メキシコよれよれ日記 (2019年4月12日〜9月10日)

4月16日(月)  前日  翌日
 6時起床。咲子さんと11時にオブセルバトリオ・バスターミナルで会うことになったので、ホステル受付で10:20にタクシーを予約した。
 時間ぴったりにやってきたタクシーに乗り込み、約30分でバスターミナルに到着。大きなターミナルの端にあるAUTOVIASカウンターで咲子さんと落ち合う。

メキシコシティのバスターミナル


 パツクアロ行き2階建バスの中は、前席の背もたれにディスプレーが付いていて飛行機の席のようだ。子供達にはこれを見せておけば大人しくなるのだと咲子さん。
 11:20にバスが出発。ほどなくシティを抜けて高速道路に入った。まばらに緑の見える窓からの景色はあまり変化がない。去年事故で渋滞していた場所に見覚えがあった。右手には大湿地帯が続く。
 車中で咲子さんの話を聞く。海外青年協力隊に応募し、3ヶ月のスペイン語研修を経てメキシコへ。そしてメキシコシティ出身のエスパルタコに出会い、結婚。エスパルタコは当時、演劇を習っていたが舞踏に興味を持ち、奨学金を得て一緒に来日し東京で住み始め、子供もできた。エスパルタコの留学期間が終わった後メキシコへ移住し、パツクアロに落ち着く。現在は政府の運営する文化活動組織の演劇センターに所属し、学校関係の文化活動などに派遣される仕事に就いている。パツクアロの演劇センターは、かつてラサロ・カルディネス大統領の別荘だった場所にある。
 これから我々がしばらく住む予定のウエコリアの家について。マルタとバチェが家主。二人は結婚はしていないが長く一緒に住んでいる。63歳になるバチェはアルメニア出身の画家。父親が孤児。エチオピア、レバノン、イギリス、カナダに住んだ後パツクアロへやってきて40年になる。レバノンでオマーンの皇太子と知り合い友人となる。前の奥さんと子供を持ったが、奥さんは亡くなり、一人で現在の屋敷に住んでいたが、人類学者だったマルタと親しくなり同居するようになった。マルタは現在は陶芸をやっている。
 などなど、車中で話を聞く。
 バスはノンストップで4時間でモレリアに到着。10分ほど止まった後、パツクアロまで1時間の行程だった。
 パツクアロのバス駅に到着したのは4時半頃。タクシーでウエコリアへまず向かった。タクシーは、集落から離れ、建物がまばらな一本道の左側に、背の高いコンクリートの塀、瓦屋根の下の中央に抽象的模様がくりぬかれた黒い鉄板の門の前で止まった。「ここよ」と咲子さん。 


 中から小柄な可愛らしい初老の女性が我々を迎えてくれた。家主のマルタだ。ほどなく、明らかにメキシコ系ではない背の高いバチェが笑顔を見せながら流暢な英語で出迎えた。堂々とした立ち姿だが、どことなく弱々しい印象だ。咲子さんによれば、しばらく前に癌を患いかなり弱っていたが、最近になって血色も戻ってきたという。
 我々の住むことになる離れを見せてもらう。門を入って左にある平屋建ての縦長の建物だった。奥行き4m、幅8mほどか。メインの出入り口の正面に、ピンクと灰色の縞模様のカバーが掛けられたベッドとしても使えるソファ。その前に背の低い木製のテーブル。真ん中に花の入った壺があった。右手の角に4脚の椅子と丸いテーブル。ここが居間になる。左のドアを入ると床から1mほどの高さのダブルベッド、衣装掛け、タンスのある寝室。居間の半分くらいの広さだ。さらに左のドアを開けるとトイレ、シャワー、洗面台のある部屋。
 居間の右手にはドアはなく、キッチンに続く。かなり広い。幅は6mほどか。右手手前の奥に冷蔵庫、左手のコーナーが青いタイルの流し台。壁に沿って食器棚があり、土鍋、鍋のついたフライパン、皿、スプーン、フォーク類がきちんと用意されていた。さらにコーヒーメーカーもある。流し台の上の棚にはコップ、皿、ヤカンなどが用意されている。
 マルタがスペイン語でそれぞれの使い方を説明してくれる。
 さらに、屋敷全体を案内。芝生の庭を挟んで右側の建物が彼らのスタジオ。正面の大きな母屋の横にある生ゴミ用入れ物、洗濯機、裏庭ではちょっとした家庭菜園。ときおりバチェが現れて英語で補足してくれる。リンゴをもらう。
 鉄門、離れのドア2つの3種類の鍵をもらう。
 マルタの車で近所に買い物。咲子さんもよく使うというDon Chucho(元はドン・フランチェスコ?)の店。玉ねぎ、ピーマン、アボカド4、バナナ、ミルク、コーヒー、6本パックのビール、卵、コーヒー、フィルター、ミネラル水のボトルなど、しめて730ペソ。
 買い物の後は、咲子さん宅へ。地元先住民プレペチャの王の銅像のある交差点Glorietaを小高い丘に向かって左に折れると彼らの家だ。豪華な正門をくぐると数軒の家が立ち並ぶ。塀に囲い込まれた住宅地。子供達が出てきた。マスクをかけたしず(去年あったけどワダスは覚えられていなかった)、ジゲン、ちっちゃなミヤビ、すらりとした夫のエスパルタコ・マルティネス・カルデネが現れた。子供達が順番に水疱瘡にかかったところというので、この日は玄関前で別れた。
 バチェとマルタに、スカーフ、CDのお土産を渡した後、散歩がてら夕食に出かけた。人家のない一本道を歩くと、81年にしばらく住んだインドの田舎カルゴダムを思い出す。間口の狭い雑貨屋などの佇まいもインドの田舎のようだ。


 道路に面したタコス屋でビールとタコス。130ペソというのはなんとなく高い。店のテーブから火のついた鉄板の上でタコスを焼く風景、雑多な間に合わせのテーブル、椅子などもインドを思わせる。
 近くの薬店で両腕のかぶれ用のクリームを購入。店員は全く英語が分からないし、こちらの要求もどう伝えたらいいか分からない。兄ちゃんはスマホを取り出し、英語で書けというのでかぶれ用のクリームだというと、赤ちゃんの絵の入ったクリームを出した。スマホで日本語にしたものを見せる。「赤ちゃんでなくとも使える」というわけで購入。十七夜くらいの月、オリオン座が見える暗い道を歩いて帰宅し、程なく就寝。新しい家の最初の夜。上掛けの毛布が薄く寒さを感じたので予備の毛布をかけたら夜中、結構暑かった。

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