七聲会フランスツアー2004

7月7日(水)


 5時起床。予定どおり、MKタクシーが6:50に来た。すでに5人乗っていた。市内に向かうと思ったら途中で一人を拾って島内のMK社へ。そこで男を一人ひろう。7時過ぎていた。

 島からそのまま湾岸線に入り、8時ちょうどに関空到着。もっとも右端のGカウンター近くにはすでに全員集まっていた。近藤君の荷物が相当重そうだ。みんなは、MKを借り切ったということ。francephotos

 近藤君が、機材の入った預け荷物に保険をかけられないか聞く。保険会社は通常のもので10万円保証のものまでしかできないという。

 オーストリア航空のカウンターは実際はBだったので、全員でほぼ右端に移動。カウンターでチェックイン。南忠信、橋本知之、池上良賢、八尾敬俊、佐野眞弘、近藤忠、中川の7人。八尾は「普通にしゃべるときは大丈夫だけど、聲明になると声が出ない」という。

 ボディーチェック。ベルトが引っかかったらしく何度も金属探知機を通る。

 免税店で、タバコと日本酒2本購入。タバコには時計のおまけ。みんながうどんを食べにいった。小生のみ19番ゲートへ。真っ赤なスカートスーツ、ストッキングのオーストリア航空の女性乗務員。

 予定時間とおり、0S56便は10:20ころ離陸。翼上右窓際の12A。隣は佐野。

 父親は元漁師だったが、みのしまにある寺の娘、つまり母親のけいこと結婚して僧侶となり、島の住職となり、そこで生まれる。父親の祖父は海運業で財を築いたが、その息子が放蕩して散在した。父親の代には漁師になっていた。

 母親の祖母は、代代の寺。祖母は早くに死去したので曽祖母が寺務の指示をした。

 兄弟は姉二人、本人、妹の四人。小学生時代から新聞配達。父親に反発。

 などなどを佐野に聞く。しかし、詳細は忘れた。

 映画を見ようとしたが、正面の液晶画面が不鮮明で断念。もってきたノイズカットのヘッドフォンでジャズ、ロック、クラシックをひたすら聞く。それにしても長いフライトだ。後ろの席の橋本は意外におとなしい。ウラル山脈近くあたりを見下ろすと、大小の円形の沼が無数に展開していた。なんだろう。核実験の跡?

 12時間かけてウィーンに到着。晴れ。現地時間で3:25。ウィーンに来るのは32年ぶりになるがほとんどなんの感慨もわかない。バスでターミナルに移動。日本人団体客が入管に並ぶ。横の喫煙所で一服。オーストリア航空の日本人女性に聞くと、トランジットでも入国審査が必要。審査といってもさっとパスポートをみるだけで通過。いったん2階に上がり、免税店街を抜けて、再び下に降りてリヨン行きのB26ゲートへ。BGMもなく、にぎやかでもなく比較的閑散としている。建物も工事中。

 17:20、天井の低い小さなジェットでリヨンへ。左席からアルプスが見える。簡単な機内食。7時すぎにリヨンのサンテグジュペリ空港到着。空港の建てものはモダンなデザイン。小さな方形の屋根が連なる。

 入国審査もなく、荷物を受け取って外に出るとヤシャ、ティエール市役所の青年クリストフが待っていた。francephotosヤシャはひげをはやしていたが、2001年に神戸で会って以来あまり変わっていない。クリストフは丸い遠視メガネをかけた青年。ヤシャの三菱車に、小生、池上、近藤が、クリストフ車に、南、佐野、八尾、橋本が乗る。8時ころなのにまだ十分に明るい。

 10時近くにヤシャ宅到着。なだらかな山道を上ったところの道路沿にあった。あたりは山と森。木々が多い。ほとんどは植林したという。以前よりもちょっと白髪の増えたキャリが歓迎。すぐさま、七聲会宿舎に案内。ベッドシーツなどを配る。YashaCarrie

 七聲会の宿舎は、ヤシャ宅母屋からちょっと離れた、農家の倉庫を改造した建物だった。francephotos入ったところに暖炉とテーブル。ベッドは2階。山小屋の感じだがとても大きい。上にベッドが4、さらに奥の階段を上ると、2階に2、屋根裏に2つのベッド。これなら快適に過ごせそうだ。外はかなり寒い。星が鮮明に見える。

 歓迎夕食。キャリ特製の南イタリア風ラザニアと、ヤシャの作った映画『Wine From the Heart』に出てくるスペイン国境に近いところのワイン。これがとても上物。聞けば、あの映画の最後は不作を嘆くワイン業者の姿だったが、2000年はぶどうの当たり年になり、いいワインが作れたという。francephotos

 ラザニアがうまかったので食べ過ぎた。みんなが宿舎に引き上げた後、ヤシャ、キャリと2時ころまでしゃべる。西洋人の自己中心主義のことなど。

 小生の部屋は、3階の書斎。屋根裏部屋になっている。屋根に窓がついている。大きなベッド。14歳になるという彼らの猫、スイーツが喉を鳴らしながらすりよってきた。


7月8日(木)
 6時に起きた。4時間しか寝なかった。時差ぼけの影響だ。だれも起きだしていない。まだ薄暗い戸外。離れのキッチンでコーヒーを作る。

 母屋のまわりをちょっと散歩。周辺は林のある山ばかり。樹種は北海道に近いので、フランスにいるという感じが薄い。

 8時ころ、みなも起きだしてきた。キッチンでめいめいに朝食をとる。橋本が卵焼きを作った。みなもあまり寝れなかったらしい。

 ヤシャが、母屋に付属した納屋を案内する。中はさまざまな道具が積み上げられ。中二階が作られている。ゆくゆくはここに階段をつけて皆が泊まれるようにするという。近所には、長年の友人であり、Bratchというバンドのリーダー、ブルーノが住んでいる。

