HIROS南仏ひとり旅2004

 France04photos帰国組をリヨンのサテグジュペリ空港で送りだし、バスでLyon Part Dieu駅へ。神様と別れる駅?

 大きな駅だ。構内のキップ売り場でトゥーロン行きTGVのチケットを現金で購入。53ユーロ。11:47発、14:14にトゥーロン。16号車72番席。進行方向とは逆向きだ。

 本を読もうと思ったが、頭が重いのでなにもできない。うつらうつらしているうちにAvinion TGVの駅を通過した。プラットホームに、アビニヨンのダンス・フェスティバルのポスター。しばらくして、サンヴィクトワールの山並が見え、海が現れる。99年にアクト・コウベのあったアルハンブラ劇場がたしか近くにあるはずだ。

 ほどなくマルセイユ駅に到着。かなりの長いあいだ停車していたので、ふと乗りかえる必要があったのかと不安になった。そのまま待っていると列車は逆の方向に走りだした。つまり、ここからは進行方向の席に座ることになる。途中、カシス駅を通過すると地中海が見え隠れし、強い太陽光線がまぶしい。白い岩の混じったなだらかな山並と、緑の間に点在する赤茶色の瓦屋根とベージュの壁の家。コートダジュールだ。France04photos

 予定どおりトゥーロン駅に到着。バールの姿が見えた。抱き合って2年ぶりの再会を喜ぶ。大丈夫だと拒んだが、当年70歳のバールはわたしの重いスーツケースをもって歩き出した。France04photos

 トゥーロンは、比較的大きな街だ。軍港があったためドイツ軍の激しい爆撃にあった。特に海岸沿いの建てものはほとんどなくなり、新しい建物になったという。

 バールの赤く小さなルノーに乗り一路、彼の家のあるサン・フィロメネへ向かう。途中、事故のために渋滞していた。町並みを通りぬけどんどん山に向かう。同じ道を99年に来たはずなのに、印象はかなり違っている。家は山に囲まれていると思っていたが、山の中腹だった。プジェ・ヴィルの集落と、海軍用飛行場を見下ろす。

 France04photosFrance04photos最近できたという舗装をくだり、でこぼこの狭い山道を降りると、見覚えのある建物が見えてきた。玄関のところで、バールが小さな豚をさす。最近どこからともなくやってきて玄関先を住みかにしたらしい。首に赤いバンダナを巻いている。名前はジェラルディン。人なつこい豚で、歩くと後をついてくる。

France04photosFrance04photos 部屋に入ると、バールの配偶者マリーと、彼女の孫のペネローペがいた。ペネローペは15歳の女の子。夏休みの休暇でミシガンからやってきた。

 バールとしばらく話す。彼は、1934年、パロアルト生まれ。小さなビジネスをやっていた父親とごく普通の母親。13歳のときに学校の音楽クラブでコントラバスを見た。見た瞬間、この楽器は自分の楽器だというイメージが浮かび、教師に告げた。なんの基礎訓練も受けないまま、いきなりオーケストラで演奏を始める。そのうちにギャラも入るようになった。上の兄も音楽に目覚め、トランペット、後にトロンボーン、そして作曲家、音楽教師となる。二人とも、退屈な家にいるのがいやだったらしい。

France04photos 終戦後はちょうどジャズの革命が起きつつあったころだ。兄は、まだ無名だったMJQのジョン・ルイスらと知りあった。その関係でオーネット・コールマンらと知りあいになった。バールは次第にジャズに目覚める。22歳のころ、近所のチェロ奏者にクラシックの手ほどきを受けるが、つまらないと思って止める。プロのコントラバス奏者として活動を続け、ほどなく兄とともにニューヨークに出る。ハーレムのアポロ劇場などでも演奏した。バンドのなかでは唯一の白人だったが、逆差別はほとんどなかったという。コルトレーン、マイルス・デイビスなどにも会っている。

 1964年、第1回目のベルリン・ジャズ・フェスティバルに、ジョージ・ラッセル・セクステットのメンバーとして参加。フェスティバルにに、マイルス・デイビス、セロニアス・モンクなど、アメリカのそうそうたるジャズプレーヤーたちが参加した。

 1972年、演劇の音楽監督としてマルセイユに滞在。8人のミュージシャン、5人のオペラ歌手のために曲を書いて演奏。それがきっかけになって、この地方に住みつくことになった。

 寝不足だったので途中で昼寝。2時間ほど、2階の窓際のベッドスペースで寝た。France04photos

 8時前にチャペルで練習。バールの練習にからむ。最高の音だ。

 9時に夕食。11時ころまでしゃべり就寝。

 

 


7月14日(水)
France04photos 8時起床。台所でコーヒーを作る。重そうな電気湯沸かし。

 家のまわりを散歩する。赤いバンダナを巻いたジェラルディンがくっついてくる。こちらが立ち止まると、彼女もこちらを見上げて立ち止まる。

 10時、チャペルで練習。プログラムを考える。最初は、1.17.1995。バールにEのドローンを流してもらう。一通りわたしの演奏の流れを説明する。バールは即座に了解する。別のものは、最上川船歌からカオスへ向かうような構成を提案。ついで、バールの曲をもとにした即興。コントラバスとのセッションはよくなりそうだ。もっとも、バールはピカイチのベーシストだから当然だ。練習の合間に男と息子らしい三人がチャペル見物にやってきてしばらくわれわれの練習を聞いていた。このチャペルは重要な史跡として一般にも公開されているのだ。

