2004年 1 2 月 5 日 (日) -ボーカーロへ移動
朝の5時目覚めた。列車は1時間ほど遅れて6時半にムリー駅に着いた。まだ陽の昇らない肌寒い朝のプラットホームの石のベンチに座ってコーヒーを飲んだ。われわれの降りた列車はすぐには出発せず、車輪のあたりから水蒸気の白煙を出しつつしばらく停車していた。小さな駅だった。乗降客も少なく閑散としていた。チャーイ、コーヒー、ソフトドリンク、チャナ豆、バナナなどを売る少年や男達の連呼する声だけがこだまする。
尻がひんやりとする石のベンチに座って1時間ほどすると、ボーカーロー・スティール・シティー行きの列車が滑り込んできた。われわれは大量の荷物を抱え固い木製座席のある客車に乗り込んだ。乗客は数えるほどだ。車窓からは、まばらな低木のある小高い丘、菜の花の緑と黄でときどき着色された薄茶色の畑が地平線まで広がっているのが見えた。曇り空だったが、20年ぶりに見る車窓の風景は懐かしい。
わたしが外の風景を楽しんでいる間、チェータンは携帯電話を使って主催者などとの連絡に忙しそうだった。
「まいったよ。ラーンチーの主催者が明後日のコンサートをドタキャンしてきた。よくあることだけど、冗談じゃない、まったく。なにもない日が続くけど、大丈夫かな」
「僕は問題ない。その方が練習できる」
チェータンは再びだれかに電話した。彼は今回のツアーの日程管理や諸連絡を一人でやっているらしく、携帯電話が欠かせないようだ。モバイル・パンディットだな、というと彼は笑っていた。
ボーカーロー・スティール・シティーに到着したのは10時ころ。2階建ての白い駅舎の正面にあるカラフルな抽象画風大看板が、ちょっと近代的な感じを与えていた。
荷物を引きずって駅舎から出ると、真っ赤なクルターを来た大柄な青年が近づいてきた。南インド特有の漆黒に近い顔だ。知的で精悍な表情をしている。彼は右手をチェータンの足に触れた後、二人の大きな荷物を両手に持ってクリーム色の軽自動車までわれわれを案内した。
チェータンがハンドルを握って運転しながら助手席のわたしに話しかけた。
「これ、僕の車なんだ。シートベルトがないからびっくりしただろう。日本ではありえないからね。何年も乗っているのでボロボロだ。彼は友人のムラリーダラン。南インドから来たコンピュータの専門家だ。今回のツアーを手伝ってもらってる。機械関係で問題があったら彼はなんでも解決してくれるよ」
「初めまして。ムラリというのは笛という意味だよね。いい名前だ。ところで、僕の携帯電話が圏外なんだけど、どうしてだろう」
荷物に挟まれて窮屈そうに後ろの座席に座っていたムラリーダランが、わたしとの握手の後、きびきびした英語で応えた。
「この辺の携帯はリライアンス系なので、エアー・テル系のサービスは受けられないのかも知れない。後であなたの携帯電話のカードをチェックしてみよう」
埃っぽい半舗装の穴だらけの道をしばらく走ると、広い敷地に広がる低層の建物群が続く市街に入ってきた。
チェータンが、市の成り立ちを説明した。
この町は、インド政府によって新しく作られた計画都市で、中心産業はスティール・シティーの名前から分かるように国営の製鉄所である。ほとんどの人間が製鉄所と関係している。建物や区画もエリアごとに整然と配置され、一つ一つのエリアは広い。技術者などがインド各地から移住してきたために、昔から住む地元住民よりも外部からの人間が多く、その構成はバラエティーに富む。
彼の説明のように、広い道路に沿って展開する眺めは市街地には見えない。大小の商店街が道路に沿って不規則に展開するような、典型的なインドの市街地とはずいぶん雰囲気が違っていた。
ほどなく、ボーカーロー・ニワースに着いた。背の高い鉄製のフェンスに囲まれた広い敷地の奥に3階建ての大きな建物があった。守衛詰め所のある門から100メーターほど奥まったところにあったその建物は、製鉄所を訪れる中・長期滞在者のための宿泊施設として使われている。かつて、日本人技術者もここに2年ほど住んでいたことがあるという。
「ここが、あなたが12日まで滞在することになっている宿です。近くには何もなく静かなのでゆっくり練習できるよ」
わたしの荷物をトランクから引っ張り出しつつチェータンがいう。わたしは、てっきり彼の自宅に泊めてもらうのではないかと思っていたが、わざわざ別に用意してくれていたのだ。
部屋は3階の235号室。ツイン・ベッドのある広い部屋だった。それぞれのベッドは、四隅に支柱のある蚊帳で覆われている。タイル張りの広いバスルームには、24時間お湯が出るというシャワーもある。真っ赤なプラスチック製の安楽椅子とテーブルが置かれたバルコニーもかなり広い。なかなか快適に過ごせそうだ。わたし以外の宿泊者はいないらしく、3階の薄暗い廊下は物音一つない。食事は廊下の奥にある食堂でもできるが、階段踊り場の黒い電話で頼めば部屋まで運んでくれるいう。