 ヤシャとキャリがここに住み始めたきっかけは、パリで取材したアルメニア出身のバンドBRATCHだという。メンバーの薦めでたまたま夏にやってきて気に入り、1992年に母親の遺産で土地を購入した。そのうち、ブルーノや他のボーカリストも住み始めた。しかし、バンドの人気が出てきて忙しくなり、最近はめったに彼らもこれないという。こんなことを話していると、女性がジョギングしてきた。やはり近所に住んでいる友人パスカル。BRATCHのギター兼ヴォーカリスト、ダンのガールフレンドで、パリの大学で体育教育を教える教授。たまにここにきて毎日12キロもジョギングするのだという。

 ヤシャが「これから皆を村見物につれていこう」といったとき、池上が「中川さん、ちょっと」と呼ぶ。

「八尾さんが足を折ったみたいだ」。「まさか、今どこにいるの」「向こうです」とつれていかれると、八尾さんが道路の真中で尻持ちをついている。橋本が「ここから」と指差して1メーターほどの段差のある路肩を示す。どうも、八尾はその段差を飛んで路上に降りようとしたらしい。降りた瞬間に足をとられ、そのときにポキっと音がしたという。完全に動けない。動かすと猛烈に痛むがじっとしていると大丈夫だと。

 みなが心配してやってきた。ヤシャに添え木と車をもってくるよう頼んだ。八尾の足のあたりを見ているうちに、小生の血の気がうせる。とりあえず、ヴィシーの病院へ運ぶということになった。

 村を見た後、途中にあった農家へ訪問するという予定だったが、急遽変更。ヤシャ、橋本、小生とでヴィシーの病院へ向かう。30分ほどだという。八尾は、板で固定した足を手で抱えて痛そうだ。

 ヤシャによれば、ヴィシーの総合病院はこのあたりではベストだ。以前にジェイコブが演奏に来たとき、スズメバチに胸を刺されて瀕死になったことがある。次の日が演奏だった。顔がはれあがり激しいアレルギー反応だったという。急いで病院へつれていき、心臓に注射をして次の日は演奏したという。ヴィシーは、老人の多い都市なので、医者も多い。温泉治療施設などもある。以前は、河川でパリに物資を運ぶ基地になっていた。オーベルニュ地方の中心地で、金持ちが多い。パリのカフェはこのあたりの人間が経営しているという。ブーレという特有のダンスのリズムもこの辺りの伝統だという。

 その総合病院の救急受付にいった。中で車椅子を借りて車から八尾を運ぶ。受付には若い女性が一人でさばいている。なかなかわれわれの番が回ってこない。ようやく受けつけ。パスポートを見せて氏名を告げる。お昼に近くなったのでやきもきする。昼になると看護婦も医者も昼休みをとるからだ。診察待ちあいを案内される。病院関係者が入れ替わり現れるがなかなかわれわれの呼びだしがない。12時10分前になって若い女性看護婦にようやく呼ばれ、診察室へ。30代半ばの女医が現れ、患部を触診。八尾には自分で靴下をぬぐように指示。「わたしがやるとこの人は痛がるでしょう」とのこと。レントゲン写真をとることになり、八尾は移動ベッドに乗せられていった。ヤシャが「ここは本当に変だ。さっき、Xレイを頼んだとき、ここには2台の現像器があるが1台は壊れているという。よくわからん」

 しばらく待っていると、Xレイの結果が分かった。右足くるぶし近くの2本の骨が折れている。手術が必要だ。橋本は、携帯電話のデジカメで撮影する。手術ということは入院が必要だということだ。いつまでかは手術してみないと分からない。ということは、13日の帰国時に退院できているかどうかも分からないということだ。手術は今日すぐにやることになった。またしばらくして今度は病室に案内される。同じ部屋に老人がいた。francephotos

 まず執刀医らしい医師が、既住症や血液型、家族の病気、手術の経験の有無などについて質問。ヤシャが聞いてそれを小生が日本語に訳し、明るく振舞おうとするがなんとなくなさえない表情の八尾に説明。ついで麻酔医の質問。若い長身の医師。フランス語も英語も分からないが八尾はとても知性があるのだとヤシャが説明。八尾には、病院で一人になったとき必要な最小限のフランス語とその読み方を書いたメモを渡す。

 病室は37号。しばらくして手術の準備が始まる。全身を消毒薬で拭く。そうした動作の指示はこちらがいちいち通訳する必要がある。いつまでここにいることになるのか。

 麻酔医の質問が終わり、とりあえずわれわれは八尾に別れを告げて、帰宅することに。手術は今日の5:30には終わっているだろうとのこと。

 すでに昼はとっくに過ぎている。いい天気だ。かなり暑い。

 2時ころ帰宅。みなが所在なげに家にいた。ランチは終わったという。後で聞けば、庭でゲートボールのようなこともしていたらしい。francephotosヤシャ、小生、橋本がランチ。庭でとれた野菜のサラダ、貝とジャガイモのスープ、パンのランチ。屋外のテーブルでとると気持ちがいい。