 ランチ前にアクト・コウベ・フランスの代表であるマガリがやってきた。短い髪、茶のくたっとしたシャツ、黒いズボンに黒い皮のつっかけ。まるで少年のような表情。91年以来ほとんど変わっていない。France04photos

 いっしょにランチ。メキシコ風のタコス。円盤状の薄いチャパティのうえに、煮豆、トマト、たまねぎ、ひき肉の煮物、レタスなどをのせ、くるくるっと巻いて食べる。地元のロゼがおいしい。

 しばらくして、バール、マガリとサンマキシマンのジェニーナの家に向かう。下の村の郵便局で手紙を投函。途中で野生アニスをひっこぬくようにバールにいわれる。アニスは、パスティスの材料だ。パスティスはこのへんでもよく作られていたらしいが最近は土地が乾燥してあまりなくなったらしい。

 見なれたサン・マキシマンの町が見えてきた。幹線道路を右に外れて未舗装の山道を上っていく。途中に、前にはなかった住宅が立っていた。

France04photos アランの家についたのは、3時過ぎ。ジェニーナが迎える。灰色の薄いブラウス、茶のスカート、耳元には先細りの雲のような黒いイヤリング。口紅をさしている。表情はとても明るく美しい。

 桃、梨などをワインやシナモンで煮てミントを添えたもの、クッキー、エスプレッソを出してくれる。わたしは、家全体、かつて一緒に飲んだ暖炉のある部屋などを写真にとる。
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 ジェニーナは、今年の3月1日に亡くなったアラン・ディオの膨大な作品の整理で毎日忙しいという。大きな家の掃除、植物の世話、4匹の猫の世話。

 マルセイユにガールフレンドと住んでいる息子のアレックスは週に1回訪れる。アレックスは、マルセイユの沖合いの島への観光客のためのボート乗り場で仕事をしている。シーズン中は忙しいが、オフや嵐のときはひまになる。家に帰って絵を描いたり、ターンテーブルでスクラッチをしている。

 彼女は、1966年の個展以来のアランの作品を整理し、写真にとり、友人に頼んでそれらをホームページに掲載するという。

 バールとマガリとフランス語でいろいろしゃべっているので、一部しか理解できないが、ジェニーナはジョークを交えて過去のことや今やっていることなどを話している。とても積極的だ。

 隣に住んでいたマイラは、引っ越していなかった。

 01年の来神時や最近のもの、昔のもの、赤ん坊のアレックスを抱き抱えているものなど、写真を見せてくれる。チーズを切っている写真は、東野とまりが来たときにまりが撮ったものだ。東野のカレンダーを気に入っていた。

France04photosFrance04photosFrance04photos アトリエを案内。タバコの吸いさし、鉛筆、消しゴム、虫メガネなどこまごまとしたものが乗った机、大小のドローイング作品、晩年の段ボール切りぬきの作品。建物の基礎構造に問題があり、アトリエの真中に亀裂が入っている。

 6時すぎにアラン宅を出る。

 8時ころマガリが帰宅。明日のわたしのカレー夕食にくることをなった。9時、夕食。白身魚のオーブン蒸し、カリフラワー、にんじん、さやインゲンのサラダ、煮たジャガイモ。

 遠くで花火の音がしていた。今日は、パリ祭なのだ。

 夕食後、バールがどのようにしてここに住むことになったのかを聞く。

 

 1972の夏、パリに住んでいたバールに、マルセイユでの演劇公演の音楽監督の話しがきた。作曲作品の担当は当時有名な金持ちの作曲家、即興部門にはバールが指名された。

 音楽のうち合わせのため、作曲家の差し回した運転手つきロールスロイスでパリ郊外にある邸宅に行った。着くと、その作曲家は整髪に行くと出ていってしまう。彼が帰ってくると今度はパーティーだとなり、打ち合わせどころではない。結局うち合わせはできずにパリに戻った。また、あるときは、作曲家の妻の所有というマルセイユ沖の島に案内された。有名な映画監督、俳優、音楽家、オペラ歌手、ダンサーなどが招かれた。そこに、マルセイユの劇場支配人も招かれた。ところが、明後日からリハーサルだというのに、その作曲家はなにも書いていない。支配人は怒り狂い、その作曲家を即座にくびにした。譜面に書いて作曲したことがなかったバールに、その仕事が回ってきた。その深夜、マルセイユに借りていたアパートにピアノが運び込まれた。バールは毎日徹夜で曲を書き上げた。一日2時間ほどの睡眠で、夜は譜面を書き、昼はリハーサルや公演。公演はほぼ半年間。ついで劇団はフランスツアーを行い、最後の公演地がアビニョンだった。

 劇団のリハーサル室として使っていたアビニョン古い洞窟のような教会があった。公演の終わった団員たちも去った後もしばらく滞在していたら、教会の管理者である司祭が、もしよかったらここに住んでもいいといった。それも面白いと、バールとマリーは住み始める。それから何度かマルセイユ近辺の仕事をするうちに、南仏に住むのも悪くないと思った。そこでバールは、近くのいい物件を探し出した。そのうち、プジェ・ヴィルの山腹に立つ見捨てられたチャペルを発見し、村の司祭に借りれないかときいた。当時は廃墟だった。当初、村人はヒッピー風の長髪アメリカ人ミュージシャンを胡散臭く思っていたらしく、彼らが住み始めることを歓迎してはいないようだった。

