マンディ・スニ・サマサマよれよれ日記 2008年5月24日(土) 

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mandisenisamasama 6時20分起床。快晴。部屋の外の通路には敷物をしいた竹製の床机、湯、湯冷ましの水、カップ、コーヒー、砂糖の乗った台が部屋に接して置かれていた。水を入れたプラスチックのボトルの口がだらしなく、コップに注ぐと多方向から水が漏れだす。
 目の前の椰子の木やうっそうとした植物を見おろしながら床机に腰を下ろしてコーヒーを飲んだ。湯の表面に浮かぶコーヒー粒を口に入れてしまってから、コーヒーの粉が沈殿するのを待って飲むということに気がついた。隣の床机にはすでにイウィンの母親とテラが座っていた。そこへブナが勢い良く部屋から出てきてワダスを見つけると、いきなり「だっこちゃん」といって足にまとわりついてきた。ブナの体重は19キロもあるので、何度も「だっこちゃん」されるとけっこうくたびれる。遅れて出てきたイウィンがたしなめるが聞くようなブナではない。
 同じ並びの部屋に泊まっている池上とエミーも外に出てきた。
「シショー、コーヒーいかがですか」
 池上がいった。ワダスからバーンスリーを習っている彼女は、ワダスのことをシショーと呼ぶのだ。
「今飲んでるとこだけど」
「ドリップ式コーヒーですよ。いつもフィルターをもっているのよ」
「それはありがたい」
 ということで2杯目をいただく。2本目のタバコを吸い終わると排出方面衝動が惹起され、足早に専用個室に向かう。えんじ色の便器に座りつつ持参した『法然の哀しみ』を読む。専用個室は薄暗く読書には向いていないので目も哀しくなる。
 8時にレセプションのある食堂で朝食。ほとんどのメンバーも食事をしていた。タマゴは奥のインターネット・コーナーでメールのチェックをしていた。朝食は、即席麺の焼きそばの上に目玉焼きをのっけたもの。いかにも粉末ソースの味だが、なかなかにうまい。朝食なんて何ヶ月ぶりだろう。

シスワディとジョハンに再会

mandisenisamasama ジョハンに電話した佐久間が、9時までにここに来るように努力する、といってます、とみんなに告げる。昨日のことがあったので、現地受け入れ態勢はどうなっているんだろうとまたまた不安になったが、ほどなくシスワディがISIのバスとともにやってきたのでほっとした。濃い青のチェック模様シャツと黒い折り目のついたズボン姿のシスワディは、フォーラム7の主要メンバーであり、ガムランを教えるISIの副学長でもある。短髪、小柄だが肉付きがよく丸い腹がせり出し、全体が丸い。日本に何度か来ている彼とは旧知だ。ワダスを確認するとおおっと声を上げて手を広げ抱きついてきた。会うのは数年ぶりだ。笑うと人懐っこいが、黙って考えているときはちょっと怖い表情になる。
 間もなくジョハンも顔を見せた。あご髭をのばした中国系のジョハンは、ちょっとしまりのない野武士のような感じだ。昨晩のことなど悪びれることなく「じゃあ、行こうか」と、先導するISIの乗用車にシスワディと乗り込んだ。
 Institut Seni Indonesia Yogyakartaとサイドに書かれたISIの真新しい白いバスに我々も乗り込む。前方の入り口のステップを上りきるときは頭上に気をつけなければならない。天井からぶら下がったテレビにまともに頭をぶつける恐れがあった。「アタマ、アタマ」と注意をしても誰かが必ず頭を打った。