 3:20ころ、地元テレビの取材班がやってくる。62歳のヤシャが、パパローンだね、と形容したラヴァン氏と、録音、撮影技師の3名。ラヴァン氏は仏教と神道はどう違うのか、そもそも仏教というのはどんな宗教かなどと、きわめて初歩的で答えにくい質問をする。francephotos

 コスミック・ティー・ハウスのために、池上が3枚の布に書を書く様子を撮影。まず墨で、天下和順、青の水彩絵の具で、無量寿、慈悲、と書く。意味も聞かれる。francephotos

 ヤシャと小生がインタビューを受ける。ついで、ここから2キロほど坂道をあがっていったところにある農家に行くことになった。取材班は道の途中でわれわれを待ち、散策する日本からの訪問者の絵を撮影。南、佐野はかなり遠い坂道にねをあげつつあった。景色は本当にすばらしい。よく晴れている。牧場やライ麦畑、とうもろこし畑。francephotos

 農家にたどり着くと、3代にわたってこの辺に住むという真っ赤な顔のアンドレ・ド・パール氏、主婦のクリスティナ、取材班、キャリが待っていた。francephotos

 近藤が本物の牛を間近に見たことがない、とラヴァン氏にいうとびっくりしていた。空気の抜けるような分かりにくい英語だ。

 2匹の大きな狩猟犬、オリンピー、パルデューという名の雌馬、農耕馬で1歳と2歳。豚舎、牛小屋、放し飼いのニワトリ、アヒル。まるで富良野のようななだらかな農地をわれわれはぶらぶらと歩く。それを取材班が撮影。

 クリスティナと取材班の車に分乗して帰宅。みなは歩いて帰る気力がないようだった。

 5:30に出発ということになっていたが、6:30に、ヤシャとキャリの車に分乗して、St.Vicor Montvienaixに向かう。キャリの車には、終演後のパーティーのためのカナッペや菓子、ワインなどを詰め込む。つまみものはすべてキャリの手作り。

 今日の会場は12世紀に建てられた古い教会。francephotosfrancephotosかなりの部分は後に改装されているが、奥の祭壇部分はもっとも古い。マリア像がなにものかに盗まれ、それがアメリカで売られたので偽物を安置したというスキャンダルがあったとか。隣に墓地。普段は無人で、管理者であるセルジュ氏が必要なときに開放する。

 ヤシャのアンプが使えることが分かったので、近藤は機材をセッティング。ところが、開演の9時にあと20分くらいというところで、電源にトラブルが発生。容量を超えた電力に持ってきたトランスが壊れたせいだ。最悪は近藤の不参加ということだが、それではあまりだというのでヤシャが自宅のトランスをもってくることにした。francephotos

 無事着いたのでよかったが、ヤシャがいないと始まらないので開演は20遅れ。

 会場はほぼ100人。満員だった。演奏内容を簡単に説明して開始。

 まず、小生のソロ。最上川船歌とブーパーリの即興的変奏。残響がとてもいい空間。大きな拍手。ついで七聲会のみ。小生は舞台に隣接した控えの間で聴く。よく響く。最後に、全員のセッションで聲明源流。拍手がなかなかやまない。2度のステージコール。francephotosfrancephotos

 終わったあと、すぐ近くの集会場で打ち上げ。30人ほどの人たちがワインとキャリの用意したつまみでがやがや。われわれが入っていくといろんな人から質問にあう。しかし、英語があまりできない。なかに褐色の顔の男が、演奏中に書いたというメモと詩をくれる。聞くと、生まれは中国国境に近いベトナムだという。

 別の、元パリバ銀行員だったという60になる男性が、小生の笛をアメリカ人の誰かととても似ているといっていた。ヤシャが小生と南さんを市長に紹介。中年の男性。市長とはいえ、人口280人しかいないので村長だ。

 CDはもっていった10枚が完売。七聲会のCDは8枚売れた。外はかなり寒くなっていた。星は出ていない。

 12時ころ帰宅。南さんは夕方の歩きでくたびれ果てたようだ。ダールのようなスープとパンの簡単な夜食のあと、上に。キャリがメールチェックするのを見つつ着替えて、1時過ぎに就寝。


7月9日(金)
 8時起床。時差ぼけは直ったようだ。キャリがすでに起きて下でメモをしている。今日はTheirsへいってコズミック・ティーハウスの飾りつけ。七夕の笹も用意してあった。ヤシャとキャリに同行するのは佐野と近藤。佐野は朝まで南さんや池上と飲んでいて寝ていないという。橋本はよく寝たようだ。彼らが去った後、宿舎にいったら、橋本と南さんが暖炉の前でくつろいでいた。南さんは寝ていないのでちょっとぼやっとしている。

 ヤシャ、佐野、近藤が帰ってきてランチの支度をしている。

 近藤がカットしたズッキーニとたまねぎ、橋本が作った卵焼き、しょうゆ、にんにく、しょうが、塩、こしょう、ワインで炒めものを作った。バスマティ米を炊いてぶっかけ飯だ。味はまあまあ。米がなま煮えなので水をいれてもう一度火にかける。ツナとサーモンを混ぜたたっぷりの野菜サラダ。francephotos

 2台の車に分乗して、3:30ころヴィシーの病院へ向かう。病院に着いて、ヤシャと八尾の入院手続きをする。受け付けは混んでいないのに対応がゆっくりしている。5時にはTheirsに着いていなければならないのであせる。

