2015年 2 月 20日 (金) 

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ベイシャトル

 早朝7時50分予定のフライトに乗るには我が家を4:50amに出る必要があった。普段は10時ころ起きているので4時起きはなかなかに辛い。我が家から関空へは神戸空港アクセスターミナルからベイシャトルに乗るというルート。神戸空港まではポートライナーで行くのだが、あいにく始発は5:48amなので、5:30amのベイシャトルに間に合わない。仕方がないのでMKタクシーを予約した。予約時間の5分前、タクシーから「下で待ってます」と携帯電話に連絡が入る。夜明け前のまだ暗い道にほとんど車は走っていない。10分ほどで神戸空港のベイシャトル埠頭に到着した。東の空が白くなっていた。
 ターミナルに着くと、一人の女性が「開くのが5時みたいです」と震えながら立っていた。1分も待たずにドアが開き、関空往復券二人分を6000円で購入し待合室へ。全旅費のほぼ10パーセントだ。女性とわれわれのみだった待合室はほどなく多くの乗船客でいっぱいになった。ほとんどが中国人団体客のようだ。大きな声で会話している。彼らの荷物が多いのは、旧正月の休暇に日本にやってきて大量に買い物をしたせいかもしれない。
 ベイシャトルは予定どおり、5:30am出港。シャトル前方のテレビには、10分ほどの神戸観光ビデオが繰り返し流されている。なにげなく見ているとCAPのアトリエで絵を描いている女性の姿があった。レジデンスでCAPで制作していたドイツ人女性イザベルだ。他の映像もそうだったが、全体に西洋的イメージだ。神戸という都市を短時間で紹介することについて考えさせられる。
 
関空第2ターミナル

 ベイシャトルに乗って6:00amに関空に着く。連絡バスはレンゾ・ピアノ設計の第1ターミナル経由で第2ターミナルへ。従来の空港島に、新たに埋め立てた部分を細い通路でつないでたためか、第1ターミナルまではけっこう遠い。2012年にLCC専用として造られた第2ターミナルは、第1で設計にあまりにゼニをかけすぎた反動なのか、まったくデザイン性のない実用一点張りの退屈な仮設事務所のような2階建で、空き地だらけの周辺と相まってみすぼらしい。待機場にはPeach機だけが数機見えた。
 だだっ広い体育館のようなターミナルビルにはすでに多くの人が数少ないチェックイン・カウンターに向かっていた。旅行客たちの佇まいもなんとなくLCC(Low Cost Carrier)仕様のようで、国際的華やぎとゴージャス感から遠いのは気のせいか。
 旅行指示書には自動チェックイン機を使えとあったので、3台ほど並んだ機械の列に並んで待つ。順番がきてダウンロードしたEチケットを読み取った機械の表示を見ると「エラー」と出てきた。係員の女性に訴えると、チェックインカウンターに行けという指示。これでは自動チェックイン機の列に並んだ意味がない。けっ、と言いつつ何重にもジグザグになったチェックインの長い列に加わった。ところが、並んでいたのは国内便だと気がついた。あわてて国際便の列に移動。
 われわれの前に、高校生らしい男の子二人がノートを見ながら英語の練習をしていた。ノートには「駅はどこですか」みたいな定例文集と対応する日本語訳が書いてあった。団体旅行なのか二人の旅行なのかわからない。どこへ出かけるのだろう。などと思っているうちに彼らは列を離れてどこかへ行ってしまった。団体客だったのかもしれない。
 7時過ぎになってようやくチェックインした。われわれの荷物はそれぞれリュックだけで、機内預け荷物がないのでここまでの手続きはあっという間だった。スーパーのレシートのようなペラペラの搭乗券をもらってセキュリティー・チェックとパスポート・コントロールの長い行列に並んだ末に無事通過した。
 99番ゲートの隅に喫煙室のサインを見つけたので、早速一服した。JT直営店が併設されていて、そこでタバコを1カートン購入。2700円。エアコンがなく寒々とした鉄骨構造や配管類むき出しの搭乗ゲートの廊下のような通路を抜けて徒歩で飛行機へ向かう。係員の男女が動き回っているが、どことなく品性がないように思える。
 30mほど歩いて飛行機へ向かう。トラック移動式乗降階段で機内へ。機内の狭い通路を挟んで3席ずつ並ぶ座席の前後間隔が狭い。座って前にかがむと頭が前席についてしまうほどだ。機内食、飲み物はすべて有料だからか、客室乗務員の二人の女性の仕事は多くない。チーフらしい乗務員の機内アナウンスの英語が早口でほとんど理解不能だった。ワダスは窓際の配偶者と背の高そうな禿頭白人青年に挟まれた席だった。白人青年の膝は完全に前席にくっついていて窮屈そうだ。

