2004年 1 2 月 3 日 (金) -コルカタ2日目

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 シルパーにもらった薄いかけものだけでは寒かった。途中でショールをかけてましになったが、寒くて目が覚めてしまった。7時だった。

 ところで、起きた後のわたしの伝統的起動手続きは、大量コーヒーとタバコによる排泄中枢神経興奮および肛門括約筋収縮促進、だれからも見られない密室での放出解放的喜悦を味わいつつの読書で頭脳活性化をはかる、というものである。この手続きには遅滞が許されない。居候で困るのは、こうした極めて個人的な伝統様式の維持がときに難しくなることである。とくにコーヒーよりも紅茶文化の国インドでは、チャーイで胃のトリガー機能を活性化させる必要があった。

 というわけで、起き出してすぐにわたしはキッチン方面へ向かった。するとすでにヴィムラー夫人がちょうどチャーイを作っていた。彼女にチャーイ1リッター分を追加してもらった。家の中はしーんとしていた。彼女以外の家族はまだ寝ていたようだ。

ヴィムラー夫人

India04 ヴィムラー夫人とチャーイを飲みつつおしゃべりをした。50代後半の、背は低いが堂々とした体格の彼女は、息子も娘も独立し時間的、物質的、精神的余裕を感じさせる表情だ。ムンバイのラージャスターンの商人カーストであるマールワーリーの家に生まれ育った。まだ両親が住んでいる生家は、ムンバイ中心地に近いマリーンドライブにあるという。数階建ての堂々とした建物が、海沿いの湾曲した道路に沿って立ち並ぶ高級住宅地だ。きっと裕福な家に違いない。彼女は今でもときどきその家に行くが、兄弟姉妹が住んでいるヴィレー・パールレーやサンタクルス地域の方が好きだという。嫁ぎ先であるラート家は、3世代ほど前にラージャスターンからコルカタに移住してきた。同じカーストのラート氏とは見合い結婚。ジャイプルから4年前に嫁いできたシルパーもマールワーリーで、息子アンシュマーンとは見合い結婚である。India04

 などという話を聞いていたので、わたしの排泄中枢神経興奮はいったん沈静化へ向かい始めた。そのうちラート氏がクルター姿で食卓についた。今日はストライキのためコルカタ中の交通機関は全面的に麻痺状態なので出勤しないとのこと。

「ときどきこうした大規模なストライキが起きる。どうしようもない。役人の腐敗もひどい。コルカタは年々ひどくなってきている」

ラート氏

 ラート氏はチャーイを飲みつつこう話しかけてきた。政情から社会問題、環境問題など話題が移っていく。わたしはときどき相槌をうちながら聞いた。話題が彼の得意分野である演劇関係になると、話に熱がこもってきた。

「脚本もお書きになると聞きましたが」

 と聞くとラート氏は、自分はいかにして演劇に興味に至ったか、演劇団体の組織化にいかに貢献したかを滔々としゃべり、20年前にはこんな脚本も書いたと書棚から古い雑誌を矢継ぎ早に取り出して見せてくれた。

 こうしてわたしの排泄中枢神経興奮はほぼ完璧に押さえ込まれ、個人的伝統様式は破綻したかに思えた。そこへ、アンシュマーン、シルパー、双子兄弟も合流してきた。わたしはようやくラート氏の演劇談義攻撃から解放され皆で朝食となった。アンシュマーンは、頭頂部毛髪僅少眼鏡の30歳。一家では一番背が高くバランスの取れた体型をしている。世界の事情にも詳しく、父親と違って他人の話をよく聞くタイプだ。

 朝食は、インド式のプラーオ、ローティーとダール。ラート家はベジタリアンだ。

 ところで、この、出す前に入れる、という新方式がわたしの個人的排泄伝統様式の変革をもたらした。朝食を食べ終えたとたん、それは唐突にやってきた。急いで密室に駆け込んだ。シャンティ(平安)が訪れた。

 11時にくるといっていたビシュワジートを練習をしながら待ったが、時間になってもいっこうに現れない。電話すると

「実は、今、生徒が来ていて抜けられない。そっちには6時に行ける」

 という。なかなかにインド的だ。

携帯電話かけまくり

 コルカタの知り合いに電話した。以前、わたしの招待で来日した声楽家のラシード・カーンの奥さんとつながった。

「あらー、ヒロシ。久しぶりね。前に家に来たときのことはよく覚えている。娘達もきっと嬉ぶから家に遊びにきて。彼は今、ハイダラーバードに行っている。あのね、最近また息子ができたのよ」 

 彼女はとても親しげな口ぶりだった。しかし、わたしは彼女がどんな顔をしていたのかまったく思い出せない。最近、どうも顔の記憶に自信がなくちょっと不安だ。

 ラシードと来日公演をしたタンモイ・ボースにはつながらなかった。

 10月にサロードのテージェーンドラとともに来日したときに京都で会ったシュバンカルにも電話してみた。電話に出た配偶者から、コルカタの今日のストライキでまだ帰宅していないとの返答だった。

 ムンバイにいるはずのアニーシュ・プラダーンにも電話してみた。アニーシュというのは、エイジアン・ファンタジー・オーケストラ(以下AFO)のレギュラー・メンバーのタブラー奏者だ。

「ハーイ、ヒロスさん。インドへようこそ。今、デリーだ。ムンバイで再会するのを楽しみにしている。メールで携帯の番号を知らせてもらったので今朝もかけてみたけど、つながらないようだ」

「僕の携帯は国際ローミングなので、そちらが国際電話通話可能と登録していないとできないようだ。わたしの携帯は受信した方が発信するよりも高い(1分200円もする)ので、かけなくていいよ。また電話するね」

