2004年12月10日 (金) -ボーカーロ公演

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 昨日10ルピーのチップを渡しつつ、コーヒーは7時半にしてくれといったにもかかわらず、少年は6時半にやってきた。最初から客の意思を無視することにしているか、時計がないのか、客の都合より彼らの労働開始時間の方が優先されるのか、チップが少なかったのか、わたしの意思が伝わっていなかったのか。笑顔を見せながら机の上にトレーをガタンと置いた彼に問いただすのは無意味のように思えてあきらめた。

●ニーメーシュがやってきた

 コーヒーを飲んでいると、ニーメーシュがやってきた。昨晩はチェータンの家に泊まったのだが、チェータンの母親の体調不良とチェータンが学校へ勤めに行ったので家を追い出されたのだ。

 ジーンズと青いシャツで部屋に入ってきたが、空いたベッドに座ってジーンズを脱ぎ捨て真っ赤なパッチ姿になった。India04

 一緒にコーヒーを飲んで彼の話を聞いた。

・・・俺は、バナーラスのグルにタブラーを習っている。バナーラスでタブラーを習う外国人は、グルが基本的なことを教えないのでなかなか進歩しない。同じグルに2年通っているという日本人のNもうそうだった。全然できていなかったんだ。そこで俺が基本的なことを教えた。3週間ほどでみちがえるようになった。だから、タブラーを習いたいという日本人がいたら是非俺のところに送ってほしい。ばっちりだよ。それとも、俺は日本に行ってタブラーを教えてもいい。ヒロシ、俺を日本に呼んでほしい。チェータンの薦めでタブラー教師としてDPSに勤め始めて半年になる。ダンバードからバスで通っているが、始業時間に間に合うためには朝4時に起きなければならない。それでいて月給はたった6千ルピーだ。子どもたちに教えるのはあまり面白くない。音楽で食べて行くのは本当に難しい。日本の事情はどうか。いいんだろうなあ。ところで、これは何だ。えっ、iPodっていうのか。へええ。おっおっ、すんげえ。いいなあ、これ。へええ、CD1000枚分入っているって。たまげたなあ。高いよね、これ。500ドル?うーん、沈黙。

 などという話を聞きながら、彼と3時間ほど練習した。彼のタブラーは、力強いもののまだ荒削りだ。

 一緒にランチをとって昼寝。

●ボーカーロー・ロータリークラブへ

 4時すぎに、声楽をやっているという男とチェータンがやって来た。ニーメーシュ、わたしと4人で今日のコンサート会場であるボーカーロー・ロータリークラブへ向かった。2メーターほどの高い塀に囲まれたL字型の建物だった。門の横の塀には、今日のコンサートを告知する布書きのバナーが貼られていた。たたみ一畳ほど大きさの黄地の布に青いローマ字で書かれている。

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 書かれた内容は、

「アンタラング基金主催/ヴェーヌ・ナード/インド-日本 バーンスリー・ジュガルバンディー/パンディット・チェータン・ジョーシーとナカガワヒロシ/共催 ロータリー・ボーカーロー ロータリー・チャース ボーカーロー・ダイアリー ICICI銀行」

 である。これと同じものが、ホール入り口にも下がっていた。

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 われわれが車から降りると、紺のダブルのジャケットでばしっと決めたムラリーダランが出迎えてくれた。彼は、チェータンの同僚であると同時にコンピュータ・エンジニアであり、かつ今日の主催者であるアンタラング基金の事務局長でもあることが分かった。

●幼稚園の教室が控え室

 われわれはまず、幼稚園の教室として使われている控え室に案内された。園児用の小さな椅子と机が並び、壁には子どもたちの絵、ヒンディー文字の書き順を書いたポスター、世界地図などが貼られていた。