 八尾は顔色もよく元気そうだった。フリーマントルの小説を2冊、パパローンからもらった日仏会話集を渡す。池上はiPod。キャリ提案の花はよかったようだ。病室からは工事現場しか見えないからだ。

 執刀医がバカンスに出かけてしまったということで、引き継ぎの医師の話しを聞く。彼によれば、月曜日、つまり12日には退院できるとのこと。アドバイスとして、八尾をファーストクラスに座らせるべきだ、という。購入すれば馬鹿高くなるのでそのまま乗りこんで機内で対応してもらったほうがいいだろう。入院が長引くようだと新たな航空予約が必要になるのでとりあえずは安心だ。松葉杖での歩行訓練のあと、およそ2月のリハビリが必要だという。

 病院を出るときにはすでに4時半をまわっている。5時にはThiersに着いていなければならない。しかし、すでに街に入る前に5時をまわっていた。ヤシャは、まあ、大丈夫だろうという。

 急な坂道の多い街についた。中層の石造りの建物を縫う道路はとても狭い。進入禁止のバリケードをどけて今日の公演会場に入る。空港から送ってくれたクリストフの顔もあった。大きな古い教会のある広場に特設ステージが設けられ、ミュージシャンたちが舞台の両袖に設けられた木の台の上でリハーサルをしていた。フェスティバル全体のプロデューサー、ロラン・ブレアン氏を紹介される。茶に白いものの混じった長い髪、長身、メガネ。精力的な印象だ。2年前に韓国の釜山の新年イベントのために2週間ほど韓国へいった。また、クアラルンプールなどにもいったという。照明、音響などのスタッフたちが忙しそうに準備しているうちに、雨が降ってきた。台の上のミュージシャンは台の中で演奏せざるを得ない。外から見るとまるで檻の中で演奏しているように見える。楽譜も濡れている。francephotosfrancephotos

 ロランから、小生と池上のリハーサルは彼らが終わってからやるといわれる。いつ、どのように演奏するのか聞いていなかった。その時点で分かったことは、9:30のオープニングコンサートのときに二人が舞台で演奏を始めるのが全体の開始になるという。池上はちょっと緊張していた。演奏時間はせいぜい2分くらいだ。

 雨がどんどんひどくなる。池上と小生以外のメンバーは、キャリの案内でカフェで時間をつぶしにいった。

 われわれのリハーサルが始まったのは6時すぎ。雨がいよいよひどい。当初は二人の予定だったが、ロランの提案でもう一人、ジャン=ピエール・ラフィットという葦のクラリネットを吹く出腹ちょいはげオールバック快活中年が加わる。

 リハーサルはほんの5分ほど。池上は越天楽を演奏し、小生とジャン=ピエールはそれにしたがって即興する。

 激しい雨の中をみんなで近所のカフェへ。向かいの店の名前が「7つの大罪」だった。怒り、嫉妬、誇り、妬み、強欲、渇望などなどについて、ヤシャとキャリと話す。橋本が購入した腕時計のおまけについてきて小さな子供用の目座まし時計に喜んでいる。レセプションでは食べ物がでるというのでカフェではなにも食べず。

 7:30からフェスティバルのレセプションの予定だった。広場横の狭い坂なりの通りに関係者らが並び始め、レセプションの開始を待つ。けっこう待たされた。

 8時ころ、ようやくレセプション会場へ。入り口にはスタッフが立ってパンフを配っている。入ると、左の壁際にパテやハムのせパンのつまみ、お菓子などが並んでいる。会場の半分くらいが関係者らしく、開始を待つ。ところが、なかなか始まらない。それに寒い。市長の到着を待っているのだという。それまでお預けなのだ。待っている間、ブラスバンドの演奏。チューバ、トランペット、トロンボーン、スネアドラム、バスドラム、バンジョー、サキソフォのバンドで、ロックンロールのような軽快で複雑なリズムの音楽をならす。francephotosみなは拍手喝采だ。ようやく市長が現れて、長いスピーチの後、参加者はなだれをうったように食べ物コーナーに群がる。

 ジャマイカ出身だという明るい中年女性、ミッチー。近藤が子供たちの声を録音していた。ついでだから母親にいってなにかしゃべってもらったらどうか、と小生がいう。キャリに通訳してもらい、実現。ついでに市長の言葉もとる。40代後半に見える市長は、愛想を振りまきつつしっかりと自分を印象付けようとしゃべりまくる。雨が降ったり止んだりと天気は安定しない。

 9:30、雨は小ぶりになってきたがまだ降り続いている。広場には徐々に傘を持った人が集まってきた。ロランの合図で、池上がまず舞台に出て、越天楽を演奏し始める。しばらくして小生が加わる。さらにジャン=ピエールが加わり、いよいよ前夜祭コンサートが始まった。われわれの演奏が終わると、両サイドのミュージシャンが、ムソルグスキーらしい音楽を始めた。それを合図にわれわれは舞台を降りた。francephotos

 池上が、雪駄の入った紙袋をレセプション会場に忘れたといって戻ったが、すでに誰かが持っていったようだった。

 前列で傘をさして立っていたヤシャ、キャリ、他のメンバーに合流した。舞台では、5台のバグパイプの演奏。この地方の音楽だという。次にヤシャの薦めるジプシーのブラスバンドが出ることになっていて楽しみにしていたが、雨がやまないので帰ることにした。11時前。

 居間で、暖炉を燃やし簡単なスープとパン、ワインの夜食。ヤシャとキャリは明日の準備に頭が忙しい。明日は、8:30には家をでるという。近藤君に、いっしょにいってほしいという。

