マンディ・スニ・サマサマよれよれ日記 2008年5月25日(日) 

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  7時起床。快晴。池上式フィルター・コーヒー、前日と同じミー・ゴレン目玉焼きのっけ+パパイヤの朝食+タバコ3本の助けを借りて定例読書並行重要儀式がつつがなく終了。
 中谷シシーは、「今日は1人で街を回ってきます」といっていた。おかしなことをする集団だと愛想つかされたのかもしれない。もっとも、せっかく外国旅行に来たのにいつも集団で動くというのは不自由でもある。
 9時半、ジャワ中部地震で最も被害の大きかったバントゥル県に向かった。県内で5000人以上の死亡者を出したという。
 イウィンが「中川さんも乗りますか」というので、ジョハン、シスワディの乗ってきたISIのトヨタ車に乗り込む。それを見てブナも後のドアからもぐり込んできた。ISIバスがわれわれの車の後を走る。

 

バントゥル県

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photo by HOMMA Naoki

 ホテルを出発して10分ほどで、バントゥルという標識があった。ジョグジャカルタ市街とほとんどつながっているので郊外に来たという感じではなかった。
 後部座席に座っていたブナがやたらにエネルギッシュだ。後を追いかけてくるバスに手を振り、ああ、パパ、パパー、シンサン、シンサーンと声を上げ、背もたれを乗り越えて最後部座席に移動する。たしなめるイウィンを無視して再びわれわれの座席に転がり込み、いーひひひひー、と笑う。油断しているとすぐにだっこちゃん攻撃にあう。
 まず着いたところは、役所のようなビルの横にあった大きなプンドポ(舞台)だった。広い舞台の両サイドのスピーカーからフル編成のガムランが鳴り響く。垂れ幕には、「FESTIVAL KESENIAN TRADISONAL (LOMBA KARAWITAN)」と書かれてあった。震災記念の音楽祭なのか。
 テントで覆われた野外の広場にはイスが並べられていたが、聴衆の数は少ない。一般席からちょっと離れた最前列のイス席はVIP席ということだった。
 一つの演奏家グループが去り、新しいグループが入場してきた。演奏家たちは、しゃがんだ姿勢のまま歩いて舞台に入る。偉い人の前ではこうしたしゃがみ歩きが礼儀とされている、と隣に座ったタマゴが解説した。ということは、VIP席には相当に偉い人たちが座っているのだろう。
 舞台袖の奥でマルガサリメンバーでISI留学中の西田有里の姿が見えたと思ったらすぐ消えた。大阪・豊能町に本拠を置くガムラングループ「マルガサリ」からISIに留学する人は多い。佐久間もそうだ。現在は、西田有里と田淵ひかりの2人が留学している。マルガサリ代表のタマゴが今回ジョクジャカルタに来ていることは2人とも知っているはずだが、空港への出迎えはおろかホテルに訪ねてくることもなかった。タマゴは「なあんか、変やろ。ちょっと常識では考えられへん」と不満のようだ。2人とも忙しいのかもしれないが、インド的にいえばタマゴは彼らのグルなわけで、真っ先に会いにきてもいいのではないかとワダスも思う。ワダスも2人を知っているので、会えばうれしいなと思っていたのだが。

