2004年12月18日 (土) -バナーラス7日目

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 8時起床。午前中は例によって練習と日記。停電が頻繁になってきた。照明は自家発電ですぐにバックアップされるが、コンセントの電源は供給されない。バッテリーによる稼働時間が極端に短いコンピュータ、使わなくとも電池が減っていく携帯電話、充電式シェーバー、電気タンブーラー、充電式乾電池を使ったデジタルカメラ、iPodなどなど、電源ケアの必要なモノが多いので、停電のたびに神経を使う。これらの器械は、もちろんとても便利なのだが、それぞれに使う電源アダプターやワイヤ、変圧器などを加算すると、けっこうな量と重さになる。なければまったく不要な重量、体積、経済的および精神的負担を考えると、こうしたモノをもって旅行することを、ふと考えてしまう。電気の来ていないコンセント周辺に群がり通電を待つワイヤだらけの「文明の利器」の情けないたたずまいと、そうした光景を見つつ停電を罵る所有者。20数年前に比べるとずいぶん贅沢になったものだ。

●モナリザ食堂で日本人の若者と出会う

 12時ころ、モナリザ・レストランへいきランチ。フランス人のダミアンがいたので合流した。マッシュルーム焼き飯とボイルドベジタブル、コーラ、インターネットで85ルピー(=212円)。そこへサリエリ風貌シャイアンもやってきた。由実は腹の調子が悪く、宿で寝ているという。

 ダミアンとシャイアンが出ていった後、隣のテーブルで食事をしていた日本人の青年二人と話した。一人は、長い髪をとことんよじれさせて束ねたオサムと名乗る神奈川出身の男。20代半ばだろう。インドの出家修行者サードゥーの生きかたに惹かれたという。もう一人は、黒っぽいジーンズにシャツという比較的こざっぱりとした、やはり20代半ばらしい大阪生まれの男だった。大阪青年は

「日本にいたんではなんも学ばれへん。ここやといろんなことが分かるから好きや。インドはおもろい」

 と何度もいった。サードゥー好き青年が呼応して頷く。

●ゴダウリアーへ

 今回一度も行っていないバナーラスの中心街、ゴダウリアーへ行ってみようと思った。ひょとしたら、ラーケーシュ・ジョーシーにも会えるかも知れない。ゴダウリアーへ行くのにわざと狭いガリーを通った。ガリーの両側に建ち並ぶ小さな店を眺めながら歩くのは楽しい。

 途中に楽器屋があったのでひやかしに入った。

「俺はバーンスリーのプロだ」

 重々しくこう申し述べる長い黒髪の貧相な男がいた。吹いてみてくれというと、音程のずれたひどい音でバティヤーリーを吹いた。ケースを見て、お前もやるのか、ちょっと吹け、という。彼の吹いたバティヤーリーの一節を鳴らすと、「今日は近くでコンサートをするから、共演しようか」という。断ると急に興味を失い、店番の若者と関係のない話を始めた。お前はゼニにならないから帰れ、という意味だ。

 狭くごちゃごちゃとしたガリーから、コダウリアーの広い通りに出た。バナーラスのメイン・ガートであるダシャーシュワメード・ガートへ向かう通りだ。左が最も人通りの多いゴダウリアー交差点、右がガートである。広い通りは、行き交う人と埃と音が充満していた。土産物屋、雑貨屋、衣料品店、薬店などが連なる商店街を、人々が蟻の群れのように行き来する。大声で商品を連呼し路上に積み上げた野菜や果物を売る男たちと買い物客。雑踏に入ったとたん、何人もの男たちが「両替はいらんか、ハシシはどうか、ボートはどうか」と営業攻勢をかけて来た。左の裾を引かれて振り返ると、赤ん坊を抱いた女の物乞いが、盛んに口に手を当てて「ベビー、バクシーシュ、ハングリー」と繰り返す。彼女に1ルピー硬貨を渡していると、いつのまにか足元にも新手の物乞いがすり寄ってきた。小さな車輪のついた板に乗り、包帯をした両手をオール代わりに漕いでやってきた男。彼にも1ルピー硬貨をあげた。この喧噪とエネルギー。これこそバナーラスだ。この光景は、初めて訪れた32年前も、住んでいた20数年前も変らないように見えた。