 こんな感じで、ベッドに横になったまま電話した。当たり前だが、携帯電話はとても便利だ。ただ、インド国内の通話相手がこちらの携帯にかけるのは難しいことがアニーシュと話してみて分かった。知り合いのほとんどは携帯電話をもっていたが、インド国内専用なのでわたしの持っている携帯にかけてくるのは難しいのだ。

 ラート氏が居間の角にあるコンピュータでキーボードに向かっていた。ウィンドウズ98の入った古い機械だった。ラート氏は、背後のわたしを認めて「使うかね。わたしの仕事は今終わったところだ」といってくれたので、メールチェックをした。

 かねがね、わたしがムンバイに来るようなことがあれば前もって知らせてほしい、君のコンサートを作るから、といってくれていたディーパク・ラージャー氏からメールがあった。ムンバイに最近店を開いた日本人宝石デザイナー、カズオ・オガワ氏の事務所に連絡してほしい、とあった。開店イベントでコンサートを考えているとのこと。メールに記されたディーパク氏の携帯番号に電話してみたがつながらなかった。

アディラージのいたずらとランチ

 部屋に戻って荷物の整理をしていると、3歳になる双子の一人、アディラージが入ってきた。彼は机の上に展開していたiPod、コンピュータ、ドローン・マシーンなどをいじり始めた。目についたものを指差し、それは何だとヒンディー語で質問してくる。祖母であるヴィムラー夫人がドアから顔を出して彼を叱り、「すみませんね、この子が邪魔しちゃって」とあやまりつつアディラージを引っ張って行った。

 そうこうするうちに全員でランチ。息子のアンシュマーンも合流したので、家族全員が揃ったことになる。わたしが、パンよりも米が好きだといったらバスマティ米を食べさせてくれた。ダール、キャベツ、ナスのサブジー、メーティー(豆科の野菜)のパラーターなど。「日本人は食事のとき箸を使うんだよね」とアンシュマーンがいう。持参した箸を使ってみせると皆感心していた。India04

 昼寝しようとベッドに横になり、iPodでお気に入りの女性ヴォーカリスト、キショーリー・アモーンカルを聞いた。少ない音数でいかに多彩な表現が可能なことか。彼女の演奏はいつ聞いてもうっとりしてしまう。

ビシュワジート

India04 6時にビシュワジートがタブラーをもってやってきた。30代半ばの、丸顔のずんぐりした男だった。世界的に活躍した故マハープルーシュ・ミシュラーに師事し20歳のときに彼の養子となった。あれほど活躍したミシュラーは生前それほど蓄えがなかったという。グルの死後、家族は経済的に困窮し、彼一人にその重しがかかっいる。グルマー、つまり師匠の奥さんでありかつ義理の母は、稼ぎの少ない彼に不満をぶつけるという。まだ独身である。

 彼と3時間ほど練習した。なにしろ明日がツアー初日のコンサートなので二人とも熱が入った。ときどき彼のソロがつかめないが、とてもいい奏者だ。しかし、彼のレベルの奏者はそれこそ掃いて捨てるほどいるので、相当な運に恵まれるか、主奏者に存在を強くアピールするか、群を抜く演奏家として成長しなければ、なかなか表舞台に上がってくるのは難しいだろう。チェータンは彼によく伴奏を頼み協力してくれるという。日本で演奏やワークショップでもできたらいいなあ、と申し述べる。

ラフール・チャウドリー宅パーティー

 アンシュマーンとシルパー、双子の息子たちが、われわれの練習が終わるのを待っていた。実は今晩、アンシュマーンの友人、ラフール・チャウドリー宅に夕食を招待されていたのだ。

India04India04 小さな車に5人乗り、10分ほどで友人宅に着いた。アパートの玄関ドアを開けると、たくさんの招待客たちが大声でしゃべり合いながら食事をしていた。20人以上はいたに違いない。小太り眼鏡の陽気なラフールとアンシュマーンはわたしを連れ回し次々と紹介する。とても覚えきれない。紹介された一人、60代の盲目男性がわたしの肩を抱いて別室に案内し椅子に座らせ、まずはビールだよね、といいつつ大きなグラスになみなみとついでくれた。この盲目の男性がラフールの父親だった。ラフールの妻、両親、妹、祖母、叔父、叔母、親戚、友人たちで、あまり広くない家は大混雑だった。India04

 食事は、南インド風のイドリ、サンバ、マサーラー・ドーサイ、各種のさまざまなココナツベースのチャツネ、脳天まで甘いラス・グッラーなど。苦しいほど食べた。チャウドリー家もラート家と同様、元はラージャスターンのマールワーリーなので、完全なベジタリアンだった。India04

チェータンと再会

 10時半ころ帰宅した。部屋で読書していると、チェータンが来た。黄色のクルター・パージャマーに同系色のチョッキでばりっと決めている。

 会うのは2002年8月に公演で来日したとき10分ほど話を交わして以来だった。彼を見た瞬間、あれっ、こんな感じの男だったのか、と思った。その後何度も今回のツアーについてメールのやり取りをしているときに抱いていたイメージとはかなり違っていた。2001年にロサンゼルスで会ったバーンスリー奏者の顔と混同していたようだ。顔の記憶に対する自信がまたしても揺らいだ。

 彼は思っていたよりも若かった。濃い黒髪を七三に分け、丸顔ともいえるが精悍で真面目な表情をしている。聞けば独身の40歳。他家に嫁いだ妹の二人兄弟で、昨年60代の父親をガンでなくし、今は母親と二人暮らし。

 昨晩、夜行列車でボーカーロー・スティール・シティーを発ち、時間とおりならば6時には着いているはずが、ストライキのために4時間ほど遅れたという。ラート氏は、この家では一番広い自分たち夫婦の部屋をチェータンに提供した。わたしは猛烈に眠く、あまり話もせずに寝た。


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