2004年12月13日 (月) -バナーラス2日目

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 6時起床。蛍光灯のスイッチを入れたが点かない。昨日は点いていたので、どこか接触が悪いのだろう。この部屋には窓がない。壁に取り付けられたむき出しの蛍光灯が点かないと昼でも真っ暗だ。バスルームにある唯一の窓を開けると、まぶしい朝の光がさっと部屋に入ってきた。

 この部屋は、蛍光灯が点かないとなると昼でも暗いわけだし、日記を書いたり練習するには不便だ。安いのはいいが、狭くて落ち着かない。階下の物音もうるさい。やはり、ダイヤモンド・ホテルに移ろうと決心した。

●ダイヤモンド・ホテル

 8時ころ、サイクルリキシャでダイヤモンド・ホテルへ行った。歩いても10分くらいの距離だった。ベーループーラーにあるこのホテルは、バナーラスの中心街であるゴダウリアーからちょっと離れているが、ガンガーにもBHUにも近いので今回の滞在には便利な位置だ。

 81年から84年までのBHU時代には、ちょっとした贅沢気分を味わうためによく利用した。たまに友人が来たときに冷たいビールを飲んだり、ちょっとゴージャスなインド料理を食べたりするためだ。また、界隈で唯一エアコンのあるホテルだったので、暑くて我慢ができなくなると涼みにきた。当時は、堂々たるモダンな4階建てのホテルで周辺の低い建物を圧していたが、今はまわりにも同じくらいの高さのビルが建ち並び、当時の偉容の片鱗すらない。建物も全体にすすけ、かなりくたびれて見えた。ホテルの等級ではいちおう三ツ星になっている。

 朝早かったからか、頼りない感じの不精髭の男がレセプションに立ったていた。「部屋は空いているか」と尋ねたが、あるともないとも応えない。1分ほどたってヒンディー語でぼそっといった。

「マネージャーが来る。待て」

 ほどなく身なりのいい男がやってきた。マネージャーだった。名前を告げると、

「あなたは昨日から来ることになっていたがどうしたのだ」

India04 と聞く。ヴィノードはちゃんと予約してくれていたのだ。部屋は2階の114号室。ツインベッドルームのシングル使用で1泊900ルピー。部屋は日本のビジネスホテルよりもずっと広い。テレビもついている。バスルームにはバスタブもある。これで2,250円なら安い。

 いったんオーム・ヴィシュヴァナート・ロッジに戻って屋上の食堂で目玉焼きとトーストの朝食後、ダイヤモンド・ホテルに引っ越した。

●ヴィノード・レレ

 ウィノードに引っ越したことを携帯で知らせると、サントーシュというブバネーシュワル出身の小年と一緒に1時前に訪ねてきた。彼は、今日の午後、結婚式と公演のためにインドールへ行くという。ヴィノードと会うのは、来日のとき以来2年ぶりだ。30代半ば、背はわたしと同じくらいで、葡萄色のシャツに灰色の毛糸のベスト、黒いズボンという出で立ち。七三に分けた短い黒髪で、レイバン風のサングラスをかけていた。再会を喜ぶというよりも、あっ、そう、来たのね、という感じだった。まだ10代らしいサントーシュは、上下とも白いクルター・パージャーマー、それに白い帽子に白いマフラー姿。一言もしゃべらないでヴィノードに付き従っている。ちょっと不気味だった。India04