スモヨ村

 バスはまず、ロフィットの出身であるスモヨ村へ向かう。小柄、細身、豊かな髪、すっきりした顔のロフィットは、当時ISIに留学していたヒロミと知り合い結婚。ヒロミともうじき満2歳になる娘のアルムとともに現在は京都に住み、HANA・JOSSという名前でワヤンや簡単なガムランの演奏などをしている。日本語にも不自由ない。今回、このスモヨ村をまず訪問することになったのは、被災地ということもあったが、われわれグループのメンバーであるヒロミ、ロフィットの申し出があったからだ。ロフィットによれば、震災でガムラン楽器はがれきに埋まり、最近になって掘り出して活動を始めた。プロの音楽家ではないが、村人たちは自前の楽器でガムランを楽しんでいる。われわれが、はるばる日本からやってきた意味は、村人ばかりではなく、ロフィットにとっても大きいだろう。
 低層のレンガの建物、屋台、商店、統一のないデザインの看板、旗などが視界を過ぎ去っていく。自転車リキシャであるベチャ、バイク、トラック、乗用車など、どこも交通量は多い。

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photo by HOMMA Naoki

 市街地をちょっと出ると、おだやかな田園風景が広がっていた。この辺は年に3回も米がとれるので、日本にはない風景が見られる。ある田んぼでは田植えをしているし、ある田んぼではすでに青々と茂った稲が風に揺れている。刈り取りをすませたばかりの田んぼもある。空は真っ青に澄み切り、緑がまぶしい。遠くには鋭い角度の円錐形をしたムラビ山が見えた。頂上から煙が立ち上がっている。

 会場の学校に到着した。運動場のような広場にはテントが張られ、その下には子供たちをはじめ村人たちが敷物の上に座って音楽を聞いていた。100人くらいか。テントの長ての端が舞台だ。赤い木枠に縁取られた幅広いワヤンのスクリーンが張ってある。その前にガムランのセットが置かれ、それぞれの楽器のところに男たちが座っていた。小柄で線の細いロフィットもその中にいた。楽器の一部は鉄製だった。
 バスを降りたわれわれは、教室の一室に案内された。ここで着替えなどをするのだ。室内はむっとするほど暑い。制服姿の小学生が興味深そうに顔を出しては笑いながら引っ込む。かつてのロフィットもそんな子供たちの1人だったのだろう。
 テントでは、制服を着た子供たちが猛烈な音量の音楽に合わせてダンスをしていた。単純な動きの、まるでラジオ体操のようなダンスだった。校舎の軒下では踊っている子供たちの母親らしい女たちが壁に背を預けておしゃべりに余念がない。

スモヨ村テント舞台

mandisenisamasama 舞台中央で、整った顔つきの40歳くらいの男がマイクでよどみなく何かしゃべっていた。後で聞いたら、彼は中学校の数学の教師だという。スピーカーからの音が不必要なほど大きい。そのうち、ラーマーヤナを題材としたワヤンが始まった。細い棒のついた人形を遣い物語るダランは、目のギョロっとした小太りの男だった。語りながらひっきりなしにタバコを吸う。吸いさしを人形の台に置いて常にくゆらせているので見ている方が気が気でないが、当人も周りの人々も気にしていないようだ。男たちはよくタバコを吸う。ダランの配偶者と思える、わりと顔の整った小柄な若い女性が赤ん坊を抱いてあやしながらマイクをもってときどき歌う。後で聞けば、その配偶者はロフィットの妹だった。どおりでよく似ていると思った。