震災記念釣り大会mandisenisamasama

 まっすぐな道が両側に広がる田園を貫いて続く。ガムラン演奏会場を後にしたわれわれは、被災した村を見ることになった。真っ青な空の下、のどかな田園風景がどこまでも続く。震災の被害が大きかった場所ということだが、ときおり見える農作業中の人々やヒツジ、大豆やサトウキビ畑の青々とした広がりには、深刻な雰囲気は感じられない。とはいえ、倒壊して打ち捨てられた建物もところどころにあった。運転しているジョハンによれば、ほとんどの住宅は新築されたという。しかし、木製の玄関扉や窓枠がまだ新しいらしいことは分かるが、屋根や壁だけを見る限りずっと昔から建っているようにも見える。
 しばらく行くと、道路と右側に並行して走る用水路のコンクリート様の壁の両側に多くの人々が釣り糸を垂らしているのが見えた。ジョハンが「震災記念釣り大会だ」と教えてくれる。にわか釣り人の列は2、3百メートルも続いていた。道路の左側には主催者の臨時受付所、駐車スペース、屋台などが連なっていた。車を止めてしばらく眺めた。濁った小川から魚を釣り上げている人はいなかった。釣り大会というよりはなにかのお祭りのように見えた。
「主催者は魚を放流するのを忘れたのかも。ははは」とジョハン。

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    photo by HOMMA Naoki

 ジョハンはココヤシの高い木の多い村で車を停めた。村には、倒壊したままの家が多かった。まるで廃墟のようだ。再建途上の家、新築の家も混じっていた。バスから降りた一行は、てんでに集落を散策した。イスラーム教徒にはタブーのブタの他、白い牛やアヒルがいたが、インドでよく見る野良犬の姿はない。イスラーム式の墓地もあった。前にこの村を訪れたことのあるタマゴはデジタル録音機で周囲の音を採取していた。彼によれば、鳥の鳴き声がめっきり減ったという。トリインフルエンザのせいかも知れない。エリーは、村の女たちにインタビュー。まわりを子供たちが取り囲む。

トリメシ食堂でランチ後ニティプラヤン村へ
 
mandisenisamasama 交通量の多い道路ぎわの食堂でランチ。道路側の間口が全部開放されているので明るいが、騒音がまともに店に入ってくる。店内の奥のテーブルで地元の人らしい家族が食事していた。メニューはほとんど1品。トリメシだ。ベジタリアンの林は当然食べることができない。シスワディや佐久間が奥のキッチンへ行って特別に野菜の煮付けを注文した。トリメシをパスしようと思っていた腹パンパン病のワダスだったが、どっちもなかなかにおいしかったので食べてしまった。向かいに座った佐久間、ブナ、イウィンは、味付けされた骨付きとりもも肉を手でちぎりばりばりと食べている。「わたし、これ、大好き」といったイウィンはトリの頭をかじってうっとりしている。食後、タマゴが今後の予定などを説明。車が通るたびに声がかき消される。これから、村人や在住アーティストたちとのワークショップをすることになっているニティプラヤン村へ向かうのだ。

ニティプラヤン村

 ニティプラヤン村に近づくと、延々と広がる田んぼの向こうに民家、その背後に点在するココヤシや火炎樹の木々が見えた。里山みたいだ。なんだか、ワダスの故郷、山形にもあるような風景だ。 
 狭い田舎道を抜けて会場に着いた。会場は縦に2棟続く柱と屋根だけの建物だった。道路側の天井の低い建物Aには、お揃いの黒地に青のだんだら模様のシャツ、赤茶地に白の菱形模様の腰巻き姿の女たちが、足元にある2mほどの舟形にくりぬいた大木のまわりでおしゃべりをしていた。古い大木は、中に米を入れて搗く容れ物でルスンということは後で知った。ほとんどは中年の女たちだが、なかにはちょっと腰の曲がった婆さんも混じっていた。おそらくそういう打ち合わせになっていたのだろう、オバサン(イブイブ=母ちゃんたち)たちがわれわれを確認するとそれぞれバットのような棒や杵をもってルスンを叩き始めた。歓迎の演奏。彼女らのバンドにはちゃんと「ニティ・ブダヤ」という名前もついている。

