2004年 1 2 月 4 日 (土) -コルカタ3日目 公演・移動

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 7時ころ起床。食卓に行くと、昨日のようにヴィムラー夫人が一人で朝食をとっていた。彼女は、今日ダージリンに近いシリグリへ親戚の結婚式のために出かけるという。

 一緒にチャーイを飲んでいると、正しい反応がきた。たった一日にしてわたしの胃センサーは、コーヒーと同じ情報をチャーイからも受け取ったようだ。

チェータンと練習

India04 チェータンの部屋からバーンスリーの音が聞こえたので、わたしも練習に加わった。チェータンの体調はあまりよくなかった。風邪をひいたらしく、鼻をぐすぐすいわせている。

 まず、お互いの笛のピッチを確認した。今日からのコンサートはデュオなので、同じピッチの楽器でなければできない。わたしは、万一のためにEよりもちょっと高めのものと低めのもの2本を持ってきていた。その高めの笛と彼の笛がほぼ同じだった。

 ラート氏とアンシュマーンは9時半に仕事に出かけていった。ラート氏とは会場で落ち合うことになった。

 11時にビシュワジートがきた。3人でプログラムの確認と練習。India04

 二人でやる曲は、あらかじめ一つに絞った方がいいということになった。1曲目は、ラーガ・ハンスドワニ。タブラーとの合奏が入らないアーラープを15分、ついで7拍子のルーパク・タール、16拍子のティーン・タールのガットで約45分。2曲目がわたしのソロで日本民謡10分、3局目はチェータンのソロでトゥムリー10分、最後に再び二人でベンガルの舟唄バティヤーリー10分。演奏時間の合計は約90分。このパターンは、結局ツアー最後まで変えなかった。

 チェータンとのデュオは最初ちょっと不安だった。なにしろお互いの演奏をあまり知らないし、今回初めて一緒に演奏するのである。しかし、練習を続けるうちに彼の演奏スタイルが分かってきたし、彼もわたしの手が読めてきたようだ。この打ち合わせとリハーサルの後、ホールで落ち合うことにしてビシュワジートが帰って行った。彼にはタンブーラー伴奏者の手配も頼んだ。

 ビシュワジートが帰ってすぐに荷造りだった。今日のコンサートが終わったらすぐに夜行列車に乗りボーカーロー・スティール・シティーへ向かう予定なのだ。スーツケースに荷物を入れつつ、しばらくチェータンのことを聞いた。

チェータンとは

 チェータンは、グジャラート州からの移住者の家系に生まれた。祖父がグシャラートから南インドを経て現在のボーカーロー・スティール・シティーに移住してきた。父親はその町で小さなビジネスをしていたが、昨年ガンで亡くなった。彼は、ボーカーロー・スティール・シティーのデリー・パブリック・スクール(以下DPS)で音楽を教えると同時に、副校長のような立場で管理の仕事もしている。DPSは、幼稚園児から18歳までの約3000人の生徒、200人の教師、という大きな学校だという。名前の通り、本部のあるニューデリーを始めとしてインド各地にある私立学校である。インドでも優秀な学校の一つだという。