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photo by HOMMA Naoki
   


 聴衆の中から初老の男が舞台に出てきて、先生と漫談のようなことを始めると、村人は大声を上げて笑った。みな笑顔がいい。
 しばらくすると、先生がわれわれのことを紹介した。タマゴ劇団の登場である。まず、タマゴをかたどったかぶり物、金色上下コスチューム姿のタマゴ大王ことタマゴが登場しインドネシア語で口上を申し述べた。村人たちがその姿と口上に笑う。なんだか、お笑いショーのようである。タマゴ大王が子供たちに向かって走りよる。子供たちはぎゃーっといいつつ逃げ回る。タマゴ大王の、社会的ステータスとは一切関係のない素の芸人魂が好ましい。
 タマゴ大王に続いて、エミーとエリーのダンス。タマゴ、山崎や本間もガムラン楽器に入ってバリ風のメロディーを演奏する。エミーのバリ舞踊基本の動きとエリーのバリもどき動きの絡みが笑いを誘う。本人たちは真面目なだけによけいおかしみが増した感じだった。「村人はエミーがオカマみたいに思ったんちゃうかなあ」とはタマゴの弁。
 ついで佐久間のジャワ舞踊。彼の気品のある動きには感銘を受けた人がいたはずだ。ワダスは客席を見ていたが、うなづきながら真剣に見ている人たちも少なからず見えた。仲間がこういう本格的なもので聴衆を惹き付けるのを見るのは誇らしい気分だ。
 ワダスが紹介されたので短いバーンスリーで祖谷の民謡を吹いた。その後、エミーのスリンと池上のパフォーマンスが加わり、琉球音階による即興。エミーのスリンの音程がときどきバーンスリーとバッティングしてうなりが起きた。これもインドネシア的でいいかもしれない。
 われわれの出番が終わると再びワヤン。この辺りで徐々に観客の数が少なくなった。客席に座って見ていると、甘いお茶、殻付きピーナツ、バナナ、小さな青唐辛子をはさんだ春巻き状のおやつが出た。春巻き状のおやつはルンピアというらしい。ちょっと腹にもたれるがおいしい。
 12時近くに今日のイベントが終わり、人々が散っていった。会場入り口の路上にはアイスクリーム、軽食、オモチャなどを売る屋台にできていて、子供たちが群がっていた。バスに向かう途中、ロフィットの先生だったという75歳になる老人がバイクに乗ってやってきてしばし歓談。いきなり君が代とか歌詞の不明瞭な日本の古い歌を歌いだした。戦争中の少年時代に習い覚えた歌なのだろう。

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photo by HOMMA Naoki
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mandisenisamasama mandisenisamasama photo by HIROS
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グラメランチ

mandisenisamasama ランチのために案内されたのは、風通しの良い平屋の棟が連なるかなり大きなレストランだった。道路からはちょっと奥まったところにあり、周辺は田園が広がっている。奥の棟に向かう途中で、若い女性ヴォーカリストが中年男のキーボード奏者の伴奏でポップスを歌っていた。ところどころに食用魚用の生け簀もあった。
 ランチは、冷たいココヤシ飲料、30センチくらいの大きさのグラメという魚の唐揚げ、小魚の唐揚げ(ワダル)、空芯菜の炒めもの、キューリ、トマト、レタスのガドガド、テンペ、タフー(揚げ豆腐)、パパイヤ、ご飯。どれもおいしいので食べ過ぎてしまった。ここでの、消化能力をはるかに超えた大量摂食があとあと響いてくることになる。日本では、昼前に起床し朝昼夜兼用の食事を夕方に1度とるだけである。ところがジョクジャカルタに来たとたん朝食、昼食と世間並みの食事を世間並みの時間にしたので胃腸関係に変調をきたしつつあった。それにしてもおいしかった。

芸術家の墓地

 幸福なランチの後、バスは次第に高度を上げジャングル地帯に入った。かなり急な坂道を喘ぎながら上りきり、今度は同じ角度の下り坂をエンジンブレーキをきかせて下る。バスは、背の高い樹木に囲まれた駐車スペースに停まった。見上げると、樹木の多い山々がずっと連なっている。

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photo by HOMMA Naoki
 

 白いコンクリート・アーチをくぐると急な石段になっており、インドネシアの有名芸術家たちが眠る墓地が階段状に連なっていた。佐久間夫妻の案内で、彼らの所属するプジョクスマン舞踊団創設者の墓にお参りをした。墓石が立つ日本のお墓と違い、横長の石が一定の方向を向いて低く積み上げられている。山側の壁にかなり大きな彫像が墓を見下ろしていた。この彫像はオーストラリア人が寄贈したものだという。隣の区画は、タマゴの本の装丁画を依頼したこともある画家の墓だった。ちょっと離れた区画には十字架の墓もあったので、ムスリムだけの墓地ではない。

