2004年12月23日 (木) -デリーを動き回る

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 8時ころ起床。睡眠時間が少ないので朦朧状態だ。配偶者に電話した。パチンコ勝ちすぎて怖いなどという。毎日行っているようだ。

India04 居間では、灰色のショールをぐるぐる巻きにしたアムールとナワルが、アルカー、スニールとおしゃべりをしていた。ナワルは、焦げ茶ジャンパーの内側にマフラー姿。上半身は完璧な防寒姿なのに下半身は薄い綿のパージャーマーとゴム草履だ。ナワルは、ここと同じUNESCOアパートの別棟にあるアムール宅に泊まっていたようだ。アムールがわたしにいった。

「おはようござます(日本語)。よく眠れだがす。ところで、今日のおめのコンサートはよす、おれんとこでやるごとになったす。インドゥーんどこだどみんな集まるのが大変だどいうごどになってなす。問題ねえべ」

「ああ、んだがす。さすけねす。タブラーの人には連絡したながす」

「インドゥーがしたみでだけど、おめがらも一応いってけろ」

●カマルカーント・シャルマーの携帯に電話

 ということで、カマルカーント・シャルマーの携帯に電話してみた。

「カマルカーントさんだべが。おれはヒロスだす。今日、おめがおれの伴奏してけるこどになってんなだげど、会場変ったごどは連絡いったべがす。初めて演奏すっからよ、早めに来てけろなす。んだなあ、6時半でどうだべ。場所分がっかす」

 ちょっと不機嫌そうな中年の声が返ってきた。

「シャルマーだす。今朝、聞いだす。場所も分がる」

「オレはよ、ハリジーにインド音楽ば習ってんなよ。一応、古典ばすっかど思ってんなだげんどよす、いぎなりでも大丈夫だべした」

「問題ねえば。オレはよす、サロードのアムジャド・アリー・カーンとも何回も演奏すたごどあっから」

「あらら、すごいんでねがす。んじゃ楽すみだす。おめは何歳だべが」

「52だあ」

「背は?」

「5フィートちょっとだす」

「オレは55歳。背は同ずだなす。んじゃ、今日はよろすぐなっす」

 というわけで、今日はオッサンコンビによるコンサートの予定になった。

 アムールとナワルは、スニールのラップトップで写真を見たり、別の家族の消息などを話していた。そのうち、アルカーとラーダーが用意した朝食をみなでとった。ピーナツの入ったポーハーと果物。果物は、りんご、チークー(いっけんジャガイモに見えるが、中は柿のような甘さの果物)、パパイヤ、ナツメ、干しナツメ、カシューナッツなどのナッツ類もテーブルに載っていた。

 今日はスニールの用事がなにもないのでわたしに一日つきあってくれることになった。

 ラヴィが運転し、わたしはスニールとともに後部座席にふんぞり返る。運転手付きの高級車に乗るのは気分がいい。

●バーンスリー製作者を訪ねる

 まず、バーンスリー製作者、スバーシュ・タークルの家を訪問した。場所は南デリーのマダンギール。スニールのアパートから1時間ほどかかった。スバーシュとの待ち合わせ場所でわたしを降ろしたスニールは、会計士との話があるのでと1時間後の再会を約束して走り去った。

 スバーシュの家というか工房は、表通りから狭い道を少し入ったごみごみしたアパートの2階だった。狭い部屋にベッドがひとつ。棚には乾燥した竹が天井まで積み上げられていた。それぞれ長さに応じた完成品の入ったケースが数本、壁に立てかけてあった。ぎしぎしと音を立てる籐椅子に腰を下ろすと、5歳の息子がチャーイをもってきてくれた。

 スバーシュは、すっきりした顔に鼻髭をつけた30代後半の男だった。以前はビハールのパトナーに住んでいたが、今の職場に就職したため1年半ほど前にデリーに移ってきたという。今の職場というのは、情報放送省のドラマ部門である。そこでバーンスリーを演奏している。わたしのことは、チェータンやバナーラスのジョリー・ミュージック・ショップを通じて既に知っていた。India04