桃園国際空港から市内へ

 台北までは3時間のフライトで、狭い客席もそれほど気にはならなかった。長時間であればかなりきついだろう。
 曇り空の生暖かい地上に降りたのは現地時間の午前10時。台湾と日本の時差は1時間だ。
 空港内の長い通路を歩きパスポート・コントロールへ。女性係官のチェックもすぐに終わる。先に終わったワダスは女性係官の背後から配偶者のチェックの様子を眺めた。小型ビデオカメラで撮られたパスポートや顔写真が2台のディスプレーに映し出されていた。
 預け荷物のないわれわれは、バゲージクレームで荷物を待つ人々を横に見ながら到着口か出た。出口正面の手すりで客を出迎える人がまばらにいた。名前を書いたボードを見たが、日本旅行と書いたものがない。出てきたのが早すぎたのかもしれない。しばらくしてBESTと書いたボードを持つ、青の薄いダウンジャケットを着た20代後半の青年がいたので尋ねると、彼が日本語でいった。
「はあい、日本旅行、間違い無いです。8名全員揃うまで待ってください」
 10分ほどで小型のケースを転がした若い女性の一団が合流してきた。喋り方を聞いていると、学生かもしれない。われわれを含めた一団は青年の案内でバスに乗り込んだ。発車して間もなく、青年がマイクをもって説明を始めた。
「ええ、みなさん、初めまして。わたしの名前はげんさん。昔、大阪にいました。これから皆さんをまず市内の免税店にお連れします。買っても買わなくとも大丈夫です。それから皆さんをホテルまで送ります」
 山の合間の高速道路を走っていたバスは、高層アパートなどが密集した市街地に入った。11時半ころ、バスは台北市街の広い通りに面したビルの前で停車し、全員下車し地下にある免税店「昇恒昌(everrich)」に案内された。

everrich

店内は、ブルガリ、バーバリー、カルティエ、セリーヌ、コーチ、ダンヒル、フェンディ、グッチ、プラダ、フェラガモ、トッズなどなどのブランドショップが並んでいる。客の姿はほとんどなく、店員が退屈そうにわれわれを見る。この免税店訪問は、安いパック旅行の一部に組み込まれている。われわれには当然無縁なので散歩でもするつもりですぐに地上に出た。
 台北市街の全容がつかめないので現在どこにいるのかまだ分からない。ワダスは2005年にも来ている。当時は台北駅裏の安宿に泊まり、タブラーの若池さんに連れられてカフェなどで演奏したのだが、観光らしいことは何もしていないので、台北はほとんど初心者なのだ。
 幅広い道路の両側に10階以上のビルが建ち並んでいるので中心地に近いのだろう。漢字が多いせいもあり、街の雰囲気は日本とよく似ている。道路を行き交う人や車は多くはなかった。正月ということもあるのかもしれない。ほどほどに暑いのでTシャツだけで十分だ。街を歩く人たちのほとんどが長袖シャツにコートを着ているのが不思議だ。