 そのころ、アメリカ人女性ダンサーのパリ・オペラ座公演シリーズの音楽を請け負った。当時はオペラは斜陽期だった。ヨーロッパ中のオペラ劇場の再生を請け負ったスイス人がいた。その彼が、再生のための公演としてアメリカ人ダンサーの公演をやることになった。バールはその公演で改修費用を稼いだ。

 オペラ座で仕事をしているということが村人に効いたのか、そのチャペルを無償で貸してくれることになった。1974年のことだ。しかし当初は、電気、水道、ガス、電話もそしてトイレもない。電気がついたのは実に10年たってからだった。棄てられていた木製のドアの真ん中を長方形にくりぬき、それを穴の上に差し渡してトイレにしていたという。「星を見ながらオシッコするのも悪くないわよ」「ロウソクで煮炊きをするのはなかなか難しいわよ」などとマリーがときどき口を挟んだ。

 というような話しを聞いている内に11時過ぎとなり、就寝。


7月15日(木)
 8時起床。マリーとペネローペはまだ寝ていたが、バールは既に起きて下にいた。France04photos

 バールが会長をしている世界ダブルベース協会の雑誌に、バールのエッセイがあった。この協会の本部はテキサスにあり、2年に1度、バス祭りをやる。会員は世界中で3000人とのこと。

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10時、チャペルで練習。公演の組み立てを決めた。

 1. January 17, 1995.....40分 E

   休憩

 2. 最上川舟歌....10分 F管 Dドローン

 3. C&W....10分 F管

 4. Barre's Song....10分 G管Dドローン

  Barre's Songの譜面をもらう。美しい曲だ。

 練習の後、チキン、ビーフ、レタスをのっけたサルサに台湾のチリソースほふりかけたランチ。

 バールはコピー、銀行、ブリニョルのチェックに出かけるというので同行。プジェ・ヴィルへは99年にワイン醸造所見学で来ているはずだが、町並みの記憶はまったくない。バールが銀行にいっている間、通りをぶらぶらする。カフェが2軒、八百屋が1軒、角にブティックが1軒、フランス国旗を掲げた小さな市役所、隣に観光案内所。日射しが強く相当に暑い。コピーをしに郊外の事務所風の建物へ。France04photosFrance04photosFrance04photos

 スーパーで買い物。今晩はわたしがカレーを作る予定なので、チキン、ココナツミルク、トマトの他、自宅の必要なものをどっさり買う。

 二人で帰宅すると誰もいない。車もない。みなどこかへ出ていったようだ。しばらくして、トゥーロンからマガリの車でたどり着いたバールの娘、クラウディアと彼女の13歳の娘ゾーウィーが着いた。France04photosFrance04photos

 まだ少女のゾーウィーは、早口の英語とフランス語を使う。母のクラウディアは、小柄、青い目、小さな顔、面影はバールによく似ている。パリでロック、ポップなどのプロに声楽を教えている。彼女自身は正式な音楽訓練を受けたことはなく、子供のころからバールについていたので、即興のやり方で独習したのだ。自身もヴォーカリストだ。コロンとした体型で、ミツバチの女王を思わせる。

 マガリ、ペネローペなどに手伝ってもらってカレーを作った。マリーはバスマティのご飯を炊いた。バールは畑からグリーンチリをとってきた。好き嫌いの激しそうなゾーウィーが一口食べ、ワーオといいつつ親指をたてた。

 途中から、ギターを弾く村の青年オーレリアンも加わり、トランプ遊び。France04photos

 

 


7月16日(金)
 7:30起床。バールはすでに出かけていた。パリから2時間ほどの町のフェスティバルに行ったのだ。

 10時から12までチャペルで練習。France04photosランチに昨日の残りのカレーとご飯。マリー、クラウディア、ゾーウィー、ペネローペとわたし。わたし以外はすべて女性という状況。ランチの後「上海」というゲームを始めた。わたしは、2時から4時まで昼寝をしたが、起きても彼女らはまだゲームをやっていた。郵便物を配達しに来た地元女性ジョスリンがゲームに加わった。白地に青の細かい縞の入ったシャツ、ジーンズの小太りの未婚女性で、男兄弟が4人いる。郵便物の配達先でこんなことをやっていていいんだろうか。

 散歩に出る。下の村からサン・フィロメネにいたる山道をどんどん下っていく。オリーブ、ぶどう、洋梨の畑。途中で出会ったのは、石垣を組んでいる上半身裸の男、車に犬を乗せた老人、自転車で山道を上ってくる若い女性。コーナーに竹藪のある舗装道路のところまで行き、再び同じ道を戻った。

 戻ると、まだ女たちがカードをしていた。家の上で、3人の男達が、なにか彫刻らしいものを設置していた。ジェラルディンが彼らにまとわりついている。France04photos

 女たちが買い物に行った。シャワーを浴び、日記を書く。

 買い物から戻ってきた女性たちと今日のディナーのスパゲテイ用ソースを作る。ジョスリンが手伝う。彼女はこの家族と仲良く、アメリカ人アクセントの英語を話そうとする。トマトソースはかなりうまくいった。だんだんここの料理番のような感じになってきた。

