2004年12月17日 (金) -バナーラス6日目

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●シャイアンとユミ、ホテルに来る

 7時半起床。例によって向かいのチャーイ屋でチャーイ2杯。練習の後、日記を書いているときにドアをノックする音が聞こえた。昨日会ったイギリス人のシャイアンが日本人のガールフレンドを連れてやってきたのだ。ガールフレンドは、30歳くらいのすっきりした背の高い女性で、ユミという名前だった。

 彼らは、インド式ハープのスヴァラマンダルが付属したタンブーラーを持ってきた。由実がその楽器で伴奏し、シャイアンと一緒にラーガ・デーシュを練習した。彼は、素早い指使いには慣れていて自信もあるようだった。ただ、音程と音色が安定しない。また、ゆっくりとアーラープを紡いでいくのがじれったいらしく、速い動きにしたがる傾向があった。

 彼はイギリスでハリジーの演奏を聴いてバーンスリーを始めたという。まずバナーラスのソーハン・ラールの元で習い始め、その後、ロッテルダム音楽院でハリジーのレッスンを受けた。今回も南インドへいったん旅した後に、ハリジーに習うためムンバイへ行くという。

 1時すぎ、3人でアッスィーのピッツェリアで昼食をとりながら二人の話をいろいろ聞いた。

 由美は広島生まれ。父親の転勤に伴い西宮、神戸と住んだ。両親は現在神戸の鈴蘭台に住んでいる。大阪の大学でイギリス文学を専攻したこともありイギリスへ渡り、シャイアンと知り合った。  

 シャイアンという名前は本名ではない。響きが気に入ったので使っている。シャイアンは家族のことはあまり話したがらないようだった。3人兄弟の真ん中。母親は自分を嫌っている。彼は、わたしと話しているときでさえほとんど由実に視線を向ける。自己に特化した話題に話を引っ張っていくタイプだった。

 彼らと別れ、ソーナールプラーのインターネット・カフェでメール・チェックした後、果物屋でバナナ、サントラー、りんご2個(合計20ルピー=50円) を買って6時すぎにホテルに戻った。

 ホテルの建物全体が盛大なイルミネーションで飾られていた。子どもたちが廊下を走り回り猛烈にうるさい。いつもわたしの部屋の前の詰め所でうろうろしているフロアー・マネージャーに抗議した。

「結婚式なんだ」

 というだけだった。着飾った大人たちも走り回る子供を注意をしないので、騒ぎ放題だ。今日は読みかけの本を読もうと思ってどこにも出かけないことにしていたのだが、あまりにうるさいのでダースさん宅へ電話して訪ねることにした。

●再び、ダースさん宅へ

 ダースさんは、待ち構えていたようにいきなり音楽の話を始めた。ラーガ・スィンドゥーラーとバーゲーシュリーの違い、バイラヴィーの表現の可能性、音の動きと音質はルドル・ヴィーナーを思い起こすことなど。パッラブのデモンストレーションも加わりどんどん熱を帯びた。

 パッラブが話してくれたファリドゥーッディーン・ダーガルにまつわるエピソードが面白かった。ファリドゥーッディーンが、コルコタで最も権威のあるドーバーレーン・コンサートで演奏を依頼された。パッラブもタンブーラー奏者として舞台に座った。ラーガ・チャンド・カウンスで重厚なドゥルパドのアーラープを始めると、会場がざわざわしてきた。聴衆の一人が

「そんなだらだらした演奏を聴きにきたんじゃない」

 と叫んだ。グルはいきなり演奏を止めて聴衆を見回しこういった。

「だれだ。今そういったのは。俺はここに望んで来たんじゃない。主催者が演奏してほしいというから来たんだ。そんなに俺の演奏が気に入らないんだったら、俺は帰る」

 この言葉に一部の聴衆が怒って騒ぎ出した。いっぽう、ファリドゥーッディーンの演奏を聴きにきた聴衆が騒いでいた聴衆に罵声を浴びせた。とたん会場は収拾のつかない状態になった。グルは主催者に激高してこういったという。

「俺は二度とここでは演奏しない」

 これがファリドゥーッディーン・ダーガルにとっての最初で最後のドーバーレーン・コンサートになった。

 その晩は、アールー・ゴービー、ダール、ご飯の質素な食事をいただいて11時ころにダース宅を出た。ダースさんはソーナールプラーの大通りまで見送ってくれた。大宴会の残骸が散らかるホテルの部屋に戻ったときは、なんだかバナーラスにずっと住んでいるような錯覚を覚えた。それだけバナーラス滞在が慣れてきたのだ。

 12時就寝。

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