 サントーシュを含む数人のチェータンの生徒が、なんとなくわれわれのまわりを行ったり来たりする。また、DPS関係者であるカタック教師他、チェータンの知りあいのミュージシャンたちも次々と訪れ声をかける。チェータンは、サントーシュの持ってきたタンブーラーを異常なほど念入りにチューニングを始めた。その間、わたしは地元の新聞記者やテレビのインタビューを受けた。e-TVというテレビ局で、インタビューと公演の模様は全国に放送される予定だという。カメラマンの持つビデオカメラは家庭用の普通のものだった。

●舞台を見て度肝を抜かれた

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 ホールに入り舞台を見て度肝を抜かれた。舞台背面に、チェータンとわたしのカラー写真が両端に配置されたヒンディー語の看板があったのだ。さすがチェータンの地元だけあって、公演への強い思い入れが伝わって来る。とはいえ、大写しの自分の写真を見るのは気恥ずかしい。壇上の舞台では、ダンバード公演でチェータンが気に入ったPA業者が機材の準備に忙しそうだった。India04

 すぐに舞台へ上がるのかと思っていたら、ムラリーダランがわれわれに最前列の席に座るよう指示した。壇上では、地元の有力者らしい人たちの挨拶が延々と続く。8時開演の予定と聞いていたが、時間が来てもいっこうにお呼びがかからない。われわれと同じ並びには、高価そうなサリーを着たDPSの校長の姿が見えた。

●チェータンの長演説

 来賓の挨拶が終わると、中年女性の司会がチェータンを紹介した。チェータンが舞台に上がった。彼は舞台右奥に置かれたサラスヴァティー神像に恭しく花を手向ける。ついでわたしと二メーシュが呼ばれ、舞台でマーラー(花の首飾り)を受け取った。さきほど挨拶した数人の来賓が一人ずつわれわれの首にマーラーをかけていくので、首が重くなるほどだった。

 われわれが舞台に座ってマイクの調整やチューニングを終えるころは、すでに9時を過ぎていた。開演儀式が1時間も続いたことになる。

 チェータンがチューニングの終わったタンブーラーを後ろに座るサントーシュに渡した。いよいよ演奏開始の準備ができた。わたしはチェータンの合図を待った。ところが、彼は今回のコンサートシリーズの企画理由を話し始めた。うーむ、なかなかにじれったい。

・・・

●チェータンとの出会い

 彼の話した内容に加えて、ここで、なぜ今回、チェータンとコンサート・ツアーをするようになったのかにちょっと触れておこう。

 わたしがチェータンに最初に会ったのは、2002年8月25日である。その日は、シタール奏者の田中峰彦さん、タブラーの理子さん夫妻と、大阪の韓国料理店「ファサン」で演奏した。そのライブ後、同じ日にインド人バーンスリー奏者のコンサートが西宮であることを知り、一緒に聴きに行った。会場は、造り酒屋の運営する「白鷹禄水苑」の2階だった。そのときのインド人バーンスリー奏者がチェータン・ジョーシーだったのだ。公演後、主催した松浦みどりさんにチェータンと、タブラー奏者のヴィノード・レレを紹介してもらい、いろいろ話をした。バーンスリーを見せ合ったりした後、わたしは半分冗談で彼にこんな内容のことをいった。

 この10年ほどインド人音楽家を招聘して日本国内でコンサートを作ってきた。しかし、逆に、インド人から招待を受けたことは一度もない。われわれがインドへ行くときは常にポケットマネーだけど、あなた方はたいていこちらの主催者が渡航費も負担してくれる。これはフェアーじゃない。一度くらい、日本人のインド音楽演奏家を招待してコンサートやってくれてものではないか。

 その彼に今回の渡印のことを知らせると、わたしがいったことを良く覚えていた。彼は、せっかくあなたが日本から来るのであれば二人でツアーをやろう、と提案した。わたしとしても願ってもないことだ。チェータンは、このやり取りがあってからツアーの計画を立てて準備してきた。今回のツアーはこうして実現したのだった。