 1時ころ就寝。


7月10日(土)
 ヤシャ、キャリ、近藤はコスミック・ティーハウスの飾りつけを満載して出発。残った南、橋本、佐野、池上がキッチンに入ってくる。橋本がスパゲティを作った。ペパロンチーニ。なかなかにうまい。

 11時過ぎにヤシャが戻ってきたので全員でThiersへ向かう。今日は天気がいいので安心する。

 12時ころ到着。市内はなんとなくざわざわとして祭りの雰囲気があった。情報センター真下の学校敷地でスタッフに会う。美人のキャロル、われわれの案内役イザベル。さしあたり荷物を学校の中の一室に置けることになった。もっとも、いちいちスタッフにいってカギを開けてもらわなければならない。今日から二日間の食券や資料をもらう。ここと宿泊先の送り迎えはクリストフが担当。スタッフ受け付けのそばの空間では、ジャン=ピエールが子供たち相手に葦の楽器つくりワークショップをやっていた。francephotos

 キャリの手伝いをしていた近藤も合流。一緒に会場の下見に行くことにする。キャロルに近藤の設備設置用のテーブルを頼んだ。大丈夫だという。会場は問題ないという。ここで、二日分の食券をもらう。一枚多いので返すようにとキャロルがいう。原則にこだわる石頭美人だとヤシャがぼやく。

 川を見下ろすところに屋根だけのある広い食堂でランチをとる。

 向かいには急勾配の坂なりに住宅が広がっていた。francephotos

 食堂はビユッフェスタイル。自分でパンを切り、プラスチックの皿にサラダ、ワインをとる。暖かいものもあった。小生はハムとポテト炒め。味はなかなかだ。

 食事後、いったん荷物を学校におき、イザベルの案内でCour de l'oeil rue conchetteの会場に向かう。販売用CDを両手に持ったヤシャもくる。

 狭い坂道を上っていくと、両側にはサンドイッチや飲み物、ナイフの店が並んでいる。francephotos

 会場は、細い天井の低い通路をわたった突き当たり。とても狭い中庭だ。パイプ椅子が並べられているだけで他になにもない。スピーカーもミキサーもなにもない。これでは近藤もなにもできない。話しがまったく違う。リュックを背負った黒服の青年スタッフ。トランシーバーをもっている。彼に聞くと、そういう設備はここにはないという。ヤシャは、こりゃひどい、伝えていたのにという。技術担当者に電話して確認したが、結局ここではマイクなしでやらざるを得ない。

 途中でヤシャと分かれて学校本部に戻る。笑顔石頭美人キャロルが「すべてOKだったでしょう」というが、「すべてだめだ」と答える。まあ、仕方がない。荷物室で着替え、イザベルとともに会場へ。最初の小生の部分は、民謡と池上とのセッションにすることにした。演奏するところは中庭を見下ろす階段部分。

 最上川船歌、長持ち歌、伊谷民謡と雅楽曲の培臚(ばいろ)。曲のたびに説明しそれをイザベルに通訳してもらう。聴衆は30人ほど。入れ替わりに客がやってくる。前夜、われわれの後にサキソフォンを演奏したフランクもいた。ヤシャたちは、隣町エティエンヌのイラク戦争反対デモのときにフランク青年と知り合ったという。すばらしい音楽家で、サックス以外にも歌もうまいし、アコーディオンも弾く。おそらくフランス一のサックス吹きだろうとヤシャがいう。どもりだが、いったん舞台にあがると饒舌になる。

 後半は七聲会のみ。最後にセッションをすることになっていたが、30分バージョンになったので予定時間になってしまった。イザベルは不思議な感じでとてもよかったという。途中でロランの顔も見えた。CDは3枚売れた。francephotosfrancephotosfrancephotos

 われわれの次の音楽は、クラブサン、フルートトラベルソー2本編成のバロック音楽。昔やったことのある曲のようだった。ちょっと聞いて会場を出て、夕方の会場rou du Transvaalの下見。そこにはちゃんとしたPAがあり、舞台ではフルーティストとコントラバス奏者がリハーサルをしていた。音もいいのでひと安心。

 いったんヤシャとキャリの店、コスミック・テイーハウスへ。広場ではバルカン音楽のバンドが演奏し、それを多くの人が見ている。サンドイッチ、カフェ、クレープ、アイスクリーム、特産の刃物屋が並んでいる。コスミック・テイーハウスは4、5階建ての古い建物にはさまれた狭い坂の通りをくだったところにある。francephotos断崖に沿って木製のワゴン、テーブル、椅子、喫茶用備品、のぼり、大きな画布の看板の前後に、風鈴、池上の書いた垂れ幕、英語、フランス語で書かれた「平和」などの文字の垂れ幕。向かいのナイフ屋はL'homme des Bois=木の人という名前。広場の賑わいとはうって変わってあまり人影は見えない。こんなんで商売になるのだろうか。
 バグパイプ、オーボエのような楽器、ドラムの3人のミュージシャンがにぎやかな音を出しながらティーハウスにやってきた。ちょっと聞くとアイリッシュ音楽のようだが、フランスの地方の音楽だ。彼らの一人が、小指をつないでステップをとる踊りを始め、観客に参加を呼びかける。ヤシャ、キャリ、近藤が加わる。近藤はおぼつかないステップだ。francephotos

 5時半に近藤、イザベルと会場に向かう。PAの山羊髭フィリップスとうち合わせ。近藤はセッティグを始める。小生は舞台に座ってマイクのテスト。近藤のセッティングがなかなか終わらない。CDドローンとのバランスがとれない。

