2004年 1 2 月 7 日 (火) -ペテルバールのアイ・ホスピタル公演

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 もっと寝ていたかったが、コーヒーを持ってきた小年に6時半に起こされた。朝食が終わるまでのプロセスは、お湯のシャワーが出た以外、昨日とほとんど同じ。

自転車に乗った少年

 日記を書いて練習した後、散歩がてら日本に電話しようと外に出た。外は快晴だった。昨日のコースをぶらぶら歩いていると、自転車に乗った少年が話しかけてきた。アムジャドという名で15歳だという。

「ネパーリー?」と、宿の少年と同じようなことを聞いてきた。

「日本人だ。ネパーリーに見えたか」

「分かんない。ただ、なんとなく。どこへ行くの」

「散歩だ。この辺に電話できるところがないかなあ」

「あるよ。僕の兄さんがやっている店がある。すぐそこだから」

 彼は、少年達がクリケットをしている大きなグランドの向こうを指差した。すぐそこという感じではないが、ポカポカ陽気の元で散歩するのは気持ちがよい。その少年に付いて行くことにした。彼は自転車を引っ張りながら自分のことをしゃべる。父はスティール・シティーに勤めている、兄は電話屋をしている、モスクは近所にある、このあたりの住宅は幹部の住むところだ、などなど。

 20分ほど歩いてその電話屋に着いた。車の行き来の多い広い通りに面した路肩に固まって3軒の店があった。「兄」の電話屋は、青いペンキを塗ったブリキ板の掘っ建て小屋だった。

「あそこの角にリカーショップが見えるだろう。今度来るときはあれを目印にしたらいい」と少年は、真っ赤な壁の小さな酒屋を指差した。電話屋の中の一つしかない椅子にアムジャドの兄だという青年が座っていた。インドでは、ちょっとした知り合いを兄弟とか従兄弟だと紹介することが多いので、アムジャドの言葉を信用していなかったのだが、たしかに似た顔なので兄弟というのは間違いなかったのだろう。わたしが小屋に近づくと、付近にたむろしてタバコを吸っていたヒマそうな若者達が面白そうに寄ってきた。一人が、「ねえ、これいいだろう」と、着火すると裸の女の乳首が見えるライターを見せた。「ヴィールガンジで500ルピーで買ってきたんだ」という。

 配偶者に電話したが留守電。日本時間では2時くらいのはずだが、どこにいったんだろう。電話代は40ルピー。100円だった。

India04 来た道を歩いて部屋に戻り練習していると、小年がベジタリアンのランチを運んできた。ご飯は半分残したが、アールー・ゴービーとサンドマメのサブジー、キュウリ、タマネギ、トマトのサラダを全部食べた。お腹いっぱいになって、昼寝。

 

ペテルバールへ

 3時ころ、チェータンから携帯に電話が来た。今日はペテルバールという街でわれわれのコンサートがあるのだ。4時に迎えにくるという。その言葉通り、彼は、母親ともう一人のちょっと腹の出た青年とともにやってきた。

 日本から電話で何度か話したことのあるチェータンの母親は、落ち着いて上品な顔だった。しゃべり方もやさしく、顔の作りがチェータンとそっくりだ。59歳といっていたので、わたしとは5歳しか違わないはずだが、どうもそういう実感に乏しい。若い相方とつき合っていると、その母親とか父親が自分よりもずっと年上に思ってしまう。「久代はわたしのヒンディー語分かったかしらね」と聞いたので「大丈夫、分かっていると思いますよ」と応えた。夫、つまりチェータンの父親が昨年他界したので、今は一人息子で独身のチェータンの世話をしている主婦だと笑った。

ニーメーシュ

 一緒に乗ってきた青年は、タブラー奏者のニーメーシュ・ラートーレー。短い髪に鼻髭の大柄なニーメーシュは、終始ジョークを連発するひょうきんな男だった。隣町のダンバードに住んでいる。1年前にチェータンの勤める学校にタブラー教師として雇われたため、ダンバードからボーカーローまでバスで通っているという。India04