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photo by HOMMA Naoki
   

驚異のルスン演奏

 これがとんでもない演奏だった。一定間隔で舳先を突くメトロノーム役、半拍遅れで舟底を一撃して横腹を突く、くり抜いた壁の上端をさらに半拍遅れで3回叩くといった感じで、3人と1人の対になった8人のイブイブが複雑なリズムをたたき出した。その横で男が小さめの両面太鼓(クンダン)でリズムを合わせる。一人一人は単純なリズムを叩いているのだが、全体になるととても複雑な組み合わせになっているのだ。そのリズムに合わせて、歯が一部欠けた太ったオバサン(といっていいのかどうか。意外に若いのかもしれない。後にわれわれ一行の誰かが"松子"と命名したので、以後マツコ)が歌う。マツコが笑顔になるとちょっと不気味だ。聞けば、こうしてみなが息とリズムを合わせて搗いているうちに玄米が精米になる。バラバラに搗いていたのでは単純作業だけに飽きてくる。しかし、こんな風に音楽的なリズムに合わせて搗く作業だと長時間でもできるだろう。日本にはないが、こうした発想による音楽はフィリピンの山岳民族であるカリンガ族やバリ島のケチャに見ることができる。共同体意識の強い人たちによってできあがった独特のあり方だ。
 演奏し終わったイブイブたちから棒や杵を借りて叩いてみた。思ったよりも重い。どんなワークショップにしようかと考えながら叩いたが、ルスンを使って面白いリズム遊びができそうだ。
 建物Aを奥へ通り抜けると屋根が切れ、屋外階段になっている。数段おりたところに竹を敷き詰めた床。間口2m奥行き5mくらいの細長いステージである。ここはとりあえず竹舞台と呼んでおく。竹舞台からさらに下がると2階建ての建物Bのコンクリート床に続いている。そのコンクリート床から1mほどの高さに2m四方ほどの高床舞台があり、それを回り込んで2階へ至る階段に出る。上がり口にはたくさんの履物が脱ぎ捨てられ、上からは子供たちの声が聞こえてきた。
 建物Bの2階も建物Aと同様に柱と屋根だけの構造である。床は板敷き。ただし、周囲が1mほどの細板を並べた腰壁になっている部分は、高床舞台の真上の吹き抜けを挟んで、2mほどの高さの竹壁に囲まれた部分に分けられていた。三方を腰壁に囲まれた広いスペースが実に心地よい。室内のどの位置からも田園と遠くの山々を見ることができる。腰壁に背をもたれさせて座ると、風がときおり通り抜ける。
mandisenisamasama 2階にはすでに子供たちやその母親たち、ワークショップ参加の若い男たちが壁の周囲に座ってわれわれを待っていた。子供たちは何か芝居のようなものを練習していた。バイオリンを弾く長い髪の女の子もいた。

