2004年12月28日 (火) -修行道場「グルクル」

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 7時ころ起床し練習。配偶者に電話。今日から明石の実家へ行くという。

 今日は、今回最初のハリジーのレッスンだ。グルクルがどんな様子なのか期待も膨らむ。

 練習していると、ドゥルバが部屋に入ってきた。

「スワーミージー、携帯電話のカードなぐすたみでなよす。10時に警察さ行がねえど。ちょっと早いげんど、出かげっぺが」

 というわけで、早めに家を出た。オートリキシャでワルソーワー・リンキング・ロードを走っているとき、ドゥルバが道路向かいの建物を指していった。

●バーンスリー修行道場「グルクル」

「ほら、あそごがグルクルだっす。隣が銀行だがら分がやすいべ。んじゃ、夕方、モナミ・アパートで」

India04 オートリキシャが停まった歩道に、黒板を前にした子どもたちが10人ほど固まって座っていた。制服らしい青いシャツを着た子どもが多い。その黒板の上に「STREET CHILDREN SCHOOL」と書かれた横断幕が掲げてあった。貧しい子どもたちのための路上の小学校だった。この辺は通行量の多い。排気ガスなど問題にならないのだろうか。

 道路を挟んだ向かいに3階建ての水色の建物がグルクルだった。背の高い頑丈な鉄柵に囲まれた縦に長い建物は、右の広い空き地と側道に挟まれていた。外観のデザインは取り立てて特徴はない。道路に面した細い方の壁面には、2メーターほどの白いクリシュナ神のレリーフがあった。周辺の雑多なビルとの違いはそれだけだ。その、バーンスリーを吹くクリシュナ神の上に、ヒンディー語の「ヴリンダーバン グルクル」の文字が浮き彫りなっていた。出入り口は側道に面して2カ所あった。てっぺんに街灯のある鉄柵の四角い支柱を挟んだ可動式の門扉は自動車用出入り口だ。支柱の壁龕には英語で「VRINDABAN CHARITABLE TRUST/GURUKUL」とあった。人が出入りする狭い鉄格子扉には頑丈な南京錠がかけてあった。弟子たちがいつでも出入できるというわけではなさそうだ。

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●ハリジーの長年の夢

 このグルクルはハリジーの長年の夢だった。修業時代、レッスンが終わるとハリジーは眼を輝かせてよくいっていた。10年以上前のことだ。

「インド音楽の伝統は、月謝取って教ぇる今どきみでなもんでねなよ。グルど弟子がおんなず場所に寝泊まりすて、弟子が迷ったどきはいづでもグルが指導でぎる場所が要るんだ。おめみでな、遠がいどごがら来る弟子がいづでも寝泊まりでぎて習える場所。録音スタジオどが、ちょこっとコンサートもでぎる部屋もある場所。それがグルクルだ。今よ、州政府さ土地ばもらうように頼んでるなよ。多分、ジュフのあだりになんべな」

 こういいつつ彼は、大きな青写真を見せてくれた。その設計図には、広いレッスン室のある中央棟、中庭を挟んだ数棟の宿泊施設などが描かれていた。

「こごの庭は、日本庭園みでにすてもええな」ともいっていた。

 彼に頼まれて、修行当時の居候先である日本人商社員からグルクル寄付金を預かったこともあった。

 こんな風にわたしは、ハリジーの語るグルクルがどんなものになるのかと想像を膨らませていた。2年ほど前にアニーシュやピライ博士から、グルクルが完成しハリジー自身もそこに住んでいることを知ったときは、今度レッスンに行くときはそこに宿泊できるかも知れないなとちょっと期待した。

 グルクルを外から実際に見る限り、当時ハリジーが語っていたプランとはかなり違っていた。何年か前、グルクル予定地取得でハリジーが詐欺にあったという噂も聞いたので、全体のプランも変更になったのかも知れない。

