2004年12月25日 (土) -ゴーシュ御殿

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 7時起床。下痢は収まった。部屋で1時間ほど練習した後、1階の事務室の机を借りて日記を書いた。ドゥルバとロザリンはまだ寝ていた。2階の広いバルコニーに出ると、背の高い椰子の木々の間に点在する2階建て住宅群の向こうに海が見えた。左手には建築中の超高層アパートがあった。職人たちが、頼りない丸太足場にへばりついて壁面の仕上げをしていた。鳥の声と椰子の葉を通り抜ける微風の音しか聞こえない。ムンバイにいるとはとても思えない。

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●ドゥルバ・ゴーシュについて

 ここで、ドゥルバ・ゴーシュについてちょっと触れておく。彼はインドでも有数のサーランギー奏者だが、今ではむしろヨーロッパを中心に旺盛な演奏活動をしている。1957年生まれだから、わたしよりも7歳年下だ。無造作に真ん中で分けられた豊かな髪は、年齢にふさわしくほとんど灰色に近い。しかし、下に向かって開き気味の大きなだんご鼻に乗る度の強い眼鏡の奥で光る眼は、柔和で若々しく知的だ。常に冗談の準備をしているように見え、怒った顔は見たことがない。アーリヤ系と東洋系の折衷型という典型的なベンガル人の、ちょっと下膨れ気味の顔。あれを食べては駄目、これも駄目、などという自己規制を持たず食べ続け、かつ一切の運動をしなければきっとこうなるだろうというような体型。

 ドゥルバと初めて会ったのは1992年だ。知り合ってほぼ13年になる。

 92年の冬、わたしはハリジーの元でのバーンスリー修行のため2ヶ月ほどムンバイに滞在した。修行やコンサートにも忙しかったが、そのときは別の用事でも忙しかった。それは、翻訳していたインド音楽入門書に出てくるインド諸語の正確な読みや不明な点を知るために、専門家たちを訪ね歩いていたからだ。そのうちの一人が、社会学者のピライ博士だった。彼は、サンギータ・マハーバーラティー(SMB)という音楽学校でインド音楽百科事典の編集をしていた。わたしは、タミル語やマラヤーラム語の単語リストを抱え、カール・ロードにあったハリジーの自宅からそれほど遠くないジュフ地区のSMBへ毎日通った。ヒンディー語とはまったく異なる言葉にわたしはまったくお手上げだった。さいわいピライ博士はケーララ出身だった。、英語はもちろん、南インド諸語ばかりでなくサンスクリット語、ヒンディー語の音楽用語にも通じていた。多忙なはずの博士は、かなりの時間を割いてわたしの質問に根気よく答えてくれた。

 ある夜、2階の事務室で博士と対面しているとき、停電になった。そのとき真っ暗な廊下からろうそくを持ってぬうっと現れたのがドゥルバ・ゴーシュだった。わたしよりも数センチ背が高く、度の強い眼鏡をかけた彼は、当時は比較的ほっそりした体だった。ピライ博士は、SMBの創設者ニキル・ゴーシュの次男だと紹介した。その後、ピライ博士を訪ねた後は必ずドゥルバにも会い音楽談義とジョークを楽しんだ。彼のコンサートにもたびたび足を運んだ。彼は素晴らしいサーランギー奏者だった。また、彼の兄、ナヤン・ゴーシュは当時すでに一流のタブラー奏者としてムンバイでは有名だった。

●エイジアン・ファンタジー

 帰国して間もなく、「エイジアン・ファンタジー」というコンサートを企画していたピットイン・ミュージックの本村鐐之輔氏にドゥルバを紹介した。92年5月に東急文化村のシアターコクーンで行われた「エイジアン・ファンタジー」に彼も出演し、わたしは通訳件マネージャーとして参加した。そのときの出演者は、仙波清彦(打楽器)、坂田明(サックス)、山下洋輔(ピアノ)、渡辺香津美(ギター)、知名定男とネーネーズ(沖縄民謡など)などの他に、ヴァイオリンの金子飛鳥率いる飛鳥ストリングス。飛鳥ストリングスには、ドゥルバの他に、モンゴルの馬頭琴奏者チ・ボリコウ、中国の二胡奏者羅紅、韓国のヘーグム奏者ビョン・ジョンフォクがゲスト出演者として参加した。その後彼は、93年から2000年まで「エイジアン・ファンタジー」のレギュラー・アーティストとして兄のナヤンとともに毎年参加するようになり、日本人ミュージシャンにも知られるようになった。最初は通訳だったわたしも95年のアジア・ツアー以来、演奏家として毎回加わっている。わたしは、99年にはドゥルバ単独の日本公演ツアーもプロデュースした。