「練習できたらいいけどね」

「インドールから18日には戻ってきますからそのときにでも」

「そうだね。また電話するよ」

 わたしを訪ねてきたのはチェータンからそういわれていたからであって、自ら喜んでわたしに会いにきたのではないというような口ぶりに聞こえた。

●ソーナールプラーのガリーを歩く

 1時すぎにぶらぶらとソーナールプラーのガリーを歩く。ガリーというのは、狭いところだと幅が1メーターもないの石畳の道のことである。ガンガー沿いに密集して建ち並ぶ三、四階建て建物の間を縫うように入り組んで走っている。建物に縁取られた空を見上げると真っ青だったが、ガリーを挟む建物があまりに隣接しているので足元は薄暗い。ところどころに野菜、揚げ物、菓子、タバコなど商う小さな店がある。その狭い空間で子どもたちが走り回る。野菜などの入った丸い大きな平ざるを頭に乗せた男が、商品を連呼する。皮膚病にかかった犬が下を向いて匂いを嗅ぎつつうろつく。悠然と歩く牛を人が角をつかんで押しやる。生活排水、ゴミ、線香、牛糞の混ざったガリー特有の匂いが、バナーラスにいることを再確認させてくれる。BHU時代、友人や音楽の先生が住んでいたので、この辺のガリーはよく歩いたものだ。当時の雰囲気は今もほとんど変っていない。

●陽光あふれるガンガー

 ほどなく、薄暗いガリーからいきなり陽光であふれるガンガーに出た。急な階段を降りると、周辺に薪が積まれた広いガートだった。ガンガー沿いに2カ所ある遺体焼却場の一つ、ハリシュチャンドラー・ガートだった。しばらく佇んであたりを眺めた。

 まだくすぶっている焼き場の炭と灰に水をかける男たち、陽炎で揺れる対岸、大きく蛇行する河に沿って延々と続く沐浴場、ゆっくり進む数隻の手こぎボート、ぺたっとした薄い木綿のシャツを着てぶらぶらと歩く西洋人や日本人とおぼしい若者たち、その彼らを追いかけるインド人の物売り、鼻を押さえてサリーを着たまま河の水に浸る女たち、石けんの泡を盛大にたてて体を洗う裸の男。初めて訪れた1972年のころも、しばらく住んでいた1980年代のはじめのころも、2004年の今も、この光景はガリー同様ほとんど変っていなかった。

 しかし、わたしにはバナーラスに再会したという感動はあまりなかった。まるで幻を見ているように現実感がなかった。石の上に立っているが、なんとなくふわふわと浮いているような感覚。20年以上前にこの街で生活していたことは間違いなく、目の前に展開する光景や匂いや音も馴染みのものだ。それなのに、浮遊感が強い。岸辺にもやった小さなボートの上で陽にあたりながら横になっている棒切れのような手足の老人の姿が妙に強く印象に残った。

 ガンガーの流れに逆行してガートを歩き、アッスィー・ガートに出た。住んでいたころは、土むき出しのなだらかな土手がガンガーに接していたが、石造りの階段に変っていた。腰の高さのコンクリートの円柱の中央に太い幹のバニアンの木が立っている。これがアッスィー・ガートのシンボルで、昔と変わっていない。幹の周囲には輪郭が分からないほどすり減ったガネーシャの石像やシヴァ・リンガがあった。

●ヴィレンードラ・スィン先生を探す

 階段を上がって、かつてわれわれのヒンディー語の先生だったヴィレンードラ・スィン氏のご家族と友人の宮本久義氏が住んでいた平屋の家に行ってみた。ヴィレンードラ先生はここを引っ越されたとだれかに聞いていたが、念のためと思い中を覗いてみたが、だれも住んでいる気配がなかった。

