マンディ・スニ・サマサマよれよれ日記 2008年5月27日(火)

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 8:50起床。とうぜん快晴。猛烈に眠い。池上の姿が見えないので、沈殿式コーヒーに砂糖をどさっとぶち込んで飲み、『用心棒日月抄』の続きを読みつつあわただしく定例作業を終えた。通常は、起床から起動まで2時間かかるところを、今日は40分で完了させなければならなかった。実にせわしない朝だった。同室の山崎はその辺はちゃっちゃっとしている。青江又八郎が江戸から故郷の山形へ帰り許嫁の由亀と再開する場面を読んでぐっときたころ、山崎はすでに部屋を後にしていた。
 今日は帰国の日である。汚れ物が混然と詰まったスーツケースの中味をすべてベッドにぶちまけて再収納し、ごろごろと転がして1階食堂へ。今日帰国するのは、エリー、エミー、SATOYA、林、山崎、HIROSの6名。
 9時半、ISIのバスに乗り込み、ジョクジャカルタ芸術高校へ向けて出発した。今日の帰国者はすべての荷物をバスに積み込んだ。

ジョクジャカルタ芸術高校(以下SMKI)

 SMKIはゆったりとした敷地を持つ大きな学校だった。このSMKIは、ロフィット、イウィンの母校でもある。とくにイウィンには親しみのある学校だろう。彼女はこの学校の敷地で育ったのだ。中庭の緑が美しい。この学校の建物も震災でかなり被害を受けたという。
 われわれはまず、校長室に案内された。校長というのが、フォーラム7のメンバーのスナルディーである。彼とは24日の舞踊コンペ会場で再会している。短躯、短髪、腹がゆるやかに突き出た中年男だ。2、3人の同僚と校長室に現れたスナルディーは薄茶色のサファリ・ジャケット風の制服だった。人なつこい表情で、とてもうれしそうだ。ここでスナルディーはおもむろに紙に包んだプレゼントをタマゴに手渡す。タマゴは返礼として京都土産を差し出す。半ば公の場でプレゼントの交換をするというのがこの辺では習慣なんだろうか。スナルディーからもらったのは、高校のエンブレムが描かれたお皿。

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photo by HOMMA Naoki
 


 天井の高い体育館のような広い建物に案内された。奥にはガムランのフルセットが置かれ、それぞれの楽器には生徒たちが座っていた。24日の晩に「気軽に遊びにこいよ」といっていたが、彼はわれわれの訪問に対してきっちりと準備していた。「気軽」をまともに受け取ってわれわれがここに来るのをやめていたらちょっとまずいことになっていただろう。ジョクジャカルタの人はこの種の社交辞令がありそうだ。京都っぽいというか。
 スナルディーがまず挨拶。われわれの右手に並んだ職員を1人ずつ紹介した。全員、彼と同じ制服である。返礼としてタマゴが挨拶し、やはりメンバーを紹介した。この儀式が終わると、生徒たちの演奏である。2年生と3年生だという。生徒たちは高校生なので若々しい。中に西洋人の顔をした生徒もいた。演奏も若々しい響きだった。
 ガムランに続いて水色のコスチュームをつけた男女2組のダンス。ジプシー風音階による音楽はカラオケだった。マレー系の民族舞踊とのこと。ここでは、ジャワの古典舞踊だけではなくこのような民俗舞踊も教えているようだ。
 次に、りんけんバンドの上原知子さんに似たかわいい女子高生の歌。名前はスス。バックバンドは、右手にあった簡単ガムランとドムラセットのような大小のクンダンという編成。純朴そうなスス少女の「ブンガワンソロ」(グサン・マルトハルト作曲)がとても印象的だった。昨日のマツコとヒロミも「ブンガワンソロ」を歌っていたが、この歌はやはり国民歌のようなものなのだろう。そういえば、エイジアン・ファンタジー・オーケストラ95年ジャカルタ公演のときも、美人歌手スンダル・スコジョがこの有名なクロンチョンの名曲を歌った。ワダスも彼女の伴奏で演奏している。
 ススの可憐な歌声の後、スナルディー校長の指名でワダスがパフォーマンスをすることになった。セッションしようという。ワダスは、本間に擦弦楽器のルバーブでドローンを弾いてもらうよう頼み、簡単なアーラープ(自由リズムの即興部分)を演奏した。音階は、さきほど聞いたマレー系ダンスで流れていたジプシーのもので、インドではラーガ・バサント・ムカーリーである。アーラープのジョール(一定のテンポに基ずく即興部分)の途中でスナルディーが声を出して応答してきた。そこへ山崎がクンダン・セットのところに座り叩き始めた。最初は長い笛だったが途中から短いものに持ち替え、スピードを加速させて終わった。ガムランとインド音楽のセッションは、音楽の基礎部分が全く異なるためかなり難しい。インド音楽は音程にとても厳密だが、ガムランの場合はあらかじめガムランの音程に合わせてあるのでまったく融通がきかない。あらかじめガムランの音程に合う楽器でないと不可能だ。もっとも、今風のなんでも即興ということになれば、互いに溶け合わないことをうまく生かす方法はあるのかもしれない。
 セッションの後、バントゥル県の教育長という人が挨拶に立った。「気軽に遊びにきてよ」といっていたスナルディーはなんとこういうエライサンまで手配していたのだった。そして最後の儀式であるプレゼント交換と一人一人の握手。すでに校長室でプレゼント儀式は終わっていたのだが、同じことをまた繰り返した。物事の終わりに行われるこうした「儀式」の感覚は、「終わりよければすべてよし」という日本の伝統的感覚にも似ているのかもしれない。