 98年の1月に「エイジアン・ファンタジー・オーケストラ(AFO)」第2次アジア・ツアーの下準備のためにムンバイに行った。当時、ドゥルバはベルギー女性ロザリンと結婚したばかりだった。ドゥルバとロザリン、ロザリンの娘サマエと住んでいたジュフ海岸に近いアパートをそのとき訪ねた。ロザリンは大柄で包容力のある女性だった。金髪のまぶしいサマエは、当時6歳くらいだった。結婚以来、彼はベルギーとインドを演奏活動の本拠地として活動を始めていた。この結婚は、エリート音楽一家であるゴーシュ家にとっては歓迎されないものだったらしく、両親とは溝ができた。以前からあまりよくなかったナヤンとの関係も悪化したようだった。95年に父親のニキル・ゴーシュが76歳で亡くなった後、SMBはナヤンとドゥルバによって運営されていた。しかし、ロザリンとの結婚がきっかけの一つとなりドゥルバは学校から完全に手を引いた。

Casa2.JPG ドゥルバとロザリンがカサ・マルベッラのゴーシュ御殿を買ったのは2年ほど前だという。結婚当初、ドゥルバたちはジュフのアパートを借りて住んでいた。しかし、半年以上はヨーロッパに住む彼らにとって、ムンバイで高価な借家を借り続けるのは維持管理上からも経済的にも非効率だった。しかし自由に使える活動拠点は必要だった。そこで、ロザリンはベルギーにいる姉妹たちにも出資してもらい買ったのだという。ロザリンからこの話を聞いていると、ドゥルバがいった。

「スワーミー、他の人さあんまり御殿だ御殿だっていわねでけろ。ただでさえヨーロッパで活動すてるもんだがらやっかむのがいんなだげんど、こごの家のごというどみんなひがむがら」

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●ロザリン

 日記を書き終えたころ、二人が降りてきた。ロザリンは、真っ白いクルター・パージャーマー姿。クルターの生地が薄いので濃い色のブラジャーが透けて見えた。背中にまで伸びたソバージュ風の茶の長い髪が歩くとふわふわと揺れる。ドゥルバよりも背が高い。体重は彼と同じくらいかも知れない。彼女は、落ち着いた声のヨーロッパなまりの強い英語で、Dhruba&Roselyne.JPG

「ヒロシ、チャーイ飲むが」

 と声をかけた。

「飲むず。がはははは」

 こう応えたのは、白いワイシャツとベージュの綿パン姿のドゥルバ。彼はダイニング・コーナーの丸い籐椅子に巨大な尻をどさっと降ろし、テーブルの丸いガラス天板の上にあったポテトチップスの袋に手を突っ込んだ。

 使用人の若い女性プラガティーがチャーイを運んできた。小柄でほっそりした女性だ。ちょっとやつれた表情をしていた。3歳くらいの男の子も一緒だった。男の子は彼女のサリーをつかんで離さない。

 ロザリンは、使用人にまだ慣れないらしく不満をいう。ドゥルバはふんふんと頷き、仕方ないんだよ、と西洋人のように手を広げた。プラガティーの体調が悪いのと、それを理解しない夫が問題のようだった。

 しばらくして、プラガティーがキャスターのついたワゴンで遅めの朝食を運んできた。両面をこんがり焼いた小さめのトースト、コリアンダーのチャツネ、薄切りトマトだった。ロザリンが、

「こればちょっとたらすどもっとんめぐなる。イタリア農民式たべ」

というので、小皿に入ったオリーブオイルをつけて食べたら、たしかにおいしい。

India04 食事の後、ドゥルバが音を出し始めたのでわたしも加わった。彼が練習する場所は開放的な居間の一角だった。3畳ほどの絨毯、スポンジの背もたれ、小さなテレビが大理石の床に直に無造作に置かれている。螺旋階段の部分が吹き抜けになっているので音が気持ちよく反射する。