アッスィー・ガートを見下ろす階段の途中に、ピッツェリアと書いた看板があった。レストランの屋外のテーブルのところで座って談笑している男たちの一人に聞いてみた。

「昔、上の平屋の家に住んでいたヴィレンードラ先生を知っているか」

「ああ、ヒンディー語の先生だね。彼は今、すぐ近くで教えているよ。ガンガー・マットと書いた建物だ。自宅はナグワにある。あんたは日本人か」

「そうだ。25年前、BHUの学生として住んでいたんだ」

「そうか。じゃあ、そこにミヤモトジーが住んでいたのも知っているよね」

「友だちだ。あんたは彼を知っているのか」

「よく知っているよ。あの家の大家なんだ。ここにいるのが僕の兄弟」

「すると、君たちの名前は、シュクラーか」

「そうだ。よく知っているな」

「そうか。君たちが、例の悪ガキだったんだな」

 三人がいっせいに笑っていった。

「はははは。そうだ。悪ガキだった。今はここでイタリア料理店をしている。よかったらランチでもしていってよ」

「そうだね。じゃあ、後で必ず来るよ」

 ヴィレンードラ先生の教室のある建物はすぐに分かった。ガートに面した建物だった。横にガンガー・マットとヒンディー語で書かれた、頭をぶつけそうな狭い入り口から階段を上ると広い中庭になっていた。その中庭にある机に向かっていた白髪の男性がヴィレンードラ先生だった。隣に30代前半に見える、日本人のような女性が座っていた。ちょうど授業をしていたようだ。ヴィレンードラ先生は、わたしの顔を見るなり、「おーお、ナカガワジー、いつバナーラスに来たの」と自分の隣の空いた椅子を指した。顔はちょっとむくんだように丸く髪も薄く白くなっていたが、まぎれもなくヴィレンードラ先生だ。India04

●ヴィレンードラ先生

「今でもバーンスリーをやっているのか?どうしてた?」

 20年以上も前に教えた生徒の名前と、わたしが何をしているのかをちゃんと覚えていてくれたので嬉しかった。もっとも、先生は90年にポートアイランドの我が家に一度来ているので、最後にお会いしたのはそれほど昔ではない。あのときは、無人で運行されるポートライナーが気に入り、最前列に座ってポートアイランドを二周したことを覚えている。

 先生は向かいに座る若い女性に英語でいった。

「彼は、ナカガワジーといって、バーンスリーを演奏しているんだ。昔の僕の生徒だったんだ。ちょっと授業中断するけどいいよね」と再びわたしに向き直った。

「僕は、相変わらずこんな風にヒンディー語を教えている。相変わらず」

「先生は、いくつになりました」

「60歳だ。もう年だよ。でもこれで生活しているのでやめられないよ」

「奥さんはお元気ですか。心臓の手術をしたと聞きましたが」

「まあまあだな。君たちがいるころに手術を受けた後、さらに2回手術をした。今は、人工心臓だ。ときどき辛そうだが、まあ、元気だよ」

 ムンゲールでのチェータンとの公演を報じたヒンディー語新聞を見せると、

「ほうー、すごいね。大したもんだなあ。どれどれ、ふーむ、これ、ナク・ガワーと綴りが間違っているな」とヒンディー語の先生らしく指摘する。

「ミヤモトジーも元気だよね。来年の夏にバナーラスにくると聞いたが」

「元気ですよ。これは内緒だと知り合いに聞きましたが、ミヤモトジーは来年4月から教授になるようですよ」

「ほほう、そうか。教授か。俺は、相変わらずこんな感じだけど」

 こんな会話をニコニコしながら聞いていた女性は、日本人のようだったがなんとなく雰囲気が違う。細身で均整の取れた体型、肩までの黒い髪で目が輝いていた。聞くと、日系アメリカ人だった。日本語は当然話せない。先生とは、ウィスコンシン大学で知りあったという。先生は、今でも4月、5月になるとほぼ毎年ウィスコンシン大学へ行って教えているのだ。彼女は、アフリカで教育プログラムを終え帰国する途中バナーラスにやってきて、ヒンディー語とシタールを習っているといっていた。別れ際、先生はわたしと彼女に向かっていった。

「あさって、君たちをランチに招待するから、1時にここに来てくれ」

●アッスイーからランカー方面へ

India04 アッスイーからランカー方面へ歩いた。昔のようにごみごみしていたが、数階建ての建物が連なり、われわれが住んでいたころの面影がほとんどないほどの変化だった。かつては、細い流れのアッスィー川を過ぎて大学へ向かう広い真っすぐの道路の両側は、平屋や高くとも3階建ての建物がごちゃごちゃと建ち並び、歩道にあたる測道を大小の商店が占領していた。しかし今は、ここがバナーラスかと思うほど近代的なアパート、銀行、事務所、ブティックなどの入った建物がずらっと大学正門まで続いていた。もっとも、大学正門に近づくと、野菜屋や薬局、雑貨屋などかつて毎日のように利用した店がまだ健在だった。サイクルリキシャと通行人の量はかつてよりもずっと多い。古い建物が密集しているバナーラスの中心部では難しい開発は、景観やきちんとした都市計画のないまま比較的新しい区域のランカーに集中したようだ。広告看板で覆い尽くされたコンクリート製の電柱からだらしなく方々に伸びる電線、つぎはぎだらけの舗装、歩道と車道の間にある境界のはっきりしない側溝などと、白亜の巨大な高層アパートとの対比がとてもアンバランスだ。India04