 6時開演のはずだが、5:50になって舞台から見ると、近藤がいない。トランスを忘れたのでとりに行っていると、橋本がいう。ドローンとのリハーサルはできなくなった。

 戻ってきた近藤は、今度はドローンCDを忘れたといってまたいなくなった。開演ぎりぎりになって近藤は戻り、ドローンを流してもらったが、ハウリングがひどい。低いノイズが会場に響き渡る。なかなか演奏に集中できない。さらに、左手の階段の上の数人が大きな声でしゃべるのでますます集中できない。彼らをにらんでしばらく演奏を中断した。

 演奏は、都節によるアーラープ、ジョール、ジャーラー。伊谷谷の民謡をまず吹いてそれからインド式に移る。10分ほどしてからPAも安定し、集中して演奏した。数十人の聴衆から拍手を受ける。まあまあ、うまく行ったかもしれない。終わった後、近藤のところにいくと、すみません、すみませんとあやまる。彼の頭は飛んでいたのだろう。初めての舞台で、二度もの度忘れとPAの不調。彼にとってはさんざんな初舞台だった。どんなことになって対応できるようにしなければ、と近藤にいうと、まったくその通りですねと反省している。素直だ。イザベルに聞くと、最初のPAのないときのほうがよかったといった。francephotos

 CDは結構売れた。サインを求める人も数人いた。ロランの顔も見えた。小生の後に演奏することになっていたグループの一人が、バーンスリーやハリジーのことを知っていた。

 近藤のセッティングはそのままにして、みんなで再び、ティーハウスへ。近藤がしきりにあやまる。

 8:30の七聲会公演のために再び同じ会場へ。会場ではベトナム人奏者がさまざまな笛を演奏している。流暢なフランス語で曲ごとに解説し、得意そうな表情を見せる。鼻で二本の笛を吹く。最後はCDのカラオケで西洋フルートを演奏。予定時間よりもかなり超過して彼の演奏が終わった。

 リハーサルもそこそこら七聲会の本番。ティーハウスにいたヤシャたちの知りあいもやってきた。聲明源流の阿弥陀経部分を一緒にやる。近藤はかなり遠慮がちに音を出していた。途中でいかにも機械の音があり、それをヤシャは気に入らないという。

 ともあれ、無事に終わって学校に荷物置き場に向かう。ここでヤシャと分かれる。街角からいろんな音楽が聞こえてくる。

 食堂で夕食。ハムとポテト、サラダ、ワイン、パン。食事が終わり、クリストフとエリックの車で宿舎まで送ってもらう。

 宿舎は、大学の寮で、一部屋に4つのベッド。南、橋本、佐野、池上が一部屋、小生と近藤が一部屋。われわれの部屋の間に細長い洗面所、シャワー、トイレがある。francephotos

 近藤、池上と1時ころまで話す。


7月11日(日)
 8時起床。1階の奥の大きな部屋が食堂になっていた。盆にパン、バター、ジュース。小生はコーヒーだけもらう。背の小さいマリと食堂ねえチャンがいてサービスしてくれる。マリはティエール市役所の職員。タバコを吸いに外に出ると、初老の男が白いテントの下の段ボール製の椅子に腰かけていた。英語は通じない。なんとかして聞くと、ルーマニアからのミュージシャンらしい。ほどなく、ひょろっとした、髪の短い青年が「やあ」と椅子に腰をおろす。フランス人だった。母親がルーマニア人なのでロマ語が分かるという。彼によれば、初老の男はジプシーのミュージシャンで、トランペットを吹く。やがて、数人の彼の仲間も加わってきた。みなタバコを吸いにやってきたのだ。中年の男たち。たくましい生活感と放浪の自由さが表情にあるような気がした。

 帰ってトイレにいると、佐野がシャワーを浴びていた。水のシャワーらしい。いちいち、大声でひゃっ、とか、ホワット、とか叫び、うるさいことこの上ない。

 昨日、舞台で女性のコントラバス奏者とフルートを演奏していた青年がきた。小生の演奏を聞いたらしい。バーンスリーもハリジーも知っていた。彼の木製のフルートを見せてもらい、代わりに小生のバーンスリーを見せる。彼は指穴を抑えて、なんという指穴間隔の広さだとびっくりしている。指穴を押さえずに音を出す。昨日、ヤシャが小生のCDを彼のものと交換していた。

 11時に下に降りると、池上、佐野がタバコを吸って話していた。そうこうしているうちにみなが荷物を持ってやってきた。11:20にエリックとクリストフがやってきた。11時の約束だったが、オーベルニュ時間だ。宿舎と会場は以外と近い。歩けないことはない距離だ。

 12時前に、石頭美人キャロルとサングラスのフェビアンにいったん荷物室を開けてもらう。室内にはペルー人の男たちが部屋を利用していた。

 食堂へ。食堂はまだ準備ができていなく、われわれが一番だった。ラムとポテト、サラダ。悪くない食事だ。

 コスミック・ティーハウスへ。昨日とはうって代わってかなりの人たちが座っていた。ヤシャは、今日の公演時間と会場が代わったという。まず、小生と七聲会がここで3時から4時まで。ついで、昨日のrou du Transvaalで七聲会が6:30から。ヤシャは、ギターアンプを持ってきていた。