「何か、探してますか。お手伝いしましょうか」

●ベルボトム・ジーンズ青年アマン

 後ろから日本語でこう話しかけられて振り向くと、赤いセーター、ベルボトムのジーンズという格好の青年だった。背は高くないががっちりした肩幅、丸い顔にだんご鼻、生真面目そうな目つきをしていた。

「わたしはアマンといいます。日本人の友だちたくさんいます」

 口調はゆっくりだが、発音が正確で、「てにをは」もしっかりしている。

「日本語はどこで習ったの。とても上手だね」

「ありがとござます。アキオという先生に習いました。あなたは、今、何をしていますか。お買い物でしょうか」

「旧友の事務所を探そうとしているんだが、どの辺だったか忘れてしまってね」

「キューユー?」

「つまり、古い友だち。わたしは昔ここに住んでいたんだ。BHUの学生としてね」

「そうでしたか。その友だちのお名前はなんといいますか。何をしている人ですか。住所は分かりますでしょうか」

「ラーケーシュ・ジョーシーという名前。占星術師をしている。住所が分からない」

「ああ、聞いたことあります。有名な人です。わたし連れて行ってあげましょう」

「いや、忙しかったら悪いので、なんとか自分で探してみるよ。時間はたっぷりあるし」

「大丈夫です。困った日本人を助けるのはわたしの義務です。多分、ゴールデン・テンプルのあたりの人に聞けば分かると思います。行きましょう」

アマンが雑踏の中を歩き出した

 こういってアマンが雑踏の中を歩き出した。後をついていくことにした。

 ゴールデン・テンプルというのは、屋根が純金で葺かれていることからつけられた英語の俗称で、正式にはヴィシュヴァナート寺院という。バナーラスで最も聖なるシヴァ神を祀る寺院だ。バナーラス周辺の巡礼の起点として多くの信者が参拝するため、周辺のゆるい坂になった迷路のような狭いガリーにはヒンドゥー神グッズを売る店がにひしめき合っている。

 アマンはごちゃごちゃと商品の並ぶ店の売り子に

「ラーケーシュ・ジョーシーの事務所は知らないか」

 と尋ね回った。わたしは彼の後にくっついていくしかない。

 ある店で、

「ちょっと行くと有名な占星術師がいる。彼に聞けばいい」

 といわれたので、そこへ行ってみた。門前で銃をもった警察官が数人たむろしている寺院のような建物の一階の小部屋で尋ねると、尊大な感じの太った中年男が、

「ああ、ジョーシーは知っている。ほほう、そうか、君もBHUだったか。俺はBHUの学部長だった。今、見ての通り客の応対をしているから、上でしばらく待ってくれ」

 という。

 待つ間、屋上でアマンの話を聞いた。彼のフルネームはアマン・メヘラー、20歳。BHUの医学部に在籍していたが、医師の国家試験に落第したので家の商売を手伝っている。20歳で医師の国家試験を受けることができるのだろうかとふと思ったが、そのまま聞き流した。衣類問屋が家の商売だという。20分ほど経ってから再び下の占星術師の部屋に行った。

「やあ、すまない。今終わったから上の部屋へ行こう」

 彼が大きな机を前にした椅子に腰を下すと、わたしとアマンに壁に並んだ椅子を手振りで示した。

 部屋には数人の男女がいた。

 彼は、

「さてと、ラーケーシュ・ジョーシーの事務所を探しているんだったな。ラーケーシュね。聞いたことがあるな。ただ、BHUには学生が多いので、住所を調べるのにちょっと時間がかかるよ」

 とヒンディー語でいった後、自分がいかに大学関係者として仕事をしているか、どんな偉い人たちとつき合いがあるか、などという話が始まった。部屋にいた男女がそれをじっと聞く。頷いているものもいた。その話がなかなか終わらない。途中で隣のアマンがわたしに日本語で囁いた。

「この人、知らないのに知っているといっているようです。これ、無駄です。出ましょう」

 われわれが腰を上げると、占星術師はさも残念そうな目でわたしを一瞥しただけで話を続けた。

 彼が何のためにわれわれを引き止めたのか分からない。外国人客があることを先客に見せたかったのか、自慢話独演会の聴衆を増やしたかったのか。

 あちこちを動き回って聞いてもなかなか分からなかったが、1メーター四方ほどのパーン屋でマッチを買うついでに尋ねると、ジョーシーの事務所はなんと目の前にあった。

 階段を数段上がったところにヒンディー語で書かれた小さな看板があった。

「ラーケーシュ・ジョーシー文学博士(BHU)」

 と書いてある。ドアは開けっぱなしだった。アマンと一緒に入ってみたがだれもいない。部屋は狭く、小さな机と椅子があるだけだ。丸めた紙が無造作に棚に突っ込んであるのを見て、思い出した。そうだ。ここに間違いない。

