2004年12月14日 (火) -バナーラス3日目

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 7時起床。ルームサービスのコーヒーを頼もうと値段表を見ると、80ルピー(200円)もするのでやめた。道路を挟んだ向かいにあるチャーイ屋で、1杯10円のチャーイを2杯飲んだ。汚いテーブル一つしかない暗い店内のがたがたする床机に腰を下ろすと、棒のように痩せた老人が分厚いガラスコップに入れたチャーイを黙って目の前に置いた。店先の炉に薪をくべたり、床に置いたバケツの水にさっとくぐらせてグラスを洗ったり、煮染めたような布巾でテーブルを拭いたりと、老人は休みなく黙々と動く。2杯目で猛烈な便意に襲われたので急いでホテルに戻った。下痢だった。インドに入ってから初めてだ。昨日の油っぽい焼きそばのせいかも知れない。

●デリー行き列車予約

 今日の仕事は、まずバナーラス駅へ行き、デリー行き列車の予約。ホテルの外にたむろしていたオートリキシャと往復40ルピー(100円)で交渉成立。

「昼飯のおかずの野菜を買うからちょっと待ってくれ」

 と実直そうな運転手が途中の路上野菜市場でジャガイモなどを買うのを見つつ駅へ。昨日一日中歩いたので、街の風景の馴染み感がぐっと増した。駅までの道はかつて何度も通ったので、外国にいるという感じがない。

 駅舎にある外国人専用の売り場で、18時45分発のシヴ・ガンガー・エクスプレス、ACクラスの切符を購入した。出発は20日で、予定では21日の朝7時45分にデリー駅に着く。値段は、826ルピー(=2000円強)だった。

 ホテルに戻り、だれもいない1階の食堂で卵焼きとトースト、コーヒーの朝食。75ルピー(187円)。高いとはいえないが、街の食堂では定食2回分の値段だ。食事をしつつ、デリーの居候先になる友人のスニールに、21日の到着時間を携帯電話で知らせた。デリー駅まで迎えにきてくれるという。日本の配偶者にも電話した。今日は彼女の誕生日だった。

「これからカニをどっさり食べるのだ」

 などと申し述べる。このように、わが携帯電話は発信するのに何の問題がないが、受信できなかった。設定に問題があるのかもしれない。

●頻繁に停電する

 頻繁に停電する部屋で練習し日記を書いた。停電するたびにホテルの発電機の音が響き渡り、排気ガスの匂いが漂ってくる。こんなに頻繁に停電していたら、エアコンの必要な季節はどうなるのだろう。バナーラスの夏の暑さは半端じゃない。ランカーなどの新市街に増え続ける建物ばかりでなく、古い市街地でも電力の需要は増えているはずだ。昨日、昔の下宿先の路地でも見たが、電柱から伸びる2本の電線にひょいと導線をひっかける「盗電」もまだまだ多そうだ。電力の需要は拡大しているのに供給が追いつかない。停電が増えるということは、自家発電機が増える。発電機が稼働すれば燃料消費量と排気ガスが増える。街を走る車も多くなっているので、今やバナーラスは排気ガスだらけだ。IT大国といわれるインドだが、基本的なインフラの整備と発展のアンバランスがますます顕著になり、住環境がどんどん悪化しているように見える。

●BHUへ

 2時ころリキシャでBHU(Banaras Hindu University)へ向かった。リキシャで20ルピー(50円)。1916年にこの大学を創立したマダン・モーハン・マーラヴィヤー(1861-1956)像のある正門をくぐると、広々とした緑多いキャンパスに入る。わたしと配偶者が1981年から1984年まで学生として在籍していたこのBHUは、インドでも有数の総合大学である。バナーラス南端のガンガー沿いの半円形の広大な敷地には飛行場まである。リキシャに揺られて広い敷地にまばらに建つ低層の校舎を見るうちに、記憶が少しずつ蘇ってきた。敷地をたっぷり使った校舎はわれわれがいたときとほとんど同じだった。

 見慣れた音楽学部の平屋の建物が見えてきた。数段ある正面階段を上がると、両翼に弧状に続く教室や事務所があった。この建物は、円形の中庭を囲み同心円状に部屋が配置されている。芝のあるゆるい階段状の中庭は、正面の屋外舞台を臨む観客席になる設計だ。

 教室からは楽器の音や歌声が聞こえてきて、とても懐かしい。「リトゥイク・サンニャール博士」と表札のある部屋をのぞいた。床の敷物に直に座った10人ほどの学生が練習中だった。リトウィクはドア越しにのぞくわたしを確認し、しばらく待つようにいった。