 お互いにラーガ・ヤマンのアーラープを演奏した。彼のサーランギーは実に繊細だ。音が気持ちよく反響する。

「スワーミー、今日は何か用事あるなが」

「とりあえず、なんにもねえす。ハリジーは明後日ムンバイさ戻ってくるがらそれがらだだす」

「今日はよす、ジュフの家でアヤミのレッスンなんだけど、一緒に行ってみっか」

「あらら、んだがす。アヤミのレッスンは始まってだながした。彼女にも会いでがらえぐべが」

 アヤミというのは、ドゥルバにサーランギーを習い始めた日本人女性だ。彼女にドゥルバを紹介したのはわたしだった。

●3時ころ、家を出た

India04 3時ころ、家を出た。われわれのいる広いカサ・マルベッラと外部との境界は数メーターの高さのある鉄の門扉だった。門扉の側には小さな守衛詰め所があった。車が近づくと二人の守衛が敬礼して大きな門扉を押し開いた。昨日は暗くて分からなかったが、あたりは緑が多く建物が少ない。車だとフェリー乗り場まではほんの5分だった。ドゥルバの運転姿勢がちょっと変っている。座席をぎりぎりまで前にしてハンドルに覆いかぶさるような姿勢だ。

 われわれは乗り場近くの路肩に駐車し船着き場へ歩いた。ちょうど船が出るところだった。船上はすでに人と自転車、モーターバイクでぎっしりだった。

「このフェリーがないと大変なんだ。車で対岸へ出るにはよす、1時間以上遠回りになんなよす。細い川なんだけど、途中に橋がねえがら」

 ドゥルバが船上でこういった。India04

 5分ほどで対岸へ到着した。昨日のように、斜めになった細い道板を揺らして一人ずつ船を降りた。船を降りるところは泥だらけだ。川岸には修理中の漁船、漁網、掘建て小屋、密集した小さな家々がゴチャゴチャと固まっていた。いたるところに小魚が干してあるので臭いがものすごい。それに、真っ黒い川の水から下水のような臭いが立ち上る。

 オートリキシャをつかまえ、ジュフにある彼のもうひとつの家へ向かった。ハリジーの新しいアーシュラムが途中に見えた。

●モナミ・アパートへ

 4時すぎに見慣れたアパートに着いた。狭い中庭を囲んだ数階建ての古い建物だ。モナミ・アパートである。ナヤンを何度か訪ねたことがあるので覚えている。ドゥルバの部屋はナヤンの隣だった。右がナヤン、左がドゥルバと玄関ドアが隣り合っていた。ここはかつて1戸の大きなアパートで、わたしが98年にナヤンを訪ねたときは、母親、ナヤン夫妻と小さな息子が住んでいた。しかし、家族の間のさまざまな確執の末、兄弟それぞれ二分割して相続したようだ。ドゥルバがカサ・マルベッラの家を買ったと知って間もなく、ナヤンが自宅の分割を申し出たという。

「変な話だけど、そうなったなよす」

 玄関ドアのところでドゥルバがこういった。

 1階の階段室に面したドアのところでアヤミが楽器をもって待っていた。

 中は、居間兼音楽室と奥に寝室が一つ。それを挟んでバスルーム。バスルーム入り口はスライド式ドアで、正面に大きな電気洗濯機があった。キッチンはガラスで囲われていて、居間から区別されている。ロザリンのアイデアが盛り込まれた内装は、改装されてまだ間がないためもあるのか、ヨーロッパ風のすっきりとしたデザインだった。居間兼音楽室の窓際には机とベッドがあった。大きなタンブーラーの入ったガラス張りの家具、ステレオ、テレビ、コンピュータの乗った低い棚、壁には父親の写真、聖者らしい女性、古典音楽にバーンスリーを初めて導入した叔父パンナーラール・ゴーシュの写真が飾られている。タブラー、サーランギー、ハールモーニアムといった楽器が無造作に床に置かれていた。

●アヤミのレッスン

 アヤミは、自分の楽器を取り出しチューニングを始めた。彼女とは東京の「音や金時」ライブのときに一度会い、その後何度かメールでやりとりした。再会してみると印象は大部違った。わずかな時間言葉を交わしただけなので無理もないかも知れないが、どうもわたしの顔記憶はかなり怪しくなってきたようだ。地味な色のパンジャービー・ドレスを着た30代の細い女性だった。芯の強そうな落ち着いた雰囲気のある女性だった。英語とヒンディー語ができるのでドゥルバとのコミュニケーションは問題ない。