●ようやくジョーシーに会えた

 しばらく待っていると、ジョーシーが現れた。

「あれー、ナーカーガーワージー。キャー・バート・ハイ。いつバナーラスに来たの。キャー・バート・ハイ」

Joshi まさに、あのジョーシーだった。一昨日、ディップーに案内されて会った別のジョーシーのときは、別人だと分かるまで顔記憶自信喪失の不安がかすめた。しかし本物に会い、まさに記憶通りの顔を確認したので、それほどひどくはないと安心した。肌の色はインド人にしてはそれほど濃くはなく、面長の顔。伏し目がちで、対話者に視線を固定しない。綿のシンプルなクルター・パージャーマー姿で、背丈はわたしよりもちょっと高く体型はすっきりしている。小さいときに受けた火傷のケロイドが首筋に残っていて、それがわずかに表情を引きつらせる。

 ジョーシーはかつて、大学構内に入る前にドーティーからズボンにはき替えるため、ナールヤーのわれわれの部屋へよく訪ねてきた。薄くて白い一枚布を腰に巻き付けたドーティーは、最上カーストであるバラモンの象徴である。町中では着衣で自分の身分を示し、大学構内では一般の学生と変らない服装にしようとしていたのだろう。当時彼は、博士論文を書くのに苦労していて、アッスィーに住む宮本さんによく相談しに行っていた。われわれが知り合ったのも宮本さんの家でだったと思う。最初から妙に人なつこく、われわれの部屋にもたびたび訪れるようになった。

 われわれがバナーラスを去る前に、彼にクンダリニー(ホロスコープ)を作ってもらったことがある。わたしの誕生日から割り出した詳細な計算図形入りの巻物で、40歳を過ぎると成功する、幸運の宝石はルビーである、寿命は84歳であるなどとヒンディー語で書かれてあった。このクンダリニーを書くことが彼の商売である。ヒンドゥー教の大聖地であるバナーラスでは、こうした占星術師による占いによって結婚相手を決めたりすることがあるので商売として成り立っているのだ。ヒンディー語の先生、ヴィレンードラさんによれば、今やジョーシーはその方面では有名人で、見てもらう人が列をなしているといっていた。

「まだちょっと仕事があるのであと1時間ほどしたらもう一度ここに来てほしい」

 ジョーシーがこういうので、すぐ近くにあるはずのマニカルニカー・ガートへ行こうかと思った。死体を焼いている有名なガートだ。なんとなくジョーシーの事務所の入り口に立っていたアマンに、道案内のお礼をいった。

●アマンの父親?の店

「いいえ。困っている人を助けるのがわたし。の義務ですから。とにかく、友だちに会えてよかったです。ところで、別になにも買わなくていいから、わたしの父親の店を見ていただけますか。本当にすぐ近くですから。見るだけ。見るだけでいいですから」

 アマンがこういうので、「本当に何も買わないよ」といいつつ彼の後をついていった。

 その店はジョーシーの事務所からほんの数分のところだった。入り口の間口は狭かったが、入るとかなり大きな店だった。客の応対をしていた数人の店員は、アマンを見てもそっけない感じだったので、本当に彼の父親がやっているのかどうか分からない。高い天井までびっしりと布製品が積まれていた。奥ではヒッピー風の西洋人が、目の前に山のように広げられた布類を一枚ずつ取り上げて値段の交渉をしていた。

「中川さん。何か飲み物は欲しくありませんか?チャーイ、コーヒー、冷たいジュース、コーラなんでもいって下さい」

 と飲み物提供圧力をかけてきたので仕方なくサムズ・アップをもらった。このあたりからアマンの販売圧力が徐々に高まってきた。

「興味がないのは分かりますが、見るだけでも見て下さい。そうしないと、後で父親から怒られます」

 こういうと、アマンは店員の一人を呼んでわたしの前に座らせた。

「奥様にバナーラスのサリーのお土産は要りませんか。日本人はみんな買っていきます。奥様は喜びますよ」

「要らないなあ。それに荷物になるし」

「じゃあ、荷物にならないテーブルクロスやショールなんかはどうですか」

 アマンはこうわたしにいいつつ店員にショールを持ってこさせ、次々に目の前で広げ始めた。

 どれも実に美しい。しかし、こちらにはまったく買う気がないし、現金もあまりない。ところが、様々な色の薄いカシミアのマフラーを次から次へと広げられているうちに、まあ、一枚くらい買ってもいいかという気分になってきた。カシミアのマフラーは一枚1500ルピーだという。ほら、こんなに薄いんだ、と店員が小さな輪にマフラーを通す。肌触りがとてもやさしい。安くはないが、それでも日本円で3000円ちょっとか。アマンは、