 商店街でチェータンが銀行に用事があるといって停車した。昨日現金を引き出そうとキャッシュカードを入れたのだが、カードが戻ってこなくなったので銀行に掛け合うという。わたしもついでに電話屋へ行って日本に電話した。ディーパク・ラージャーから、ムンバイにあるカズオ・オガワの宝石店に電話せよというメールがあったこと、七聲会イギリスツアーの清算金が振り込まれてきた、という連絡。カズオ・オガワとはいったい誰だろう。8分ほど話して188ルピー、50円弱。

右後輪がパンク

 銀行から戻ってきたチェータンは、

「カード問題は片付いたけど、今日は学校の仕事が忙しくてランチもできなかった。主催者と連絡をとらなければならないのに今度は携帯電話が壊れてしまった。何もかもいっぺんに問題が押し寄せる」と嘆いて車を出したとたん、右後輪がパンクした。後ろのトランクから荷物を全部取り出し、飛行機用のような、ほとんど溝のないつるつるのスペアータイヤを取り出して装着した。これで時間がとられ開演予定時間が迫ってきていた。焦っているチェータンは会場までそのまま車を走らせようとした。わたしは、

「パンクしたタイアは治した方がいいと思うよ。今交換したスペヤーがパンクしたら万事休すだ。それこそどこへも行けなくなる」と申し述べる。

「そうだね、やっぱパンクを治して行こう」

 しばらく考えていたチェータンがぼそっといった。

 あたりは暗くなり始めている。テント張りのパンク修理屋は電灯がなく薄暗い。職人はロウソクの光で修理。なんとも頼りないがわれわれは待つしかない。India04

 チェータンは、わたしの持っていた携帯電話で公演会場到着が大幅に遅れる旨を連絡しようとしたが、電話番号はすべて彼の壊れた携帯に入っている。番号を覚えていた弟子のサントーシュの携帯に電話し、彼から中継で伝えるという綱渡りでなんとか連絡できた。今日の開演は5時の予定だった。しかし、パンク修理屋を出た時はすでに5時15分。わたしはいったいどういうことになるのか不安になったが、チェータンはそれほど深刻そうな顔はしていない。

India04

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 われわれは小雨の中、穴だらけの夜道を急いだ。

アイ・ホスピタルに到着

 1時間ほどして、会場であるペテルバールのアイ・ホスピタルに到着した。

 大きな鉄の門扉の内側に、次々と増築されたような建物がぼやっと見えた。電圧が不安定なせいか、オレンジ色の裸電球が弱々しく明滅していた。建物の全容がつかめないがかなり大きな施設のようだ。先に来ていたスーツ姿のムラリーダランがチェータンを確認し「遅いよ。みんな待っている。速く、速く」と急かせた。彼の隣に立っていた女性もチェータンを責めた。錦糸の刺繍のあるサリーを着た40歳くらいの堂々とした女性だった。命令することに慣れた口調だ。後で分かったが、彼女がチェータンの勤めるDPSの校長だった。

 われわれは関係者らしい数人に迎えられ、2階のベッドの並ぶ薄暗い部屋に通された。ベッドを囲む人間を次々に紹介されたが、わたしには全体の状況が把握できていない。チェータンから告げられた開演時間はとうに過ぎているし、どこでどんな形で演奏するのか、聴衆はどこにいるのか、実際は何時から始まるのか、なんのためにこの部屋に多くの人が集まるのか、この部屋がわれわれの控え室なのか、などがまったく見当がつかないのだ。ただ笑顔を見せて頷くことしかできない。全体の流れに身を任すことしかできない。わたしがBHUに留学していたことをチェータンが説明すると、ほほう、実は自分もそうだという男が何人かいた。

病院創設者、スワーミージー

 病院の事務長という初老の痩せた男が、「皆さん、この病院の創設者であるスワーミージーに会いに下に行きましょう」と階段を下り始めた。部屋にいた全員がぞろぞろと彼の後に従った。

中庭を挟んだ多角形の礼拝室のようなところを通って、奥の長細い部屋に案内された。白い毛布を頭からかぶった一人の老人がベッドに座っていた。布団もシーツも毛布もすべて白だ。この老人がスワーミージーだった。

