2004年12月20日 (月) -バナーラス最終日
7時起床。停電だった。向かいでチャーイを2杯飲んだ後、部屋に戻って目玉焼き、トースト、コーヒーのルームサービスを頼んだ。チップ10ルピー込みで86ルピー(=215円)。チャーイ2杯4ルピー(=10円)と比較するとべらぼうだ。
荷造りが終わったころ、サンギート・ミシュラーがやってきた。まだ二十歳のサンギートは、小柄でほっそりしていて女の子のような顔をしている。
彼と会うのは、昨年(2004年)4月30日に我が家を訪問してい以来だった。そのときわたしが、我が家にくるインド人演奏家は例外なく料理を作るのだ、というと彼はチキンカレーを作ったのだ。まったく自信のない表情だったので後で聞くと、料理をしたのは生まれて初めてだということだった。まったく知らない日本人の変なオッサンの家に来て、したことのない料理をいきなりさせられたわけで、きっと変な家に来たと思ったに違いない。当時彼は、畔柳千尋さん(神戸大院生)、弥生さん姉妹の協力で、タブラー奏者のアシュウィニー・ミシュラーとともに日本国内を演奏旅行していた。そのアシュウィニーもバナーラスのどこかにいるはずだが、今回はまだ会えていなかった。
「日本がらおめに何度もメール送ったげんど、さっぱり返事がこねくてよ。オレの家さ来たどき、オレがバナーラスさ行ったらコンサート作っからっていってたべした」
「メールはもらってねなすよ。どのアドレスに送ったなや」
「ほれ、このアドレスだべ」
「あららあー、このアドレスは間違ってこで。んだがら届かなかったわげだなす」
「んだみでな。ところで、アシュウィニーも元気だべが」と聞くと、
「あいづとは、あれ以来会ってねなよす」
「なしてまだ」
「あいづの頼みでオレは日本さ行ったんだげんど、もう二度どいぎたくねす。バナーラスの貧すえがぎべらの音楽学校は作るっつう名目で日本で公演したべした。寄付もよ、かなり集めたなよす。んでも、オレの知ってる限りでは、学校用に買ったっつう土地はまだねえみでだす、当然、学校も作ってね。最近は、新しいズドウシャまで買ったって聞いだ。オレの考えでは、結局、集めだ募金はほとんどがあいづのポケットさ入ったんでねえが。ギャラもつとすか貰ってねす。航空券込みで1700ドルだったす。30カ所以上も公演すたのに、これじゃ安いべした。演奏もよ、問題だったす。あいづは、複雑なターラはできねもんだがらいっつもティーン・タールだたっす、主奏者のオレに関係なぐ勝手に曲ば終わらせだりすたのよす。んだがら、途中がらオレも頭さ来てよ。あいづとば口も聞きだくねなよす。それによす・・・」
とアシュウィニーへの不満をしゃべり始め終わる気配がない。
「んだったがあ。そりゃあ、いろいろあったんだなす。んで、今日は時間あっか。オレは、今日の夜行でデリーさ行ぐんだげんど、それまで時間がありすぎで困ってんなよ。おめどこで練習でぎっか」
「今日は、なんにもねえがら、オレの家さ今がらござっておごやえ」
12時すぎにすべての荷物をもって下に降りチェックアウトした。7泊分で6400ルピー(=16,000円)の支払いだった。スーツケースとリュックはフロントで預かってもらった。
バーンスリーだけを背中に背負って、サンギートの運転する大きな単車の後ろに乗った。サンギートは、サイクルリキシャ、オートリキシャ、自家用車、トラック、歩行者、牛車などのものすごい交通量の道路をかなりのスピードでかわして行く。後の小さな座席でバウンドに合わせつつ座るのは相当のスリルだ。わたしは必死になって彼の腰にしがみついた。
彼の家は、ラーマプーラーにあった。数階建ての建物がぎっしりと建て込ん狭い一角だ。単車がやっと通れるようなガリーの奥が玄関になっていた。この一角には、代々の音楽家系であるミシュラー一族が住んでいる。
「おれだはここで練習すんなよす」というドローイング・ルームに案内された。それほど広くない縦長の部屋の壁にサーランギーをもった老人の写真が飾ってあった。
「オレのじさまだす。有名なサーランギー奏者だった。数年前に亡くなったなよす」
見たことがある顔だった。多分、大学かどこかのコンサートで見たに違いない。壁は、何人かの先祖の写真や肖像画、ヒンドゥー神を描いた絵の他に、各種の賞状、トロフィーなどが隙間なく置かれた棚で埋め尽くされている。棚の中央には、ぴかぴかの白や金糸をまとったサラスヴァティー神像の鎮座するガラスケースがあり、像の背後から豆電球が光っていた。
「来月よ、姉さが結婚すんなよ。んだがら、家の改装で工事してっから、うるさいべ。我慢してけろなす。チャーイ飲むべした。砂糖入れっか、ミルクはどうだべ」