 正面入り口の階段に座ってタバコを吸っていると、守衛がやってきて禁煙だというのであわてて火を消した。その階段のところに、大きな三脚とカメラを抱えた西洋人の青年が佇んでいた。濃い茶色の髪の痩せた青年で、気の弱そうな目をしている。聞くと、ベルギーの大学で写真を専攻している学生だった。バナーラスの人をテーマに写真を撮っているという。演奏中のミュージシャンの写真を撮りたいのでその許可を得るために学部長を待っていたのだった。

●シュリーカーント・ミシュラー

 しばらくしてリトウィクが、ちょっと腹の出たはげ頭の中年の男と出てきてわたしを呼んだ。その中年男がわたしに話しかけた。「やあ、ヒロシじゃないか。俺を覚えているよね。ほら日本で会っただろう」という。最初だれか分からなかった。リトウィクが「シュリーカーント・ミシュラーだよ。忘れたのか」といったので思い出した、というか、えっ、この男が彼だったのか、と思った。彼は、パカーワジ奏者のトゥーン・マハーラージことシュリーカーント・ミシュラーだったのだ。名前ももちろん知っていたし、たびたび日本に来て演奏活動をしていることも知っていた。ここの大学時代にも何度も会っていたし、たしかに日本でも会ったこともある。ところが、抱いていたイメージとはずいぶん違う。彼は、神戸のわたしの家にも来たといっていたが、まるで覚えていない。うーむ、加齢による顔記憶欠落症状か。

 ともあれ、3人でリトウィクの教室に入り、学部長が事務所に来るのを待った。壁に数台の大きなタンブーラーが立てかけてあるリトゥイクの教室は、わたしが学生のころにここで授業を受けたときとほとんど変っていない。

●ふと懐かしくなった

「われわれがここにいたとき、南インド音楽を教えていたランガナイキさんという先生がいましたが、どうしているんですかね。当時の授業のことを書こうと思っているんです」

「ああ、いましたね。彼女は、たしか大変な事故にあったと聞いた。チュラムサックという、ほら、タイからの留学生がいただろう。そのチュラムサックの関係で彼女はタイに行ったらしい。学会かなにかだったらしい。そこで、ひどい交通事故にあった。右眼を失ったんだ。それ以来、あらゆる意欲を失い、現在チェンナイかどこかに住んでいると聞いた」

 リトウィクが、いかにも人ごとのように感情のこもらないままこう答えた。

 ランガナーイキー・アイアンガール教授は、当時、多分40代だったと思う。南インド音楽理論担当だった。ほっそりとした小柄な女性で、いつもオリッサ柄などの地味だがセンスを感じさせるサリー姿が印象に残っている。濃褐色の顔で美人というわけではないが、落ち着いた知的な表情でテンポのよい講義をしていた。当時学部長だったプレームラター・シャルマー教授の、うっすらと口ひげのある堂々とした姿とは対称的に、アイヤンガール教授はさわやかな感じを与える先生だった。

 チュラムサックの名前が出たのでふと懐かしくなった。われわれの所属していた音楽理論学科には、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカなどの西洋人、パレスチナ人、われわれや龍君、小日向君など日本人がいたが、タイからの留学生は彼だけだった。小柄で物静かな彼は、当時英語がほとんど分からず、講義の後によく小日向君らに質問していた。もちろん、彼だけが英語が不得意だったわけではない。われわれもそうだった。ひょうきんなイタリア人ピコリは、試験のときイタリア語で書いてもいいかと先生に聞いたこともある。しかし、チュラムサックの場合はわれわれよりも輪をかけて英語ができなかった。2003年にAFOでバンコクに行ったとき、現地の国際交流基金スタッフであるタイ人女性が彼の名前を知っていた。彼女によれば、あのチュラムサックは今ではタイ北西部にある大学の学部長をしており、その方面では有名だという。

●学部長室

 こんな話を聞いているうちに、学部長が事務所に戻ってきたのでわれわれは移動。学部長室はそれほど広くない部屋だ。大きな机を前に壁を背にして座っていた現在の学部長は、シタール奏者のクリシュナー・チャクラバルティー女史だった。小柄な球形の体をすっぽりと学部長席におさめた彼女は、顔はむくみ頬の筋肉がたるんでいたが、目鼻立ちは鋭角的だ。ラヴィ・シャンカルの弟子である彼女は、小日向君のシタールの先生だった。彼女の家に下宿していた小日向君を訪ねたとき、何度かお会いしたことがあるのでわたしは覚えていたが、彼女はまったく覚えていないようだった。

 学部長室にはひっきりなしに人が出入りするので、話をするきっかけがなかなかつかめない。彼女はちらちらとわれわれを見ながら職員に指示を出したり書類にサインをする。きりがついたところで、さて、何の話なの、という感じでわたしに目を向けた。

「今パフォーミング・アーヅ学部には何人くらいの学生がいるんですか」

「あなたのいた22年前と比べると、学生はとても増えている。今は全部で500人ほどだ。ただ、残念なことに楽理科は講師がいないためここ数年閉鎖されている。図書館だけは開いているけど。教授陣がみな引退してしまい、後任がいない。来年くらいには再開したいと思っている」