 ティーハウスでだらだらしているとすぐに時間がやってきた。われわれの前は、8人のバスーンだけのアンサンブル。バス・バスーンがリーダーらしい。キャリが、あれはとても難しい楽器だという。佐野が抹茶を提供している。ミッチーが店を手伝っている。Thiersの音楽学校で30年近くヴァイオリンを教えているという大野朋子さんが来ていた。オーベルニュの交響楽団でチェロを弾いている日本人のご主人は長野、本人は東京出身だという。娘はヴァイオリンを森ゆうこさんという先生に習うために長岡京にいる。森さんは、以前はトロントにいたので娘もトロントにいたという。先生の移動に合わせて追いかけているようだ。長岡京で室内楽をやっているという森さんの話はどこかで聞いたことがある。

 入院している八尾のことを話したら、領事館の人に話してみるといった。領事館はリヨンにある。病院かヤシャ宅から空港への移動が大変でもし車があれば助かるのですが、といったら考え込んでいた。ご主人と6時からの七聲会の公演を聞きに行くといっていた。

 時間が来たので、まず池上と二人で坂の上の一番人の多いコーナーまで行き、客呼びこみ演奏を始める。ところが、さらに上からバクパイプの一団が猛烈な音をならしながら行進してきた。彼らが別の通りを進んでいくのを確認してわれわれは演奏開始。数人がわれわれの後をついて来る。そのまま舞台に上がり、これからの演奏のことなどを紹介する。聴衆はいっぱいになっていた。francephotos

 舞台ではまず、池上に長いソロをやってもらう。ほとんど満席の客席にひちりきの音が滑り落ちる。みなしんみりと聞く。このような、屋外のすぼまった空間で、しかも外国でひちりきをじっと聞くのは不思議な感覚だ。

 池上と小生のセッション。ついでD管で民謡即興メドレー。例によって最上川舟歌、真室川音頭、伊谷節。ここまで30分。ついで、七聲会と近藤君に引き渡す。小生が紹介し、それをヤシャが通訳する。舞台天井に張ってある2本の針金から吊ったのぼりが佐野の頭を隠すので、ヤシャとキャリがあわてて竹ざおを使って移動させる。

 しばらくジャマイカ出身のミッチーとしゃべる。francephotos彼女はパリの大学に留学に来た。そこで、演劇をやっていた今のフランス人の夫と知りあい結婚。以来、フランスに住んでいる。ケアルムという名前の15になる息子がいる。

 終わってしばらくティーハウスを手伝ったりおしゃべりをする。荷物は、ヤシャたちがミッチーの夫の劇団から借りたという木製のワゴンにいれる。

 6時にrou du Transvaalへ移動。舞台では白いパンツスーツの女性ボーカリスト、ギター、フルート、パーカッションのバンドがボサノバを演奏していた。francephotos彼らが終わってすぐにサウンドチェック。七聲会はすでに衣装をつけて舞台に座っているのでいつでも始められる。6時25分になって、ヤシャの紹介の後、小生がソロで五木の子守唄からの即興を5分ほどやる。ついで、七聲会。初夜礼賛、散華のあと、聲明源流+阿弥陀経。今度は近藤もしっかりと加わってきた。なかなかの最終公演だった。終わったら、何人かが質問にくる。散華の花は子供たちに人気だ。奥さんがチベット仏教を知っているという、針金のようなとても長身の男と話す。彼はヤシャの知りあいで、街の飾りつけ責任者だった。

 終了後、いったん荷物預け場所に荷物を預け、ティーハウス片付けの手伝い。人数が多いので短時間で片付けが終わり、全員で情報センターのある広場へいった。ここでは8:30から、ジプシーブラスバンドの対抗戦が予定されている。

 われわれ全員、広場のカフェでビールやワインを飲んで待つ。ところが、予定時間直前になって雨が降りだしてきた。レセプションで長い演説をやった市長がわれわれのところにきてちょっとおしゃべり。

 小雨のなか、バンドがやってきた。総勢10ほどのバンド。小生が今朝宿舎であった男たちだ。彼らは円陣を組、なかで奏者たちが演奏合戦。まわりの観客がはやしたてる。さらに別のバンドも加わる。ロランがきてわれわれに感謝する。francephotos

 このバンドが終わると他のミュージシャンたちが一斉にやってくるかもしれない、ということで途中で全員食堂へ。後で、ミッチー、メガネの聡明そうな息子ケアルムも加わる。橋本、南、池上たちはワインを相当飲んでいる。暖かい食事はパスタとジャガイモ。ミュージシャンたちも徐々に集まってきた。舞台で演奏していた顔見知りたちだ。キャリがミニ・ブラッチと呼んでいたバンドもいた。若い長身の女性のクラリネットはなかなかだった。猛烈なスピードで演奏する。

 ディナーが終わり、ヤシャとクリストフの車に分乗して宿舎へ。10時すぎだった。ここでヤシャと分かれる。

 宿舎では、小生と近藤の部屋にみなが集まり、しゃべる。2時半ころ就寝。


7月12日(月)
 8時半ころ起床。202号室のシャワーを浴びる。われわれの部屋のシャワーが水しか出ないといったら、小マリが202は出るといってくれたからだ。昨日、南と池上が浴びたが、近藤のときはあまり暖かくなかった。小生のときは大丈夫だった。しかし、湯はボタンを押して数秒しか続かない。

