メキシコよれよれ日記 (2019年4月12日〜9月10日)

6月29日(土)  前日  翌日
 昨日、ヴィンセントに聞いたこともあり、チェランへ行くことにして12:15分に家を出た。今日はちょっと雲はあるものの朝から天気がよかった。
 チェラン行きのバスはCREFALの向かいのバス停から出る。バス停にいつもいる料金集めの小太りのアンチャンにチェラン行きのバスがいつ来るか聞いた。「10分くらい後。所要時間? 1時間20分だよ」と英語で答えてくれたが、やってきたのは1時頃だった。二人分の往復料金160ペソ(960円)を支払ってバスに乗った。神戸の我が家からポートライナーで8分の三宮まで250円なので、1時間以上乗って片道一人40ペソ(240円)はいかにも安い。前後の座席間隔が狭いが快適な座席だ。窓に濃い青のフィルターがあるので外が見えにくいのが難点。

CREFAL前でバスを待つ人たち


 両側に緩やかな起伏のトウモロコシ畑や山々の続く中をバスは猛スピードで走り抜けた。途中まではウルアパンへ向かう道だが、分岐点から細い道に入る。途中さびれた小さな町の細い道路を通過した。たぶんサン・フランシスコ・ピチャタロSan Francisco Pichátaroという集落だろう。いたるところで道路工事をしていた。窓から見える建物もみすぼらしく見えた。さらに進むと、周辺は農地しかないところに忽然と大学があった。

先住部族のための大学Universidad Intercultural Indígena de Michoacánだった。エリカが言っていた「元々はここウエコリオに作られる予定だった」大学だろう。


 緑の山に囲まれた町に入った。検問所を通るとそこからがチェランだ。
 チェランという町はメキシコの中では非常に独特だとエリカが言っていた。ウィキペディアによれば、標高2251m、人口は2万人弱。原住民のプレペチャ族が住む主要な町の一つで、先スペイン期、パツクアロを中心としたタラスコ王国が初めて征服した町とある。
 何が独特かというと、この町の行政組織である。住民コミュニティーの自治組織による行政を行っている町なのだ。
 なぜそうなったか。市長をはじめとした行政と犯罪組織の人間が結託し、周辺の森林を伐採したことに怒った10人の女性が木材を積んだトラックを停止させたことから始まった。住民の利益にならない大量の森林伐採から住環境を守るための小さな戦いだった。そこから全住民を巻き込んだ大きな闘争になった。住民は町にやってくる人間を監視し、時には銃撃戦も行われたらしい。その結果、市長は逃亡し、以来、憲法に決められた選挙によらない住民自身による自治組織ができ上がる。2011年4月のことという。以来、現在まで、12人のプレペチャ指導者の元での行政が続いている。
 ウィキペデイアやエリカの話や他の人たちから聞いたこんな予備知識でチェランに行ったのだ。なんとなく物騒な感じがしたのだが、実際に行ってみるとごく普通の小さな町だった。
 バスはメイン広場に着いた。それほど広くない広場の周辺に屋台のタコス屋やガスパチョ屋が連なり、男たちがなんとなくそこここに佇んでいた。バスが停まった道路は一方通行になっていたので、帰りのバスは別の場所からになる。まず帰りのバス停を確認しておく必要がある。交通係が笛を吹き車の流入を整理していた。通りに立っていた男に帰りのバス停の場所を聞いた。「道路を渡って向こう側だ。あの先からだと安いバスも出てるけど」