「バナーラスに来る前、ジャールカンドとビハールでコンサートツアーをしてきました」

 といいつつわたしの名前が書かれたヒンディー語新聞の記事を見せた。彼女はそれをちらっと見て頷いた。

「どこでもそうでしたが、長いアーラープなんかよりは、軽い民謡などを演奏するよう要求されましたが、この辺もそうですか」とわたし。

「最近はどこでもそうだ。軽いものなんて、本当にただ過ぎ去ってしまうものなのにね。この風潮はよくないとわたしは思う」

「責任の重い仕事に就いて、演奏活動に影響あるんじゃないですか」

「多少はあるけど、コンサートはときどきやっていますよ」

「ところで、ここを出てずっと練習してきたヒロシがどんな演奏するのか、僕も聞いてみたいのですが、ここでパフォーマンスできるようなチャンスはありますか」

 とリトウィクが本来の訪問目的を思い出したように彼女に尋ねた。

「うーん、いろんな催しが目白押しだからね」

 彼女は、書類の束をかざして難しいことを伝えた。

 まあ、いきなりやってきて急に対応してほしいというのも無理があるし、また、もともとリトウィクが儀礼的にわたしにいってくれた申し出であること、わたしのバナーラス滞在も限られていることで、ひょっとしたらという期待はわずかにあったものの、こうなることは予想していた。

 こんな会話をしているところに、小柄な中年の男が入ってきた。バラタナーティアムの先生、ホーンバール氏だった。学部長が、「彼はヒロシといって、22年前ここの学生だったのよ」と紹介した。「それはそれは。何度か会っているよね」

「はい、わたしが当時下宿していたマルホットラ教授宅の娘のニーラムとワルシャーが先生に舞踊を習っていたので、覚えています。お久しぶりです」

「ああ、マルホットラの娘ね。彼女らは今アメリカに住んでいるよ」

 この会話がきっかけで、リトウィク、シュリーカーント・ミシュラー、わたしの3人はなんとなく席を立ち、学部長に礼をいいつつ部屋を出た。

 別れ際、リトウィクは、わたしの演奏を聞いてみたいから時間ができたら電話するようにといった。シュリーカーントには、家に遊びに来いといわれた。

●リキシャでアッスィーへ

 リキシャでアッスィーへ。リトウィクが、ホテルからBHUまでのリキシャ代20ルピーは払い過ぎだというので10ルピー支払ったら文句はいわなかった。昨日焼きそばを食べたピッツェリアで、トマト・きのこのスパゲティ、野菜サラダ、コーヒーの昼食をとった。別のテーブルに、男女8人の東洋人グループが大声でしゃべりながら食事をしていた。ペタペタコットンのクルターに長いビーズの首飾りをした若い女性や、破れたジーンズのポニーテール青年などがいた。最初は日本人かと思ったが、よく聞くと朝鮮語でしゃべっていたので韓国人のグループだと分かった。バナーラスのガートで韓国人を見たのは初めてだった。韓国で若者のインド旅行が流行っているのだろうか。その後、インターネット・カフェでもよく見かけたし、ハングル仕様のキーボードも揃っていたので、旅行者は増えているのだろう。

●バナーラスの韓国人

 ヒッピー風インド旅行のシンボルともいえるバナーラスで韓国人たちを見てちょっと複雑な気分になった。ピッピー旅行のはしりは60年代後半の欧米人、とくにアメリカの若者である。体制への消極的反抗、社会や共同体との関わりにおいて自己の意味を見いだせなくなった若者たちの漂流運動ともいえるヒッピー・ムーブメントは、ドラッグや瞑想、ヨーガ、ミステリアス志向など、そうしたすべてのものを含むインドへ多くの若者を運んだ。猛スピードの高度成長を達成しつつあった日本でも、「先進国クラブ」の仲間入りに伴う意味喪失的自己漂流の気分もあり、そうした欧米のヒッピー・ムーブメントの影響を受ける若者が増え、世界中を漂流し始めた。72年に1年間ユーラシア大陸を放浪したわたしもその一人だった。以来かなりの間、インドにやってくる漂流旅行者は、例外はもちろんあるが、ほとんどが欧米と日本の若者だった。そのためか、インドで欧米の若者を見かけるとなんとなく仲間のような親しみを覚えたものだ。