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 隣にファミリーマートがあったので覗いてみた。店内のディスプレーや佇まいはほとんど日本と変わらない。なんとおでんも売っている。保温鍋の濃いだし汁に浸かった煮卵や、焼き芋なんかも売っていたのがちょっと日本とは違う。

 集合時間になり一行は再びバスに乗り込んだ。ほどなく停車し、げんさんはわれわれにミニバンに乗り換えるよう指示する。われわれと女性二人が乗り換えた。中年の運転手に行き先を告げたげんさんは「この人はホテルの場所がわかっているはずだから大丈夫。多分。万が一わからなくなったら電話して下さい」といってバスに戻っていった。
 5分も走らないうちにわれわれのホテルに着いた。

舞衣新宿南京

 ホテルは、ほぼ中心市街地に位置するマイホテル南京(現地表記は「舞衣新宿南京」)。東へまっすぐ進むと繁華街の中山へ続く広い南京東路に面している。MRT(地下鉄、Mass Rapid Transitの略)の松江南京駅と南京復興駅に挟まれた区域にあるので交通の便もとてもよい。平凡な10階建ての外観は普通の事務所ビルのようにも見える。われわれは、ツインベッド、大型テレビ(100チャネル以上見れる。ほとんどが中国語のテレビ局だがNHKもある)、バスタブ、シャワートイレつきのバスルームのある3階302号室に3泊した。

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 それなりに広く清潔で快適な部屋だったが、難点もあった。エアコンのスイッチを切っても全館でエアコンが効いているのか室内はけっこう寒く、薄い羽毛布団では寝にくい。衣類を収納するスペースが小さい。冷蔵庫のドアが開けにくい。洗面台にある大きな鏡の照明が天井のダウンライトだけなので顔がよく見えない。シャワーの湯の量と温度調整が難しい。テレビ台と連結した机の奥行きが狭い。ベッドの枕元照明が暗く本が読めない。トイレにトイレット・ペーパーを流せない。非接触型カードキーの読み取りがスムーズではなかった。
 ネットで調べると、このホテルの料金はツインで1泊2,448台湾ドルとなっている。二人で1泊ほぼ1万円という計算なので、日本で言えば一般的なビジネスホテル並みというところか。2階のレセプションに常時待機する2名のスタッフは若く、簡単な日本語、英語が通じた。レセプションのコーナーにあったエスプレッソマシンがうれしい。
 ホテルに着いたのは12時20分。チェックインは3時という。それまで時間を潰さなければならない。英語の方がましだという若い女性スタッフに尋ねた。
「この近くに火鍋の『馬辣』という店があるはずだが」
「はい、ありますよ。左に出て1ブロック行ったところ。とても有名です。地下鉄で1駅ですよ」
「予約できますか」
「はい。お待ちください。ふむふむふむふむふむふむふむ。あ、予約しました。今混んでいるので2時からになると言ってます」
 実は、配偶者の頭の中は我が家を出発したときから馬辣火鍋想念で充満していて、店を尋ねるのに一瞬の躊躇もなかったのだった。
 われわれはだらだら散歩しながら教えられた方向へ歩き始めた。南京東路は東西に延びる主要幹線道路。神戸でいえばフラワーロード、東京であれば銀座中央通りのような感じだ。ホテル周辺には銀行などのオフィスビルが建ち並ぶ。正月とあってほとんどの店舗にはシャッターが下り、人通りも車もまばらだ。上下3車線の車道の両側はかなり広い歩道になっているが、大きなビルの1階部分の一部も歩道にもなるよう計画されている。これならにわか雨が降っても心配ないし、日陰にもなる。建築家の友人によればこの方式は「騎楼(きろう)」といい、日本支配時代に考案されたとのこと。騎楼は中国の福建省を中心とする南地方の住宅様式で台北のビルにも適用されたという別の説もある。この騎楼を設けることで建物の容積率が緩和されるらしい。隙間なく建ち並ぶ10数階立てのビルそれぞれの表情は乏しい。「中山真蔵」という縦書きの大看板が目に付いた。
 みちみち、配偶者は事前に学習してきた「馬辣」の火鍋システムについて説明する。制限時間内はすべて飲み食い放題みたいだよ、と充満した火鍋想念が外に溢れ出したように語り口や表情に熱が入る。15分ほど歩いて看板を見つけた。
 店は、中山北路の高架を越えてすぐのビルの2階にあった。