 インドのプロ用バーンスリー・メーカーでは、同じデリーのハルシュ・ヴァルダーンが知られている。わたしもこれまで何度かハルシュから購入した。そのハルシュのことを、商売敵ということもあるせいか、スバーシュは批判した。

 有名になりすぎてばか高い値段で売ってるのはけしからん。音程もあまり良くない。昔は、ハリジーや甥のラーケーシュも自分のバーンスリーを使っていた。しかし、ラーケーシュがハルシュの娘と結婚したため、ハルシュのバーンスリーだけを使うようになった。また、ハリジーも結果的にハルシュと親戚になってしまった。まいったよ。自分の笛はハルシュのよりもずっと安いし高音が出やすい。最近ではチェータンなどプロのバーンスリー奏者からよく注文がくるようになった。

 彼がいうように、たしかにハルシュの楽器よりもずっと安い値段設定だった。ハルシュのスタンダードのEは、200ユーロもする。2万5千円くらいだ。しかし、同じEのスバーシュの楽器は3,400ルピー(=8,500円)だし、Eよりも長いDで4,000ルピー(=10,000円)である。ハルシュにに比べてずっと安く、吹いてみるとそれなりにバランスもいい。結局、D、Eと小さなEとFを購入することにした。全部で2万円の買い物だった。ルピーの現金は4,000しかなかったが、足りない分は日本円でもいいというので1万円をそれに加えた。日本の生徒たちにも知らせるというと、D#のものを1本進呈された。インド人たちにはもっと安い値段で売るのだろうが、ハルシュよりもずっと安く、しかもおまけまでついてきたので得した気分だ。彼としてもかなりの現金収入だったろう。別れるまで笑顔だった。

 ちょうど12時に戻ってきたスニールと合流した。

●ホテル日航メトロポリタン1階の日本食レストラン「さくら」

「昼めすさえぐべ」

 わたしが座席に座ったとたんスニールがいった。連れていかれたのは、ホテル日航メトロポリタン1階の日本食レストラン「さくら」。店内には筝の音が流れ、高価そうなテーブルと椅子がゆったりと置かれていた。壁には大きな歌舞伎絵が飾ってあった。ウエイトレスは着物姿の若い日本女性だ、と一瞬思った。よく見ると、挙動や着物の着こなしになんとなく田舎っぽい雰囲気があった。日本語で注文してみた。彼女らはきょとんとしていた。日本語はまったく理解できなかったのだ。彼女たちすべてチベット女性だった。日本女性を雇いたいところだが人件費が高いので顔の似たチベット系でそろえてみました、というところか。お昼時だというのに客はわれわれだけだった。

 キムチとソーセージフライのおかずでハイネケン缶ビール1本ずつ飲んだ後、スニールはてんぷら、豆腐、味噌汁漬物などの野菜定食、わたしはカツカレー定食を食べた。カツカレー定食が700ルピー(1750円)だった。インドに入ってから当然ながらずっとインドカレーだったので、ふと日本式のカレーが食べたくなったのだ。それにしても、カツもカレーもごく普通なのに、つまりあっそうの味なのに、日本よりもずっと高い。けしからん高さだ。こんなのはだれが食べるんだろうか、と思いつつ最後のひとすくいまで余さず食べた。スニールの野菜定食もばか高い割に全体に貧相なたたずまいだった。日本人だからたまに日本食を食べたいだろうというスニールの心遣いには感謝したが、わたしにはシャルダー家の家庭料理のほうがずっとよかった。