ディディク・スタジオのランチ

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photo by HOMMA Naoki

 SMKIを後にしたわれわれは、招待を受けていたディディクのスタジオへ向かった。スタジオは広い通りに面した3階建てのビルの2階。1階は、受付とディディクのパフォーマンスの写真、Tシャツなどのディディク・グッズの販売コーナーなどがあり、スタッフらしい青年たちがなんとなくたむろしていた。写真には、日本での公演も含まれていた。能の衣装をつけたもの、歌舞伎役者らしい人とのツーショットなどなど。ワダスはここでディディクの漫画イラストの入った黄色のTシャツを50,000ルピアで購入。
 2階には食べ物がすでに用意されていた。われわれが入ると、素の顔のディディクが「さあ、みなさん、お食べ遊ばせ」と呼びかけた。さきほど別れたばかりのスナルディー校長が私服に着替えて加わる。もちろん、シスワディ、ジョハンもいた。スタジオの壁面にもディディクの写真がずらりと飾ってあった。
 トリモモの唐揚げ、白身魚の唐揚げ、キューリ、キャベツのガドガド・ソースあえ、汁たっぷりタケノコの煮物、ご飯、スイカというメニュー。どれもおいしかった。とくに白身魚の唐揚げがうまい。
 大満足の食後、1階の入り口からタバコを吸いに出ると、これまでずっとつきあってくれたISIバスの運転手とジョハンが一緒にタバコを吸いながらぶらぶらしていた。ジョハンに、免税店で買ったマイルドセブンのオマケの時計をプレゼントしようと思ったが、ふと運転手が腕時計をもっていないことに気付き、時計は彼にあげることにした。もっとも、あまりにちゃちなので役に立つかどうか分からないが。細い体の運転手は何度も「テレマカシー」といった。