馬辣頂級麻辣鴛鴦火鍋

 
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 かなり広い店内ではほぼ満席の客が猛然と食べ、猛然としゃべっている。受付に来た女性店員にダメもとで席の有無を訊くと、「うん、あるよ」とあっさり案内してくれた。予約の2時まで客待ち行列を覚悟していたのに拍子抜けだ。
 案内されたテーブルの中央には真鍮の円形縁取りのあるこんろの上に、両サイドに取っ手のついたピカピカ光る丸い鍋が安置されていた。鍋の真ん中に陰陽太極図なる波型の仕切りがあり、味の異なる2種類のスープが煮えて湯気がたっていた。

mara mara
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 メニューを見たがワダスにはどう注文したらいいかわからない。配送店員風の服装の女性がやってきて中国語でいろいろと説明している。肉系はこのリスト、野菜系はそのリスト、と色の違う紙を指している。飲み物を尋ねたので、まずビールをもってきてもらうことに。
 きちんと学習していた配偶者によれば、火鍋想念そのものと化した悦楽的表情で、「ほら、とにかく好きなものをその紙の食品リストにチェックを入れて頼めばいいのよ。このスープは辛味と普通のやつと分かれているの。普通のんには白菜の漬物が入ってる」という。箸で確かめると、辛味スープには豆腐が、普通のには刻んだ野菜が沈んでいた。
 具の写真メニューを見て、具の名前がリストアップされた別の薄いメモ帳のような紙にチェックを入れ、それを店員に渡せば望みのものがくるというシステムである。というわけで、われわれはどんどんチェックを入れていった。「エビ、いいねえ、おっ、カニもある、肉?じゃあ牛肉と豚も入れよう。そうか、野菜も。きのこもいいな。木耳なんかあるぞ。それと、イカ、ほたて、白菜、スズキ、豚餃子、ラムもいいなあ。あっ、これも頼もう」。

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「ワインも飲み放題」
 飲み物コーナーを調査してきた配偶者がこういってグラスに入れた赤ワインを持ってきた。
「で、あっちでタレを好きなように調合して食べるみたい」
 タレ調合所には、日本醤油、中国醤油、ニンニク油、香菜、刻みネギ、いりごま、辣腐乳入りの濃厚ダレ、大根おろし、唐辛子、ごま油、生卵などなど20種類ほどの材料が白い角形の入れ物に入っていて、それらを好みで調合するようになっていた。
 どんどん具が運ばれてきた。われわれはほぼ無言で休みなしに口に入れる。どれもおいしい。特に大ぶりのきのこや木耳、白菜がうまい。初期的興奮状態が落ち着いてくると、少しずつ冷静になってきた。配偶者はすでにワインを4杯ほど飲んでいい気分だ。ただでさえ常時膨満感に苦しむワダスの胃が1トンほどにも感じられるようになってきた。配偶者は、そんなワダスに追い打ちをかける。
「ハーゲンダッツも食べ放題だし、デザートもいっぱい、いろんなのがあるから見てきたら」
 というわけでハーゲンダッツやらマンゴーなどの果物も詰め込んだ。
 ふうー、食った食った、でもまだ肉いけるかも、マトンがいいなということで、さらにマトンと牛肉を頼んだ。やってきたのはマトンが2皿だった。店員に申し述べるとすぐさまマトン皿を引き上げすぐに帰って来た。会計をしてくれという。クレジット・カードではなく現金で払えという。制限時間はまだのはずだ。マトン皿引き上げ依頼がなにかしらわれわれの信用度を損なうことになったのか。周りを見回すと、一時は騒然としていた客席はまばらになっていたので、支払いを急かしたのは昼の部が終わりということだったのかもしれない。
 支払った金額は税込一人635元+税で700元ほど。日本円で2700円くらいだ。これだけ食べて飲んでだから安いといえる。
 現金を手渡した店員が戻ってきた。一枚の500元紙幣を見せ、これは流通していないので受け取れない、新しいのはこれだ、という主旨を中国語で申し述べる。そんなはずはないとレジの青年に訴えても結果は変わらなかった。
 これまでわれわれは台湾元の両替をしていない。2005年に台中へ行った時の残った2700元(1元=3.75円なので約1万円)を持ってきていたのだ。払った紙幣はこの10年前の紙幣だったのだが、その内の1枚がはね付けられたわけだ。うーむ、どうにも納得できないが仕方がない。
 ともあれ、われわれは胃のインプット限界まで詰め込んで店を後にし、ホテルに戻った。配偶者は「今回の台北は、これだけでもえがったって感じ」と大満足のようだった。
 
