その2/笛男との遭遇

 わたしはバーンスリーの練習をしながら、ふと、株大根医師が告げた病名について考えていた。なぜわたしは、HMVS(=Hindusatni Music Vagolability Syndrome、ヒンドゥスターニー音楽起因迷走神経不安定症)などという奇怪な病気に罹ってしまったのか。仮にそれがウィルス感染だとすると、いつ感染したのか。わたしは、いつしか遠い過去の記憶の回路を迷走していた。

 1973年1月のある日、デリーからパトナーに向かう列車の3等車両。一人の青年が見える。肩までの長いぼさぼさ髪と無精ひげ、垂れ下がり八の字型の薄い眉毛のその青年は、25年前のわたしだ。
 2段の対面式ベンチの1段目窓側に座ったわたしは、隣の痩せた男の極悪殺人鬼的凶眼視線と、腋臭、汗、そしてときおり口にするパーン・マサラーの臭いが混然となった強烈臭気攻勢と、次第に増してくる密着圧力を感じながら、鉄格子のついた窓の外を流れる北インド平原を眺めていた。緑の少ない乾いた土地に点在する泥や煉瓦作りの民家がゆっくりと遠ざかる。ときおり、ぼろ切れのようなシャツを着た子供たちが必死になってこちらに手を降っているが、たちまち視界からはずれる。木の鍬をつけてのろのろ歩く水牛の尻を木切れで叩く農民。日影を作るためにしか存在しないようなこんもりとした木が、ぽつんぽつんと緑の点を作る。
 突然、列車がガクンと減速し、鉄どおしが触れあう鋭い摩擦音とともに止まった。あたりには、駅舎も建物も見えない。開け放たれた窓から流れ込む風と天井についた扇風機によってかろうじて流通していた空気の動きが一気に止まり、人いきれと熱気と臭気が車内に充満する。わたしは、あらためて車内を見渡した。座席ベンチには身動きできないほど人が座っている。向かい合うベンチとの隙間には、汚れた布の大きな袋、ぐるぐる巻の布団セット、角の壊れたアタッシュケース、安物のビニールのバッグ、わたしの、なかにシタールの入った寝袋と丸くふくれあがったリュックで足を置く隙間もない。口を真っ赤にした母親に抱かれた幼女が、目やにと黒い墨を吹き出しながら泣き始める。上の段の客の細い棒のような黒光りのする足がわたしの目の前にぶら下がる。ひび割れだらけのかかと。はげ上がった頭の汗の玉をぬぐいながら、スーツ姿の向かいの男が、人で埋まった通路ごしに出口をのぞこうと腰をあげ、誰にともなく「キャーヘ(何だろう)」という。そのうち、列車の先頭のほうから勢いのない汽笛が鳴り、再び列車はガクンと動き出した。
 ふたたび規則正しい機関車と車輪の音が車内を満たした。しばらくすると、もろもろの安定した騒音に混じって笛の音が聞こえてきた。だれかが、座席のない出入口のスペースあたりで吹いているのだ。わたしは音のするほうに体を向けようと体をずらした。それにつれて隣りの男もちょっと首を回したが、すぐ無関心な表情に戻った。そして、音源に関心を示すわたしを顔をじろりと一瞥し、「バーンスリーワーラー」とつぶやいた。わたしは、車内の雑音を遮断し笛の音に耳を集中した。
 それは、はじまりと終わりの判然としない、数珠のように連なる旋律だった。なにかの唄のようなものをベースにしているのかも知れないが、修飾音が小刻みに加わり忙しく上下するのではっきりとした旋律ラインが感じられない。それにしてもなんという柔らかな流れなんだろうか。上下に移行する音がまるでミルクのように滑らかに連続する。低音から一気に駆け上がった高音で持続したと思うと、そこからふわっと滑らかに滑り落ちる。単純なパターンのくり返しもあるが、アクセントの位置や息の強弱の変化によってそれがおそろしく複雑なパターンに変わっていく。これは何なんだ。こんなに軽やかで自在な笛を吹くのはただものではない。こんな笛を聞いたら、チャーリー・パーカーだってたまげるにちがいない。
 わたしは、このとんでもない吹き手を直に見たいと思い、座席から立ち上がろうとした。すると、向かいのハゲスーツ多汗男がわたしの腰のあたりをたたいて制止した。「まあ、座れ」と手で示し、出入口にほうに向かって大きな声でどなった。
「バーンスリーワーラー、イダル、アーナー」
 隣の痩身凶眼臭気攻勢男も、彼と同じように、
「バーンスリーワーラー、イダル、アーナー」
と大声でどなった。
 わたしは、ハゲスーツ多汗男の制止の理由が分からなかった。当時は彼らの言葉が理解できなかった。安定した混雑を乱したくないという理由なのかと思った。座席と座席の間だけでなく、通路も大小の荷物で足の踏み場もない。乗客もいっぱいだ。しかし、薄汚れた布袋に笛をいっぱい差し入れた男がわたしたちの座席のところまでやってきたとき、わたしの誤解に気がついた。彼らは、笛男を呼んでくれたのだった。
 満員の乗客を押しのけてやってきた笛男は、通路からわたしたちの座席を見おろした。そして、窓にぶら下げたわたしの布袋の笛を指さして、いった。
「ウォ・キャー・ヘ。バジャーテ・ヘ」
(つづく) 前へ 次へ