「ここは問屋だから安い。小売りだと倍はします」

 という。本当だろうか。わたしが渋っていると、ほのかに熱を帯びた目つきでアマンがいった。

「1350ではどうですか。うーん、よしわかりました。あなたに特別に1200にしました。レシートもほら書いちゃいました。ここで前金を200ください、明日残りを支払えば結構です」

 などと、これまで人助けが義務だと丁寧な日本語で近づいてきたときと違い、したたか商人的態度になってきた。それでも渋っていると、

「分かりました。2枚買えば、一枚1000ルピーということで」

 と食い下がる。

「でも、2枚も要らないよ。一枚で1000というのはどう」

 アマンは

「ちょっと待って下さい」

 といっていったん奥へ引っ込んで戻ってきた。

「はい。1枚1000ルピーで結構です」

 という。ここまで追いつめられては買わないわけにはいかなかい。

「OK。ただ、今は現金がない」

「大丈夫です。今、前金で200ルピー払ってもらえば、明日、残りを払えばいいです」

「前金を払うんだったら、買わない」

「だったら、この値段では難しいです」

「仕方がない。買えないということだ。あきらめてくれ」

 アマンは一瞬悲しそうな顔をしたが、マニカルニカー・ガートへ行くといったらついてきた。外は既に暗くなっていた。建物に三方囲まれた小さなガートにはあまり人はいなく、薪の残り火がぼやっと赤い光を発していた。ガートに打ち寄せる波の音が小さく聞こえた。

 ジョーシーのいう1時間は既に経っていたので事務所へ向かった。道すがら、アマンが最後の粘りに出た。

「前金は要らないです。明日、あなたのホテルに商品を持っていきます。それでいいですか」

 ここまでいわれると、さすがに嫌とはいいにくかった。なにしろ、ほとんど半日を費やしてジョーシーの事務所探索につき合ってもらったのだ。

「そんなにいうなら、いいよ。でも、そんなことをしていたら儲からないだろう」

 というと、

「大丈夫です。利益は少しあります。わたし、人生に近道はないと思っているんです。階段を上るように頑張れば、いつかいいことがあります」

 などと、人生訓じみたことをいい残して暗いガリーを去っていった。

●ジョーシーの自宅へ

 ジョーシーは事務所で待っていた。事務所の様子を写真に撮ろうとしたら、ジョーシーがとめた。この辺を撮影するのは禁じられているのだという。例のアヨーディヤーのモスク攻撃事件以来、すぐ近くのイスラーム居住区でもめごとが発生し、警官が常駐するようになったのだ。写真撮影も厳しく禁じられているという。そこら中に銃をもった警官がいたのはそうした理由だった。

 ジョーシーの後をくっついてゴダウリアーからソーナールプラーまでのガリーを早足で歩いた。ジョーシーの歩調があまりに速いので汗ばむほどだった。彼の自宅はケーダール・ガートの近くだった。わりと新しい外観の3階建ての建物だった。真新しい玄関扉から通りを見回すと、なんとパッラブのサヴィター・ゲストハウスのすぐ近くだ。真向かいは、スニール・プラサンナーのいた楽器屋だった。

 玄関扉を開けると、正面に大理石で作られた小さな祠、右が彼らの居間兼寝室だった。ベッドが二つとソファのある部屋だ。

 まず、家族に紹介された。ジョーシー本人48歳、心臓の手術を受けたという奥さんのカマラ42歳、長女のスワーティー18歳、次女のスネハー15歳、長男のヒマーンシュー13歳。かつてはなんとなくしょぼくさえない印象だったジョーシーが、結婚して3人も子どもをもうけていたのだ。ちょっとした驚きだった。記念撮影をした後、昔のことなどを話した。彼のヒンディー語は、サンスクリット語の単語が多いのでなかなか理解するのが難しい。漢語の多い日本語という感じだ。