 食事をしつつスニールの話を聞いた。

 ラージャスターンのマールワーリーを祖先にもつスニールの父親ナローッタム・サラン・シャルダーは、モラーダーバード近くで生まれた。最初はマルベリーの素材を提供する会社で働いていた。マルベリーは日本の製薬会社だけが扱っていて、胃薬の原料になる。そのうち会社の方針と合わず自分で事業を起こした。創業当時、今はアルプス製薬の会長になっている人がシーラーにきて製造法を教えた。事業は次第に大きくなり、91年、92年あたりがピークだった。2000年3月の父親の死後、注文が途絶えた。しかし、スニールが日本に出向いて取引を再開し、今は安定した取引になっている。ただ、日本の製薬会社は中国から安く品質の良いものを輸入するようになり、じり貧になりつある。アルカーはここ数年病気で大変だった。危機的なときもあった。彼女は、最初は英語がしゃべれず家族から疎遠にされていた。しかし努力して英語もできるようになり、今では家族のだれもが一目おく存在だ。自分はアルカーという配偶者を得てとてもラッキーだ。われわれの家族ほど絆が強いのはインドでも珍しい。こんなふうにじっくりとスニールの家族の話を聞いたのは初めてだった。

BJP本部事務所

 ランチ後、BJP事務所の前でスニールといったん別れた。BJPの事務所はニューデリー官庁街のアショーカ・ロードに面したただっぴろい平屋建ての建物だった。蓮の花のシンボルマークを染め抜いた党旗やインド国旗が、3メーターほど高さのあるコンクリート塀から見えた。おざなりなセキュリティーチェックを受けて構内へ。受付棟には、バージペーイー前首相の誕生パーティーポスター、党旗、大きな蓮の花のシンボルマークが無原則に壁面を飾っていた。

India04 会う約束をしたICCR副主席D.P.スィンハー氏の事務所は、平屋の仮設事務所のようなところにあった。壁に56と番号が書かれていた。事務室の横が秘書や運転手の控え室になっていた。コンピュータに向かってタイプしていた小柄な青年秘書が、かん高い声で椅子を指差し待機するようにいった。秘書は退屈しのぎのカモが来たとばかりにいろいろ質問してきた。わたしがインド音楽をやっていることやヒンディー語を話すことが分かると、早口のヒンディー語でしゃべり始めた。自分は演劇関係だった、俳優や演出もやった、オリッスィー舞踊も習ったことがある、グル・ケールーチャラン・モーハパートラーは偉大な先生だったが数年前に亡くなって残念だ、自分はビハール出身だ、などなど切れ目無くしゃべる。こんな話を聞いているうちに約束の2時半はとうに過ぎていた。しかし、なかなかお呼びがかからない。秘書は、先生は今、国会議員との重要な打ち合わせなのでもうしばらく待てという。明日はムンバイに発つし、今日もやることが多くある、いつまで待たなければ分からないのであれば、本屋へ行って再び戻ってくるがそれは可能かと腰を上げた。秘書はうるさいやつだなという表情をして事務所のドアをノックし、本人にわたしの来訪を告げに行った。ほどなく、事務室に案内された。小さな事務室には国会議員らしい初老の男が、資料類が雑然と積み上げられた机の奥に座るスィンハー氏と対面していた。スィンハー氏は、ドアの側で立つわたしを見上げていった。

「いやあ、悪がったなす。2時半に約束だったなす。急にこの国会議員の先生がござったもんだがら待だせてすまったなす。先生、ちょっとええべがなす。約束すてたのよす」

 正装民族服を着た初老のセンセは、不機嫌そうな表情で「さすけねごで」と手を振りつつ隣の椅子を示した。大きな眼鏡、ふさふさした黒い髪の分け目に走る白髪帯、薄い鼻髭。吉本新喜劇の芸人、チャーリー浜とそっくりだ。

 スィンハー氏がバイス・プレジデントであるICCRというのは、インディアン・カウンシル・フォー・カルチュラル・リレーションの略である。日本ではインド文化関係評議会と呼ばれる政府付属機関である。ウェブサイトには、インド文化の対外的関係に関する企画立案および実施、文化交流を通した相互理解の促進、文化関係国際機関との関係促進を目的として1950年に設立された、とある。日本でいえば国際交流基金や文化庁といったところか。

