メキシコよれよれ日記 (2019年4月12日〜9月10日)

6月24日(月)  前日  翌日
 日記の文字数が15万字を超えた。それにしても時間が経つのが速い。
 10時半、家を出てコンビでセントロの大広場へ。約束の11時を10分ほど過ぎた頃、プリシリアーノが薄緑のジープ・チェロキーでやって来た。前面ガラスの一部がひび割れている。
 ウルアパンへ近づくと道路の両側にアボカド農園が延々と続く。てっぺんにわずかに松が残っている山もほとんどはアボカドで覆い尽くされている。車中で彼の片言の英語で話を聞いた。


「ほら、山全体がアボカドだろう。この辺の農産物で高値安定しているのが唯一アボカドなんだ。だからアボカドへ転作する農家が多い。泥棒も多くなっている。大型トレーラーでごっそり盗むなんてことも起きている。我々農園主も自主防衛せざるを得ない。大抵の農園は武装したガードマンを雇っている」
「今日行くのはウルアパンからちょっと行ったカパクアロ。親父が生まれ育った村で、今でも祖父や親父の姉妹兄弟が住んでいる。今日はサン・フアンという聖者を祝うお祭りなんだ」
 ワダスはてっきり父親の経営する村の農園かどこかで一族が集まる催しがあってそれに招待されるものと思っていたが、催しというのはどうやら村の祭りらしかった。

 拡張工事中の高速道路からウルアパン市内に入った。野菜や果物を扱う小さな店が軒を連ね、坂なりの狭い道の両側に隙間なく車が停まっていて渋滞がひどい。道路と隣家同士の境界のはっきりしない店舗や住宅のなんとなくガサツな感じはインドと似ている。ほとんどが平家の商店の看板や壁表示は持ち主のまちまちな感覚に任されているため、街の景観の統一感がまるでないし、あちこちにゴミも落ちている。
 車は有名な国立公園に近い住宅地に停まった。「両親の自宅。僕は20歳までここで育ったんだ」という。これまでプリシリアーノの両親はタカンバロの屋敷に一緒に住んでいるものと思い込んでいたが、ここがプリシリアーノの実家というわけだ。


 頑丈な鉄門をくぐるとトラックが1台駐車してあった。右は平家の事務所で、一人の女性が受付のような役割をしていた。正面に階段があり、その上にオレンジ色の壁の2階建の家が建っている。案内された自宅では小柄な母親のテレが待っていた。去年タカンバロのアボカド農園に行った時に一度お会いした、メガネをかけた上品な女性だ。
 玄関に続いて本棚やパソコンのある居間、2階に上がる階段、右にちょっと上がると食事室、奥がキッチンになっていた。食事室の椅子に座りしばらく歓談。テーブルの一角には細かな装飾品が広げられていた。「妹がやっているんだ」と母親が作ったオムレツを食べつつプリシリアーノが言う。その彼女の誕生日があったらしく、椅子の背に「誕生日おめでとう」と書かれた風船がふわふわ浮いていた。程なくプリシリアーノの長姉テレも現れた。プリシリアーノと並ぶと妹のようにも見える。
 プリシリアーノには二人と姉と一人の妹がいる。長女のテレTereはアボカド農家向けの機材、資材などを提供する会社の顧問。次女のスサーナSusanaは不動産売買、3女のアスセナはパスタ、ピザなどの食堂のフランチャイズ・ビジネスをやっている。結婚しているのは唯一タカンバロに住むプリシリアーノだけ。そのプリシリアーノの奥さんの名前もテレ。母親は「3人とも同じ名前のテレ。3人もいれば怖くないの」と冗談っぽく言う。その母テレには6人の姉妹、4人兄弟がいて、兄弟は 二人になったが姉妹は全員健在だという。
 プリシリアーノが現在住んでいるタカンバロの家はもともと母テレの実家だった。そしてテレの(たぶん)兄が20年前くらいに亡くなったマリナの父親なので、マリナは彼女の姪にあたり、プリシリアーノとは従姉妹同士ということになる。またホテル・モリノを経営しているアレヘンドラもテレの姉妹の娘だ。さらにピアニストのエステバンとは祖父あるいは曽祖父か祖母あるいは曽祖母が兄弟だったらしい。エステバンの祖父あるいは曽祖父はタカンバロで一番大きなファティマ教会を創設した人だと去年聞いたので、一族はタカンバロでは有力な家系に違いない。
 母テレが久代さんに「こっちにいらっしゃい」と外の東屋へ連れ出した。ワダスも見にいったが、なんとそこはミニチュア玩具の小さな博物館だった。


