2004年12月29日 (水) -ボーリーワリーへ

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 ゴーシュ御殿での居候生活も6日目。起床から始動までの手続きも定例化してきた。例によって日記と練習の後、今日は別の仕事があるドゥルバとロザリンを残して家を出た。これまではドゥルルバの車でフェリー乗り場まで行っていたが、今日は徒歩で行った。歩いても10分ほどだ。

 カサ・マルベッラの鉄柵扉を出た左手の急勾配の山道を降りた。背の高い木々がうっそうとしているので道は薄暗かった。しばらくすると泥とコケで濁った池が見えてきた。女たちがその池で洗濯していた。小さな泥の家の集落を縫う細い道を通る。まばらな木々の間にゴミが散乱し、そこを下半身裸の子どもたちが走り回っていた。ビハールの田舎のような雰囲気だ。今下りてきたカサ・マルベッラの整然とした清潔な区域と比べると、まさに雲泥の差だ。

 狭い出入り口でもぎりをしていた中年の男からフェリーのチケットを買った。2ルピー(5円)だった。これまではフェリーに乗るチケットも全部ドゥルバが払っていたのでいくらなのか分からなかった。フェリーは相変わらず人と自転車を満載していた。対岸に着くといつになくドブ川と干し魚の臭いが鼻についた。客待ちで固まっていたオートリキシャの一台に乗って「ワルソーワー・リンキング・ロード」と告げると、運転手は返事もせずにエンジンをかけて走り出した。

●レッスン

 ちょうど11時にグルクルへ着いた。ゴーシュ御殿から約40分かかった。

 レッスン室にはすでに数人来ていた。席順はなんとなく決まっているようだった。玉座に近い正面にインド人青年3人、トモコ、その後に白人の生徒たちという並びだった。

 昨日のようにハリジーが入ってくると全員立ち上がり、次々と足に触れる挨拶。ハリジーが玉座に座るころは生徒たちの数も増えて4列になっていた。20人ほどだろう。

 ハリジーが、

「今日は何のラーガにすっか」

 と聞いた。わたしの方を向いたので「アヒール・バイラヴ」と答えると、うん、と頷いた。ハリジーは、電話中断を除きアーラープ、ジョール、ジャーラーをみっちり2時間以上演奏し通した。このラーガは以前にも習ったが、今回もやはり思いがけない新しいフレーズが次々と出てきた。生徒たちは同じように彼のフレーズをなぞっていく。

「いいか、こんな風に、ガマックばつけてパルターの練習してみろ」

「今のはたどえばのフレーズだべ。サどダの間だげでもいっぱいメロディーは作れる。ほら、こげな風に」

「速くなったがらっつで、一つ一つの音がぼやっとすだらだめだ。クリアでねえど」

 といったように、ハリジーは次々と例を繰り出して解説する。ほとんど休みなく2時間吹き通すエネルギーは本当にすごい。ただ、こうしたレッスンがどれだけ生徒の向上に役立つかの判断は難しい。先生の役割が生徒の進度に応じた練習方法と短期的および長期的到達点をガイドすることであるならば、一人一人の生徒の進度を見極める必要がある。集団レッスンではこれがとても難しい。「正しい」例を大量に提供するという意味ではハリジーのやり方にも利点はある。意識の高い進んだ生徒にとってはこのやり方から多くを学ぶことができる。しかし、彼自身の舞台やレコードでの演奏を聞くのとどう違うのか。もっとも、修行しようと思う者は多いがグルは一人しかいない。公演に忙しいグルが多くの生徒たち一人一人を丁寧に教えていては時間がいくらあっても足りない。ハリジーの模範演奏追奏式集団レッスンはこうした状況下で生徒を育てる唯一の選択肢かもしれない。しかし別のやり方もあるのではないか。ラーケーシュやルーパクなどのすでにある程度熟練した高弟が手分けして教えるという方法もあるのではないか。ハリジーにとって後継の弟子を育てるグルクルが長年の夢であるだけに、何か別の方法を考えなければならないのではないか。わたしは、まちまちの音程やフレーズが部屋中に響くのを聞きながらこんなことを考えていた。

