2004年 1 2 月 9 日 (木) -ボーカーロの学校でレクチャー

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 熟睡していたのにしぶといノックで起こされてしまった。小年がコーヒーを持ってきたのだ。時計を見るとまだ6時半。彼のおかげで早起きにはなったものの、たまにはゆっくり寝ていたい日もあることを分かってほしいなあ。

 練習していた10時ころ、チェータンから電話。

「今日、12時45分から学校でレクチャー・デモンストレーションをやってもらうことになった。いいよね。ナンバーがUP0117の灰色のアンバサダーが迎えに行くから、それに乗って学校に来てほしい」。

宿泊登録手続きがまだだった

 ということで、ちょうど12時に宿舎の玄関で迎えの車を待っていると、宿舎のレセプションの男が、宿泊登録手続きがまだなので今やってほしいと頼んできた。いわれるままにカーボンコピー用紙に記入した。ところがコピーされた下の用紙を見ると、ぐちゃぐちゃのメモが重なりわたしの書いた部分が判読できない。登録用紙を台にしてだれかがメモ書きしたようだ。男は、すまないが事務所にある用紙にもう一度書いてほしい、と狭い管理事務所に案内された。この宿泊所に着いたときチェータンが親しそうに話していた男が狭い事務所の机を前にして座っていた。彼の向かいに座ると、チャーイはどうかという。もうすぐ迎えの車が来ることになっているのでそんな時間はないと申し述べると、ノープロブムと一蹴され、まもなくチャーイが運ばれてきた。そこへベンガル人だという初老の男が用紙をもってやってきた。記入している間、そのベンガル人がしゃべり続ける。

「68年にNKKの技術者チームがここに1年ほど宿泊して仕事をしていた。すごく真面目な人たちだった。最近、日本人技術者はめったに訪れなくなったが、ここの人たちは日本人にはとてもいい印象をもっている。あなたは仕事できたのか」

「ええ、まあ。友人と演奏ツアーをやるというのでここにお世話になっているんです」

「へええ、何を演奏するの」

「バーンスリーです」

「へええ。どんな音楽?」

「インド古典音楽です」

「へええ。なんとまあ。僕はあんまり音楽は聴かないけど、いいよなあ」

 などと、彼らの暇つぶしのような会話をしつつ記入を終えたころ、送迎車の運転手が事務室に顔を出した。

デリー・パブリック・スクール

 10分ほどで大きな門のあるDPSに到着。車を降りると、びしっとアイロンのきいた青シャツ姿のムラリーダランが迎えてくれた。コンピュータ専門家といっていたが、彼はこの学校の職員だったのだ。

 まず、校長室に案内された。広い校長室の大きな円形の机に囲まれて座っていたのは、一昨日ペテルバールのアイ・ホスピタルで、チェータンが遅れたことに文句をいっていた女性だった。机の上に「Dr. Premlata Mohan」と書かれた大きな名札。わたしに座るように指示する間も、電話を首と顎に挟んで叱るような口調でしゃべり、机の上の透明な書見台の上で書類をめくりサインをしていた。老眼鏡越しにムラリーダランを見て「お客さんにチャーイをもってくるようにいいなさい」と命令する口調は貫禄十分だ。ひっきりなしにかかってくる電話に応対し、やはりひっきりなしに入退室する職員の差し出す書類をチェックし即座に指示を出す。判断の早い有能な女ボスという雰囲気だった。チェータンが「校長の秘書のようなことをしていて、雑用がとても多い。教えている時間よりもずっと雑用のほうが多いのでいやになる」といっていた校長がまさにこの女性だったわけだ。

「ああ、あなたが校長だったんですか」

「そうです。わたしが校長だったんです」

「BHU出身とチェータンに聞きましたが」

「そうです。そこで英文学の博士号をとりました」

「実はわたしもBHUの学生だったんです」

 うん、と頷いた彼女は、コップの水をぐいと飲んで応えた。

「チェータンに聞きました。まずチャーイをお飲み下さい。間もなくチェータンが来ますので、彼と一緒に準備してください。楽しみにしていますよ」

 そこへ、青いスーツ姿のチェータンが顔を出した。12時45分から1時間のレクチャーと聞いていたが、校長室でチャーイを飲んでいるうちに1時をまわっている。なんとも慌ただしくも気ぜわしい表敬訪問だった。

チェータンの職場案内

 チェータンが、ここが僕の職場だ、と音楽室に案内された。防音用有孔ボードの壁に囲まれた広い部屋だった。楽器棚にはハールモーニアムが数台、タンブーラーが一台、収納されていた。壁面にはヴィシュヌ・ナーラーヤン・バートカンデーとヴィシュヌ・ディガンバル・パルスカルの肖像画。教壇の後ろの白版には、チャウ・タールのテーカーがヒンディー語で書かれていた。チェータンは、この教室で学生に声楽を教えているという。

