2004年12月19日 (日) -バナーラス8日目
6時30分起床。向かいのチャーイ屋はまだ火を起こしていなかったので、ルームサービスでコーヒーを頼んだ。やってきたのは紅茶だった。わたしの腸内センサーはすでに紅茶対応もできていたので問題なく役目を果たした。
カシミヤのスカーフを10時にもってくるといっていたアマンはこなかった。
日曜日なので一日家にいるというダースさんの家へ行った。
ダースさんは床屋を呼んで中庭で散髪をしているところだった。ダースさんは、散髪の間なにか演奏しろという。ターフェル・ムジークならぬバーバー・ムジークだ。停電のためドローンなしでラーガ・バイラヴのアーラープを吹いた。散髪を終えた彼が部屋に入ってきて、
「いやあ、さっぱりすた。あんな、バイラヴはこげな動きもできっこで」
といいつつ、細かな表現を声に出して歌い始めた。
「そんで、それがアヒール・バイラヴになっつど、こげになっこで」
さらに歌う。そこへパッラブが顔を出し一緒に同じフレーズを歌い出した。
「アンクル、マがらガさえぐどき、バイラヴだどこうだべ。んだげんどアヒール・バイラヴの場合だどこうなるんだす。あどは、サがらダのどきは、こげな具合にもでぎんなよす」
それを聞いて頷いていたダースさんが口を挟む。
「んだ、んだ。このよ、アヒール・バイラヴは昔よぐ映画音楽で使われたんだ。うろ覚えだげんど、こげな歌だった」
と短いフレーズを口にした。パッラブがいう。
「トウチャン、そごは違うべ。こうだべした」
「んだったが。んでねんでね。やっぱりこうだべ」
「んでねごで。こうだべ。トウチャン、わしぇだんでねえが」
「んだったべが。昔の歌だがらなあ」
こんなやりとりをしつつ、ラーガ・メーグとラーガ・マドゥマード・サーラングやブリンダーヴァニー・サーラングの違いなどに話題が移った。
「アンクル、こいづ覚えでけろ。これはよ、チョーター・ウスタードがらおしぇでもらたんだ」
とパッラブがブリンダーヴァニー・サーラングの曲を教えてくれた。スール・タールという10拍子の曲だった。わたしは、何度も繰り返してもらって譜面にしようとした。
「と、こげな感じだなす」
「ん、んでね。こごはこうだべ。ノート貸してみろ」
と、ダースさんがわたしのノートに歌詞と一緒にヒンディー語で譜面を書き、歌いながら確認した。するとパッラブがすかさずいう。
「なあに語ってるな、トウチャン。こうだべした」
「おお、んだんだ。こうだこうだ」
ダースさんが、かなりゴチャゴチャになった譜面に修正を加えたので判読の難しい譜面になった。
こんなやりとりをしているうちに、マンジリーが赤ちゃんを抱いて奥からと現れ、
「昼飯でぎだよ」
と小さな声でいった。
「ナカガワ、めすだ。食うべ。今日はよ、おめのために特別に魚食わしてやっから」
昨日、ジョーシーに昼食を呼ばれたことを思い出したが、先生にこういわれると断れない。
典型的なベンガル料理の魚カレーはとてもおいしかった。
「これ、んめなっす。レスピばおしぇでけろ」
「魚はめったに食わねげんどな。作り方は簡単だべ。まず、タマネギ炒めっぺ。そこさターメリック入れんなよ。炒まったら、トマト、ダヒ、最後に水入れる。そこさ、フライしておいだ魚ば入れで、最後に塩で味付けなんなよ。簡単だべ」
魚カレーがメインのときは、チャパーティーではなくご飯を食べる。わたしは2回もご飯をおかわりしてしまった。他のおかずは、強烈に辛いコリアンダーのチャツネ、甘酸っぱいカッター・ミター・チャッネ、キャベツのサブジー、ジャガイモの煮つけ、大根、きゅうり、トマトの生野菜。最後にケーサル(サフラン)で味付けしたのダヒ(ヨーグルト)だった。
ダースさんにタバコを吸ってもいいかと尋ねた。すると、
「オレにも1本けろ」というので一緒に吸った。
食後、ダースさん宅を急いで出てジョーシーの家に行った。ダースさん宅からは歩いて3分だ。
「遅くなって悪がった。んでよ、グルジーのどこさ行ったらまま食ってけっていわれたもんだがら、食ってきたなよ」
ジョーシーにこういった。
「ナーカーガーワジー、オレだずっと待ってたんだよ。がぎべらも楽すみにしてだのに。んでもすたがねべ。グルジーでは断れねしな。お茶ばり飲んでってけろ」
チャーイをごちそうになりながら、ジョーシーや3人の子どもたちとおしゃべり。テレビに熱中している息子や娘を見て
「テレビはよぐね」
と彼らに向かって弱々しくいう。わたしも同意すると、
「ほらな、ナーカーガーワジーもこういってるべ。馬鹿になっからテレビ見っと。分がったか」
と子どもたちに諭した。そこへ、上の階に住む6歳くらいの男の子が入ってきた。