●西洋人生徒たちとランチ

 1時すぎにレッスンが終わり、西洋人生徒たちとランチを食べに行った。サンタクルス駅に近いグジャラーティー料理の食堂。テーブルが数個並んだごく一般的なインド式食堂だった。一緒に行ったのは、ヒンディー語を本だけで学んだというひょろっとしたフランス人青年ギョーム、褐色の肌に短い無精髭のスキンヘッドイスラエル人青年、かなりオッサンぽい寡黙な長身オーストラリア人サイモン、トモコ。メニューは一つしかない。50ルピー(=125円)のお代わり自由ベジタリアン定食。皿のおかずやご飯がちょっとでも少なくなると店員が即座にバケツから追加してくれる。味はまあまあだが安くて食べ放題というのがいい。

 食後、みんなと分かれてサンタクルス駅からボーリーワリー行きの電車に乗った。ボーリーワリーまでは約30分の道のりだ。往復16ルピー(40円)。平日の午後だというのに相変わらず電車は超満員だった。鉄格子の車窓からは修業時代に見慣れた街の風景が流れて行く。電車は、サンタクルスからヴィレー・パールレー、アンデーリー、ジョーゲーシュワリー、ゴーレーガーオ、マラード、カーンディヴァリーと郊外の主要駅に停まって乗客を吐き出して進んだ。ボーリーワリー駅に近づいたころ、車内はがらがらになっていた。ところが駅前はものすごい人出だった。狭い歩道には果物屋、安物の衣類や雑貨を売る露天商が並び、歩行者は車道に押しやられる。すれ違うのも難しいほどだ。人ごみの間を耳をつく強烈なクラクションを鳴らしてオートリキシャがかき分けて行く。比較的閑散としていた10数年前の駅前とは大違いだ。オートリキシャを待つ列が長いので歩くことにした。途中の清潔そうな菓子屋で100ルピー分(=250円)の菓子を購入し、駅から直行して真っすぐに伸びるメインストリートを歩いた。96年に何度かラグー宅を訪れて以来だから、この道を歩くのは8年ぶりだ。新しい店や建物は増えていたが、通りの雰囲気はあまり変っていない。

 ドン・ボスコ学校の手前にの小さなビルにあったはずのマルハール音楽教室は別の店になっていた。どこかに移動したか、なくなったのもしれない。

●マルハールジーの家

 中庭を挟んで数階建ての建物がコの字型に建ち並ぶマートルクルパー・アパートの2階にあるラグー宅に到着したのは4時ころだった。玄関のチャイムを鳴らすとカークーが出迎えてくれた。8年ぶりに再会したというのに、まるで昨日会ったような口ぶりでいった。India04

「あららあ、ヒロスがあ。久すぶりだねえ。今、昼寝すてだのよ」

「アボーリーたちはいねながす」

「娘とニヴェーディターを連れてウォーターワールドへ行ったみでだな。6時ころ帰ってくんべ。ラグーは7時ころ帰ってくる。それまでゆっくりしてろ」

 カークーはこういってチャーイとビスケットを出してくれた。

 カークーとは、マラーティー語でおばさんの意味。背も小さく細い体なのに下腹がポコンと突き出ていた。白髪も増えほとんど灰色の長い髪を後ろで束ねていた。顔の表情はおっとりとして相変わらず上品だ。今年で66歳。

India04 玄関ドアを入ってすぐ左が広い居間。いっぽうの壁際に直列にずらっと並んだソファに座り、向かいの壁の大きなラーガヴェーンドラ神の油絵や、バーンスリーを吹く生前のマルハール氏を描いた木炭画をなんとなく眺めた。

