合った。大韓航空のチェックイン、セキュリティーチェック、出国手続きもスムーズに終え、免税店で1カートン2800円のタバコを購入。
 KE722便は予定どおり9時40分に離陸し、11時20分に仁川国際空港に着いた。空港内免税店でキムチ+コチジャンセットを$20で購入した。
 13時30分、カトマンズ行きKE695便が仁川空港を離陸。5時間弱のフライトだ。乗客が少なく3列座席に一人で座った。映画「キング・アーサー」を見た。

ネパールが近づいて来た

 ネパールが近づいて来た。座席が左側でヒマラヤは見えなかった。インド平原から続くタライ地方はほとんど水に浸かっていた。ガンガーに合流する大河が氾濫したようだ。あとで見た地元の新聞には水に浮かぶ少女の死体の写真が載っていた。大きな被害が出たようだ。
 機は山の上を進む。山々の中腹まで耕された何層もの段々畑とまばらな人家を見下ろしているうち、カトマンズの町が見えてきた。山に囲まれたゆるい起伏の盆地に、低層の四角いレゴでできたような住宅が密集して広がっていた。

カトマンズ空港

 現地時間の午後4時20分、カトマンズ空港着。タラップを降りて見回すと、蔵王や月山の見える山形空港に降り立ったような懐かしさを感じた。
 ビザ代$25を支払い入管ゲート。インターネットでビザを取っていたためか、あっさり通過した。建物内は薄暗く埃っぽい。関空、仁川の明るくピカピカした空港と比べると、いかにもお金のかかっていない建物だ。
 荷物エリアに入るための長い行列ができていた。金属探知枠が見えたので、搭乗ゲートに向かう人たちの列かと思えた。後ろの日本人女性に尋ねた。女性がなぜ日本人とわかったかというと、日本語で書かれたネパール語教科書を読んでいたからだ。
「たびたびいらっしゃるんですか」
「はい、仕事で」
「これはバゲージ・クレームに向かう列なんですよね」
「そうです」
「変ですね」
「はい。でも、これがネパールなんです」
 2台のコンベアーがガタガタと動いていた。それぞれのコンベアーには到着便名が書かれている。我々の便名が記されていない。待たされるのかなと思っていたら、いきなりワダスのスーツケースが小刻みに揺れながら現れた。

井上くん、ヴィシャールと再会

 外に出るとヴィシャールが手を振っている姿が見えた。小柄だが端正で涼しげな笑顔だ。まもなく井上くんも現れた。ヨレヨレの白いシャツの裾が腰の下まで垂れている。
「ようこそ、センセー。お待ちしてました」
 電話の時のように大きな声で出迎えた。
 ヴィシャールが歓迎の印である赤いカターを首にかけてくれた。二人には、数年前にインドのボーパールのグンデーチャー・グルクルで会って以来だ。二人の小柄でやせ気味の体型は変わっていないが、年齢なりに落ち着きの見える表情だった。
 軽乗用車のタクシーに乗り込んだ。運転手は二人と同じアパートに住むプラモード。40歳くらいか。井上くんによれば、かつて軍隊に所属し、国連派遣隊としてリベリアにいたこともあるという。ワダスとの応答では常に「サー」をつけた。
 タクシーは建物の密集するパタン市内を抜け、畑や空き地の多い集落に着いた。
「この辺は通称マガル・ガンウ(ガンウは村の意味)といって、マガル族の人たちが固まって住んでいるところです。みんないい人たちです」
 井上くんは、通りを歩く人たちに手を上げて挨拶しながらこう言った。
 マガル族というのは、西ネパールの戦士の部族で、昔この辺りに移り住んできたという。我々と似たモンゴロイド系の顔が多い。

マガル・ガンウの家

 案内されたのは、煉瓦塀に囲まれた3階建の建物だった。鉄の門扉の小さなドアをくぐって敷地に入った。庭には背の高いグレープフルーツの木、バナナ、とうもろこし、野菜が植えられていた。30年以上前に住んでいたバナーラスの下宿とよく似た雰囲気だった。壁の一部にひび割れがあった。1万人近い犠牲者の出た2015年の地震のせいだ。