 今回、スィンハー氏に会う目的は、聲明グループ「七聲会」のインド公演の可能性を探るためだった。七聲会の英文資料やCDを手渡しつつ、ICCRにサポートを依頼するためにはどのような手続きが、いつ必要かを聞いた。

 ふむふむと聞いていたスィンハー氏が答えた。

「おめさまのプロジェクトは意義があるなす。すんごくいいこどだす。文化交流は大事だごでなす。ただ、ICCRは政府機関の一部だべした。んだがら、日本政府の、たとえば国際交流基金みでなチャンネルば通ずで申す出すたほうがベターだべなす。そういう手続きでわれわれに申す出があればよす、全面的に協力すっこで。来年度の企画はよす、予算年度の4月がら始まっがら、それまでに基金がらの申す出があっつどベストだなす」

 仮に国際交流基金からの申し出があれば、それから後はどのような具体的な支援になるのかと聞くと、チラッと国会議員のセンセに視線を向けた後、

「んだなす。そんどぎになってみねど分がねなす。どりあえずよす、日本さ帰って試すてみでけろ。そすて、もす具体化すたら、主席に連絡してみでけろ。ごめんくさい」

 と、会談はこれで終わりという表情で答え、主席の名前を書いたメモをわたしに手渡した。積極的にプロジェクトを支持するという口調ではなかった。「すごくいい企画だがらさっそく検討してみんべ」ということにはならなかった。もっとも、スィンハー氏が乗り気になったとして、実現の糸口がつかめたかどうかは分からない。コルカタのラート氏の紹介とはいえ、スィンハー氏の事務所はICCRではなく今では野党の本部の一角にある。ということは、現在のICCRにどれだけの影響力があるのかもはっきりしない。最近のICCRのウェブサイトを見ると、主要スタッフの氏名が公表されていたが、スィンハー氏の名前は見つからなかった。ともあれ、ある程度こうした対応は予測していたし、なくてもともとという気持ちの訪問だった。別のチャンネルか国際交流基金にあたってみる必要があるだろう。

●ムンシーラーム・マノーハルラール書店へ

 スィンハー氏との面談は3時すぎに終わり、BJP本部を出た。しばらく待ってやってきたオートリキシャをつかまえてラーニー・ジャーンシー・ロードのムンシーラーム・マノーハルラール書店へ行った。オートリキシャ運賃50ルピー(=125円)。この書店は、インド学関係の書籍が揃っていることで有名な店だ。デリーに来たら必ず立ち寄ることにしている。店主のアショーク・ジャイン氏、来日したときに神戸まで電話をかけてきた息子のヴィクラムが店にいた。98年にここで10万円ほど本を購入したのでアショークはわたしを覚えていた。まだ20代に見えるヴィクラムは、なぜか東洋系の顔つきをしている。音楽関係の本を数冊購入。代金は4,800ルピー(=12,000円)。重くてかさばるのですべて船便で送ってもらうことにした。アショークは3ヶ月で届くといっていた。実際届いたのは半年後だったが。India04

 4時すぎ、オートリキシャ(40ルピー=100円)でスニールとの待ち合わせ場所へ。コンノート・サーカスBブロックの靴屋BATA前で5時15分、というのがスニールとの約束だった。しぶとく近づいてくる両替屋やハシシ売りをかわしつつ店の前に立っていると、駐車場にいるラヴィがわたしを見つけて手を振った。車の側に立つスニールの横に次女のカンヌーがいた。

●カンヌ

 他の娘たちもそうだったが、カンヌーも見違えるほど成長していた。3人娘の中ではもっとも色黒だ。艶のある秀でた額、細面のすっきりした目鼻立ちに細い近眼眼鏡をかけている。とても知的に見える。話し方もリチャーやチャンドリカーよりずっと落ち着いていて大人びていた。