佐久間ジョクジャカルタ邸

 ここで、買い物などに向かうみんなと別れて佐久間の車に乗り佐久間ジョクジャカルタ邸へ。イウィン、ブナ、そして水の宮殿に行きたいという池上、中谷シシーが同乗した。展覧会などで何度もジョクジャカルタに来ている池上によれば、水の宮殿というのは宮廷の女たちに水浴させるためのプールだという。スルタンは覗き穴から水浴する女たちを眺め、その日の伽の相手を選んだト。池上が、「ねえ、シショー、一緒に行きましょうよ」といってくれたが、そうしてしまうと佐久間邸訪問はできなくなってしまう。
 途中で池上、中谷シシーを降ろした佐久間車は、彼やイウィンが所属し被災支援をしているプジョクスマン舞踊団の再建されたプンドポを経由し、佐久間邸へ。
 佐久間邸は、日本的基準からすれば豪邸である。裏通りの狭い路地の奥にあるので、周辺は比較的静かだった。
 正面左のシャッターの奥が駐車スペースになっていた。イウィンが、そのシャッターの鍵を探す。どこかにしまって分からなくなったらしい。彼女はついにスーツケースの中味を玄関ポーチに展開してしらみつぶしに探索しようやく探し当てた。表からは分からなかったが、シャッターを開けると建物がかなり奥まで続いている。突き当たりの部屋まで車3台くらいは駐車できそうだ。背の高いゴムのような木が数本と鉢植えの観葉植物が美しい。長方形の敷地に平屋の建物が鉤型に配置されている。200坪の敷地に100坪の家、という感じか。隣との境界は背の高いレンガ塀になっていた。突き当たりには3つの寝室が並び、広い軒下にはベンチがあった。
「まあ、日本だとゴーテイという感じですよね。震災では壁がひび割れたりしたんです」
「パパはけっこうここに来て楽しんでるみたいだよね」
「そうですね。あの人が一番楽しんでるかなあ。母親は、どうも、インドネシアよりもオーベイが好きみたいで、あんまり来ませんけどね」
 佐久間はこういいながら家の中を案内する。突き当たりの右から中に入ると、ダイニングテーブルのある広い居間。その居間から台所、別の寝室を通り抜けると広いダンススタジオがあり、その奥にはガムランセットが置いてあった。ガムランセットの横のドアが最初に入ってきた通りに面しているので、そのドアが玄関といってもいい。
 ガムランセットをいじるブナの写真を撮っているとき、下宿人の女性がふっと現れた。現在ISI留学中の田淵ひかりだった。ジョクジャカルタ生活1年半だというが、日焼けした感じはなく、赤い花柄のワンピース姿の清楚なおもむきである。彼女は昔から、なんというか、線の細い女性であるが、以前より心身ともにほっそりしたように見えた。聞けば、ジョクジャカルタでの学生生活、とくに精神生活は絶好調というわけではなさそうだ。熱帯の楽天性が身につけばたくましくなるに違いないが、もう1年半滞在するかどうか迷っているという。彼女に、タマゴや本間もジョクジャカルタに来ていること、今日、ガジャマダ大学でセミナーがあることを知らせた。セミナーに誘うと「行ってみようかなあ」とつぶやいた。
 イウィンが冷たい飲み物とおかずを買ってきた。テーブルを囲んでしばし歓談。佐久間はテーブルのある床から一段高い板の間に腰掛ける。
「はい、ひろっさん、コーラ」
 イウィンから手渡されたのは、ビニール袋に入った黒い液体。コーラの味ではあるが、炭酸シュワ感に乏しい。ブナは、おかずぶっかけご飯を食べる、というより、手を米粒まみれにして遊んでいた。
 そうこうしているうちに、セミナーへ行く時間になった。早めに出て街で買い物ができればと思っていたが、どうもその時間はとれそうになかった。田淵とセミナー会場での再会を告げてガジャマダ大学へ向かった。セミナーは3時半から始まることになっていた。

