メキシコよれよれ日記 (2019年4月12日〜9月10日)

5月3日(金)  前日  翌日
 週末の3日間はレッスンがないので少し遠出することにした。エリカお勧めのツィンツンツァン、エロンガも良さそうだが、着物展のためにメキシコに来ているミチコさんがもうじき帰国するはずなのでウルアパンへ行くことにした。
 9時半に家を出てCrefal(ミチョワカン州政府の文化施設)の向かいのバス停へ。バス停のそばに小さな屋台があり、朝食らしいタコスを頬張っている人がいた。他の店でも人々が食事をしている。日中はガラガラでも朝は繁盛しているようだ。


 ほどなくバスがやって来た。切符を発行する端末を首からぶら下げたコロンとした威勢のいい男が「ウルアパン」と声をあげた。近づくとなんと英語で我々にいう。
「片道? 往復? 往復と。OK。二人で240ペソだ」。片道一人60ペソ(360円)。代金を払うと端末から印刷した切符を手渡す。車内は濃い青色の遮光ガラスと黒いカーテンがあるので薄暗い。リクライニングの座席にフットレストも付いていてなかなかに快適だ。乗客は数人だった。
 バスは街のガタガタ道からアスファルト舗装の幹線道路に入り、猛烈なスピードで走る。住宅はほとんどなく背の高い木々と牧草地のような平地を縫って走る。次第に高度が下がり、アボカドの木々が目立つようになった。ウルアパンはアボカドの大産地と案内書にあったが、山の斜面まで延々とアボカドだらけだ。松を伐採してアボカドばかりを植えるので環境が変化している、とエリカが言っていたのを思い出す。
 やがてなだらかな緑の丘陵の先に、教会の尖塔のある集落が現れた。かなり大きな町だ。「ウルアパン」と書かれた看板が見えた。


 バスターミナルでは番号をふった行き先ごとの車列に多くの人々が待っていた。バス会社のカウンターのある建屋を横切り、タクシー乗り場へ。案内ブースの女性に行き先を告げると「55ペソ(330円)」と応えた。
 運転手は一言も喋らず、まるでインドの田舎町のような、間口の狭い不統一なデザインの小さな店が連なる市街地を走った。緩やかだが坂の多い街だ。坂なりに2階建程度の低い住宅や店舗が続いていた。石畳の道の片側が駐車する車で占拠されているせいか、渋滞する。
 20分ほどで目的地のFabrica San Pedroに着いた。暗色の石造りの堂々とした建物の壁面に大きな白テント地の、円形の鳥模様と「着物とデザイン展」という表示が出ていた。


 中に入ると美しい中庭の空間に出る。ここまでのゴチャゴチャした街並みと対照的な、静かで上品な空間だった。
 と、いきなり携帯で話している小林さんが現れた。遠いところをよく来てくれました、と言いつつ我々を中に案内してくれた。

小林さん ミチコさん


「ここはかつて紡績工場だったんです。現在は半分は宴会場を運営する会社に売って、なので建物も中庭も半分ずつ所有者が違う。展覧会はこっちです」
 太い木の柱に支えられた天井の高い空間が展覧会場だった。そこへミチコさんも現れた。小林さんとミチコさんに案内され、縦長に奥までずらりと並んだ60体のマネキンに着付けられた着物を見て回った。二人によると、地元の彫刻家に頼んで作ってもらったマネキンは腕が着脱できるようになっていなかったので、着付けるのに腕をもぎ取ってから接着剤で固定したのだという。ただ、接着剤でうまく固定されず、着付けしてから腕がもげてしまったものがあり、ちょっと痛々しい。

60体のマネキンの着物展は壮観


 ほとんどの着物は、小林さんやミチコさんの家族や知り合いからの提供という。
「これは母の着てたものです。こっちは叔母の家のタンスにしまいこまれていたもの」と小林さん。「私が着てたのもある。これを最近も結婚式に着ていったの」「この古いのなんか、振袖の長い袖を途中から切っちゃったのよね」などとミチコさん。時代によって着物のデザインが変化した様子もよくわかる展示だった。
 展覧会は、地元のテキスタイルを活用した服や布製品の企画を手がけてきた小林さんが、地元の文化財団の提案を受けて実現したのだという。そこでかつて会社の同僚だったミチコさんも加わり、展示のための着付けに協力した。開始から1ヶ月で4500人の入場者があった。学校の休みが終わったのでこれからは生徒たちなんかも来るのでさらに増えると思う、と小林さんが言う。
 大空間の端の壁面に巨大な壁画があった。この空間によくマッチした色使いとモチーフだった。壁画といっても、壁に直接描かれたものではなく、ベニヤ板に描かれている。ベニヤ地が黄色っぽいので、金屏風絵のようにも見える。