 10:30にはベッドに入り就寝。


7月17日(土)
 7時起床。10時から12時まで練習。昼ごろ、なんとなく皆が起きだしてきた。ジェラルディンの姿が見えない。ズッキーニ、ナス、ツナ缶、クノールでスープを作る。今日はめいめいで勝手にランチをとる。1:30 ̄3:00昼寝。

 マリーの話。70年代の後半、バールをたずねて一人の日本人がやってきた。彼自身はちょっとベースを弾く。本職はマッサージ師で、英語もフランス語も話せない。電気のない時代だ。マリーはなんとかコミュニケーションをとろうとするが難しい。ある日、キッチンを自由に使っていいといったら、なんと、ドッグフードに麺をからめて食べたという。誰だろう。

 4:30に「コンサートはばっちりだったけど、移動がくたびれた。ほとんど寝ていないんだ」といいつつバールが戻ってきた。青い半袖のシャツ、黒いジーンズ、帽子。すぐあとに、このチャペルの世話をしているという中年女性アネッテが来た。

 マルセイユ在住の矢吹さん電話。今、ラ・フリッシュにいるという。19日はコンサートがあるので行けないが、明日は多分ここのチャペルでのコンサートにこれるだろうとのこと。

France04photos 8時ころ、クラウディア、バール、わたしの3人でブリニョールの会場に向かう。あたりは薄暗くなっていたので町の様子は分からないが、小さな田舎町だ。会場は、有機野菜などを扱う自然食品店の一角で、グラス片手の多くの招待客でごった返していた。

 

 

France04photos わたしと同じ年齢の小柄なマリオン・ペレスという店のオーナーがわれわれを迎えた。創価学会員だという彼女は英語を話す。われわれの控え室は、野菜や果物などの自然食品や雑貨の並ぶ店内。値札にShitakeの書かれたキノコも売っていた。France04photos

 9時過ぎ、広い円形に配置されたパイプ椅子にお客さんが座り始め、その中心の煉瓦の壁を背にした場所でわれわれは演奏を始めた。わたしはバールの横で椅子に座る。

 1. January 17, 1995.....40分

   休憩

 2. 最上川舟歌....10分

 3. C&W....10分

 4. Barre's Song....10分

 最初の曲では、インド音楽のラーガ・バイラヴィに基づくアーラープなので、バールには延々と同じ音を流し続けてもらった。世界の大御所にドローンをやってもらうのはちょっと気が引けたが、バールは気持ちよさそうに弾く。もちろん途中に彼の長いソロも入れてもらった。

 この曲が終わって休憩となったが、この時点で帰る客もいた。クラウディアは「とっても良かったわよ」と言ってくれたが、ある人々には長すぎたのかもしれないね、とバールと反省。明日はこの曲は最後にしようか、と話す。

 2曲目は、わが山形の民謡をテーマに即興的に拡大したもの。バールの包み込むような低音がとても心地よい。

 3曲目は、速いテンポの即興。カントリー・アンド・ウェスタンだ、とバールはいっていたが、いったいどの部分がそうなのか分からない。とにかくグチャグチャと速い即興の連なりが続く。

 最後の曲は、バールが相当前に作ったという美しいメロディーに基づいた短いもの。この曲をチャペルで練習していたら、クラウディアが「ああ、とても懐かしかった。バール以外の人があの曲を演奏しているのを聴くのは不思議な感じ」といっていた。France04photos

 演奏が終わったのは10時半。三分の二ほどになったお客さんたちから盛大な拍手をもらった。クラウディアが大声で宣伝したわたしのCDも売り切れ。投げ銭もけっこう集まった。さい先の良い南仏初日のコンサートだった。

 片づいた会場にテーブルが設けられ、打ち上げのディナー。やっぱり、フランスはいい。ワインもサラダも、パンもなすの詰め物の料理もみんなおいしい。

「みんな喜んでいたみたいだから、僕らの僕らのライブもまあまあだったね」とバールが運転しながら言うのを聞きつつ1時ころ帰宅。ベッドに入ったらすぐに寝てしまった。


7月18日(日)
France04photos 9時に起きだして下に降りると、ヤシャとキャリが来ていた。今朝4時に自宅のあるサン・ヴィクトール・モンヴィエネを出てきたという。甲状腺障害のために放置できない猫のスウィーツは、友人が留守を預かってくれたので置いてきた。最初は一緒に連れてくると言っていたのだ。

 10時過ぎにチャペルで練習をしていたら、バールがやってきて机やベンチの配置替えをはじめた。そこにヤシャ、キャリ、クラウディア、ペネローペ、ゾーウィーも加わる。ほうきで床をはくとたちどころに埃が舞い始める。雑巾で椅子やベンチを拭く。France04photos

 キッチンへ行くと、ヤシャとキャリがランチをとっていた。わたしも、一昨日のカレーの残りをクラウディアに電子レンジで温めてもらってランチ。トマトをのせたパンとともに食べる。キャリが、イタリア人みたいな食べ方だという。イタリア人は、これにオリーブ油をたらすのだと。そういえば、キャリはイタリア生まれなのだ。今でもアメリカとイタリアのパスポートをもっている。