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セミナー

 ガジャマダ大学は緑の多い、かなり広いキャンパスだった。インドネシア国内の名門大学である。古都ジョクジャカルタにあるので、日本でいえば京都大学にあたるか。デンパサールからジョクジャカルタのフライトで知り合った弁護士リリーもこの大学出身だった。
「Cultural Recovery and Discovery after Disaster for Future Cooperation」という長いタイトルのセミナー会場の名前を知ろうと当日配布印刷物を見たが見当たらなかった。このセミナーは今回のタマゴ訪問で急遽企画されたもの。スポンサーはタマゴが勤める大阪市立大学である。会場はかなり広いがらんとした空間だった。
 このセミナーに関しては、前夜、かなり突っ込んだ議論になった。誰を対象として、何を目的としたものか、などなど。ワダスも、その内容についてもう一つはっきりしなかった。受付で渡されたパンフレットには、大阪市立大学を中心としたUrban Culture Research Center (UCRC)についての解説が英文であるだけで、セミナーそのものの具体的なテーマなどには触れていなかった。この感じは、セミナーが終わった後まで残った。mandisenisamasama
 ロの字にセットされたテーブルには、発表者、大学関係者そしてわれわれ一行が座る。途中から田淵ひかりの姿も見えた。
 最初のスピーカーはガジャマダ大学のSjafri Sairin氏。ジョクジャカルタの震災からの復興が混乱なく進んだのはこの地にリーダーシップ伝統があったからだ、というのが彼の主張だった。そのリーダーシップの伝統とはどのようなものか、どのようにして形成されたか、今後もその伝統が維持されていくためには何が必要で何が足りないのか、リーダーシップの伝統と芸術文化はどのように関係しているのか、といった議論になっていけば面白いと思ったが、Sjafri Sairin氏はそこまでは触れなかった。彼は、参加している日本人に何を伝えたかったのか、ワダスには分からなかった。次のスピーカーはISIのSeoprapto Seodijono氏。最近事故にあったり体調不良で準備不足だった、と前置きした発表は概念的、包括的で、主張したいポイントはほとんど分からなかった。
 二人の発表の後、タマゴが「ガムランを救えプロジェクト」について発表した。プロジェクター用の英文資料は、実はワダスが急いで作ったものだ。
 様々な議論はあった。ニティプラヤン村でのオン氏の活動も話題になった。ワダスも、アクト・コウベの経験と考え方、われわれのようなアートによる復興支援運動は、支援を必要としている被災者にとっても必要だが、実は支援する側にとっても必要なのだ、と述べた。しかしこのセミナー全体を貫く具体的テーマがしぼりきれていないので、細部はきちんと頭に残っていない。ただ、Sjafri Sairin氏の「アーティストはエゴイストだ」という言葉が印象に残った。
 それに、参加者はインドネシア人と日本人だけである。にもかかわらず、発表も議論もほとんど英語で行われた。おかげでワダスは議論の流れはおおまかにつかむことができたが、日本側にはインドネシア語でそれなりにきちんと伝えることのできる佐久間、エリー、タマゴがいるわけだから、インドネシア語でも良かったのではないか。英語を使ったのは、アカデミズムの権威を示す意図があったからであろう、というのが大方の見方であった。
 一通り議論が終わり、記念撮影。その後参加者は2階のセミナー会場から1階へ移動した。1階には食事が用意されていた。ニューヨークの大学に留学したことがあるというISIの彫刻家の先生や、イウィンに教えていたというISIの女性舞踊家教授とおしゃべり。ワダスはやはり英語が通じるとかなりほっとする。食事会が終わったのは7時過ぎだった。

帰途につく

 遅帰り組やジョハン、シスワディと別れを告げた後、エリー、エミー、SATOYA、林、山崎、HIROSの帰国組6名とヒロミ、ロフィットを乗せたバスが空港へ向かった。ヒロミとロフィットはスモヨ村まで送ってもらうことになったようだ。
 チェックインしたわれわれは、待ち合いスペースでぶらぶらする。ワダスの財布には、入国のときに両替してほとんど使っていないルピアが残っていた。470,000ルピアあった。再両替はしたくない。すべて消費したいのでお土産を物色した。ガムランのCDやDVDがあれば買いたかったがなかった。
 われわれを乗せたGA254便は予定通り20:40に出発。席順は来た時と同じだった。窓側から、山崎、SATOYA、通路をはさんでHIROS、エリー、エミー、林。睡眠不足もあって、頭が朦朧状態だった。
 デンパサールの国内空港から国際空港へ、往路と逆順に向かう。国際線チェックイン、パスポート・コントロールをスムーズに通り抜けた。待ち時間の間、なんとか残ったルピアを消費しようと、林と一緒に免税店を巡った。結局買ったのは、200,000ルピアの青いバティックのシャツ、「Asian Groove」と「Bali Meets India」というCD2枚。合計でちょっと足が出たのでエリーから借財した。
 00:30AM、関空行きGA882便は予定通り出発した。隣り合ったエリーとちょっと会話はしたが、頭はほとんど働かない。何度も姿勢を変えてうつらうつらしつつ朝の機内食を食べ、再びうつらうつらしているうちに関空に着いた。
 これから学校へ行って仕事だあ、というエリーや他のメンバーと別れ、よれよれと神戸空港行きボートに乗りこんだ。

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