「実はこの下が圧巻なのよ。案内します」
 ミチコさんは、会場入口にある木製の階段を指して我々を促した。
 たしかに圧巻だった。埃をかぶった紡績機、自動織機が並んでいた。機械には「1910年、USA」とあった。ということはすべて100年以上前の機械ということだ。壁際には修理するための部品などが使われていた当時のままに放置されている。大空間に並ぶ古色蒼然とした機械群と高い天井との間に漂う空気は、ある時代でそのまま固まってしまっているかのようだ。

 


 これらの機械の一部は今も使われているとのこと。工場のドアを抜けると別の中庭、居住区に続いていた。庭の角に糸を染める場所があった。1階の一画には糸繰り機や機織り機が置かれ、中年の男二人が機織りをし、若い女性は糸繰りをしていた。ミチコさんたちが暮らしているのはこの建物の2階だという。
 階段を登って再び展覧会場へ戻る。
「ここの国立公園はここからすぐですよ。入口近くまで私もご一緒します」というミチコさんのお誘いで紡績工場跡の建物からすぐそばの川の遊歩道へ。

 


 鬱蒼とした木々が囲む幅が数メートルほどの川。橋の下を濁りのない水が波打ちながらすごい勢いで流れている。上流では崖に立つ民家の横から猛烈な勢いの水が滝になって落ちてくる。
 ミチコさんと別れ、階段を登って市街地に出た。このまま国立公園に行っても良かったが、とりあえずセントロに向かって市街地の坂を下った。日差しが強く暑い。
 セントロの広場に出たが、広場には日よけ用のテントが全面に張られているので開放感がない。


 若者たちで賑わう小さな食堂でケサディーヤを食べた。トルティーヤにチョリソー、牛肉、チーズが挟んであって、1つでそれなりに食べでがある。2種類のサルサ、アボカドのワカモレ、ライム、生のきゅうり、ラディッシュを挟み込んで食べる。なかなかに美味しい。ケサディーヤという言葉は、チーズのケソとトルティーヤを重ねたものかもしれない。1つ25ペソ(150円)というのは安い。


 OXXOでビールを買い(2本で30ペソ)、公園で飲んだ。石のベンチや東屋の階段に座っている人々を眺める。大きな氷の塊からお椀のようなもので削り出し、それにシロップをかけて売るかき氷屋のおばさん。その子供らしい女の子が一人遊んでいる。たまにやってくる客に箱から出したアイスクリームを売るおっさん。ブツブツ言いながら通りかかるみすぼらしい男。女たちの腰が堂々としている割に、男たちの尻が太っていても平らなのが対照的だ。
 広場に面した街区の切れ目から奥に入ると、プラスチックの天井で覆われた民芸品店が立ち並ぶ。正面奥にはキリストの祭壇があり、その上下に大きな文字の「便所」の表示がおかしい。
 広場に面したシンボリックな教会の横にプレペチャ博物館があったが、入らず。古くて低い建物に小さな店が並ぶ通りを歩き、たむろしていた警官の青年にバスターミナル行きのバス停を尋ねたが、彼はスペイン語しか話さないので説明に苦慮する。彼は「タクシーで行ったほうがいい、俺が探してやる」と我々を連れて行き、タクシーを待つが、一向に来る気配がない。警察青年に「我々でなんとかするから仕事に戻って」となんとか伝えて広場に出た。すぐにタクシーが捕まえられた。
 来た時と同じようにやはり無言のタクシー運転手がバスターミナルまで我々を届けてくれた。警官の青年は70ペソとか行ってたが、50ペソだった。メキシコのタクシーは安い。
 3時頃、11番にやってきたバスに乗り込んだ。バスには、パツクアロ・モレーリアと描かれているので間違いない。乗客はかなり多かった。
 動き出してほどなく、給油のためバスが止まると、一人の男が乗客に向かって薬草酒のようなものの宣伝を始めた。インドでもこういうのはよくあった。


 帰りはうつらうつらのバス移動。約1時間でパツクアロに到着した。ウルアパンよりもずっと涼しい。
 ドン・チュチョの店で、コーヒー、玉ねぎ、きゅうり、牛乳、じゃがいも、アボカドを購入。スターフルーツも一個加えたら、それはいいよ、と青年がいう。全部で158ペソ(950円)。
 途中の店でカラムーチョみたいなスナック2個(12ペソ)を買って帰宅。シャワーを浴びたり、ダラダラ飲み食いしつつスペイン語の復習。10時前にベッドに入る。

前日  翌日