 いわれていた11時にはまだ1時間ほどあったが門柱のブザーを押した。

 すると、20歳くらいの男が出てきて不審な眼でじろっと見た。

「こごは何時に開ぐなや。今日レッスンに来たんだげど」

「11時だ」

 と彼はヒンディー語で応えた。

「その前に中で練習でぎねえべが」

「だめだ。規則で11時まで人は入らんにぇなよ」

 とにべもない。

 仕方がないので、路上のチャーイ屋でチャーイを飲んだ後、インターネット・カフェで時間をつぶした。日本語表示のできないマシンだったので結局メールはチェックできなかったが、スマトラ沖地震の報道などを見ているうちに11時5分前になっていた。津波の被害がとんでもないことになっているようだ。

 11時きっかりにグルクルへ。半地下があるため1階部分は10段ほど階段を昇ったところにあった。階段の昇り口には何組かの履物が散らばっていた。階段を昇ったところに大きなガラス張りの玄関あった。玄関ドアの上の壁面にローマ字で「Vrindaban Gurukul」と白い文字がくっきりと浮かんでいた。玄関正面には白大理石でできた大きなクリシュナ神像が安置してあった。この像は見覚えがある。ハリジーの自宅にあったものかも知れない。右はクリシュナ神の祀があるだけのがらんとした部屋、左がレッスン室になっていた。レッスン室は、天井はそれほど高くはないが長方形のかなり広い空間だった。40人くらいならゆったり座ることができそうだ。ベンガラ色に塗られた床は拭き清められてピカピカだった。長辺の中央に壁を背にして丸い肘掛けのある椅子が置かれ、その両側を箱のような台が挟んでいた。その椅子がハリジーの座る「玉座」なのだろう。インド音楽の演奏ではたいてい胡座をかく。椅子があるということは、昨日の舞台でもそうだったが、ハリジーは胡座をかくのが難しくなったということなのか。

 何人かの生徒がそれぞれ自分用のゴザの上に座り練習していた。インド人の青年が二三人と白人の男女数人。顔見知りは昨日のコンサートで会ったトモコ以外だれもいなかった。そのトモコがすぐに近づいてわたしに聞いた。India04

「おはようございます。中川さん、どこに座るん」

「どこでもええけど、場所ってだいたい決まってるんですか」

「別に決まってへんけど、ここ座り。グルジーに近いとこがええやろ」

 彼女はここ数年ハリジーに習っているせいか、なんとなく先輩的風格でこういい、角にあった箱から取ってきたゴザを敷いてくれた。玉座の真横だった。

●初のレッスン

 玉座の正面に座るインド人青年たちを紹介してもらったが、それぞれの名前を覚える前にハリジーがトイレ横のドアから現れた。そのドアの向こうが居住区画になっているのだろう。生徒たちは全員立ち上がり、玉座に向かうハリジーの足に触れて挨拶をする。ばりっと糊の利いた赤いクルターに細身の白いパージャーマー姿だった。分厚い胸と全体に突き出た大きな腹の上半身は、細い下半身と対照的だ。昨晩よりはずっと生気にあふれる表情だった。

 玉座に腰を落ち着けたハリジーは、インド人青年が電気タンブーラーのチューニングを終えるのを確認しみなを見渡した。

「さて、今日は何のラーガにしようか」

 白人のだれかが「ミヤーン・マルハール」といった。

「んー、んだなー、それはまだ後でやんべ。よす、バイラヴィーだ。いいべ。ヒロス、いいがあ」

 ハリジーがわたしに眼を向けこういったので頷き返した。

 ハリジーは、ラーガ・バイラヴィーの音階を紹介した後、アーラープを吹き始めた。生徒たちはそれをなぞる。10人以上が一度に吹くので自分の音が聞こえないほどだ。正面の3人のインド人青年の音は比較的しっかりして聞こえたが、中には音程の不安定なものもいるため唸りのある音が部屋全体に響き渡った。ハリジーは、ある旋律パターンを何度か繰り返し、不正確な音を出す生徒を睨んでこういった。

