2017年9月9月12日(火) ネパール2週間よれよれ日記

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 雷の音で3時頃、目が覚めた。そのままうつらうつらして5時30分起床。

 6時30分、井上、ヴィシャール、エヴァと一緒にブンガマティ村の食堂で朝食。セルローティー、マタル・スープ、ゆで卵、チャイ。マタル・スープは実に美味しい。島原の北田さんのお母上からもらった梅エキスの残りを井上くんに進呈した。毎日みんなに舐めさせたがまだ半分ほど残っていたのだ。

ヒマラヤが顔を出した

 エヴァが「最後の日になるとヒマラヤが顔を出すのよ」と言っていた通り、ヒマラヤの一部の三角錐のいただきが遠くに光って見えた。


 障害者学校の授業に向かう3人と別れ、プラモード・タクシーで井上・ヴィシャール部屋へ戻り、日記を書いた。
 10時に3人が障害者学校から戻った。しばらくしてムケーシュが別れの挨拶にとやって来た。練習したいと言っていたが、楽器を持って来ていなかった。現在住んでいるスワヤンブー周辺と本来の村であるブンガマティは市街地を挟んでかなり遠いので、いろいろと不都合なのだ。彼はポケットから取り出した木彫の仏頭を差し出した。プレゼントだという。荒削りだが輪郭のはっきりした仏頭だった。木工職人と言っていたのを思い出した。お土産屋に卸したり外国に輸出もしているという。


 ムケーシュが帰り、ヴィシャールがワダスの持って来たスパイスセットで野菜カレーを作った。ピーマン、じゃがいも、冬瓜など。

帰国

 マガル家の部屋に戻り荷造り。荷物は少く、あっという間に終わった。案じていた2本のバーンスリーもなんとかスーツケースに収納できた。
 井上くんが「ここではどんなものでも役に立ちますから」というので、懐中電灯、電池、Tシャツ1、バスタオル、コリアンエアーの毛布、CD2枚、メンソレータムのリップクリーム、土産にもらった紅茶の一部などを置いていく。
 4時、井上・ヴィシャールがやって来て、エヴァと一緒にミナ・ディディの店へ行き、チャイを飲んだ。茶店で毎日見かける常連の村人が次々に、もう帰るのかと声をかけてきた。ミナ・ディディも「電話していいか」などと言う。サンデーシュがバイクで空港まで見送りに行くと言う。
 店からふと北方を見上げると再びヒマラヤの一部が顔を出していた。


 茶店の客や井上・ヴィシャール部屋の下階の仕立て屋のおばさんたち、8日のコンサートで司会をしたサクリティと母親、雑貨屋の親娘などが、プラモード・タクシーに乗りこんだ井上、ヴィシャール、エヴァ、ワダスを見送ってくれた。辻に先回りして我々を待っていたミナ・ディディがトラックに背を預け、足を交差させて待っていた。ボスみたいだとみんなが笑った。
 パタン市内の井上・ヴィシャールたちが教えているミトラ小学校や秋田宅の辺りを通るとすぐに整備された舗装道路に出た。正面にヒマラヤが雲間から顔を出す。約40分で空港に着いた。後ろからついて来ているはずのサンデーシュが見えないのでしばらく彼を待った。合流したサンデーシュがかけてくれた真っ赤なカターを首に巻いて記念撮影。見送り人は空港の建物には入れないので、外で彼らと別れた。


 人がいないのに無意味なジグザグ通路を通ってセキュリティーチェック。ライターが没収された。関空では1個までOKだったのに。一緒に乗ったグループのネパール人たちは赤い野球帽を被っていた。スポーツ系団体かと思ったが、聞くと韓国に仕事に行くのだという。
 7時30分、離陸。4時15分仁川着なので、飛行時間は5時間45分だ。
 4時15分、予定通り仁川空港着。ほとんどの免税店はまだ開いていなかった。しばくして開いた店でキムチ、タバコ2カートンを購入した。
 9時35分、関空行きが離陸。11時30分、関空に着いた。
 こうして2週間のネパールの旅が終わった。

井上想くんについて

 井上くんについても簡単に書いておこう。ワダスの周辺の人やインド音楽関係者には知られているが、知らない人はいったいどういう人なのかと思われるかもしれないので。
 東京で江戸神楽をやっていた彼がバーンスリーを習いたいと我が家にやって来たのは2002年3月。まだ20代前半だった。95年の阪神淡路大震災時にはボランティアとして活動していた神戸は彼にとって馴染みの場所だったろうが、その神戸に移り住み、ひたすら練習に明け暮れた。練習室として使っていたCAP HOUSEでは、修行僧のような彼の生活に刺激を受けた人もいた。4年ほど経った時「インドに行って本格的に習いたい」というので紹介したのが、ドゥルパド声楽のグンデーチャー兄弟だった。こうして彼はボーパールにあるグンデーチャー兄弟の道場グルクルに住み、本格的な修行を始めた。バーンスリーから器楽の基礎である声楽に変更し、グンデーチャー兄弟の教えを受けた。その地でヴィシャールに出会っている。グルクルで5年ほど修行したのち、ゆっくり練習できる場所としてヴィシャールの故郷であるネパールに移住、今日に至っている。その間、2015年にカトマンズを中心に大きな被害を出した大震災に遭遇し、被災者支援の活動も行なった。
 今回の井上くんの思いがけない招きと滞在中のお世話には本当に感謝している。彼の、彼にとっては自然なのかもしれないが、ほとんど音楽にだけ焦点を絞った、まるで僧院でのような生き方には頭が下がる。また、周辺の人たちがまるで昔からの知り合いのように彼に接する様子は見ていて心地よかった。今後もずっとネパールに住み続けるかどうかはわからないが、どこにいても大声で笑いながら周囲の人々を包み込んでいくたくましさは変わらないような気がする。
 井上くんにとって共にネパールで音楽活動を続けるヴィシャールも欠かせない存在だ。有力な家庭に生まれながら音楽の魅力にとりつかれてデリーの音楽学校へ進んだあと、ボーパールのグルクルにたどり着いたものの、インドではどうしても上から目線で見られるネパール人であることや世間知らずの少年と思われて弟子仲間たちから無視されたり差別されたりしたこともあった。そんなとき井上くんに出会い勇気づけられたという。井上くんの音楽だけではなくシンプルな生活態度はヴィシャールには確実に大きな影響を与えただろう。実務的なことはほとんど彼が表立ってやっているように見えたが、そこにはお互いの誠実さに対する信頼感があるからだ。じっと他人の話に耳を傾け我が物にしようしながら、人間的にも確実に成長しているヴィシャールにも感謝したい。彼はまだ28歳だ。
 彼とヴィシャールの活動によってネパールから優れた音楽家が生まれてくるかもしれない。インド国内では衰退しつつあるドゥルパド声楽も、案外、このネパールで別な形で花開くかもしれない。

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