マンディ・スニ・サマサマよれよれ日記 2008年5月26日(月)

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 7:30起床。とうぜん快晴。池上式フィルター・コーヒー、前日と同じミー・ゴレン目玉焼きのっけ+パパイヤの朝食+タバコ3本の助けを借りて定例読書並行重要儀式がつつがなく終了。持ってきた『法然の哀しみ』はやめて、下の食堂に読み捨てられていた藤沢周平の『用心棒日月抄』を読む。藤沢周平はあまり読んだことはなかったが、読み出したら止まらない引力がある。
 頭はちょっと江戸時代気分で9時にニティプラヤン村へ出発。今日は、夕方までワークショップとリハーサルをして、8時のコンサートに備える予定である。昨日に続き、長い1日になりそうだ。

楽器製作と練習

 まず全員が建物B2階で今日の行動予定と作業内容を確認した。中谷シシーと林が胸の痛い本間の記録補助要員になった。
 建物Aの横の空き地に青竹が数本ころがっていた。これでトンガトンが作れそうだ。のこぎりとカッターナイフを借りて早速、楽器製作にとりかかる。一緒に作業するのはSATOYAと山崎。借りたのこぎりの目が粗く、しかも押し切り方式だ。切りにくい。建物Aのコンクリート腰壁の上に乾燥した細い竹も用意してあった。これで3本のサガイポを作った。山崎は、イブイブ・ルスン楽団と一緒に演奏する竹棒などをSATOYAと作る。試しにバリンビンを作ろうと思ったが、刃物があまりに切れないのであきらめた。
 できあがったサガイポを試し吹きしていると、子供たちとのワークショップを終えた池上、エミーも合流し、臨時カリンガ楽団ができた。ちょっとずつ音程の異なる1音しか出ない笛、サガイポは唇に当てて息を吹きかければたいていの人は音を出すことができる。音のパターンも実に簡単だ。プープッ、プープッと続けるだけ。ところが、1番目のプープッを聞いた2番目の人は、1番目から8分の1拍ずらせて始めなければならない。つまり、ンプーップッとなる。この手順を順繰りに6番目の人まで行うのがカリンガ音楽の特徴だ。今回はサガイポは3本しかないので、残りの3人は声で同じことをすることにした。これが慣れない人には難しい。しばらく練習する必要があるのだ。エミーはすぐに理解した。急遽、楽団員になった本間は、
「つまり、8拍をまず勘定して次の9拍目から八分音行ったところで始まるということですよね」というので2番を吹いてもらうが、どうしても1番と同期してしまうのだった。吹奏の非条理的定理に基づいた不確定性リズムの単純反復によるコミュニケーションの背理を観察する、みたいな感じでリズム構造を理解しようとしているようだ。それを聞いたエミーが申し述べる。
「そおんなむつかしい話じゃなくて、簡単なことやんかあ。要はこうやって隣の人とずらすわけや。やってみい。えっ、いや、そやなくて、こう。そうそう、そうそう」
 単なる竹筒の楽器、トンガトンはサガイポよりはうまくいったが、やはりちょっとした勘が必要だ。原理はサガイポと同じである。まず1番の人が竹筒の底を床に打ちつける(トン)。ついで筒を持ち上げ開口部を手のひらでふさいで(ガ)再び底を床に打ちつける(トン)。これだけだ。トンを1拍としてトンガトンと音を出すわけだ。1番よりも若干短めにして音程を高めた2番が、1番から半拍ずらしてトンガトンと叩く。以下、徐々に短くなった筒を3、4、5、6と次々に同じように半拍ずらしていく。
 しばらく練習するとなんとなく形になってきた。練習を聞いていたタマゴが、
「今の、おもろいからISIの学生ダンサーのときにそれやってよ」と申し述べる。