「ちゃんとすた音程とらねえどだめだべえ。サば出すてみろ」

 睨まれた生徒がおそるおそる音を出すがわずかに低かった。

「低いべ。ちゃんとこれば聞けず」

 と電気タンブーラーを指差した。

 ハリジーがあるフレーズを吹き生徒がそれをなぞるというやり方は、わたしが習い始めたころもその後のレッスンでもまったく変っていない。違うのは習う生徒の数だ。わたしのときはほとんど一対一だったので、ハリジーはわたしの吹くフレーズを聞いて細かな部分を直してくれたものだ。しかし、修業期間や進み具合の異なる生徒がこれだけ多いと、一人一人の音をじっくりと聞き取ることはできない。初心者に近い生徒はハリジーの吹く細かなニュアンスを正確になぞることはできないので、こうしたやり方ではなかなか上達しないだろう。何人かの生徒たちはレッスンを録音していた。

 1時間ほどバイラヴィーのアーラープの後は、ラーガ・ドゥルガーのジョール、ジャーラーだった。ジョールはある程度なぞることができたが、速いジャーラーになると再現できる生徒の方がずっと少なくなった。ハリジーのフレーズ創造力は相変わらずすごい。わたしには新しい組み合わせのフレーズが何個もあったので、改めてハリジーの衰えることのないエネルギーを感じた。

 レッスンは電話でたびたび中断された。早めに着いたわたしをにべもなく追い返したあの青年が、「だれだれからだだけど」とハリジーにいってワイヤレスの受話器を渡す。われわれ生徒たちはハリジーの会話が終わるのをじっと待つ。

 レッスンは1時すぎに終わった。ほぼ2時間のレッスンだった。

 ハリジーは再び全員から足に触れられながらしばらく立ち話をした。わたしはこのグルクルで宿泊できるのか聞いてみた。

「ここには宿泊施設はあんなだげんどよ、規則上、年間通して住む人が対象なのよ。んだがら、おめがこごさ泊まるど例外になっから、難すいなあ。ああ、んだ、トモコさおめの泊まるどこさがすようにいってからよ、聞いてけろ。な、トモコ、ヒロスの宿探したんだべ」

 ハリジーにこう向けられたトモコが答えた。

「はあー、目安はついでっけんど」

「んだが。ヒロスに教ぇでけろな。このやろは久すぶりに来たんだがらよ。んじゃ、明日の11時に」

 ハリジーは、玉座とは対面にあるベンチでレッスンの終わるのを待っていた人々と二三言葉を交わした後、入ってきたドアから姿を消した。昔はレッスンが終わるとチャーイを飲んでよく歓談したものだが、ハリジーとの会話はあっさりと終わってしまい拍子抜けだった。

 今回は、タブラーとの合奏部分の構成をきっちりと教わるつもりで数年ぶりにハリジーの元を訪ねたのだった。しかし、そのことを相談する間もなかった。このグルクルの管理体制のなんとなく固い印象からすると、特別の一対一レッスンは難しいのかも知れない。レッスンに来ていた生徒たちもだれ一人見知った顔がないので、なんだか新入生になったような気分だった。どうも、わたしが抱いていたグルクルのイメージとはかなり違っていたのでちょっと失望した。

●トモコとランチ

「おいしいベジタリアンのレストランがわたしのアパートの近くにあるんよ。行ってみましょうか」

 というトモコとランチへ行くことにした。彼女のアパートはジュフにある。

 ムンバイ市中心部から車で40分ほどのジュフは、もともと海岸リゾート地である。今でも海岸沿いに高級リゾートホテルがずらっと並んでいる。しかし近年は、比較的裕福な人々の住む住宅地として開発が進み、高層アパートもかなり建ち並んでいる。ドゥルバやナヤンのアパート、SMBもこの区域にあるので何度も訪れている。