 2階の北側に面した大きな横長の部屋と隣接するキッチンが井上くんとヴィシャールの住まいだった。縦4m、横10mほどの部屋は、北側のバルコニーに出る扉と鉄格子のあるガラス窓から淡い光が差し込んでいた。他の三方の壁は入り口のドア以外ベージュに塗られ、小さな絵や写真がところどころに飾られていた。西側の壁に大きな2台のタンブーラーが立てかけてあった。他には小さな文机、本棚、布で覆われた寝具が置かれているだけの簡素さで、隣は小さな流し台とガスコンロのあるキッチン。食器、食材、調味料が急ごしらえの棚や段ボール箱や竹のざるに置いてある。窓側には衣類がぶら下がった鉄製のベッドが一つあった。この2部屋で家賃は約1万円とのこと。3階に住む建物のオーナーは1階で仕立て屋を営み、余った1、2階の部屋を貸しているという。タクシー運転手のプラモードの家族は廊下を挟んで向かいの部屋に住んでいた。

最初の夕食

 ヴィシャールが夕食を作ってくれた。ご飯、サブジー、ダール、ワダスが仁川空港で購入したコチジャン、キムチ。
 夕暮れの薄暗い部屋で彼らの生活やネパールの音楽事情などについて聞いた。
 二人の主な収入は、パタン市の小学校、幼稚園、郊外の障害者学校で子供達に音楽を教えること。小学校は、ネパール人男性と結婚した芸大ピアノ科出の日本人女性(80代)が38年前に作った学校。彼女は西洋音楽に基づいた教育を試みていたが、子供達はついて来れなかった。ある機会で井上くんたちの演奏に接した子供の反応が良かったため、音楽の授業を依頼されたのだという。

彼らの生活

 ネパール在住4年になる井上くんは、1年のうち7ヶ月は観光ビザ、残り5ヶ月はカトマンズ大学ネパール語学科の学生ビザで滞在している。
 彼らによれば、ネパールでは古典音楽(ヒンドゥスターニー音楽)に対する憧れはあるものの、演奏家は古典音楽の演奏活動によって生計を立てるのが難しく(どこでもそうだが)、民謡やポップスなどの軽い音楽に向かいやすい。音楽を教える先生もしっかりした訓練と知識をもっている先生は少ない。したがって、演奏家も音程の正確さやラーガ音楽の組み立てをきちんと理解している人は少ない。入手の手軽さや教師の数なども関係して、バーンスリーの演奏人口は他の楽器や声楽よりも多い。一方でネパール人としての自尊心からインドへの反感もある。インド人音楽家から教わることに心理的抵抗があり、舞台でクルター・パジャマ姿で演奏すると、ここはインドじゃないと指摘されることもあるという。
 今回一緒に演奏することになっているナゲンドラ・ラーイくんは、演奏だけで生活する数少ない演奏家だが、普段は軽い音楽をやっているのでワダスと一緒に古典を演奏することに緊張しているという。彼はラーガ・ジョーグをやろうと連絡してきた。このラーガはネパールでもよく演奏されるという。ヴィシャールは「これまであまりやったことがないラーガの方がいい。新しいことに挑戦すべきだ」と彼に電話したという。初練習は明日5時ということになった。

ワダスの部屋

 ワダスが泊まることになっている家に案内された。歩いて2、3分のところにある別の建物だった。小さなヒンドゥー教の祠を曲がり、細い路地に入った場所に立つ3階建の堂々とした建物で、壁はピンク色だ。
 彼らは3階建の建物の1階を家賃1.2万円ほどで借りているという。キッチン、バストイレに寝室が3部屋あった。玄関に近い、三方が腰高の窓に囲まれた10畳ほどの空間が帰国までワダスが使うことになった部屋。階上に住むのは大家のスニータ、ラームクマール・マガル夫妻+3人の男の子+老夫婦。井上くんに呼ばれて降りてきたスニータが、トイレを見ていたワダスに「トイレは半年前に新調したのよ」とヒンディー語で言った。井上くんがワダスがヒンディー語ができるといったので意識したのだろう。たいていのネパール人はインドのテレビ番組や映画を見ているのでヒンディー語は理解できるが、積極的にしゃべる人はいない。
 井上・ビシャール(常にほぼ同一行動の二人をまとめた表記)が帰った後、ベッド下の引き出しや小机に荷物を収めた。天井に小さな電球があるだけで室内は暗い。壁の天井近くに蛍光灯があったがスイッチを入れても点灯しなかった。
 10時近く布団に入った。備え付けの布団はカビ臭く湿っていて重かったが、ほどなく寝た。

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