「もうちょっ寝るがら、おめもこごで休んでけろ」

 とカークーは奥の自室に引っ込んだ。一人取り残されたわたしはソファで横になったとたん熟睡してしまった。

 ふと人の声がして目を覚ました。アボーリー、娘のラージニーシャー(ルル)、アボーリーの姉のニヴェーディターと二人の子どもたちが帰ってきたのだ。時計を見ると6時すぎていた。2時間ほど寝たことになる。

「あれ、ヒロス、来てたながあ。みんなでウォーターワールドへ行ってロシアから来たアイススケートショーを見だなよ。おもしぇがったなあ」

 アボーリーが笑顔を見せていった。

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前列左2番目ルル、ニヴェーディターの子供たち、後列左がアボーリー、右端がニヴェーディター

 アボーリーはラグーの妻で一人娘ルルの母親。背が小さいアボーリーは円筒形に近い体型で、がはははと笑う。相変わらず陽気だ。なにかというと大笑いをするが、母親としての貫禄もついてきた感じだ。娘のルルは12歳。すでに背丈は母親と変らない。最後に彼女に会ったのはまだ6歳のときだったのでまったくイメージは違った。母親同様、ちょっと小太りで陽気だ。拗ねるとまだまだ子どもっぽい。アボーリーの姉のニヴェーディターは二児の母親。アボーリーとよく似た背丈、体型の彼女はクラシックの声楽家であると同時に博士号を持つ音楽学者である。ムンバイ郊外に住んでいるが、ときどき妹を訪ねて来るのでわたしもこの家でたびたび会う機会があった。自宅近くの音楽学校で教えているという。彼女はかつて日本語を勉強したことがあり、よく会っていたころは日本語で会話ができたが、今は使う機会がないのでほとんど忘れていた。

 7時すぎにラグーが戻ってきた。長身、カールした真っ黒の短髪、南インド系の入った褐色の顔に一文字の鼻髭、濃い縁取りの中のやさしそうな眼、といった外見はそれほど変わっていないが、下腹が少し突き出てきて以前よりもずっと堂々と見えた。

●クルカルニー家族

 ラグー一家とのつき合いは90年冬以来だ。その年はサンタクルスにアパートを借りカールのハリジー宅へ通っていた。あるとき、ツアーで忙しくなってきたハリジーが、

「おめのレッスンはすばらぐでぎねえがら、その間はルーパクのトウチャンのマルハールジーのどごさ行って習え。マルハールジーは素晴らすいバーンスリー奏者で先生だよ」

 と紹介してくれたのがきっかけである。

 マルハールジーは以来、わたしの第2グルになった。1930年カルナータカ州生まれで、ハリジーよりも8歳年長である。小柄で知的、どこか悲しげな風貌のマルハールジーは、ハリジーのようなスター性はなかったが、ヒンドゥスターニー音楽の声楽スタイルを守る堅実なバーンスリー奏者であり、弟子たちから愛されるグルだった。彼は、演奏活動の他に、近所の子どもたちから音楽好きのアマチュアやプロを目指すものを相手の学校を運営し教えていた。ただでさえ多くのインド人生徒を抱えて忙しいのに、ハリジーから送られて来る外国人の生徒たちからは決して月謝を要求せず、住むところを手配したり、食事や演奏会に招いたりとなにくれとなく面倒見てくれた。わたしが初めてマルハールジーを訪ねたときは、フランス人のアンリ・トゥールニエとキムリー夫妻、アメリカ人のマークなど、ハリジーの生徒たちがすでに世話になっていた。丁寧な教授ばかりでなく、常に笑顔で温かく迎え入れてくれたこともあり、外国人の生徒たちからも慕われた。わたしも本当にいろいろお世話になった。