「おい、オンカール、アンクルさ挨拶しろ」
ジョーシーが少年にいった。色の白い少年はちらとわたしを見て、
「ナマステ」と小さな声で応えた。
オンカール少年は、ジョーシーの大家の息子だった。ここの大家は、51歳になるスペイン人とのこと。バナーラスに旅行にやってきて、ベンガル人女性と結婚しこの建物を買い取ったのだ。オンカール少年は、スペイン語、ベンガル語、ヒンディー語を話す。
「さてと、事務所さえがねど」というジョーシーがいった。
「あれれ、今日は休みだっていわねがったが」
「そのつもりだったけど、用事ば思い出すたなよす。ナーカーガーワージーはずっといでもらってもええず」
「んだげんど、昼飯食ったあどなもんだがらねぷたくなったこで。おめど一緒に出っこで」
「んだが。んじゃ、出っぺが」
というわけで、ジョーシーと二人で外に出て、玄関のところで別れた。
「いづでも来てけろなす」と最後にジョーシーがいった。
ガンガー沿いのガートを歩いて、ヴィレーンドラ先生のいるガンガー・マットへ行ってみた。彼は、家主らしい細長い顔をした中年の男とカードをしていた。カードは、かろうじて数字が読めるほど模様がすり減っていた。
「やああ、ナカガワジー、よぐござったごど」
「この辺まで来たもんだがらちょっと寄ってみだなよす。邪魔でねがったが」
「あはは、こげしてカード・ゲームしてっぺ。予定してた生徒が来れなくなったもんだがらな。おーい、ナカガワジーさチャーイもってきてけろ」
ヴィレーンドラ先生は、中庭を囲む長屋のような建物の外で上半身裸になって髪を洗っていた男にいった。カード相手の男によく似ていたので兄弟かもしれない。その男は「分がった」といって奥に消えた。
「便所かしてけろ」
わたしがそういうと、
「そごさいる犬、人噛むがら気つけでけろ。そいづさ近づかねで回り込んで行け」
大きな犬だった。トイレに近づくと肩を怒らして唸った。用事を済ませて戻るときにうっかりしてその犬に近づいた。いきなり攻撃姿勢を示したのであわてて飛び退く。
「ははは、いったべ。だれでも噛むなよ、その犬」
チャーイを飲んでいると、カードの手を休めず先生がいった。
「今日はよ、すぐ隣のガンジス・ビュー・ホテルでクラシックのコンサートあっけど、ナカガワジーは時間あっぺが。5時半からだ。タダだよ。オレは、今日、昔の生徒が家族づれでおれどこさ晩飯食いにくるもんだがらえがんにぇげんど。もし良がったら、コンサートの後でもオレの家さきてけろ」
「んだがす。オレはなんにも用事ねえがら行ぎでなす。晩飯さごっつぉなりにいげっかは分がんねげどなす」
そうこうしているうちに、5時をまわった。薄暗くなってもカードに熱中しているヴィレーンドラ先生に挨拶して隣のホテルに行った。
ガンジス・ビュー・ホテルは、実は今回泊まりたかったホテルだった。写真家の松本榮一さんからいただいた著書『ホテル・ガンジスビュー』を読み、本人からも話を伺っていたのだ。日本からメールと電話をしたがつながらなかった。ボーカーローにいるとき電話したが、何ヶ月先も満室だという返事だった。
『ホテル・ガンジスビュー』を読んだイメージでは、アッスィーガートのはずれの独立した大きな建物だろうと思っていたが、ガート沿いのあまり目立たない建物だった。ガンガー・マットに行くときに何度も前を通っていたのだ。外観は、コロニアル風で神戸の異人館を思わせた。入り口から二三段の階段を上がると、ガンガーに面して古い絨毯の敷かれた廊下が見えた。壁面を飾る絵画、真っ白なギリシア風列柱のあいだにかかる日覆い、木製の扉、クレイポットの花瓶など、全体に古色蒼然としているがいい趣味だ。1泊1000ルピーと2000ルピーの部屋があるということだった。今泊まっているダイヤモンド・ホテルがほぼ同じ値段である。雰囲気やガンガーを目の前にしている点を考えると、やはり泊まってみたかった。ヴィレーンドラ先生によれば、ガンジス・ビュー・ホテルが開業したのでダイヤモンド・ホテルは急に色あせた。今では、外国人旅行者、とくにインテリに人気が高く、かなり先まで予約でいっぱいだという。
廊下の途中で右に曲がると、舞台のある広間になっていた。肖像画や風景画が壁にかかっていた。制服を着た係員に
「オレは、松本さんの知り合いだけど、オーナーに会えっぺが」
と聞いた。背は高くないがきりっとした表情の男は
「シャシャーンクジーは、10分くらえしたらくんなよす。待っててけろ」
と応えた。そこへ、額の真ん中にビンディーをつけたサリー姿の痩せた西洋人女性が入ってきた。ふわっと膨らませた髪型をした年配の女性だった。モニカという名のフランス女性だが、ここではウマーと名乗っている。ここに来た理由やわたしのことを彼女に話すと、