ムラリーダランが、わたしの携帯電話のバッテリーのふたを外して中を見ていた。
「なるほど。こうなっているんだ。このUSIMカードを僕のと入れ替えてみよう」
と自分の携帯のカードを取り出して入れ替えた。電源を入れる。液晶表示部は明るくなったが、それだけでうんともすんともいわない。
「やっぱり、駄目か。じゃあ、設定を変えればいいかもね」
と元に戻して設定画面を出した。
「何語ですか。あっ、日本語か。英語表示はないんですか」
英語表記に切り替えて再びチェックし始めた。
「うーと、これがこうなってと。これでいけるかな。えいっ」
表示はやはり圏外だった。今度は、彼は自分の携帯から電話サービス会社に電話した。
「やはり、この携帯電話は使えないみたいだ。電話がないと不便だから、後で自分の余っているのを持ってくるね」
インド全国で使えるというのでボーダフォンにしたのだが、使えないエリアがあるのだ。ニューデリーとコルカタでは使えたのに。ということは、ここでは日本との連絡は街にある電話屋を利用するしかない。
チェータンとムラリーダランは、宿舎のスタッフに細々としたHIROS取扱説明を行った後、帰っていった。
シャワーを浴びた後、廊下の突き当たりの部屋に行ってみた。食事ができるといわれた食堂には、薄汚れた椅子とテーブルがあった。しかし長年使われていないらしく埃まみれだ。キッチンでは、ぼろ切れのようなシャツを着た5人の男達が食事を作っていた。煤だらけのキッチンは、七厘、かまど、石作りのシンクがあるだけ。野菜の切れ端や魚の頭の入ったステンレスの皿が床に無造作に置かれている。男達にヒンディー語で話しかけると、みな嬉しそうな顔をした。食事やチャーイはやはり部屋まで運んでもらった方がよさそうだ。
部屋に戻ってしばらくすると、注文していた魚カレーが運ばれてきた。運んできたのは、口ごもって聞き取りにくいしゃべり方をする食堂の責任者だった。袖のほつれたセーターを着た誠実そうな顔の中年だった。味はまあまあだが、油が多く塩辛い。ダール、サラダ、インゲンの煮物、ご飯。ものすごい量だったので、全部は食べきれなかった。
昼寝から起きた5時ころ、チェータンがやってきた。これから街を案内したいという。南インドらしくないデザインのアイヤッパ寺院、オリッサのジャガンナート寺院を模した広い敷地の寺院などのヒンドゥー寺院を見ていると、この街が様々な土地から移住してきた人々によってできていることが伺えた。ジャガンナート寺院のところで、チェータンの弟子だというサントーシュが合流した。科学の家庭教師をしているという物静かな青年だった。背が小さく意志の強そうな顔の表情を見て、神戸の井上想君を思い出した。
「日本人も来たことがあるという仏教寺院が近くにあるからそこにも行ってみよう」
どうもチェータンは、お寺を案内するのが客のもてなしの一つと考えているようだ。
仏教寺院の入り口は真っ暗だった。サントーシュが「閉まっているみたい」というのを無視してチェータンは建物の中にわれわれを連れて行く。お寺案内の使命感に突き動かされているようだ。
坊主頭に白黒チェックのマフラーを巻いた色の黒い中年男が応対に現れた。シャーという名で、ここの管理人だと自己紹介した。
この寺院は、日本の仏教教団「霊友会」の支部なのだという。彼が日本に行ったときの記念写真やニューデリーのインド本部集会の模様の写真などを事務室で見せられた。案内された本堂は何の変哲もないただの細長い部屋だった。真っ暗な入り口、シャー氏の淡々とした口ぶり、装飾のない本堂などから、「霊友会」はここを布教の場所とは考えてはいないようだ。チェータンは、当初の案内使命感がはぐらかされたようで、がっかりした表情だった。
「風邪をひいているので医者にいかなきゃ」。単車で帰って行ったサントーシュと別れたわれわれは、薬屋が軒を並べる界隈へ行った。チェータンが診察を受けている間、屋台の電話屋から日本に電話し、携帯電話が通じないことを配偶者に告げた。3分ほど話したが、たった40ルピー(100円)だった。
8時すぎに宿舎に戻り、10時近くまでチェータンとおしゃべり。自分の土地にはるばるやってきた客人を退屈させないようにしようと彼はいろいろ計画しているようだった。主催者との連絡、勤めている学校の雑用、母親の体調不良、今抱えている仕事などについて、昨晩からの体調不良にもかかわらずチェータンはしゃべり続けた。わたしはジョークを連発したがあまり受けなかった。彼は義理堅く真面目な男なのだが、もう少しアソビが欲しい、と彼の話を聞きながら思った。チェータンをドアまで送り出しときに、夕食を食べていないことに気がついた。
彼が帰って間もなくベッドに横になり、デズモンド・モリスの『裸のサル』を読んでいるうちに意識を失った。