 わたしが現在使っているリマイ製のバーンスリーはマルハールジーからもらったものである。リマイのバーンスリーは、当時プロが使うものとしては最も評価の高い楽器だった。あるとき街の楽器店に見せるといくらでもいいから売ってくれといわれたほどだ。音程の不安定な当時のわたしの笛を見たマルハールジーが、これを使いなさい、と1本しかないリマイのバーンスリーを差し出したときは信じられなかった。当時の所持金すべて費やしても欲しかった楽器なのでお金を渡そうとしたが、グルは最後まで受け取らなかった。また、現在使っているバーンスリー・ケースもグルからもらった。帰国する前日にお宅を訪ねたとき、グルはわたしが買った新聞紙に包んだ大小のバーンスリーを一本一本チェックした後、自身が使っていたケースをわたしに差し出し、これに入れて持って行きなさい、これだと安全だろう、といわれていただいたものなのだ。わたしの第2グルはこんな人だった。

 マルハールジーは、現在のラグーの自宅の隣にあった一間だけの部屋をわたしのために借りてくれた。そこにはキッチンがなく自炊できなかったたため、隣室のジョーシー未亡人に毎日の食事を作ってもらった。グルの近くに住み練習に専念できるという意味では理想的な環境だった。わたしはその部屋で寝泊まりし、当時1階にあった自宅や表通りに面した教室でマルハールジーのレッスンを受けていた。1階の当時の自宅は現在、ラグーの会計事務所として使われている。ラグーの事務所となる以前は、オール・インディア・ラジオの女性ディレクター、ルーパーリーと結婚したルーパクがしばらく住んでいた部屋だ。

 マルハールジーが生徒たちに慕われたのは生徒たちに対する姿勢ばかりではない。彼の家族がまた実に温かかった。マルハールジーとカークーの間には、長男ラグー、長女のローヒニー、次男のルーパクの3人の子どもがいる。3人ともそれぞれ音楽家である。64年生まれのラグーは全インド会計士試験に42番で通った秀才。現在も公認会計士を本職としているが、タブラー奏者としての評価も高い。わたしは91年にヴァイオリン奏者のD.K.ダータール氏とともにラグーを招聘し、日本各地で公演を行った。神戸の友人の援助で日本でCDも出した。そのときは二人とも山形の実家を訪問し、わたしの両親にも会っている。帰省するたびに両親はときどきそのときの話をする。

 陽気な妻のアボーリーも音楽家家系に生まれ、夫と音楽活動することも多い。アボーリーの姉のニヴェーディターは先述のように子ども連れて訪ねて来るので話す機会も多い。ローヒニーは、旅行代理店を営むキショール・スペーカルに嫁いで二人の娘の母親となったが、シタール奏者としての活動を現在も続けている。夫のキショールには、招聘アーティストのビザや航空券手配などでずいぶん協力してもらった。ムンバイ中心街にある彼らの家を何度か訪ねたこともある。68年生まれのルーパクは、今や押しも押されぬ人気バーンスリー奏者である。ルーパクと最初に会ったは、88年、ハリジーの最初のレッスンのときだった。彼は当時まだ二十歳。その後、わたしが招聘したハリジーと共に何度か来日して演奏している。彼はいわばわたしのグルバイになるが、ラーケーシュ・チャウラースィヤーとともにハリジーの最有力後継者の一人だ。ルーパクはルーパーリーという年上のベンガル女性と結婚したため、父親のマルハールジーやカークーは一時口もきかない関係になったらしい。しかし今では音楽家クルカルニー家を代表する存在だ。わたしにとっては、こうしたマルハールジーの子どもたちやその家族のつき合いは、ムンバイでの修行生活にどれほどの潤いを与えてくれたか計り知れない。98年のAFOムンバイ公演のときは、ボーリーワリーの自宅から1時間以上かかる市中心部のタタ劇場まで一家総出でかけつけ、わたしの演奏を褒めてくれたこともあった。

 そんなマルハールージーの訃報をラグーから受け取ったのは2002年5月。かねてから彼には糖尿病という持病があった。96年に一度倒れて以来2000年くらいまで入退院を繰り返していたが、その後回復しお元気になったと聞いていたのでその訃報はショックだった。

