2004年12月15日 (水) -バナーラス4日目
6:30起床。昨日と同じように向かいのチャーイ屋でチャーイを2杯飲むと正しい反応が来たので、ホテルへ駆け込んだ。下痢は収まっていた。
10時ころ、ゴーラクナート・ダースさんに電話した。いきなり本人が出た。
「ナカガワか。久しぶりだな。ちょうど良かった。もうすぐ勤めに出かけるところなので、家にいたんだ」
「お元気ですよね。今日の夜にでも訪ねようと思っていたんですが」
「お前の顔を見たいから今すぐ来い。待っている」
再会を懐かしむ会話もなく、ダースさんは出し抜けにこういった。
ホテルから彼の家まで歩いて10分もかからない距離だったが、何も持たずにあわててリキシャに飛び乗った。手土産を買う暇もなかった。
玄関のブザーを押すと、小さな鉄扉からジャケット姿のダースさんが顔を出した。
「まあ、入れ」
細い口ひげやオールバックの髪はかなり白くなっていたが、端正な顔と誠実そうな目の表情は20年前とそれほど変っていないように見えた。すらっとした中背の体型も同じだった。
玄関の小さな鉄扉を抜けたところは、中庭のようになっていた。彼は、何もいわずにわたしの背に腕を置き、狭い応接室に案内した。わたしが椅子代わりのベッドに座るとすぐに話し始めた。
「お前が前にくれたボウルを覚えているだろう。この家ではそのボウルにナカガワ・ボウルと名前を付けて、使うたびにお前のことを思い出していたんだ。お前からきた手紙も全部とってある」
という。
覚えているだろう、といわれたボウルのことはまったく覚えていない。ナールヤーの下宿を引き払うときに、使っていた鍋や器を進呈したような気もする。ともあれ、このような、ぶっきらぼうで単刀直入な歓迎の仕方が嬉しかった。そっけない口調の響きの中に、20年ぶりの弟子訪問に対する興奮ぶりが伝わってくる。わたしが習っていたころのダースさんも、感情を表に現す人ではなかった。白い犬が部屋に入ってきて、わたしに向かってうなった。年よりの犬なんだ、とダースさんがいいつつ首のあたりをなでつけると静かになり出て行った。
犬と入れ替わりに白いシャツを着た若い男が入ってきた。下膨れの顔、冗談のように濃い口ひげが鼻の下に太い一文字を描いている。短い髪はちょっと薄いが、髭のそり跡が顔の半分を灰色に染めていた。肩幅が広く堂々とした体型は、ダースさんと対照的だ。その彼が、ダースさんとわたしの会話にいきなり割って入った。
「アンクル。我が家にようこそ。僕はアンクルのことをよく覚えている。小さかったからアンクルは僕のことを覚えていないかも知れないけど。パッラブだよ。インターネットに親父の名前があったんだけど、それがアンクルのホームページだった。すごく嬉しかった」
ダースさんの息子の一人、パッラブだった。わたしが通っていたころ、まだ小学生くらいだった二人の息子がダースさんに声楽を習っていたのを思い出した。パッラブには当時の少年時代の面影はまったくなかった。すでに大人になった彼に「アンクル」と何度もいわれると妙な気分だ。
パッラブは大きな声で、今の家族のことなどを話した。彼は今年で31歳。父親に買い与えられたガンガー沿いの建物をゲストハウスとして運営している。サヴィター・ゲストハウスという。日本人もたまに泊まる。音楽も当然続けていて、今はドゥルパドの声楽家として、インドだけではなくフランスなど海外公演にも行った。父親に基礎を習った後、ボーパール在住のドゥルパド声楽家、ファリドゥーッディーン・ダーガルの元で3年ほど修行した。今でも、毎朝4時に起きてカラジをしている。カラジのおかげで力のある声になったという。カラジというのは声楽家の声の訓練法のことだ。2年前に、現在28歳になるカーンプル出身の妻マンジリーと結婚し8ヶ月になる娘、ムリナーリニーがいる。