India04

「ナカガワージーど再邂逅すんのは17年ぶりだなす」

「んだったべがね。オレは20年ぶりだど思ってだげんど、途中で来たんだっけが」

「あららあ、忘却すたながす。印度的食堂ば開店するっつでだ青年ば連行して来たべした」

「だれだったべな」

「ほら、貴殿は88年に生気溌剌的青年ば連れできたなよす。姓名は忘却すたげんどよ」

「ああー、あいづなあ。あ、んだったなす。BHU以来だど思ってだげど、考えでみっつど、その後に来たんだったなあ。あらら、完璧にわしぇっでだす。88年だったがす。南つう名前の青年だったなす。んだんだ。あの後、食堂ば始めだんだげど、いつの間にが、えねぐなってよは、最近なにしてんだがさっぱりわがんねなよす」

India04「んだがあ。人生えろえろあっこでなす。オレはよ、昔は困窮すてだげんど、今はほれ、おめが見でるみでに、そこそこの家さ住んでるなよす。んだげんど、扶養するがぎべらが三人もいっぺした。なんぼゼニあっても足りね。占星術師の仕事は、まあまあだなす」

「ヒンディー語の先生、ヴィレンードラさんがら、ヨーロッパさ行ったて聞いだげど、んだったがす」

「んだ。欧州さ3べんほど渡航すたっす。アムステルダムどかパリどがベルギーだな。向ごうではよ、ヒンディー語おしぇだり、占星術ばおしぇだりして、ちょこっとゼニも稼いだなよす。んだけど、ほら、欧州は物価が高いべした。暮らすのは容易でねがったなす」

「んだなあ。オレも今年、フランスとイギリスさ行ってきたげど、物価はたげもね」

●会話は山形語に変更

 ここで、会話が唐突に山形語(置賜標準語)になったことをお断りしておきます。この日記の一部を知り合いの女性にメールで送ったところ、山形語で書いてほしいと勝手な返事がきた。考えてみれば、相手はほとんど外国語でしゃべっているわけで、それを受け取るわたしが山形語話者だとすれば、日記であれ滞在記であれ山形語で書いてもおかしくはない。ただ、わたしの行動などを全部山形語にしてしまうと、山形語に敵意のある人の怒りを買ったり、読もうという人の気を殺いでしまいかねない。それに、山形語はあまりに格調が高い。格段に格調の低いヒョーズンゴや関西諸語の話者たちが嫉妬することは疑いない。というわけで、今後は、外国人との会話だけを山形語にしてみようと思ったのでありました。我慢してけろ。

「ナーカーガージー、晩めす食っててけろなす。オレらは菜食主義なもんだがら、大すたもんはごっつぉさんねげど、ええべ」

「あらら、いぎなり来てごっつぉなったら悪いなす」

「なに語ってるなや。ともだづだべ。食っててけろず」

「んだな。んじゃごっつぉなっか。オレはまま食いだがら、チャパーティーじゃなくてままにしてけろなす」

 これを聞いてカマラ夫人が

「分がったす」

 といって奥へ消えた。年齢の割にはスリムでちょっと弱々しい感じだが、しっかりした奥さんのようだ。食事を待つ間、娘や息子たちとジョークをいいあったりした。子どもたちもとても素直だ。

 アールー・ゴービーのサブジー、ダールの典型的なベジタリアンの料理はなかなかにおいしい。食事の後、ジョーシーにせがまれて笛を吹いた。

「こげになるまでは、大変な努力が要るんだべ」

 ジョーシーが家族にこういうと、みな感心した顔で頷く。

「んだんだ、あんちゃば紹介すっから」

 とジョーシーが玄関横の小さな部屋に案内した。縦長の部屋の入り口付近のベッドに中年の男が横たわっていた。

「あんちゃだ。体の具合えぐねくてよ、ずっと寝でんなよ。精神病の一種では、かしぇがんにぇなよす。一日中、横になってんなよ。あんちゃ、ともだづのナーカーガージーだ。ちゃんとあいさづすろず」

 お兄さんは起き上がりちらっとわたしに目礼をしてすぐにまた横になった。

「明日、オレ休みだがら、12時に昼飯食いにきてけろ」

「んだな。んじゃ明日まだ来っからなす」

 といいつつホテルに戻った。ホテルでは昨日に続いてムスリムの盛大な結婚式があり、猛烈なうるささだった。11時に就寝。

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