ネパール2週間よれよれ日記 (2017年8月29日〜9月12日)
7月9日の起きがけに海外から電話が入った。
「センセー、おはようございます。ネパールの井上です」
大きな声が受話器からびんびん響く。
「今日はグル・プールニマーなので電話しました。で、先生にぜひネパールにいらしていただいて演奏してほしいんですが、ご都合はいかがですか。飛行機代は出します。ぜひ検討してください」
グル・プールニマーとは、グルつまり師匠に感謝する日だった。
まだ頭は半覚醒状態で、もごもごと「へええ。本当? それはうれしいなあ」と返事して電話を切った。とはいえ、その後10日ほどなんの連絡もない。かつ彼の連絡先もわからない。ひょっとしてなにかのジョークだったのかと思い始めた頃、彼と一緒に音楽活動をしているヴィシャールくんとFaceBookでつながった。9月1日と8日のコンサートも決まり下記のような電子チラシも送られて来た。ジョークではなかったみたいだ。
というわけで、8月29日から9月12日までの2週間、ネパールに行ってきた。ネパールへ行くのはこれで4度目だった。
4度目のネパール
最初にネパールに行ったのは1972年12月。ほぼ1年間のユーラシア旅行の終盤だった。その時は1ヶ月ほどいた。カトマンズ市中心部の王宮広場に近いタイニー・ロッジという安宿に泊まった。旅先で知り合った日本人と一緒だった。回転の一定しないプレイヤーから流れるビートルズを聞きながら、マリワナ・プディングなるものを食べた記憶がある。現在、カトマンズ中心部にフリーク通りという名の通りがある。肩までの髪を揺らした21歳のワダスはこの通りをふらふら歩いていたはずだ。
2回目は1978年5月。この時は4日ほどしか滞在していない。インドのビザ取得のためだった。労山インド登山隊に通訳として同行したのだが、ワダスだけがデリー空港で止められた。ビザがなかったのだ。やむなくネパールに飛び大急ぎでビザを取得した。その時はパタン市内で旅行代理店を営むプラサイ氏宅に泊めてもらった。当然、観光する余裕はない。数日遅れで登山隊に追いたが、さんざん文句を言われたことはいうまでもない。
3回目は1981年12月。ワダスと久代さんが遊学を決意しインドに渡る前のこと。その時はカトマンズに10日ほど、ポカラに1週間ほどだらだらと滞在した。そして、スノウリから陸路でインドに入国した。その後、バナーラス・ヒンドゥー大学の学生となり3年間バナーラスで生活した。
というわけで、今回は36年ぶりのネパールだった。
例によってよれよれ日記です。いつもどおりけっこう長いです。主目的はわたし自身の記録用です。
全体で約40,000字近いので日にちごとに分けています。全部読むには根気が要ると思います。ま、お時間と御意思のおありの方にご一読いただければ幸いです。