パッラブが振り向いて声をかけた。パッラブに呼ばれた妻は、大きな頭とびっくりしたような大きな目の赤ん坊を抱いて現れ、恥ずかしそうにわたしに目礼して奥へ消えた。マンジリーは小柄でかわいらしいお嫁さんだった。
兄ゴーラヴは、デリーの大学で生化学を学び、今はポンディシェリーにある政府機関で働いているということだ。親父の作ったルドル・ヴィーナーを演奏している。母親、つまりダースさんの奥さんは、そのゴーラヴが体調を崩したのでポンディシェリーまで家事手伝いにいっているということだった。
ダースさんは、息子が話すのをうんうんと頷きながら聞いていたが、区切りがついたところで音楽の話になった。
「音の世界は本当に不思議ですごいものだ。僕らはサとかレを楽音と思っているが、その間には無限の音がある」といって、わたしの目を真っすぐ見て、手振りを加えて声を出した。
「今の演奏家は、そのへんのことが分かっていなく、やたらにテクニックだけをひけらかすが、ああいうのは本当の音楽じゃない。音と音の間に宇宙があるのだ。音は、こんな風に螺旋状に連続するのだ・・・」
わたしがダースさんにバーンスリーを習い出したころも、このことを何度もいっていたのを思い出した。そんなダースさんの、音楽の持つ力や不思議さへの飽くなき探究心と情熱は、今も枯れることなく旺盛だった。
「今晩、夕方6時半に来なさい。夕食をごちそうするから」といいつつ、ダースさんは仕事に出かけた。ダースさんは、わたしが通っていた当時も今もBHUの電気技師として働いているのだ。現在63歳。2005年4月には定年になる。
11時半ころ、ダース宅を出て昨日バーンスリーを買った楽器屋をのぞいた。ジーンズ、黒いベストを着て眼鏡をかけたハブルーという30歳くらいの男が、痩せた西洋人にタブラーのレッスンをしていた。習って間もなさそうな西洋人は足を投げ出して座っている。その様子を、若い男が壁に背をもたせて眺めていた。店のオーナーのジョリーだと自己紹介した。頭頂部の髪が薄く額の広いやさしそうな表情の青年だった。
バブルーがレッスンを中断して話し出した。自分は音楽家の家系に生まれた。親戚にバーンスリーのラージェーンドラ・プラサンナ、ボーラーナートなどがいるという。ボーラーナートは、チェータンの師匠である。タブラーはBHUで習得した。わたしの楽器ケースを見た彼は、ちょっと吹いてみてくれという。チェータンと一緒にやったルーパク・タールのハンスドワニを吹くと、チューニングの合わないタブラーで伴奏を始めた。
「今日は、レッスンなのでちゃんとした楽器がない。明日、1時にここで一緒に練習しよう」
というので快諾した。
今日は、ヴィレンードラさんにランチを招待されている。広々と輝くガンガーを左に眺めながら、アッスィーの教室に向かってガート沿いに歩いた。小さなボートで寝そべる男をデジカメの望遠で撮った。上半身を覆う布の間から黒い棒のような足が2本突き出ていて、その影が舟底にくっきりとついていた。カメラを再生に切り替えて確認しようとして送りボタンを押したが反応しない。いったん電源を切っても同じだった。壊れたのかも知れない。
約束の1時にはちょっと早かったが、ヴィレンードラさんの教室へ行った。中庭にはヴィレンードラさんの姿は見えず、ルンギー姿の男がいた。
「今日、ランチにいくんだろう。彼が連れていってくれる」
といって、かたわらの少年を指差した。小年は、カートマンドゥーから来たというネパール人だった。バサント・バハードゥルという名前だった。自転車を引くバサントの後について、ごみごみした川沿いの未舗装の道を歩いた。スラムとはいえないが、それに近い貧しそうな家々が両側に立ち並び、くたびれたサリー姿の女たちと野菜売りとしゃべりあっていた。
