その4/ガヤー駅公衆便所

 ブッダガヤーへいく前に、わたしの体内の確実な変化によって下車を余儀なくされたガヤー駅でのことをここで書き記さなければならない。とくに公衆便所でのわたしの苦吟懊悩について書き記さなければならない。なぜならば、列車内の笛男との遭遇ののち、にわかに突き上げてきた便意は、今にして思えば、HMVSウイルス感染によるものであったかも知れないからだ。
 ガヤーで下車する前までのわたしの消化器官は、きわめて健全に機能していた。臓器の位置関係が混乱をきたしたような、はげしい突き上げと押さえがたい便意とは無縁であった。ヨーロッパからインドに入るまでの陸路の旅は過酷ではあったが、でんぷんと野菜を中心とした食生活のためか、良好糞便製造装置としてのわたしの消化器官はほぼ順調に機能していたのである。
 ところが、あの笛男との出会いのあと、事態は一変した。「チェンジ」といわれて交換した彼の笛の歌口があやしかったのか。彼は、自分の笛を差し出すときに、手で歌口をぬぐっていたことを思い出した。あれは右手だったのか、左手だったのか。わたしはその笛の歌口にじかに唇をあてて吹いたのである。
 読者はここで、HMVSウイルスが糞便による経口感染かどうか分からないじゃないか、といぶかるかもしれない。しかも、音楽の病がそのようなウイルスによって感染するはずがない、科学的ではない、という疑念が生じることは想像できる。たしかにそうである。しかし、今だからこそ、そしてのちのちわたしを見舞った症状から想像するのだが、おそらくHMVSウイルスは、糞便を介して新たな宿主に住みつくが、基本的には何の害もおよぼさない。しかし、インド音楽の特定の旋律によって活性化されるのではないか。いずれにせよ、その議論はこの物語のずっと先のことになる。
 ともあれ、わたしは丸くふくれあがったリュック、アーグラーで購入したシタールを入れた寝袋、大小の笛の突き刺さったジョーラーをかかえて列車を降り、「バスルーム、バスルーム」と叫びつつ公衆便所を探したのであった。貧相な痩せた駅員がアゴで示すトイレにわたしはかけ込んだ。1973年1月のある晴れた暑い昼下がりのことであった。
 そのトイレは、すさまじい臭気と熱気に満ちていた。排泄空間を外界から遮断すべきひん曲がったブリキの扉は、中央のわずかな部分で引っかかっているだけだった。そのために真っ暗な空間に光がわずかにさしこんでいた。もちろん、正面壁面には裸電球はついていた。しかし、当然ながら、それは照明器具をとりつけたというアリバイを示すのみで、機能していなかった。
 盗難をおそれ、すべての荷物を抱えたわたしは、まず荷物の収容空間をすばやく探索した。中央には、便器があった。その左横にある、鈍く光る真鍮の蛇口から弱々しく流れる水が、表面のさび付いた空き缶の水面に当たって音を発していた。次第に目が慣れてくると、荷物収容空間は少なくとも床面では確保できないことが判明した。便器を中心として拡散する大小の黒くひからびた物体が、床面にも展開されていたのだ。もちろん、なかにはフレッシュなものもあった。すでにその一部をわたしは踏みつけ滑りそうになった。しかし、そんなことにはかまっていられない。わたしの体内活動は、深刻な爆発点に向かっていた。声にならないうめきを発しつつ、わたしは渾身の気力をふりしぼって視線を壁面に走らせた。四方の壁面は、しかし、つるんとしていて、荷物を引っかける手がかりすら発見できなかった。わたしの肛門は、早くしろ、なにをもたもたしているんだ、と叫んでいた。もはや、一刻も待てないぞ、と脅迫していた。唯一の解決策は、扉だった。まず、扉の上角にリュックをぶら下げた。扉が重みできしみ、中央のラッチがはずれた。キーっという音とともに扉が外に向かって開き、光がさっと室内になだれ込んできた。チャイの入ったやかんと、素焼きのカップの入った竹篭を両手でぶら下げた少年が視界に入った。こちらをのぞいている。臨界点は急速に近づいていた。少年にひきつった笑みを返したわたしは、扉が開きっぱなしであろうが、蝶番がはずれようが、もはや猶予はほんのわずかであることを悟った。シタールの入った寝袋と笛の詰まったジョーラーもリュックのわずかな出っ張りに引っかけた。荷物の重みによって扉は急速にバランスを失い、斜めに傾げながらさらに開いた。こちらをのぞいている少年に視界迅速移動を促進するために、「み、みるなあ」と日本語で怒鳴りつつ、パジャマのヒモを解こうとした。少年は去った。しかし、ヒモはどういうわけかひどく絡まり、かえってしっかりとした二重結びになってしまった。カウントダウンはすでにゼロを告げつつあった。わたしは最後の力をふりしぼってパジャマのヒモを引きちぎった。パジャマとパンツの先端避難ライン臀部通過と急速な開放はほぼ同時であった。
 危機は去り、平安が訪れた。しかし、平安とともに冷静観察時代がおとずれた。正面の壁面には生産物をなすりつけた跡があった。よじれた水洗用のチェーンが目の前にぶらさがっていた。足元を見た。楕円状にうがたれたくぼみの中央には、生産物を流し去る穴があったはずであるが、それは何重にもなった柔らかい堆積物によって覆いつくされていた。また、どういう姿勢であればそんなところに落下するのか、壁と床の境界線上に位置しているものもあった。
 そのときの便意はしぶとかった。排便を指令する脳神経と、いわば現場の直腸周辺の神経が争っているふうだった。現場ではもう出すものがないという報告をしているのに、脳は、別の現場の神経に収縮せよと指令を出す。着用していた薄い木綿のクルターやパジャマは大量の汗で濡れていた。肩までの長髪の先端からも汗がしたたっていた。
 わたしがブッダガヤーにたどり着いたのは、この激烈な出来事の3時間後であった。そして、そこで最初のHMVSの症状の精神的側面が現れたのである。(つづく)

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