France04photos 昼寝をしてキッチンに降りると、マガリ、フリッツと、ついこの間まで我が家に居候していたアラン・パパローンが料理の準備をしている。作っていたのは、トマト・プロバンサール。半分に切ったトマトの上にチーズや他の切り刻んだ野菜を乗せてオーブンで焼く。アメリカ生まれのフリッツとは99年以来だ。ちょっと年をとっていた。いかにもヤンキー風の皮肉っぽいしゃべり方は変わっていない。アランはあい変わらず自分のことだけを話す。

 エックス・アン・プロヴァンスに住むコントラバス奏者のリシャール・レアンドルから電話。シルビエ・クニコウが農作業で疲れて運転する気分ではない。車をもっていないリシャールとしてはどうにもならない。前の晩には、クロード、イベットから、展覧会のために行けないと電話があった。リシャール、シルビエ、クロード、イベットはともに2001年に神戸にやってきたアクト・コウベ(以後AK)の仲間だ。

 徐々に人が集まってくる。スキンヘッドのステファノ(AK)も大きな犬イタックをつれてやってきた。パーカッションのフレッド(AK)、対人障害の気味のあるシルビエ・セネシャ(AK)の姿も見えた。France04photosFrance04photosFrance04photosFrance04photos

 村の婦人たちが、玄関前にテーブルをセットしている。コンサートのためであると同時に、こり家の上にある彫刻作品設置の儀式に集まる人々のためだった。

 クラウディアに案内された洗濯物の干し場へ行く。小さな畑があり、サラダ菜と唐辛子が植えてあった。

 村人が二三十人ほど彫刻の前に集まっている。司祭と村の世話役らしい中年女性が立ち、挨拶をしている。屋上から下の谷を見下ろす。快晴だ。普段よりもくっきりしている。

France04photosFrance04photos 5時半にチャペルに。人が続々となかに入ってくる。ほとんど満員だ。100人以上はいただろう。マルセイユを本拠に活動している音楽家の矢吹氏(AK)も見えた。彼のバンブー・オーケストラ・アメリカ・ツアーは大成功だったらしい。明日は、アビニョンから2時間ほどのところで開催されるフェスティバルで演奏するという。

 バールは、ビデオのセッティング。ヤシャもビデオを準備。アランがわたしのと彼のデジカメで撮影。受け付けではキャリがCD販売をひきうけ、クラウディアが寄付金を集める係を担当。

 6時ちょっと過ぎに演奏を始める。バールのフランス語の挨拶と説明。France04photos

 わたしのソロで秋田長持ち唄。ついで、最上川舟唄、C&W、バールのソロ、Barre's Song、最後に長いJanuary 17,1995。終わったのは8:20ころ。

 みなが素晴らしいといってくれるのでなかなかにうれしい。特に真中辺にいた老女は腕をあげて拍手。CDは数枚売れた。全部売れると思っていたが、昨日よりも売れなかった。良かった、良かったというのはお世辞だったのかも知れない。

 外に出ると、みなが玄関前のテーブルに群がり談笑。英語を話すキャロラインが、去年は真智子と川崎がうちに泊まったという。アネッテが、ほらワインがあるから飲んでくれとボトルを示す。

 アランの従兄弟のジャンピエール、芸術的家具職人だという後ろ髪束ね小柄ジャンピエールと話す。家具職人ジャンピエールは下ネタジョークを連発するがもうひとつ面白くない。矢吹氏が通訳してくれるが、彼自身もあまり理解できない。彼は、竹取物語のフランス語版絵本を準備していて、来年には出版される。絵書きを探しているというので東野さんを推薦。彼の絵をいくつか送ってもらうよう頼むことを約束。

 10時近くなって家に入り、サラダ、トマト・プロバンサール、チキンの夕食。日立の仕事で東京に行ったことがあるというイギリス生まれのデザイナー、ジェイムス・トールマンやフリッツらとしばらく建築の話。フランク・ゲイリー、コルビジェ、レンゾ・ピアノ、安藤忠雄などなど。ジェイムスの両親はウィンチェスターに住んでいる。われわれ七聲会はそこで公演をする予定なので10月公演のことを知らせた。

 ヤシャがギターを弾きアメリカの古い唄をうたい始めた。キャリがそれにはもる。タンゴあり、ビートルズあり、わたしが口琴を鳴らすと、隣のフレッドも同じものをとりだし演奏始める。子供達も最初はこわごわだったが、次第に加わり楽しそうだ。わたしもギターで即興の歌を歌った。アランは隅のソファでぽつねんと座っている。シルビエは黙って人の話しを聞くが、突然涙を流したりする。ステファノも歌に加わる。マガリ、アネッテらは黙って聞く。1時過ぎまで盛り上がった。

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 1:30就寝。

 

 


7月19日(月)
 8:30起床。キッチンにいくと、ヤシャが既に起きていて流しの片付けをしていた。ついでバール、クラウディアがやってくる。10時過ぎにはみなが起きだす。マリーがパンケーキを焼いて皆で食べる。バター、ソーセージ、ジャムを上に乗せて食べる。典型的なアメリカの農夫の朝食だという。そのうち、ペネローペ、ゾーウィーもやってきてパンケーキを食べる。ゾーウィーに免税店で買ったタバコのおまけの薄い目ざまし時計をプレゼントしたら、抱きついてきた。ゾーウィーは、今日はみんなでイタリアへ小旅行に出かけるという。