 車中で彼女からいろいろ話を聞いた。DPSの最終学年の彼女は、大学受験のための補修授業で忙しく結婚式にも参加できなかった。彼女が狙っているのはインド最難関のインディアン・インスティテュート・オブ・テクノロジー(インド工科大学、以下IIT)のデリー校である。インドに7つあるIITには、インド中の最も優秀な学生4000人が毎年入学する。なかでもデリー校とムンバイ校が最も難しい。入学者のうちトップ1000人ほどが情報技術系に進む。彼女の希望も情報技術系だ。だめだったら生化学に進みたいという。助手席に座っていたスニールが首を後ろを回して嬉しそうにいった。

「彼女はすんごく優秀なんだす。IITの他にも願書出してるみでだす」

「んだがあ、すんごいなす。あどはどごどご受げんなやす」

 カンヌーは表情を変えずにさらっという。

「んだっす。滑り止めとすて、MIT、CALTEC、ハーバードにも入学願書送るんだす」

「あれれ、たまげだなあ。んでもアメリカの大学だど授業料高いべ」

「んだっす。んでも、奨学金あっからね。ケンブリッジどがオクスフォードも選択肢だげんど、そいう制度がねえがら難すいなよす」

「っつうごどは、アメリカの一流大学よりもIITがずっと難すいなが」

「んだす」

 とスニールが再び後ろを向いて答えた。どうも、カンヌーはとんでもなく優秀な娘のようだ。アメリカの一流大学の名前がさらりと出てくるのには驚いたが、そうした大学よりもIITがずっと難しいというのはにわかには信じられない。きっと本当なんだろう。

●ホームコンサート

 5時30分に帰宅。舞台衣装に着替えてすぐにアムール宅へ歩いて移動。アムール宅は、同じアパート群の別棟にあり、間取りもスニール宅とまったく同じだった。マータージー、スダー、シーラー、ビンドゥー、インドゥー、ハリジー、マドゥラー、ラシーなど、親族が既に集まっていて食事の準備やおしゃべりに大忙しだった。ダイニングテーブルやソファなどは片付けられ、白いシーツカバーの布団が床に敷き詰められていた。奥まった壁際の一角には一段高くマットレスが敷かれていて、そこが舞台だった。その上の壁にかかるカーテンに、ヒンディー語で書かれたバナーが貼付けてあった。「本日の夜、中川の名」と書いてある。

India04 約束の6時半ぴったりにタブラー奏者のシャルマーが、ラーガヴというぷっくりした息子を伴ってやってきた。白いワイシャツ、灰色のチノパン、濃い茶色のウールのベスト、長いマフラーを首からゆったりと巻いた小太りのオッサンだった。薄い髪の生え際は頭頂部付近まで後退し、白髪まじりの鼻髭をたくわえている。わずかに色のついた眼鏡から自尊心の強そうな目が光っている。昨日の電話ではわたしよりも2歳年下ということだったが、ずっと年上のように思えた。

 彼がもってきたのは低いEのタブラーだった。電気タンブーラーももってきていた。練習してみると、主奏者を押しのけるタイプではなさそうだったのでちょっと安心した。

 アムールの「んじゃ、ナカガワジー、始めっかす。こごさ集まったのは音楽のごどなんにも分がんね人だがら、最初ちょっと説明してけろなす」という呼びかけでコンサートがなんとなく始まった。

 まず、ラーガ、ターラの説明をした。みんな頷いたりして真面目に聞く。ターラの説明のときにはシャルマーにタブラーを叩いてもらった。説明を切り上げかかったとき、シャルマーが、

「オレにも補足さしぇでけろ」

 としゃべり始めた。ターラの分割は普通こうなっているが、自分は師匠にこう習い、それを習得した、これをマスターするのはとても大変だが、自分はそれをやり遂げてこんな風にプロになった、有名なサロード奏者、アムジャド・アリー・カーンの伴奏も勤めたこともある、など自慢がらみのかなり長い説明だった。見知らぬ人達に囲まれて自分の存在を誇示したかったのだろうか。India04