India04 わたしは窓際のベッドで寝転んでレッスンを見学した。彼女のサーランギーは、技術はまだまだのようだった。ドゥルバの丁寧な指導に真剣に応えているので、どんどん巧くなっていくに違いない。今は、中心市街地にあるムスリム地域のホテルに滞在して通ってきているという。ホテルは1日200ルピー(=500円)と安いが、部屋が狭い。ここまで来るのに電車、バスを乗り継いで1時間半かかる。近所に部屋があれば移りたいといっていた。

「わたし、もっと近いところで部屋を探しているんですけど、トモコという女性にわたしの連絡先を教えていただけませんか。トモコというのは、今ハリジーのとこでバーンスリー習っている人です」

 アヤミが、こういって電話番号を書いたメモをわたしに手渡した。トモコという女性がハリジーの生徒だということも初耳だった。

 インド人男性も途中からレッスンに加わった。パテールと名乗った。40歳くらいの小柄で丸顔の男だった。楽器の修理やハールモーニアムを演奏するが、サーランギーも習うべきだと人にいわれてここに通い始めた。2年になるという。

 この日のレッスンは、ラーガ・ヤマン、ラーガ・シュヤーム・カリヤーン、デーシュなど。ドゥルバは、二人にアーラープの微妙な表現や細かな練習テクニックなどを丁寧に教えていた。練習を聞いているうちに眠くなり、ベッドでうたた寝をしてしまった。

 6時ころレッスン終了。わたしが先に出て玄関ドアでみなを待っていると、ナヤンの家からサリー姿の中年女性と少年が出てきた。ナヤンの妻、ジョーティだった。わたしを見ると、

「あれれ、ヒロシでねえが、元気がす?」

 と声をかけてきた

「元気だべ。6年ぶりにムンバイさ来たなよす」

 と応えたとき、ドゥルバがドアから姿を表した。彼女はドゥルバを確認すると急に顔を、別れの挨拶もせずすたすた去って行ってしまった。ジョーティやナヤンとわたしは何のわだかまりもないので、なんとも気まずい気分だ。ドゥルバ、ナヤンの絶縁状態はかなり深刻なようだ。

 ドゥルバから、サイズが合わなくなったのでと普段着用のクルターを2着もらった。パージャーマーも必要なので帰宅途中に買いに行った。2本で300ルピー(=750円)。

●ゴーシュ御殿へ帰る

 来た道を戻る。フェリーで対岸に渡り、小さな商店街で果物とヨーグルトを買った。店主たちはみなドゥルバを知っているようだった。彼が車を離れて買い物をしている間、わたしは助手席から屋台のカレー屋の作業を見下ろした。男がゆで卵を油で炒めた後、ターメリックと塩をぱっぱっとふりかけていた。それが終わるとどす黒い油にチキンを投入しつつ、よくわからない魚の切り身にスパイスをすり込む。なるほどそうするのか、などと思いながら男の作業を眺めた。

 帰宅するとロザリンが待っていた。三人でおしゃべり。90歳を越えるロザリンの父親はまだ健在だが、母親は彼女が若いころ他界した。あまり子供の話を聞かない母親だったらしい。今は、両親の残した大きな屋敷を貸すのが仕事だ。楽な仕事だと人はいうが、古い家なので補修や改装などがあり忙しいという。また、若いころにインドに来て興味をもったホメオパシー医療の活動もしている。ドゥルバのヨーロッパでの活動なども聞いた。佐藤一憲君の死は、ノルウェー公演のときにわたしからのメールで知ったという。佐藤一憲君というのは、ドゥルバやわたしが関わってきたAFOにずっと参加していた優秀なパーカッショニストだ。その彼が北九州の舞台公演中の骨折が間接的原因となって38歳で亡くなったのは、わたしがインドに来る前月の、つまり11月17日だった。しばらく佐藤君の話になった。

 おしゃべりが途切れるとドゥルバがサーランギーを鳴らしだした。ラーガ・ヤマンのアーラープ。わたしも新しいD#の笛で加わった。よく響く空間なので音を出すのは本当に気持ちがいい。

 10時半ころ、近所の食堂から出前が届き、遅い夕食。タンドーリー・チキンと野菜カレー、ダールなど。われわれはとっておきのインド製シャンパンを飲み深夜までよくしゃべった。このインド製シャンパン、なかなかにうまい。けっこう飲んだのでかなり酔っ払い、2時近くに就寝。

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