 12時ころ、それぞれ抱擁した後、女性たちは旅行に出かけていった。残ったのは、ヤシャ、キャリ、バールとわたし。昨日の寄付金が約200ユーロ。コイン以外をわたしがもらう。聴衆は、全部で120くらいだろう、とバールがいう。

 2:45、2台の車でマルセイユに向かう。途中のガソリンスタンドでコークを飲む。キャリに1ユーロ借りた。わたしの所持金のうちコインはすべてバールに渡したのだ。

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 4時ころ、マルセイユ市内のライブ・ハウスEXODUSに着いた。日曜日にはさまざまな国籍の人達がバザールをするという広場に近いところにある。

 向かいも隣もカフェ。表のドアには、わたしの写真のある小さなポスターが張られてある。バールの名前は書かれていない。

 ドアをノックすると、色の濃い小柄な若い女性、ついで頭頂部の薄い坊主頭の青年ロラン、髪と髭の豊かなインド人が現れた。ホールは、コンクリートでできたベンチに敷物を敷いた客席が狭い方形の舞台に向かって並んでいる。エアコンが効いているので相当に涼しい。外の暑さがうそのようだ。

 まず、舞台横にある小さな機材室を兼ねた楽屋に荷物をおく。7時過ぎに最初に現れたタミル女性がカレーの夕食を作るという。それまで時間があるので、今晩泊まることになっていたクリスティアン(AK)のアパートへスーツケースをもっていくことにした。途中、広場の果物屋で、ネクタリン、緑、黒のぶどうをお土産に買った。

 クリスティアンのアパートは、アランが5分だといっていたがその倍はかかった。フランス人のいうことはみんなこんな調子なのだ。

 暗く狭い階段をあがって行くと、アランが顔を見せた。バールが、きっとアランはここに居るはずだといった通りだった。ついで、クリスティアンが部屋に案内する。France04photos

 通された居間は、それほど広くはないが、天井が高く、白い壁にアランの絵や小物がほどよくかかり、趣味のよい部屋だった。クリスティアンは、窓際にくっつけてあったテーブルを引き離し、その上に水、果物、ポテトチップスとピーナツの入った小皿を置いた。クリスティアンは、すぐ後ろのこじんまりとしたキッチンとテーブルをこまめに往復するが、アランは座ったまま自分の話しをする。バールは自分のナイフをとりだして、もっていったネクタリンを食べた。France04photos

 クリスティアンの奥さんのサンドリンは、今仕事に行っているのでいない。彼女は、コートダジュール県の役人で音楽全般の担当をしているという。

 わたしの部屋は、クリスティアンのスタジオを通って、道路側の狭いところ。ほとんどをダブルベッドが占めている。隣がトイレ。おそらく普段は夫婦のベッドルームだろう。彼のスタジオのコーナーにコントラバスが立てかけてあった。電子オルガン、鏡餅iMacと大きなディスプレイ、プリンター、小さな古いコンピュータ。

France04photos 7時、みなで会場に戻る。舞台では、ロランが照明の調整などをする。ロランがマイクスタンドを並べようとしていると、バールが怒り出した。マイクはいらない、エアコンは切ってくれ、といっているようだ。ロランが、音量のバランスをとるためにもマイクがいるというが、バールはがんとして聞き入れない。バールはいらいらしているようだった。疲れているのだろう。結局、マイクは使わないことにした。会場はまったくのデッドな空間なのでちょっと心配だったが、最終的にはそれでよかったのかも知れない。

 外にタバコを吸いに行くと、ロランの妻のユウコがいた。背が高くひょろっとした彼女は19のときに東京を離れてマルセイユにやって来て、ロランと知り合い結婚したという。息子はタイチといっていた。

 タミルは聞けば分かるがしゃべれないという細身の若いインド系女性ジェニファーに案内されてホールの2階へ案内された。雑然としてキッチンと道路側に向かったベッドルーム。まるで、若者の安宿の雰囲気だ。しばらくして、ベランダにテーブルと椅子がセットされ、そこでチキン・ビリヤニの夕食をとる。アチャールとライタも出てきた。ちょっとべたっとしたご飯だったがビリヤニはなかなかの味。

 テーブルに座ったのは、バール、ヤシャ、キャリ、最初に会ったタミル女性、ロラン、マドラスから5月にやってきたという南インド音楽の笛奏者ラージャン、ジェニファー。

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 ラージャンはフランス語ができないので、主にわたしと英語とヒンデイー語でしゃべる。ケーララ出身。彼は、以前はICCRに勤めていたが数年前に退職し、カルナータカ音楽の笛奏者や音楽教師をしているという。息子が一人。年齢は42歳。今年2月の世界竹会議では、ジョン・ネプチューンと演奏したという。また、日本のインド祭のとき、グンデチャ兄弟の来日公演のときにともに来日した。有名なインド人演奏家もよく知っていた。七聲会のインド公演の可能性を探っているといったら、ダライ・ラマに頼むのもひとつの方法だという。また、現在のICCRのトップのコンタクトも紹介。おしつけがましくないインド人でなかなかに好感がもてる。

 ジェニファーによれば、ここのライブハウスはリシャールという男が主宰するグループが運営しているという。リハーサルの時にチラッと顔を見せたアフリカ模様のぺたっとした木綿の上下を着た、やぎ髭の男だ。主にインド、アジア、アフリカの音楽、舞踊の会場として使っている。マルセイユではこの種の民族音楽を聞かせる唯一の場所だという。マルセイユの住民はそれほど豊かではないので、客集めがなかなかに大変らしい。