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photo by HOMMA Naoki


 われわれがこんなことをしているうちに、今晩のコンサート会場作りが進行していた。提灯(十津川村盆踊りのものもあった)、路上や道路向かいの家のコンクリート塀のペインティング(温泉マークや「温泉」といった日本語やインドネシア語など)、建物B下の高床舞台には小編成ガムラン楽器のセット、竹舞台には水を張った大きなタライなど。コンサートは、建物A、その横の空き地、竹舞台、高床舞台を使う予定なので、それぞれの場所で飾り付けや照明器具の設営が行われていた。ワダスはこうした準備状況を見て初めて、今晩のコンサートがどのようなものであるか、なんとなくつかめてきた。コンサートのことはここに来る前から分かってはいたが、具体的なイメージはほとんどなかったのだ。
 ランチは建物B2階で。ごはん、野菜の炒め物、タケノコの煮物のベジタリアン料理だった。めいめいに食べ物を皿に盛り床に座って食べた。
 食後はしばらく昼寝。室内は比較的涼しくからっとしているのですぐに眠りが訪れた。

リハーサル

 4時、コンサート全体のリハーサル。コンサートは8時に始まる。オン氏とタマゴの相談の結果、プログラムは以下ということになった。
1.イウィン、エリー他女性ダンサーが会場に踊りながら入場(ある地点から建物A へ)
2.HIROSソロ(秋田長持唄の独唱)+佐久間の即興舞踊(建物A)
3.カリンガ楽団+ISIダンサー(建物A)
4.子供たちによるパフォーマンス
5.イブイブ・ルスン楽団+ちょっかい楽団+タマゴ大王
6.ルスンを中心に参加者が入り乱れ混沌、大団円へ
 タマゴが説明し終わったころ、建物Aにあった屋台にはいろいろな食べ物が運びこまれていた。観客販売向けの飲食物である。かきあげ天ぷら、テンペ、木の葉に包んだトリメシ(インドネシア版柿の葉寿司?)、おでん風の串刺し、トリの足、ちょっと甘いお茶など。どれもうまそうだ。周辺にいた関係者が屋台に集まり思い思いに食べ物をとり始めた。聞けば、関係者は無料で飲食できるということ。日本人たちもそれを聞いてわっと屋台に群がった。

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photo by HOMMA Naoki

 建物B2階で、最初のプログラムで入場してくる女性ダンサーを迎える歌を練習。ロフィットの作曲だった。歌詞のついた数字譜がみなに手渡された。歌詞は当然、インドネシア語である。最初にロフィットが歌った。割と速いテンポの明るい曲だ。数字譜と歌詞を照合しつつ追うのだが、インポが速すぎて正確な音で歌うのは難しい。
 本番まではまだ時間があったので、ワダスは再び昼寝。起きだすと、建物B2階全体が騒がしくなってきた。出演者がメイクアップを始めたのだ。奥の壁のあるスペースでは、エミー、エリー、池上、イウィンの女性陣が荷物を広げておしゃべりをしつつ、着替えやメークアップに忙しそうだ。
 そこへ、SATOYAの友人であるディディク氏が入ってきた。彼は国際的にも有名ないわゆるオカマ舞踊家である。すらりと背が高く坊主頭に近い短い髪、割と細長く整った顔。しゃべり方やしぐさはいかにもオカマ風で、一つ一つの対応がウィットに富んでいる。仕上がったコスチュームは、なんとも、あでやかというか、ややこしいというか。白粉、真っ赤な口紅の派手なメークアップ、いかにもフェイクの日本髪カツラ、詰め物の入ったブラを覆う真っ赤な花柄の白いシャツ、黄緑の長いスカーフ、くるぶしまでの真っ赤なサロン、白い靴下に真っ赤な靴。ときおり村人が彼(彼女)に記念撮影をせがみにくる。村人が知っているくらいだから、ディディク氏は相当な有名人のようだ。以下は後で判明した彼のプロフィール。

「Didik Nini Thowok--1953年、ジョグジャカルタ生まれ。ジャワ舞踊、バリ舞踊、スンダ舞踊など、各地へ赴き多彩な伝統舞踊を習得。 インドネシアでは数少ない女形舞踊家として知られるほか、振付師、舞踊講師、コメディアン、歌手など幅広く活躍している。2001年には国際交流基金の芸術家招聘フェローシップにより来日し、3カ月にわたり日本舞踊と能を実践的に学んだ。それらを基に創作されたコミカルな動きと伝統芸能を織り交ぜた独特のスタイルは、観る者を魅了し、世界的な注目を集めている。欧州を中心に海外公演も多く、インドネシア国内では宮沢元首相やドイツのコール首相といった国賓の前でも舞踊を披露した。また、自国の深刻な経済危機などに心を痛め、チャリティイベントにも積極的に出演。恵まれない孤児たちへの教育援助、中部ジャワ地震の被災者救援など福祉活動にも力を入れている」(出典:Gamelan Marga Sari -Blog-)