 なぜ、今のようにバーンスリー演奏の道に進んだのか。最初、小学校でインドの縦笛を吹いていた。中学校に進んだとき、学校の楽団でバーンスリーを選んだ。学校では、声楽に素養のある先生がバーンスリーの手ほどきをしてくれたが、先生自身は吹いたことがないのでちゃんとした運指が分からない。あるとき、演奏会でバーンスリー奏者の演奏を聞き、正しい演奏法と表現の可能性を知り俄然興味が深まった。そこで、町の先生についてきちんと習い始めた。18歳のとき、アラーハーバードで行われたコンテストに出場し、バーンスリー部門で優勝した。バーンスリー部門の出場者は10人。それぞれが7分間演奏し、それを審査して順位が決められる。審査員の一人が、ボーラーナートだった。ボーラーナートは、わたしのグルであるハリープラサード・チャウラースィヤー(以下ハリジー)の最初のグルである。チェータンが退けた出場者は全員彼の生徒だった。コンテストの後、そのボーラーナートに「わたしの元に来なさい」といわれ弟子入りした。ただ、伝統的な内弟子という形ではなく、ボーラーナートの教室に月謝を払って通った。当時の月謝は200ルピーだったという。ボーラーナートのいるアラーハーバードは、実家のあるボーカーロー・スティール・シティーからは列車で一晩の距離。自宅から当然通えないので、アラーハーバード音楽学校の学生として一人でアラーハーバードに住むことになった。音楽学校と同時に、アラーハーバード大学にも進学し、商業で学士号をとった。結局、アラーハーバードには3年ほど住んだ後、ボーカーロー・スティール・シティーに戻り演奏活動をすこしずつ始めた。実家に戻って半年ほど経ったとき、たまたま音楽教師を募っていた現在の学校に職を得た。計算すると、20年近く今の学校の教師をしていることになる。教職の傍ら、ムンバイのラグーナート・セートに弟子入りし研鑽を積んだ。

India04India04 などという話を聞いているうちに、シルパーが「ランチよ」とわれわれを呼んだ。ランチは実にシンプルだった。ダール、ご飯、ローティー、野菜の煮付け1品。

美人のシルパー

 食べながら、シルパーの話を聞いた。彼女は現在、28歳。比較的短めの黒髪と秀でた額、目鼻立ちの整った美人だ。二人の息子の母親と思えない均整の取れた体をしていて、背はわたしと同じくらい。ラート家と同じラージャスターンのマールワーリーの家系出身で、オリッサで生まれた。母方の叔父は、日本人女性と結婚して埼玉に住んでいるという。現在31歳のアンシュマーンとは見合い結婚である。彼女の落ち着いた話し振りがとても魅力的だ。India04

 4時すぎに、主催者スタッフの一人、ニーラーンジャニー・ロイ夫人が来た。主婦である彼女は、今日の主催者であるサンスカール・バーラティの事務所に週に一二回通って手伝いをしているという。主催者差し回しの大型のバンにすべての荷物を積み込み、チェータン、ロイ夫人、シルパーとわたしで会場に向かった。コルカタ中心部はものすごい人と車だった。排気ガスがひどく、空気が青白い。

公演会場へ

 会場は、地下鉄マハートマー・ガーンディー駅近くの、マハージャティー・サーダン別館ホールである。

 到着すると、入り口付近にスタッフらしい人達がごちゃごちゃと固まっていた。荷物をおろすまもなく、新聞記者のインタビューを受けた。5時半予定の開演時間にあと5分というのに、記者はしぶとく食い下がり写真撮影を始める。着替えやタンブーラーのチューニングもあるので気が気でない。ビシュワジートが最近練習につき合っているというカタック・ダンスの日本人女性、ゆきさんから1輪のバラの花をもらった。

India04 狭いエレベーターで3階に上がる。エレベーターの横が控え室だった。控え室といっても何もない。敷物も椅子もない、薄汚れた狭い空間だった。こんなところでどうやって着替えをするんだろう。風邪で体調の悪いチェータンは部屋を見て不機嫌な表情になった。スタッフがあわてて敷物をもってきたが、それもすさまじく汚れた元毛布だった。われわれは仕方なく、その上でビシュワジートのもってきたタンブーラーのチューニングや着替えをした。開演予定時間はとうに過ぎていた。

 タンブーラーは6弦のもので、かなり大きかった。チェータンがうんざりするほど念入りに調弦し、演奏してくれることになっていたウパなんとかいう若いサリーの女の子に手渡した。彼女は不安そうに楽器をもち、チェータンに「どうやって弾くの?」と不機嫌な声で聞いた。彼女はタンブーラーを弾いたことはないという。いきなりやったことのないことを頼まれたので不機嫌なはずだ。調弦とタンブーラー演奏教授が終わったときは、すでに開演予定時間を20分過ぎていた。舞台でのマイク調整ももはやできない。チェータンはわたしの目を見て「まあ、インドではだいたいこんな感じだよ」と両手を広げた。

