2004年12月22日 (水) -デリーの結婚式続き

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 7時起床。朝食をとりつつスニールは今日の予定を申し述べた。India04

「今日は、結婚式の続きだす。花婿の家で女べらがダンスすんなよ」

 朝食後、チャンドリカーとリチャーが、ラジカセにカセットテープをセットして音楽をならし始めた。典型的なフィルミー・ミュージックだ。二人の娘たち音楽に合わせて腰をくねらせる。二人とも同じ動きをしているので、即興ではなくちゃんとした振り付けがあるようだ。リチャーが間違った振りをするとチャンドリカーが即座にいう。

「あれー、おねちゃ。そごは違うべ。こうだべ」

「んだったが。オレはこげな風に覚えでいだったけどな」

「ぜーんぜん違うべしたあ。姉ちゃは下手だなす」

 かなり真剣な表情でダンスの練習をしている二人は、どこにでもいる普通の女の子だ。リチャーの動きはちょっとぎこちない。背が高くて細いチャンドリカーのほうがずっと滑らかだった。腰を前後に突き出すような動きは、見ているこちらは面食らう。

●再びグルガーオの花婿の家へ

 昨日と同じように、デリーの中心地を通り再びグルガーオの花婿の家へ。われわれが到着したころ、すでに女性たちがキッチンや食卓周辺で茶を飲んだりおしゃべりに忙しい様子だった。

 今日のダンスパーティーはこの家の地下室である。PA業者が巨大なスピーカーを地下室に運び入れていた。地下室は相当に広い。その一部は会計事務所に利用されていた。大きな事務机の上にコンピュータがあったのでメールチェックに使わせてもらった。花婿の弟のサウラブ青年に使い方を教わり、ヤフー・ジャパンに接続したが日本語表示のできないマシンだった。

 皆てんでに動いていて統一がなくわたしは何をしたらいいか分からない。家の外に出て携帯でチェータンに電話してみた。

「ヒロスさあ、元気だべが。んだがあ、今デリーがす。ところでよす、コルカタのラート氏がおめに大事なメールを送ったがら見てけろ。重要だ、ってだよ」

「メールがよす、日本語表示できねもんだから見らんにぇなよす。ラート氏には今から電話してみっこで。じゃあね」

 チェータンと会話を打ち切り、ラート氏の携帯電話にかけてみた。雑音の多く聞き取りにくかった。

「ラート氏だべが。今、チェータンから聞いだけど、メール読まんにぇもんだがら電話してみだなよす。何か、大事な要件があるってこどだけど、何だべ」

「オレの友だづのICCR副主席のD.P.スィンハー氏が、おめに会ってもいいと連絡してきたなよす。今おめはデリーにいるんだべ。すぐに連絡とってみでけろ。番号は、ええと、ちょっと待ってけろ。ああ、あったあった。メモあっか。今がらゆうぞ」

 ラート氏はこういって、スィンハー氏の自宅と事務所の電話番号を教えてくれた。即座にその番号に電話した。明日の2時半に事務所で会うということになった。事務所は、ニューデリーの官庁街にあるBJP本部だという。BJPというのは、最近までの政権政党である。

 この種の連絡があっという間にできるのが携帯電話の威力だ。このときほど携帯電話をもってきてよかったと思った。

 強烈なスピーカーが運び込まれた地下室では、女たちがダンスに興じていた。男たちは、キッチンや控え室で所在なげにときおりおしゃべりしているだけだった。わたしは会計事務所の机で日記を書いたり、練習をして時間をつぶした。

「めすだあ」というサウラブ青年の呼びかけに応じてみなが食堂に集まり出した。テントで覆われた中庭に食事コーナーができていた。人々がパーニープーリー、ティッキー、ニンジンのハルワーなどに群がり食べ始めた。調理職人たちは人々の注文に応えるのに忙しい。

 インドゥがティッキーをぱくつきながら近づいてきた。

●明日のタブラー奏者見つかった

「明日のタブラー奏者見つかったべ。デリー大学の友だつがら紹介してもらったなよす。カマルカーント・シャルマーという名前の人だっす。これで、明日は決まりだなす」

 カマルカーントはどんな奏者なのだろうか。ともあれ、これで明日の晩はわたしのファミリーコンサートが確定した。

 みんなが何となくだらだら過ごしているうちにあたりは暗くなり、気がつくと8時すぎになっていた。「ナッカガワさん、そろそろ帰っぺが。あ、んだ、近くのショッピングセンターさ行ってみんべ」 