 建物A付近には次第にお客さんが集まりだした。マルガサリ・メンバーで現在ISIに留学している西田有里の顔が見えた。つるんとした顔は元気そうだ。なぜ会いにこないのか、というと「来ていることは知らなかった」という。西田と一緒に来ていたのは、CAP HOUSEのガムラン・グループで演奏活動していた岩村君。彼もやはりISIの留学生だ。他のISI留学生は、金川という若い女性、イギリス人男性、オーストラリアからの小柄な女性(本国ではインドネシア語の先生という)。彼らを含めた観客が続々と集まり、お祭りのような感じになってきた。

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photo by HOMMA Naoki

コンサート

 8時前、コンサートの1ベルがなる。1ベルは建物A横の広場。イブイブのルスン楽団だ。普通1ベルといえば、開始の合図のみである。ところが、多くの客が見守り、こうこうとした照明とテレビカメラを意識してか、イブイブたちは演奏を一向に止める気配がない。まるでプログラムの一部のような様相になってきた。彼女たちは、リハーサルのときと打って変わって赤地に白い点々の入ったシャツとサロン姿で化粧もしていた。マツコも、一緒に歌うヒロミも陶然とブンガワンソロなどを歌い続ける。いったいいつまで続くのだろうと心配しかけたときにふと止んだ。
 民家のある薄暗がりから提灯をもったイウィンを先頭に女性ダンサーたちが向かってきた。途中通行止めにした道の中央をゆっくりと進むダンサーたちを観客である村人が見る。エミーとワダスは彼らを確認して笛を吹いた。当初、リハーサルで練習していたロフィットの歌を歌うことになっていて、笛は入る予定ではなかった。しかし、イウィンが明るい曲では荘厳さが損なわれるからと、ワダスに笛を吹くように頼んでいたのだ。
 ダンサーたちは、建物Aの十津川盆踊り提灯の下がった入り口に達し開始の儀式を行う。ここでわれわれは、ロフィットの作曲した歌を歌った。歌詞は以下。

Kombanwa Slamat malam(「こんばんは」、こんばんは)
Kami datang dari Jepang (私たちは、日本から来ました)
berkunjung di Nitiprayan (ニティプラヤンを訪れてます)
bersenag berkesenian(楽しくアートします)

秋田長持ち唄

 進行係のタマゴは、ワダスにスタンバイを指示。次がワダスのソロなのだ。ダンサーたちの後を団子状になって移動してきた観客はどんどん建物Aやその周辺に群がる。建物Aの中央付近に立ったワダスは、マイクをもらって「秋田長持ち唄」を歌った。大きなスピーカーからワダスの声が広がっていくのを聞くのは気持ちがいい。歌い始めるのを合図に、佐久間が竹舞台から上がってきて即興舞踊を披露する。佐久間に異様な出で立ちのディディックが絡む。さらに下からISIの男女ダンサー群が登場。ワダスは西田有里を見つけて持っていた笛を預かってもらい、あわててサガイポ楽団演奏の準備をした。ゴミと間違えられそうなのでルスンに保管していた楽器を持ち込む。全員揃っていると思ったら、サガイポとトンガトンの1番手である本間がいない。どこかで撮影しているのだろう。1番がいないと困る。どこにいるのだ、本間、ホンマあ。本間はやっと見つかり、なんとか本番に間に合った。

カリンガ楽団とダンサー

 建物Aの中はわれわれ楽団員の居場所を見つけることが困難なほど込み合っていた。男性ダンサー群は観客をかき分けつつ中央で踊る。彼らのコスチュームもけっこう凝っていた。真っ赤な着流し風の浴衣を着た青年、ダフダブの白い布をざっくりとかぶった青年。カラフルな伝統衣装をつけた若い女性舞踊家たちが加わる。上半身裸の青年2人が、かなりきわどい表現を交えて赤い布を巻き付けた長い棒を使って踊る。コンクリートの腰壁に座っていたイブイブたちに動いてもらって場所を確保したわれわれはサガイポの演奏を始めた。リハーサルのときと違い演奏が荒っぽくなった。われわれは、ダンサーたちの動きを見ながら演奏を停めたり再開したりした。ついで、トンガトン。これも、本間、池上、HIROS、エミー、SATOYA、山崎の息がぴったりと合っていたとは、残念ながらいえなかった。やはり急造の楽団では安定した演奏は難しいものだ。