 彼に言われたように、円筒形の尖塔をもつ大きな教会を右に見ながら通りを横断した。教会の横は長い通路になっていた。両側にテント張りの店が続いていた。野菜などの他に衣服、財布などの小物、違法コピーDVD、スピーカー、靴などが売られていた。通路の中央に博物館の案内板があったので店番の男に聞いた。博物館は「ない」という返事。最近あまり見なくなったアボカドをおばさんのやっている屋台で見た。大きなアボカドの値段を聞くとなんと1個30ペソ(180円)だという。日本と変わらない値段だ。ひところはかなり安かったので、旬が過ぎたということか。
 通路を抜けると逆一方通行の通りになっていた。このあたりだろう。一応、道端にいた人に帰りの切符を見せて聞いてみた。「ああ、ここからだよ」ということで帰りのバス停を確認して再び広場へ歩いた。武装した警官が入り口に立つ建物の奥をのぞくと正面に大きな壁画があった。そこで記念写真を撮っていた若い男女がいた。男の雰囲気は地元らしくない感じだ。その男がワダスに質問した。「どこから? 日本。おおー、僕はこの近くの町の出身だけど、今はアメリカに住んでいる。彼女も? いや彼女はここに住んでいるんだ。こっちにも壁画があるよ。楽しんでね」こう言いつつ二人は外に出て行った。どういういわれの壁画かは分からないが、この町の戦いを描いたものかもしれない。ともあれ、この町には壁画があちこちにありなかなかに楽しい。

 


 広場から細い道沿いにもテントを張った屋台の店が続いていた。ほとんどは野菜や果物など。山形の田舎で見るようなキノコも売っていた。

一部の道路が掘り返されていたり、そこら中にゴミが落ちている。広場に「この町を清潔に」みたいな看板があったが、あまり効果はないようだ。整然と整備されたパツクアロの広場周辺と比べるとどことなく貧しく雑然としていた。逆の通りは急な坂道になっていた。降りきると川があるかもしれなかったが、急な坂なので途中で広場へ戻る。こうした光景からは、悪に完全と立ち向かう市民という姿は想像しにくい。広場にいた男に「美味いカルニタス屋はどこか」と聞くと「ほら、そこの通路をまっすぐ行くと大きな道路に出る。そこにあるよ」とのこと。
 もう一度広場を横切り、帰りのバス停のある通りに戻った。確かにカルニタス屋の屋台が3軒ほどあり、周辺に人が群がり口を動かしていた。もう一度バス停を確認するため夫婦らしい男女がやっているカルニタス屋に聞くと、ここで間違いないとのこと。せっかくなのでそこでカルニタスのタコスを食べることにした。「ビールはあるか」と男に聞くと、後ろを振り返ったので奥の店でビール2本購入32ペソだった。
 ビールを飲みながら店の横にあったスティールの椅子に腰掛け、通りを眺めた。幹線道路らしく、大きなトラックやバスも頻繁に通る。中にはアメリカからのお下がりらしい黄色のスクールバスもやって来る。全体が黄色に塗られた長いボンネットの、映画でよく見る典型的なスクールバスだ。正面にSchool Bus、横にはどこかアメリカの地方の名前が書かれていた。

   


 注文したカルニタス4つをビールで流し込みながらカルニタス屋に話を聞いた。
「ここで商売して何年になるの」
「30年だよ。あなたたちはどこから? ほう、日本と。日本語でカルニタスはなんて言うんだい?」
「日本にはないよ。ところで二人は夫婦なの?」
「そうだよ」と横でカルニタスを刻んでいる女性を見る。
「日本でもこの商売できるかなあ」
 彼らはここで商売をして30年になるという。家ではプレペチャ語とスペイン語を話しているという。学校ではプレペチャ語を教えているが、若者たちはモレーリアなどの大都会へ出て行くので話者は少なくなっているとのことだ。広場の柱に貼ってあったチラシには「プレペチャ語を話しましょう」とあった。プレペチャ語を話す会みたいなものがあるようだ。

プレペチャ語を話そう


 我々の今のスペイン語レベルでもこうした会話がある程度できるようになったので嬉しい。50歳だという誠実そうな男との会話が楽しかったので、もう1枚ずつ注文した。結局一人3枚ずつ食べて勘定は75ペソだった。6で割り切れないので計算違いかサービスしてくれたのかなんともいえない。ともあれ、味も良かったし1枚あたり12.5ペソ(75円)は安い。
 満腹になった我々は再び広場へ戻り、さっき通った坂道を降りた。谷をまたぐ橋が見えた。橋の両側に長い壁画があった。両面とも自治闘争を描いたものだった。一面の絵はアンヘルの絵に似ていた。署名を見るとやはりアンヘルだった。この町出身の成功者の一人なのかもしれない。