 プラビールが「楽屋」にやってきて出番を告げた。空港まで迎えに来てくれた寡黙なベンガル人だ。

コルカタ公演

 われわれは彼に案内されて客席最前列に座った。150人収容という会場は、天井の低い講堂のような感じだった。客席は半分ほど埋まっている。最前列にゆきさんともう一人の若い日本人女性が座っていた。正面に高さ1メーターほどの奥行きの狭い舞台があり、数人の男女がベンガル語の歌を歌っていた。インドは素晴らしい、ベンガルは素晴らしい、といったような内容の歌だった。India04

 演奏を終えた彼らが舞台を退出すると同時に、プラビールが舞台に上がり挨拶した。彼が今日の司会だった。彼の司会ぶりは堂々としていた。ベンガル語なのであまりよく分からないが、彼の言葉使いは格調があるようだった。漢字の多い日本語という感じだ。

 われわれを舞台に招く前に主催者代表であるラート氏が挨拶した。彼がわれわれのことを簡単に聴衆に紹介した後、われわれは舞台に上に座った。白いシーツの掛かった薄い布団。インドの舞台ではごく一般的な舞台敷物である。

 まずチェータンが、あれだけ念入りに調弦したはずのタンブーラーを再び厳密に調弦し始めた。奏者の若い女性は相変わらず不機嫌そうな顔をしてそれを見守る。それが終わると、本来は本番前に終わっていなければならないマイクの調整。これが、こんなんでええの、というくらい短時間に終わったのでちょっと不安になった。日本の舞台では考えられない簡単さだ。

 さていよいよ今回のツアー最初の演奏だ。聴衆もわれわれも緊張する。わたしは手に持った楽器の指位置を確認しチェータンの開始合図を待った。ところが、チェータンはマイクに向かって長々としゃべり始めた。今回のツアーにいたるまでのいきさつ、自分の音楽修行、主催者であるラート氏にはいかにお世話になっているか、などなど。終わると今度はわたしに何かしゃべれとふってきた。

「インドの大学で音楽の勉強を始めて20年経ち、こうして皆さんの前で演奏することは大変名誉なことです」

 みたいなことを英語で話した。すると客席のラート氏が大声でいった。

「あなたはヒンディー語ができるのだから、是非ヒンディー語で話してくれ」

 それを聞いた聴衆が、ワーワ、そうだ、そうだと囃し立てた。仕方がない。ヒンディー語で同じようなことを話すと、ワーワ、キャーバート・ヘ(すんげえ)の合唱。一言一言に会場が盛り上がる。時計を見ると、すでに6時20分。開演予定時間から50分も経っていた。

 まず二人でラーガ・ハンスドワニのアーラープ、ついでルーパク・タール、ティーン・タールのガット。約45分の予定だったが、全体にかなり短くした。休憩なしですぐに2曲目。わたしのソロで最上川舟唄。3曲目はチェータンのソロでトゥムリー、最後に再び二人でベンガルの舟唄バティヤーリーを演奏した。最後の曲は、ベンガル人には馴染みなのでかなり受けた。演奏が終わったのは、7時50分だった。1時間半演奏したことになる。

 プラビールが再び壇上に上がり、ベンガル語でわれわれに祝福の言葉を述べた。ついで主催者からの花束贈呈、再びラート氏のヒンディー語の挨拶。最後はお腹の突き出た中年男性が音頭取りを行い、聴衆全員が起立して「バンデー・マータラム」の大合唱だった。「バンデー・マータラム」という歌は、インド独立運動のときの民族歌だ。壇上に立ってこの合唱を聞いていたわたしは、なんだか大げさな感じのフィナーレにちょっとたじろいだ。この主催団体は愛国主義者団体だったのかも知れない。そういえば、ラート氏は、ヒンドゥー至上主義組織、RSSにも関係しているといっていた。