イモギリ村

 やってきた坂道を再び上下しイモギリ村へ向かう。斜面のところどころに簡素な民家が見えた。
 イモギリ村は、昨年5月27日、CAP HOUSEでの「マンディ・サマサマ」の入場券代わりに使った温泉マークの巾着袋を作ってくれた村だ。周りを山々に囲まれた小さな集落。ワダスの生まれ育った山形の山村にちょっと似ていた。イラク戦争、チベット問題、ミャンマー水害、四川大地震、アメリカ大統領選挙、北極海の氷溶解、北朝鮮核問題、アフリカ問題などなど、外で起きているさまざまな出来事とはまったく関係ない生活がずっとずっと続いている。
 長年、この村に入って染色を指導してきた日本人女性、加藤マミさんがわれわれを出迎えてくれた。青いバティックの半袖シャツに黒の作業ズボン姿の、すらっとした50代の女性。後ろにきりっと束ねられたチリチリ髪と相まり、日焼けが定着した褐色の顔が生き生きとしている。インドネシア人の夫は、全国紙にも寄稿する有名な反体制的評論家だということだが、この日は顔を見せていなかった。小さな広場のようなスペースにイスが並べられていて、その正面がステージのようになっている。ステージは白タイルばり。右に二つの扉。トイレだった。広場の隅っこに紺のバティックの制服を着たおばさんの集団がいた。彼女たちが温泉マーク入り巾着袋を作ってくれた人々だった。ステージ左隅にテカテカの法被をつけた少年少女、マミさんの娘さんを含む日本人留学生が約20人が固まっていた。mandisenisamasama
 マミさんが、その集団に歓迎ダンスを披露するよう要求すると、みなステージに上がり整列した。琉球民謡風音楽による創作ダンスが始まった。ステージ横にある簡単なPAからはひどい音質の大音響。こうした踊りは、ガジャマダ大学に留学している日本人学生が現地の子供たちに教えているようだ。まだ20歳くらいの日本人留学生はみなインドネシア語を習っている。出身大学も、東大、中央大学、京都産業大学などまちまちだ。中の1人の元気のよい青年は、京都産業大学の学生で、出身は滋賀県。関西ということでわれわれに注目された。ここにきて3ヶ月という。2ヶ月、8ヶ月と滞在日数もまちまちだった。
 お返しの番だとマミさんがいう。ここで何かパフォーマンスをすることはまったく念頭になかったが、急遽やろうということになった。タマゴはタマゴ大王のコスチュームをつけて舞台に出てきた。建物の玄関とおぼしきあたりに固まっていた子供たちに走りよると、子供たちは驚いて逃げ惑う。その様子を数人の村人が遠巻きに眺めている。この村の人々はとてもシャイなのだそうだ。
 タマゴ大王が2人の日本人学生を呼び入れ、漫談のようなことを始めた。
「あなたがこのタマゴマスクをかぶれば、タマゴ王国の王様になれる。王様はなんでもできる。したがって君にかぶらせよう」
「えーっ、これかぶるんですか」
「そうじゃ。ほら、頭を出せ」
 タマゴマスクは滋賀県出身の青年に渡り、へんちくりんなタマゴ大王になった。タマゴは滋賀青年の横に立っていた東大女子学生にもかぶることを要求する。目の細い整った顔つきの女子学生は恥ずかしがって逃げる。しかし、結局、かぶらされるはめに。
 タマゴはワダスを指名して何かやれというので、花笠音頭を吹いた。ついで、佐久間の即興ダンス。滑稽な仕草も交えてかなり自由に体を動かす。エミーとワダスが即興で音楽をつける。エミーの笛はとても饒舌でときには休んでほしいなあ。
 タマゴにわか劇団へのお返しは、ソーラン踊りだった。流れてきた音楽は、去年島根の庭火祭で一緒だった伊藤多喜雄さんのソーラン節。こんなインドネシアの山村で多喜雄さんの歌を聴くとは思いもしなかった。ソーラン踊りを見ている間に、お茶、殻付きピーナツ、ココヤシのケーキ、ルンプルという木の葉にくるんだチマキのようなものが配られた。ルンプルはもっちりしていて腹持ちがよさそうだ。ランチでたらふく食べたので胃が苦しくなる。
 ジョハンとシスワディはこうしたわれわれの相当にアヤシイ「お祭り騒ぎ」を遠巻きに見ていた。「こいつら、何を考えているんだべが」みたいな表情だった。2人とも地元では尊敬の対象である大学教授なので、われわれのようなばか騒ぎには抵抗があるのかもしれない。もっとも、われらがタマゴも、エリーも、山崎も、本間もそれぞれリッパな大学のセンセたちではあるが。

