メキシコよれよれ日記 (2019年4月12日〜9月10日)

5月24日(金)  前日  翌日
 3日間の自由時間だけど、どう過ごそうか。久代さんが「モレーリアへ行くのはどうか」と申し述べる。「でも、大都会だしなあ。いくらコロニアル風の建物や博物館やがあるとはいえ、ただぼんやり街を歩くというのもね」「そうね。明日はセントロへ映画を見に行くのでセントロの選択肢もないし」ということで、エリカの言っていたプレペチャ遺跡のあるイウアツィオへ行くことにした。グーグルマップで調べると、イウアツィオへは、以前行った午睡の街ツィンツンツァンやキロガへのルートから湖方面に向かう脇道に入るようだ。コンビが走っているかどうかわからないが、とりあえず2時に家を出た。
 イウアツィオへは家の前を走っているコンビとはルートが違うので一旦エスタシオンのあたりまで歩き、そこで拾うことになる。で、モレーリアへの幹線道路端に立つといきなりIhuatzioとフロントに書かれたコンビがやって来たので飛び乗った。人に聞くまでもなかった。
 コンビはサナブリアという集落で右折した。まっすぐ行けばツィンツァンツン、キロガだ。道路状態が悪くないので猛スピードで走る。


 20分ほどでイウアツィオの広場に着いた。コンビ代は二人で28ペソ(168円)。広場といっても一方が街道、取り囲むべき三方の建物はいかにも古びてみすぼらしく、目立つ商店もない。1台のタクシーがポツンと停まっているだけだ。街道筋にあるテント張りのタコス屋のオバサンとココナツ・ジュース屋のオッサンくらいしか人の姿が見えない。
 角にあった商店のオバサンに「プレペチャのテンプロ(寺)ってどこ?」と聞くと「ああー、それだったらここをまっすぐ行ったらいい」との返答。彼女の指すデコボコした石畳の狭い道を歩いた。両側には平屋建て住宅の白い壁が続く。

 


 正面に鐘楼のある教会に行き着いた。教会のあたりにも広場らしい空間があったが、人っ子一人見えない。どうやら教えてくれたオバサンは我々がこの教会のことを聞いたと勘違いしたようだ。廃墟とちゃんと言うべきだった。二、三の商店があったので道を尋ねた。「だったらここをずっと上がっていくといい」と商店主が我々の来た方向を指差した。


 コンビの着いた広場に戻り、街道を横切って坂道を上る。途中に網かごを売る店。その上に雑貨屋を見つけたのでビールを買おうとした。オバサンに500ペソ紙幣を出すと、釣り銭がないと言うのでビールは断念。


 かんかん照りの強い日差しを受けながら石畳の白い道を歩いた。両側には石を雑に積み上げた囲いのある畑と遠くの山並み。ときおり牛や馬が草を食んでいるのが見えるだけだ。ときどき乾燥した牛糞のある道はそれなりに広く整備されているが、車も人もほとんど通らない。途中の民家から大音量の音楽が鳴っていたが、それを過ぎると鳥の鳴き声だけになった。陽光を遮る木々の少ない静かな田舎道をしばらく歩くと、左手に石を積み上げたピラミッド状の砦のようなものが見えてきた。


 プレペチャの廃墟の正式名称はイウアツィオ考古学地区Archaeological Zone of Ihuatzio。正門を入ると小さな木造の小屋にオッサンが2人いた。横のボール紙に「入場料一人45ペソ」と投げやりに書いてあった。二人分90ペソ(540円)を払おうと500ペソ紙幣を出すとお釣りが戻ってきた。ヤレヤレ。来館者名簿に氏名と国籍を書き込んで中に入った。
 廃墟は、内側が階段状になった石垣に囲まれて、広い草地の空間が広がっていた。横200m、奥行き300mほどか。正面に高さ十数mほどの台形の構築物が2つあった。神殿か何かの跡だろうか。見物しているのは、若い男女の先客の他に我々しかいない。急角度の石組みでできた台形の構築物の上は平らで、かつてはその上に何か建物があったのかもしれない。右の構築物の一角が通路に崩れていた。まず不定形の大きめの石で小山を作ってから外周をきれいに仕上げたようだ。先客とすれ違い「オラ」とあいさつ。駐車場にある青い車は彼らのだろう。