ジェニファー

 ちょうど3時にホテルにチェックインし、非接触タイプのカードキーをもらった。エレベーターに乗る際にもこのカードが必要とのこと。
 例外的な早起きと例外的な満腹感で睡魔が忍び寄ってきた。寝てしまう前にジェニファーに電話した。ホテルに着いたら電話をするという約束になっていたのだ。
 ジェニファーというのは、2005年にアクト・コウベの一員として台中を訪れた際、知り合った女性だ。当時、空港に到着したワダスをピックアップし台中まで送り届けてくれた。カナダやアメリカにも住んでいたというジェニファーは英語ができるので、当時とても助かった。
 6時にホテルで会うことになった。それまで一寝入りできる。ベッドに横になった途端、意識を失った。
 起きたのは6時。まもなくジェニファーから電話が入った。8時にホテルへ来るという。
 7時過ぎに夜の散歩に出た。中山真蔵、MR BROWN CAFEに、吉野家、くら寿司などといった日本の料理屋の看板も見える。人も車も少なく閑散としている。コンビニで6缶パックのビールと牛乳を購入し冷蔵庫に入れた。

jennifer
ジェニファー
lana
ラナ

 8時10分、ジェニファーが姉のラナと車でやってきた。黒の長袖Tシャツの上から濃い灰色のワンピース姿の彼女の、すらりとした体型、落ち着きのある表情を崩さない佇まいは、10年前とほとんど変わらないように見えた。40代半ばだろうか。ジェニファーよりも小柄なラナは、大きなメガネの奥の目の表情が楽天的だ。ジェニファーがわれわれを彼らの自宅に招待するというので車に乗り込んだ。
 2週間ほど前に、トランスアジア機が離陸直後のエンジン停止で墜落したキールン川に沿ってしばらく走り、10分ほどで家に着いた。彼らの家は間口の広くない数階建てのマンションが並ぶ狭い通りに面していた。地下鉄MRTの大直駅に近い。
 間口は広くないが、6階建の建物すべてはジェニファーたち家族が住んでいる住居という。ジェニファー自身は6階だといっていた。
 黒い鉄扉をくぐるとちょっとした前庭があり、椅子とテーブルが置いてあった。
 われわれは玄関で靴を脱ぎ広い居間に案内された。白と黒の石板が寄木細工のようになった床だ。正面の壁には、漢字の掛け軸に挟まれて植物の絵がかけてあった。ギラギラと金をかけたような雰囲気のないのが好ましい。ソファセットの奥に4つの椅子と麻雀卓があった。
 ソファに寝転んでテレビを見ていた少女がわれわれを見て席を空けた。ラナが「姪よ」と言う。
 まず、家族のことについていろいろと聞いた。
 ジェニファーは4人姉妹の一人。今日は他にラナと妹のティファニーがいる。ソファに座っていた少女はティファニーの娘だった。全員が英名だが、本名でどう呼ぶのかわからない。ジェニファーとラナの中国語名はそれぞれ杜慧娟、杜慧芳だと書いてくれた。この漢字からどうやって今の英名になるのか。
 この家は、去年11月に93歳で亡くなった父が、周りに何もない頃に購入した土地に建てられた。父は中国本土から1949年に台北にやってきた。ほどなく、共産党政権ができて本土に帰れなくなってしまった。台北移住後、台湾女性つまりジェニファーたちの母親と結婚した。結婚して何年も経ってから本土に妻子がいることを知り母は怒ったという。台湾に来て2年ほどしてカナダへ移り住んだ。なので、ラナもジェニファーもカナダにしばらく住んでいたという。ジェニファーも、ラナと同じようにアメリカかカナダで結婚していたが離婚して台湾に戻った、と聞いたのは2005年。今も独身だ。