●かつての下宿先を訪ねる

India04 ヒンドゥー寺院の屋根を模したBHUの正門は、その広い通りの突き当たりにある。昔はそれなりに威風堂々と見えたが、今はものすごい排気ガスでかすんで見えた。その正門から右に折れ、大学の塀沿いに歩いてみた。わたしと配偶者が住んでいた下宿先のあたりの眺めもかなり変っていた。新しい建物だらけでかつての面影はまったくない。たしか、下宿先の向かいにはジャイナ教のお寺があったはずだ。ようやくジャイナ教のお寺を探し当て小道に入ると、なつかしい鉄の門扉と中庭が見えた。門扉越しに中をうかがうと、Tシャツのような真っ赤なブラウスに水色のサリーを着た小柄な老女が、男と話していた。わたしの顔を見た彼女は、あれーっ、と近づいてきた。下宿人のわれわれがマータージーと呼んでいた家主だった。

「マータージーは覚えていますか?ここの2階に住んでいた日本人です」

「ああ、たしか夫婦で住んでいた・・・」

 彼女はこういいつつ、扉を開けて中に入れてくれた。India04

「20年ぶりにバナーラスに来たので、なつかしくなって見に来たんです。この辺もずいぶん変ってしまってちょっと迷いました」

「そう。この建物以外はみんな新しくなってしまった。ここは相変わらずだけどね。はるばる遠くからせっかく会いにきてくれたんだから、チャーイでも飲んでいきなさい」

India04 案内された部屋は狭くて暗い応接間だった。壁の小物棚には、安っぽい造花の飾り物やプラスチックの小さな牛の置物が雑然と置かれていた。

「プラカーシュはどうしているの」

「2年前に結婚して今は別のところに住んでいる。近くだけどね」

 プラカーシュというはマータージーの養子で、われわれが住んでいたころは10歳くらいの少年だった。われわれがバナーラスを去るちょっと前に夫であるネーギージーをガンで亡くした後、マータージーはそのプラカーシュと二人でここに住んでいたが、今彼女は独り住まいだった。どっしりとした体型は昔とそう変っていない。白髪と皺はもちろん増えたが、まだまだ元気そうに見えた。ネギジーやプラカーシュに大声で怒鳴り散らしていたのを思い出した。

India04India04 彼女がチャーイを作っている間、われわれが借りていた2階の部屋を見に行った。かつての素通しの斜め鉄格子の外壁は、塗装したレンガの壁になっていた。昔は、激しい雨のときは部屋の中まで雨が入ってきていたのだ。われわれの部屋の前の広い屋上から見下ろす中庭の眺めは同じだった。離れのトイレ、その横のバナナ、狭い野菜畑、二三個無断で失敬してマータージーに怒鳴られたザクロの木。当時、福永君や橋本君のいた1階の部屋はシャッターが取り付けられて、そこにビハールから来たというグラフィック・デザイナーの青年兄弟で住んでいた。India04India04

 応接間に戻って、マータージーの入れてくれたチャーイとビスケットをいただいた。何を話したらよいのか分からないマータージーは、気恥ずかしそうな笑みを浮かべてじっとわたしを見て、ネーギージーが亡くなったときのことや、今の生活のことなどを話した。India04

●アッスイーのピッツェリア

 元の下宿先を辞去してすぐにサイクル・リキシャをつかまえ、かつてのヴィレンードラ先生宅の大家シュクラー家がやっているアッスイーのピッツェリアに戻った。一番上が調理場と屋根のある食堂になっていて、その下のオープンエアーの2段にそれぞれテーブルと椅子が並べられている。一番下の段には、数人の西洋人と日本人らしい女性のグループがピザを食べていた。わたしは、ガンガーをぼやっと眺めながら真ん中の段のテーブルで油の多い焼きそばを食べた。50ルピー(125円)。時計を見ると4時だった。