狭い道路のつきあたりに、Sushila Niwasと書いた赤い鉄の門扉があった。そこに茶のジャケットを着たヴィレンードラさんが立って待っていた。
表からは分からなかったが、かなり大きな家だった。扉を入ってすぐが芝生の庭になっていた。その庭にはきちんとクロスをかけたテーブルと椅子と置いてある。草花や細い樹木が中庭を囲んでいて、ごみごみした外の通りとは対照的に緑が多い。中庭を挟んで2階建ての母屋と長屋風の平屋の建物があった。
「我が家を案内しよう」
というヴィレンードラさんについて2階に上がった。広い屋上からは明るいガンガーが一望できた。屋上の一部に縦長に並んだ部屋があった。これらの部屋には現在外国人が住んでいるという。
「ゆき、というカタックを習う日本人女性が昨日からここにいる。あの中庭の向こうの部屋にも、スペイン人やドイツ人が住んでいるんだ。あそこはもともとなかったが、地主が買い取ってほしいというので、結局こんなに大きな家になってしまった」
母屋の表玄関を入ると、まず天井の高い縦長の応接室だった。2段ほどの階段を上がるとダイニングキッチンになっていた。
「ここが食事室だ。向こうがキッチン」
ヴィレンードラさんが指差した。
「スシーラー、ゲストだ。ナカガワジーだ。覚えているだろう。アメリカ女性は体調を崩して今日は来れないという電話があった。だからゲストはナカガワジーだけだ」
対面カウンター式のキッチンの奥で、奥さんのスシーラーさんが食事の準備しながらわたしを見ていった。
「あら、久しぶりだね。もうじき食事ができますからね」
現在人工心臓を埋めているという小柄で口数の少ないスシーラーさんは、白髪がわずかにあったが、かつての面影とそう変わっていないように見えた。
いったんダイニングテーブルについたヴィレンードラさんが奥さんに聞いた。
「あと何分くらいかかる」
「うーん、10分」
奥さんは圧力鍋の蓋を押さえて答えた。
「そうか。そうだ、地下にも部屋があるからそこも見せよう」
地下には2部屋あった。広い物置と、机のある図書室だった。
食事室に戻り、ダイニングテーブルについてヴィレンードラさんの話を聞いた。
この家に移ってきたのは6年前。最初はこじんまりとした家を予定していたが、隣人が土地を手放したいというのでローンで買取ったので、結局大きな家になってしまった。ヒンディー語教室ができなくなったときには部屋貸しで食べていけるだろう。今年30歳になる長女のカーシーカーはジャイプルに嫁いだ。次女のアンナプールナーは28歳で、すでに結婚し子供もいる。23歳でまだ独身の三女スジャーターは、今はいないがしばらくしたら戻ってくる。長男のサンデーシュは、現在デリーの大学で生化学を学んでいる。毎年4月と5月にウィスコンシン大学へ教えに行く以外は、毎日教室でヒンディー語を教える日々だという。
「ミヤモトジーも来たよ、ここに。何日か泊まっていった。さてと、今日は、ナカガワジーのために、普段は食べないマトンを買ってきた。さあ、食べよう」
テーブルには、汁の多いアールー・ゴービー、パーラク・パニール、ラージャスターンの丸いパン、野菜の煮つけ、そしてマトン・カレー、サフラン・ライスが並んだ。デジカメで撮影しようとしたら、レンズがまともに出てこない。やはり壊れたのかも知れない。ともあれ料理はどれもおいしかった。ただ、マトン・カレーの油が多くかなりぎとぎとしていた。
ヴィレンードラさんと二人で食事をしていると、屋上の部屋に住むゆきさんが顔を出してランチに加わった。スシーラーさんは料理を運びながらいった。