演奏が終わって

 壇上で楽器の片付けをしていると、数人の聴衆がサインを求めてきた。心に響いた、素晴らしかった、インド人ではないのにすごい、などと賛辞を述べにやってくる人々もいた。外国人にしてはというお世辞も多分にあったと思うが、もちろん悪い気はしない。ラート氏も「素晴らしかった。コルカタに戻ったら、いつでも家に来てくれ。何日でも泊まっていいよ」と声をかけてくれた。チェータンとのツアーが終わったら再びコルカタに戻るつもりだったので、ありがたい申し出だった。

 着替えをすませた後、受付にいた日本人女性二人と話した。一人は入り口でバラの花1輪をプレゼントしてくれた東京出身のゆきさん。以前、ヤクシニ矢沢さんにカタックを習ったが、今はインド人の先生に習っていて、4月までコルカタにいるという。30歳代半ばだと思うが、舞踊の修行にかけるエネルギーはすごいものだ。もう一人は、荒木和栄さんという20歳代の女性。彼女は、東京外大のウルドゥー語科出身で現在はこちらで絵画を勉強しているという。

 わたしとチェータンは、会場から直接ハウラー駅に向かうことになっていた。主催側のスタッフ二人とプラビールが、われわれのためのタクシーを探しに行った。会場に面した大通りは、車と人で埋め尽くされ猛烈な排気ガスで息苦しいほどだった。

すぐさま移動

India04 タクシーに大量の荷物をトランクに押し込みハウラー駅に向かった。同乗したのは、チェータン、わたし、プラビールの妹だという若い女性、スタッフのシュバンカル・バッタチャールジー青年、なんとかゴーシュ。タクシーはクラクション鳴らしっぱなしで喘ぐようにのろのろ進み、ようやく駅に着いた。India04

 ひん曲がったレール、山積みのずだ袋、荷物の横にうずくまる人、汚れた制服の赤帽たちの隙間を縫って明るい駅構内に入った。石の床に座りこんで列車を待つ人々であふれていた。みな難民のように疲れた表情をしていた。

 どこかタバコを吸える場所はないかと探したがどこにもなかった。わたしのスーツケースを持ったシュバンカル青年に聞くと、駅構内はどこも禁煙で、違反すると多額の罰金が課せられるという。見るとだれ一人吸っているものはいない。かつてはそこら中で男達がタバコを吸っていたものだが、いつから人々は遵法精神にあふれるようになったのだろう。交通規則などあってないようなイメージだったインドは変ったのだろうか。

ごとん、と列車が動き出した

 われわれの乗る列車は、9時50分発ラーンチー行きだ。二人のスタッフが客車まで荷物を運んでくれた。エアコン付き3段ベッド寝台だった。インドとはいえ夜になると肌寒いのに、なぜエアコン車なのか。チェータンによれば、寝台車での盗難予防のためだそうだ。エアコンのない一般寝台の料金はエアコン付きよりもずっと安いが、防犯上よくないとのこと。車内はエアコンが効いて寒かったが、我慢せざるを得ない。チェータンは、二人のスーツケースとリュック、楽器ケースを頑丈なひもで連結して大きな南京錠をかけ、1段目の座席の下に押し込んだ。

 ごとん、と列車が動き出した。対面式6人がけの座席には、中年女と娘、若い男二人、そしてわれわれだった。わたしは、シルパーの用意してくれた弁当を食べた。ジャガイモ、キャベツのサブジー、プーリー、アチャール、紙皿、紙ナプキンが整然とパックされた弁当だった。チェータンは夕食をとらない主義で、かつ風邪だったのでわたしだけ食べた。シルパー特製弁当は、空腹だったせいもありとてもおいしかった。

 11時すぎに、1段目の背もたれになっている2段目のベッドを跳ね上げ鎖で固定した後、乗務員から配られたシーツ、毛布を展開して横になった。1段目がチェータンだった。

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