 ぞろぞろと一行が入ると、老人は口の部分だけを隠す長方形の白マスクをはめた。広い額から頭頂部に向かって後退した短い白髪の生え際に細い皺が何本も走っている。口調は弱々しかったが、凛とした表情だ。毛布からのぞく腕はとても細い。部屋にいる人たちは次々に彼の足に触れて祝福を受ける。チェータンはもとより、道中もジョーク連発だったニーメーシュも神妙な顔で祝福を受けていた。

 チェータンの説明を要約するとこうなる。この老人はジャイナ教の聖者である。この老人の父親がグジャラートから徒歩でこの土地にやって来て、無償の眼病治療施設を創設した。この施設はすべてボランティアで運営されている。治療を受けたいものはだれも拒まない。診察、手術を含む治療、入院、食事はすべて無料。治療に必要な設備はすべて整っている。

白装束白マスクの女性

 一行は、隣の多角形の部屋に移動した。ベッドに座る白装束白マスクの女性の聖者二人を前にして10人くらいの人が座っていた。India04

 事務長が「チャーイを用意してあります」とまだ別の奥の部屋に案内された。レストランのようなテーブルと椅子のある大きな部屋だった。消え入りそうな弱い光の裸電球が1個しかついていない。ムラリーダランにステンレスのコップにチャーイを注いでもらったが、熱くてもてない。わたしがチャーイを飲みきらないうちに一行が隣の多角形部屋へ動き始めた。あわてて後をついて行くと、横にいたチェータンが「さあ、演奏するよ」という。

多角形部屋で演奏

 さきほど通り抜けた多角形の部屋の角に敷物が用意されていた。チェータンはさっと敷物に座り電気タンブーラーのチューニングを始めた。わたしはジーンズとユニクロのジャケット姿だったので「着替えなくていいのか」と聞くと、そのままでいいという。ニーメーシュもタブラーを置いて準備を始めた。時計を見ると演奏開始は7時20分。聴衆は、さきほどまでわれわれと共に移動していた10数人と、すでにこの部屋に座っていた10人くらいの中年男女だった。コンサートというよりは、慰問演奏の雰囲気だった。

 わコルカタ公演と同じ、ラーガ・ハンスドワニから始めた。短いアーラープの後、ティーン・タールのガット。ついでわたしのソロで伊谷民謡。最後に二人でバティヤーリー。途中で席を立つものもいた。終わったのは8時だった。40分の演奏だった。

 演奏が終わると、直前にチャーイを出された広い部屋で夕食だった。10数人の男女が暗い部屋でパラーター、2種のサブジー、ご飯、ラス・グッラーなどを静かに食べる。

スワーミージーと記念撮影

India04 食後、再び一行がスワーミージーに挨拶し記念撮影をした。スワーミージーは「今日はちょっと具合が悪くて起き上がれなかったが、演奏はちゃんと聞こえた。良かったよ。君は日本からだって。インド人でもなかなか難しいことなのに大したものだ」とわたしの目を見て声をかけた。

 事務長は、マンディル(寺)も見てほしいと、わたしとチェータンを多角形部屋の上の階に案内した。そこには創設者の等身大の大理石像やジャイナ教の教祖であるマハーヴィーラの像などが安置されていた。先代が涅槃を迎えたというお堂のような小さな部屋もあった。

 関係者たちと別れわれわれ3人は帰途についた。外はまだ小雨が降り続いていた。

チェータンの自宅

 10時すぎに、チェータンの自宅に着いた。3階建てアパート最上階にある、こじんまりとした2DKだった。彼が自宅に泊まれといわない理由が納得できた。客が泊まるには狭すぎるのだ。

India04 チェータンの寝室は、広くはないがよく整理されていた。厚いマットレスの上に敷かれた布団が壁際に敷かれていた。枕元にコンピュータとプリンター。もういっぽうの壁には天井までの棚。カセットテープや本がきちんと並んでいた。

 母親が入れてくれたショウガとカルダモンの入ったチャーイを飲みながら、チェータン、ニーメーシュとしばらく雑談。外からは結婚式のざわめきと音楽がうるさく聞こえていた。

 11時半にチェータンに宿舎まで送ってもらった。ベッドに横になりすぐ就寝。長い一日だった。

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