「あなたは病気なんだから、マトンは控えめにしてよ」
「病気?なんの病気なんですか」
「糖尿病なんだ。最近分かった。だからちょっと顔がむくんでいるだろう。で、この人は俺に、あれを食べろ、これはだめとうるさいんだ。でも、毎日あれこれといわれたら、自分の人生の時間が無くなってしまうよね」と笑い飛ばした。ときどき病院でチェックを受けているという。
しばらく歓談した後、ヴィレンードラさんは「3時から教室なんだ。いつでも教室に遊びに来い」といい残して出かけていった。時計を見ると3時をまわっていた。
残されたゆきさんとわたしは、中庭のテーブルに移動してしばらく彼女の話を聞いた。埼玉に住んでいるという小柄な彼女は、おそらく50歳代かもしれない。彼女は、オームプラカーシュ・シュクラーにという先生にカタック舞踊を習うため、ほぼ毎年バナーラスに来ているという。
「ヴィレンードラさんの上の部屋を借りたのは、昨日からなんです。今回は4ヶ月ほどバナーラスに滞在する予定です。それまでは、ガンガーに近い宿で、アヤミという女性と一緒にいました。彼女は、ドゥルバ・ゴーシュにサーランギーを習うために昨日バナーラスを出ました。中川さんのこと、おっしゃっていましたよ。ご存知ですよね」
「そうですか。彼女はバナーラスにいたんですね。彼女のことは知ってますよ。といっても、東京で一度お会いしただけですけど。ゆきさんは日本ではどんなお仕事を」
「日本では派遣の仕事でしばらく働いて、お金が貯まるとインドにくるというパターンです。今年はヨーロッパにも行ってました。中川さんはBHUにいらしたんでしょう」
「ええ、3年ほど学生として住んでいました」
「そうですか。前は、BHUの女子寮にもいたこともあるんです。そのときのBHUの学長は南インド人で、夫人が四国出身の日本人でした。そんな関係で、音楽学部の定例コンサートの手伝いをしたことがありますよ。日本から筝の演奏家を呼んで演奏会をやったんです」
4時ころヴィレンードラさん宅を出て、リキシャでホテルに戻った。部屋でデジカメを分解しているうちに猛烈に眠くなり、5時半まで昼寝。
6時に部屋を出て、近く店でケーキを購入。120ルピー(=300円)。生クリームの表面にチョコレートで「To My First Guruji」と書いてもらった。それをぶら下げてダースさん宅へ行った。
家にはマンジリーと娘がいるだけだったが、ほどなくダースさんが帰宅した。青白チェック柄のルンギーとカラーシャツという、朝お会いしたときとは違って気楽な格好に着替えたダースさんは、わたしを待ち構えていたようにいきなり音楽の話を始めた。
「いいか、ドゥルパドでは、音が回転するように連続しなければならない。こんな風に」
と声に出して説明する。
「それに、無音の空間も大事だ。それはお前に教わったんだが。宇宙は、バイブレーションだ。ナーダ・ブラフマーなのだ。前にもいったね。シャンティ・ラサは、こんな感じで低い音がかすかに聞こえる状態をいう。このラサは、結局、涅槃のときしか訪れない・・・」
一休みしたと思ったら、奥からステンレスの小さなボウルを持ってきた。
「これ、覚えているだろう。朝、ちょっと話したやつだ。これがナカガワ・ボウルだ。思い出したか」
実際は完全に忘れていたが、覚えていないとはいえない雰囲気なので「はい」と答えた。
「ルドル・ヴィーナーは今でも作っていますか」
「作っている。勤めがあるからゆっくりだけどね。一つはゴーラヴが持っていった。最初のものは、バラー・ウスタードに献上したんだ。バラー・ウスタードというのは、ズィヤー・モーヒーヌッディーン・ダーガルのこと。知っているよね」
「もちろん。ブリンターヴァンで何度か演奏も聴きましたよ」