 スニールがこういうと、リチャーとチャンドリカーの目が輝いた。

「わあい、わあい、ショッピングセンターだあ。行きだがっんだす」

 と二人ともはしゃぐ。

●グルガーオのショッピングモール

 二人の娘、アルカー、ラーダーそしてわたしは、スニールの運転でグルガーオのショッピングモールへ向かった。この時期のデリーは霧が濃い。ヘッドライトが照らす濃霧の中をスニールはゆっくりと車を走らせた。

 数階建ての大きなショッピングセンターが二つ、デリーとジャイプルを結ぶ幹線道路を挟んで向かい合って建っていた。周辺はぽつんぽつんと大きなビルがあるだけなので、薄暗い霧の中からいきなり光のかたまりが現れたようだった。日本でいえば中都市郊外のマイカルとかダイエーのような感じだ。ビル前の専用駐車場付近は入りきれない自家用車が列を作っていた。われわれもしばらく待って駐車場に入ることができた。車種は、韓国製、スズキなどの小型車が多い。トヨタ、ホンダの大型車に混じってメルセデスやBMWも何台か見えた。ニューデリー市内の官庁街でよく見かけるアンバサダーは見当たらない。

 こうこうと輝くショッピングセンターの入り口付近は、家族連れやジーンズ姿の若者がたむろしていた。ビル正面の大きな壁面には、最新映画の看板。中に映画館が3つあった。

 中は、衣料品、レストラン、装飾品、眼がね、コーヒーショップなどがずらっと並んでいた。中央の最上階までの吹き抜けを囲むように上の階まで様々な店が建ち並んでいる。しかも、ピカピカのガラス越しに展示されている商品はほとんどがブランド品。まるでロンドンのピカデリーサーカスのショッピングコンプレックスにいるような感じだ。ビハールの田舎、バナーラスとこれまで通過してきた村や街と比べると、まったくの別世界である。新聞などでインドが急激に変化していることは報じられていたが、こんなものができて、しかも若者たちで大賑わいというのは想像できなかった。まさに「インドはひとつの時空間のなかで、いくつもの世紀を生きている」(『誇りと抵抗』アルンダティ・ロイ著)ようだ。

 スニールによれば、ここグルガーオはインドで最もトレンディーな地域である。進出してきた外資系企業のコールセンターに勤め高い給料を得る若者が顧客の中心だという。

●コールセンター・ビジネス

 コールセンターについて、インターネットに面白い記事が載っていた。2001年3月21日のニューヨーク・タイムズの記事だ。コールセンターは、商品を購入した顧客からさまざまな苦情や要求を受入れる企業窓口である。インドでこのコールセンターを開設するのが流行っているという。とくに英米企業が多い。英語を話す人が多い、人件費と開設費用が安い、本国との時差を利用して24時間対応サービスが可能、というのが理由だ。コールセンターに電話をかけてくるのは当然、英米の消費者である。消費者は、業務連絡のような身もふたもない対応は好まない。同じ文化を共有することからくる安心感がほしい。だから、当の相談相手がインド人だと分かってはまずい。「ハーイ、わたしスーザン・サンダースよ。わたしはシカゴに住んでるの」みたいなことを、シカゴ訛りの英語で応えるとアメリカ人の顧客は安心する。客は気まぐれだからたまに個人的なことも訊くだろう。それには「わたしの母はアン、父がボブよ。兄のマークはイリノイ大学の経営学科の学生なの」なんて応えるわけだ。同じように、イギリスからの問い合わせであれば、「こんにちは、アリー・マクビー。ロンドンのカスタマー・サポートです」てな感じで、いかにもイギリス人が対応しているかのように対応しなければならない。これをみんなインド人がやるわけである。ついさっきまで手を使ってカレーを食べていたサリー姿の女性たちが、カリフォルニア風、シカゴ風、ニューヨーク風、ロンドン風、リバプール風アクセントを駆使して、スーザンになったりアリーになったりするわけだ。ほとんど漫画のような図式だが、この手のビジネス(バック・オフィス・ビシネスというらしい)がインドではますます大きくなっているのだという。なんだか、新手の植民地経営を思い起こさせる。ともあれ、こうしたコールセンターで働くインド人たちは、いわゆる普通の人々と比べればずっと高給なわけで、そうした人々向けの英米風ショッピング・センターがどんどん増えているのだという。