●ラグーに話を聞いた

India04 帰宅したラグーにいろいろな話を聞いた。彼も、ルーパク同様、ものすごい早口なので追いつくのは簡単ではない。

 まず、マルハールジーの最後の様子。亡くなる2年前までは入院したりで苦しんでいたが、退院後はそれなりに通常の生活だった。一人であらゆることができた。亡くなる二日前にはバーンスリーも吹いていた。その二日後、みんなと昼食を食べた後、疲れたといって昼寝をした。いったん昼寝から起きたが、もうちょっと寝るとベッドに横になりそのまま息を引き取ったという。享年72歳だった。亡くなるにはまだ早すぎる年齢だった。葬式は盛大だったらしい。インド古典音楽の主だった演奏家たちはほとんど列席したという。ラグーは、マルハールジーの音楽学校や公演主催組織をすべて引き継ぐと同時に、新たに「ナーダ・マルハール」というメモリアル・コンサートを毎年1月に開催している。会計士をやりながらのこうした仕事はなかなか大変だろう。

 彼の会計士としての仕事は、数年前まではかなり苦しい時期もあった。しかし現在は、プネーのクライアントを得て比較的安定してきた。プネーにある工場の会計をしているため、週のうち半分はプネーに通っている。そのために車も買った。ターター製のIndicaだ。

「知ってっかす。ムンバイがらプネーに行ぐのは、高速道路がでぎだもんだからものすごく簡単になったなよす。3時間だっす。昔はよ、カーブの多い山道ば数時間かけで行ってだべした」

「へええ、すんげえなす。たしかにわだすがハリジーの運転する小さい車でプネーのオショウ・アーシュラムさ行ったどぎはそうだったなあ」

「んだべ。インドはよす、すごい勢いで発展してんなよす。とくにプネーはすごい。IT長者だらけだよ、今は」

 キショールとローヒニーは元気だ。ただキショールが以前やっていた旅行代理店は、共同経営者のシャルマー氏と諍いになり店を出た。今は、チケット代行業のようなことを自宅でやっているという。

●グルクルについて

 ついでグルクルの話になった。わたしには、今のグルクルがどうにも閉じられた感じがあって、期待していたものとはかなり違っている。いつでも出入りして練習できるようになったと思いこんでいたが、生徒が出入りできる時間が11時から13時までというのはいかにも短い。ハリジーと生徒の間に以前のような親密さがなくなった。ハリジーのレッスンのやり方は彼のスタイルなので仕方がないとして、初心者とある程度のレベルの生徒が同時にレッスンを受けるのは無理があるのではないか。基礎的な技術や音楽理解の必要な初期レベルの生徒たちにとって、ああしたスタイルははたして有効なのか。わたしのところでバーンスリーを習っていた松本青年は、ハリジーのレッスンに半年ほど通ったが、結局ついて行けなかったといっていた。グルクルで会った生徒たちのなかには何年も習っているものがいたが、多種のラーガの知識は増えても実際の演奏となると難しいのではないか。どうもわたしには、今のグルクルは正直にいってハリジーの宮殿のように見える。ラグーにこんな話をした。

 わたしの話をじっと聞いていたラグーがいった。みなヒロシのいう通りで問題が多い。実は自分はグルクルの監査役をしている。すべてのお金の出入りが分かる立場だ。あの建物は、TATA財団などの財政支援と州政府の土地提供などで成り立っている。したがってあの場所はハリジー個人の所有物ではなく、いわば公共のものだ。ところが実際は個人的所有物に近い。伝統的な師弟伝承のできる施設というコンセプトだが、肝心のグルが年の半分はいない。あそこには弟子用宿泊施設がある。居住したい弟子は、最初に5万ルピーの保証金を支払い最低3年間住むことが義務付けられる。現在は3人のインド人弟子が住んでいる。グルと同じ建物に起居するというのはまさにグルクルだが、そのグルがいつもいなければ意味がない。教育システムも必要だ。ルーパクやラーケーシュなどのシニアの弟子たちが初心者たちに基礎訓練を行えるようにしてもいいと思うが、そうなっていない。彼らが忙し過ぎることもあるが、きちんとした報酬システムがないので自ら進んで教えようという動機をもてない。問題は、今のような集団レッスンをやっていると訓練の進んだものほど避けるようになり、グルクルに来なくなってしまうことだ。現にルーパクやラーケーシュもめったにあそこを訪れない。新しい初心者のみが次々とやってくるというのが現状だ。ヒロシがもし安い宿泊先を探しているのなら、1階の事務所にベッドのある部屋があるからそこで寝泊まりしてもいい。もちろん部屋代なんか要らない。ラグーは早口の英語でこう語った。