「彼にヴィーナー手渡したときのことだ。ボーパールだったか、彼はリトウィクと一緒にホテルに滞在していた。俺はそれまで一度もウスタードには会ったことがなかったけど、自分で作った楽器をもって訪ねたんだ。もちろん、ウスタードが弾いているような、立派な装飾なんてない荒削りの楽器だったが。ウスタードは、なんだこいつは、みたいな顔をしていた。そして手渡された楽器に触れ音を出してみた。そして本気になって演奏を始めた。気がついたら何時間も経っていた。演奏を終えたウスタードは、俺にこういった。『お前の前生は俺の妹だ。これからは家族だ』と。最近は、ヴィーナーを作る人間が少なくなった。カルカッタのカナイ・ラールが作っていたが、彼も亡くなってしまった。だから、ちゃんとしたまともな楽器を作れる人間はほとんどいない」
こんな話を聞いているうちに、パッラヴも会話に加わった。彼が、アンクルの演奏を聞きたい、というのでわたしは楽器を取り出した。パッラヴは電気タンブーラーのスイッチを入れた後、部屋を暗くした。わたしは静かにラーガ・チャンドラカウンスを吹き始めた。アーラープ、ジョール、ジャーラーと進み、40分ほど吹いた。その間、二人はじっと聞き入っている。
終わると、二人は静かに頷いた。
「とても良かった。俺の教えたことをちゃんとやっている。ところで、チャンドラカウンスは、お前がやったように、普通はコーマル・ガーンダーラからシャドジャへ滑り降りるんだが、ときには、わずかにリシャブに触れることもある。パッラヴ、ちょっとやってみせろ」
とパッラヴに視線を向けた。パッラヴは、強弱のコントラストをつけながら大きな声でその部分を歌った。目をつぶって聞いていると、彼のグルであるファリドゥーッディーン・ダーガルの歌い方を思い出した。ハッラヴはさらに、「こんな動きもできる。ここはこう歌ってもいい」とさまざまな音の動きを聞かせてくれた。
「あと、ジョールの部分では、それぞれの音を回転させて連続するように演奏しなさい。こんな風に」と、ダースさんが歌い出した。ときどき音程が狂っていたが、彼のいいたいことは十分に理解できた。
最後に、バティヤーリーを吹いた。「それは、俺の故郷のバングラデシュのバウルの曲だな。懐かしい。俺が覚えているのは、こんな曲だったが」とわたしのバーンスリーを手に取って吹き始めた。もう久しくバーンスリーを吹いていないのだろう、音質も音程もだいぶ狂っていた。忘れている箇所にくると、パッラヴに目を向けて「あれっ、ここ、どうだった」と聞く。パッラヴは、それを受けて浪々と歌い出す。結局彼はバティヤーリーを2曲歌ってくれた。後で覚えようと、iPodに録音した。バティヤーリーは、ダースさんのようなベンガル人の郷愁を強く刺戟するのだ。
10時半に夕食。チキン・カレーとサブジー、ローティー、ご飯だった。
「チキンはめったに食べないが、今日は特別だ」とダースさん。パッラヴは、声楽家は食べることが大事だといいつつ、山盛りのご飯をあっという間に平らげた。
最後に、わたしの持ってきたケーキを食べた。ケーキを見てパッラヴがいう。
「親父は、ケーキは食べなかったんだ」
「いやいや、食べなかったというより、食べたかったけど高くて買えなかったんだ。それが習慣になってしまった。だからもちろんこれは食べるよ」とダースさんが恥ずかしそうにいう。
ダースさんは、ケーキに書かれた「My First Guru」という文字を見て怪訝な顔をした。
「なんと、俺がFirst Guruと。最初でかつ最後としたらどうだ」という。
「毎日、6時半には家にいるのでまた着なさい」と、ソーナールプラー通りまで見送ってくれたダースさんと別れ、11時すぎにホテルに戻った。