メキシコよれよれ日記 (2019年4月12日〜9月10日)

6月2日(日)  前日  翌日
 8時、開店早々のドーニャ・マルセで朝食。卵、煮豆、チーズ、菓子パン2つ、トルティーヤ4枚、コーヒー、ミルクで130ペソ(780円)。鳩がテーブルにやって来てちょこちょこと歩き回り、何かねだっていた。トルティーヤの切れ端をちぎって放ると即座にそれをついばみ、次の餌を待つ。


 食事をしていると、自宅から出てきたプロフェッサルのカルメロ氏に出会ったので挨拶。去年は彼の自宅に招かれて食事をしたのだった。


 ホテルに戻る道すがら、エステバンの母親ラウラに出会った。教会のミサに行く途中だと急ぎ足だった。プリシリアーノの店の向かいの自宅に寄って「サグラダ・ファミリア」と言って木彫りの彫刻を胸に抱え途中で待っていた車に乗り込んだ。こんな風に、タカンバロでは道を歩いているとちょくちょく去年知り合った人たちに出会う。

去年自宅を訪問したとき。ラウラとエステバン


 10時半、チッェクアウト。レセプションにいたカルメンに「支払いは?」と聞くと「マリナに聞いてくるね」とマリナを探しに行った。マリナが現れ「おはよう。よく寝れた? 宿泊と食事代? 要りませんよ。招待なので。また来月か再来月にも来てください。私も週二日はパツクアロに行くのでまた会いましょう。あっ、そうそう、これはお二人のバス代よ」と240ペソを手渡してくれた。なんともありがたい。
 ホテル・モリノを後にして約束の11時に、カフェ・アシエンダでエスプレッソ。エスプレッソの味はなかなかだった。プリシリアーノはFacebookに新しいエスプレッソマシンを掲載していたので注文してみたのだ。彼はコーヒーの栽培、収穫、選定、焙煎をずっと研究してきており、このエスプレッソもその成果だろう。息子のサビノがレゴで組み立てた船を持ってきて、細部の組み直しをして遊んでいる。そこへ娘のプリシラもやってきて父親に何か言っていた。さらに母親のテレが子供達の朝食を持ってきた。


 4kgのコーヒーを2つのリュックに背負って坂を下りる。日曜日のせいか、教会には人々が集まっていた。坂道を降りてバスターミナルへ。タクシーかコンビだと迂回するので時間がかかるが、直線距離は大したことがない。10分ほどでターミナルに着いた。


 1時発のローカルバスに乗ってパツクアロへ向かう。バス代(60ペソ)を途中で車掌のおっさんに支払った。ときおり雨粒がフロントガラスに落ちてきたが、すぐに晴れた。パツクアロまではひたすら登り。途中まで道の両側はアボカド農園が続くが、ある高度になると途端に全くなくなり、松林や草原、牧場などになる。蒜山高原のようだ。


 3時ころ、ターミナル手前で降りてパツクアロのセントロへ歩く。大広場で前に行った同じカフェでビールとジュースを頼み、ぼんやりと広場を眺めた。今日も広場は人でいっぱいだ。子供たちが多い。
 この日、咲子さんたちはウランデンの「パツクアロのネオヒッピーの月一集会Feria Alternativa」に行っていて4時頃までそこにいるはずだった。「紹介したい」と言っていた日本人画家の家住さんも同行しているはずだった。急いで向かえば彼らと合流できなくもない時間だ。しかし曇り空でいつ雨が降ってきてもおかしくないし、行き違いになる可能性もあった。しかもコーヒーを担いでいる。5時には帰宅しているはずなので直接お宅へ行こうと決めた。
 一見、路上生活者のような痩せた老人が一輪車に荷物を積んで大広場へ向かっていた。「どこかで見た人だ」と久代さん。カフェ・ハカランダでのライブに来ていた男だった。彼は大広場の一角に自作かどうかわからないが、絵を展示しているところだった。フリーダ・カーロの顔や陰影だけのミュージシャンの絵があった。どこかで見たような絵柄だ。彼は我々と眼が合うと笑顔を見せ、近づいて何か言ったのだが、こちらは全く理解できなかった。ちょっと不思議な人だ。


 子供数人を含む老人踊りの集団が広場の隅っこでたむろしていた。「踊るの?」と聞くと「5分後にやる」という返答。しばらくして踊り始める。埋設BOSEスピーカーからはBGMが流れているが、底に板を貼り付けたワラジのステップの音がよく響いた。子供達の踊りがやはり可愛い。次第に人の輪ができる。投げゼニ用の帽子にコインを入れる人たちも出てきた。ワダスも余っていた小銭を帽子に入れた。老人踊りのグループは原住部族の人たちだが、こうしたショーだけで生活しているのか、あるいはどこかの村で農民をしながらなのか。ミチョワカン特有の踊りで、土産物屋には仮面やフィギアも売られているので、この地方のアイデンティティにも一役買っているはずなので、公的支援もあるのかもしれない。
 5時、コンビで咲子さん宅へ。真っ先に、昨夜から咲子さん宅に泊まっていた家住さんが出迎えてくれた。ハナ髭とひょろっとした白い顎髭、長髪を後ろで束ねた細身の人だった。まん丸いメガネをかけ優しそうな眼をしている。ぱっと見は小室等のような感じだ。


 咲子さんの作った野菜のマリネ、菜っ葉のゴマ和えなどを肴にメスカル、ビール。子供たちもいた。エスパルタはパソコンに向かって誰かと会話していた。
 家住邦男さんは、現在、メキシコシティーに近いテポステランという村に住んで25年になる。1951年生まれということで我々と同世代の人だった。驚いたことに、学生時代に1年かけて旅したワダスと同じルートで彼も旅をしていた。もっとも、同じ時期ではない。ワダスが旅したのは72年から73年だったが、彼は75年頃とのこと。イランにいるときにホメイニ革命が起き、アフガンにいる時はちょうどソ連による侵攻が始まったという。一人で登山をしていた時「風が吹き込むように体にエネルギーが満ちた感じがした」とか「眼で聞く」とか、インド旅行とか、一緒にタバコを吸いながら面白い体験談を聞いた。咲子さんも話に加わり、メキシコ生活の面白さ、楽しさ、苦労などについて話が尽きない。11時頃、咲子さんに分けてもらった紅茶キノコをもらってエスパルタの車で家まで送ってもらった。

---やれやれ日記
午後。広場でベンチに座っていると、手動式の四輪車椅子に乗った中年男性が無言で物乞いしながらベンチを順に巡って近づいてきた。私はいつものように首を横に振って、申し訳なさをにじませたつもりの中途半端な笑顔で返した。すると、両脚をほぼ付け根から失っているらしいその男性は寛大なすごい笑顔と、たくましい上背の後ろ姿を見せながら、近づいたときと同じにやはり無言で過ぎていった。
通りのカフェでビールを飲んでいると、裸足の老女が物売りに来た。言葉を理解できないまま私が首を振ると、隣のテーブルの若い2人連れの女性が「セニョーラ」と声を上げて、老女のカゴから何かを買い求めた。その後ずっと2人の会話の間かえりみられることなくテーブルに置かれたパンだかお菓子だかは、ただ老女と私の交渉を断ち切るために買われたものかと思った。

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