アンヘルの署名のある壁画    


 橋からは20mほど下に細い流れの川が見下ろせた。その谷の急峻な崖に、危なげな細いコンクリート柱で支えられた建物が密集して建っていた。上の方に目をやると緑一色の周辺の山々が見渡せた。橋の対岸にも集落が続いていたので歩いた。途中の店でタバコを購入。55ペソ(330円)。我が家の近くのホルヘの店で48ペソで売られているものだ。
 再び広場に戻り教会の中をのぞいた。中に人はほとんどいない。天井は支持木材の井桁の間にレンガが埋め込まれている。緑に塗られたアーチ型の天井がなかなかに美しい。また円筒型の明かりとりにはステンドグラスがはめ込まれ、外光が差し込む。


 側面の出口から中庭に出た。中庭を囲む2階建の建物の軒先に乾燥したトウモロコシがぶら下がり、壁面にはトウモロコシや女性を描いた壁画があった。

 教会を出て先ほどのカルニタス屋のところまで戻った時、パツクアロ行きバスが停まっていた。しかし運転手の姿は見えない。カルニタス屋の男が「今、トイレに行ってるからすぐに戻る。乗ってたらいい」というので乗り込んだ。程なく運転手が戻り発車した。4時20分だった。
 車道の横に黄色の線で囲まれた自転車専用のような道が平行に走っていた。鉄道の後かもしれないと思っていたら途中で途切れた。斜面の中腹に円形の屋根の競技場のような建物が見えた。周囲の畑にポツポツと白い花が咲いている。

   


 途中から大雨になったがバスは猛烈なスピードで走る。
 6時過ぎにエスタシオンに着いた。線路を渡るとブラスバンドの音が聞こえてきた。伝統衣装を着た女性たちや長い筒状の蝋燭を持った人たち数十人が行進を始めた。行進の先頭にいた細長い花火を持った男が立ち止まり、花火に火をつける。家にいても時折聞こえてくる銃声のような音はこの花火の音だった。この行進はイエスの聖心教会Iglesia Del Sagrado Corazón De Jesúsのお祭りに伴うものだった。彼らの後をしばらくついて行く。花火師が道々で花火を上げ、その度に大きな音が炸裂する。


 イエスの聖心教会の横を通るいつもの散歩道を歩いていると、ナレーションと音楽が大音量で鳴り響いてきた。何かと思い住宅の切れ目から覗くと、畑の真ん中に、仮設舞台と階段状の客席のある大きなテント小屋が見えた。畦道を歩いて中に入った。多くの人たちが空き地の真ん中を見ながら歓声をあげる。鉄パイプの柵の内側では何かが進行中だったが、人垣で見えない。別の枠には牛が何頭も繋がれ、カウボーイの装束を着けた若者が待機中だった。鉄パイプ枠まで近づいてようやく中の様子がわかった。ロデオ会場だった。激しく飛び跳ねる牛の背中に乗った若者が振り落とされないように乗りこなすと歓声が上がった。舞台では大編成のバンドが音楽を演奏し、司会役の男が何か大声で解説していた。地面には缶ビールの空き缶が散らかっていた。


 帰宅したのは8時前。バチェがノックしてきた。彼らが出かけるときに、洗面台にチョロチョロとしか水が出てこないと訴えていたので見にきたのだ。バチェは水道屋を呼ぶと言っていたが、洗面台のカランを何度か動かすと水の勢いが戻った。「あれ、どうやったの」「へへえ、マジックだよ」と言って母屋に戻った。しばらくして母屋をノックし乾燥草をもらった。ついでにどうだというメスカルをいただき、しばし歓談。チェランに行ってきたと言うと、バチェが「ある老婦人の画家を知っていて昔はよく行ったんだ」と言う。ロデオの話にもなった。「僕も昔はよく行ったもんだ。でも皆酔っ払っているし音楽がうるさくてそのうち行かなくなった。それにしても君たちはいつも二人で仲いいねえ」。
 部屋に戻り日記を書き、ベッドでVideo Newsの山本太郎の話を聞きながらいつしか眠くなった。なか寝付けなかった。

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