 隣も音楽教室で、廊下に面した大きなガラス越しに床に無造作に転がっている大量のギターや、破れたブラスバンド用の大太鼓が見えた。同じ並びには、カタックを教えるダンス教室とタブラー教室もあった。そのタブラー教室からニーメーシュが出てきて「ここが俺の教室だ」と紹介してくれた。

 音楽室でチェータンが急いでスーツを脱いで着替えを始めた。クルターに袖を通したとき「あれっ、しまった。ヒロシ、余分のボタンもっていないか」と聞く。ボタンを忘れたようだ。たいていの舞台用クルターは、最初からボタンがついているものよりも、チェーンでつながった飾りボタンを取り替えるようになっている。別々になっているので飾りボタンを忘れることはよくあるのだ。わたしは予備をもっていなかった。彼は急場しのぎの安全ピンで胸元をとめるのにしばらく格闘。

レクチャー会場は体育館

 音楽教室横の階段を上がったところが、レクチャー会場の体育館だった。壇上には敷物とマイクがすでに用意されていた。そこに座って楽器を取り出し、マイクスタンドを調整するチェータン、シャツとズボンの平服姿のニーメーシュ、わたしの3人を、体育館を埋め尽くした400人ほどの生徒たちが見ていた。その生徒たちを監視するように教師らしい大人が取り囲む。司会役の女性教師が舞台下手の袖でわれわれを紹介すると、ざわついていた館内が急に静かになった。集まった生徒たちは中学生たちだ。

 舞台に上がる前、チェータンはこういっていた。

「今日はレクチャー・デモンストレーションということになっている。日本のことについても何かちょっと話しほしい」

 準備を終えたチェータンが、今回のツアーのいきさつ、この日本人オッサンは何者かなどを説明した後、わたしに目配せし、ヘーマーヴァティーを演奏すると学生たちに告げた。ラーガやターラの解説も日本紹介もすっとばし、いきなり演奏だった。うーむ、どうも彼の行動は予測がつかない。

 演奏は、ラーガ・ヘーマーヴァティーのアーラープとティーン・タールのガット。ついで、わたしのソロで最上川舟歌。最後のバティヤーリーを演奏し終わったとたん、拍手と歓声が大きく沸きあがった。

女校長にショールをもらう

 女校長が登壇し、こういう機会はとても貴重だ、君達もこの人たちの活動からなにかを学んでほしいといったような話を始めた。それを静かになった生徒たちが神妙に聞く。女校長は、素晴らしかった、ありがとう、今日のお礼です、といいつつ、手の込んだ刺繍のある緑色のショールをわたしの肩にかけてくれた。とたんに再び大きな拍手と歓声。

 音楽室に戻ると、今日の催しのスタッフたちも部屋に入ってきた。BHU出身の女性教師である痩せたティワーリー博士、女っぽい仕草のカタック教師、器楽教師、事務職員などを次々に紹介されたが覚えきれない。わたしにインタビューしたいという二人の女子生徒もいた。あなたの伝えたいメッセージはなにか、今日の催しでなにを感じたか、といったような質問に答えると、二人ともわたしの足の甲に足に触れて頭を下げた。この挨拶はどうもきまりが悪い。

India04

 チェータンが、学校を案内。どこにでもある普通の教室が長々と続く。ずらっとコンピュータが並んだ教室もあった。この学校はインドでも有数の優秀校で設備も揃っているという。副校長のような仕事をしているのでとても忙しく、ちゃんとした音楽活動もできない、と案内しながらぼやく。

 再び体育館に戻って校長と記念撮影した後、チェータン、ニーメーシュと繁華街のレストランへ行きランチ。カシミーリー・プラーオがおいしかった。薄暗い店内での食事が終わったのは3時すぎだった。宿舎に送ってもらって昼寝。6時ころ起きると、蚊に数カ所かまれて猛烈に痒い。

 日記を書き終えて、8時にスープだけの夕食。

宿舎で練習

 9時ころ、チェータンとニーメーシュがやってきて練習した。ラーガ・ヤマンのゆっくりしたティーン・タールとバティヤーリー。

 途中でチェータンの弟子のサントーシュもやってきて練習に加わった。サントーシュの楽器は、ハルシュ・ヴァルダーン製で5,000ルピー(=12,500円)もしたらしいが、音程が狂っていた。チェータンは、あまり良くない楽器なのに彼は暴利をとっていると、ハルシュに不満を申し述べる。わたしもハルシュから数年前に何本か買ったことがある。そのときはたしか1本80ドルだった。当時は、外国人のわたしですら高いと思った。だから、サントーシュのような若いインド人生徒には5,000ルピーというのは大変な金額なのだ。

 12時ころ就寝。

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