「んだな。普通のでええごで」
「んじゃ、今持ってくっからよす」
サンギートはこういって入り口とは別の扉から出て行き、しばらくしてチャーイを持って戻ってきた。
「昼飯の用意してるみでだがら、食うべえ」
「あれれれ、悪いごでなす」
「なあに語ってえんなやす。さすけねごでえ」
ほどなく、典型的なベジタリアンの昼食が運ばれてきた。ローティー、ダール、刻んだキャベツとジャガイモのカレー煮付け。シンプルだがおいしい。食後、中庭に面した洗面所で手を洗っていると、昨晩のコンサートで会ったサンギートの父、サントーシュが現れた。
「おやっ、来てだながす」
とわりとそっけない挨拶をして外出していった。感情を表に出す人ではないようだ。
「練習すんべ」
こういいつつ、サンギートはわたし。のバーンスリーに合わせて電気タンブーラーを調整し、自分の楽器の調弦を始めた。
「何練習すっぺが」
「ビーンパラースィーでどうだべが」
「えごでなす。時間的にも」
二人で音出しを始めたところへ、タブラーを抱えた若者が部屋に入ってきた。ベージュ色の長袖のセーターに黒いズボン、艶のある黒い髪をふわっと整え、なかなかにおしゃれな雰囲気の青年だった。
「タブラー奏者のだれそれ・ミシュラーの息子のアーナンドだす。オレと同じ20歳」
頻繁に停電するのでその度に部屋が暗くなったが、われわれは気にせず練習した。7拍子のルーパク・タールの練習だった。サンギートが速いパッセージを繰り出してわたしを見る。それに応えてわたしも同じパターンを吹く。今度はわたしが別のフレーズを吹き、それをサンギートが別のパターンを加えて即興的に展開する。こんなやりとりの後、アーナンドがわれわれを見ながら複雑なソロを披露する。
途中、眼鏡をかけたちょっと下膨れの日本人らしい若者が部屋に入ってきた。
「初めまして、太郎です。名古屋出身です。アーナンド先生についてタブラーを習い始めました。今日は、先生に紹介してもらった新しい楽器ば買いに行くんです」
われわれの練習の音を聞いたのか、背の小さな童顔の青年がサーラーンギーを手にして入ってきた。
「あんちゃのサンディープだっす」
サンギートが紹介した。兄だといったが、どう見てもサンギートよりもずっと年下に見えた。しかし、彼のサーランギーの音はサンギートよりもずっと洗練されていて、技術的にも素晴らしい。そうこうしているうちに、声楽を修行中だというシャクティ、シタールを演奏する名前失念青年なども加わり、部屋は人でいっぱいになってきた。なんだか、ミシュラー一族の二十歳代の若者が一同に集まってきた感じだった。バナーラスに来て初めて、観光音楽家ではない音楽家たちと一緒にしゃべったり演奏したりできとても幸福な気分だった。これがバナーラスを去る日でなければもっとよかったのにと悔やんでも始まらない。
しばらくこのようなセッションを楽しんだ後、全員で外にチャーイを飲みに行った。再び部屋に戻ってくると、大きな眼鏡、頭頂部の薄くなった短い白髪、金色のクルターに灰色のチョッキという出で立ちの初老の男がソファに座っていた。グルの威厳が漂っている。アーナンドがわたしに紹介した。
「タブラー奏者のイーシュワルラール・ミシュラー。トウチャンだっす。この人はヒロス。昔、BHUで音楽習った日本人だ。今、ハリズーにバーンスリー習ってんなよす」
「んだったがす。いつころだべが」と尋ねた。
「81年がら84年だっす。ワダスは、多分、おめさの演奏ばなんべんも聞いだと思う」
「ほほう、そのころだらオレもBHUでおしぇでだがら、んだべな。んだがあ。よぐござったこど」
聞けば、彼は現在58歳。BHUは退職したという。
5時になったので、サンギートに単車でダイヤモンド・ホテルまで送ってもらった。
「いやあ、楽しかったなす。まだバナーラスにきてけろ。そんどきは、おめのコンサートば作っからよ。ジュガルバンディーもすんべ。メールもけろなっす」
サンギートはこういって再び元来た道を引き返していった。
フロントに預けてあったすべての荷物をオートリキシャ(40ルピー=100円)に積み込み、駅に向かった。
6時前に駅に到着。構内はものすごい人が座ったり立ったり移動していた。薄暗い1番ホームにも列車を待つ人々があふれていた。これから乗るのは、デリー行きシヴァ・ガンガー・エクスプレス。切符に書かれた車両番号AS1の停車位置を何人かの乗客に尋ね、荷物を置いた。