 ガンガーを右手に見ながらガート沿いに歩いた。ソーナールプラー通りのインターネット・カフェでメールをチェックした後ホテルに戻ったのは6時すぎ。部屋に着いたとたん停電になった。部屋の蛍光灯が一瞬消えたと思ったら、大きなエンジン音が聞こえ出し、再び明るくなった。ホテルの発電機が動き出した音だった。自家発電で部屋は明るくなったが、充電中だったバッテリー切れの携帯電話のオレンジランプが消えていた。コンセントの電気まで自家発電でカバーしきれないのだ。

●リトウィクを訪ねる

 7時半ころ、停電で真っ暗な道をドゥルガー・クンド方面に向かって歩いた。街中から発電機の音がしていた。途中で土産用のケーキを買った。トゥルスィー・マーナス・コロニーの守衛所でリトウィク宅の場所を聞いた。このコロニーは中層のアパートが何棟も建ち並ぶ大きな集合住宅だった。真っ暗な階段を3階まで上り、約束の8時ちょうどにベルを押した。

「やあ、よく来たね。あいにく停電でね。いつものことだけど」

 といいつつ、リトウィクが居間のソファに案内してくれた。彼と会うのは21年ぶりだったが、イメージしていた通りの顔だった。髪がちょっと薄くなったものの、体型も表情もそれほど変わってはいない。尊敬されるべき人間は目下の人間と久しぶりに再会しても喜んだ顔はしないものだ、という表情だ。居間の隣の部屋でレッスンを受けていた女性が出てきた。リトウィクに声楽を習って12年になるというイスラエル人だった。彼女はほどなく帰っていった。

 リトウィクは、わたしの手渡した土産風呂敷、「聲明源流」と「17.1.1995」の2枚のCD、ケーキを、あっ、そうという感じで受け取り、ソファに腰を下ろした。そして自慢話が始まり、わたしはひたすら聞き役となった。われわれの主任教授だった故プレームラター・シャルマー女史のこと、昔と今のBHUのこと、イギリスから最近出た彼の新しい本、CD、韓国を含む内外でのコンサートのことなど、いちいち写真や新聞の切り抜きなどを見せながら続いた。

「一昨日もコンサートしたよ。ホテル・ガンジスビューで。あそこのコンサートは、最近はバナーラスで一番権威があるんだ。すごい熱心な聴衆でね」

 彼はわたしの最初の先生でもあり、切れ目のない自慢話機関銃攻撃から逃れるすべはない。「すごい」「へええ」の相槌はますますの攻撃激化に油を注いだ。ある程度予想していたことだが、この「とにかく僕の話を聞いてほしい」性格は、彼がまだ独身時代にわたしが声楽を習っていたころとまったく変わっていない。そのうち、シュブラクシュミー夫人も加わり、わたしはいよいよ守勢一辺倒になった。全体にコロンとした短躯、丸顔の夫人は、リトウィクの話にいちいちうなずき補足を加える。India04

「この人は、すごい声楽家であるばかりでなく、本当に優れた教育者、研究者なんです。ですから、日本にも招聘すべきです。その価値があるんです。でもご覧のように彼はシャイな性格なのでとても損しているの」という調子だ。リトウィクは、わたしがインド人音楽家を日本に招聘して公演を行ったことは知っているので、この俺様を招聘しないのはけしからんと暗にほのめかしているように思えた。実力のある自分は正当に評価されてしかるべきなのに現実にはそうなっていない、という願望未達成感が相当強いようだ。India04

「明日、2時すぎにBHUへ来なさい。学部長に、お前のパフォーマンスが大学で可能かどうか聞いてみるから」

 と、聞き役に対するご褒美のような最後の言葉を聞いて、アパートを辞した。まだ停電が続いていて、あたりは真っ暗だった。

 暗い夜道を歩いてホテルに戻り、すぐに就寝。11時だった。

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