 大野さんから電話だ、と近藤が携帯を示す。小マリの電話機だった。八尾の件でリヨン領事館に電話した。大野夫妻は先約があって手伝えない。昨日は途中まで七聲会の公演を聞いたが疲れていたので途中で帰った。たった今、領事館と電話したので、すぐに電話をしてほしいという。すぐに池上の携帯を借りて領事館に電話。30代らしい男性が出た。領事館としては、命にかかわること以外にはあまり手助けできない。つまり、車を宿に送ることはできない。車は1台しかないのでまわせない。ただ、航空会社に車椅子や座席の取り扱いについて電話することはできる。ということで、航空会社へは領事館から話してもらうことになった。外交官からの電話は効果があるだろう。

 11時すぎに、ヤシャとキャリがやってきた。キャリの白い小さなルノーには、荷物をつんだ小さな牽引車をひいている。

 昼過ぎに帰宅。小生が残りご飯とツナ缶をつかっておじやを作った。サラダとおじやとワイン。南、橋本、佐野がかなりワインを飲む。

 3時過ぎにヤシャとヴィシーの病院に向かう。他のメンバーは昼寝のようだった。

 まず、受け付けで退院手続き。保険、医者のレポートなど。

 手続きを進めるために八尾の病室へ行き、車椅子に乗せて八尾を会計につれてくる。支払いは、約2000ユーロだった。八尾は、安く済んで良かったとサインをする。

 前日に入院費用がいくらかかるかをみんなで賭けをした。小生は50万。橋本が63万、南が53万、池上が48万、佐野が45万、近藤が30万。結局、近藤が勝ったことになる。実はすでに前日、ヤシャが病院に金額を聞いていて、出金限度額のない佐野のアメックス・ゴールドカードが不要だということが分かっていた。そのため、佐野の同乗は必要がないことが分かっていた。

 看護婦詰め所で、毎24時間に一本を打つようにと4本の注射器、痛み止め、血栓防止の服用薬をもらう。長時間の飛行機搭乗は、足がむくんだりして危険なのだ。

 当初は、移動車台数の関係で、この病院から直接救急車で空港まで運んでもらうという案もあった。それだと、ここにもう一泊しなければならない。八尾にもう一泊どうか、といったら、とにかく早くここを出たいという。ということで、すぐさま退院して、ヤシャ宅に運ぶという選択になった。

 八尾の入院中の話を車内で聞く。手術はそれほどの苦痛ではなかった。脊椎注射はとても痛いと聞いていたがそれほどでもなく、なんの痛みも感じないうちに手術は終わっていた。痛かったのは、昨日、患部にたまった血を抜くとき。前触れもなくいきなりやられて、とても痛かった。食事は、塩味が薄いがまあまあ。ただ、量の多さには辟易した。また、昨日はワインも出た。毎日、本を読んだり、池上のiPodで音楽を聞いていた。隣の96歳になる男性がしきりに話しかけるがまったく理解できない。足に指でなぞって文字を書いてくれるのだが、もちろんそれも分からない。

 ヤシャはヴィシーの街を案内しつつ走る。多くの温泉療養ホテルが見えた。途中の街の薬局で松葉杖を購入。24ユーロ。この街はヤシャたちが買い物にくるところ。なんの産業もない。ただ、ここの市長がフランス政府の財務大臣になったので相当にお金が落ちた。その市長は音楽が嫌いだという。

 帰宅すると、池上が出迎えた。他の人たちはまだ寝ている。彼らには、病院から空港直行という話しをしていたが、池上は、戻ってくるのではと思っていたという。大木のところで八尾はタバコをうまそうに吸う。そうこうしているうちに皆が集まりだした。

 今日は友人たちを呼んでパーティーだとキャリが料理に忙しい。七聲会宿舎のオーナー、ベルナール氏も見えた。無骨そうなメガネの中年で、手が硬い。近くの工場で技術者をしているという。宿舎にあるものをとりにカギを借りに来たのだ。francephotos

 ミッチー、夫のエリック、息子のケアルムが来て、居間で談笑。ケアルムは今月25日に16歳になる。七聲会の面々もテラスで八尾を囲みつつ、ワインとキャリの用意したカナッペをとる。

 ミッチーたちが帰った後、3階の部屋で鎌チャンの映画を見た。橋本は宿舎にもどっていた。途中、小生はベッドでうたた寝をした。

 ヤシャは、低放射能と疾病との関係を単純化しすぎているんじゃないか、女性の英語ナレーションは最悪だという。鎌チャンはいい仕事をしたと、感心していた。

 映画が終わって全員が宿舎に帰り、小生も就寝。12時ころ。


7月13日(火)
 4時半起床。あたりはまだ暗い。5時にはキャリも起きだしてきた。5時半にはみなも荷物をもって集まってきた。6時には、パンパリーナのスタッフ、クリストフとエリックがくることになっていたが、結局やってきたのは6時40分ころ。francephotosここで、ヤシャとキャリと分かれる。彼らは、17日にブリニョルにくる予定。飼い猫のスウィーツに甲状腺障害があるため留守にできない。17日には、猫もつれてくるという。

 小生は、エリックの車。後ろの席に八尾と池上が同乗。クリストフ車に、南、佐野、橋本、近藤。高速を飛ばして9時前に、リヨンのサテグジュペリ空港到着。

 ルフトハンザのチェックインカウンターで、八尾の車椅子を用意してもらう。francephotos帰国組を送りだした小生はようやく一人になった。 後で聞くと、ウィーンの空港ではオーストリア航空の職員が車椅子をもって待ち構え、丁重に八尾を機内に案内したという。リヨンの日本領事館からの電話が伝わっていたようだ。