自己紹介

 一通り落ち着いたとき、今回のワークショップの主催者であるオン氏がまず挨拶をした。長身の、派手な絵柄の黒いTシャツに短パン姿のオン氏は40歳くらいだろうか。やや含羞のまなざし、静かだが芯に強い自信と誇りが感じられる。腕のいい漁師と見えなくもない。画家である彼がこの村に移り住んできたのは1993年。以来、アートによる豊かな村落共同体のあり方を模索するリーダーとして、さまざまなイベントを仕掛けたりしているという。彼のまわりには、一緒に活動している青年たちが座っていた。彼らのたたずまいや表情などから、漁師仲間のようにも見える。あるいはレゲエ愛好会仲間のようにも見えた。
 オン氏の挨拶を受けてタマゴが返礼。その後、われわれ一行の自己紹介が続いた。タマゴ大王マスクをつけたタマゴが子供たちの列に踏み込む。尻込みして逃げ惑う子供たち。タマゴがワダスを指名したので中央でバーンスリーを吹いた。曲は最上川舟唄。最初、短い笛で吹いたが、途中から長い笛に持ち替えた。循環呼吸で息つぎせず長いフレーズを吹いたあと、笛を置いて、ハー、ハー、とやったらけっこう受けた。次は山崎。くだけた感じの自己紹介が続いたためか、なにかしなきゃと思ったのか、あるいは最初からそうしようと思っていたのか、インドネシア語で自己紹介をした後小さな木製の鳥声発生玩具を鳴らしてみせた。次のSATOYAはかなり受けた。自信なさそうに足を動かし、まるで一夜漬けで覚えたようなインドネシア語の挨拶をかなり計算されたオチでまとめたのだ。彼はなかなかにゲーニンなのだ。エリーは、ソートーに流暢に聞こえるインドネシア語でなにやら申し述べたが、もちろんワダスには理解できない。佐久間のおかしな表情のコミック系即興舞踊では、子供たちがびっくりしたり笑ったりしていた。彼が話したのはもちろんインドネシア語。つづく林もまたインドネシア語で挨拶した。池上は手に持っていた糸の端を子供に持たせタマゴを柱にくくりつけてしまった。ロフィットとヒロミはしごく真面目に大人しくインドネシア語で挨拶した。イウィンは奥ゆかしく短くインドネシア語で。エミーはやはりインドネシア語で簡単な挨拶の後、バリ舞踊の動きを披露。そして本間はその様子をビデオやデジカメにおさめるのに忙しい。それにしても、日本から来た一行はほとんどインドネシア語で挨拶できるのはすごい。1ミリもできないのはワダスだけなのだ。ともあれ、村人や子供たちに親しみをもってもらうための自己紹介としては成功だろう。

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オン氏と佐久間
photo by HOMMA Naoki


 ついで、ワークショップで必要なこと、用意してほしいものなどをオン氏や仲間達に伝えた。ワダスは、いちおう専門であるインド音楽では村人たちとのワークショップは無理なので、フィリピンのカリンガ族の音楽をやってみようと思い、竹を用意してもらうよう頼んだ。太いものは明日用意するということだった。竹林が見えていたので、一人一音のサガイポという笛を作るための細い竹も簡単に手に入ると思っていたが、急には無理なようだ。
 打ち合わせが終わると、池上と林の小石プロジェクトに参加する子供たちがいっせいに田んぼの間の広場へ向かう。われわれも、それぞれの役割分担のために散る。シシーは記録係である本間の助手、エリーは村人のインタビュー、ヒロミとロフィットは子供たちの芝居とウォーター・ドラムの準備、タマゴや佐久間はオン氏らとの打ち合わせ、山崎、SATOYAとワダスは竹楽器班、エミーは何してたのかなあ。

盤石不動のイブイブ

 楽器が作れないとなるとやることは何もなくなる。タマゴが「イブイブはおもろいで。変なリズムで遊べるやもしらんなあ」というので、建物Aにいたイブイブたちに近づいた。われわれを再び確認したイブイブたちがまた演奏し始めた。曲のレパートリーはけっこうありそうだ。マツコが歌う。なんとか仲良くなって彼らの演奏パターンを崩したい。とりあえず、スピードを半分にしたり倍にしたりすることが可能かどうか伝えようとした。イブイブたちは、どうもワダスの意図を計りかねている。歌っているマツコの顔を見ながら、メロディーを徐々に早めるように同じメロディーを口ずさむ。しかし、マツコはにやっと笑って決してスピードを変えようとしない。タマゴが「こんなんやったらどないやろ」と、棒をもつイブイブの一人の手をつないでルスンから引き離した。イブはてれ笑いしながら困惑した表情だ。1人が抜けると全体のリズムを構成しているパターンに変化が生じる。そんな風にして適当に何人かでイブイブたちを引き抜いたり戻りしたりすればもっと変化する。ひょっとしたらイブイブたちも、こんな遊びにのってくるかもしれない。しかし、イブイブは盤石不動だった。何度やっても彼女たちはルスンの元のポイントに戻り、まるで機械の一部のように自分たちの知っているリズムパターンを叩き始める。カリンガ音楽との共演ができればと思っていたワダスは、彼女たちの堅固な演奏姿勢をみて、共演は無理かもしれないと思った。
 建物Bの2階でしばらく寝た。外は暑いが、ひんやりした木の床に横になっていると気持ちがよく、あっという間に眠っていた。起きてみると隣に本間も横になっていた。急に胸の痛みを感じたという。呼吸動作で痛みが変わるというので、多分、肋間神経痛かもしれない。心臓や肺の不調ではなさそうなので一安心。彼は記録係としてひとときも休むヒマがない。今回の活動のすべてをビデオやデシカメで記録するのは大変な労力だ。きっと疲れが溜まってきたのかもしれない。