竹舞台の子供たちとガムラン

 コンサートの場所は、明るい照明に浮かび上がった竹舞台へ移動した。子供たちのパフォーマンスである。観客が大きく動いていく。観客は視界を確保しようと立場を移動しごった返す。預けていた笛をもらおうと西田を探すが、どこにいるかまったく分からない。込み合った客の間を泳いでいるうちに、子供たちのパフォーマンズが終わり、建物B1階の高床舞台のガムラン演奏が始まった。小編成のガムランを演奏しているのは若い男女だった。演奏と同時に周辺で踊りも加わる。この演奏はかなり長かった。

哀れさの漂うタマゴ大王

 次にプログラムの場所は再び建物A横の空き地へと移り、イブイブたちの演奏。このイブイブたちに山崎、SATOYA、池上が竹の棒でちょっかいを出す。エミーやエリーも踊りだす。そこへ、金のコスチュームをつけたタマゴ大王が、バナナの葉の団扇をあおぐ林を伴って登場し踊り始める。ここでタマゴ大王の存在感を示したいタマゴであったが、カラフルなコスチュームの人々が多く、取り巻く観客も常に動くので思ったほど目立たない。一生懸命動くほど、大王の周辺には哀れさも漂う。昨日まで圧倒的な存在感を示してきたタマゴ大王ではあったが、コンサートというよりもお祭り騒ぎに近くなった状況では、注目を浴びなかったのであった。
 当初、ルスンの周囲を参加者全員が踊りながら混沌状況を創りだしてコンサートが終了する、という筋書きだった。ところが、ここでバリ風ダンス軍団が突如路上に現れて集団舞踊を始めた。スピーカーからは彼らの音楽ががんがん流れる。コンサートはなし崩し的に混乱状況へと突入しつつあった。そして観客の関心は路上ダンス軍団に移りつつあった。バリ風ダンス軍団の存在はまったく知らされていなかったので、いったいいつになったらどういう形でコンサートが終わるのかも分からない。建物A入り口付近にいたエミーが、
「なんじゃ、こりゃ。どないなっとんねん。あかんでえー、こんなん」
と怒る。知り合いということで有名人であるディディクに声をかけてわざわざ来てもらったSATOYAも、
「こんなんで終わったらディディクさんに悪いなあ」
とつぶやく。エミーの提案で、路上パフォーマンスとは別に、竹舞台でディディクにソロで踊ってもらうことにした。伴奏はワダスとスリンのエミー。

ディディクのソロ・ダンス

 照明のあたった竹舞台の端に座って笛を吹き始めた。SATOYAと山崎がそれぞれわれわれの口元にマイクを近づける。人間マイクスタンドである。笛の音を聞いた観客の一部が竹舞台に注意を向け始めると、赤い扇子を手に持ったディディクが登場し舞台中央に正座した。池上がディディクの頭上から花を降らせる。
 最初はジャワ伝統舞踊の振りでディディクは踊っていた。ワダスは、どちらかというと能管のようなイメージで即興的に吹いた。途中、赤の着流し青年が加わり、ディディクの踊りはにわかにコミカルなものへと変化した。セックス絡みの表現もあった。ワダスはそれを見てフリーインプロ系の演奏に切り替え、振りに合わせた。場面によっては音の隙間が欲しいと思ったが、エミーが間断なくスリンを吹き続ける。笛吹きはときとして吹きすぎる。
 このパフォーマンスは15分くらいだったか。しかし、このパフォーマンスでコンサートを締めくくったことは良かったかもしれない。
 路上ダンスは続いていたが、これで今日のコンサートは終了ということになった。終わったのは10時くらいだったか。もうへとへとだった。