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photo by HOMMA Naoki
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 即席イベントが終わり、村を見物することにした。この村も地震の被害は大きかった。道から5mほど上がったところにある民家へいってみる。母屋につながった壁のない台所では中年の主婦が煮物をしているところだった。ジャックフルーツの煮物だという。そして曲がりくねる道路をぶらぶらと歩く。狭い道をときおりバイクやトラックが走り静かな村にエンジン音を響かせる。mandisenisamasama
 道のそばの神輿のようなもののところに男たちが数人固まっていた。丸木枠の上に円錐形に飾り付けられていたのは、サツマイモ、ニンジン、ココナツ、苦瓜、サヤインゲン、赤唐辛子、白菜、キュウリ、タマネギ、みかん、カリフラワー、トマト、ナス、リンゴ、レタスそしててっぺんに稲。高さは3mはある。マミさんに聞けば、今日は村の収穫祭なのだという。
「そこの建物の中にはターメリックご飯もありますよ」
 こういわれて公民館のような建物の中をのぞくと、高さ30cmほどの、やはり円錐形の黄色いご飯(ナシ)の山が鎮座していた。中腹にニンジンの輪切りの装飾。そのナシ山を相似形の小さなナシ山が取り囲んでいる。それぞれの山の先端には真っ赤な唐辛子が突き刺してあるので、火山の噴火のように見えた。ご飯山の他にチキンの丸焼きが1羽。マミさんが仏教にある山、とかいっていたから須弥山を模したものかもしれない。こういった飾り付けはもちろんイスラームの習慣ではない。この辺りに昔から伝わるイスラーム以前の信仰の形なのだろう。
 陽光の力が弱まってきた頃、われわれはイモギリ村を後にした。道中の景色は実に美しい。実りの近い稲田、田植えをする女たち、耕耘機を動かす男、ヒツジ、サトウキビ畑、山々など、徐々に弱まる光で色を変える。