ギャラリー見学

 われわれがこのような動きをしている間、案内人というか今回のプログラムをセッティングしてくれたジョハンとシスワディが何をしていたのかは知らない。彼らはずっと建物Aの中のイスに座って知り合いとおしゃべりしていたように見えた。
 薄暗くなった頃、オン氏が自分のギャラリーを見せてくれるというので全員で行った。半円形の大きなかまぼこ屋根のある堂々とした3階建ての建物だった。周辺の民家とは明らかに異なるモダンなデザインだ。中は天井の高い展示スペースになっている。白い壁面には、かなり大きな絵が並べて立てかけてあった。絵のテーマも伝統を感じさせない、どちらかというと抽象画風のものが多かった。横の階段で2階に上がると、1階と同じように広いスペースと白い壁、やはり大きな絵が並んで壁に立てかけてあった。空間の感覚もかなりモダンで、贅沢な設計だった。

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photo by HOMMA Naoki


 ホテルに戻る車中でジョハンがいう。
「最近、ジョクジャ出身の画家の絵が1千万ルピアで取引されたというニュースがあった。ペインター、リッチ、ミュージシャン、プアー。しかたない。ははははは」
 後で聞けば、あのギャラリーはオン氏ではなく、マレーシアの中国系奥さんをもつバリ島人がオーナーだということだ。漁師みたいだけどオン氏というのはごつい金持ちだったんだ、と思っていたが、違っていたらしい。

みんなはカニを食べに

 インドネシアに来る前、今回のマンディ・スニ・サマサマの打ち合わせを大阪でやったとき、タマゴが申し述べた。
「ジョクジャカルタではものすごくうまいカニが食えるでえ」
 そのときは空腹だったためワダスの食欲中枢がハゲシク反応し、ジョクジャカルタでカニを食べる想念はずっと脳裏にあった。ところが、昨日のグラメ定食で許容量を超えて摂食したため、待望のカニ食の予定だったこの日のディナーはとても入りそうにないほど腹パンパン状態だった。お昼のトリメシもほんのちょっとしか食べていないのに食欲がまったくない。というか、摂食した食物がまったく消化されずずっと腹に溜まっている感じだった。泣く泣くカニは断念せざるを得なかった。もっとも、カニ食パスはワダスだけではなく、胸の痛みを訴えていた本間とベジタリアンの林もそうだった。
「わあーい、わあーい、カニだあ」と喜ぶ仲間を見送ったワダスは、部屋でしばらく練習。通路に出てみると、林が部屋の前のイスに座って日記を書いていた。不思議なもので、みなが夕食に出て行ってしまった後しばらくしてちょっと空腹を感じた。ホテルの食堂でもよかったが、メニュー看板は出ているのにもうやっていないということだった。仕方がないので林を誘ってスープでも飲みに行こうかと思った。声をかけると、
「行きましょうか。近くにたしか屋台があるはずですし」
 というわけで1階の食堂で待ち合わせをして一緒に外出することにした。
 みな出かけたはずだったが、食堂のテーブルにSATOYAが座っていた。
 たしか、友人の舞踊家ディディックさんとの連絡した後合流するみたいなことをいっていた。座って間もなく、ジョハンとシスワディがISIのバスを伴ってホテルにやってきた。レストランへの移動でタマゴたちと誤解があったようだ。
「せっかくバスをもってきたのに勝手に出ちまいやがって」という表情がジョハンの顔に出ている。