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 開演予定時間の9時になっても人が来ない。そのうち、アレックス(画家、AK)とジェニーナ(故アラン・ディオの妻、アレックスの母親)が来た。さらにドミニク(ダンス、AK)、パスカル(ギター、AK)、バスティアン、リシャール・レアンドル(コントラバス、AK)、99年にアルハンブルでわたしの石笛ボニを聞いたという青年などが集まってきた。開演時間を過ぎても斜め向かいのカフェにいた、レイモン、フランソワ・バスティネリ、バスティアンのガールフレンドのアガタ、オリビエなどもやってきた。4年ぶりに皆と会う。リシャールは、今日、ドミニク、パスカルとともに公演してきたという。

 9:30に開演。最上川舟歌、C&W、Barre's Song、January 17.1995と続けて演奏。内容的にはこれまでで一番よかったかもしれない。バールがとても注意深く静かに演奏。アンコールに口琴とコントラバスの演奏。ヤシャがライブの模様をビデオをとっていた。雑音を避けるためエアコンを切ったので舞台は暑く、汗をかいた。France04photos

 終わってしばらく会場で皆とおしゃべり。ここで、ドミニク、パスカル、リシャールと分かれる。ヤシャ、キャリも今晩の宿である友人宅へ。

France04photos 斜め向かいのカフェで「打ち上げ」。バール、フランソワ(エムーバンスというレーベルのCD制作を行うAK)、やぎ髭リシャール、ラージャン、タミル女性、サンドリン(クリスティアンの妻)、クリスティアン、アラン・パパローン、レイモン・ボニ(ギタリスト、元AK)、バスティアン(コントラバス、レイモンの息子、AK)、アガタ、オリビエ・ウーア(画家、AK)、アレックス、アレックスのガールフレンドのエマニュエル、ジェニーナ。アレックスより年上そうなエマニュエルはしっとりした美人だ。

 ビールで乾杯。それぞれの席が離れているので隣どうしの会話が中心になる。レイモンは、相変わらずジョークだらけだ。France04photos 別れた妻のジュヌヴィエーヴの話も出た。ジュヌヴィエーヴは、01年にアクト・コウベで神戸にやって来た美人のダンサーだ。彼女はガラスで指や足に大怪我を去年入院していたという。今は大部回復した。離婚して2年。

 ハンサム青年バスティアンは、来月、台湾へ行くことにした。その前にレイモンとイタリアのトスカナへ公演に行く。東ヨーロッパやスイスへなど、公演活動も活発だった。顔つきは、アレックスもそうだが、ずいぶん大人の顔になっていた。

 明日も仕事だというサンドリン、会話に加わるのができないアランを筆頭に、次第に帰っていく人達を見送る。最後まで残ったのは、レイモン、バスティアン、フランソワ、アガタ、クリスティアン。

 一人で自宅に帰るバールを車まで送り、クリスティアンのアパートへ戻った。アランが、居間のソファで寝袋に絡まって寝ていた。iBookから音楽が流れている。日本で買った甚平服を寝間着にしていた。われわれを確認して起きだした。3人でビールを飲みつつ、おしゃべり。

 クリスティアンは、北フランス、シャンパー二ュ地方生まれ。父親は機械工。22歳まで、兵役に就く代わりに海軍の運輸部門で働く。トゥーロン勤務のときバールに出会い、音楽を志す。コントラバスを始める。以前はギターをちょこっと弾く程度だった。本格的に音楽を学ぶためにトゥーロンの芸大に入学。入学後1年ほどで近辺で演奏を始めて、気が着いたらプロだった。バールの影響はすごい。

 寝たのは2時。暑いような寒いような、多言語の想念が往来し熟睡できず。


7月20日(火)
 8:30起床。サンドリンはすでに仕事に出かけてしまっていた。食卓にはクロワッサン、ジュース、水などがきれいに並べられていた。よく整頓されたすっきりした部屋といい、クリスティアンとサンドリンの暮らしのスタイルが現れているようだった。

 10:30、ヤシャ、キャリが迎えにやってくる。しばらく歓談した後、クリスティアン、アランに別れを告げる。クリスティアンは、今度来るときは最低でも1週間は泊まっていってくれといってくれる。居候のアランはこれからどうするのだろうか。

 11:30、マルセイユから高速で北上。車中、ヤシャとキャリの青春時代の話を聞いた。

 マルセイユは、交換留学生として初めてきた街だと、ヤシャがいった。彼は、マルセイユの後、フランス語を習うためエックス・アン・プロヴァンスへ1年ほど移り住んだ。LAの大学で映像史や映像哲学など教えていたヤシャは、学生だったキャリに出会い意気投合する。しかし、当時すでにそれぞれ別の配偶者と結婚していたので、彼ら自身の結婚までは数年かかった。ヤシャはベトナム戦争当時の良心的兵役拒否のため、ある病院で2年間無給で働く。病院の記録映像をとったりした。父親が医者だっことも幸いして楽しんで仕事をした。政府としては罰のつもりだったが、それが彼には幸いしたのだ。