 入り口にこの遺構の説明表示板があった。ええ加減に訳してみる。
「イウアツィアとは、プレペチャ語で<コヨーテの地>という意味。パツクアロ湖東岸に位置する最大のタラスコ居住地跡。1平方マイルの台地に、構築物、住居、広場、宮廷、道路跡が残っている。第一段階は、ナウア語を話す人々がこの地で定住した。彼らはすでに原始的な食料生産技術をもち定住性があった。豊富な食料や自然条件がこの地域の人口を支えた。第二段階では、強大な軍事力を背景としてパツクアロ湖周辺に定住したタラスコ族によってこの地域がコントロール下に入る。ツィンツンツァン、パツクアロ、イウアツィオは最も重要なタラスコ族居住地である」
 時代や、2つの構築物のサイズや、建物の用途などについては触れられていない。ともあれ、周りは緩やかな丘や牧草地が広がるだけの土地にひっそりと佇む遺跡は寂しく美しい。
 帰り道では十数頭の牛や馬を引き連れたオッサンとすれ違った。比較的立派な白い道は観光用というよりも家畜の移動に使われているようだ。


 細かな紙幣ができたので先ほどの店でビール2本30ペソを買ってコンビを降りた広場へ。ビールを飲みつつコンビを待つ。広場は相変わらず人がちらほら見えるだけで閑散としていた。
 ほどなくやってきたコンビに乗ると、フロントガラスに雨粒が落ちてきた。メキシコに来て以来、初めての雨だ。コンビに乗った小さな女の子が「雨だ」みたいなことを母親に喋っている。


 エスタシオンに着いた頃には本降りになった。雨宿りを兼ねて近間の食堂に入った。
 英語を話すひょうきんそうなオッサンが応対してくれる。入った店の真ん中に仕切りがあるが行き来できるようになっていた。オッサンが「隣は弟の店。兄弟でやってるんだ。何にする」と注文を聞いた。店はトルティーヤの煎餅版トスターダの専門店だった。久代さんは径10cmほどの薄い円盤トスターダにトマトやチーズ、肉類の具を乗せたものとビール、ワダスはチキンスープCaldo de polloを頼んだ。トスターダはすぐに出てきたが、チキンスープは隣の店かららしく、やたら時間がかかった。多分スープ用のトスカーダ、袋入りのクラッカーをスープを待ちながらポリポリかじりつつ、雨の降る街道を眺めた。勘定は70ペソ(420円)。


 スープだけのワダスは食事の完結感がないので、どこかでケサディーヤか何か食えないかと、小降りになった道をドン・チュチョ付近まで歩いた。ところが、トルタ屋を除いてどの屋台も雨のせいか店じまいをしていた。ときおり、カミナリ音が聞こえた。
 雨も上がったので、そのまま歩いて帰宅。5時過ぎだった。早速チーズとハムを挟んだトーストを食べた。
 雨のせいか、普段よりも涼しくなってきた。これから雨季になるのだろうか。

---やれやれ日記
長い乾季の後の雨に、人々はもっと驚きや興奮や喜びを示すものかと想像していた。が、街にそのような反応はなく、小走りに雨を避けるといった以外、見た感じ、ただ淡々と、いつもの暮らしそのままという様子だった。これはまだ雨季の到来を告げる雨ではないと人々にはわかっているのだろうか。(インドでは猛夏の後の雨に、子供たちが通りに出て歓声を上げて全身、雨に打たれていたように思ったが、勝手な思い込みかなあ)。私は雨が新鮮で、軒下で雨宿りしつつ、いつまでもこの雨を眺めていたいと思ったが、そのうち外出前に洗濯して洗濯物を干していることを思い出して、一瞬焦り、その後、諦観に至った。

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