締めくくりの儀式

 竹舞台で今回のイベントを締めくくる儀式。日本からの訪問団が2列になって並んだ。そして、主催者であるオン氏がお礼を述べた。そして、プレゼントをもった子供たちが並んで進み、われわれ一人一人にプレゼントを手渡した。プレゼントは蛙の声を模した音具と、お菓子のパッケージなどで作った操り人形だった。みな子供たち自身が作ったものだ。お返しに、われわれの代表であるタマゴが返礼の挨拶をし、子供たちにプラスチックのリコーダーを手渡した。さすがタマゴだ。人知れずこういうものを準備していたのだ。と思っていたが、実はオン氏がすべて用意したものだったという。オン氏の村人に対する気配りだろう。

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photo by HOMMA Naoki


 帰国後、オン氏から訪問団の団長であるエリーに次のようなメールが届いたので忘れないうちに書いておく。
「ハロー、エリ。
 元気ですか?ガムランエイドの皆さん、やって来てくれてありがとう。皆さんの訪問は、ニティプラヤンの人たちにとって、大きな意味がありました。彼らは、日本人も彼らと一緒に芸術を創造することができるのだということを知って、自分たち自身、そして自分たちの能力への自信を一層と深めたと思います。また、彼らの外国人に対する理解も深まっていくでしょう。
 どうすればカンプン(集落 共同体)が、地域の文化をつかって、あるいは自分たちの美的感覚をつかって、芸術のメディアになりうるのか。それが、まさにわたしの目指したいことなのです。カンプン(集落 共同体)は、その社会にあるさまざまな表現や論理をつかって、芸術活動が行われる場です。芸術とは、地域の人間の間に、地域の言葉を使って、寛容の心を育んだり、コミュニケーションを生み出したりするメディアなのです。わたしが試みている実験や研究は、その一部です。
 一般的に言って、わたしが思う限り、経済のグローバル化やITの発達の影響で、もはやインドネシア(あるいはジョグジャ)における文化や芸術の発展には、地域性や地域の精神が失われてしまっています。わたしは、社会(ニティプラヤン)を消費的なものではなく、生産的で、創造性があり、自信の持てる場所に作り上げたいと思っています。そして、わたしは、地域の芸術の言葉をユニバーサルな言葉へと引き上げたいと思っています。言葉はもはや障がいの要因ではないということは、証明済みなのです。ニティプラヤンの女性や子供達は芸術を通じて、日本の人たちとコミュニケーションすることが出来きました。おそらく、彼らは他の国の人ともコミュニケーション出来るでしょう。
 芸術は喜びにもなるし、啓発にもなります。芸術は啓発である。これがわたしの芸術に対する考え方です。この考えは、すべてのことがはっきりしないというインドネシアのカオス的雰囲気、あるいは、西洋的なものはすべて正しいという考えが支配的であり、現代化とはたんに物質的なものだけであって、現代と伝統(地域的特質)を合同させようとする視点がない、といった現在の状況から生まれた考え方なのです。
 エリ、今のところわたしが伝えられるのはこんなところです。また後で、いくつかのコンセプトのファイルとニティプラヤンでの活動のイメージを送るつもりです。
オンより」(訳:佐久間新)

 こうして、二日間通ったニティプラヤン村での活動はすべて終わったのだった。オン氏のメールを見れば、われわれとの共同活動は主催者である彼自身にも村人にも好ましい効果を及ぼしたことは間違いない。
 ホテルに着いたのは12時近かった。

乾杯と深夜議論

 ホテルの東屋でまずビール乾杯。ここでタマゴが全員にTシャツを手渡した。このTシャツは、今回訪問できなかった岡部がデザインし、ジョハンたちが作った。シンプルなロゴの入った白いTシャツだった。来訪前、ジョハンが今回の「マンディ・スニ・サマサマ」のために作りたいといっていたもので、今日のコンサートのユニフォームにする予定だった。しかし、手違いで本番までに間に合わなかったのだ。
 みんなくたびれていた。しかし、コンサートの興奮が冷めない。コンサートの反省会になった。プログラム順序の変更の理由、オン氏と地元村人との関係、飛び入りダンス軍団とは何者かなどから、次第に「ガムランを救えプロジェクト」全体のコンセプトや今後どうするのか、明日のセミナーの内容といった話題へと変わっていった。われわれの活動の本質的、根幹にかかわる議論にもなった。メンバーは時間が経つにつれて撤退し、残っているものが少なくなっていった。結局、最後まで議論に加わっていたのは、タマゴ、エミー、HIROS、本間、SATOYAの5人。部屋に戻ったのは早朝4時だった。

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