「ああ、おめがヒロシさだったがあ。おめのごどは、リトウィクがら聞いだす。おめは、リトウィクの家で演奏したべ。オレ、そんとぎよ行ぐごどにしてだなよす。あどでリトウィクがら、おめの演奏たいしたえがったて聞いで、残念だす。あんどぎよ、なあーんだが体のあんべえ悪くてよ、えがんにぇがっちゃなよす」
とフランス語訛がかすかに混ざる英語でいった。聞けば、バラーラスに15年以上住んでリトウィクに声楽を習っているという。このホテルでのコンサートは彼女の主催だった。ヴィレーンドラ先生には無料だと聞いたが、彼女は入場料として150ルピー(=375円)支払ってほしいといった。
ほどなく、眼鏡をかけたシャシャーンクがやってきたので挨拶した。大柄で太った体をしっかりと糊の利いた真っ白いクルター・パージャーマーで包んでいた。日本から予約電話をしたがつながらなかったこと、松本さんのことなどを話した。
「松本さに聞いだんだがす。悪れがったなす。いつも予約で満杯なよす。今度ござったどき、泊まってけろなす」
しばらくすると、ばりっとしたインド服の比較的年配の西洋人、知的そうな数人のインド人、ヒッピー風の西洋人などが集まりだし、ホールはいっぱいになった。ガートを歩く旅行者たちとはかなり雰囲気の違う人々だ。わたしの隣に座ったのはフランス人のカップルだった。ボルドーからきたという。男はBHUの先生に個人的にバイオリンを習っているといった。演奏家達も舞台に座って準備を始めた。
モニカがまず挨拶をした。今日の主奏者は、マンガル・ティワーリーという女性声楽家だった。他に、サントーシュ・ミシュラーのサーランギー、キショール・ミシュラーのタブラーの伴奏者。小柄な優男風サントーシュ・ミシュラーは、神戸の我が家に来て生まれて初めて料理をさせられたサーランギー奏者、サンギート・ミシュラーの父親だった。また、キショールとサントーシュは兄弟である。
マンガル・ティワーリー女史は、小柄で全体がまん丸く、40歳代くらいの女性だった。自前の楽器ではなかったためか、大きな声楽用タンブーラーの調弦に手間取っていた。
ラーガ・ビーンパラースィーのアーラープを短めに終え、ゆったりとした12ビートのエーク・タールの後、中テンポのティーン・タールのガットを演奏した。声の線は細いが音程は正確でレベルは高い。ついで、比較的短いラーガ・プーリヤー・カリヤーンをティーン・タールで、ミーラー・バーイーのバジャンを2曲歌った。
演奏を終えたサントーシュとキショールに声をかけた。
「おめさは、サンギートのトウチャンだべ。サンギートはよ、オレの家さ来てカレー作ったなよす」
「あーあ、んだったがす。息子がら聞いたす」
わりとあっさりした返答をして彼らはすぐに帰った。
モニカにも挨拶した。
「いやあ、いいコンサートだったす。おしょしな」
「えがったべ。今度はおめのコンサートばここですんべ。いいべ」
「それは光栄だべ。リトウィクもこのコンサートはバナーラスで一番レベルが高いっていってだみでだす。んだげんどもよ、オレは明日はデリーに行ぐなよす。今回は無理だなす」
「あーあ、んだがした。残念だなす。今度だなす。まだ来たら連絡してけろなす」
彼女のオファーが本気かどうかわからないが、悪い気持ちではない。
珍しく霧がたちこめるガートを歩き、パッラブのゲストハウスに立ち寄った。わたしと入れ替わりに西洋人の女性生徒が帰ると、なにかの書類を探しながら
「あれ、どさやったべなあ」
とつぶやく。隣の寺からは大音量のキールタンが聞こえていた。
「アンクル、ここの屋上ば案内さしぇでけろ。眺めが最高だがら」
真っ暗で狭い階段を上がりきって屋上に出ると、月光に照らされたガンガーやハリシュチャンドラー・ガートが眼下に見えた。夜空を見上げると、半分になった月が薄もやのなかでぼうっと光っていた。
「いい眺めだなす。今度来るどぎはこごさ泊まっかな。忙すいんだべ、今は」
「んだす。今だげな。客室は満杯だす。んだげんど、4月、5月になっと観光客はほとんどこないべした。半年だなす、商売なるのは。この建物ば買うどきはよす、こごらへんのヤクザがらずいぶん邪魔さっちぇな。あいづらもここば欲しがっでだみででね。んでも、今はなんにも問題ねす」
ホテルに戻ったのは9時前だった。フロントにサンギート・ミシュラーのメッセージがあった。部屋に戻ってから彼に電話した。彼は、明日11時に部屋まで来ることになった。今日ダースさんに教わった曲をさらっているうちにうとうとし出し、12時に就寝。明日はいよいよバナーラス最後の日だ。