・・・

「・・・マイケル・ジャクソンなどのポップ・アーティストは招聘するのに、ヒロシのように外国でインドの音楽を演奏している人たちを招待してこなかった。これはフェアーではない。むしろわれわれはこうした人たちにもっと来てもらい、演奏の機会を増やしてやるべきなのだ。また、これは文化交流としても多いに意義のあることで・・・」

 と今回のコンサートの企画意義を一通り紹介した後、演奏曲目についての解説に移った。

「で、今夜演奏するのは、まずラーガ・ハンスドワニです。最初はアーラープです。アーラープというのは・・・ついでルーパク・タールのガット。ルーパクというのは7拍子のリズムサイクルで・・・」

 こんな感じで、チェータンは20分くらいしゃべった。地元だけにチェータンの解説によけい熱が入ったのだろう。

●演奏途中にチェータンがまたもやしゃべり始めた

 さて、いよいよわれわれは演奏を始めた。ところが途中でチェータンがまたもやしゃべり始めた。

「このラーガの特徴は・・・こんな風にシンコペーションのリズムでやると、子供の遊ぶ様子が想像できるでしょう・・・」

 こういうのを教師魂というのだろうか。

 ラーガ・ハンスドワニに続いて、わたしのソロで最上川舟歌、そしてバナーラスィー・トゥムリー。バナーラスィー・トゥムリーは彼の十八番だ。生き生きとした表情で得意なメロディーやテクニックを披露する。

 その後二人で、バティヤーリーを演奏した。この曲は、サーランギー奏者のドゥルバ・ゴーシュが、1998年のエイジアン・ファンタジー・オーケストラ・アジアツアーのときにわたしのために作ってくれた曲である。これまでの共演では、チェータンには馴染みのない曲だったので、彼はわたしの吹く主旋律を遠慮がちに追奏していた。しかし、だんだん慣れてきたので旋律の役割分担もなんとなく固まってきていい感じになった。この曲の後半で二人とも短い笛に持ち替えて演奏すると、客席からは大きな拍手が沸き起こった。

 当初はこのバティヤーリーで終わることになっていたが、ダンバード公演で大受けだったためか、チェータンは各地特有の節回しを披露した。バナーラス風、ビハール風、シャハナーイー風など。ここでもやはり受けた。この辺ではまだ芸術音楽である古典音楽の聴衆が育っていなく、民謡や「軽」古典が好まれると彼はよく話していた。逆にいえば、古典音楽演奏家としてこうした地方で活動することの難しさを日ごろから感じているのだろう。それが、聴衆を教育していこうという古典音楽曲間解説を長々と続けた理由なのだろう。

 10時すぎに演奏が終わった。われわれは壇上でDPSの校長からそれぞれプレゼントが送られた。わたしがもらったのはナッツ、干しぶどうのはいった四角い箱だった。何人かにサインもねだられた。

●ムンゲールに向かう

 チェータンはまずわたしを宿舎へ送ってから、30分後にまた来ることをいい残して帰宅した。わたしと彼は、実は今夜の夜行列車で最後の公演地、ムンゲールに向かうのだ。わたしは大急ぎで部屋を片付け、スーツケースに荷物を詰め込んだ。11時にチェータンがやってきた。途中でムラリーダランと弟子のサントーシュ青年を拾いボーカーロー駅に到着。ここでムラリーダランとサントーシュに車を引渡し、0時45分発の列車に乗り込んだ。例によってあらゆる荷物をチェーンでつなぎ南京錠をかける。演奏してすぐの移動なのでかなり疲れているはずなのに、動き出したACスリータイヤーの車内で、チェータンはずっと携帯でだれかと電話をしていた。

 2段目のベッドに横になると急に空腹を覚えた。夕食を食べていなかったのだ。プレゼントにもらったカシューナッツを食べているうちに眠気を覚え、わたしはそのまま寝てしまった。

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