路上食堂ディナー

 5時過ぎにジョグジャカルタのホテルに戻った。しかし、今日のスケジュールはまだ終わっていない。夕食に出かける7時までしばし部屋で休息と練習。大量摂食ランチがまだずっしりと胃腸にとどまっていて苦しい。
 集合時間になったので1階の東屋に、ロフィットの実家に戻ったヒロミ、ロフィットをのぞいて集まった。すぐに出発するのかと思いつつおしゃべりしながら待機していたが、いっこうにゴーサインが出ない。タマゴや佐久間は、ジョハンやシスワディに混じって次々にやってくる見知らぬインドネシア人となにやら話している。白いパンツスーツ姿のすらっとした若く美しい女性も現れた。待っているわれわれは、それらの人々がいったいどういう関係の人で何を話しているのか、タマゴからは何の説明もないので次第にイライラしてきた。予定時間を30分も過ぎたころ、空腹エミーの麺かご飯か問題も発生し、事態はイライラ状況からイカリ状況へと発展しつつあった。タマゴはタマゴで現地の人々と話すべきことは多いのだろうが、団体行動では自分以外の人々を宙ぶらりんに待機させることは禁物だ。待機している理由さえ分かれどんな状況でもそれほどイライラすることはない。まして、朝からのハードスケジュールでみんなくたびれている。40分ほど経ってようやく動き出したのだが、疲労と腹パンパン病に悩むワダスはちょっとキレタ。タマゴは「ま、インドネシアはこんなもんだ」と申し述べていたが、ワダスは彼のいうインドネシア的だらだら進行のことにではなく、常時情報過少気味のタマゴ的状況にじゃっかん切れたのだ。
mandisenisamasama ディナーは、路上で屋台でとることになった。割と広い通りの薄暗い歩道に3軒の屋台。ご飯、2種類ほど煮物、味噌のような黒いソースの入った大鍋に囲まれて中年の女が座って商売していた。周辺には簡単なイスやゴザが敷かれ、客はそれに座って食べる。ゴザに座って通りを見ると、車、トラック、バイク、ベチャがひっきりなしに往来する。排気ガスの臭いもする。薄暗いので分からないが、埃も相当あるにちがいない。こうした屋台食堂はジョクジャカルタ名物だということで通常なら喜んで食べるところだが、腹パンパン病に苦しむワダスはまったく食欲がないのでお茶だけにした。隣に座ったイウィンが「わたし、こんなとこで食べたくない」という。ジョクジャカルタ出身ではあるが、日本に住んで8年ほどになるとものの見方も変わるのだろう。そういえば彼女は「ホテルのシャワーはちゃんとお湯が出ないから実家で浴びた」ともいっていた。
 ホテルで見かけた白いスーツの美人が隣に座ったので話しかけた。彼女は英語が話せた。
「お名前はなんだべが」
「レトノですわ」(こんな感じに聞こえたのだ)
 レトノ、と聞いて思い出した。彼女はフォーラム7のメンバーの1人だった。「ガムランを救えプロジェクト」のウェブサイトに掲載されている写真とはかなりイメージが違っている。名前だけは覚えていた。
 知的な表情と落ち着いた物腰だったので、こう訊いた。
「どこかの先生ですか」
「いいえ、まだ学生です。大学院の」
 彼女は、名門ガジャマダ大学人類学修士課程に在籍する学生だった。
「この食事、1人当たりいくらや思う? たった100円やで。やっすいなあ、ほんま」mandisenisamasama
 タマゴのいう通り本当に安い。ひょっとするとインドの同じような食堂なんかよりも安いかも知れない。おいしかったのかどうかは、食べていないので分からない。