同じ場所に日本人らしい二人の年配の男がいた。一人は、背広姿だがネクタイはつけていず、真っ白いスニーカーを履いていた。もう一人は、地味な灰色のシャツに黒い線の入ったズボン、サンダルを履いた背が高く大人しそうな表情の男だった。二人の会話をなんとなく聞いていると、大阪弁だった。
「観光ですか」
年上らしいスニーカー男が答えた。
「そうですねん。明日デリーから帰国するんやけど、いっそがしゅうて」
「いつ、バラーラスにいらしたんですか」
「昨日の晩。有名なガンジス河の沐浴場がある、いうんできんんやけど、この街はほんま、きったないでんな。かなんな、ほんま」
といって隣のサンダル男に目を向けた。サンダル男は、
「あのお、この電車、いつもごっつう遅れるらしいけど、大丈夫でっしゃろか」
と聞いてきた。
「インドは初めてですか」
「そうです。1週間前にデリーに入って、ジャイプル、タージ・マハルのある、ええと、ええと、なんやったかな、あの街」
「アーグラーですね」
「そや、そのアーグラーから昨日の晩にバラーラスに入ったんですわ。今朝ははよ起きてボートに乗ってガンジスを見ましたわ」
「数時間遅れというのはザラですよ、インドでは」
「ええっ、ほんまでっかあ」
スニーカー男がいった。
「遅れたらどないしょ。ま、そんときはそんときやけどな」
「電車の乗り方は知ってはりますか」
「知らんけど、ガイドが一緒やさかいな。今、ミネラルウォーター買いにいっとる」
バナーラス駅の暗いホームで大阪弁のオッサンに会うとは思わなかった。
6時半に電車が滑り込んできた。サンダル男が、
「おっ、ガイドきよった。ほな」
といいつつ、インド人ガイドと一緒にわたしとは別の車両に乗り込んで行った。
わたしの車両と座席は簡単に見つかった。車両の出入り口に予約者の名前を書いた紙がのり付けされるというシステムは、20数年前も今も変っていなかった。3人ずつが対座する座席には、若い父親と小年、老婆とその息子らしい背の高い青年、そして西洋人の中年女性バッグパッカーが座っていた。彼女を見て、荷物盗難心配ストレスからは少し軽減されると安心した。
出発予定は6時45分だったが、実際に電車が動き出したのは7時半すぎだった。
向かいに座る西洋人女性バッグパッカーに話しかけた。彼女はマドリードに住むスペイン人だった。42歳で、ツアーガイドが本職だという。焦げ茶色の短いぼさぼさ髪、白地に青のチェックの入ったシャツ、茶のジーンズ、スニーカー。小柄だが全体にがっしりした体格で、旅慣れた感じだった。
「明日の午後の便でパリさ飛んで、その日の夜中にマドリードさ帰んなよす」
「一人でインド旅行だったべが」
「んだす。今回は、ウダイプル、ジャイプル、ジャイサルメール、ジョードプル、アーグラー、カジュラーホー、ジャーンシー、バナーラス、カートマンドゥー、そしてバナーラスと約1ヶ月かけでまわったっす。大学では社会学と政治学ば専攻すて、すばらぐ政府関係で稼いでだんだげんど、普通の勤め仕事はつまんねくてよ。たまたま休暇で行ったマヨルカ島でよ、知り合いにガイドしてみねがっていわっちぇ、んだなしてみっか、っつうごとになってよす、結局この年齢になるまでガイドしてんなよす。帰国したらもうツアーガイドはやりだくねえなす。飽きできたっす。学校の先生でもすっかなあど思ってんなよす」
「英語はペラペラだなす。オレの知ってるスペイン人はあんまり英語得意でねえみでだったげど」
「んだべ。毎年よ、ロンドンさ行って訓練ば受けだなよす。一応、ガイドだがらね。フランス語どドイツ語もしゃべっこで。スペインさ来たごとあっぺが」
「すごぐ昔、行ったごどあるなよ。72年だったす。あんどぎはマドリードに行った。ユースホステルはよ、日本人の番長でいでよす、すごがったなす。フランコの時代だったす」
「んだがしたあ。昔だなす。オレの少女時代はよす、・・・・」
よくしゃべる女性だ。今回の旅では話し相手がいなかったのだろう。彼女は止めどなく自分のことをしゃべるので退屈しない。トイレで部屋を離れるときお互いに荷物を見張るという取り決めをした。
車内弁当の注文取りが来たので、ベジタリアン弁当を頼んだ。50ルピー(=75円)。しばらくして紙パックの弁当が配達されてきた。味はなかなかだった。しかし、スプーンがないので、食べにくい。汁のカレーが2種類もあったのだ。食べ終わってから、ナプキンの下隠れていたスプーンを発見したが後の祭りだった。右手は手のひらまでぬるぬるべとべとになった。
9時半ころにベッドを作って横になった。わたしが最下段、スペイン女性は中段、上が小年連れの中年。向かいの最下段が老婆、中段がその息子らしい大柄の男。最上段は中年の男。
しばらくiPodを聞いているうちにうとうとしだした。