India04 目当てのレストランは満席だったので別の店でベジタリアンの食事をした。二人分の食事代440ルピー(=1,100円)はわたしが支払った。エアコンのある比較的高級なレストランでビールも飲んだせいか、結構高かった。

 堺市出身のトモコは、わたしが招聘したハリジー日本公演にも何度か聞きに行っていて、わたしのこともずいぶん前から知っているという。ここ数年は毎年ムンバイに来てハリジーのレッスンを受けていた。以前一緒にレッスンを受けていたフランス人女性フランソワーズのことや、わたしが最後にムンバイに訪れた98年当時、ハリジーに弟子入りした日本人の若い女の子、古川のりこさんのことなどを聞いた。フランソワーズは今でもたまにグルクルへ顔を見せるらしい。古川さんは、ギリシア人青年と結婚し今はアテネに住んでいるという。

 ドゥルバに電話し待ち合わせの時間を決めた。「ハレー・ラーマー・ハレー・クリシュナ」のイスコン寺院の前で4時50分。それまでは時間があったので、トモコのアパートへ行った。彼女のアパートはジュフ商店街に近い一角にある数棟の建物からなる大きなマンションの5階にあった。入り口ドアを開けるとすぐ左がキッチンで、その隣が彼女の部屋だった。持ち主はイギリスに在住するインド人だという。隣に広い居間があるのだが、鍵をかけて間借り人が使えないようにしている。

 ちょうど部屋に入るところで携帯が鳴った。

「京都の南です。スマトラ沖地震が起きたので心配して電話しました。大丈夫ですか」

「こんにちは、南さん。ありがとうございます。ムンバイはベンガル湾とは反対にあるのでまったく被害はなく、わたしも元気でやってます」

 七聲会代表の南忠信さんからの電話だった。便利な携帯電話はこんな風に状況のコンテクストに関係なくかかってくるので油断ができない。ともあれ、海外にいてこうしたご心配の電話をして下さるのはありがたいものだ。

 さて、トモコは部屋に案内し、

「ていねいに使こうてるんやから居間も開けといてくれたらいいのに、ケチなんやわあ、オーナー」 

 という。

 彼女の使っている部屋は大きなダブルベッドと机でほぼいっぱいだった。近くの不動産仲介業者の紹介で月8,000ルピー(20,000円)で借りているという。

「で、グルジーが探せっていわはった部屋なんやけど、ちょっと問題なんよ。ここに来る前にわたしがしばらくいたとこなんやけど」

「問題って」

「そこの家の娘が気違いなんよ。それさえ気にしはらなかったらそこでもええねんけど、どないしますう」

「どうしようかなあ。今はほら、ドゥルバのゴーシュ御殿にいるでしょう。そこはロザリン、ベルギー人のドゥルバの奥さんだけど、がいる間は居候できるのよね。彼女は1月3日に帰国する予定だといってた。で、僕は1月21日に帰るので部屋を借りても1ヶ月もない。ひっょとしたらドゥルバのもう一つの家に居候できるかもしれないので、しばらく待ってから判断しようかな」