 宮廷に抱えられていたころのかつて師弟伝承伝統(グル・シシュア・パンパラー)は、音楽家の生活を支えるのが一般大衆となった今では変らざるを得ない状況である。こうした状況のなかで後継者をどう育てるかは、ハリジーだけの問題ではない。音楽学校や大学ではある程度まで教わることはできても、目指すスターの演奏に近づくにはそのスターに直に習うしかない。ハリジーのようなスター演奏家にあこがれて弟子入りしても、スター自身が公演に忙しくて教える時間がとれない。こうした矛盾の解決の一つとしてグルクルが創設されたはずだが、ハリジー自身が公演数を自発的に減らして行かなければ、彼の理想とするグルクルはなかなか実現されそうにない。

 今回は、ハリジーにタブラーとの合奏部分の具体的な展開方法などをより詳細に教えてもらう目的で数年ぶりにムンバイにやってきたのだが、滞在中に個人レッスンを受けられるのかどうか。

India04 ラグーとこんな話をしているとルーパクがやってきた。

「コンバンワ。ワタシノナマエハるーぱくデス。オゲンキデスカ」

 背丈はラグーとほぼ同じだが、なで肩の体型、鼻髭、水色のスポーツシャツ、腿に横文字の入った灰色のジャージー姿で現れたルーパクは、ひょうひょうとした雰囲気をもっている。以前よりは顔もちょっと丸く下腹もわずかに膨らんできた。一流演奏家の貫禄というものか。頑丈な大黒柱という雰囲気のラグーに比べると、いかにも次男坊の気楽さがにじみ出ている。

「オレは今よ、こごがら歩いで2分くらえのどごのアパートさ住んでるなよす。ルーパーリーも息子のランジャイも元気だす。こごで飯食ったらお茶飲みに来てけろ」

「ルーパーリーはムンバイのオール・インディア・ラジオの一番偉いさんだべ」とラグーが横から補足した。

「へええ、んだがあ。すごいなあ。んで、ルーパクもまだオール・インディア・ラジオに行ってんなだが」

「んだす。相変わらず安月給だげんどなす。コンサートもそげに忙すぐねえすな。ところでえ、オレのコンサートさ来っか。1月6日にインド門でコンサートがあんなよ。古典でねくてフュージョンだげどなす。ザキールの舎弟のトウフィクのバンドだなよ。それ終わったらツアーだ」

「けっこう忙すいんでねえの。あちゃー、6日といえばよ、アニーシュととシュバー・ムドゥガルのコンサートに誘われでっからどうだべが。ネルー・センターであるなよ。困ったべした」

「ノー・プロブレム。そっつの方がええべ」

 ルーパクはこういいながら10分ほどで帰宅した。

India04 しばらくして、同じ階の隣室のジョーシー夫人も顔を見せた。わたしが独り住まいをしていたとに食事を作ってもらっていた女性だ。わたしに会いにきたのだ。ほぼ15年ぶりでとてもなつかしい。当時はまだ10代だった息子も顔を見せ、