 演奏はまず、ラーガ・ハンスドワニで1時間。アーラープの後、ルーパク・タール、ティーン・タールで演奏した。ルーパク・タールのとき、わたしの意思と関係なくシャルマーがテンポを速くした。テンポを決定していくのは通常主奏者なのだが、シャルマーは気が急いていたのかも知れない。音はまあまあで気持ちがいい。ルーパクで彼のソロを誘ったが乗ってこず、テイーン・タールのとき何周かソロをとった。ちょっとバタバタした感じのソロだった。

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 ついで最上川舟歌、バティヤーリーを演奏。これで終わりのつもりだったが、拍手が止まない。

 アムールが、

「まさかこれで終わりっつうごどはねえべした。ウォーミングアップが終わったっつうごどだべした」

 と冗談まじりでいう。隣のシャルマーが、

「何か軽いもんでもやってみっか。ジンジョーティーとがカマージはどうだべ」

 というし、他の人たちも

「民謡どがガザルどがしてけろ」

 などと勝手にいろいろ注文する。結局、バジャン1曲とチャンドラカウンスを追加で演奏した。チャンドラカウンスのときは、シャルマーがわたしのイメージの半分のスピードで伴奏したので、盛り上げ計画は破綻してしまった。最後に超特急スピードで盛り上げようと思っていたのだ。

 演奏が終わるとすぐに、キッチンのカウンターに並べられた料理をめいめい取り分けて夕食が始まった。皿を手に持って口を動かしながらわたしのところにやってきて

「えがったす。たいすたもんだなす」

 と声をかけてくれた。

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ウパースナー、ワダス、アナント

 皿に取り分けてもらった料理を舞台に座って食べていると、途中から入ってきたインドゥーの息子アナントが、

「アンクル、久しぶりだなす。ヨメのウパースナーだ。パンジャーブ出身なよす。高校時代に知り合って5年後に結婚すたんだす」

 と、新妻を紹介した。背の高いアナントは以前よりも恰幅がよく堂々として見えた。インドの超エリート校インディアン・インスティテュート・オブ・マネジメント(IIM)でMBAを取得したアナントは、ハネウェル社の販売責任者になっていた。華麗な雰囲気を漂わす美人のウパースナーは、「アンクルのごどはアナントがらなんべんも聞いでいだっす。これがらもよろすぐ」

 と低い声でいった。彼らの他にも、アーデーシュの娘と結婚しイギリスの鉄道関係で責任の大きな仕事に就いているという30代のサンジーヴや、ビンドゥー、娘のマドゥラー、ラシー、ナワル、マータージー、インドゥー、ハリジーなど親族が次々にやってきてなかなか食事に取りかかることができなかった。

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スニールの娘たちと/左からカンヌー、リチャー、チャンドリカー

 みんなが一通り食事を終えたころ、わたしの知らない中年の男が、おずおずと自作の詩を披露した。これがなかなかに長く続いた。それも終わり、人々が帰り支度を始めたころ、アムールが部屋の隅で手招きした。

「これはよ、みんながらのお例の気持ちだがら受け取っておごやい。タブラーの人にもちゃんと渡すたがらよす」

 と封筒を差し出した。こんなことはまったく期待していなかったわたしはいったん断ったが、隣のスニールがうんうんと頷いているのでありがたく受け取ることにした。中には2,000ルピー(=5,000円)入っていた。

 スニール宅に戻ったのは10時半だった。さっそく、パッキング。明日は6時半にはここを出なければならないのだ。5時起きだ。ムンバイ行きのフライトは当初の6時20分だったが、濃霧のために8時50分に変更になっていた。この日は、マータージーとシーラーもここで宿泊。

 パッキングを終えてベッドに横になったのは1時ころだった。2時半ころ、突然下痢っぽい感じに襲われた。何度もベッドとトイレを往復した。朝までほとんど眠れなかった。

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