舞踊コンペ会場へ

 100円ディナーの後、創作舞踊コンペ会場へ行った。理由は、コンペの審査員の1人がフォーラム7のメンバーの1人、スナルディーだったこと。他のフォーラム7のメンバーも集まることができるのがこの時間と場所しかなかったことだ。
 われわれが広い会場に到着したとき、ステージでは金色のコスチュームをつけた数人の舞踊グループが踊っていた。じっくりと見る間もなく次のグループが登場。水色の妖精のようなコスチューム、猫のメイクアップの8人のグループだった。インドネシア版CATSみたいな感じだ。中学生か高校生くらいの女の子たちだろう。振り付けも今風で次々と動きが変化する。動きも割に揃っている。ただ、あまりに動きが饒舌だった。音楽は面白かった。楽器は伝統的なガムランであるが欧米的で新鮮な響きだった。
 このグループがコンペの最後の組だったようだ。ステージ照明を落とした広い舞台にはだれも登場せず、子供が母親の手を離れて横切る。審査中の空白時間を埋めるためか、歌手(シンデン)を含む伝統的なガムラン曲が演奏された。客席は次第に空席が目立ってきた。しばらく待っていると、眼鏡をかけた中年女性司会が現れマイクの前に立ち、ようやく審査が終わったので結果を何々さんに発表してもらいます、というようなアナウンス。審査委員長らしき中年男性がポケットに手をっ突っ込んで登場し、全体の講評を述べた。もっとも、インドネシア語は皆目理解できないので、ここまでは類推である。後でスナルディーに訊くと、ここで入賞したグループはジャカルタの舞踊フェスティバルに出演できるという。受賞グループが発表されると、会場の隅からおーっ、という声が上がり、それを合図のように人々が会場から立ち去り始めた。
 出口にたむろする集団の中に、スナルディーがいた。豊能町の佐久間家に泊まりマルガサリの指導のため日本に滞在したことのある彼とは、十津川村の盆踊りに一緒に行ったり、佐久間家にワダスも泊まったとき長い時間話したことがあるので、とてもなつかしい。毎年マルガサリの演奏指導にやってくるインドネシア人の先生の中で数少ない英語のできる人だった。短躯、短髪、腹がゆるやかに突き出た中年男で人なつこい表情をしている。ワダスを認めると、おーっ、といって抱きついてきた。
「みんなここに入って。この部屋でミーティングすることになっている」
 こうタマゴがみなに申し述べ、ぞろぞろと部屋に入った。この時点で10時を過ぎていた。