 今は子供達に英語を教えているラナは、10年前に離婚し息子ハロルドとともに台湾に帰ってきた、という話を聞いている時に奥から背の高い少年が友人らしい少年ととも出てきた。背が高く、いかにも白人との混血に見える少年が、ラナの息子のハロルドだった。手のひらが湿った冷たい手に握手をすると、すぐに奥に引っ込んだ。
 妹のティファニーも顔を出したが、ほどなく奥へ消えた。
 ジェニファー、ラナとしばらく2005年の台中の話。アラン・パパローンやフレッド馬さん、ラン、アレックス、台湾原住部族と知り合いのミュージシャン、バスティアン・ボニなどなど、当時の人たちの話題も出た。

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 ワダスが雀卓の方へ目を向けるとジェニファーが言った。「麻雀できるの? へええ、じゃあやりましょうよ」ということになり、ジェニファー、姪、ワダス、配偶者と雀卓に座った。台湾では正月にどの家庭でも麻雀をするという。台湾式は、牌が大きく、配牌される枚数は16枚もある。花牌が点数に加算される。ルールも日本式とはかなり違うがなかなかに奥が深そうだ。
 ゲームが一区切りついた時、ワダスが言った。
「タバコ吸いたい」
 すると、あら私も、とジェニファーとラナが口を揃えた。2005年に台北から台中へ移動する車の中でジェナファーとタバコを吸いながら話したことを思い出した。
 4人は前庭のテーブルに移動した。
 ジェニファーの本職は映画プロデューサー。自分の事務所を構えている。映画作りは予算がないのでなかなかに大変だという。2012年に、自ら脚本を書いて制作した「不倒翁的奇幻旅程Jumping Boy」という90分ほどの映画を作った。日本でも東日本大震災関連で東北で公開されたというがまったく知らなかった。日本のタイトルは「ダルマ」になったという。片足を失った少年が夢を失わずに生きる話らしい。トレイラーを見せてもらったが、アニメーションと実写が混じった面白そうな映画だ。
 時計を見ると11時を回っていた。最後に、ういろうのような甘いものを挟んだ餅をいただく。

jennifer
姪、ジェニファー、ワダス、配偶者、ラナ


 明日どうするの、と聞かれたので動物園に行くというと、ものすごい混雑だと脅された。2時間待ちもあるよという。故宮博物館もここから近いらしい。仏教寺院でいいかなとなった。聲明も聞けるかもしれない。ときどき菜食の食事も無料で供され、それがおいしいのよ、とラナ。ラナには、馬辣で受け取りを拒否された500元札を新しいものと交換してもらった。正月なので銀行は月曜日までどこも開いてないとのこと。
 再び、ラナとジェニファーに送られてホテルへ戻る。寝たのは1時過ぎだった。まったく、長い一日でした。使用したお金は火鍋の1400元、缶ビール、ミルクで100元だけなので、所持残金は1200元。

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