 アバルトヘイトが健在だったころの南アフリカでは、日本人は「黄色いバナナ」と呼ばれたそうだ。皮が黄色くて中味が白い。この表現は、顔つきは東洋人だが中味は嫌悪する白人と変らないという意味だ。インドを旅する日本人貧乏旅行者は、嫌悪はされないまでもインド人にはそう見えていたのかも知れないし、本人たちも精神的には同じ気分で「貧乏」旅行を楽しんでいたように思える。つまり、欧米「ヒッピー・クラブ」の一員のような気分で漂流していた。ヒッピー風のファッションでバナーラスの街を歩く韓国人たちをみて複雑な気分になったのは、パッと見にはわれわれと変らない東洋人である彼らも、遅ればせながらこの「クラブ」に参入してきたように見えたことが原因の一つだろう。ひょっとすると、韓国も日本や欧米と同様、社会と自己の関わりに意味を見いだすことができにくい社会になってきたのかも知れない。

●サンジーヴ青年

 昨日のように、ガンガーを右手に見ながらハリシュチャンドラー・ガートへ向かってガードをぶらぶらと歩いた。小さなボート周辺にたむろする男たちが「舟下りはどうだ。安くするよ」と声をかけてくる。その一人に、サンジーヴという名の20代前半に見える青年がいた。わたしが取り合わないので舟下りの勧誘はあきらめたが、「兄が近くで装飾民芸品など店をやっている。両替もできる」としぶとくついてくる。時間もあるし両替の必要性があったので、その青年についていった。暗くて狭いガリーにある、奥行きのあるうなぎの寝床のような店だった。入り口の陳列棚にあったバーンスリーを吹いてみたがどれも音が狂っていた。奥では兄らしい男が西洋人相手に商売をしていた。サンジーヴとはちっとも似ていないので本当の兄弟ではなさそうだった。イタリア人だという西洋人の痩せた男は、イタリア訛で「ファック」と連発しつつヒンドゥーの神々のプリントされた山盛りのティーシャツを吟味していた。彼は商品の買い付けにきていたようだ。兄らしい男に1万円札を渡すと、どこかに電話をしてレートを確認し、今日は3900ルピーだと札束を差し出した。イタリア人の男は「ごまかされないように何度も数えた方がいいよ」とわたしが数えている横でいった。

 両替を終えて店を出たわたしにサンジーヴがついてくるので

「もう用事が済んだから君はもういいよ」

 といった。しかし、彼はしぶとい。

●間口1間ほどの楽器屋

「別の兄が楽器屋をやっている。そこだとプロ用のバーンスリーもある。ついて来い」

 と迷路のようなソーナールプラーのガリーを歩き出したので、仕方なく彼の後に従った。連れて行かれたのは間口が1間ほどの楽器屋だった。三方の壁にシタールやサロードなどの楽器がぶら下がっている。床は布団の上に白いシーツでカバーしてあり、店内に入るには靴を脱がなければならない。店主らしい中年の男が壁に背中をもたせて座っていた。サンジーヴが

「彼はいいバーンスリーを探しているって」

 と男にいうと

「グプタだ。俺の本職は絹製品の製造販売だが、この店は息子のジョリーがやっているんだ。今日は息子が新しい店の準備でいないので俺が店番だ。いいバーンスリーって。その棚の上にいっぱいあるよ」

 と、新聞紙にくるんだバーンスリーを床に広げた。両替して現金があったので、音程のしっかりしたF管を1000ルピーで購入した。実際はもっと安いはずだが、音質もなかなかよかったので買ってしまった。バナーラスで作られたものの他に、デリーのメーカーから仕入れたプロ用のバーンスリーもあった。コンサート仕様のE管の値段は、3000ルピーだという。有名なデリーのハルシュ・ヴァルダーンの1本250ユーロというとんでもない値段に比べるとかなり安い。何本か吹いてみたが、音質が気に入らないので購入しなかった。

●ゴーラクナート・ダースさんの家

 ふと、BHU時代にバーンスリーを習ったゴーラクナート・ダースさんの家が近くにあったはずだと思い出し、サンジーヴに知っているかと聞いてみた。

「知っているよ。ついてこい」

 いよいよ暗くなってきたガリーを歩く彼の後をついていった。

「ここだ。ほら、表札に書いてあるだろう」

 たしかに青い鉄板の塀にゴーラクナート・ダースとい書いてあった。学生時代に通い慣れた家のたたずまいとは違っていた。前の家から引っ越してきたのかも知れない。この日はカメラも手土産もないので明日訪ねることにした。リトウィクによれば、ダースさんはBHUを引退し、今は趣味でルドル・ヴィーナーを制作しているはずだという。また二人の息子はドゥルパド歌手として活躍しているらしい。

 6時ころホテルの部屋にいったん戻り、ふたたびソーナールプラーの大通りに出た。サントラー、ぶどう、バナナを50ルピーで購入し、ついでにインターネット・カフェへ行ってみた。配偶者から携帯電話の着信設定のやり方のあるメールが来ていた。ホテルに戻って設定を何度か試してみたが、やはり着信できない。何度か配偶者とやりとりしたが、だめだった。

 10:30に就寝。

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