深夜半覚醒会議

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photo by IKEGAMI Sumiko

 会議には、ヒロミ、ロフィットをのぞく「ガムランを救えプロジェクト」の面々とフォーラム7のうちの6人。日本側は、タマゴ、佐久間新、イウィン、本間、池上、青木、HIROS、林、山崎、佐藤、エミー、それと同行者である中谷シシー。フォーラム7は、すでに顔と名前が分かっているジョハン、シスワディ、スナルディー、レトノの他にスバナルとジャドゥック。スバナルは物静かな中背の人類学者。ジャドゥックは長髪後髪束ねちょい出腹の中年売れっ子ミュージシャン。
 タマゴがそれぞれを簡単に紹介した後、佐久間の通訳で日本とインドネシア側の意見交換が行われた。今回のマンディ・スニ・サマサマのような交流活動を今後どう続けていくべきか、救えプロジェクトにまだ保管されている義援金の使い道をどうするか、われわれはどういう考え方を共有すべきなのか、などなど。この会議の内容は別の人が詳しく報告するはずなのであまり触れないでおく。双方に今後の活動方針についての議論がまだまだ必要だと感じた。
 ジャドゥックは、義援金の使い道として、職を得る機会のないアーティストたちのためのデータベースを作り、供給と需要のためのネットワークを作るのはどうかと提案した。しかし、この提案はいろんな意味で問題がある。まず、誰がそれをやるか。データベースを構築するにはかなりの時間とエネルギーが必要だ。フォーラム7のメンバーは、ISIの教授、副学長といったように、みな非常に多忙である。また、そうしたネットワークが果たしてきちんと機能するのかどうか。機能するためには練り上げた設計も必要だ。日本でも国際交流基金などがアーティスト・データベースを構築しようと試みたが、ほとんど成功していない。それに、義援金がつきた場合の資金をどこから調達するのか。
 またジャドゥックは、ワダスが持ち出したアクト・コウベの3つのキーワード、つまり、壊れやすさ(フラジリテ)、連帯(ソリダリテ)、創造性(クリエイデヴィテ)、に対して「チューニング」を意味する「ングン?ngeng」という、日本語に訳しにくいインドネシア語のキーワードを持ち出した。その議論が始まると、ワダスの頭ににわかに雲がかかり、ングンングンと世界全体が曖昧になってきた。後で佐久間がそのキーワードを解釈したところによれば、
「ngengとは、空っぽであり、かつ、詰まっている。アイデアが無いようでもあり、かつ、満ちているようでもある。ような状態のことで、バリで言えば、taksuのことである。taksuとは、意識と無意識、良い心と悪い心、合理性と直感、など明確に区別することができないものを含み込んだ創造する力、その中にある純粋な創造性の周波数に、波長が合っているということである」
 うーむ、インドネシア人もなかなか蘊蓄のある言葉を持っているなあ。ワダスの持ち出したキーワードは実はフランス人たちが提唱したものだったが、インドネシアの人たちの発想は明らかに違う。アジア的といったらよいか、より包摂的で解釈の幅の広い言葉だ。「音楽家というものは、宇宙の波動を受信する受信器である」という、インドの「ナーダ・ブラフマー(音=宇宙)」にも似たスケールの大きな概念だ。ぼやっとしている人も、頭がはっきりしている人も、その中間の人も、悪人も善人も、どんな人であろうが創造性を内在しているト。で、人がなにがしかのアクションを起こせば、他者に内在していた創造性が刺激され、それぞれの創造性的波動の周波数が次第に同期へと向かうト。そしてわれわれはそういう概念をキーワードとして共有していこうト。こういうことをジャドゥックはいおうとしていたわけだ。こういう深く幅広い概念を一言で表現できる日本語はあるのだろうか。ふと、世阿弥の『風姿花伝』でももう一度読んでみっか、という気分になった。ところでこの言葉はどういうときに使われるのだろうか。どう、今晩、一緒にングングしてみる、などといってたりして。
 さまざまな意見が出たが、なにしろ集合した時点で全員がくたびれていた。そこへ、活動の指針とか考え方といった抽象的でかつ脳を使う議論である。日本側メンバーの大半は、重要な会議ということで必死に睡魔と戦っていたように見えたが、1人、そしてまた1人と戦いに破れつつあった。昼でもときおり左まぶたがピクピク動くシスワディは、小刻みのピクピクが右まぶたを襲っていた。そして間もなく、ピクピクが完全に静止し、頭がぐらりと傾いた。
 ともあれ、インドネシア側のほとんどのメンバーが顔を揃えたこと、そしてそれぞれがなにがしかの意見を申し述べたので、われわれの活動を真剣に受け止めなんとか維持して行こうという意思を確認できた意味で意義のあるミーティングだったと思う。これからの活動や考え方を共有するには、頭のはっきりしているときにもっともっと時間をかけて議論しなければ難しい。そのためにはまず互いの顔をそれぞれ認識し、考え方やアプローチの仕方を知ることだ。もちろん、お互いは頻繁に会うことはできないが、気長に育てていくしかない。この日の会議はその第1歩だった。それにしても、朦朧かつややこしい議論を通訳した佐久間の語学力は頼もしかった。
 12時頃、もう止めんべ、ということになった。校長をしているスナルディーの芸術高校への訪問を約束したあと、われわれはよたよたとバスに乗り込みホテルの帰途についた。
 ややこしい議論の後なので妙に脳神経の一部が興奮していてすぐには眠れない。ホテルの食堂で、タマゴ、佐久間、SATOYA、山崎、本間と、SATOYAが屋台から調達してきたテンペと揚げ豆腐を肴にビールを飲みつつおしゃべり。本間が豆腐を1きれ食べ終わってからSATOYAがいった。
「このトーフ、ちょっと酸っぱくないですか」SATOYA
「そうですか。僕は普通かなと思って食べたんですけど」本間
「うーん、やっぱりちょっと酸っぱいなあ。佐久間さんどうですか」SATOYA
「まあ、ちょおっときてますかね。でも許容範囲です」佐久間
「真さんにも食べてもらおう」SATOYA
「あっ、きてるね、ちょっと。でも、僕も許容範囲といえばそうかなあ」タマゴ
「じゃあ、これ一つ食べてくださいよ」SATOYA
「えーっ、でも、パス、パス」タマゴ
 寝たのは2時半を過ぎていた。
 実に長い1日だった。

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