「私のお婆さんや母親が集めたものもあるの。だから100年以上前のものもある。あちこちで買ってきたものなの。あ、これはプレペチャの伝統的な台所。ほら、ここにメスカルもあるよ」と高さが2ミリほどの瓶を指す母テレが可愛らしく見えた。
 タカンバロに住む母テレの妹が3人の友達を連れてトラックでやってきて合流し、一緒にカパクアロに向かうことになった。トラックといっても前に運転席と後部座席があり後ろが荷台になった半分乗用車のような車で、ニッサン製の日本ではほとんど見かけない車種だ。
 プリシリアーノは途中で伝統塗りの先生だというカルロスを乗せて出発した。
 同乗した50代のカルロスは代々この地方に伝わる塗り師職人。物静かで誠実そうな表情で好感が持てる。国立公園の正門近くに家族の経営する店があったが最近になって閉めたという。塗りの皿や器の需要が減ったのと、新しくデザインするよりも今まで出回っているもののコピーを作ったり売る店が増えたこともあるという。自分でデザインして作るのはこの辺ではカルロスが最後だとプリシリアーノ。ウルアパンに住んでいた頃、塗りを教わったのでカルロスは先生だ。さっき実家にいる時にプリシリアーノが塗りの材料を見せてくれた。日本では漆を使うが、この地方では植物の種、土製の顔料に昆虫と油を混ぜたものを使う。この材料を作る人は南方のチアパス地方以外ではほとんどいなくなり、今ではとても貴重で高価だ。昆虫を混ぜないとすぐに褪せてしまうのだそうだ。匂いを嗅がせてもらったが、独特の匂いだった。


 雨の中ウルアパンの街を抜け20分ほど走ってカパクアロ市街の古い建物に着いた。中庭を囲んだ2階建の建物だ。正面に広い部屋がありプリシリアーノの父親(父親の名前もプリシリアーノなのでややこしい)が我々を待っていた。その横の台所で女たちが料理の準備をしている。


「あの右手にある建物はとても古い。200年は経っている。私もそこで生まれたんだ。ここは代々我々の家族が住んでいた。料理をしているのは私の姉妹だ。私はプレペチャ語を喋れるけど、息子はもう話せないな。95歳になる親父のドミンゴも健在だよ。ほら、来たよ」
 茶色の毛糸の帽子をちょこんと乗せた痩せた老人が杖をついて現れた。ドミンゴだ。

左から若い順の3世代親子/下 95歳の祖父ドミンゴ


 プリシリアーノ、父親、祖父、カルロス、母親テレ、合流した妹と3人の友達と我々が席に着くと、台所からスープと団子のようにものが運ばれてきた。野菜と牛肉を煮込んだあっさりとしたスープだ。ちょっと酸っぱいのでタマリンドが入っているのだろう。団子はコルンダス、スープはチョリポ。プレペチャ伝統の料理で、お祭りなどの特別な時に食べる。コルンダスはトウモロコシの粉をこねた蒸しパンのようなもの。チーズを中に入れたものもあった。つまんだコルンダスを口に入れてスープをすする。とても鄙びた味わいだが、皆が黙々と食べているのを見ると、特別な食事という感じがした。プリシリアーノの父親が我々を招待したのはこの特別の食事とお祭りだったのだ、ということが食べ始めて初めてわかったのだった。あとでプリシリアーノの長姉テレと次姉スサーナも食事に合流した。