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 実にけしからん写真
photo by IKEGAMI Sumiko

BAKSO屋のまずい麺

 ポリ袋を買いたいという林と近所のスーパーへ。入り口にはぎっしりとバイクが並んでいて歩きにくい。小さなスーパーだった。レジの列があったが、日本風のレジスターではなく、コンピュータそのものを若い女店員は使っていた。商品構成は日本とそれほど変わりはないが、生鮮野菜は極端に少ない。ミカンとバナナを6,500ルピアで購入。ワダスはまったくの手ぶらで出てきたので林に出してもらう。
 スーパーを出て近くの道路を歩いた。スープをとれる屋台は意外になかった。と、BAKSOと書いた看板のある明るい食堂が開いていた。
「BAKSOは肉団子のことですね。でもスープだけでもできるかも。わたしは食べれないけど、入ってみましょう」
 林が、入り口のアンチャンにインドネシア語でこういった、と思う。
「その肉団子は入れないで、麺とスープだけってできるよね。で、食べるのはこの人1人なんだけど、わたしも中に入っていい?」
 アンチャンは頷いて、ドンブリに麺、春雨、肉団子を入れた上からスープをかける。
「その肉団子がいらないのよ。除いてくれる」林
 あーあ、そういうことか、とアンチャンはスプーンで肉団子だけを取り除いてドンブリをワダスに手渡した。
「おいしいですか」と、向かいに座る林。
「うーん、スープと春雨はおいしいけど、麺がまずいなあ。ちょっと食べてみて」
「あっ、ほんと。ビチャビチャの麺。たしかにまずい」
 ちょっとまずかったけど、ここの肉団子ラーメン1杯は2,500ルピアほど。実に20数円。ハノイのフォー1杯50円はかなり安いと思ったが、さらに信じがたい安さだ。
 ホテルに戻り、東屋でバナナとミカンを食べつつ林とおしゃべり。
 独身の彼女はこの3月まで、岐阜県各務原市にある東海女子大で美術を教えていた。染色が専門である。2年前、25年務めた大学から、社会に出てすぐに役立たない美術はもうなくすので、と解雇通知を受けた。継続して授業をとっている学生がいるので大学に食い下がってなんとか授業をしてきたが、この春でそれも終わり、現在は吹っ切れたという。大学の助教授をそんなにあっさりと解雇できるとは知らなかった。
 ベジタリアンになったのは、ずっと悩んでいた喘息をそれで治したからだという。食生活と体質は関係が深い。ワダスの腹パンパン病も彼女のようにすれば治るのかもしれない。だが、あまりに食い意地の張っているワダスには無理なような気がする。林は意志堅固な女性なのだ。田舎に田畑をもって自給生活をするのが夢だという。
 昔、海外青年協力隊の試験を受けたが落ちた。一緒に受けて合格した友人のいるアフリカへ旅行したのが初めての海外旅行だった。そのときは、ケニアとタンザニアを旅行した。
 などと話を聞いているうちに、カニ夕食組が戻ってきた。みんな満ち足りた顔をしている。
「んまかったあー」
 顔を赤くした山崎が開口一番、こう申し述べた。
「腹いっぱん飲んで食って、一人800円ほど。やっすいわあ、ほんま」タマゴ
 昨晩のように、SATOYA、山崎、佐久間と部屋の前でビールを飲んだ。ホテルから借りてきた栓抜きでビールの栓を抜くのに苦労した。王冠が引っかからないのだ。佐久間がまたもや持ってきた紙パックの焼酎を飲みつつ2時まで談笑。ジョクジャカルタに来てまだ3日目だというのに、もう10日以上もいるような気がする。エリーにもらったビオフェルミンを飲んで就寝。今日も実に長い1日だった。

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