2004年 1 2 月 8 日 (水) -ダンバード公演

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 7時起床。ボーカーロー・ニワースでの生活も4日目。コーヒー、シャワー、朝食、練習、日記、散歩、ランチ、昼寝という生活リズムが定着してきた。したがって今日の分は、4時20分にチェータンとニーメーシュがやってきたところから始めよう。この日は、ダンバードのレストランでコンサートの予定だった。

ダンバードへ

 でこぼこの道をダンバードに向かって走らせる。一応は舗装されているがいたるところ穴だらけの狭い道だ。ときおり通過する街路や踏切では車がほとんど動かなくなる。対向車線などおかまいなく小さな車が長い車列のわずかな隙をついて追い越すので渋滞がさらにひどくなる。インドで車を運転するには、ぎりぎりで衝突を避け、他の車の隙をついて動き、突発的な障害物を予想し回避しなければならない。わたしにはとてもできそうにない技術だ。

 この地方の路面状態がこれほど悪いのは、道路維持管理の怠慢もさることながら、地盤のせいもあるとチェータンは説明していた。比較的浅い部分に石炭などの柔らかい地層があるため地表が常に動き、いくら舗装してもしばらくすると段差が生じるという。

 2時間弱でダンバードに着いた。ニーメーシュによれば、ダンバードはかつて炭鉱街として栄えた。78年には有名なスターや音楽家たちがここで7日間の音楽祭をやったこともあるという。しかし今ではかつての賑わいは消え、途中に通過した街のようにごみごみと密集し統一の取れない街だった。街路は人と埃と排気ガスで充満し窒息しそうだ。

ダンバード公演会場

 会場には5時すぎに着いた。会場は、煤けた灰色の街にぱっと光が当たったようなモダンな5階建ビル3階のレストランだった。1階から3階まで大きな吹きぬけになっていて、中央に細いワイヤを円錐形にたらしたオブジェがある。レストランの名前は、セブンティーン・デグリーズ・ファーレンハイト。India04日本語でいえば「華氏17度」。命名のいきさつは分からないが、なかなかに洒落た名前だ。新装したばかりらしい縦長の店内はかなり広い。壁を背にして白い布で覆われた舞台が作られていた。その舞台を見上げるように布団白シーツの桟敷席がきちんと設けられ、後方に椅子が並べられていた。道路に面した大きな窓には、細竹のよしずが垂れ下がっている。天井からは玉子形の赤い提灯が吊るされており、どことなく日本的なデザインだ。舞台横にある大きなスピーカーから西洋クラシックのイージーリスニング版が流れていた。ジャールカンド州の田舎町にこんな空間があることは驚きだった。India04

 舞台横のPAセットをチェックしてみたらとてもコンサートには使えないことが分かり、ニーメーシュの知りあいにPA機材を頼むことになった。

 コンサートの主催者であるレストランのオーナーに紹介された。少し下腹が出ているものの均整の取れたしなやかな体つきの40歳くらいの男だった。頭頂部が薄くメガネをかけている。

ニーメーシュの家

 開演予定の8時には時間があったので、いったんニーメーシュの家に行くことにした。

India04 彼の家は会場から歩ける距離にある大きな密集したアパートの2階。一間しかなく、ダブルベッドが部屋のほとんどを占めている。家財道具らしいものもあまりない。実にシンプルな室内だった。結婚して3年という妻、カーヴェーリがピンクのパンジャービー・ドレスを着て待っていた。ベンガル人の彼女はプロの歌手として民謡などを歌っているという。グジャラート人の夫とベンガル人の妻という組み合わせはこの地方にしては珍しい。彼女は、玄関ドアからいったん出たところにある小さなキッチンでお茶を作り、グジャラートの揚げ物と一緒にごちそうしてくれた。われわれはここで着替えをして会場へ向かった。

India04India04 会場では、PA業者がすでに準備中だった。機材は年季が入って傷だらけだったが、16チャンネルのミキサーやリバーブ、シュアー製マイクと、立派なものが揃っていた。

コンサート開演

 8時開演の予定だったが、30分遅れでコンサートが始まった。客席はほぼ満席だった。前列の桟敷席には、豪華なサリーの美しい女性達が座っていた。その中の帽子をかぶった若い美女と眼が会い、向こうが微笑みかける。いいなあ、この感じ。

 演奏は、例によってラーガ・ハンスドワニのアーラープ、ティーン・タールのガットから開始した。音響が素晴らしく、笛の音が実に気持ちいい。

 チェータンは、途中で演奏を止め、長々と曲の解説を始めた。聴衆の顔ぶれを見て、ああ、この人たちは古典音楽なんててんで分かっていない、と判断したのだ。レストランのオーナーが、クラシックが好きだといって、コルカタで聞いたというフュージョン・バンドの例を出していたのも、彼の教育本能を喚起したのかも知れない。バーンスリーを膝に置き、丁寧に古典音楽の基本を解説するチェータンを横で見ていると、彼は演奏家というよりも根っからの教育者なのだ。古典音楽演奏家であることが田舎ではなかなか認知されないことに対する不満も重なっていたのかも知れない。この演奏の途中の解説は結構な時間続いた。共演者のわたしとしては、おいおい、ワークショップじゃないんだよと彼に申し述べたくなったが、笑顔を見せて彼の解説が終わるのを待つしかない。

 解説付きラーガ・ハンスドワニについでわたしのソロによる伊谷の民謡。この演奏の前にやった短いヒンディー語の挨拶がやはり大受けだった。次にチェータンのバナーラスィー・トゥムリー。チェータンの教育衝動が最初の曲で火が点いたのか、この部分は典型的なバナーラス節だと何度も解説を加えてデモンストレーションをした。チェータンは、古典よりも、このトゥムリーのような「軽古典」を演奏するときの方が生き生きして見える。

 さらに二人でバティヤーリー。打ち合わせでは、ここで演奏が終わることになっていたのだが、いったん点火してしまったチェータンの教育衝動は止まらない。今度はインド各地の民謡の歌い方の癖を、ビハール風、ベンガル風、ラージャスターン風などと次々に披露するのであった。聴衆は、それら一つ一つの節回しに反応し大受けだった。

新聞記者からインタビュー

 終演後、舞台で楽器の片付けをしていると、多くの人達が賛辞を述べに舞台に押し掛けた。サインをせがむ人もいて、聴衆はわれわれのコンサートに満足したようだった。さらに、数人の新聞記者からインタビューも受けた。India04

 別の部屋で立食バイキング形式のパーティーが盛り上がっていた。今日のコンサートは、このレストランのお披露目イベントでもあったようだ。それぞれの料理は洗練されていてなかなかの味だ。魚やチキンもあった。われわれがパーティーに現れると、手に食べ物の皿を持った客が賛辞を述べに近づく。レストランにとってもチェータンにとっても、今回のコンサートは成功だったといえるだろう。

India04India04 ニーメーシュとカーヴェーリに別れを告げたチェータンとわたしは、深夜のでこぼこ道でトラックの長蛇の軍団に挟まれつつ一路ボーカーローへ走り、12時半に宿舎に着いた。自宅に帰るチェータンを見送り、毛布に滑り込むとすぐに寝てしまった。

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