 

 目当ての店のあるリチャー、チャンドリカー、アルカーの親娘は上階へ消えた。わたしとスニールはとくに買いたいものがあるわけではないので、なんとなく商品を眺めながらぶらぶらした。

 最近合わなくなってきた読書用眼鏡があるかも知れないと、ふと眼鏡屋に入った。店内には、日本にもよくあるちゃんとした視力測定器もあり、デザイナーズブランドの眼鏡フレームがずらっと並んでいた。店員に読書用眼鏡を作ってもらうのにどれくらいの時間がかかるか訊いた。1週間だというのであきらめた。代わりに近眼眼鏡に着脱できる偏光サングラスを買った。日本から持ってきたものを無くしてしまったのでちょうど良かった。値段は500ルピー(=1,250円)。ルピーの現金をほとんどもっていなかったのでスニールに借金を申し出た。が、プレゼントだといって彼が支払った。まあいいか。

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左から、アルカー、ラーダー、チャンドリカー

 中央吹き抜けのバリスタコーヒーでスニールとエスプレッソを飲んでいると、女たちが戻ってきて合流。ビハール出身のお手伝い少女ラーダーが初めてのエスカレーターに戸惑いこけそうになったと女たちが大笑いした。このような場所に初めて来たらしい彼女は、居場所が見つけられずきょとんとしていた。

 国道をはさんだ向かいのショッピングモールにも行ってみた。ディスプレイが多少異なるものの、商品はほとんど変らない。例によってブランド品だらけだ。マクドナルド、ピザハット、子供用のバンジージャンプ・コーナー、清潔そうな制服の青年たちがきびきびと客をさばくオレンジジース屋、長い列のアイスクリーム屋などもあり、雑然としたお祭り空間だった。

 11時ころに帰宅。ベランダで煙草を吸いつつ、チェータンに電話してみた。ラート氏とのやりとりや明日一緒に演奏することになったことを告げた。

「タブラーの伴奏は、カマルカーント・シャルマーっつう人だけど、知ってっかす」

「聞いたごどねえな。んだげんど、おめの演奏ば邪魔しそうな演奏者だったらよす、9拍子のマッタ・タールやったらどだべ。あげな変則的なターラだど、普通のタブラー奏者はめったにやったこどねえす、知っててもよ自由に即興でぎるのは少ねえがらよす」

「分がったす。まあず、会って見ねどね。それがら判断すっぺ。ああ、それど、デリーのバーンスリー・メーカー知ってるっていってだよねす。名前と連絡先ば教ぇでけろ」

「分がった。SMSで知らしぇっがら待っちぇけろ」

 即座に携帯のショートメッセージ・メールが届いた。名前はスバーシュ・タークルだった。そのスバーシュにさっそく電話してみた。

「おれはよす、ヒロスっつう日本人でバーンスリー吹いでんなよす。おめのごとチェータンに聞いたなよす。明日おめの楽器見だいんだげんど、何時ごろがいいべが」

「ああ、ヒロスさがあ。チェータンに聞いだ。んだなあ、9時から5時は勤めに出てっから、それ以外の時間帯だなす」

 とぶっきらぼうに応えた。明日夕方はコンサートだから行くとすれば朝9時前ということになり、スニールの家からはかなり遠い南デリーのスバーシュの家までその時間に行くのは難しい。

「無理みでだな。おめの楽器は評判がいいがら、何本か買うべど思ってだげど、残念だなす」

 とたんスバーシュの声が元気になった。買う、というのが効いたようだ。

「んじゃよす、11時にいったん家さ戻っからよす、そんどに来ておごやいす」

 ということで、明日彼の家に行くことになった。

 12時ごろ横になったがなかなか寝付けなかった。

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