左からテレ、ひとり置いて叔母、スサーナ


 この日6月24日はスペイン語でフアン、つまりヨハネの聖名祝日。ヨハネの名を冠したこの町の守護聖人を祝う祭りだった。夜になると民族衣装で着飾った人々が踊るという。
 古そうな教会の周辺には、子供向けの乗り物遊具、ビール売り、タコス、ジュース屋などの店が並び、その間を子供達が走り回る。雨のせいで人出はいまいちだが、祭りの賑やかな感じが漂っている。男たちは、若い娘や少年たちがカラフルな衣装を着て動き回るのを見ていた。ビール売りがやたらに多い。売っているビールはModeloの缶ビールだけというのがちとおかしい。


 教会の中にも人々が大勢いた。帽子を被りポンチョを身につけた中央祭壇の壁のサン・フアン像にはたくさんのお札が貼り付けられていた。側廊には本体が隠れるほど花で飾られたマリア像もあり、雨でなければこの像を担いで街を回るのだという。ブラスバンドの鳴り物入りで担いでいる集団も見えた。


 6時に帰路についた。雨が上がり、着飾った村人たちが続々と教会に向かって来るのを見ながら街を離れた。
 カルロスを工房まで送り届けたついでに中を見せてもらった。細々とした道具、染料、土台になる木製の器、デザイン用の紙類、本や雑誌などが雑然と置かれた職人の仕事場だ。カルロスは大きな皿を見せてくれた。ワダスが「それはいくらするの」と聞くと「6000ペソ(36000円)。作るのに5ヶ月かかっているので高いとは言えないよ」という。製作途中の小箱の表面を小刀で削る作業を見せてくれた。削った部分に色を塗り丁寧に磨いていくという実に細かな作業だ。


 カルロスと別れ、降ったり止んだりの高速道路をパツクアロに向かって走りつつ、プリシリアーノがお土産でみんなもらった甘めのパンをかじりながら話す。
「ウルアパンには20歳まで。その後ベラクルスの芸大に進んだ。なぜベラクルスかって? 僕の望む彫刻を勉強できるのがそこしかなかったんだ。リュウイチ(矢作隆一氏、現在ハラパの芸大で教えている)に会ったのはその時。そこに5年いて、アーティスト・イン・レジデンスとしてヨーロッパ特にチェコなど東欧に2年半ほどいた。その後は結婚してタカンバロ。タカンバロはパツクアロよりもいい感じだ。タカンバロでは原住部族の人とそうでない人が結婚しても誰も気にしないけど、パツクアロではそうではないからね・・」こうした感想は、より原住部族に近い父親とよりスペイン系に近い母親の結婚の影響もあるのかもしれない。
 ドン・チュチョの前で降ろしてもらってプリシリアーノと別れた。8時頃だった。

 ドン・チュチョ前の「界隈一」のタコス屋が開いていた。ドン・チュチョでビールを買ってタコスを食べた。食べ終わり、ドン・チュチョでサラミを買おうと再び中に入ると、肩を叩かれた。一昨日のギャラリーのオープニングで会った華僑系アメリカ人のパットとその息子たちだった。ウエコリオからも近いサンタ・アナ・チャピティロに妻ヴェロニカの実家があり、そこに彼らが滞在しているのだ。「どうやって帰るの。歩いて? だったらバチェの家まで送っていくよ。家はよく知っている」ということになり、息子二人、妻の乗る普通の乗用車に詰め込んでもらって帰宅。
 9時前、お土産のパンを持って母屋をノックすると疲れた表情のバチェが出てきた。「おっ、パン。コーヒー飲むのにちょうどいい。ありがとう。いやあ、疲れちゃって。マルタもベッドで休んでいるよ。トイレと居間の電球が切れた? わかった。今すぐ取り替えるよ」その言葉通りガウン姿のバチェがすぐにやってきて電球をつけてくれた。
 久代さんはお土産のパンをかじったり、ワダスはサラミをあてにメスカルを飲んだりしているうちに眠くなった。
 というわけで、いつもよりも長い日記になってしまった。

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