「アンクル、オレ、プラシャーントだっす。これはオレの息子、こっつがヨメだっす。一度、晩飯食い来てけろなす」

 といって親しげに握手してきた。プラシャーントのことはかすかにしか覚えていないのでちょっと戸惑った。India04

 こんな風に、ラグー宅には次々と人がやってきてにぎやかだ。こういう雰囲気は、マルハールジーがいたころもそうだった。ルーパク、ジョーシー夫人一家の他にも、バーンスリーを演奏する別の青年やタブラー奏者だという中年の男も顔を出した。

India04 来訪者たちがみな帰った10時すぎ、アボーリーの調理したパーオ・バージーPav-bhajiで夕食。パーオ・バージーはチャナ豆のトマト煮込みソースをパンにつけて食べるファーストフードである。食事が終わったとき、その日のうちにゴーシュ御殿に帰ることができるかどうかちょっと不安になった。ドゥルバに電話しようと携帯電話のボタンを押した。すると、電池切れでうんともすんともいわない。便利な携帯電話もこうなると無用の長物だ。

「ラグー、ドゥルバ・ゴーシュの携帯番号知ってっか」

「いや、ししゃねな。自宅も分がんねえす。あっ、そうだ。おめがら電話もらったな。んだんだ。ひょっとすて番号残ってっかもすんね」

 と自分の携帯電話の受信記録を調べたらあった。こういうことができるから携帯電話はすごい。

 電話するとロザリンが出た。

「はーい、ヒロース。どおすたっす。なに、まだボーリーワリーだって。そんじゃあ今日中に戻るのは無理だなっす。フェリーの最終は12時前だがら。そっちに泊まるって。わがった。んじゃ、明日」

 というわけで、この日は1階のラグーの事務所で寝ることになった。1階の家は、かつて居間だったところを事務室に使っているだけなので、他に2つの寝室とバスルーム、キッチンがちゃんとある。カークーに用意してもらったかけ布団代わりの分厚いチャーダル、枕、水、蚊とりマットを抱きかかえ1階に移動。ラグーが事務所の裏の部屋に案内してくれた。

「ちょっとEメールばチェック」

 こういって、ラグーは事務所のコンピュータの電源を入れた。コンピュータは2台あった。メールを読むのに立ち上げてから15分くらいかかった。

「こごらへんはインターネット通信環境はまだまだなんだっす。それにこのマスンは旧式だがら、まあず遅くてね。そのうちADSLになるみでだげんど、いづになんだが。とごろで、2日に一緒にプネーさ行がねがっす。オレの仕事で行く用事があんなだげんど、スジャイが今プネーに部屋借りていんなよす。知ってっぺ、スジャイ・ババデーば。スイスのベルンさ住んでる親父の弟子のバーンスリー奏者よ。最近は冬になっとプネーにきてんなよす。おめもそごさ泊まれるっから、おめどスジャイのホームコンサートすんべ。オレも久すぶりにタブラーの練習でぎるすな。アボーリーも行ぐよ」

「いいなあ。昔ベルンで一回会ったきりだがらスジァイに会うのも久すぶりだす。プネーもよ、昔ハリジーと一緒にオショーのアーシュラムさ行っ以来だすな。行ぐがらしぇでってけろ」

「分がった。んじゃ、1日の夕方オレさ来てけろ。2日は朝早ぐ出がげっからよ」

 ということで1月2日からプネーへ行くことが決まった。

 ラグーが事務室を出た後すぐにベッドに横たわった。11時だった。電気を消したとたん、蚊の猛烈な攻撃が始まった。チャーダルを頭からかぶって防御するが、彼らは分厚い繊維をモノともせず執拗に攻撃してくる。たちまち数カ所かまれた。借りてきた蚊取マットは変な臭いを出すだけで何の効果もない。ラグーの申し出のように1月21日までここで寝泊まりするのも悪くはない。ただ、ここからグルクルまで電車で通うことを考えると憂鬱だ。貴重な時間とエネルギーを移動に費やすことになってしまう。やはりグルクルに近いところで部屋を探すべきか、などと考えているうちに寝てしまった。

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