「そやね。まあ、あそこはいつでも大丈夫や思うので、必要やったらいつでもいうて下さい。アヤミちゃんの部屋も探さなあかんなあ」

「あっ、そうだ。今日は彼女のレッスンがあるから会えるよ。ドゥルバのレッスン室はここから歩ける距離だし」

「わあ、行きたい。連れてってくれる」

●決まった練習方法はないのだ

 こんな会話の後、しばらくバーンスリーの音を出し合って練習方法などを話した。彼女はハリジーからずっとレッスンを受けているが、ガマックやミーンドと呼ばれる装飾技法の細かなところをほとんど教わっていなかった。演奏がインド音楽らしく聞こえるかどうかは、この装飾技法による。とくに1本の旋律ラインしか出せないバーンスリーの場合、装飾技法がなければほとんど西洋フルートのような平板なものになってしまう。だからインド音楽を習うものはこの装飾技法を含む基礎的な練習を何年も続けるのだ。そうした練習なしにハリジーのデモ演奏を追いかけるのは容易ではなく、たとえ大雑把に追えたとしても細かなニュアンスまでは把握できないのだ。彼女はこれまでのレッスンで数多くのラーガも習っていてそれなりの自信をもっていた。そのような自信をもつことは大事ではあるが、今のレッスンと並行して基本練習を重ねる必要があるのではないかとわたしは思った。彼女の音を聞いて、こんな練習はどうかとわたしのやり方を示したが、彼女は「それはやってる」というのでそれ以上はいわなかった。練習方法は結局、一人一人見つけていくしかないことも事実なのだ。

「タブラーといっしょにやるときはどないして即興するん」

 とも聞かれたが、わたしにとっても大きな課題の一つなのでうまくいえない。まったく、インド音楽の修行は難しいものだ。

 練習しているときにラグーの家を行く約束を思い出した。ドゥルバのモナミ・アパートへ寄ってから行くつもりだった。ラグーの家へ行くには最寄りのヴィレー・バールレー駅から下り電車に乗らなければならない。ランチの後すぐに行けば問題なかったが、市の中心部から帰宅する人たちで混雑する時間帯になっていた。一昨日の猛烈な電車移動を思い出し急に憂鬱になった。ラグーに電話した。

「んだなす。6時ころだどピークだがら止めだほうがいいべな。明日来てけろ」

 ラグーがそういってくれたので、明日訪ねることにした。

 練習を終えて部屋を出たところで携帯電話が鳴った。

「おおっ、ヒロスさあん。角さんでえす。明日さあ音屋でライブなんだけど、どうお。招待するよ」

「あれっ、角さんですか。ちょっと難しいかなあ。今、ボンベイなんよ」

「えっ、ボンベイって、インド。あちゃー。道理でしばらく音沙汰なかったわけかあ。それじゃ難しいねえ。ところで、元気なの。大地震があったじゃん」

 神戸にいるダンサーの角正之さんからの電話だった。

 トモコとわたしは、オートリキシャでやってきたドゥルバとイスコン寺院で合流しモナミアパートへ行った。すでにアヤミが玄関ドアのところで待っていた。

●ドゥルバのレッスン見学

 わたしは猛烈に蒸し暑い奥の部屋で練習したが、トモコはドゥルバのレッスンを熱心に聞いていた。一対一で丁寧に教えるドゥルバのやり方にトモコは、

「全然ちゃうわあ。わたしもこんな感じで教わりたいな。わたしもサーランギーにしょかしら」とつぶやく。

 アヤミのレッスンが終わったのは6時半ころだった。トモコは、不動産仲介業者に紹介するためにアヤミを連れて行った。わたしとドゥルバは彼らと別れオートリキシャで帰宅の途についた。途中でロザリンと合流した。オートリキシャの座席は、二つの巨大な尻を収納しきれない。真ん中にいたわたしは腰を浮かすことになった。

 帰宅したのは8時すぎ。彼らはパーンドゥーの調理したランチの残りで夕食にしたが、わたしは洋なし、ぶどう、サントラーだけのフルーツ・ディナーにした。

 夕食の後、ドゥルバの練習につき合った。彼は実際には聞こえない音、つまりグプト・スヴァラがとても重要なんだとデモを交えて熱心に語った。この指摘はわたしの練習方法にとても役に立つ。タブラーとの合奏部分であるガットでは、ターラの第1泊目であるサムから始まるティハーイーを練習して用意しておけばいいという。それさえやっておけば、あとは自分の思うように構成すればよい。このアドバイスも練習に取り入れよう。ドゥルバとの練習はいつもなにか得るものがある。

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