 二人はサンフランシスコで住み始める。ほどなく長男ジェイコブをもうけた。二人は近隣のクラブなどで歌をうたい、黒人の男達と友達になる。そのうち、次第に精神世界に興味を抱くようになった。アメリカにいるのがいやになり、トルコ、イラン、アフガンと旅に出る。アフガンでは、旅行用に買った中古の救急車が壊れたときに、地元の優秀な修理工と知りあう。途中、タシケントで個展を開いていたヤシャの母親がアフガンに彼をたずねてくる。母親は、オデッサ生まれの筋がねいりの共産主義者だった。

 すでに映像に興味を持っていたヤシャは、アフガンにも16ミリカメラをもっていき、記録映像を撮っていた。

 アフガンで友人の黒人らと合流し、バンドを作る。クラブなどで演奏して小金を稼ぐ。イラン、トルコ、イタリアへと移動。イタリアで車が完全に壊れたのでそのまま遺棄する。その黒人の友は後にエイズで死ぬ。

 などという話しを聞きつつ、次第に中部フランスへ。コテ・ドゥ・ローヌの中心地で、2年前に結婚記念日で訪れたというヴァランスでサンドイッチのランチ。ここには世界最大級のチョコレート会社があった。工場周辺は甘いチョコレートの匂いが漂っていた。日本人観光客らしい若い女性も見えた。

France04photos France04photosローヌ川をはさんだ両岸から山がせり上がり、斜面にワイン用のぶどうが栽培されている。この辺ではもっとも高価なワインを産するという。日当たりの良い急斜面にぶどう畑が作られているため、品質が良く、かつ収穫に手間がかかるからだ。斜面には畑の所有者の名前の看板もあった。

 この辺をよく訪れたというヤシャたちの説明を聞きつつ走る。途中の産地直売果物屋でアプリコットを買う。他にメロン、フランボワーズ、イチジク、トマト、ワインなどを二人のオッサンが売っていた。France04photos

 しだいに山道に入る。それまでの暑さがうそのように気温が下がる。セント・エティエンヌに入るころには激しい雨になった。

 ヤシャが予測したようにちょうど6時半に家に到着。

 近くに住むブルーノに会う。ブルーノは、ブラッチという人気バンドのリーダーだ。パリで現代音楽のオーケストラを指揮するというフィリップス、同じブラッチのメンバーのダン、ストラスブールからやってきた元教師アンドレらと、アルザス地方の白ワインを飲む。ドライで上品な味。ワイン談義がつきない。

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 7時過ぎ、20分ほど走ったところに住むロラン宅を訪ねた。57歳のロランはパンパリーナ・フェスティバルのプロデューサー。フランス夫人は以前はファッションモデルをしていたというすらっとした長身の女性で、手巻きタバコをがんがん吸う。息子の二コラスは17歳。

 訪ねた家は2年前に休暇用に購入した。普段はリヨンに住んでいる。彼は、リビアのカダフィ大佐やサウジ王室の仕事など国家的プロジェクトもしたことがあるという。

 二コラスはシドニーで生まれた。マレーシア、マカオで一年、などなど世界中を転々としていたころだ。来年は北京のフランス年のために中国へ行くという。2005年10月10日に大きなイベントがあり、その制作を請け負ったのだ。

 フェスティバルを続けることの難しさ、黒人、トルコ人などが問題を複雑にしている、などなどティエールの音楽祭もいろいろな問題を抱えているようだ。

 きゅうり、一口ラディッシュ、カニかまぼこなどをつまんで赤ワイン。トマト・プロバンサール、きゅうりの半分の断面にひき肉なだとをのせたもの、丸いズッキーニの詰め物などの料理。France04photosFrance04photos

 広い敷地、3軒しかない隣家、山々、星、下界の眺めが素晴らしい。

 パーティー後半にすごく寒くなってきた。

 0:30に帰り、1:30就寝。


7月21日(水)
 8:30起床。ブルーノの最初の妻の息子マナル・カタロンがお別れの挨拶にくる。午前中はだらだらと過ごした。

 昼過ぎからカレーの準備。

 夕方、フィーデル持参のブルーノ・ジラール、自分のギターを持ってきたダン、アレック、ブルーノの6歳になる娘ターイス、現代音楽オーケストラの指揮者フィリップとその娘のエマ、ちょっと遅れて、トランペットをもってきたティエールの音楽学校の教師ピエール、その妻で小学校低学年教師カトリーヌ、娘、2歳の息子のロマン、さらに、パリの大学教授でダンの恋人パスカル、パリの音楽院でピアノを専攻しているダンの娘マーシャ、その男友達でクラリネット弾きのトーシャ、地元青年などなど。大音楽パーティーになった。とにかくみな疲れを知らないタフなミュージシャンたちだ。とくに、ダンとしゃがれ声の歌がとてもよかった。フィーデルのブルーノもとんでもない凄腕だった。深夜1時半までうまいワインと料理と音楽三昧の、フランス最後のパーティーだった。

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7月22日(木)
 5:00にセットしたアラームがならず、5:45にヤシャの呼び声で起きる。6:40、家を出てリヨンの空港へ向かったが、エティエンヌあたりで大渋滞だった。空港へはぎりぎり間にあい、10:10発ウィーン行きの小さな飛行機でフランスを後にした。

 23日早朝、関空の建物の外は、前日までコートが必要なほどの寒さだったので、蒸し暑さが強烈に感じられた。